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​礼拝メッセージ
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20260208(マタイ6:13)試みにあわせず
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●原稿

【2/8】※一部、表現を修正しました

マタイの福音書6章13節

主の祈り⑦

「試みにあわせず」

主の祈りも終盤を迎えています。今日は13節の「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」という部分です。

<試練と誘惑>
まず13節前半ですけれども、「試み」とは何か。これは「試練」とか「誘惑」とも訳されることばです。ただ、試練と誘惑は違うものなので、文脈によって判断することが大切になってきます。「試練」とは私たちが直面する難しい状況です。あえて、神さまが私たちを訓練するために試練を用意されることもあります(ヘブル12:10-11)。神さまは私たちを耐えられない試練にあわせることはなさらない、脱出の道を備えていてくださるというみことばもあります(1コリント10:13)。訓練するための試練ですね。

 

主の祈りで扱われているのは「試練」ではなく「誘惑」のことになります。なぜなら、続きが「悪からお救いください。」だからです。試練と悪は本来セットになりません。試練とは外側の状況のことであるのに対して(しかも時には訓練のために必要な負荷だったりするわけですから。しかし)、誘惑とは私たちの内面に働きかけるものです。そして、それは悪に通じてしまう恐ろしさがあるのです。

<欲望と関連する誘惑>
主の祈りは「試練」に関するものではなく「誘惑」に関するものです。その上で「誘惑」は二つに整理されると思います。一つずつ見ていきたいのですが、一つ目の誘惑は自分の欲望と関連しているものです。私たちは誘惑を受けた時、それは自分の欲望が関わっていることが多いです。私たちは自分の欲に引かれて誘惑を受けるのです(ヤコブ1:13-14)。

欲があること自体は悪いことではありません。煩悩を捨てなければならないとか、禁欲的な生活をしなければならないというようなことを聖書は教えていません(例えば、創世記2:17も恵みによる配慮です)。聖書の教えは禁欲の教えではない。ただ、与えられている感情としての欲を、悪い方に使っていってしまう罪の性質について語っています(ヤコブ1:14-15)。よくそのものは悪いものではないのだけれど、そこから罪が生まれてしまう。悪の方向を向いてしまうということですね。そのように向かわせてしまう誘惑があるのです。

そもそものスタートが自分の欲に関連しての誘惑であるならば、そこから自由になることができるように、欲望で心を満たしていくのではなく、そこから距離を置いて切り離す工夫や決意が必要です。主の祈りで「誘惑からお守りください」と私たちは祈るわけですが、そう祈りながらも、欲望で心が満たされた状態を手放そうとしないなら、それは自分から誘惑されに行っている状態です。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」というみことばがありますが(ガラテヤ5:16)、歩むのは私たちです。実際に歩むのは私たち。欲望を切り離す、距離を置く決意が必要ですね。

欲望なんて言うと大袈裟に聞こえますが、身近なところに中毒は潜んでいます。最近ではスマホですよね。あの小さな画面から、映像、音楽、文字を通してあらゆる情報を得ることができます。便利なものですが、次々と表示内容を変えていくあの小さな液晶画面によって、私たち現代人の脳は相当なストレスにさらされているそうです。それでも、気がつけば四六時中触っているし、止められない。これはもう中毒ですよね。かと言ってテクノロジーを全く使わないのは逆の不自然でもあるわけですから、賢く適切な距離を取ることが大切でしょう。これは一つの例ですけれども、「実際に歩むのは私たち」と言った時には工夫、具体的な歩み方が必要です。

センシティブな問題として依存症のこともあります。これは心の弱さというような話ではなくて、脳の病気であり、治療が必要な領域です。うつ病もそう。心の風邪ではなく、脳の風邪なんです。だから、精神論で何とかなるような話ではない。具体的な治療や療養、工夫が大切なんです。具体的、実際的な「歩み方」ということです。

そして、それらを踏まえた上で最終的には「御霊によって」なのだということ。「御霊によって」歩みなさいなのだということを忘れないでいたいのです。これらの「歩み」は最終的には自分の力、自分の熱心では無理なことであり、聖霊の助けをいただきながら、祈りながら歩むということが大切です。欲望を引き起こすものから距離を置くにせよ、必要な治療を受けるにせよ、御霊によって、聖霊の助けによって歩ませてくださいと祈りながらなすのです。私たちは自分の罪を、自分の欲望を、すべてイエスさまの十字架につけました。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(ガラテヤ5:24)何度でも、何度でもそのことを思い出すのです。自分が直面しているこの罪も、この欲望も、イエスさまの十字架についたのだったと思い出すんです。これはもう死んだものであり、支配力は失っているんだと何度でも再確認しながら、お委ねして祈っていく中で、聖霊が私たちをつくりかえていってくださいます。

これが誘惑の一つ目です。自らの欲望が関係している誘惑です。それらに振り回されるのではなく、御霊の助けによって生活を整え、具体的な選択をしていけるように助けを祈り求める。主の祈りが扱っている「誘惑からの守り」にはまずこのような側面があります。

<どうしようもない誘惑>
ただ、もう一つの誘惑がある。自分の欲望とは直接関係がない、少なくとも関係がないように見える、そういう誘惑です。

創世記3章1節「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。」そもそも、なぜ、エデンの園に蛇がいたのでしょう。聖書はその点は明らかにしていません。サタンは最初は天使だったけれども、神に背いたということが伺える聖書箇所はあります(エゼキエル28章やイザヤ14章に、サタンのことを指すと解釈される箇所がある)。しかし、なぜ創世記3章の時点でエデンの園に、神さまの臨在あふれる場所にサタンがいたのか。そこはわからないのです。アダムとエバは自分から誘惑されに行ったわけではありません。先ほどの考え方で言えば、彼らにはもともと神のようになりたいという欲があったから、だから誘惑されたということになりますが、でもあそこを読む限り、少なくとも自分から求めて近づいたわけではないですよね。この世には悪がある。そして、ある日突然それが接触してくるということがあるのです。

もともとの欲なんてないところに、突然誘惑が来る。旧約聖書のヨブの例もあります。ヨブという人にはまったく落ち度はありませんでした。それでも神さまを呪うという誘惑にさらされました。これは彼に原因があったわけではないです。それは突然降り掛かり、背後にはサタンの働きがありました。しかし彼は誘惑には陥らず、神さまを呪うことはしませんでした。その代わり、激しく抗議し、嘆き、愚痴を言っているわけですが。このように、突然の誘惑、いわれのない誘惑にさらされながらもそれと戦ったヨブは信仰の勇者です。私たちはどうでしょうか。ヨブ記を読んだことのある方は、ヨブに降りかかった苦難がどれほど大きなものだったかお分かりでしょう。ヨブは財産がゼロになり、子どもが全員死亡し、病気になり、妻からは「神を呪って死になさい」と言われ、友人に責められ、何よりも神さまが沈黙しておられるという極限状態でした。聖書は、「だからあなたもヨブのように耐えて、耐えて、耐える信仰を持ちなさい」ということは言っていないと思います。それは福音ではないのではないでしょうか。ヨブの何を見習うべきかというと、苦しみに耐えたことではなくて、自分では全くどうにもできない出来事が降りかかる中でも神さまに愚痴を言い続けたその姿ですね。抗議し続けた、つまり祈り続けたという、そこです。祈りというよりも、むしろ抗議し続けたわけですが、まさに神さまとのことばのやりとりです。神とのことばのやりとりが、祈りが彼を支えたんです。ヨブは最後まで神を呪いませんでした。けれど、あれほどの苦しみの中で、同じように立ち続けられる人がどれだけいるでしょう。私には難しいなと思うわけです。でも、だからこそ主は、「頑張れ」ではなく、「祈れ」と教えてくださったのではないでしょうか。「誘惑からお守りください。悪からお救いください」と。

<主の祈りが与えられている恵み>
私たちを訓練するために与えられる試練と誘惑は違うという話を最初にしましたけれども、試練の陰に誘惑が潜んでいることもありますね。ヨブを襲った試練の陰に、神を呪って信仰を捨てるという誘惑が潜んでいたように。

誘惑は起こるのですが(それは一つ目のタイプにせよ、二つ目のタイプにせよです)、だからこそ、私たちには祈りが必要です。ヨブが神さまとのことばのやりとりをあきらめなかったように。そして、イエスさまが教えてくださったように。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:40)

イエスさまが祈りを教えてくださったこと、特に今日読んでいるこの「主の祈り」を教えてくださったことは、なんと慰め深いことでしょう。そして、なんと励ましに満ちたことでしょうか。

主の祈りを祈ることによって私たちは自分が整えられていくのだと、以前お話ししました。私たちは、自分からこういう内容を祈ることはなかなかないと思います。だからこそイエスさまはこう祈るようにと教えてくださいました。主はこの祈りを私たちの口に与えてくださった。私たちは、誘惑からお守りください、悪からお救いくださいというこの祈りを味わい、そのようにしてくださる神さまにお委ねしていくことができます。神さまが願っておられることは「ヨブのように頑張れ」ということではなく、「ヨブのように愚痴でもいいから、抗議でもいいから、祈ってごらん」ということだったのではないでしょうか。

そして、思い出していただきたいのです。主の祈りの後半は、神さまのみこころがこの地にあらわされていくための祈りでした。私たちが誘惑から守られ、悪から救われていくということは、神さまのみわざがこの地にあらわされていくこととダイレクトにつながっています。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」これは絵空事でもなんでもなくて、具体的な私たちの日々の生活の話です。私たちは誘惑から守られる生き方を証しながら、この地上で神さまのみこころのために、みわざのために用いられていきます(マタイ6:10)。だから、今日も主の祈りを祈るのです。これからも祈っていきましょう。

来週で主の祈りは最後になります。本文ではなく脚注になりますけれども、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」というここを扱うことといたします。

それではいつものように、みなさんで主の祈りをもう一度祈りましょう。

ーーー
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」(ルカ22:40)

私たちに祈りを教えてくださった主イエス・キリストの恵みと
ことばのやりとりを通して私たちを守ってくださる父なる神の愛
そして、誘惑の中でも御霊によって歩むことを教えてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

 

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【2/1】

詩篇139篇23節〜24節

霊的成熟⑦

「天の父に自分を表現する」

本日は、久しぶりに『霊的成熟を目指して』の内容を味わい直すシリーズです。ここまでこの本を通して、私たちは神のかたちにつくられた、つまり神さまとことばでやりとりできる人格的な存在としてつくられていることを学んでいます。それが意味することは、私たちが神さまの声を聴き取ろうとするのと同様に、私たちの声も神さまに聞いていただく必要があるということでした。神さまはそれを願っておられます。私たちは自分のことば、自分の声を神さまに向けて申し上げることが大切なんです。そうやって神さまとことばのやりとりをする中で、私たちは神さまの御心がわかる人格に成長していくのですね。

父なる神さまは、イエスさまの十字架にあらわされているように、愛であり義であるお方です。この方は私たちの天の父として、絶対的に信頼できるお方だということも学んできました。「まるで父のようなお方」なのではなくて、この方こそが本来的に私たちの父であり、私たちを守り、助け導いていてくださる方だということを見てきました。今日は主に第3部の3章〜4章を中心に、改めて、神さまに対して私たちが自分自身を表現することの大切さを振り返りたいと思います。

<愛の反対は恐れ>
「愛の反対は無関心」という表現を聞いたことがあると思いますが、聖書的にいえば「愛の反対は恐れ」ということになります。第一ヨハネ4章18節に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」とある通りです。愛と恐れは正反対なのです。ところで、聖書には「恐れ」をポジティブに捉えている表現もあります(たとえば箴言1:7「主を恐れることは知識の初め。」)。翻訳が難しいところなのですが、日本語的にはひとまず畏怖の畏で「畏れ」ということで理解して良いと思います。新改訳聖書があえて「恐れ」の字を使うことには理由があるのですが、しかし、少なくとも、神さまを恐怖の対象として見るなら、そこには人格的な関係は成り立たないことは明らかです。愛の反対は恐れなのです。

しかし、人には神さまを恐れる、恐怖の対象として恐れてしまうクセがあります。ことのはじまりは、もちろん創世記3章です。神さまはご自身のかたちとして人をつくられたのに、つまり神さまとことばのやりとりをする存在としてつくられたのに、人はサタンのことばに耳を傾けました。そして神など要らない、善悪の基準は自分でつけるとして、善悪の知識の木の実を食べたわけです。その結果、彼らは神さまから隠れるようになりました。神さまから「あなたはどこにいるのか。」と問われて、アダムは「私は恐れて、隠れました。」と答えたのです。相手が怖いから隠れるのです。これが罪と、その結果の神から隠れるという行動のはじまりです。

私たちは今一度、自分自身を点検したいのです。私たちは神さまから隠れていませんか。もしくは、神さまに向けて自分の心を隠していないでしょうか。アダムとエバの話は、昔こういうことがあったという過去の話という以上に、自分自身のこととして読むべき箇所ですね。「人に罪の性質があるのは彼らのせいだ、あれが原因だ。」と分析して、批判して終わるのではなくて、むしろこれは私たちの姿なのです。

神さまは「これを食べたらあなたがたは必ず死ぬ」と言われたわけですが、それは肉体の死というよりも「霊的な死」、つまり神さまとの関係の断絶を意味していました(創世記2:17)。神さまから見捨てられる、見放されるということです。これは恐ろしいことです。その恐れがあるから、私たちは隠れたり、隠したりする。しかし、思い出してください。イエスさまが十字架の上で受け取られたのは、まさにこのさばきでした。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ27:46)イエスさまは十字架の上でこのさばきを、神さまとの関係が断絶されるというさばきを受け切ってくださった。イエスさまの十字架は、私たちと父なる神との関係を回復させました。これこそが救いです。

それなのに、救われてクリスチャンになってからも、私たちには罪人のクセがへばりついていて、神さまから見放されてはならないと自分を隠してしまう。愛の反対は恐れです。神さまはこれほどまでに愛してくださっているのに、私たちは恐れてしまっている。

今一度、神さまの愛を確認して、愛されていることを思い返して、神さまから隠れない生き方を始めましょう。今日からまた。何度でもです。さばかれないために良い答えをしてしまうのではなくて、クリスチャンらしい信仰深いことばに隠れて誤魔化すのではなくて、ありのままを神さまに表現していくのです。さばきはイエスさまが受けてくださいましたから、私たちはもう隠さなくていい。取り繕わなくていい。誤魔化さなくていいのです。そうやって、神さまとことばのやりとりができるのです。聖書のみことばを通して、また神によって造られたこの世界のさまざまな出来事を通して、神さまは語っておられます。そこに耳を傾けるのです。そして、神さまに私たち自身のことも聞いていただく。自分自身を表していく。誤魔化さない自分の心を、自分のことばで伝えていくのです。

<つたなくても、間違っていても>
つたなくても、たとえ間違ったことや、むしろ罪の内容であったとしても大丈夫です。そのまま神さまに申し上げていく、伝えていくのです。その例として二つの場面が紹介されていました。一つはヨハネ14章8節〜9節です。「ピリポはイエスに言った。『主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。』」十二弟子の一人として、イエスさまのもっとも身近にいたはずのピリポが的外れな、すっとんきょうなことを聞いてしまったわけですが、ここでイエスさまは「黙れ。」とは言わないで、そしてそこから続けて大切なことを教えていかれます。またヨハネ11章37節〜39節では、ラザロが死んだ時に、イエスさまはご自身を信じることができない周囲の人々に憤りを感じたとありますが、それでも聖書はその人たちのことばも残していると。「この方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか。」という、いわば不信仰な、不正解な人々のことばが聖書のことばとして、神のことばとして記されているんです。聖書には神のことばと、そして不信仰な人のことばが記されていると。両方が大切なんです。私たちの不信仰なことばも必要なんですね。

ここは、すごく目が開かれた思いがしました。聖書は神のことばです。でも人が書きました。神さまに用いられた人が書いた。だから100%神のことばであって、100%人のことばであり、この両方が大事です。これは私も意識してきました。ただ、一歩踏み込んでその内容というレベルでも、神のことばと不信仰な人のことば、その両方が記されている。不正確で的外れな人のことばが記されている。聖書ってそうなっているんです。神さまの御心から的外れな、間違った私たちのことばも大事なんです。それでもって神さまに祈っていっていい。打ち明けて、お話ししていっていいのです。

<傷ついた道>
それでも、私たちは父なる神を信頼しきれないというか、どこかで「これを言ったらダメだろう。」と諦めてしまう、そして自分の心を隠してしまうものですね。本の表現ですけれども、私たちにはそのような罪人のクセがへばりついている。救われてもなお、クセなので抜けないんですね。ただでさえ私たちは本心を隠して生きています。思っていることを全部言えば、普通の人間関係は破綻します。だから隠して生きているわけじゃないですか。それを神さまに対してもしてしまう。特に、父親との関係が尾を引いてしまうということがあるようですね。個人差もあるでしょうし、人によって違うところだと思いますが、著者の関先生がそこをどのように乗り越えられたのか、今日の午後はその証の部分を読むことになります。

その最後の部分を引用します(p.138)。
「私たちの内におられる聖霊は、私たちが心から神を「アバ、父」と呼べる交わりへと導いてくださいます。その交わりを妨げているものが何であれ、聖霊は最善の方法で私たちを天の父のもとへと導いてくださるのです。私たちは聖霊の働きを祈り求めたいと思います。
  神よ 私を探り 私の心を知ってください。
  私を調べ 私の思い煩いを知ってください。
  私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て
  私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)
この祈りほど、信頼に満ちた祈りはないでしょう。神に、自分を調べてください、傷を見てくださいと言えるのです。このように祈ることのできるお方が、あなたの天の父なのです。」

私たちが隠れなくてもよい天の父は、私たちが自分を隠さなくてもいいように聖霊なる神を送ってくださいました。私たちは聖霊の助けによって、神を父と呼ぶことができます。ローマ8章15節、16節にこうあります。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」私たちが神を天の父と呼べるのは、聖霊の働きによります。私たちが絶対信頼できるこの天の父の前に自分を隠さずに向き合えるのは、聖霊の働きによるのです。アルファコースの中で、この箇所は聖書のエベレストだと言われていましたが、そう思います。聖書の最高峰です。神は私たちが自分を隠す必要がないお方です。そのことにアーメンと言い切れないでいる私たちも、心の底で、霊の奥底で、私たちは父なる神を信頼したい、私たちは天の父の子だと分かっていて、叫んでいる。呻いているんです。聖霊なる神はその呻きに寄り添ってくださるお方です。「御霊ご自身が私たちの霊と共に、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」とはそういうことです。いつまでも隠すクセが抜けない私たちですけれども、私たちは聖霊の助けによって、神を天の父と呼ぶことができる。自分を隠さずに、心から神さまに向けて自分を表現することができるのです。そのような神さまとのやりとり、ことばのやりとり、祈りの関係に私たちは導き入れられていきます。

私たちは本来そのようにつくられているわけですから、本来のあるべき姿に向けて成長・成熟させられていくこの恵みを味わい続けていこうではありませんか。
 

ーーー

神よ 私を探り 私の心を知ってください。
私を調べ 私の思い煩いを知ってください。
私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て
私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)


私たちのために十字架の上でさばきを受けきってくださった主イエス・キリストの恵みと

天の父として、私たちの隠さないことばを待っていてくださる父なる神の愛

そして、私たちが神の子であることを叫び続けていてくださる聖霊の満たしと励ましが

今週も、お一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。 アーメン

 

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【1/25】

マタイの福音書6章12節、14節〜15節

主の祈り⑥

「負い目の赦し」

引き続き、主の祈りについて見ていきます。

12節「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」今、私たちの教会ではこのマタイの本文に即した口語訳で主の祈りを祈っていますが、以前の文語訳では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていました。翻訳が変わったのは「罪」が「負い目」という表現になった点と、そして、赦されることと私たちも赦すということの語順が変わったという点です。

<罪と負い目>
まず、「罪」という言葉が「負い目」に変わったわけですが、これはなぜでしょう。キリスト教における罪の赦しの大切さを考えれば、ここは「罪」のままが良かったのではないかという気もします。しかし、マタイの福音書本文はそもそも、ここは「罪」を表すハマルティアではなく「負い目」を表すオフェイレーマという言葉なんです。そもそも、ここは「負い目」なのでした。では、文語訳の式文は間違っていたのかというと、そうではありません。マタイが「負い目」と記した内容を、並行箇所のルカは「罪」(ハマルティア)と表現しているからです(ルカ11:4)。マタイも「負い目」という表現で「罪」のことを表しているのでしょう。ただ、ここでわざわざ「負い目」という表現が使われていることには意味があります。それはつまり、彼を用いてこれを書かれた聖霊なる神さまのこだわりだと言えます。丁寧に読み解いていきたい箇所です。

<罪の二つの側面>
改めて12節、ここで言われている「負い目」とは、ルカも言うように、そして文語訳の主の祈りでも表現されているように「罪」のことです。ただ、いわゆる「原罪」のことではなくて、日々の具体的な一つ一つの過ちのことだと言えます。これは、マタイだけでなくルカにおいてもそうなんです(ハマルティアが複数形)。主の祈りが扱っているのは「原罪」のことというよりも、日々の具体的な過ちのことです。

罪には二つの側面があります。バラバラのことではなくて、側面ということで理解していいと思いますが、一つ目は「原罪」と言って、神さまの御心から逸れている、外れている状態そのもののことです。イエスさまの十字架による赦しを信じて、私たちはこの原罪が赦されています。ロマ書にあるように、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(8:1)一方で、私たちは罪を犯し続ける存在です。救われた後も、日々の歩みの中で私たちは神さまの御心ではないことを選択し続けてしまうからです。聖霊が私たちをつくりかえてくださるその歩みは、成長・成熟なので、一足飛びにはいきません。原罪という意味では私たちは赦された者だけれども、日々の過ちという意味では、いまだに神さまを悲しませる歩みを引きずっています。

第一ヨハネ1章9節「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」新約聖書が書かれたギリシャ語の現在形には現在進行形のニュアンスが含まれますから、これは私たちが罪を、過ちを、告白し続けることを意味しています。つまり、悔い改め続けるのです。罪を告白し、悔い改め続ける。しかも、これはクリスチャンに向けて書かれた手紙です。罪赦された者たちに向けて、あえて、また「罪を告白し続けなさい」と言っているわけです。

ところで、この箇所には私たちのことと神さまのことが書かれてあるわけです。私たちは罪を告白し続けるわけですが、では神さまの側のこととして現在形になっているのは、どこでしょうか。私たちが罪を告白し続けることと対になっているのはどこでしょうか。それは「神は真実で正しい方です」というここです。これって、すごくないですか?私たちが罪を告白して悔い改め続けるということが何と対になっているか、何とセットになっているかというと、それは「神さまが真実な方だ」というここなんです。神さまが真実で正しいお方だから、私たちは悔い改め続けることができるのです。それは罪人をさばくための義、恐ろしい正しさではなくて、罪人を救うための義、正しさですよね。神さまは日々、今も、真実で正しいお方であり続けてくださる。そして「赦し」と「きよめ」は、その真実で正しい神がなしてくださること。私たちの告白のたびごとに具体的に神さまが行ってくださることですね。神さまはご自身の真実さのゆえに、私たちの罪を、日々の過ちを赦してきよめてくださるお方です。

なお、悔い改めとは神さまに祈って終わるものではなく、向きを変えることですから、謝らなければならない相手がいるなら謝り、償うべきものがあれば償うことを当然含みます。それらを無視している状態から、向きを変えて、なすべきことをなすのです。人に対して謝ることには勇気が要りますし、非常にエネルギーを使うのですが、神さまは真実なお方です。神さまは私たちの悔い改めを助けてくださるお方です。

救われた者も、引き続き、一つ一つ赦していただくことが必要なんです。「私たちの負い目をお赦しください」、主の祈りを通して、私たちはこのように祈るのです。

<主の祈りにおける罪の赦し>
このように、主の祈りで扱われているのは原罪という大きな話ではなく、具体的な一つ一つの過ち、一つ一つの罪についてです。そして、大切なことは、それらを神さまにきよめていただくことが、心の解放とか平安を得られるというような個人的な話のレベルを超えているということです。もちろん、謝れば心が軽くなりますし、悔い改めたら目の前が明るくなります。ただ、「日ごとの糧」についてもそうでしたが、そうやって私たちはこの地で神の御心のために用いられていくのだということです。それが、前半と後半を貫いている主の祈りの流れです。

主の祈りの後半は日々の具体的な必要のことが祈られていると先週お話ししましたが、それは前半に結びついています。前半からの一つの流れがある。この地に神さまのみこころがあらわされていくために私たちを用いてください。そのために日ごとの糧を与えてください。そのために、私たちの負い目をお赦しくださいというわけです。私たちが一つ一つの過ちを赦していただくことは、もはや私たち個人の問題ではなく、神の国の広がりと関係があるのだということです。

私たちが一つ一つの罪を告白し、悔い改めて神さまに赦しを乞う時、そこには神の国が広がるのです。私たちが向きを変え、謝らなければならない相手に誠心誠意を尽くして謝る時、そこには神さまの臨在があらわされる。私たちが悔い改めることは、もはや自分のためという小さな話じゃない。ここに神さまの臨在が、神の国が広がっていく、そのような規模のことなんですね。

<負い目とは>
「負い目」とは本来、借金や負債を表す言葉です。罪というと原罪のイメージもありますし、大きな言葉になってしまいますが、「負い目」というと一つ一つの過ちのことをイメージしやすいですので、マタイはあえてこの言葉を用いたのだと思います。当時、罪とは神への負債なのだと理解されていたという背景もあります。

なお、ルカはここを「罪」としていると言いましたが、ルカが記しているのも原罪のことではありません。ルカ11章4節「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。」(ルカ11:4)むしろ、ルカは「罪」と「負い目」の両方を並べていて、これが原罪ではなく一つ一つの具体的な罪であることを表現しています。罪を表すハマルティアという単語も複数形になっています。一つ一つの罪です。マタイの記述にせよ、ルカの記述にせよ、主の祈りを通してイエスさまが教えてくださったのは、根源的な罪の赦しではなく(それは別の箇所が扱っている内容です)、日々の一つ一つの過ちに関する赦しです。

クリスチャンはイエス・キリストの十字架を信じて原罪を赦されています。イエスさまの十字架による赦しを受け取っているんです。それは間違いのないことです。ここが揺らぐことのないようにと願います。一方で、私たちは悔い改め続ける存在です。原罪という大きな話ではなく、身近な罪、身近な過ちの赦しを神さまに求め続け、人に対しても、誠意のある謝り方をしていくということですね。

「負債」という言葉には関係性のニュアンスがあります。返すべきものを返していないということですよね。私たちが具体的な身近な罪を悔い改めないことは、神さまとの関係から言っても、あるべきことではありません。そのままにせず、きちんと清算していきたいものです。

<赦されることと、赦すこと>
マタイの福音書に戻りましょう。12節の後半ですけれども、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」ここが、文語訳の主の祈りの式文では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていました。このように訳された理由や経緯、また翻訳の難しさがあるのですが、これだとどうしても、「私たちは赦す」ということが、赦されることの条件に響いてしまうと思います。しかし、聖書本文には少なくとも条件のニュアンスはありません。

神さまが私たちを赦してくださるのは、私たちが人を赦したからではありません。私たちが赦されるのは、私たちが何かをしたからではない。私たちが人を赦せたから赦してもらえたのではない。それは、ただ恵みでしかなかったですよね。私たちが何かをしたから、人を赦したから、赦していただけたのではないです。ただただ、恵み。どこまでも恵みとして与えられたものなんですよね。ですから、ここで「私たちの負い目をお赦しください。」と祈る時に、神さまの赦しを条件付きかのように理解することは、主の祈りの趣旨ではないのです。

そうではなくて、赦されることと赦すことはセットだということですね。赦された者は赦すんです。赦している者として、赦しを願うのです。

少し飛んで14節と15節は、思いっきり条件のように読めてしまいますが、神の赦しは条件付きのものではない、という枠組みをしっかり持って読むことが大切です。神の赦しは条件付きのものではないのです。14節は、「赦された者は赦す」ということを、別の言い方で表現しています。赦すことができるのは、私たちがすでに赦されているからです。赦しは、赦されているところから生まれます。一方、15節はその反対を語っているわけですが、15節は特に注意深く読む必要があります。それは、「赦せない人はそもそも赦されていない」という断罪ではありません。イエスさまの十字架の赦しが揺らぐことがないようにと先ほど言いましたが、「人を赦せない私は赦されていなかったのか。」と受け取らないでください。絶対に、そうやって受け取らないでいただきたいのです。赦せない人は赦されていないという断罪ではありません。信仰が足りないから、赦しを受け取っていないから赦せないのではない。むしろ、赦せないという現実は、なお神さまの赦しの恵みの中に招かれ、癒され、整えられていく途上にあるということを示しています。信仰とは、白か黒かの断罪ではないです。成長でありプロセスです。私たちに「赦せない」という思いがあるのなら、それは信仰が足りないからじゃない。むしろ、成長していく、成熟していく、神さまに取り扱っていただくプロセスを味わえる恵みの中にいるのだということです。

<赦せない心>
マタイの福音書18章で、イエスさまは借金・負債を用いたたとえを語っておられます。23節〜35節までをお読みします。

「23  ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24  清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25  彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26  それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27  家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
28  ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29  彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
30  しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
31  彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
32  そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
33  私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
34  こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
35  あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

最後が衝撃的ですが、先ほどの6章14節、15節と同じで、そこは本質ではありません。極端な表現で補足説明がされているわけですが、このたとえの本質は「赦された者は赦すのだ」という、こちらです。赦された者は赦すのです。ただ、罪を赦す、過ちを赦すということについて、ここから見えてくる大切なポイントがいくつかあります。

まず23節、王は「借金の清算をしたい」と思い、24節「清算が始まり」ました。つまり、赦しに先立ってまず「罪が明らかにされること」が大切です。そこから始まります。うやむやにしていては赦しも何もないわけです。罪がきちんと指摘されること、罪を責めること、過ちがきちんと明らかにされることが大切です。罪の赦しには、まず罪を指摘すること、罪が指摘されることが不可欠です。

そして25節、王はしもべに持ち物をすべて売って返済するように命じました。つまり、償うべきことを確認したのです。これらは大事なことです。罪が明らかにされ、償う額が明らかにされる。ここがすっ飛ばされて、ただ被害者が「赦せ」という、「赦さなければならない」というプレッシャーだけを受け取っているとしたら、それは悲劇的なことです。罪とその償いはうやむやにされるのではなく、明らかにされることが大切です。この王も、まずはそこをはっきりさせています。罪の赦しには償い、つまり犠牲が伴います。なかったことにはできない。うやむやにすることはできない。

私たちには大なり小なり「赦せない」という感情があるわけですが、その理由を、神さまはきちんと聞いてくださいます。明らかにしてくださる。それは大きな慰めです。赦しとは、機械的に、とにかくなかったことにせよ、水に流せということではない。赦せないでいるその痛みの原因が、まずは明らかになること。それが第一歩です。

その上で27節、返済不可能なこのしもべをかわいそうに思って、王はこの人の負債を免除します。これは借金をチャラにしたのではありません。赦しとは、なかったことにすることではない。水に流すということではない。王はこの負債を自分で引き受けたんです。一万タラントというのはおよそ六千億円のことです。この王様は破産したかもしれない。そんな額です。しかし、それを引き受けた。赦すとはそういうことです。うやむやにしたり、曖昧にして終わらせるのではなくて、しっかりとその痛みを引き受けるということです。

イエスさまの十字架はまさにそういうことでした。父なる神は、私たちの罪の負債を赦すために、御子イエスのいのちを失いました。父なる神は、私たちの罪の負債を赦すために、御子イエスのいのちを失った。決して、水に流してチャラにして、何もなかったかようにしたわけじゃないのです。イエスさまのいのちがそこで失われた。私たちはそうやって赦されたのです。

この後、このしもべは百デナリ(およそ百万円)を返せない友を赦すことができませんでした。そのことを王は怒るわけですよね。このたとえは、赦されることと赦すことはセットなんだということ、赦された者は赦すんだということを語っているわけですが、やがてまた、18章を扱う時にじっくり読むことになります。

<整えられていく恵み>
主の祈りに戻りますけれども、罪の赦し・負い目の赦しとは、それをなかったことにするということではなく、きちんと清算し、明らかにし、その上でその負債を引き受ける、償うべきものを引き受けるということですね。

そして、赦されることと赦すことはセットだということ。私たちはイエスさまの十字架による赦しを得たのだから、私たちも赦す生き方をさせてください。これが主の祈りの内容です。そうやって、この地に神の御心が実現していきますようにという祈りです。私たちが、赦された者として自分たちもまた赦すという生き方をしていくとき、そこには神の臨在が、神の国が広がるのです。

ただ、繰り返しますが、どうしても赦せないという気持ちがあるならば、それをそのまま心の中に押し込めるような解決の仕方はしないでください。信仰は白か黒かじゃない。プロセスです。神さまの赦しを受け取っていくことはプロセスなんです。神さまはそこを丁寧に扱ってくださいます。

そのプロセスの中で、この主の祈りを祈れるとは、本当に幸いなことなのです。この主の祈りは私たちを整えていきます。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」こう祈ることで、祈り続けることで、私たちは整えられていくんです。神さまの御心に向けて心が整えられていく。赦された者として赦す生き方へと、育てられ、整えられていくというプロセスを、その恵みを、感謝しつつ味わっていきましょう。

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愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。(1ヨハネ4:11)

私たちの罪のために、十字架にかかられた主イエス・キリストの恵みと
私たちの罪の負債を引き受けられた父なる神の愛、
そして、赦された者として赦す生き方へと私たちを導き続けてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

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【1/18】

マタイの福音書6章11節

主の祈り⑤

「日ごとの糧」

今日からまた、マタイの福音書の講解に戻ります。ちょうど主の祈りの前半が終わったところでした。久しぶりなので、少し振り返りたいと思います。

<主の祈りとは>
主の祈りは、イエスさまが教えてくださったお祈りです。「唱える」ものではなく「祈る」のです。弟子が師匠の手本に倣うように、私たちも生涯これを祈ります。礼拝の場ではみなで心を合わせて祈ります。また、ぜひ一人の場でも祈ってください。短く区切って繰り返しながらでもいいですし、主の祈りの内容の順番を意識して黙想したり、自分の祈りに取り入れてみることもとても有益だと思います。例えば、まずは天の父との関係を思い巡らす。そして神の国のことを思い巡らす。それから具体的な必要のために祈り、最後は頌栄で締めくくるというように。私たちは神さまに向けて何でも祈っていいのですが(詩篇が良い例)、一方で、イエスさまが教えてくださった手本としての祈りの型を大切にすることで、祈りがさらに深まっていきます。

また、主の祈りを通して与えられる恵みとしては、歴代のクリスチャンたちと心を合わせられるということがありますね。これは「使徒信条を告白する」時にも言えることですが、歴代のクリスチャンたちはみなこれを祈ってきました。「天つ御民も、地にある者も」という頌栄の賛美でも歌うように、先に天に召された信仰の先輩たちと心を合わせて祈ることができる。これも主の祈りの恵みの一つです。

<前半と後半>
先ほど、主の祈りの順番ということに少し触れましたが、主の祈りはまず「天にいます私たちの父よ」と神さまに呼びかけから始まって、神さまの御名が聖とされるように、御国が来ますように、御心が天でおこなわれるように地でもと続いてきました。これら前半の祈りは、言わば神さまの栄光のための祈りでした。続く後半は私たちの日常的な、具体的な必要のための祈りになっています。

私たちはまず神さまを誉めたたえ、礼拝します。それから自分のための必要を祈る。この順番を意識しておくのは大切です。これは、こういう順番でないと祈りは聞かれないとか、決してそういうハウツーではありません。それこそ、詩篇なんかには助けてくださいと始まる祈りも多いわけです。いろんなお祈りがある。しかし中でも主の祈りは神さまとの関係が深まるための祈りですから(祈りとは善行=「義」の行い。マタイ6章)、まずは神さまのことを祈る。それから私たちのことを祈るというのは理にかなった順番です。

また、主の祈りは「神の国を待ち望む祈り」とも言えます。神の国というテーマはマタイの福音書にずっと流れています(4:17、5:3など)。主の祈りでも「御心が天で行われるように、地でも行われますように。」と祈られる。神の国を待ち望むとは、受け身で何もせずに待つのではなく、神さまに応答しながら待つという積極的・能動的な態度です。信仰によって待つのです。神さまの御心がここに、この地にあらわされていくために、ここで生きている私たちを用いてください、あなたの御用のためにお用いくださいという祈りです。そのために日毎の糧を与えてくださいという祈りにつながっていきます。出エジプトのイスラエルの民は、マナという不思議な食べ物とうずらの肉で日々神さまから養われました(出エジプト16:13-15)。そうやって約束の地を目指して旅をした。それと同じように、私たちが神の国を求めつつ、その完成を待ち望みつつ歩むこの地上の旅路においても、神さまからの日々の養いが必要です。

神さまに従って生きるためには、具体的な日々の養い、日々の食事が必要なんです。聖書は霊的なことを重視していて、物質的なことは軽視していると思われがちですが、それは違います。この物質世界は神さまが造られたものだから。そしてイエスさまは人として肉体をとって来られたのだからです。霊的なものと肉体など物質のことを相反して理解することを霊肉二元論と言いますが、そうやって分けて考えるのではなく、両方が大切だと聖書は教えています。主の祈りはその良い例です。神さまとの関係が深まるための、言わば霊的な祈りの中に、私たちの日々の生活のための祈りが含まれているわけです。これは、なんと慰め深いことでしょう。食事に限らず、私たちには抜き差しならない、背に腹は替えられない問題があります。そういったことも神さまに祈りなさい、神さまにお話していきなさい、それらがないと生きていくこと自体が難しい具体的な必要をきちんと神さまに求めなさいと言われているのです。神さまに従って生きるためには、日々の糧が必要です。それを祈り求めるのです。神さまはそのことを望んでおられます。

<日ごとの糧を今日も>
さて、11節ですが、文語訳では「日用の糧を」となっています。子どもの頃はこれを「日曜日の食べ物」のことだと思っていました。しかし、これは日曜日だけでなく「日々の」ということです。並行箇所のルカ11章3節には「日ごとの糧を、毎日」とあります。

「日ごとの」と訳されるこの言葉は、聖書の中ではマタイ6章11節と平行箇所のルカ11章3節だけ、また聖書と同じ時代の他のギリシャ語の文献においても「主の祈り」においてしか使われていないようです。つまり他の用例と比べようがないので、いろいろな訳が提案されています。イエスさまはご自身をいのちのパンと呼ばれましたので、これは日々イエスさまを与えてくださいという祈りではないか、または、これは日々聖餐式を守らせてくださいという祈りではないか、という解釈もされてきました。言いたいことは分かりますし、決して間違いではないでしょう。そういうニュアンスで祈ることも悪いことではないでしょう。しかし、やはり主の祈りは前半と後半にきれいに分かれていて、後半では私たちの日々の実生活における問題が扱われているようです。イエスさまがご自身をいのちのパンと呼ばれたのは山上の説教の時ではなくガリラヤ湖畔のカペナウムにおいてでしたし(ヨハネ6:35)、聖餐式の制定も十字架につかれる前の日なんですよね(1コリント11:23)。そして先ほども触れたように、ルカの平行箇所には「日ごとの糧を【毎日】」とあるわけですから、「日ごとの糧」とはやはり、私たちの朝ご飯や昼ご飯といった実際の食事のことが言われていると見ていいでしょう。生きるための実際の必要のことがここで言われているのです。

私たちは飽食の時代、飽食の社会に生きていますが、イエスさまが人として生きられた一世紀のイスラエル・パレスチナにおいて、その日その日の食料を得ることは私たち以上に死活問題でした。冷蔵庫を開けば食べ物がある、納戸に行けば備蓄がある、お店に行けば何でも買えるという状況ではありません。しかも、原文には「今日も」と訳された「も」の部分はありません。今日その日、この日一日の暮らしが大切でした。それを日ごとに、毎日祈っていくのです。

食事のことだけでなく、健康のことであったり、安全についてであったり、仕事や学校生活が守られるようにということかもしれません。日々の必要を祈るのです。今日も一日をお守りくださいと、その日その日に祈っていく、それは「毎日」のことです。過去に神さまから与えられた恵みを思い返すことは大切なことですけれども、それは懐かしんで終わるためではないはずです。あの時助けてくださった主が今日も助けてくださることを確認するのです(詩篇103:2,5)。大切なのは今日、今、神さまが私たちを助けてくださるということです。イスラエルの民に与えられたマナは、毎日毎日、その日の分しか集めることが許されませんでした。欲張って翌日の分もと集めたら、それは腐って悪臭を放ったとあります(出エジプト16:19-20)。神さまの恵みはその日、その日です。神さまは日ごとに養ってくださるお方です。昨日からの続きとか、昔からの惰性でそのまま養ってくださるということではなく、その日その日、神さまの恵みは新しい。過去の祝福にすがるのではなく、今日、神さまが与えてくださる祝福に目を留めることが大切です。しかも、霊的なことに限らず、食事のように抜き差しならない、背に腹は代えられない、そういう具体的な必要を、神さまは今日も与えてくださるのです。食事も、健康も、安全も、私たちが生きるために必要なことを神さまは与えてくださるお方です。そうやって私たちは、神の国の者として生きていくのです。この地に神さまのみこころが行われていくように、そのためにを用いてください、そのために必要な日々の糧を与えていてください。そのような祈りです。ですので、前半と後半で内容が分かれているわけではないのですね。一貫しています。

<乏しいことがないように>
山上の説教を読み進めると、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」といった私たちの必要を神さまがご存じであると記されています(マタイ6:32)。つまり、私たちが乏しいことなく生活することは神さまのみこころなのです。霊的、精神的な話でなく、これは物質的な必要の話です。神さまは私たちの必要をご存知です。必要以上に、無尽蔵に富が与えられることでは決してないけれども、神さまは私たちの必要を知っておられます。箴言30章8節〜9節にこうあります。「むなしいことと偽りのことばを、/私から遠ざけてください。/貧しさも富も私に与えず、/ただ、私に定められた分の食物で、/私を養ってください。/私が満腹してあなたを否み、/「主とはだれだ」と言わないように。/また、私が貧しくなって盗みをし、/私の神の御名を汚すことのないように。」神さまは物質的な必要を与えてくださる。過不足のないちょうどよい分量で私たちの日ごとの糧を、またそのほかの必要を、着るものであったり、住む場所だったり、生きるために必要なものを主は与えてくださいます。それが御心なのです。そのようにして私たちは神の国を求めながら生きていくのです。

<私たちの>
さて、主の祈りの一人称は「私たち」、複数です。私たちはこれを祈る時、自分の必要だけでなく私たちすべての人の必要を祈っています。私を、いや「私たち」を神さまのみこころのために用いてください。「私たちを」日々そのために生かしてください。「私たちの」必要を日々与えていてください、そうやってあなたの御用のためにお用いくださいという祈りです。

それと同時に、聖書が社会的な経済の不正を厳しく断罪していることを考えると、この「私たち」にはクリスチャンだけでなく、社会全体の人々を含めることも出来ます。マラキ書やアモス書などには社会的な不正への厳しいことばが続いています。現代も世の中では貧富の差が広がるばかりです。ごく一握りの人が富を独占し、立場の弱い人たちの生活は苦しくなるばかりです。神さまが造られた、神さまが愛しておられる全ての人が過不足なく、必要な分でその日を生きることが出来るという神さまの御心はまだこの地に現されていません。御心をこの地にもなさせたまえと祈りながら、自分たちの必要だけでなく、社会情勢にもきちんと関心を持ち、祈り、例えば、様々な支援の活動に募金をしたり、ボランティアに参加することでそれを体現していくことは大切なことです。

百年前の日本のクリスチャンに賀川豊彦という人がいました。1909年、21歳で神戸のスラム街に移住して貧民救済活動を始めました。彼の活動は「神の国運動」と呼ばれ、日本中で展開されました。それはただ聖書の内容を伝えるだけの伝道ではなく、社会的に弱い立場の人たちを助けながらの、信仰と社会生活が一体化した運動でした。有名なところでは、生活協同組合(いわゆるコープ、生協ですね)を作ったのも彼です。まさに全ての人が過不足なく日ごとの糧を得るための活動だったと言えるでしょう。教会がまず一番大切にしなければならないことは礼拝です。しかし、礼拝をしたならそこから遣わされていくのです。世の中に。社会に。賀川がスラム街に遣わされて行ったように、私たちにも遣わされている場所があります。それは私たちが日々置かれているそこのことです。私たちが今いるそれぞれの場所は、神さまから遣わされている場所です。小さなことでも、そこでできることが何かあるはずです。

<分かち合う>
「私たちの」という複数形だということについて、もう少し考えたいのですが、イエスさまは言われました。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。」(ルカ6:38)これは、与えられるために、リターンを狙って、受け取るために与えなさいということではなくて、ただ「与えなさい。」まず「与えなさい。」ですね。そうすれば結果として、ということです。

使徒の働き20章34節〜35節にはこうあります。パウロの別れのことばですが、「あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」イエスさまが言われたこととしてパウロが紹介しているこの「受けるよりも与えるほうが幸いである。」という、この通りの表現は福音書には残されていないのですが、先ほどのルカには「与えなさい。」とありましたし、聖書はそうやって分かち合う生き方を教えていますね。イエスさまは私たちに、分かち合う生き方をするよう願っておられます。

「私たちの日ごとの糧を」と祈る時、私たちは自分以外の誰かのためにも祈っているわけですが、それは、自分以外の誰かに日ごとの糧が与えられるために、この私を用いてくださいということでもあるわけです。与えられている恵みを分かち合うのです。特に今日は「糧」について、具体的、実際的な必要について私たちはここから問われているわけですが、誰かを助ける、与えられている恵みを分かち合うことが、特別なことではなく、当然のこととして、さらりと出来たらいいなと願わされます。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」これは霊的・精神的なことではなく、実際的・生活的な話です。私たちはそれぞれに自分の生活がありますし、責任もありますから、一人一人に出来ることはわずかかもしれません。しかし、精一杯のそれらをみなで持ち寄って、「私たちの日ごとの糧」という神さまのみわざのために用いていただこうではありませんか。

いつも、大きな災害があると九州キリスト災害支援センターの方に、またクリスマスの時期には各種支援団体に教会として献金をしますけれども、それらもこういった思いから、私たちの日ごとの糧をという祈りと共に、心新たに捧げていきたいと思います。

主の祈りは、神さまとの関係が深まるための祈りです。また、主の祈りは神の国を待ち望む祈り、神の国のために私たちを用いてくださいと祈る祈りです。そしてその前半と後半は、分かれているようでやはり一つの祈りです。日々、新しく、神さまの恵みに養われながら、受けた恵みを人々と分かち合うことで、ここに神さまの御心が表されていく。そして、神さまとの関係がますます深まっていく。そんな神の国の不思議を、主の祈りの不思議を、今週も味わわせていただきましょう。

ーーー

「実に、私たちは滅び失せなかった。/主のあわれみが尽きないからだ。/それは朝ごとに新しい。」(哀歌3:22b-23a)

私たちと同じように人として来られた主イエス・キリストの恵みと、
私たちに日ごとの糧を与えてくださる父なる神の愛、
そして、私たちに恵みを分かち合う生き方を教えてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。
アーメン

 

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【1/11】

ヨハネの福音書3章1節〜21節

「新しく生まれる」

本日の礼拝では、久遠教会の今年のみことばを受けて、私なりにヨハネの福音書3章の文脈を振り返ってみたいと思います。

3章16節をもう一度お読みします。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これは「小聖書」と呼ばれる箇所です。長い聖書を一節にまとめるならここだ。この小さな一箇所に聖書のすべてが詰め込まれている。この一節はまるで小さな聖書だというのです。

さて、この大切な節は直前の15節でカギ括弧が終わってから語り直されています。つまり、著者であるヨハネのナレーションです。なぜこのように語り出したのか。内容だけでなく、表現としても、とても意味深な箇所になっているわけです。言わば、聖書自身がここに注目してくれとアピールしているわけですね。そんなことを踏まえつつ、それでは直前の文脈を見ていきましょう。

<1節〜 ニコデモ>
ヨハネの福音書3章は、ニコデモという人物がイエスさまを訪ねたという場面で始まります。1節「さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。」パリサイ派という律法学者の一人で、ユダヤ人の議員であったということです。旧約聖書を教えるプロであり、またユダヤの宗教議会の議員でもあったということで、彼はいわば当時のエリートです。その人が、夜、誰にも見られないようにして、イエスさまを訪ねてきました。イエスさまは、人々の病気を治したり、水をぶどう酒に変える奇跡などをして有名になっていました。その語る内容は、律法学者たちのように権威ぶって話されるものとは違い、本当に権威があるものでした(マルコ1:22)。ニコデモも、どうしても気になったのだと思います。しかし、自分が昼間に堂々と出かけて行って教えを乞うなど、人目がはばかられる。メンツやプライドがあるわけです。気になるけど、気にしたくない。信じたいけど、信じることができない。それで、こっそりと会いに行きました。こっそりとでも会いに来ることができたニコデモは幸いでした。それにしても、当たり障りのない挨拶をするわけですね。2節「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

イエスさまはそれに対して、ニコデモの心の底にあった核心的な問いへの答えをなさいます。3節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」会話が噛み合っていないように見えますが、イエスさまはその人の心の中にある問いをご存知です。つまり、「神の国を見たい」、それがニコデモの願いなのでした。ニコデモは自分で自分の願いに気づいていなかったかもしれませんが、イエスさまは私たちの真の願いをご存知で、そこを目がけて語りかけてくださるお方です。これは私たちにとってもそうです。私たちの心の中には「自分では気がついていない領域」があります。しかし、神さまは知っていてくださる。だから、日々神さまから語りかけに耳を澄ませなければならないのですね。聖書のみことばを通して、また祈りの中で、神さまが何と言っておられるのか、耳を澄ませることが大切です。

ところで、「神の国」とは天国のこととも言えます。ただ、死後に行くところというよりも、今ここですでに始まっている神さまの領域のこと、それが天の国、神の国です。イエスさまは、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。ニコデモは「新しく生まれる」ということを誤解して、次のように答えます。4節「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」彼は「新しく生まれる」ということの意味がわからなかったのです。

イエスさまは表現を変えて、再度答えられました。5節「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」新しく生まれるということが、水と御霊によって生まれると言い換えられています。ここで注意すべきは、水というのは洗礼のことではありません。洗礼とはしるしとして行われるものですが、ここで水とあるのはその人の罪が赦されること、救われることそのもののことです。

旧約聖書に、神さまが私たちを洗ってくださるという表現があります。そして、神さまの霊(聖霊)を授けてくださり、私たちが新しい生き方をするようにしてくださる、と。

わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル36:25-27)

エゼキエル書の文脈としては、バビロン捕囚下にあったイスラエルの民が偶像礼拝の罪からきよめられ、土地が回復していく預言ですけれども、イエスさまはこの箇所から「人が新しく生まれる」ということに関して語られました。この箇所から両方のことを汲み取れるわけですね。もともとの文脈だけでなく、聖書の預言はこのように重層的に解釈することができます。

神さまが私たちの罪を洗ってくださり、新しくしてくださる。神さまが私たちを新しい生き方へと導いてくださる。そのことを信じてお任せするなら、私たちは新しく生まれ、神の国を生きる者とされるのです。エゼキエルが語ったように、そのみわざは神さまが「わたしがそうする。」と言われる力強いものです。人が新しく生まれることは神さまのみわざです。

昨年末、私たちは敬愛する姉妹を天に送りました。彼女は水の洗礼は受けておられなかったわけですけれども、でもイエスさまが自分の罪のために十字架にかかられたことを明確に信じておられました。それは、神さまがきよい水を振りかけて罪をきよめ、新しい心と新しい霊を与えてくださっていたからです。姉妹は確かに、「新しく生まれて」いました。

6節「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」先ほどのエゼキエルの預言では石の心に対する肉の心ということで、肉とは良い意味でしたが、こちらでは別の対比です。私たちは肉によって生まれた者。肉というのはこの肉体ですね。でも神さまの霊によって生まれるなら、つまり新しく生まれるなら、霊である神さまを信じ、聖霊によって生かされる者とへと変えられるのだという意味です。

7節〜8節「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」聖霊によって新しく生まれるというのは、どのようにして起こるのでしょう。肉体として生まれるのは、母親が出産するという経緯をたどるわけですが、霊的に新しく生まれるというのは、どのようにして起こるのでしょう。それは聖霊のみわざに任せるほかありません。私たちは風がどこから来てどこへいくのか、わかりません。同じように、聖霊がどのように働かれるかのかを私たちが「こうだ」と言い切ることはできない。でも、風の音を聞けば、確かに風が吹いていることがわかります。それと同じだというのです。旧約聖書が書かれたヘブル語でも、新約聖書が書かれたギリシア語でも、「霊」と「風」は同じ単語です。風を見ることはできないけれども、その音を聞けば風が吹いたことがわかる。それと同じように、聖霊によって人が新しく生まれるということがどのようにして起こるのかはわからないけれども、人が新しく生まれたことを見るなら(つまりイエスさまを信じた様子を見るなら)、聖霊が働かれたことは明らかなのです。

9節、ニコデモはまだわからないでいます。

10節以降、イエスさまは、ニコデモが聖書を教えるプロでありながら、肝心なところがわかっていないとして、教えてくださいます。イエスさまと弟子たちは、「知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。」と。イエスさまが語っている福音(良い知らせ)を、人々は信じず、受け入れませんでした。実は、3章の直前、2章23節と24節に意味深なことが書かれています。「過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」23節の「信じる」と24節の「任せる」は同じ単語です。人々はイエスさまを信じたけれども、イエスさまはそんな人々を信じなかったというわけです。25節「イエスは、人のうちに何があるかを知っておられた」からです。この流れで3章11節なのです。

人々も、ニコデモも、そして私たちも、人が新しく生まれるということ、神の国に入るということについて、分からない。分かっていないのですよね。それはある意味では当然だと言えます。人の救いは神秘です。自分が救われたことを振り返れば、明らかなことです。

12節は少しわかりにくいと思いますが、聖霊によって新しく生まれるというのは、この地上で、今ここで起こること。それを信じられないのなら、天上のこと(天の国のこと)を話してもどうして信じるでしょう。今ここで、今この地上で神を信じ、新しく生まれることと、天の国(神の国)を生きるようになることは繋がっているんだ、同じことなんだということです。

そして13節、イエスさまは「天から下って来た者」の話をされます。誰も天に上ったものはいない、しかし、天から下った者がいる。それこそ「人の子」と呼ばれるキリストです。かつて、荒野でモーセが蛇を掲げ、それを見た者のいのちが助かったという出来事がありました(民数記21:4-9)。それと同じように、人の子も掲げられなければならない。それは、15節、イエスさまが十字架にかかることで、罪のない神のひとり子が、私たちのために十字架にかかることで、私たちの罪が赦されるから。そして永遠のいのちを持つようになるのだから。そうやって人は永遠のいのちを持つのだ。救われ、神の国に入るのだとイエスさまは力説しておられるのです。十字架の話をここでしておられる。

<ヨハネの語り>
そして、福音書の著者であるヨハネが語り始めます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これは、この聖書を今、ここで読んでいるまさに私たちへの語りかけです。私たちのために、あなたのために、イエスさまは十字架にかかり、そのために私たちの罪は赦されました。そして永遠のいのちを持つ道が開かれています。

これが小聖書と呼ばれるヨハネ3章16節の内容です。私たちが一人として滅びることなく主イエスを信じて(もしくは信じていきたいと願い続けて)、新しく生まれるそのために、永遠のいのちを得るためにイエスさまは来られたのだということです。聖書自身が、読み手に訴えかけるこのような箇所を読むと、私たちは神さまの愛をもはや知らないふりはできないですね。

私たちはこれほどに愛されています。また、あの人も、この人も、これほどまでに愛されているのだということです。イエスさまが来られたことを信じている私たちは、それと同じくらいに救いの事実を信じていきましょう。イエスさまが来られたということは、それは私たちを救うために来られたのですから。イエスさまが来られたのは、救いのためだ。このことを何度でも思い返していきたいのです。

<世>
なお、ここで使われているのは「世」ということばです。世とはコスモスといってこの世界のことです。私個人のことではなく、あの人この人のことだけでもなく、この世界丸ごとのことです。神さまが造られ、罪の歪みを持ちつつも、それでもなお神さまが愛しておられるこの世界です。信仰とは神さまと一対一の関係ですけれども、聖書は同時にこのように「世」とか「民」、また「キリストのからだ」というような表現をします。信仰が個人主義になっていかないように、バランス感覚が問われます。

ところで、聖書には「この世と調子を合わせてはいけません。」というみことばもあります(ローマ12章2節)。日本語では同じ「世」という訳語になっていますが、こちらは時代とか考え方・価値観という意味のことばが使われています(アイオーン)。同じ「世」でも注意が必要です。

イエスさまと出会ったなら、イエスさまを知らないで生きていた頃の価値観には戻れません。イエスさまを知らないアイオーン(世・価値観)と調子を合わせることはもはやできません。しかし、コスモスという意味では、神さまが造られたこの世界自体のことは、依然として大切です。そもそも自分はその只中に生きているわけですから。神さまが愛しておられるこの世界の只中で、地の塩として、世の光として人々に仕えていくのです。この地に主のみこころがなるように、私たちを通して、ここに神さまのみわざがあらわされていくように、そのために私たちを用いてくださいと祈りながら、ここで仕えていくのです。伝道や宣教と言った時に、「私は救われている人、あの人は救われていない人」というラベリングによって自分を違う立場に置き、高いところから教えようとするやり方では何も伝わらないですね。イエスさまを知らない人にイエスさまを紹介していくには、自分も一緒になってイエスさまのもとに行く。自分もコスモスの一部なのだと弁えて、一緒にイエスさまのもとに集まるというイメージです。伝道とはそのようなものだと思います。

<さばくためではなく、救うために>
17節以降も見ておきましょう。17節「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」イエスさまが来られたのは、さばきのためではなく救いのためだということを、私たちは忘れてはなりません。

18節〜19節は丁寧に読まなければならない箇所だと思います。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」特に後半です。信じない者はすでにさばかれているというのですが、ここで言う「さばかれている」とは、19節の内容です。「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。」つまり、光よりも闇を愛してしまう、イエスさまが来られたのに、古い生き方を愛してしまうことそのものが「さばかれている状態」だということですね。さばきということばを読むと、条件反射のようにして倫理的・道徳的に正しいかどうかがジャッジされるような、そんなイメージで読んでしまう私たちですが、この箇所では、さばきとはイエスさまを知らないでいる状態そのものです。その上で、イエスさまは「さばくためではなく、救うために」来られたのだという17節がとても大切なのです。

20節〜21節は、この説明の言い換えですね。光を憎み、光の方に来ないという状態そのものがさばきの状態なんです。しかし、主イエスにある者は光のもとで生きるのです。そして、繰り返しますが、イエスさまはさばくためではなく救うために来られました。私たちを闇ではなく光のうちに生きる者としてくださったのだということです。

伝道とか宣教ということを考える時に、「私は救われている人、この人は救われていない人・さばかれている人」という棲み分けを前提とするのではなく、イエスさまはさばくためではなく救うために来られたのだから、光の内に招くために来られたのだから、私もコスモスの一部として、その人と同じ土壌でイエスさまを紹介していく。これに尽きるし、これしかないですね。

今年、ヨハネ3章16節を与えられた私たちは、折に触れてこれを思い出していきましょう。イエスさまはさばくためではなく救うために来られた方です。阿佐ヶ谷の方では、もう少し今年のみことばに関連したメッセージが続くようですので、メッセージの要約の形でお届けします。関西集会としては、来週からまたマタイの福音書に戻ることといたします。

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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

 

私たちを救うためにこの世に来られた、主イエス・キリストの恵みと、
御子を信じる者に永遠のいのちを与えてくださる父なる神の愛、
そして、この地にあって、この世にあって、キリストを分かち合う生き方を導き続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
この一年も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

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【12/28】

マタイの福音書9章10節〜17節

「新しい皮袋」

先週は、幸いなクリスマスの礼拝を捧げることができ、感謝いたします。教会歴という古来からのキリスト教のカレンダーでは、クリスマスは1月6日まで続きます。クリスマスを待つという意味のアドヴェントキャンドルは灯しませんけれども、イエスさまが私たちのためにお生まれになったことを、今しばらくの間、思い巡らせていきましょう。

さて、今日は2025年最後の礼拝となりました。今年、私たち久遠キリスト教会に与えられた年間聖句はマタイ9章17節、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」という箇所でした。これはよく、「これからは新しい方法を試していこう。」というスローガンとして理解されがちです。しかし、マタイの福音書の文脈から分かることは、これは福音を受け取る時に、イエスさまの教えを受け取る時に、「私たち自身が」新しい皮袋としてそれを受け取る必要があるのだという内容なのでした。一年を終えるにあたって、もう一度そのことを振り返ってみたいと思います。

<10節〜>
10節「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。」イエスさまが食事をしていた時、いわくつきの人々がやって来た。そしてイエスさまは彼らを招き入れて一緒に食事をし始めたという場面です。取税人というのは、ローマ帝国に税金を納めるための役人で、ユダヤ人からしたら裏切り者です。必要以上に集めて自分の懐に入れる人たちも多く、人々から嫌われていました。そのほか、ユダヤ人社会からは罪人とされていた人たちが大勢、イエスさまのところに来て招き入れられ、食事を共にしていたというのです。

それ見たパリサイ人たちの反応が11節です。「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか。」イエスさま本人に言わず、弟子たちに言ったというあたりが、ずるいなというか、卑怯な感じがしますね。パリサイ人たちは聖書をよく読んでいるはずの宗教指導者でしたが、だからこそというか、パリサイ人たち以上に注目され始めたこのイエスという人が罪人たちと共に食事をしている、罪人たちと親しく交わっていることが許せなかったのです。

それに対するイエスさまの答えは12節、13節でした。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」イエスさまはホセア書を引用して(6:6)、この意味を学んできなさいと言われました。つまりこのパリサイ人たち、聖書の教師である人たちは全然聖書を理解できていなかったということです。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。イエスさまはたとえが本当にお上手です。イエスさまはまさにそのために来られたお方なのだ、救い主が来られたのは罪人を招くためなのだということです。

では私たちも罪の生活を続けようという話ではありません。聖書全体を読めば、イエスさまの十字架を知った者たちが、救われた者たちが、積極的に罪の中に留まることなどあり得ないと書かれてある通りです(ローマ6:1-2)。むしろ今日の箇所は他の人のことを見て「あの人は福音にふさわしくない、あの人はクリスチャンにふさわしくない」とさばくことの愚かさを伝えています。それは裏を返せば、「自分はそんなことはない、自分はふさわしい」という高ぶりです。

神さまの目から見たら、パリサイ人たちも罪人です。しかし、自分もイエスさまに招かれているということに気づかない。ここでパリサイ人たちが「ああ、私たちも招かれているということだ」と気付けたなら、そしてイエスさまと共に食事ができたなら、どんなによかったかと思います。しかし、彼らの態度としては、自分にはそんな必要はないとでも言うような、そんな態度ですね。パリサイ人たちは、取税人など罪人とラベルが貼られる人たちを軽蔑していて、むしろ自分たちがそのようなレッテルを貼っていて、自分たちはあの人たちとは違うと強く思っていました。自分も彼らと同様に、イエスさまが必要な者同士なのだとは思えなかったわけです。13節にある「いけにえ」というのは、動物の犠牲を捧げる旧約聖書の礼拝行為です。礼拝です。いわば、正解であり、正しいことです。しかし、それすらも、神さまは真実の愛の方が大切だとイエスさまは言われるのです。真実の愛とは、神さまが私たち一人ひとりを愛しておられるということ、罪人である私たちのために十字架にかかられたお方であるという、その愛のことです。

正しければいいのかというと、それ以上に大切なことがあるのです。これは一般的なことについても言えることだと思いますし、神さまもそもそもそういうお方なのだということを、私たちは忘れがちかもしれません。神さまの正しさが至上であり至高のものであるなら、私たちは何もできないし、何も言えません。滅びるしかないのです。しかし、その正しさを押し退けて、押し曲げて、神さまはイエスさまの十字架を私たちに与えてくださったわけです。そのことを思うなら、私たちが正しさを主張する時には気をつけなければならないですね。私たちが正しさを主張する時、往々にしてそれは神さまの正しさと言うよりも、自分の正しさを主張しているにすぎないことがよくあります。それはパリサイ人と同じなんです。私たちは罪人とは交わっていない。私たちはいけにえをささげている。それは「正しさ」です。しかし、それは彼らにとっての正しさに過ぎない。そもそも、伝道者の書7章16節にこうあります。「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。」自分の正しさを主張するだけという生き方は、自分を滅ぼすことなのです。正しいのは神さまであり、自分は罪人なのだと弁えて、そしてイエスさまの招きに応じる私たちでありたい。イエスさまが「よく来た、よく来た、さあ入って、共に食事をしよう。」と招いてくださる、その招きに応じるものでありたい。

続けて、断食の話がなされます。詳しくは割愛しますけれども、これも正しい礼拝行為、宗教行為でした。しかし、イエスさまが来られたなら、その喜びの方が勝るわけです。結局、罪人を避けることも、断食をすることも、パリサイ人であったり、ここではバプテスマのヨハネの弟子たちが「正しさ」にこだわりすぎてしまっていたということです。それは「これらのことを守っている自分たちの正しさ」に過ぎません。そのような心持ちでは、福音(Good News)を受け取ることはできないとイエスさまは言っておられるわけです。自分の正しさを主張している限りは、福音を受け取ることはできないのです。

その流れで16節です。「だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。」新しい布切れというのは福音のことです。新しい布切れを部分的に切り貼りして縫い付けてもダメなように、福音を受け取るには、私たちの心が丸ごと変わる必要があります。福音の新しい布を切って貼るのではなくて、その新しい布で衣を作る。丸ごと変えるということです。

17節も同様です。「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」ここでは新しいぶどう酒が福音のことです。これを受け取るには、自分自身が変わらなければならないのです。

もっとも、イエスさまの福音は、成長してからでないと受け取れないものではなく、むしろ福音を受け入れることによって、私たちは丸ごと変えられていくのです。ここは大事なポイントだと思います。信仰の真髄が分かってから福音を受け取れるのではないのです。むしろ、自分の正しさを主張するしかない、パリサイ人たちのような状態の私たちです。そしてその私たちが福音を受け取るときに、私たちは丸ごと変えられる。変えられていくのです。聖霊が私たちを変えてくださる。霊的成熟、成長ということを引き続き学んでいますけれども、それは、部分的な変化ではなくて、丸ごと変えられていくプロセスです。成長であり成熟ですから、少しずつです。プロセスを経ていくのです。でもその目指すところは丸ごとの変化です。福音の良いとこ取りをして継ぎを当てていくいくのではなく、古い皮袋のまま、惰性でそのまま福音を受けっていくのではなくて、新しい皮袋として成長させていただきましょう。自分の正しさだけを主張していくのではなく、相手にレッテルを貼って自分は違うと主張するのではなく、今一度、自分も罪人なのだ、自分もあの人もイエスさまに招かれている者同士なのだという視点を大切にしようではありませんか。家庭や学校、職場において、およそ人と関わる場所においてそれは問われます。自分のプライドを守り、他者をさばいていく古い皮袋ではなく、新しい皮袋として、今日、またここから成長させられていきましょう。今日ここ、ここがまた新しいスタートです。何度でも仕切り直して、スタートし直していくのです。

そのことが、関西集会としての歩み方にも直結するのだと思います。今までのあり方、今までの方法、自分が慣れ親しんできた教会としてのあり方はそれぞれにありますが、各自がその「正しさ」に固執するのではなく、柔らかい心で、イエスさまと共にい続けるために何が必要なのか、イエスさまと共に食事をしていくために必要なことは何なのかかを考えていかなければなりません。率直な意見を出し合いながら、そして、互いに労わりあいながら、話し合い、祈り合ってまいりましょう。

この一年も、みなさんと共に礼拝ができたこと、幸いでした。新しい年も、主にあって期待いたします。

ーーー
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。」マタイ9:17

罪人である私たち一人ひとりのためにお生まれになり、十字架にかかられた救い主、主イエス・キリストの恵みと、
私たちの正しさではなく、ご自身が正しくあってくださる父なる神の愛、
そして、私たちを新しい皮袋として変え続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
一年の締めくくりにあって、
お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

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【12/21】待降節(アドヴェント)第四週
クリスマス

ルカの福音書2章8節〜10節

「地の上に平和が」

クリスマス、おめでとうございます。今日は、イエスさまが私たちのところに来てくださったことをお祝いする礼拝です。心からの感謝をお捧げしましょう。

<8節〜12節 羊飼いに届けられた知らせ>
8節「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。」ベツレヘムの郊外に「羊飼いの野」と呼ばれる野原があります。今もそこで羊が飼われているそうですが、この夜も野宿で夜番をしながら羊の群れを守っている人々がいました。ここに「ミグダル・エデル」と呼ばれる家畜の見張り塔があります(Mic. 4:8、Gen. 35:21)。古くは創世記35章、ヤコブがその妻ラケルを葬った辺りの記述にその名前が出てきます。ここで飼われる羊はエルサレムの神殿用、いけにえ用の羊として傷がつかないように大切に育てられていました。神殿でいけにえを捧げることは礼拝の重要な要素でしたから、それを支えるベツレヘムの羊飼いというのは大切な職業だったはずです。

しかし、社会的にも大切な役割を果たしていた彼らが顧みられることはありませんでした。「きつい・汚い・危険」の3Kと呼ばれる仕事に就く人々が正当な評価を受けることは少ない。今の私たちの社会とも同じかもしれません。誰かがやらなければならない仕事なのに、誰もわかってくれない。しかも動物を飼うという仕事の性質上、彼らは安息日を守ることもできません。律法を守ることができない、神のみこころに背くことしかできない、かといってそれを変えることもできない。周りの視線もそうだし、自らのセルフイメージも低かったかもしれない。そんな彼らが、神の使いを見たのです。9節「主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」滅ぼされてしまうと思ったでしょう(イザヤ6:5)。

しかし御使いは言います。10節、11節「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」恐れることはありませんと。神さまに出会うこと、神さまが遣わされた天使に出会うことは恐ろしいことではありません。私たちは安心して神のことばを聞いていいし、受け入れて、その通りに生きてみて大丈夫です(ヘブル4:16)。

<救い主の知らせ>
御使いは告げました。「あなたがたのために救い主が生まれた。」と。ルカの1章でマリヤやザカリヤが歌っていたように、その方は心の思いの高ぶっている者を追い散らし、低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満たしてくださる方です(1:51-53)。罪の赦しによる救いを与え、暗黒と死の陰に座るものたちを照らす太陽のような方が来られるのです(1:76-79)。それは旧約聖書の約束の成就でした。たとえばエレミヤは、神の民イスラエルを正しくさばく、正義と呼ばれる王が来られると預言していました(エレミヤ23:5-6)。人々はローマ帝国の圧政、またその傀儡政権であるヘロデ王の支配に苦しめられていましたから、預言された王が来ることを心待ちにしていました。しかし聖書が示す救い主は、軍事的なリーダーではありません。イザヤ書53章4節〜6節にはこのようにも書いてあります。「まことに、彼は私たちの病を負い、/私たちの痛みを担った。/それなのに、私たちは思った。/神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。/しかし、彼は私たちの背きのために刺され、/私たちの咎のために砕かれたのだ。/彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、/その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。/私たちはみな、羊のようにさまよい、/それぞれ自分勝手な道に向かって行った。/しかし、主は私たちすべての者の咎を/彼に負わせた。」この方は「私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれる」いけにえの子羊のような方でした。この方は確かに、ダビデの子孫として預言の通りに生まれた王の王、約束されていたメシア、キリストです。しかし圧倒的な軍事力を持ってローマ帝国から解放してくれる救い主なのではなく、私たちの背きの罪のために神の前に自らの命を差し出される王であり、救い主なのでした。ルカに戻りますが、天使が告げた12節がそのことをよく表しています。「布にくるまって飼葉桶に寝ておられるみどりご」とは、イエスさまを探すためにと御使いが教えてくれた目印だったわけですが、「布にくるまって」とあります。これは人の亡骸を包むのに使われた亜麻布だと思われます。先週もお話ししましたが、ヨセフとマリアが行き着いたのは羊を飼う洞穴だったはずです。郊外の洞窟というのは人を埋葬の用意がなされる場所でもありましたから、ここにも新しい亜麻布があったのでしょう。マリヤとヨセフは最低限の産着しか持っていなかったでしょうから、これで赤ん坊を包んだのです。イエス様は十字架で死なれた際にやはり亜麻布で包まれています(23:53)。生まれた時に亜麻布で包まれたことには、この方が死ぬために生まれてきたことが暗示されているのでした。ミグダル・エデルでいけにえ用の子羊を育てていた羊飼いたちにはこの意味がよくわかったことでしょう。ヨセフとマリヤからしたら、こんな場所で、こんな格好しかさせてあげられなくて、と思っていたかもしれませんが、しかし、神さまの目から見たらそこには大きな意味があったのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)

この知らせが、社会に居場所のなかった羊飼いたちにまず知らされたということ。そのために選ばれたのが、ナザレにもベツレヘムにも居場所のなかったヨセフとマリヤだったということ。クリスマスは自らの居場所がわからない人々のためのものです。

私たちだってそうです。自分がどこにいるべきか分からない。ペテロは書いています。「あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」(1ペテロ2:25)イエスさまを信じた後も、何度も彷徨い出てしまう私たちですが、その度にこの方のもとに帰ることができます。クリスマスは、私たちに居場所を与えるものです。本来居るべきところを思い出させ、何度でもそこに戻らせる知らせなんですね。

私たちがいるべき場所とはどこでしょう。羊飼いたちはどこへ行きましたか?「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」(ルカ2:15)彼らはベツレヘムまで行ったんです。飼い葉桶の救い主のところに行ったんです。私たちも、イエスさまのもとへ、駆けつけたいのです。そこが私たちのいるべき場所です。そこは王宮ではない、きれいで清潔な場所でもない。ぐちゃぐちゃしていて、臭くて汚い場所です。でもそこにイエスさまがおられるんです。

御使いは「今日」ダビデの町でと言いました。ルカの福音書には「今日」という表現がたくさん出てきます。ザアカイに向けて、また十字架の上で隣の囚人に向けて、イエスさまは「今日」と言われました。私たちにも、「今日」と聖書は語りかけるのです。あなたにとってのベツレヘムとはどこですか。イエスさまがおられる場所はどこでしょうか。そこに行くことは面倒ですか?できれば避けたいことでしょうか。いや、そこは救い主にお会いできる喜びの場所なんです。今一度、イエスさまに会いに行こうではありませんか。

皇帝アウグストゥスの時代。世界が大きく動いていた世界史の表舞台からは程遠い、属州ユダヤの片隅で、ヨセフもマリヤも羊飼いたちも、吹けば飛ぶような存在だったでしょう。しかし、そんな彼らに神の国の良き知らせが届けられました。私たちも、世界どころか身の回りの社会の中に埋没するような小さな存在です。周りに理解してもらえないもどかしさも、言われのない偏見を受ける苦しさも、彼らと同じように経験します。しかし、クリスマスはそのようなちっぽけな存在、埋没している人々のためのものです。

<地の上で、平和が>
今年のアドヴェントは「主の祈り」から「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」ということを語られているわけですが、今日の箇所で天使が歌ったこの歌にも「天と地」が出てきます。「いと高き所(天)で、栄光が神にあるように。/地の上で、平和が/みこころにかなう人々にあるように。」天の神に栄光があるように。これは分かります。神さまは誉めたたえられるべきお方ですし、私たちはすべての栄光を神さまに帰すのです。では地の上に平和が「みこころにかなう人々に」とはどういうことでしょう。「みこころにかなう人々」とは誰のことでしょう。これはきよく正しい生活をする人々ということではありません。むしろ逆の生き方しかできない人々、しかしそんな私たちの所に救い主が来てくださったということを信じる人々のことですね。イエスさまが来られたのはこの私のためだと信じる人たちのことです。

「地の上に平和が」というのは、一般論ではありません。まさにこの私のこと。あなたのことです。みこころが天で行われるように、地でも行われますようにという主の祈りが、この私を通して、この私を用いてみこころを行ってくださいという祈りだったように、地の上の平和とは、一般論としての他人事ではなく、この私が、キリストの平和を受け取ることから始まります(ローマ5:1)。それはローマの平和のように武力で勝ち取る平和ではありません。武力がなければ、抑止力がなければ成り立たない平和は、ローマの平和です。しかし、私たちの王は十字架にかかられたキリストです。私たちが証しするのは、無力な赤ん坊としてこの世に来られたキリストの平和です。世の中の常識で考えたら、こんなに無力なことはありません。こんなに非力なことはないです。赤ん坊として生まれるんですから。しかし、私たちはこのイエスさまの後に従いながら、周りの人に、世界にこの平和を分かち合っていくのです。みこころにかなう人々に。神さまの目から見たら、すべての人が、一人一人がイエスさまのいのちをかけるほどの「みこころにかなう人々」です。その一人一人に、神さまの愛を届けていくのです。

それは小さな一歩一歩から始まります。争いが終わらない世の中ですし、ニュースで扱われていることを知り、世界のために祈ったり献金するのは大切なことです。今年も関西集会として世界のために各種団体へ献金しました。ただ、ニュースの向こう側の遠い世界のために何かをするだけでなくて、身の回りで平和をつくることも同じように重要です。世界のことはまったく何もしなくていいのではありません。世の中のこと、社会のことを学び、理解し、助けの手を延べていくことは大切なことです。それと同時に、身の回り、自分の手が届く範囲のところに平和を分かち合っていく、イエスさまがへりくだってわざわざ人として来られたように、それに倣う私たちも、わざわざという一手間、ふた手間かけてへりくだり、具体的な目の前の人のために仕えること。これが大事なことのはずです。”Think globally, act locally.”という言葉があります。略してグローカルと言われたりしますが、世界規模で考えつつ、地域規模で行動する、地域のために行動するということですね。理想は大切にしつつ、そのために具体的に行動するということとも言えるでしょう。イエスに従うキリスト者として、地の上の平和を祈りながら、今日、自分にできることを誠実に、忠実になさせていただこうではありませんか。神さまは地の上にみこころが行われるために、地の上に平和があるために、私たちを用いてくださる。あなたを用いてくださいます。あの天使の賛美は、私たち一人一人の上に今日も響いているのです。

臭い場所、汚い場所、まさかこんなところでという場所で救い主に出会った羊飼いたちは、20節「神をあがめ、賛美しながら帰って」行きました。私たちも喜びに満たされ、今日、またここからそれぞれのところに遣わされていきます。行く先々で、神さまのみわざを見させていただきましょう。

ーーー
平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

 

私たちのためにささげられる神の小羊として世にこられた、イエス・キリストの恵みと
何としても私たちを救わんとご自身の約束を実現させてくださった神の愛、
そして人々に仕える者としての平和の歩みに伴っていてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

 

久遠キリスト教会関西集会ホームページ

Kuon Christ Church Kansai Website

Since July 11 2017

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