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​礼拝メッセージ
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●録音
20260308(マタイ7:1〜5)さばいてはいけません
00:00 / 31:20
●原稿

【3/8】

マタイの福音書7章1節〜5節
「さばいてはいけません」

マタイの福音書は、今日から7章に入ります。テキストに入る前に、改めて山上の説教が語られている光景を思い浮かべてみましょう。ガリラヤ湖の岸辺の小高い丘でイエスさまが弟子たちに語っておられます。ガリラヤ湖とは人々の生活の場です。漁師にとって、または魚を塩漬けにして遠くローマまで運んでいく輸送関係の人たちにとって。ガリラヤ湖近辺は豊かな穀倉地帯でもあります。麦を育てる人たちもいる。4章13節以降イエスさまが拠点としているカペナウムの町は活気に満ち、人々は笑ったり、そして苦しんだりしながら生活しています。山上の説教が語られたであろう丘は、カペナウムから徒歩で一時間ほどの距離です。人々はイエスさまの語られることを聞こうと、仕事の手を止めてやってきたのです。

イエスさまは基本的に弟子たちに向けて語っています。しかし、周りでそれを聞く人たちも、そこに自分を重ねることができました。今の私たちと同じですね。私たちも聖書のことばを自分への語りかけとして聞くことができるのです。今日もご一緒に、イエスさまのことばに耳を澄ませ、聞き取っていきましょう。

<1節〜2節>
1節は注意して読みたいところです。「さばいてはいけません。」というのは、これは「相手を批判するな」「悪事にも目をつむれ」ということではないです。いつも言うことですが、聖書は文脈が大切です。特に極端な表現に出会ったときには前後の文脈を確認することが大事ですね。5節を読むと、最終的には兄弟の目からちりを除けるというわけですから、悪事をなかったことにしろだとか、相手を批判したり指摘したりするなという話ではないです。

章が変わった最初の1節でいきなり「さばいてはいけません。」とあるので、ここだけ独立してインパクトが強く見えてしまうのですが、山上の説教のこれまでの話題を振り返ってみると、ずっと「義」について、「義の行い」について述べられてきた、その流れを受けてのことだと気付きます。直前の箇所では「天に宝を積むこと」、つまり養ってくださる神さまを信頼して、与えられているものを分かち合うということ。心配しないで、思い煩わないで、神の国と神の義のために生きること。そういったことが語られてきたわけです。それを受けての「さばくな」ですから、これは、そのような生き方、義の行いの生き方が出来ていない(と思われる)人をさばいてはいけませんということですね。

1節後半の「自分がさばかれないためです。」という展開も、決してただ単純な因果応報的な意味ではないですね。やったらやりかえされるよということではなくて、2節にあるように、あなたが他人をさばくその秤、つまりさばく基準は自分にも当てはまるということです。そもそもあなたがさばく態度、その基準は自分にも向けられていることを自覚しなさい、ということですね。人をさばくとは人を評価するということですが、その基準はそのまま自分にも向けられているのです。

<3節〜5節>
3節から5節を読むと、問題は高慢な思いであることがわかります。「あなたには問題があるから、取り除いてあげよう」という本人に、もっと大きな問題があるわけです。「梁」というのは屋根を支える大きな木材です。目の中に梁があるなどというのはあり得ない話ですけれども、でも身に覚えがありすぎて笑えない話です。

これも、ここまでの文脈を振り返るとよりリアルに響きます。パリサイ人たちは「私は義人」「この人は罪人」とさばくようにしてレッテルを貼っていました。自分は宗教的に上位にいる、自分の方が信仰をわかっているという優越感ですね。しかし、イエスさまは「さばいてはいけません。」と言われたのです。あなた自身がその基準に当てはまっていないのだからというわけです。

<判断は必要>
ただし、イエスさまは健全な批判や指摘を禁止しているわけではありません。先ほども言ったように、最終的には兄弟の目からちりを取り除いてあげられるわけですし、これは来週読みますけれども、6節では「聖なるものを犬に与えるな、真珠を豚に投げるな」と言われていて、また15節では「偽預言者に気をつけなさい。」とも言われています。見分けること、判断することは大切なんです。ただ、上から目線でさばくなということ。さばくときには、指摘するときには、慎みを持って、自分も一緒にそこでさばかれるというような、まず自分の目から丸太や梁を取り除きつつの、愛のある指摘が必要だということですね。

「さばいてはならない。」という言葉がインパクト強く目に入ってくるので、ここだけ切り取って「他人のことに口出しをしない。」とか「悪いことも見逃すように。」という意味だと思ってしまいがちですが、聖書はそんなことは言っていません。批判したり、指摘したりするべき時はあります。ただ、その時に自分の罪、自分の弱さをも弁えることが大切なんですね。

いずれ読むことになりますが、マタイの福音書18章15節にこうあります。「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。」兄弟を得る、つまり交わりのために、罪を指摘することは大切なことなんです。ただ、それも交わりのこととしてなされるべきですね。

つまり、批判をする時に、自分はどこに立っているのかという問題です。上から目線で批判するのか。外から、責任のない外野として批判するのか。そうではなくて、自分も共に立って、そこで共に神さまを見上げるような、交わりとしての指摘ができたらいいですね。

<イエスさまの姿>
ヨハネの福音書8章にこんな話があります。1節〜11節「・・・」

少し解説が必要な場面だと思います。モーセの律法では姦淫(つまり不倫ですね)は非常に重いこととして捉えられていました。結婚とは個人の恋愛のことに留まらず、共同体の基盤になるものだったからです。それを壊す姦淫には処罰が定められていました(レビ20:10)。ただし、律法とはそもそも、むやみやたらと処罰するための制度ではありません。ここは誤解されやすいところだと思いますが。処罰をする際には二人以上の証人が求められ、しかも証人が最初に石を投げるという厳しい条件がありました(申命記17:6,7)。感情的な処刑で軽々しく死刑にはできない仕組みになっていたのです。

問題は、律法学者とパリサイ人たちがイエスさまを陥れようとして、罠にはめるためにこの律法を持ち出しているということです。「この女を死刑にするべきですか」という問いにどう答えても、彼らはイエスさまを捕らえることができたわけです。律法違反のことを言ったらもちろん捕らえられるし、死刑にすべきだと答えれば「この男は神の愛などと言っているが、やはりこいつもこの程度だ」と民衆に訴えかけることができるわけです。イエスさまを罠にかけるために律法を持ち出しているわけです。レビ記に記されている姦淫への処罰は男と女に対するものでしたが(20:10)、ここで引き出されているのは女性だけです。恐らく罠にはめて連れてきたのです。彼らには、律法の精神などどうでもよくて、イエスさまを訴える口実が欲しいだけだったのです。

しかし、ここでイエスさまの答え方がとても印象深い。有名な場面です。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」石を投げられる人はおらず、一人、また一人と去って行ったのでした。自分も罪人だと示されたからです。10節からもう一度読みます。「イエスは身を起こして、彼女に言われた。『女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。』彼女は言った。『はい、主よ。だれも。』イエスは言われた。『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。』」最後のことばからも分かるように、イエスさまは罪をなかったことにはされません。なあなあにされたわけではない。しかし、断罪もなさらない。罪のない人から石を投げるというのなら、イエスさまこそ一番先に投げられるお方です。しかし、投げなかった。イエスさまは断罪するためではなく、赦し、救うために来られたお方だからです。

罪を指摘したり、弱さを指摘する時というのはあります。その時に思い出すべきはイエスさまのこの姿ですね。私たちはこのイエスさまに赦されている。イエスさまのの十字架によって罪が赦されています。私たちが受けるべきさばきは、イエスさまが受けきってくださったのですから、なおさらのこと、自分も相手と同じ立場に立った愛のある指摘が大切です。

<他人を踏み台にしなくていい>
私たちはなぜ人をさばいてしまうのでしょうか。自分を振り返ると、さばきまくっているなと思うわけですよね。指摘すること、批判すること自体は大切なことですけれども、上からさばく癖が私たちにはあるように思います。そこにあるのは「自分はそうではない」という思いですね。自分は正しいという思いがあるから上からのさばき方になる。人をさばける、このような指摘ができる、ということ自体で自分の正しさを証明しようとするのかもしれません。しかし、私たちが正しいとされているのは、義とされているのは、信仰的、宗教的に正しい振る舞いができるからではなくて、イエスさまの十字架で赦されたからです。あの人をさばき、この人をさばいて、そのことで自分の正しさを証明しようとしなくていい。自分はイエスさまにこれほど愛されているということを知ると、わざわざ他人をさばかなくても満足できるようになります。

私たちは、他人をさばくことで自分の正しさを証明しようとします。でも、そういう証明の仕方をしなくてもいいのです。私たちの天の父が、私たちを受け入れてくださっているのですから。自分で証明しようとする正しさによってではなく、イエスさまの十字架の血潮によって、私たちは神の子とされているのですから。他人をさばくということを用いて、つまり他人を踏み台にして自分の正しさを証明する必要はありません。何かを利用して自分の正しさを証明しようとしなくていい。イエスさまに赦された者として、私たちはもう少し自由に、もう少しへりくだって、人を見ることができるようになるのではないでしょうか。

普段の自分の胸の内を振り返ると、どこまでも上から目線で、安全なところから、外から批判するものだなと思わされます。自分の正しさに自信がないから何かを利用して自分の正しさを証明しようとするということに気付かされた時、いたたまれない思いになりました。でも、天の父が私たちのことを受け入れてくださっているから、もうそういう頑張り方をしなくていいんですよね。『霊的成熟を目指して』の本の内容に戻っていくような、そんな思いでこの箇所を読ませていただきました。

はじめに、山上の説教が語られたガリラヤ湖畔というのは、人々の生活の場だったと言いました。生活の場で、私たちは問われます。さばくのか、さばかないのか。愛のある交わりとしての指摘をするのか、それとも上から目線で断罪するのか。世の中は上から目線でさばく生き方や、外野から無責任に批判する生き方があふれていますが、地の塩として、世の光として、私たちはイエスさまの言われたあり方へと邁進していきたい。イエスさまの十字架で赦された者として、周りの人に仕えていきたい。聖霊がそのように私たちを導かれます。その導きに、かすかな主の御声に、しっかりとついていこうではありませんか。

ーーー

「イエスは言われた。『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。』」ヨハネ8:11

私たちを救うために来られた主イエス・キリストの恵みと、
キリストの十字架のゆえに私たちを義(正しい)と見てくださっている父なる神の愛、
そして主が示された生き方へと私たちを導き続けてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

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【3/1】

マタイの福音書6章25節〜34節

「神の国と神の義を」

引き続き、山上の説教を読み進めていきましょう。

<ですから>
25節は「ですから」と始まります。つまり、直前からの流れ、文脈が大切です。振り返りますけれども、直前の内容とは「天に宝を積みなさい。」というものでした。それは地上での生活を劣ったものとみなした言い方ではありません。地上とは大切なところです。地の塩として、世の光として、神さまのみこころが地でも行われますようにと祈りながら、私たちはここで生きていきます。山上の説教ではそのことが大切に語られてきたわけです。ここで「宝」というのはおそらく、当時の人たちの生活必需品のことが言われていますが、それらを持つこと自体が否定されているのではなくて、地上での生活を大切にし、必要なものは働いて得ながらも、それらに安心・安全の根拠を置くのではなく、神さまから安心・安全は来るのだということを忘れない。私たちの必要を満たすあれやこれ、仕事をして得た糧それ自体ではなく、神さまご自身を信頼することが言われています。それが天に宝を積むことです。今日の箇所はまさにその流れです。

また、22節では、天に宝を積むことが「健やかな目を持つ」と表現されていました。ここには「気前よく分かち合う」という意味があります。神さまが与えてくださるのだから大丈夫だと信じて、神さまが私たちに日ごとの糧を与えてくださるそのみわざに参加するのです。天に宝を積むという表現は、神さまの働きのために捧げるという意味で使われることが多いわけですが、神さまご自身が養ってくださることを信じて、神さまに信頼して、分かち合う心でなすのです。もったいないなと感じながらでは天に宝を積むことにはなりません。25節、神と富の両方を大事にすることはできないからです。

<何を食べようか、何を飲もうか>
そのままの流れで、「ですから」と25節につながっていきます。「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と心配するのはやめなさいと。繰り返しますが、地上の生活、日々の生活はないがしろにしろということではないのです。健康に気を遣うことや、服装に気をつけることは大切なことです。ただ、「心配するな」ということ。「心配する」とは、心が分かれて分散することですね。思い煩いとも訳されます。あれが気になって、これが気になってという、そういう心配の仕方はしなくていいんだよということです。それらが私たちを養うわけではないから。それらが私たちの安全を守るわけではないから。究極的には、それらを与えてくださる神さまが養ってくださっているのだと思い出し、弁え、あちこち心を分散させるのではなく、神さまに一点集中で信頼し、感謝していきなさいということですね。

これが語られた状況を思い浮かべると、これはすごいことが言われているなと思うわけです。これは一世紀のイスラエルに生きた普通の人々、市井の人々に対して言われたことばです。私たちは飽食の時代、いわゆる先進国と言われる二十一世紀の日本に生きていてあまりピンとこないのですが、これはその日の生活、その日の食べ物にも事欠くような状況の人々に対してこう言われているんですよね。彼らはなんとかしてその日の食べ物を得なければならないわけです。しかし、そんな彼らに「心配するな。思い煩うな。」と言っておられる。これはかなり厳しいことばにも聞こえます。ただ、聖書はマルかバツかで正解を迫ってくる書物ではないです。確かにここは命令形で書かれている文章ですし、心配するなとイエスさまは言っておられるんです。ただ、それは「心配する必要はない」からなんですね。

それは天の父が養ってくださるからなんです。

<目的と手段>
25節後半でイエスさまは「いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のもの」と言われました。食べ物も着る物も大事な物なのですが、食べ物よりもいのちそのものの方が大切です。着る物よりもからだそのものの方が大切です。それが逆になってしまってはいけないですが、私たちは容易に逆にしてしまうんですよね。

私たちは目的と手段を逆にしてしまい、手段にすぎないものをもったいなく思い、固執してしまうことが多いように感じます。たとえば、健康管理ということがあるかもしれません。健やかな生活をするために健康を管理するということがあります。それは大切なことです。健やかな生活をするという目的があります。でも、「健康が崩れたら終わりだ」という恐れでいっぱいになって、健康管理のためにとなすそれらのことに追いかけられるようになったら、逆に体調を崩してしまうでしょう。目的と手段は逆になってはならないし、手段に過ぎないものに心を奪われていてはならないわけです。当たり前のように聞こえますが、渦中にある本人はなかなか気づけないことだと思います。だからこそ、イエスさまは「そのような心配の仕方はやめなさい。」と声をかけてくださっているのです。天の父が養ってくださるので、心配する必要はないからです。

<空の鳥>
26節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」ここは有名な箇所ですね。イエスさまが話しておられる時に、ちょうど鳥が飛んでいたのでしょう。それを見なさいと、その場でイエスさまが機転を利かせて、私たちにわかりやすいように話してくださった場面です。28節の野の花についてもそう。山上の説教が語られているこの小高い丘に、花が咲いていたのですね。目の前の出来事をそのまま用いて、わかりやすく伝えてくださるイエスさまに倣いたいですし、そもそも、最近鳥や花を見ましたでしょうか。神さまの恵みを表すものは、身近なところにたくさんありますね。

その上で、26節の中心は「天の父が養っていてくださる」というここです。いつも言うことですが、神さまは父のようなお方なのではなく、神さまが本来的に私たちの父なんです。人間の父親のように養ってくださるのではなくて、神さまが本来的に私たちを養ってくださっているのです。空の鳥は「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。」これは怠けることを推奨しているわけではないですね。鳥は鳥なりに頑張って生きています。しかし、人間のように効率的に農業ができるわけではない。蓄えることなんてできない。それであっても鳥はああやって守られている。「あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」これは小さいものですらそうなのだから、いわんや大きなものならなおさらだという、ユダヤの言い回しです。自然環境の中で人間が一番上だというような話題ではなくて、神さまは「あなたを」養ってくださるというイエスさまの断言なんです。

ガリラヤ湖畔の小高い丘でイエスさまの話を聞いていた人たちは、鳥のように明日の保証はない人たちでした。みなが、その日の仕事がなければ食べられないという緊張感を持っていました。ある意味では、今の私たちもそうです。生活レベルという意味では比べ物にならないほど安全で裕福な時代ですが、先の見えない不安を誰もが抱えています。むしろ、不安は複雑化しています。しかし、それでもなお、神が天の父であることは変わらない。神が天の父であることは変わらない。

私たちはどうしたって心配してしまうものです。これで本当に大丈夫だろうかと心配です。不安です。私もそうだし、みなさんもそうでしょう。その解決のために必要なのは考え方を変えることではなくて、天の父の存在を受け取り直すことです。私たちの不安、心配の解決のために必要なのは考え方を変えることではなくて、天の父の存在を受け取り直すこと。神さまが、あなたを養っていてくださる。この方は私たちの天の父だということを、受け取り直していくんです。

27節「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」少し皮肉というか、ユーモアを効かせて言っておられると思います。脚注にもありますが、ここで「少しでも延ばす」というのは距離を表すことばになっていて、約44センチのことです。いのちを44センチ延ばすというのはおかしな話です。イエスさまがにやりとしながら、目くばせしながら話してくださっているその視線を感じたいのです。

<野の花>
28節からは「野の花」についての話です。先ほどは「生存の不安」「生活の不安」という話でしたが、今度はいわば「価値の不安」という話だと思います。「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。」

飾っていないと不安、このように自分を見せていないと不安、そういった不安から、私たちは自分を隠して、いわば着飾っていきます。本来の自分では価値がないと思うから。でもイエスさまは野の花を指して言われるんです。野の花を見なさいと。働きもせず紡ぎもしない。それでもこの花の美しさには、あのソロモン王でさえ及ばない。ソロモン王は人間の栄華、栄光の頂点に立ったとも言える人です。しかし、この花の美しさはそれ以上だ。明日は燃やされてしまうようなこの野の草さえ、神はこのように養ってくださるのだから、いわんや、あなたのためにはもっとよくしてくださる。神さまが装ってくださるのだから心配する必要はないのです。明日は燃やされてしまうような野の草さえ、です。神さまは、取るに足らない(と思われる)ものをも美しく装ってくださる。私たちは自分のことを勝手にとるに足らないと思ったり、自信がなかったりするわけですが、野の草さえ、このように美しく装ってくださる神さまが、私たちのこともきれいに飾ってくださることを覚えておきましょう。自分であれこれ着飾る必要はないんです。

このように、花の話は「価値の話」「美しさの話」で理解してよいのと同時に、一世紀の人たちにとって「何を着るか」というのは私たちの想像以上に、これもまた生活に直結した問題、生存に直結した問題でもあったことを抑えておく必要があるでしょう。衣服は寒さを凌ぐために大切なものでした。イエスさまが十字架上にかかられた時兵士たちがイエスさまの着物と下着を分けたという話がありましたよね(ヨハネ19:23-24)。衣服は貴重なものだったんです。その意味では、先ほどの鳥の話と同様に、生存の不安、生活の不安の話でもあります。どちらにせよ、父なる神が私たちを養ってくださる。そして、私たちを飾ってくださる。なぜなら、神さまは天の父だから。このことをしっかりと覚えておきましょう。

30節、イエスさまは「信仰の薄い人たちよ。」と言われます。これは叱責ではなく励ましです。聖書は私たちを励ましてくる書物です。神さまは、私たちが生活の不安を抱え、生存の不安を抱え、価値の不安を抱えていることをよくよくご存じです。その上で、励ましてくださっている。先ほどの「心配するな」と同じです。大丈夫だから。心配する必要はないから。それと同じです。イエスさまのまなざしを思い浮かべてみてください。天の父が養ってくださるから大丈夫。安心して天に宝を積もう。そうやってこの地を生きよう。主は私たちを励ましてくださっているのです。

<異邦人の心配>
32節、異邦人というのは、ここでは神を知らない人たちという意味です。しかし、あなたがたは天の父が養ってくださっていることを知っている。彼らは天の父が養ってくださることを知らずに不安で振り回されているけれども、でもあなたがたは知っていますよね、ということです。だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかとしって心配しなくていいんだよということです。

繰り返しになりますが、これはメニューを考えることとか、おしゃれを楽しむことを否定しているわけではありません。どうぞ、美味しいものを食べてください。おしゃれを楽しんでください。ただ、それらが神さまから来ていること、神さまが養ってくださっていることを弁え、分かち合う心を持ちましょう。私たちはそうやって天に宝を積むのです。

<神の国と神の義を>
32節後半には大きな励ましの表現があります。「あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」神さまは私たちに食べ物が必要なこと、衣服が必要なことを知っていてくださる。そして私たちがどれほど自分をはかない存在だと思っていても、神さまはそれらを与えて養ってくださる。私たちを装ってくださる。

だから33節「まず神の国と神の義を求めなさい。」なのです。神さまを信頼して、必要の全ては神さまが与えてくださることを信頼して、あえてそれらではなくまず神さまご自身を求める。まず神の国と神の義を求めていいんです。大丈夫なんです。神さまの御国のために私たちは祈ってきました。主の祈りはその祈りです。御国がこの地に広がるように。神さまの御心がこの地になるように。自分自身のこととしてあれこれ心配なことはありますが、天の父が与えてくださるから。大丈夫だから。私たちは安心して神の国を求めて祈っていっていい。

「そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」私たちが天に宝を積む時、地の塩・世の光として生きる時、神さまは私たちの必要も全て備えていてくださいます。これは、必要のためには祈らなくていいということではないんです。信頼の比重の置き方の話ですね。あれこれ心配しないで、地の塩・世の光として生きることに集中するとでもいいますか。それが私たちのなすべきことだったはずです。「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世の光です。」これは何かを成し遂げて立派になった弟子たちに言われたのではなく、弟子になりたての、まだまだ頼りない人たちに言われたことばです。イエスさまは私たちにも声をかけてくださいます。その御声に応答して、御国の者としてこの地で生きることこそ、私たちの一番の関心事だったはずです。そのための祈りに集中して大丈夫です。必要なものは神さまが与えてくださいます。

<明日のことは明日が>
34節「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」先を見通すのは大切なことではあるのですが、その日その日を丁寧に生きる。今日この日を、この時を懸命に生きる。それこそが大事なことなんですよね。

あれこれ心配することの延長に、明日を心配するということがあります。もちろん、用意して備えるべきことはあります。テストの前日にはしっかりと復習をしておくべきです。大きな仕事がある日の前日は、しっかりとイメージして必要なものを用意するべきです。でも、前の日に、つまり今日のうちにできることをしっかりしたなら、それ以上のことは明日のことです。今日の分の苦労をしっかりと味わい、引き寄せ、それに取り組んだなら、明日のことは神さまにお委ねする。明日を守ってくださる天の父にお委ねする。そうやってこの地上を歩んでいくんです。

そのはるか先に、神の国の完成があります。それがいつかはわかりません。しかし、今、私たちはここで、すでに神の民として生かされています。ここで、この地で生かされています。はるか先のことは希望として見据えながら、今置かれているここで、地の塩として、世の光として、今するべきことを、一つ一つ丁寧にさせていただきましょう。
ーーーー
「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。」ヘブル10:19

私たちに寄り添い、わかりやすく語りかけてくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちの必要を知っていてくださり、与えてくださる父なる神の愛、
そして、神の国の者としての今ここでの生き方を助け、導いてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。
アーメン

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【2/22】

マタイの福音書6章19節〜24節

「天に宝を」

主の祈りを挟んで、山上の説教も後半に入ります。14節〜15節は「負い目の赦し」の時に扱い、16節〜18節は以前、「三つの善行」(施し・祈り・断食)の時にまとめてお話ししましたので、今日は19節からになります。

<宝とは>
19節「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。」何か、贅沢を戒める清貧の教えのようにも聞こえる箇所ですが、注意して読むと、20節でも21節でも、「宝」の存在そのものは否定されていないことに気が付きます。この箇所は、宝とか富を持つこと自体を否定しているわけではなさそうです。

ここで言われている「宝」とは何でしょう。「宝」というと「大切なもの」というニュアンスが入ってきますが、ここで言われているのは、むしろ「必要なもの」のようです。虫がつく、錆がつく、そして盗まれるというのですから、これらは衣服や金属、そして貯蓄のこと。別の言い方をすれば、「生活に必要なもの」と言えます。当時の人たちにとっては必要なものであり、同時にとても高価なもので、その意味ではまさに「宝」だったのだと思います。それは生活を支えるものであると同時に、蓄えられれば「富」にもなっていくものでもありましたが、まず確認したいこととしては、そういったものを持つなと言われているのではないのです。ただ、20節、それを天に蓄えなさいというのです。

<天に蓄える>
地上ではなく天に蓄える、これも不思議な表現です。これは、生活に必要なものを全て手放して、世捨て人のようにして生きろということでしょうか。そうじゃないですよね。天とは神さまのおられるところですし、私たちはそこに目を留めて生きるのですが、私たちは「地で」生きています。そして「ここに」神さまのみこころがあらわされるようにと祈ってきた、まさにそういう文脈です(6:10)。天に宝を蓄えるとは、地上での生活を顧みずに世捨て人になるということではありません。必要なものを用いて地上の生活をやりくりすることは大切なことです。聖書は、働いて生活に必要なものを得なさいと伝えています(1テサロニケ4:11-12など)。

大切なのは21節です。「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」つまり、心をどこに置くか、心をどこに向けるかという問題ですね。地上の生活に必要なものを大切に扱うことは大事なこと。それらをやりくりして生活していくのは大切なことです。ただ、それらが私たちを守ってくれるわけじゃない。それらが私たちを生かし、導いてくれるわけじゃない。そのことをいつも弁えておきなさいということですね。マタイの福音書6章はこの後、25節以降や特に31節〜33節にあるように、神さまが私たちを養っていてくださり、必要を与え、この地上の生活を守ってくださる、だから神の国と神の義をまず第一に求めていきなさいと続いていきます。

「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もある」、繰り返しますが、宝とは日々の生活の必要でもあるわけです。それらに依存してしまうことがよくないわけですね。それらは必要なものであるが故に、安心の拠り所になってしまいます。しかも、それが蓄えられて「富」としてまとまってくると、余計に安心感を与えるように思える。でも、安心とは、平安とは神さまからくるものです。

以前も開きましたが、箴言30章7節〜9節「二つのことをあなたにお願いします。/私が死なないうちに、それをかなえてください。/むなしいことと偽りのことばを、/私から遠ざけてください。/貧しさも富も私に与えず、/ただ、私に定められた分の食物で、/私を養ってください。/私が満腹してあなたを否み、/『主とはだれだ』と言わないように。/また、私が貧しくなって盗みをし、/私の神の御名を汚すことのないように。」結局、所有しているという安心感にしか目が向いていないと、それが足りなければ盗みをしてしまうし、有り余るほどであれば「主とは誰だ」などと豪語してしまうわけです。与えられる一つ一つは感謝なものですけれども、それらを与えてくださる神さまご自身から平安をいただいていきたいのです。私たちの心はどこにあるでしょうか。私たちの心はどこを向いているでしょうか。

<義の関係>
つまり、ここでも神さまとの正しい関係性、「義」の関係性が問われているのです。6章1節では「人前で善行をしないように」と言われていました。つまり人目を気にして義の行いをするなということです。義の行いとは神さまとの関係ゆえのものだからです。今日の箇所も神さまとのあるべき関係性について述べられています。神さまが私たちを守ってくださるお方だからです。宝があるから、所有物があるから安全なわけではない。力があるから安全なわけではない。それらが私たちを守るわけではないです。

私たちが心を奪われる「宝」とはなんでしょう。それらは確かに必要なものでしょう。しかしそれに心を奪われてはならないのです。詩篇20篇7節「ある者は戦車を ある者は馬を求める。/しかし私たちは/私たちの神 主の御名を呼び求める。」以前の翻訳では「呼び求める」というところが「誇る」となっていました。理由があって改訂されてはいるのですが、両方のニュアンスで読み取りたいと思います。私たちは何を誇るのか。何を求めるのか。それは戦車や軍馬ではなく、主の御名だというのです。

今日の箇所は地上の生活の否定ではないとお伝えしましたが、だからこそですね。地上の生活の必要に囲まれて、あれもこれも必要だと握りしめて、そこに安心してしまい、神さまが助けてくださっていることを忘れてしまう。目の前の必要に振り回されてしまうのが私たちです。

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あれが必要だ、これが必要だと振り回されていて、神さまが守ってくださることを忘れていると、私たちは不安に陥ります。今、多くの人が戦車や軍馬を求めるのは、今が不安な時代だからでしょう。このような時代に、では地の塩・世の光としてこの社会に仕える私たちは、どのように振る舞えば良いのでしょう。私たちは何を求め、何を誇るのでしょう。私たちのために十字架でいのちを捨てられ、そしてよみがえられたイエス・キリストの御名を誇る。この方が私たちの平和であり、喜びである。私たちを養ってくださる方である。そんな生き方を、今こそ証しなければなりません。

<からだの明かりは目>
22節、23節はここまでのことを別の角度から言い表しています。21節では「あなたの心はどこにあるのか。」と問われましたが、22節では「あなたの目は何を見ているのか。」と問うています。私たちは、神さまのみわざを見据えているでしょうか。それとも、自分の宝、自分の必要そのものに釘付けになってしまっているのでしょうか。

22節に「健やかな目」という表現がありますが、これは単一な状態、分裂していない状態を意味することばです。対して23節の「悪い目」は分裂している状態のことですね。私たちの目はどうでしょう。健やかでしょうか。神さまを見上げる視線があちこちに分裂していないでしょうか、分散していないでしょうか。

また、「健やかさ」には「気前の良さ・寛大さ」という意味もあります。宝を分かち合うことができるか、これも鍵ですね。逆に「悪い目」は妬み深いとか、けちという意味になります。けちであれば分かち合うことはできません。主の祈りの「私たちの日ごとの糧を与えてください」という部分でも触れましたが、与えられているものを分かち合う姿勢が問われています。それも天に宝を積むことだというのです。

23節「目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」地の塩、世の光として生きていくときに、私たちはどんな目で、何を見るのでしょうか。神さまのみわざを見据え、与えられているものを分かち合っていく、そのような目線、そのような視線でこの地上を、この社会を見回していくことが必要です。「天に宝を積む」と言うと、神さまの働きのためであったり、人々の必要のために自分のものを捧げていくことをそのように表現するわけですけれども、まさに「分かち合う心」「分かち合う目」が大事なんだということですね。それはまさに主の祈りの「私たちの日ごとの糧」という祈りにもつながってくることです。

たまに思い出すことがあります。若い頃、何人かの人から「あなたは目がいい」と言われたことがありました。職場の関連企業の見学に行った際に、「今年の新入社員は目つきがいい。」と褒められたんです。また、学生時代、自閉症の男の子の外歩きに付き合って電車に乗ってくるということを毎週していたのですが、そこで出会った人に、「あんた、いい目をしてるよ。」と言われたことがありました。合唱仲間の友人から言われたこともありました。今の自分はどうだろうとたまに考えます。今、彼らの前に自分が立ったときに、相変わらずいい目をしてるねって言ってもらえるだろうか。たまに考えるのです。自分がイエスさまを見上げ、イエスさまのみわざに目を留めていて、その視線が人々に何らかの証を残せていたのなら感謝であると同時に、今の自分はどうだろう。自分はあちこち分散させずにまっすぐにイエスさまご自身を見上げているだろうか、与えられているものを人々に分かち合う姿勢でイエスさまを見上げているだろうか、問われています。みなさんはいかがでしょうか。

<神と富と>
さて、24節に来て、これまで「宝」と呼ばれ、この地上の生活に必要なものとされてきたものが「富」と言い換えられます。この節では、それはもはや必要なものとは言えず、否定的な意味で言われていますよね。

必要なものも、それが蓄えられて富になると、偶像になってしまうことがある。この「富」とはマモンという言葉です。拝金主義のことをマモニズムと呼びますが、ここから来ています。

「だれも二人の主人に仕えることはできません。」というわけですが、「二人の主人に仕えてはなりません」ではなく、「仕えることはできません」だということに注目すべきでしょう。そもそも、二人の主人に仕えることはできないのです。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。それと同じように、神と富を両立させようとする時、私たちはすでにどちらかを軽んじているわけです。神にも富にも仕えるということは、そもそも成立しない話なんですね。

地上の生活の必要であっても、それが偶像になってしまったら、その時点ですでにそちらに心を奪われているのです。特にそれが蓄えられて富になっているなら、要注意です。私たちはそれらの一つ一つではなく、それらを与えてくださる神さまに目を留め、この方に感謝を捧げていこうではありませんか。

神さまは、私たちがこの地を生きるための必要を分かっていてくださいます。だから、まず神の国を求めていくのです。神さまのみこころが天でなるごとく地でも行われていくように。そして神の義を求めていくのです。私たちが神さまとのあるべき本来の関係に生きることができるように。私たちはどうしても宝を握りしめてしまうし、不安に引き寄せられて神さまご自身を見失ってしまうものです。だから、主はこのように励ましてくださっているんだという視点を大切にしたいですね。不安を感じる自分はダメだとか、握りしめて放すことができない自分、分かち合うことができない自分はダメだという、そのような聖書の読み方ではなくて、こんな自分のためにイエスさまが来てくださったのだということ、そして目を天に向ける生き方、天に宝を積む生き方に招いてくださっているんだ、聖霊がそれを助けてくださるんだという励ましを受け取っていきたいのです。次回はそのことをさらに深めていくことになります。


ーーー
「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:18-19)

天に宝を積むようにと教えてくださった、私たちの主イエス・キリストの恵みと、
私たちの必要を知っていてくださり、与えてくださる父なる神の恵み、
そして、私たちの目を開き、神のみわざそのものに目を留めさせてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週も、お一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン

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【2/15】

マタイの福音書6章13節脚注

主の祈り⑧

「国と力と栄えは」

<主の祈りの頌栄>
今日で主の祈りの箇所を終えます。8回目の今日は最後の頌栄の部分です。頌栄というのは、礼拝の最後の賛美もそう呼ばれますが、神さまの栄光をほめたたえるということです。そうやって祈りや礼拝自体を終えるための、ある種の「締めの言葉」とでも言えるでしょうか。主の祈りは「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」というこの頌栄のことばで閉じられるわけですよね。

ところで、私たちが使用している新改訳2017の聖書ではこの頌栄の祈りは聖書の本文ではなく、脚注に収められています。第三版など前の版をお使いの場合は、括弧書きになっているでしょうか。実は多くの日本語訳聖書で同様の扱いになっています。脚注の説明を見ると、この部分は後代の写本に出てくる、つまり最古の写本にはこの部分はないということがわかります。

これは少し説明が必要な部分だと思います。新約聖書はもともとギリシャ語で(そして旧約聖書はヘブル語と一部アラム語で)書かれているわけですが、オリジナルの原本というのは残っていません。ただ、教会の歴史の中で書き写されてきた写本というものが、ギリシャ語で書かれた新約聖書の写本だけでも5800点以上見つかっています。ほぼ丸ごとの写本もあれば、断片しかないものもある。時代によって巻物だったり、羊皮紙を閉じてできた本だったりもします。

死海写本イザヤ書.png

↑これは有名な死海写本から、旧約聖書のイザヤ書です。紀元前二世紀の巻物です。(Digital Dead Sea Scrollsプロジェクトのサイトより

↑こちらは四世紀のシナイ写本から、ルカの福音書です。こちらは本の形で羊皮紙が束ねられていたものになります。(Codex Sinaiticusプロジェクトのサイトより

かなり貴重なものなので、失われていかないように、デジタルスキャンなどあらゆる技術を駆使して保管されています。このような古代の写本がたくさん見つかっていて、そこに書いてある本文を比較検討しながら、オリジナルの本文を復元していくわけです。聖書はある日突然、完成形として生まれた書物ではありません。神のことばが人のことばで記された以上、そこには時の流れという制約があります。文法や解釈の問題だけでなく、写本の問題も出てくるのです。それでも、神さまはわざわざ人のことばを用いられました。それは、私たちが人のことばでそれを読めるためです。しかも私たちは、それをさらに日本語に翻訳したものを読むことができます。これがどれだけ感謝なことであるか、折に触れて思い出したいものです。

さて、その写本の本文を比較検討する際には、一番古くて、かつ保存状態が良く内容が明確な写本が重要になってきます。それが一番オリジナルに近い可能性が高いと判断できるからですが、なんと、新約聖書の写本としては最古級の重要写本、四世紀のもの二つには主の祈りにこの頌栄が含まれていないのです。しかし、五世紀以降の多くの写本では、この頌栄が本文として受け継がれていきます。

では、この頌栄は後の時代のものなのかというと、そうではない。実は、イエスさまの時代にかなり近い一世紀末から二世紀初頭の教会の文書に、この頌栄を含めた形で主の祈りが載っているんです(「十二使徒の遺訓」)。この頌栄の祈りは、一世紀には礼拝の中ですでに主の祈りの一部として用いられていました。それが時を経て、やがて写本の中にも取り込まれていったと考えられます。

聖書本文の翻訳作業そのものとしては、オリジナルに近い古い写本の本文を翻訳しようとするのは当然のことですから、多くの翻訳聖書はここを本文には含めていないわけですが、括弧付きで、もしくは脚注に示すことで、聖書が成立してきた歴史を踏まえているわけですね。脚注扱いだからとか、括弧付きだからと言って身構える必要はなくて、私たちも歴代の信仰の先輩たちに心を合わせて、この頌栄のことばを味わい、共に祈りたいと思います。祈り続けていきたいのです。

<キリストのからだを建て上げる>
この頌栄の部分を、主の祈りに含めて祈り始めた彼らの念頭にあっただろう聖書の箇所があります。第一歴代誌29章11節〜13節です。ダビデが神殿建設の準備を終えた時に祈ったものです。「主よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものを支配しておられます。あなたの御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてのものが偉大にされ、力づけられるのです。私たちの神よ。今、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。」

まさに主の祈りの頌栄と同じ内容です。ダビデがこのように賛美をしたのは、神殿建設の準備に際してでした。そして、それが歴代誌という形で旧約聖書にまとめられたのは、人々がその神殿を再建しようとしている時代です。さらに、主の祈りにおいて頌栄を祈り出した初代教会というのは、キリストのからだである教会を建て上げる人たちでした。神殿が建てられる時、神殿が再建される時、そしてキリストのからだである教会が建て上げられるときに、この頌栄が祈られてきたんです。私たちもそうです。キリストのからだである教会を通してこの地に神の国を建て上げていく私たちも、これを祈るのです。

<神の国のアイデンティティーで仕える>
背景の説明が長くなりましたが、では、内容を見ていきましょう。「国」とは「御国」、つまり神の国のことです。「力」も「栄光」も神の国の力と栄光を指します。主の祈りは最初から最後まで神の国のテーマで貫かれています。最後なので、振り返りのような内容になってきますけれども、神の国、御国、それが主の祈りのテーマなのでした。「御国が来ますように」、「御心が天で行われるように、地でも行われますように」、と私たちは祈ってきたのです。この地に神の国が広がるように、つまり神さまの臨在、神さまのプレゼンスを十分に感じられて、それが実際にあらわされていくような世界になっていくようにと祈ってきたのです。

日ごとの糧が与えられるのも、赦す生き方に導かれていくのも、そのためです。神の国を求める主の祈りは決してあの世への逃避の祈りではなく、私たちが今置かれているこの地を意識します。この地に、この社会に、私たちは仕えるのです。ここに神さまの御心があらわされていきますようにと。主の祈りはそういう祈りです。もちろん、はるか歴史の先にイエスさまの再臨、神の国の完成、新天新地を仰ぎ見ながら、同時に、今生かされているこの時、この地で神の国の者として生きるのです。神の国のすでにといまだ、ですね。ここでの、今この時の私たちの生き方を守り導いてくださいという祈りです。地の塩として、世の光として、人々から分離するのではなく、そのただ中で生きるのです。そのために、神さまは私たちに日ごとの糧を与え、赦す生き方を教え、誘惑から守り、悪から救い出してくださるのですね。

それら今まで祈ってきたことの理由であり根拠となるのが、この頌栄の祈りです。神の国が来ますように。神さまのみこころのために私たちを生かし、用いてくださいますように。「なぜなら」、国と力と栄光は、とこしえにあなたのものなのですから、というわけです。こんなに力強い根拠があるでしょうか。どんなに不安なことがあっても、どんなに不安定な時代であっても、これが理由であるならば、神さまの栄光が根拠であるならば、私たちは絶対に大丈夫です。主はご自身の栄光のために、私たちを用いてくださいます。

<この世の国とのバッティング>
さて、そのようにして私たちはこの地に生き、この地に仕えるのですが、神の国に属するという私たちのアイデンティティーは時として、この世の国とバッティングすることも覚えておかなければなりません。国の指導者たちのために祈りなさいというのが聖書の教えですが(ローマ13章)、同時に、国家権力に立ち向かわなければならないこともあると聖書は教えています(黙示録13章)。国家が「公のために協力しろ。」と言ってくる時、もしくは世の中がそのような雰囲気になっている時、その「公」という言葉の意味が本来の「公共」ではなくて、ただ単に「お上」という意味になっているなら要注意です。

主の祈りに頌栄の部分を加えて祈り始めた初期のクリスチャンたちは、まさにそのような戦いの最中にありました。彼らがこれを祈り始めた時代というのは、ローマ帝国によるキリスト教徒迫害の歴史と重なります。「主」とか「救い主」という言葉はローマ皇帝を指すとされていた時代にあって、キリスト者たちは「私たちの主はイエス・キリストだ」と公言していました。それは権力側からしたら都合が悪いですし、邪魔な存在であるわけです。ほんの数十年前の日本でも同じことが起きていました。この世の国という枠組みにおいては、神ではないものが神として祭り上げられる。そして、それを拝まない人たちが迫害されるということが起こるのです。そんな時代に、この主の祈りの頌栄は祈られていた。祈られてきた。これは祈りであり、同時に信仰の告白になっているのです。

如何に、国が力をもって私たちの信仰に介入しようとしてきたとしても、そしてそれが彼らの言う栄光のためだったとしても、私たちにとっての国とはそんなものじゃない。私たちにとっての力や栄光はそんなことではありません。私たちの国籍は天にある(ピリピ3:20)。私たちは神の国の人間です。私たちの王は十字架につけられた神の子羊であるイエス・キリストである(黙示録7:9-12)。たとえ、どんなに難しい時代になっても、そこがブレないようにしたいのです。

私たちはこの世と分離するのではなく、どこまでも、この世の国のただ中で生きていきます。それは難しいことだと感じるかもしれません。荷が重いと思われるかもしれません。しかし、先ほども確認したように、これらのことの根拠こそが今日の祈りです。国と力と栄えは、とこしえに神さまのものです。聖霊がそのことにいつも目を開かせてくださり、私たちの歩みを確かなものとさせてくださいますように。

<主の祈りを祈りながら>
ここまで八回にわたって「主の祈り」をみなさんとともに味わうことが出来て感謝しています。私たちはこれを祈るときに神の国を待ち望む思いを新たにします。招きのことばで読んだヨハネの黙示録7章10節と12節にこうあります。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、/子羊にある。」「アーメン。賛美と栄光と知恵と/感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に/世々限りなくあるように。アーメン。」黙示録に描かれる王は子羊、つまり十字架につけられたイエスさまです。黙示録が描く王は、力でねじ伏せるような権力者としての王ではなく、十字架にかかって私たちのためにいのちを捨てた主なるイエスさまです。子羊こそが、黙示録が描くイエスさまのイメージです。やがてその方の王国が、神の国が完成する時が来る。私たちはこの希望から目を離さずにいたいのです。

やがてのその時を待ち望みながら、今はこの地に足をつけて、神の国の民としての歩みを全うしていきましょう。イエスさまが教えてくださった主の祈りを祈りながら。私たちを子としてくださった方に、私たちの「天の父よ」と呼びかけながら。その御名が聖なるものとされますようにと私たちは祈ります。主の御名、それは「わたしはある」というお名前です。私たちの救いとその後の歩みを力強く保証する、有無を言わさないお名前です。その御名を呼び、何度でも神さまのもとに立ち返るんです。それが主の祈りです。神さまのみこころがこの地にあらわされていくこと、やがて神の国が完成することを待ち望みつつ、今ここで生かされていく。聖霊がその生き方を助けてくださることを胸に刻みつつ、今日もそれぞれのところへと派遣されていきましょう。

ーーー
「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、/子羊にある。」「アーメン。賛美と栄光と知恵と/感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に/世々限りなくあるように。アーメン。」(黙示録7:10,12)

私たちに祈りを教えてくださった主イエス・キリストの恵みと
私たちを神の国の民として用いてくださる父なる神の愛
そして、地の塩として、世の光としての歩みを励まし続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

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【2/8】※一部、表現を修正しました

マタイの福音書6章13節

主の祈り⑦

「試みにあわせず」

主の祈りも終盤を迎えています。今日は13節の「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」という部分です。

<試練と誘惑>
まず13節前半ですけれども、「試み」とは何か。これは「試練」とか「誘惑」とも訳されることばです。ただ、試練と誘惑は違うものなので、文脈によって判断することが大切になってきます。「試練」とは私たちが直面する難しい状況です。あえて、神さまが私たちを訓練するために試練を用意されることもあります(ヘブル12:10-11)。神さまは私たちを耐えられない試練にあわせることはなさらない、脱出の道を備えていてくださるというみことばもあります(1コリント10:13)。訓練するための試練ですね。

 

主の祈りで扱われているのは「試練」ではなく「誘惑」のことになります。なぜなら、続きが「悪からお救いください。」だからです。試練と悪は本来セットになりません。試練とは外側の状況のことであるのに対して(しかも時には訓練のために必要な負荷だったりするわけですから。しかし)、誘惑とは私たちの内面に働きかけるものです。そして、それは悪に通じてしまう恐ろしさがあるのです。

<欲望と関連する誘惑>
主の祈りは「試練」に関するものではなく「誘惑」に関するものです。その上で「誘惑」は二つに整理されると思います。一つずつ見ていきたいのですが、一つ目の誘惑は自分の欲望と関連しているものです。私たちは誘惑を受けた時、それは自分の欲望が関わっていることが多いです。私たちは自分の欲に引かれて誘惑を受けるのです(ヤコブ1:13-14)。

欲があること自体は悪いことではありません。煩悩を捨てなければならないとか、禁欲的な生活をしなければならないというようなことを聖書は教えていません(例えば、創世記2:17も恵みによる配慮です)。聖書の教えは禁欲の教えではない。ただ、与えられている感情としての欲を、悪い方に使っていってしまう罪の性質について語っています(ヤコブ1:14-15)。よくそのものは悪いものではないのだけれど、そこから罪が生まれてしまう。悪の方向を向いてしまうということですね。そのように向かわせてしまう誘惑があるのです。

そもそものスタートが自分の欲に関連しての誘惑であるならば、そこから自由になることができるように、欲望で心を満たしていくのではなく、そこから距離を置いて切り離す工夫や決意が必要です。主の祈りで「誘惑からお守りください」と私たちは祈るわけですが、そう祈りながらも、欲望で心が満たされた状態を手放そうとしないなら、それは自分から誘惑されに行っている状態です。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」というみことばがありますが(ガラテヤ5:16)、歩むのは私たちです。実際に歩むのは私たち。欲望を切り離す、距離を置く決意が必要ですね。

欲望なんて言うと大袈裟に聞こえますが、身近なところに中毒は潜んでいます。最近ではスマホですよね。あの小さな画面から、映像、音楽、文字を通してあらゆる情報を得ることができます。便利なものですが、次々と表示内容を変えていくあの小さな液晶画面によって、私たち現代人の脳は相当なストレスにさらされているそうです。それでも、気がつけば四六時中触っているし、止められない。これはもう中毒ですよね。かと言ってテクノロジーを全く使わないのは逆の不自然でもあるわけですから、賢く適切な距離を取ることが大切でしょう。これは一つの例ですけれども、「実際に歩むのは私たち」と言った時には工夫、具体的な歩み方が必要です。​

センシティブな問題として依存症のこともあります。これは心の弱さというような話ではなくて、脳の病気であり、治療が必要な領域です。うつ病もそう。心の風邪ではなく、脳の風邪なんです。だから、精神論で何とかなるような話ではない。具体的な治療や療養、工夫が大切なんです。具体的、実際的な「歩み方」ということです。

そして、それらを踏まえた上で最終的には「御霊によって」なのだということ。「御霊によって」歩みなさいなのだということを忘れないでいたいのです。これらの「歩み」は最終的には自分の力、自分の熱心では無理なことであり、聖霊の助けをいただきながら、祈りながら歩むということが大切です。欲望を引き起こすものから距離を置くにせよ、必要な治療を受けるにせよ、御霊によって、聖霊の助けによって歩ませてくださいと祈りながらなすのです。私たちは自分の罪を、自分の欲望を、すべてイエスさまの十字架につけました。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」(ガラテヤ5:24)何度でも、何度でもそのことを思い出すのです。自分が直面しているこの罪も、この欲望も、イエスさまの十字架についたのだったと思い出すんです。これはもう死んだものであり、支配力は失っているんだと何度でも再確認しながら、お委ねして祈っていく中で、聖霊が私たちをつくりかえていってくださいます。

これが誘惑の一つ目です。自らの欲望が関係している誘惑です。それらに振り回されるのではなく、御霊の助けによって生活を整え、具体的な選択をしていけるように助けを祈り求める。主の祈りが扱っている「誘惑からの守り」にはまずこのような側面があります。

<どうしようもない誘惑>
ただ、もう一つの誘惑がある。自分の欲望とは直接関係がない、少なくとも関係がないように見える、そういう誘惑です。

創世記3章1節「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。」そもそも、なぜ、エデンの園に蛇がいたのでしょう。聖書はその点は明らかにしていません。サタンは最初は天使だったけれども、神に背いたということが伺える聖書箇所はあります(エゼキエル28章やイザヤ14章に、サタンのことを指すと解釈される箇所がある)。しかし、なぜ創世記3章の時点でエデンの園に、神さまの臨在あふれる場所にサタンがいたのか。そこはわからないのです。アダムとエバは自分から誘惑されに行ったわけではありません。先ほどの考え方で言えば、彼らにはもともと神のようになりたいという欲があったから、だから誘惑されたということになりますが、でもあそこを読む限り、少なくとも自分から求めて近づいたわけではないですよね。この世には悪がある。そして、ある日突然それが接触してくるということがあるのです。

もともとの欲なんてないところに、突然誘惑が来る。旧約聖書のヨブの例もあります。ヨブという人にはまったく落ち度はありませんでした。それでも神さまを呪うという誘惑にさらされました。これは彼に原因があったわけではないです。それは突然降り掛かり、背後にはサタンの働きがありました。しかし彼は誘惑には陥らず、神さまを呪うことはしませんでした。その代わり、激しく抗議し、嘆き、愚痴を言っているわけですが。このように、突然の誘惑、いわれのない誘惑にさらされながらもそれと戦ったヨブは信仰の勇者です。私たちはどうでしょうか。ヨブ記を読んだことのある方は、ヨブに降りかかった苦難がどれほど大きなものだったかお分かりでしょう。ヨブは財産がゼロになり、子どもが全員死亡し、病気になり、妻からは「神を呪って死になさい」と言われ、友人に責められ、何よりも神さまが沈黙しておられるという極限状態でした。聖書は、「だからあなたもヨブのように耐えて、耐えて、耐える信仰を持ちなさい」ということは言っていないと思います。それは福音ではないのではないでしょうか。ヨブの何を見習うべきかというと、苦しみに耐えたことではなくて、自分では全くどうにもできない出来事が降りかかる中でも神さまに愚痴を言い続けたその姿ですね。抗議し続けた、つまり祈り続けたという、そこです。祈りというよりも、むしろ抗議し続けたわけですが、まさに神さまとのことばのやりとりです。神とのことばのやりとりが、祈りが彼を支えたんです。ヨブは最後まで神を呪いませんでした。けれど、あれほどの苦しみの中で、同じように立ち続けられる人がどれだけいるでしょう。私には難しいなと思うわけです。でも、だからこそ主は、「頑張れ」ではなく、「祈れ」と教えてくださったのではないでしょうか。「誘惑からお守りください。悪からお救いください」と。

<主の祈りが与えられている恵み>
私たちを訓練するために与えられる試練と誘惑は違うという話を最初にしましたけれども、試練の陰に誘惑が潜んでいることもありますね。ヨブを襲った試練の陰に、神を呪って信仰を捨てるという誘惑が潜んでいたように。

誘惑は起こるのですが(それは一つ目のタイプにせよ、二つ目のタイプにせよです)、だからこそ、私たちには祈りが必要です。ヨブが神さまとのことばのやりとりをあきらめなかったように。そして、イエスさまが教えてくださったように。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:40)

イエスさまが祈りを教えてくださったこと、特に今日読んでいるこの「主の祈り」を教えてくださったことは、なんと慰め深いことでしょう。そして、なんと励ましに満ちたことでしょうか。

主の祈りを祈ることによって私たちは自分が整えられていくのだと、以前お話ししました。私たちは、自分からこういう内容を祈ることはなかなかないと思います。だからこそイエスさまはこう祈るようにと教えてくださいました。主はこの祈りを私たちの口に与えてくださった。私たちは、誘惑からお守りください、悪からお救いくださいというこの祈りを味わい、そのようにしてくださる神さまにお委ねしていくことができます。神さまが願っておられることは「ヨブのように頑張れ」ということではなく、「ヨブのように愚痴でもいいから、抗議でもいいから、祈ってごらん」ということだったのではないでしょうか。

そして、思い出していただきたいのです。主の祈りの後半は、神さまのみこころがこの地にあらわされていくための祈りでした。私たちが誘惑から守られ、悪から救われていくということは、神さまのみわざがこの地にあらわされていくこととダイレクトにつながっています。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」これは絵空事でもなんでもなくて、具体的な私たちの日々の生活の話です。私たちは誘惑から守られる生き方を証しながら、この地上で神さまのみこころのために、みわざのために用いられていきます(マタイ6:10)。だから、今日も主の祈りを祈るのです。これからも祈っていきましょう。

来週で主の祈りは最後になります。本文ではなく脚注になりますけれども、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」というここを扱うことといたします。

それではいつものように、みなさんで主の祈りをもう一度祈りましょう。

ーーー
「誘惑に陥らないように祈っていなさい」(ルカ22:40)

私たちに祈りを教えてくださった主イエス・キリストの恵みと
ことばのやりとりを通して私たちを守ってくださる父なる神の愛
そして、誘惑の中でも御霊によって歩むことを教えてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

 

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【2/1】

詩篇139篇23節〜24節

霊的成熟⑦

「天の父に自分を表現する」

本日は、久しぶりに『霊的成熟を目指して』の内容を味わい直すシリーズです。ここまでこの本を通して、私たちは神のかたちにつくられた、つまり神さまとことばでやりとりできる人格的な存在としてつくられていることを学んでいます。それが意味することは、私たちが神さまの声を聴き取ろうとするのと同様に、私たちの声も神さまに聞いていただく必要があるということでした。神さまはそれを願っておられます。私たちは自分のことば、自分の声を神さまに向けて申し上げることが大切なんです。そうやって神さまとことばのやりとりをする中で、私たちは神さまの御心がわかる人格に成長していくのですね。

父なる神さまは、イエスさまの十字架にあらわされているように、愛であり義であるお方です。この方は私たちの天の父として、絶対的に信頼できるお方だということも学んできました。「まるで父のようなお方」なのではなくて、この方こそが本来的に私たちの父であり、私たちを守り、助け導いていてくださる方だということを見てきました。今日は主に第3部の3章〜4章を中心に、改めて、神さまに対して私たちが自分自身を表現することの大切さを振り返りたいと思います。

<愛の反対は恐れ>
「愛の反対は無関心」という表現を聞いたことがあると思いますが、聖書的にいえば「愛の反対は恐れ」ということになります。第一ヨハネ4章18節に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」とある通りです。愛と恐れは正反対なのです。ところで、聖書には「恐れ」をポジティブに捉えている表現もあります(たとえば箴言1:7「主を恐れることは知識の初め。」)。翻訳が難しいところなのですが、日本語的にはひとまず畏怖の畏で「畏れ」ということで理解して良いと思います。新改訳聖書があえて「恐れ」の字を使うことには理由があるのですが、しかし、少なくとも、神さまを恐怖の対象として見るなら、そこには人格的な関係は成り立たないことは明らかです。愛の反対は恐れなのです。

しかし、人には神さまを恐れる、恐怖の対象として恐れてしまうクセがあります。ことのはじまりは、もちろん創世記3章です。神さまはご自身のかたちとして人をつくられたのに、つまり神さまとことばのやりとりをする存在としてつくられたのに、人はサタンのことばに耳を傾けました。そして神など要らない、善悪の基準は自分でつけるとして、善悪の知識の木の実を食べたわけです。その結果、彼らは神さまから隠れるようになりました。神さまから「あなたはどこにいるのか。」と問われて、アダムは「私は恐れて、隠れました。」と答えたのです。相手が怖いから隠れるのです。これが罪と、その結果の神から隠れるという行動のはじまりです。

私たちは今一度、自分自身を点検したいのです。私たちは神さまから隠れていませんか。もしくは、神さまに向けて自分の心を隠していないでしょうか。アダムとエバの話は、昔こういうことがあったという過去の話という以上に、自分自身のこととして読むべき箇所ですね。「人に罪の性質があるのは彼らのせいだ、あれが原因だ。」と分析して、批判して終わるのではなくて、むしろこれは私たちの姿なのです。

神さまは「これを食べたらあなたがたは必ず死ぬ」と言われたわけですが、それは肉体の死というよりも「霊的な死」、つまり神さまとの関係の断絶を意味していました(創世記2:17)。神さまから見捨てられる、見放されるということです。これは恐ろしいことです。その恐れがあるから、私たちは隠れたり、隠したりする。しかし、思い出してください。イエスさまが十字架の上で受け取られたのは、まさにこのさばきでした。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ27:46)イエスさまは十字架の上でこのさばきを、神さまとの関係が断絶されるというさばきを受け切ってくださった。イエスさまの十字架は、私たちと父なる神との関係を回復させました。これこそが救いです。

それなのに、救われてクリスチャンになってからも、私たちには罪人のクセがへばりついていて、神さまから見放されてはならないと自分を隠してしまう。愛の反対は恐れです。神さまはこれほどまでに愛してくださっているのに、私たちは恐れてしまっている。

今一度、神さまの愛を確認して、愛されていることを思い返して、神さまから隠れない生き方を始めましょう。今日からまた。何度でもです。さばかれないために良い答えをしてしまうのではなくて、クリスチャンらしい信仰深いことばに隠れて誤魔化すのではなくて、ありのままを神さまに表現していくのです。さばきはイエスさまが受けてくださいましたから、私たちはもう隠さなくていい。取り繕わなくていい。誤魔化さなくていいのです。そうやって、神さまとことばのやりとりができるのです。聖書のみことばを通して、また神によって造られたこの世界のさまざまな出来事を通して、神さまは語っておられます。そこに耳を傾けるのです。そして、神さまに私たち自身のことも聞いていただく。自分自身を表していく。誤魔化さない自分の心を、自分のことばで伝えていくのです。

<つたなくても、間違っていても>
つたなくても、たとえ間違ったことや、むしろ罪の内容であったとしても大丈夫です。そのまま神さまに申し上げていく、伝えていくのです。その例として二つの場面が紹介されていました。一つはヨハネ14章8節〜9節です。「ピリポはイエスに言った。『主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。』」十二弟子の一人として、イエスさまのもっとも身近にいたはずのピリポが的外れな、すっとんきょうなことを聞いてしまったわけですが、ここでイエスさまは「黙れ。」とは言わないで、そしてそこから続けて大切なことを教えていかれます。またヨハネ11章37節〜39節では、ラザロが死んだ時に、イエスさまはご自身を信じることができない周囲の人々に憤りを感じたとありますが、それでも聖書はその人たちのことばも残していると。「この方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか。」という、いわば不信仰な、不正解な人々のことばが聖書のことばとして、神のことばとして記されているんです。聖書には神のことばと、そして不信仰な人のことばが記されていると。両方が大切なんです。私たちの不信仰なことばも必要なんですね。

ここは、すごく目が開かれた思いがしました。聖書は神のことばです。でも人が書きました。神さまに用いられた人が書いた。だから100%神のことばであって、100%人のことばであり、この両方が大事です。これは私も意識してきました。ただ、一歩踏み込んでその内容というレベルでも、神のことばと不信仰な人のことば、その両方が記されている。不正確で的外れな人のことばが記されている。聖書ってそうなっているんです。神さまの御心から的外れな、間違った私たちのことばも大事なんです。それでもって神さまに祈っていっていい。打ち明けて、お話ししていっていいのです。

<傷ついた道>
それでも、私たちは父なる神を信頼しきれないというか、どこかで「これを言ったらダメだろう。」と諦めてしまう、そして自分の心を隠してしまうものですね。本の表現ですけれども、私たちにはそのような罪人のクセがへばりついている。救われてもなお、クセなので抜けないんですね。ただでさえ私たちは本心を隠して生きています。思っていることを全部言えば、普通の人間関係は破綻します。だから隠して生きているわけじゃないですか。それを神さまに対してもしてしまう。特に、父親との関係が尾を引いてしまうということがあるようですね。個人差もあるでしょうし、人によって違うところだと思いますが、著者の関先生がそこをどのように乗り越えられたのか、今日の午後はその証の部分を読むことになります。

その最後の部分を引用します(p.138)。
「私たちの内におられる聖霊は、私たちが心から神を「アバ、父」と呼べる交わりへと導いてくださいます。その交わりを妨げているものが何であれ、聖霊は最善の方法で私たちを天の父のもとへと導いてくださるのです。私たちは聖霊の働きを祈り求めたいと思います。
  神よ 私を探り 私の心を知ってください。
  私を調べ 私の思い煩いを知ってください。
  私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て
  私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)
この祈りほど、信頼に満ちた祈りはないでしょう。神に、自分を調べてください、傷を見てくださいと言えるのです。このように祈ることのできるお方が、あなたの天の父なのです。」

私たちが隠れなくてもよい天の父は、私たちが自分を隠さなくてもいいように聖霊なる神を送ってくださいました。私たちは聖霊の助けによって、神を父と呼ぶことができます。ローマ8章15節、16節にこうあります。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」私たちが神を天の父と呼べるのは、聖霊の働きによります。私たちが絶対信頼できるこの天の父の前に自分を隠さずに向き合えるのは、聖霊の働きによるのです。アルファコースの中で、この箇所は聖書のエベレストだと言われていましたが、そう思います。聖書の最高峰です。神は私たちが自分を隠す必要がないお方です。そのことにアーメンと言い切れないでいる私たちも、心の底で、霊の奥底で、私たちは父なる神を信頼したい、私たちは天の父の子だと分かっていて、叫んでいる。呻いているんです。聖霊なる神はその呻きに寄り添ってくださるお方です。「御霊ご自身が私たちの霊と共に、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」とはそういうことです。いつまでも隠すクセが抜けない私たちですけれども、私たちは聖霊の助けによって、神を天の父と呼ぶことができる。自分を隠さずに、心から神さまに向けて自分を表現することができるのです。そのような神さまとのやりとり、ことばのやりとり、祈りの関係に私たちは導き入れられていきます。

私たちは本来そのようにつくられているわけですから、本来のあるべき姿に向けて成長・成熟させられていくこの恵みを味わい続けていこうではありませんか。
 

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神よ 私を探り 私の心を知ってください。
私を調べ 私の思い煩いを知ってください。
私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て
私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)


私たちのために十字架の上でさばきを受けきってくださった主イエス・キリストの恵みと

天の父として、私たちの隠さないことばを待っていてくださる父なる神の愛

そして、私たちが神の子であることを叫び続けていてくださる聖霊の満たしと励ましが

今週も、お一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。 アーメン

 

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【1/25】

マタイの福音書6章12節、14節〜15節

主の祈り⑥

「負い目の赦し」

引き続き、主の祈りについて見ていきます。

12節「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」今、私たちの教会ではこのマタイの本文に即した口語訳で主の祈りを祈っていますが、以前の文語訳では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていました。翻訳が変わったのは「罪」が「負い目」という表現になった点と、そして、赦されることと私たちも赦すということの語順が変わったという点です。

<罪と負い目>
まず、「罪」という言葉が「負い目」に変わったわけですが、これはなぜでしょう。キリスト教における罪の赦しの大切さを考えれば、ここは「罪」のままが良かったのではないかという気もします。しかし、マタイの福音書本文はそもそも、ここは「罪」を表すハマルティアではなく「負い目」を表すオフェイレーマという言葉なんです。そもそも、ここは「負い目」なのでした。では、文語訳の式文は間違っていたのかというと、そうではありません。マタイが「負い目」と記した内容を、並行箇所のルカは「罪」(ハマルティア)と表現しているからです(ルカ11:4)。マタイも「負い目」という表現で「罪」のことを表しているのでしょう。ただ、ここでわざわざ「負い目」という表現が使われていることには意味があります。それはつまり、彼を用いてこれを書かれた聖霊なる神さまのこだわりだと言えます。丁寧に読み解いていきたい箇所です。

<罪の二つの側面>
改めて12節、ここで言われている「負い目」とは、ルカも言うように、そして文語訳の主の祈りでも表現されているように「罪」のことです。ただ、いわゆる「原罪」のことではなくて、日々の具体的な一つ一つの過ちのことだと言えます。これは、マタイだけでなくルカにおいてもそうなんです(ハマルティアが複数形)。主の祈りが扱っているのは「原罪」のことというよりも、日々の具体的な過ちのことです。

罪には二つの側面があります。バラバラのことではなくて、側面ということで理解していいと思いますが、一つ目は「原罪」と言って、神さまの御心から逸れている、外れている状態そのもののことです。イエスさまの十字架による赦しを信じて、私たちはこの原罪が赦されています。ロマ書にあるように、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(8:1)一方で、私たちは罪を犯し続ける存在です。救われた後も、日々の歩みの中で私たちは神さまの御心ではないことを選択し続けてしまうからです。聖霊が私たちをつくりかえてくださるその歩みは、成長・成熟なので、一足飛びにはいきません。原罪という意味では私たちは赦された者だけれども、日々の過ちという意味では、いまだに神さまを悲しませる歩みを引きずっています。

第一ヨハネ1章9節「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」新約聖書が書かれたギリシャ語の現在形には現在進行形のニュアンスが含まれますから、これは私たちが罪を、過ちを、告白し続けることを意味しています。つまり、悔い改め続けるのです。罪を告白し、悔い改め続ける。しかも、これはクリスチャンに向けて書かれた手紙です。罪赦された者たちに向けて、あえて、また「罪を告白し続けなさい」と言っているわけです。

ところで、この箇所には私たちのことと神さまのことが書かれてあるわけです。私たちは罪を告白し続けるわけですが、では神さまの側のこととして現在形になっているのは、どこでしょうか。私たちが罪を告白し続けることと対になっているのはどこでしょうか。それは「神は真実で正しい方です」というここです。これって、すごくないですか?私たちが罪を告白して悔い改め続けるということが何と対になっているか、何とセットになっているかというと、それは「神さまが真実な方だ」というここなんです。神さまが真実で正しいお方だから、私たちは悔い改め続けることができるのです。それは罪人をさばくための義、恐ろしい正しさではなくて、罪人を救うための義、正しさですよね。神さまは日々、今も、真実で正しいお方であり続けてくださる。そして「赦し」と「きよめ」は、その真実で正しい神がなしてくださること。私たちの告白のたびごとに具体的に神さまが行ってくださることですね。神さまはご自身の真実さのゆえに、私たちの罪を、日々の過ちを赦してきよめてくださるお方です。

なお、悔い改めとは神さまに祈って終わるものではなく、向きを変えることですから、謝らなければならない相手がいるなら謝り、償うべきものがあれば償うことを当然含みます。それらを無視している状態から、向きを変えて、なすべきことをなすのです。人に対して謝ることには勇気が要りますし、非常にエネルギーを使うのですが、神さまは真実なお方です。神さまは私たちの悔い改めを助けてくださるお方です。

救われた者も、引き続き、一つ一つ赦していただくことが必要なんです。「私たちの負い目をお赦しください」、主の祈りを通して、私たちはこのように祈るのです。

<主の祈りにおける罪の赦し>
このように、主の祈りで扱われているのは原罪という大きな話ではなく、具体的な一つ一つの過ち、一つ一つの罪についてです。そして、大切なことは、それらを神さまにきよめていただくことが、心の解放とか平安を得られるというような個人的な話のレベルを超えているということです。もちろん、謝れば心が軽くなりますし、悔い改めたら目の前が明るくなります。ただ、「日ごとの糧」についてもそうでしたが、そうやって私たちはこの地で神の御心のために用いられていくのだということです。それが、前半と後半を貫いている主の祈りの流れです。

主の祈りの後半は日々の具体的な必要のことが祈られていると先週お話ししましたが、それは前半に結びついています。前半からの一つの流れがある。この地に神さまのみこころがあらわされていくために私たちを用いてください。そのために日ごとの糧を与えてください。そのために、私たちの負い目をお赦しくださいというわけです。私たちが一つ一つの過ちを赦していただくことは、もはや私たち個人の問題ではなく、神の国の広がりと関係があるのだということです。

私たちが一つ一つの罪を告白し、悔い改めて神さまに赦しを乞う時、そこには神の国が広がるのです。私たちが向きを変え、謝らなければならない相手に誠心誠意を尽くして謝る時、そこには神さまの臨在があらわされる。私たちが悔い改めることは、もはや自分のためという小さな話じゃない。ここに神さまの臨在が、神の国が広がっていく、そのような規模のことなんですね。

<負い目とは>
「負い目」とは本来、借金や負債を表す言葉です。罪というと原罪のイメージもありますし、大きな言葉になってしまいますが、「負い目」というと一つ一つの過ちのことをイメージしやすいですので、マタイはあえてこの言葉を用いたのだと思います。当時、罪とは神への負債なのだと理解されていたという背景もあります。

なお、ルカはここを「罪」としていると言いましたが、ルカが記しているのも原罪のことではありません。ルカ11章4節「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。」(ルカ11:4)むしろ、ルカは「罪」と「負い目」の両方を並べていて、これが原罪ではなく一つ一つの具体的な罪であることを表現しています。罪を表すハマルティアという単語も複数形になっています。一つ一つの罪です。マタイの記述にせよ、ルカの記述にせよ、主の祈りを通してイエスさまが教えてくださったのは、根源的な罪の赦しではなく(それは別の箇所が扱っている内容です)、日々の一つ一つの過ちに関する赦しです。

クリスチャンはイエス・キリストの十字架を信じて原罪を赦されています。イエスさまの十字架による赦しを受け取っているんです。それは間違いのないことです。ここが揺らぐことのないようにと願います。一方で、私たちは悔い改め続ける存在です。原罪という大きな話ではなく、身近な罪、身近な過ちの赦しを神さまに求め続け、人に対しても、誠意のある謝り方をしていくということですね。

「負債」という言葉には関係性のニュアンスがあります。返すべきものを返していないということですよね。私たちが具体的な身近な罪を悔い改めないことは、神さまとの関係から言っても、あるべきことではありません。そのままにせず、きちんと清算していきたいものです。

<赦されることと、赦すこと>
マタイの福音書に戻りましょう。12節の後半ですけれども、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」ここが、文語訳の主の祈りの式文では「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていました。このように訳された理由や経緯、また翻訳の難しさがあるのですが、これだとどうしても、「私たちは赦す」ということが、赦されることの条件に響いてしまうと思います。しかし、聖書本文には少なくとも条件のニュアンスはありません。

神さまが私たちを赦してくださるのは、私たちが人を赦したからではありません。私たちが赦されるのは、私たちが何かをしたからではない。私たちが人を赦せたから赦してもらえたのではない。それは、ただ恵みでしかなかったですよね。私たちが何かをしたから、人を赦したから、赦していただけたのではないです。ただただ、恵み。どこまでも恵みとして与えられたものなんですよね。ですから、ここで「私たちの負い目をお赦しください。」と祈る時に、神さまの赦しを条件付きかのように理解することは、主の祈りの趣旨ではないのです。

そうではなくて、赦されることと赦すことはセットだということですね。赦された者は赦すんです。赦している者として、赦しを願うのです。

少し飛んで14節と15節は、思いっきり条件のように読めてしまいますが、神の赦しは条件付きのものではない、という枠組みをしっかり持って読むことが大切です。神の赦しは条件付きのものではないのです。14節は、「赦された者は赦す」ということを、別の言い方で表現しています。赦すことができるのは、私たちがすでに赦されているからです。赦しは、赦されているところから生まれます。一方、15節はその反対を語っているわけですが、15節は特に注意深く読む必要があります。それは、「赦せない人はそもそも赦されていない」という断罪ではありません。イエスさまの十字架の赦しが揺らぐことがないようにと先ほど言いましたが、「人を赦せない私は赦されていなかったのか。」と受け取らないでください。絶対に、そうやって受け取らないでいただきたいのです。赦せない人は赦されていないという断罪ではありません。信仰が足りないから、赦しを受け取っていないから赦せないのではない。むしろ、赦せないという現実は、なお神さまの赦しの恵みの中に招かれ、癒され、整えられていく途上にあるということを示しています。信仰とは、白か黒かの断罪ではないです。成長でありプロセスです。私たちに「赦せない」という思いがあるのなら、それは信仰が足りないからじゃない。むしろ、成長していく、成熟していく、神さまに取り扱っていただくプロセスを味わえる恵みの中にいるのだということです。

<赦せない心>
マタイの福音書18章で、イエスさまは借金・負債を用いたたとえを語っておられます。23節〜35節までをお読みします。

「23  ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24  清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25  彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26  それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27  家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
28  ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
29  彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
30  しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
31  彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
32  そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
33  私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
34  こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
35  あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

最後が衝撃的ですが、先ほどの6章14節、15節と同じで、そこは本質ではありません。極端な表現で補足説明がされているわけですが、このたとえの本質は「赦された者は赦すのだ」という、こちらです。赦された者は赦すのです。ただ、罪を赦す、過ちを赦すということについて、ここから見えてくる大切なポイントがいくつかあります。

まず23節、王は「借金の清算をしたい」と思い、24節「清算が始まり」ました。つまり、赦しに先立ってまず「罪が明らかにされること」が大切です。そこから始まります。うやむやにしていては赦しも何もないわけです。罪がきちんと指摘されること、罪を責めること、過ちがきちんと明らかにされることが大切です。罪の赦しには、まず罪を指摘すること、罪が指摘されることが不可欠です。

そして25節、王はしもべに持ち物をすべて売って返済するように命じました。つまり、償うべきことを確認したのです。これらは大事なことです。罪が明らかにされ、償う額が明らかにされる。ここがすっ飛ばされて、ただ被害者が「赦せ」という、「赦さなければならない」というプレッシャーだけを受け取っているとしたら、それは悲劇的なことです。罪とその償いはうやむやにされるのではなく、明らかにされることが大切です。この王も、まずはそこをはっきりさせています。罪の赦しには償い、つまり犠牲が伴います。なかったことにはできない。うやむやにすることはできない。

私たちには大なり小なり「赦せない」という感情があるわけですが、その理由を、神さまはきちんと聞いてくださいます。明らかにしてくださる。それは大きな慰めです。赦しとは、機械的に、とにかくなかったことにせよ、水に流せということではない。赦せないでいるその痛みの原因が、まずは明らかになること。それが第一歩です。

その上で27節、返済不可能なこのしもべをかわいそうに思って、王はこの人の負債を免除します。これは借金をチャラにしたのではありません。赦しとは、なかったことにすることではない。水に流すということではない。王はこの負債を自分で引き受けたんです。一万タラントというのはおよそ六千億円のことです。この王様は破産したかもしれない。そんな額です。しかし、それを引き受けた。赦すとはそういうことです。うやむやにしたり、曖昧にして終わらせるのではなくて、しっかりとその痛みを引き受けるということです。

イエスさまの十字架はまさにそういうことでした。父なる神は、私たちの罪の負債を赦すために、御子イエスのいのちを失いました。父なる神は、私たちの罪の負債を赦すために、御子イエスのいのちを失った。決して、水に流してチャラにして、何もなかったかようにしたわけじゃないのです。イエスさまのいのちがそこで失われた。私たちはそうやって赦されたのです。

この後、このしもべは百デナリ(およそ百万円)を返せない友を赦すことができませんでした。そのことを王は怒るわけですよね。このたとえは、赦されることと赦すことはセットなんだということ、赦された者は赦すんだということを語っているわけですが、やがてまた、18章を扱う時にじっくり読むことになります。

<整えられていく恵み>
主の祈りに戻りますけれども、罪の赦し・負い目の赦しとは、それをなかったことにするということではなく、きちんと清算し、明らかにし、その上でその負債を引き受ける、償うべきものを引き受けるということですね。

そして、赦されることと赦すことはセットだということ。私たちはイエスさまの十字架による赦しを得たのだから、私たちも赦す生き方をさせてください。これが主の祈りの内容です。そうやって、この地に神の御心が実現していきますようにという祈りです。私たちが、赦された者として自分たちもまた赦すという生き方をしていくとき、そこには神の臨在が、神の国が広がるのです。

ただ、繰り返しますが、どうしても赦せないという気持ちがあるならば、それをそのまま心の中に押し込めるような解決の仕方はしないでください。信仰は白か黒かじゃない。プロセスです。神さまの赦しを受け取っていくことはプロセスなんです。神さまはそこを丁寧に扱ってくださいます。

そのプロセスの中で、この主の祈りを祈れるとは、本当に幸いなことなのです。この主の祈りは私たちを整えていきます。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」こう祈ることで、祈り続けることで、私たちは整えられていくんです。神さまの御心に向けて心が整えられていく。赦された者として赦す生き方へと、育てられ、整えられていくというプロセスを、その恵みを、感謝しつつ味わっていきましょう。

ーーー
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。(1ヨハネ4:11)

私たちの罪のために、十字架にかかられた主イエス・キリストの恵みと
私たちの罪の負債を引き受けられた父なる神の愛、
そして、赦された者として赦す生き方へと私たちを導き続けてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

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