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​礼拝メッセージ
 
20220703(使徒1:3〜11)イエス・キリストの昇天
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【7/3】

使徒1:3〜11

「イエス・キリストの昇天」

使徒の働きを読み進めていきましょう。今日は1:3節から11節です。復活されたイエスさまが天に戻られる場面ですけれども、ここで弟子たちに話されたことを、三つに整理してみました。ご自分が生きていること。また、神の国について。そして、聖霊の約束。この三つです。

<ご自分が生きていること>
まず、イエスさまが弟子たちに示されたのは、ご自分が生きておられることでした。「数多くの確かな証拠をもって」示されたとあるように。普通なら信じることのできないことを、丁寧に、証拠を示しながら教えてくださったのです。テモテに手や脇腹の傷跡を見せられたり、ガリラヤ湖で魚を食べて見せたりということがヨハネの福音書にもありましたが(20:27、21:13-14)、ご自分が生きていて幽霊のような存在ではないことをはっきり示し続けてくださったんでしょうね。

「イエスさまが生きておられる。」これってとても大事なことです。「イエスさまが私たちの罪のために死なれた」で終わってしまうならば、それはただの悲劇なんですよね。でも、十字架にかかって死なれたイエスさまが、よみがえられたこと。死を打ち破ってイエスさまが復活されたこと。そこが大切なんです。死がなければ復活もないので、両方大切なんですが、私たちはとかく、「イエスさまが私たちのために死んでくださった」というところで終わってしまいやすいと思います。しかし、イエスさまが復活されたからこそ、私たちにも復活のいのちが与えられるからこそ、私たちはイエスさまとともに歩み、生き方が変えられていくんです。私たちの生き方が変わるのでなければ、信じる意味がないですよ。でも、イエスさまが復活されたことは、その確かな証拠なんです。イエスさまは私たちにも、このことを「数多くの確かな証拠をもって」示してくださいます。丁寧に、何度でも、私たちに示してくださいます。一番大切なことだからです。

<神の国>
そしてまた、イエスさまは「神の国のことを」語られました。「神の国」というのは、神さまが支配しておられるところという意味です。国境線のここからここまでが神の国というような意味ではなくて、神さまが統治しておられるところ、神さまが礼拝されるところ、という言い方もできるでしょう。

神さまはこの世界を造られたお方なので、この世界はすべて神さまの支配下にある、神さまが宇宙の王であるというような表現が詩篇にはよく出てきます(詩篇29:10、33:13-14、47:2)。また、神さまは旧約聖書の歴史、イスラエルの歴史を王として導いて来られました(イザヤ44:6、52:7-10、ミカ2:12-13)。神さまは世界の王であり、歴史の王である。その神の国は、この世の終わりの時に新天新地として完成する、そう聖書には書かれているんですね(イザヤ66:22)。神の国は、この世の終わりの時に新天新地として完成します。そこには死もなく、苦しみもなく(黙示録21:1-5)、弱い人が虐げられることもありません(イザヤ32:15-18)。

「神の国」とは、イエスさまの福音宣教の中心でした。イエスさまが公に活動を始めた時の最初のことばが何であったかというと、それは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というものでした(マタイ4:17)。これは、神の国がもうここに来ているという意味です。イエスさまが来られたことによって、神の国が来たんだというのです。神の国は、この世の終わりの時に完成するんですよね。その意味では「まだ来ていません」。しかし、イエスさまによって「すでに来ている」。イエスさまによって神の国がすでに来たんだ。私たちは、この「神の国のすでにといまだ」の間に生きている。まだ最終的な完成は見ていないけれど、私たちはここで、すでに、神の国の前味を味わいながら、神の国の人間として生きることができるんです。福音書に描かれている、イエスさまがなさったことの一つ一つは、神の国の到来の証明だったんです。イエスさまはこの神の国の知らせ、神の国の福音を私たちに伝えてくださいました。開口一番、神の国が近づいたから、来ているから、だから悔い改めなさいと。そして天に上げられる直前のことの大事な時にも、イエスさまが話されるのは神の国のことについてなのでした。

私たちには、神の国、天の国とは死んでから行くあの世のことだという意識があってそれはある意味では正しいのですが、別の意味では私たちは今、すでに、神の国に生きているんだということも、折りに触れて思い返しましょう。イエスさまは十字架の上で言われました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ2343)私たちは今日、今、すでにパラダイスにいるんだ。神さまと共に生きているんだ。そのことを忘れないでください。

<聖霊の約束>
そして三つ目が、聖霊の約束についてです。これについては4節以降を丁寧に読んでいきたいと思います。

4節「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」聖霊に満たされるためには、エルサレムにとどまることが大切なんですね。エルサレムというのは礼拝の町です。神殿があって、イスラエルの民はそこで礼拝をささげてきました。私たちにとってのエルサレムとはどこか。場所という意味でいうなら、この会議室。時間でいうなら、週に一度、日曜日の午前中。この礼拝がエルサレムです。でも、もっと言うなら、日曜日の午前中だけでなくて、この部屋だけでなくて、私たちはいつも心の中で神さまを賛美し、神さまに感謝を捧げる礼拝をしていきたいですね。「あなたがたは神の神殿、聖霊の宮である」であると聖書にあります(1コリント3:16、6:19)。いつ、どこであろうと、私たちは神さまへの礼拝をささげていくんです。礼拝の恵みの中で聖霊に満たされていく。そしてもう一つ、エルサレムというのは、弟子たちにとっては失敗の場所でした。愛する主イエスさまを裏切り、知らないと言ってしまった場所。その場所から離れないとは、自分の弱さや失敗をきちんと直視して、ごまかさないということでしょう。私たちが弱さを覚える部分、私たちが失敗をしてしまうところ、そこに聖霊が注がれる。そこでこそ、私たちは聖霊に満たされるんです。それが父なる神さまの約束です。

5節、バプテスマのヨハネが授けていたのは水の洗礼でした。それとは別に、私たちは聖霊のバプテスマを受ける。つまり、聖霊に沈められる、聖霊に満たされるというわけです。聖霊のバプテスマというと、何かすごいことが起こるようなイメージがあるかもしれませんが、まずは「聖霊に満たされる」ということですね。私たちはこれを求めていくんです。あなたがたは聖霊にバプテスマされる、聖霊に沈められる、そうやって聖霊に満たされるという約束です。

6節「そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」これはヨエル書の預言で、聖霊が注がれる時にイスラエルが回復するという箇所があるんです。これは後々触れることになると思いますが、弟子たちはそのことを思い出したのかもしれません。この当時、イスラエルの国はローマ帝国の一部分、属州になっていましたから、救い主はそこから解放してくれるはずだという期待が人々の間にあったのです。弟子たちもそう思っていました。だから「今こそ、私たちをローマ帝国から救ってくださるのですか。」と、こういうことを言っています。

イエスさまが軍事的な意味での救い主ではないことははっきりしていますが、しかしイエスさまは弟子たちの言うことを否定はなさいません。7節は否定の言葉ではないですよね。「わたしはそのために来たのではありません」とはっきり言えば良さそうなものですが、イエスさまはそのまま会話を続けるんです。どういうことか。ここで弟子たちは軍事的な意味で、ローマからの解放という意味で、イスラエルの復興と言ったかもしれませんが、イエスさまは同じ表現を使って別の意味を答えられておられるのだと思います。つまり「神の国の完成」についてここで言われている。弟子たちは「イスラエルのために」ということを、イスラエル国家がローマから解放されるという意味で言ったかもしれませんが、イエスさまは「神の民全体のために」という意味で会話を続けておられるようです。やがて、神の国が完成します。新天新地において、主を信じるすべての人が、まことのイスラエルとして、永遠にイエスさまと共にある。しかし、それがいつとか、どんなときとかいうことは知らなくていい、父なる神が決めておられる、というわけです。

しかし、今、大切なことはこれですと8節に続きます。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」神の国がいつ完成するのか、イエス様はいつ戻ってこられるのか、それは確かに気になります。しかし、そういうことに気をもむのではなく、聖霊に満たされていなさいと言われているのです。神の国の完成のことは、やがての新天新地のことははるかに待ち望みながら、しかし地に足をつけて、地の果て果てで、キリストの証人(しょうにん)として、あかしびととして生きる。それが私たちの生き方です。11節にあるように、主は必ず戻ってこられます。だから、その日を待ち望みながら、キリストの証人として今を生きていくのです。

「神の国の完成がいつになるのか、気をもむ必要はない」と言いましたが、聖霊は私たちに神の国の事実を教え続けてくださいます。エペソ書にこのような御言葉があります。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(1:14)聖霊に満たされることで、今ここが確かに神の国であること、そして究極的にはやがて完成することを私たちははっきりと知らされていくのです。だから、私たちは安心してキリストの証人として生きる。聖霊に満たされて、イエスさまが今も生きておられることを証していく。

「地の果て」とありますが、それは、宣教師としてどこか遠くに出かけていくということだけを意味しません。私たちが今いる場所、それが一人一人にとって地の果てです。今置かれている場所、今置かれている状況、そこが一人一人にとっての「地の果て」です。そこでイエス様がよみがえられたことの証人として生きていくということです。そのためにも、聖霊の満たしが必要なのです。

キリストの復活の証人となるとは、強く立派な信仰者になることを意味するわけではありません。聖霊に満たされたなら、汚い自分があらわにされるじゃないですか。弱い自分があらわにされるじゃないですか。イエスさまの十字架の死と復活によらなければどうにもならない自分が明らかにされるわけですよね。私はキリストと共に十字架につきました。そして今、復活のキリストと共に生きていますということの証を身をもって表していくことになる。聖霊はそのようにして私たちを、キリストの復活の証人とされるのです。

9節、イエスさまは天に戻っていかれました。ちなみに、イエスさまが天に上げられたことを「昇天」、私たちが地上の命を終えて天に召されることを「召天」といいます。このようにしてイエスさまは天に上げられました。すると10節、白い衣を着た人が二人、これは天の御使い、天使ですね。天使が二人いてこう言ったというのです。11節「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」イエスさまは、また、オリーブ山に戻ってこられる。キリストの「再臨」と言います。そのことは聖書の他の箇所、たとえばゼカリヤ書なんかにも書かれてありますが(14:4)、1テサロニケ4:16〜18を開いてみましょう。「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」聖書のこの慰めを受け取っていきたいと思います。

<まとめ>
今日は天に昇られる前にイエスさまが言われたことを三つに整理しました。イエスさまが生きておられること、神の国のこと、そして聖霊に満たされることの約束です。そして、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマはキリストの証人となる力を私たちに与えるのだということも確認しました。聖霊に満たされて、私たちはイエスさまが生きておられるということ、また神の国の福音について証していきます。私たちを用いて、主がそれをなさいます。これはなんと驚くべきことでしょうか。聖霊行伝、聖霊の働きとも呼ばれるこの使徒の働きを、なおなお読み進めていきましょう。

 

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【6/26】

使徒1:1〜2

​「よく分かっていただきたい」

ここしばらく、テーマを設定しての礼拝メッセージをしてきましたが、一つの書簡を文脈に沿って連続で読み解いていく「講解説教」に戻りたいと思います。テーマ説教の良さというものはありますし、また折を見て単発でテーマ説教をすることもあるかと思いますが、テーマを設定するという時点で、礼拝説教が「牧師が語りたいこと」を語るものになってしまう可能性が常にありますので、それを避けるためにも、やはり聖書を文脈通りに読んでいく講解説教が基本だと思います。もちろん、テーマ説教の良さというものもありますので、両方が大切なのだと思います。牧師が語りたいことではなく、どこまでも神さまが今、私たちを導いておられる、私たちに語りかけていてくださる、そのメッセージを取り次いでいきたいと思っています。

とは言っても、たとえ講解説教であったとしても、「これが神さまの言っておられることです」と断言していくのは、牧師の姿勢としてはまずいのだと思います。たとえ文脈通りに読んでいくのだとしても、書いてある内容を釈義して、解釈して、文章にまとめていく作業には、どうしたって牧師自身の聖書の読み方が反映されるのですから。テーマ説教ばかりではいけない、講解説教でなければと言ったところで、礼拝説教が「牧師の語りたいこと」の域を出ない恐れがあるというのは、厳密に言えば変わらないのでしょう。

ですので、礼拝を預かっている者としては、礼拝の場でどこから聖書のメッセージを語るかというのは重大な問題です。語る場所を選ぶ時だけでなく、語り続けていくその間、ぜひ、牧師のために祈っていていただきたいと思います。

ということを踏まえて、ではどの書簡から語るのか。どこを選ぶのか。コロナの前に読み進めていたマタイの福音書の講解に戻るのか、いろいろ考えました。やっぱり考えるわけです。牧師の主観はどうしたって働くわけですが、神さまがどのように私たちを導いてくださっているのかということを大切にして振り返ってみると、私たちは今、神さまから本当に多くの励ましを受けていることを思わされます。コロナが落ち着いてきて、また毎週集まって礼拝する、ともに祈り合う、そしてまたここから派遣されていくというリズムが戻ってきました。また、洗礼式も教会全体で喜ぶことができましたね。そして、ここ数回のペンテコステのメッセージで、私たちは聖霊に満たされ、この地にあって教会を形作っていくのだということを教えられ、大きく励まされたことでした。今、私たちは「教会」として今一度歩み始めることを励まされていると思うのです。

そうであるならば、聖霊について聖書から読み解くことを続けたいと思いました。そして、私としては少々力不足を感じる書簡ではあるのですが、「使徒の働き」の講解を始めていきたいとの思いに至った次第です。特に最初の方はペンテコステのメッセージと重複する部分もあるかと思いますが、文脈を確認しながら、講解説教ならではの醍醐味を味わっていきたい。そして力を受けて、聖霊に満たされて、教会を形作っていきたい。またそれぞれの場所に帰っていきたい、そう願っています。

長くなりましたけれども、それでは使徒の働きの一章を開きましょう。今日は冒頭の部分です。

<1:1-2>
「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。」

使徒の働きは、医者ルカが書いた「ルカ文書」二部作の後半です。前半は「ルカの福音書」になります。両方とも、ルカがテオフィロという人物に宛てて書いたものです。テオフィロは名前からして異邦人、つまりユダヤ人ではない外国人だったようですけれども、ルカがテオフィロに書いたその手紙が、諸教会の間でも共有されていきました。福音書が書かれた時代というのは、イエスさまから直接教えられた世代が天に召されていく中で、イエスさまの教えを歪めた偽の教えが出回るようにもなってきて、福音書というような公式の記録が必要になってきたという経緯があります。それまでは、みな口伝で、話だけで福音を伝えていたのです。また、テオフィロのように福音に興味を持つ、ユダヤ人以外の外国人も増えてきました。ルカはこの手紙をテオフィロのために書いたのですが、結果としてこれは広く用いられることになりました。後々触れることになると思いますが、福音はもはやユダヤ人だけのものではなく、広く世界に広がり始めていて、異邦人の求道者、異邦人のクリスチャンがどんどん起こされていたのです。彼らのためにこの手紙の写しが用いられていったことは想像に難くありません。同時に、そのことを快く思わない人たち、古くからのユダヤ人の伝統を守ることが大切だと考える人たちもいましたので、そのような人たちに対しても、この福音は全世界に向けてのものだということを訴えていく。そのためにもルカ文書は大きく用いられていったことでしょう。

さて、この「テオフィロ」という人がどういう人物だったのか、詳しいことは分かりません。しかし、ヒントはありますね。まず、このテオフィロというギリシャ語の名前です。ギリシャ語で「神」をあらわすセオスと、「愛する」をあらわすフィレオーという言葉が組み合わせられたテオフィロという名前がついている。ギリシャの神々を信仰する家庭で生まれ育った人なのだろうことが推察されます。また、テオフィロ「様」とも呼ばれていますので、身分の高い人だったことも分かります。どういう人だったのかは分かりませんが、少しイメージが固まってきます。ルカはこの具体的なある人に向けてルカ文書を書きました。

ルカの福音書の冒頭にはこうあります。開いてみましょう、ルカの福音書1:1〜4「私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。」

「よく分かっていただきたい。」これこそが、ルカがこの文書を書いた動機であり、使徒の働きにもそのまま当てはまるわけです。使徒の働きもまた、「これを読むあなたに、よく分かっていただきたい」という思い一つで書かれているのです。「事柄」とはロゴス、神のことば、まさに福音のことです。それは、「みことばに仕える者となった人たち」によって語り伝えられ、また文書によっても伝えられてきました。福音は世界中で広がり続けてきたのです(コロサイ1:6)。私たち一人一人が救われた経緯も思い出してください。あなたに福音を伝えてくれた人は誰でしたか。どうやってあなたはクリスチャンになったのですか?思い返してみましょう。その上で、ルカのことばを聞きましょう。「すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたい」と。「これが確かであることを、よく分かっていただきたい。」このルカの思いは、時代を超えて私たちにも語りかけています。

先週話したように、ルカの福音書というのはイエスさまがなさったことを記録しています。そして、イエスさまはその働きを弟子たちに、教会に託されました。使徒の働きはその記録です。これを読めば、私たちは教会としての目指すべき姿を知ることができます。弟子たちの働き、教会の働きと言っても、聖霊が弟子たちを通して働いてくださっている。教会を通して働いてくださっているわけですから、使徒の働き、使徒行伝ではなくてこれは聖霊行伝だと言われることもあります。その意味では、聖霊が私たちを通してどのように働いてくださるのか。私たちはどのようにして聖霊に明け渡し、働いていただくのか。その記録ということもできるでしょう。

ルカが福音書で記したように、イエスさまはイザヤ書を引用して「主の霊がわたしの上にある」と宣言されました(ルカ4:18)。その預言の成就を、今は私たちに託しておられます。私たちも「主の霊が私の上にある」と、聖霊に満たされることによって、その働きを継承していくことができるのです。私たちの上におられ、内におられる聖霊なる神が、私たちを通して働かれます。その様子を、この使徒の働きを読みながら確認していきましょう。「これが確かであることを、よく分か」らせていただきましょう。

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【6/19】

イザヤ61:1〜3
ペンテコステ⑤「聖霊と派遣」

ペンテコステの前後で聖霊に関する聖書箇所からのメッセージを続けて来ましたが、今日でとりあえず一区切りにしたいと思います。聖霊に満たされる必要性について、また聖霊はキリストのからだである教会を建て上げるということ、そして聖霊による新生、また聖霊が私たちに生き方を教えてくださるということについて見て来ました。今日は「聖霊と派遣」ということについて、聖書が語っていることに耳を傾けましょう。

先ほどお読みしたイザヤ61:1−3は、預言者イザヤが神さまのことばを預かって語った預言です。1節で「わたし」と名乗る人の上に主の霊が、聖霊がとどまっている様子です。主がこの人に油を注いだ、ともあります。油とは聖霊のたとえです。加えて、油を注ぐという行為には「聖別」や「任命」などの意味がありました(Ⅰサムエル16:13、Ⅰ列王記19:16等)。油を注ぐことで、神さまのご用のために聖別して任命するという意味があったのです。「わたし」というこの人も、何かのために聖別され、任命されている。そのために聖霊が注がれているのです。では、この人に聖霊がくだったのは、何のためだったのでしょう。この人は何のために任命されているのでしょうか。

<貧しい者に良い知らせを>
それは、続けて書いてあるように、貧しい人に良い知らせ、つまり福音を伝えるため。そして心の傷ついた者を癒すためでした。聖書で二行に分かれていることは同じ意味の繰り返しであることが多いので、この「貧しい人に良い知らせを伝える」ことと「心の傷ついた者を癒す」というのは表裏一体というか、同じ内容なのだと思われます。良い知らせには、福音には、このような力があるんだということです。福音を信じたからと言って貧乏が終わるわけではありませんし、傷ついた心が一気に完全回復するわけでもありません。しかし、福音には私たちを癒し、解放する力があります。例えば、お金を追い求める強迫観念から私たちは解放されます。生きるために必要な分を与えてくださいという祈りが箴言にも載っていますし(箴言30:8-9)、主の祈りでも「日ごとの糧を与えたまえ」と祈るわけですから(マタイ6:11)、経済的な必要が満たされるというのは大切なことなんですけれども、お金がたくさんなければならないというプレッシャーからは解放されます。野の花を飾り、一羽のすずめをも養ってくださる神さまが私たちのことも守っていてくださることを知るのですから(マタイ6:26-34)。また、私たちは天の資産を受け継ぐ者とされたのですから(Ⅰペテロ1:3-5)。それは「貧しい者人への良い知らせ」です。また、「心の傷ついた者を癒す」とあります。イエスさまは「不思議な助言者」と呼ばれるお方でした(イザヤ9:6)。英語だとワンダフル・カウンセラーです。私たちの心の傷も、痛みも、きちんと分かってくださるお方です。このように福音とは、心の中が平安で満たされるというだけでなく、内面の問題だけなのではなく、実際の生活を変える力のある良い知らせなんです。困難なことがすべて、望むような形で解決するわけではないでしょう。しかし、福音を知らされた者は、困難の只中にあっても立ち上がる力が与えられます。もう一人じゃない。神が共にいてくださる。その知らせがどれほど私たちを勇気付け、力づけるか。聖霊の油注ぎを受けたこの人は、このような良い知らせを伝えるために遣わされたのですね。

ここまで言えば明らかなように、ここに書いてある「わたし」とはイエスさまのことなのでした。イザヤがこれを預言してから700年ほど後に、ナザレの村の会堂でイエスさまはこのイザヤ書61章を朗読し、「今日、あなた方の目の前でこの預言が成就した」と宣言されました(ルカ4:16-21)。イザヤ書にはしおりをはさんでいただいて、読んでみましょう。「・・・」イエスさまが来られたのは、私たちに「貧しい者への福音」「心傷ついた者への癒しの福音」を伝えてくださるためだったのです。そのために、イエスさまは聖霊を受けて父なる神から私たちのところへ遣わされた、派遣されたお方だったのです。

<捕らわれ人には解放を>
ルカの方にはしおりを挟んでいただいて、イザヤ書に戻ります。もう少し見ていきましょう。1節の後半、「捕らわれ人には解放を」「囚人には釈放を告げ」。イスラエルの人たちにとってこれらの表現は、バビロン捕囚を思い起こさせるものでした。紀元前586年、ユダの国はバビロン帝国の前に敗れ、王族や貴族、また職人たちなど多くの人たちがバビロンに連行されました。これがバビロン捕囚です。エルサレムの神殿は破壊され、神さまの臨在は取り去られてしまったように見えました。しかし、紀元前538年にクロス王から勅令が出されて、ユダヤ人は帰還することが許されました。紀元前516年には、70年ぶりに神殿が再建されました。捕囚は終わったかのように見えました。

しかし、城壁を立て直したネヘミヤは「私たちは奴隷の身です。」と告白しています(ネヘミヤ9:36)。ユダヤ人は解放されたはずなのに。また、再建された神殿には、過去の神殿と決定的に違う点がありました。モーセの幕屋も、ソロモンの神殿も、奉献の際には神の栄光が満ちました。しかし、再建された第二神殿にはそれがなかった。神さまの栄光が満ちたという、決定的に大事なことがなかった。どうやら、ある意味ではまだ捕囚は終わっていなかったということのようなのです。物理的には、人々はエルサレムに戻ることができました。神殿も建て直しました。しかし、主の臨在はまだ離れたままだったのです。捕囚は終わっていなかった。人々は捕らわれていた。バビロン帝国にというよりも、相変わらずに罪の奴隷だったわけです。しかし、ついに、神殿に主の栄光が来られた。やっと神殿に神の栄光が来られた。それがイエスさまだったのですね。エルサレムに、イエスさまがやってこられた。それは、十字架にかかるためです。それが神の栄光だった。イエスさまによってやっと捕囚が終わったんですね。イエスさまこそ、真の意味で人々を解放し、釈放するお方だったのです。だから、イエスさまは「このイザヤの預言が、わたしで成就する」という意味のことを言われたのです。

イザヤの61章を続けましょう。同じように、2節の最初の「主の恵みの年」、これもイエスさまはご自身のゆえに成就したと言われました。この「主の恵みの年」とは何かと言うと、これは律法の中に制定されている「ヨベルの年」のことです。律法によれば、イスラエルにおいては50年に一度、借金がすべて帳消しになり、奴隷は解放され、みながそれぞれの土地に戻ることができる年があったのです。土地というのはイスラエルの人々にとっては神さまから与えられた約束の地なので、本当に大切なものだったのですが、経済的な理由で、借金を返すために奴隷になったり、土地を売るということがありました。しかし、ヨベルの年に、人々は自分の土地に帰ることができるというわけです。これはまさに恵みの年だったのです。ところが、聖書の中にはこのヨベルの年が実際に行われた記録はありません。借金を帳消しにし、奴隷を解放してそれぞれの地に帰ることができるなど、夢物語だったのでしょうか。イエスさまがこの箇所を朗読し、「このみことばがあなた方の前で今日実現しました」と言うのを聞いて、ナザレの人たちは驚いたとありましたが、それはそうです。しかし、イエスさまこそがこのヨベルの年の訪れだったのです。イエスさまこそ、罪の奴隷であった私たちを解放してくださるお方だったからです。先ほどの捕囚のテーマと同じように、ここでもイエスさまは私たちを解放してくださる方として表現されています。そのために聖霊を受けて、遣わされたお方だとったというわけです。

<イエスさまが聖霊を受ける?>
余談ですが、三位一体のイエスさまがなぜ聖霊を受ける必要があったのかと言いますと、確かに三位一体ということを考えれば、あえてわざわざ聖霊を受ける必要はなかったと思われます。しかし、同じようにあえてわざわざ、イエスさまは水の洗礼も受けておられます。イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたその時、聖霊が鳩のようにイエスさまの上に降ったとルカは記録しています(ルカ3:21-22)。イエスさまは私たちと同じように洗礼を受けられた。そして、私たちと同じように聖霊の注ぎを受けられたということでしょう。

<続きは聖霊を受けた私たちに>
さて、イザヤ書にはしおりを挟んでいただいて、ルカの福音書、ナザレの会堂の場面に戻ります。ルカの4章です。イエスさまは会堂でこの聖書箇所を読まれ、ご自分がまさにこのために来られたことを宣言したわけですけれども、ルカ4:19を見ると、「恵みの年を告るために」というところで終わっているんです。「目の見えない人、虐げられている人」など微妙にイザヤ書と表現が違うのは、この際置いておくとしても(会堂に置かれていたヘブル語聖書のイザヤ書と、ルカが用いたギリシャ語訳のイザヤ書の違いだと思われます)、イエスさまはなぜ、「主の恵みの年」というここで、途中で読むのを止められたのでしょうか。イザヤ書61章の該当箇所を、なぜ全部読まなかったのでしょうか。

端的に、結論から申し上げるならば、イエスさまはここで、続きは弟子たちに託されたのだと思います。イエスさまの働きを、弟子たちに、キリストのからだである教会に託されたのです。だからこそ、ルカはこの福音書と使徒の働きの二つを書いた。ルカの福音書と使徒の働きは続き物の二巻セットです。イエスさまのなさったことが書かれているのが福音書。そして、それを引き継いだ、キリストのからだなる教会の記録。それが「使徒の働き」の内容です。聖霊を受けて、よい知らせを告げ知らせるために遣わされていった、それが弟子たちだった。教会だったわけです。

イエスさまの働きを振り返るならば、イザヤ書の箇所の後半一つ一つもまた、イエスさまがなさったことです。前半はイエスさまがなさったから、教会は後半だけやればいいということではありません。そういう意味で分けているのではなくて、私たちは、イエスさまが天に帰られた後も、ここで、この地上で、この社会で、イエスさまのなさったことを引き継いでいくということです。そして、そのためには私たちも聖霊を受けて、遣わされていくということが必要なんです。イエスさまがそうだったように。

聖霊を受ける、聖霊に満たされるとは、自分が恵みを受けるためだけのことではないんです。私たちは、このよい知らせを必要としている人々のところに遣わされていく。すでに私たちはそれぞれの生活の場所に遣わされています。あなたがそこにいることには、意味がある。神さまがあなたをそこに遣わされたのです。

ちなみに、「神さまが私をここに遣わされた」ということを信じるとは、どんなに辛い状況でも歯を食いしばって頑張るという意味ではありません。逃げることが必要な時もあるんです。モーセが逃げたように、エリヤが逃げたように。でもその先に、神さまから使命を与えられる場所があったわけです。神さまの導きに従っていくということが大切です。

<慰めと喜びの知らせを>
さて、イエスさまから引き継ぐ働きの後半を見ていきましょう。イザヤ書に戻って、61:2の後半から。「われわれの神の復讐の日を告げ」る。つまり神の復讐、神の正義を告げるのです。これは、神さまがあなたに復讐される、神さまがあなたを滅ぼされるというような、恐怖を伝えるということではありません。ここの箇所は捕囚からの解放、捕らわれからの解放という内容でした。その文脈において「神の復讐」とは、神さまが敵に対して正義を行ってくださるということですね。罪を滅ぼしてくださるお方だというわけです。罪から解放してくださるという良い知らせです。神はご自身を信じる者の罪を赦し救うということに関して、正しいお方。正義のお方です(Ⅰヨハネ1:9)。

 

それは「嘆き哀しむ者への慰めの知らせ」です。罪からの解放、古い生き方からの解放は慰めを与えます。罪のゆえに自分を愛することが出来ず苦しんでいる人に、隣人を愛することができずに苦しんでいる人々に、慰めの知らせを伝えるのです。

そして3節、そこには喜びが増し加わります。「シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂の心の代わりに賛美の外套をつけさせる」と。嘆き悲しんでいる人たちに喜びを届け、かつ、一人一人を礼拝者として招き入れるのです。主を賛美する者へと、主を礼拝する者へと育てていくんですね。「彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれよう。」シオンの嘆き悲しむ者たちは、喜びの知らせを受けて礼拝者となり、義の樫の木と呼ばれるようになる。樫の木は強いですよね。揺るがない巨木です。福音を受け入れ、イエスさまによって罪から解放されて礼拝者となった人たちは、その存在からして神さまの栄光を表す人になるというのです。

<聖霊を受けて遣わされていく>
さあ、私たちは聖霊を受け、聖霊に満たされて、それぞれの場所に遣わされていきます。

繰り返しになりますが、聖霊を受ける、聖霊に満たされるとは、自分が恵みを受けるためだけのことではないんです。私たちは、このよい知らせを必要としている人々のところに遣わされていくのです。聖霊の満たしは、痛み、傷ついている人々に仕えるための力を私たちに与えます。

すでに私たちはそれぞれの生活の場所に遣わされています。あなたがそこにいることには、意味がある。神さまがあなたをそこに遣わされたのです。その場所で、私たちにできることは、自分でなんとかしようと頑張ることではなく、聖霊の働きに自分を明け渡すことですね。主があなたを用いてくださる。神さまが、ご自身のやり方で私たちを用いてくださる。驚くべき方法で、私たちを用いてくださる。そのことを目撃させられ、体験していくことになります。

以上、五回に渡って、聖霊の働きについて聖書から学んできました。まだまだ足りないものですが、ひとまずここまでといたします。以前も触れたことですが、ペンテコステの後というのは、「ここからが本番」とでも言える大切な期間です。教会暦という教会のカレンダーの考え方では、待降節、アドベントがあって、クリスマス。そしてレント、受難週を経てイースター。そして50日後のペンテコステで半年となり、ここで、いわゆるイベント的な祭りの礼拝は終わります。あとの半年というのは、私たちが教会の外に出て、それぞれの場所で聖霊とともに歩むことを大切にしていく期間なんです。いつも、礼拝の最後の祝祷で祈っているように、お一人お一人の上に「聖霊の満たしが豊かにありますように」と、改めて祈りつつ、今日もまたここから派遣されてまいりましょう。主が共におられます。

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【6/12】

ヨハネ14:26

ペンテコステ④「生き方を教える聖霊」

先週はペンテコステの当日ということで、聖霊による洗い、聖霊による新生について聖書から聴きました。洗礼式もありましたし、感謝な礼拝でした。ペンテコステの日は過ぎましたけれども、もう少し聖霊についてのメッセージを続けたいと思います。今日は「生き方を教える聖霊」についてです。

<主イエスのことばを思い起こさせる助け主>
14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」つまり、聖霊は私たちに、イエスさまが話してくださったこと、教えてくださったことを思い起こさせてくださる方だというのです。

文脈を見ていきましょう。イエスさまは、直前の24節で「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません」と言っておられて、これは私たちには厳しいお言葉のように聞こえてしまいますが、だからこその聖霊、助け主であるというわけですね。私たちがイエスさまを愛し、そのことばを守ることを聖霊が助けてくださるのです。では、その「イエスさまのことば」とは何か。イエスさまのことばを守る、従うということが何を指すかというと、振り返ってみると21節とか15節にも「わたしの戒め」という表現が出てきまして、もう少し遡ってみると13:34にあるのですが、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というここなんですよね。イエスさまに愛された私たちが、イエスさまの愛をいただいて、互いに愛し合うということ。それがイエスさまの教えです。感情的に好ましいから愛するのではなく、愛せるから、「〜だから」の愛ではなくて、「〜にもかかわらず」の愛です。まさにイエスさまが私たちを愛してくださった、その愛ゆえに可能なことですね。聖霊はこのことを思い起こさせてくださる。私たちに、自らの愛のなさを気づかせてくださり、イエスさまの愛をいただかなければ、聖霊の実としての愛を実らせていただかなければ愛せないということを示してくださるお方なんですね。しかも、思い起こさせるだけでなく、そのようにさせてくださるというのが聖霊の約束です。エゼキエル36:27「わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」神さまの側で、私たちが神の掟を歩むように「する」というのです。

一つ覚えておきたいことは、愛しなさいという時に、それは「対決してはならない」という意味ではないということです。対決すべき時、対決すべき相手というのはあるわけですから。「愛しなさい」というのは「好きになる」ことではありません。感情的に好きになれなくても、相手にとっての最善をなしていくということですね。相手の言いなりになってあげるということでもありません。毅然とした態度で、神さまが私たちの間をさばいてくださるようにというスタンスでいることが愛である、そういう場合もありますよね。伝道者の書3章には、すべてのことに時があるとして、「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」とも記されています(伝道者の書3:1-8)。今はどうすべき場面なのか。それも聖霊が教えてくださいます。神さまの御心に沿って歩めるようにしてくださる、というのが約束なのですから。

<ペンテコステとはそもそもどういう日だったか>
聖霊は私たちに生き方を教えるために来てくださいました。イエスさまのことばを、つまり聖書のことばを思い起こさせ、そのとおりに生きることができるようにと助けてくださるお方、それが聖霊です。実は、そもそもペンテコステの日というのがそういう日だったんです。ペンテコステとは「50日目」という意味の言葉ですが、これは旧約聖書のレビ記では「七週の祭り」(シャブオット)と呼ばれている祭りのことです。大麦の収穫を祝う「初穂の祭」というのがまずあって、そこから数えて七週(7x7=49)の翌日、50日目に今度は小麦の収穫を祝いました(レビ23:16)。では、小麦の収穫感謝の日がなぜ聖霊降臨日になったのか。なぜ神さまはこの日を選ばれたのでしょう。実はこの日は、出エジプトの時に荒野で律法が与えられた日でもあるんです。「七週の祭」とは、単に小麦の収穫感謝をするだけの日なのではなく、律法が与えられた日なのでした。神の民がどのように生きてくか主が教えてくださった、その記念日に聖霊は来られたのだということです。律法とは神の民に生き方を教えるものでした。そして聖霊もそのような方だというわけです。

律法と聞くと行いを求められるもの、イエス様が来たからもう不要になったものというイメージがあると思いますが、律法は本来良いものです。イエス様ご自身が「わたしは律法を廃棄するために来たのではなく、完成させるために来た」と言っておられます。その一点一角も廃れることはない、とまで言っておられます(マタイ5:17-18)。確かに、いけにえに関する規定など、イエス様が究極的ないけにえとなられたのでもうそれを行う必要はないものもありますが、律法とは神の民に礼拝の生き方を教えるためのものなのです。たとえば「十戒」は分かりやすいでしょう。「あなたはわたしの他に、他の神々があってはならない」「偶像を作ってはならない」「安息日を聖なる日としなさい」「姦淫してはならない」「偽ってはならない」、律法は神の民に生き方を教えているんです。しかし、民はそれを守ることができなかった。石の板に書かれた律法を、彼らは守ることができませんでした。そんな民を、つまり私たちを、主はお見捨てにはならず、むしろ今度は「わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」と言われたのです(エレミヤ31:31-33)。石の板に書かれた律法は守られなかったけれど、今度は心の中にそれを書きしるすとして、前と同じ日に、律法授与の日に、七週の祭りの日、五旬節の日に、聖霊が来られたわけです。私たちの心の中に、神の民としての生き方を刻みつけるためにです。

たとえば、イエス様が律法の中で一番大切なのはこれだと言われたのは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、そしてそれと同じように大切なのが「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というこれだと言われました(マタイ22:37-40)。先ほど読んだ、イエスさまの戒めも「愛」についてでした。全てを尽くして、すべてをささげて神である主を愛すること。主を喜び、主に従うこと。また自分が隣人となって目の前の人を愛していくこと。よきサマリヤ人のたとえのように、あり得ない相手をも愛し、仕えるということ。これが律法であり、神の民の生き方なのです。ただし、石に書かれた律法と違い、聖霊がこれを私たちに守り行わせてくださる。聖霊がそのように私たちをつくりかえてくださるというのです。私たちの力や熱心ではそのような生き方はできませんが、信じられますか?神さまの側から、私たちをそのような生き方へと導いてくださるのです。

思い出してください、ペンテコステはもともと七週の祭り、小麦の収穫を祝う日でした。小麦の初穂を主に捧げました。初穂が大切にされる意味は、この後に大きな収穫が来るということです。ペンテコステは教会の誕生日ともいわれますけれども、この後、神の国の福音は爆発的に全世界に広がっていきました。そして、そこここで、人々は聖霊に触れられて、聖霊に満たされて、神の民として生きていく、そのようないのちへと導きいれられました。私たちもそうです。

聖霊に満たされ、神の民の一員として、神さまの喜ばれる生き方ーーつまり、造られた私たちにとって一番自然なはずの生き方ーーに邁進させられていきましょう。初穂の後には大収穫が来ます。神の民は広がっていきます。聖霊が私たちと共にいてくださり、私たちが今生かされていること、そのこと自体が神の国の最前線なのです。身の回りの人々に仕えましょう。あり得ない相手に祝福を祈りましょう。そのために聖霊の満たしを求めて祈り続けていきましょう。そこから神の国が広がっていきます。
 

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【6/5】

ヨハネ3:1〜5他
ペンテコステ③「水と聖霊による新生」

ペンテコステ、おめでとうございます。ここ数回にわたって聖霊についてのメッセージを続けてきました。それは、ペンテコステがただの記念日になってしまわないように、聖霊が来られた日、教会が生まれた日だというだけで終わってしまわないようにと思ってのことです。聖霊は今も私たちに働きかけておられますし、教会の歩みに伴っていてくださるお方です。

さて、本日ペンテコステ当日の聖書箇所ですが、今日は聖霊のことはもちろん、そしてこの後洗礼式もありますから、そのことも踏まえて選ばせていただきました。洗礼を受ける人だけでなく、すでに洗礼を受けた人にとっても良い確認の時となるように願っています。

<ニコデモとイエスさまの対話>
先ほどお読みしたヨハネ3:1ー8は、パリサイ人のニコデモが、人目を避けて夜にイエスさまに会いに来たという、有名な場面です。ニコデモは2節にあるように、イエスさまがなさる数々のしるし(奇跡のこと)に驚いていました。直前の2:23には、多くの人がその奇跡を見て主イエスを信じたということが書かれてあります。多くの人がイエスさまの奇跡を見て信じていました。ニコデモはパリサイ人として、イスラエル社会の宗教指導者として、簡単にこのイエスという人を救い主と認めるわけにはいかなかったのですが、それでもどうしても気になったのでしょう。こっそりと会いにきたのでした。そして、まずは適当な挨拶で会話を始めたのです。

しかし、イエスさまはニコデモが来た理由を知っておられました。そこで単刀直入に、いきなりズバリの答え方をなさいます。ニコデモが挨拶して来たような「奇跡」の話題は本質ではなかった。大切なことではなかったからです。2:23には奇跡を見て信じた人たちのことが書かれてありましたが、続く24節には「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」とあります。23節の「信じた」と24節の「任せる」は実は同じピスティスという単語です。奇跡を見てうわべだけで御名を信じるような人々を、イエスさまは信じなかった、信用しなかったというわけですね。対比されているわけです。だからニコデモが奇跡の話で切り出しても、そこは見事なまでにスルーして、しかしニコデモが本当に知りたかったことを答えて行かれました。曰く、「『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」まことに、まことにというのは「アーメン、アーメン」ということです。本当です、という意味です。本当に大切なことを、あなたに向けて、本当に言いますからね、という、イエスさまがよくなさった語りかけですね。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」これはどういうことでしょう。ニコデモにも意味がわかりませんでした。それで4節のような答え方をしています。

<新しく生まれる>
「新しく生まれる」という表現には、「もう一度生まれる」ということに加えて、「上から」生まれるというニュアンスがあります。新しく生まれる、もう一度生まれる、それは「上から」、つまり神さまが与えてくださる「いのち」だということですね。そうでなければ「神の国」を見ることはできない、と。神の国というのは「天国」のことという言い方もできるのですが、それは「死んだ後の天国」ということだけではありません。神の国とは「神さまが支配されるところ」という意味です。主の祈りでも祈るように、天上だけでなくこの地の上でも神さまの御心がなる、その世界のことです。神さまは罪で歪んだこの世界を回復なさろうしておられますが、それはこの地上に、この世界に、この社会に神の国が広がっていくということに他なりません。神さまが与えてくださる新しいいのちを得なければ、それを見ることはできないとイエスさまは言っておられるわけです。

キリスト教用語で「新しく生まれる」と書いて「新生」というものがあります。イエスさまを信じるというのは、これは「新しく生まれる」ということなんです。「聖霊によらなければイエスを主とは告白できない」という御言葉があったように(Ⅰコリント12:3)、新生とは御霊によります。聖霊の働きによって私たちはイエスさまを救い主と信じ、新しく生まれるのです。

イエスさまはニコデモに対して、新しく生まれることの重要性を伝えておられます。しかし、それは、個人個人のそれぞれの内面の救いというだけでなく、神の国について、つまりみなでこの世界に仕えていくというそういう広がりのこととしても言っておられる。福音にはそういう広がりがあるんですね。

<水のきよめ>
さて、5節では「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」とも言っておられるので、上から与えられる新しいいのちとは、水と御霊によって与えられるんだということになります。

今日はこれから洗礼式があるのに、なんですが、ここに書いてあるこの「水」というのは洗礼式の儀式のことではないようです。なぜなら、新生とは、新しく生まれるとは、洗礼を受ける前から起こっていることだからです。イエスさまを信じた時点でのことですよね。ここに書いてある「水」というのは洗礼のことというよりも、テトス書にもあるように、聖霊による洗いのことです。聖霊は私たちを洗ってくださるんですね(テトス3:5-6)。

旧約聖書には「洗い」ということばがよく出て来ますが、その多くは神さまへのささげものに関連しています。祭司がいけにえを捧げる時に動物の内臓を洗うとか、神殿の用具を洗うといった具合です。「洗う」とは神さまにささげものをするという意味なんです。そうすると、聖霊が私たちを洗ってくださるとは、それはつまり、私たちを神さまへのささげものとして聖めてくださるということに他なりません。聖霊は私たちを満たしてくださるお方です。つくりかえてくださるお方です。そして、洗ってくださるお方でもあるのですね。

ペンテコステのこの日、聖霊は私を洗ってくださった。今も洗ってくださるということを思い返したい。私たち教会を聖霊は洗いきよめてくださるんだということを、もう一度思い返したいと思います。

<洗礼とは>
さて、今日はこの後続けて洗礼式を執り行います。洗礼は聖餐式と合わせて、教会が大切にしてきたもので、聖礼典と呼ばれます。

洗礼(バプテスマ)という言葉には、「浸す」とか「沈める」という意味があります。本来は水の中にドボンと沈められて、そこで一回古い自分が死ぬということ、そして水から出ることで、イエスさまの復活のいのちをいただいて新しく生きるということを象徴しています。久遠キリスト教会では、場所の都合もありますし、滴礼という形で水を頭に注ぎかけるようにして洗礼を行なっています。どちらの形であっても、イエス・キリストの名前によってなされる、信仰告白の式です。

一箇所聖書を開きます。ローマ6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」先ほど説明したように、洗礼を受ける人は、イエスさまの十字架で共に死ぬのです。私の罪はもうそこで処分済みになる。罪そのものである私は、そこで死ぬ。でも、よみがえられたイエスさまを信じる者は、同じようによみがえる。復活するのです。そして、新しいいのちで歩む。上からのいのちで歩む。「私たちも、新しいいのちに歩むためです」と、今読んだ通りです。

<キリストの十字架>
ただ、洗礼を受けた後も、イエスさまの十字架を信じて赦しを受け取り、「新しいいのち」で歩み始めた後も、私たちは罪の残骸に苦しみます。聖霊が洗ってくださればくださるほどに、私たちは自分の罪に愕然とします。でも、それこそがイエスさまの十字架の意味だったこと。それこそが、イエスさまが十字架にかかられた理由だったことを思い返しましょう。

罪とは、あれをしてしまったこと、これをしてしまったことという個別のこともそうなんですけど、むしろ、神さまの御心から外れている「状態」そのことをいうんです。聖霊の問いかけを受けて、洗ってくださる聖霊の取り扱いを受けて、思い返す罪があるでしょうか。聖霊が気づかせてくださる罪がきっとあるはずですね。そして、驚くべきことに、なんと、その罪は、あの十字架の上にかかっているのです。あなたの罪は、あの十字架の上にかかっている。わかりますか、十字架の上にかかっているのはかわいそうなイエスさまじゃないんです。十字架の上にかかっているのは、私の罪なんです。イエスさまは、私の罪そのものとして処分されてくださった。

だから。自分のこの罪は、十字架でもう処分済みであることを思い出しましょう。もうその古い自分を後生大事に抱え込む必要はないんです。罪を続ける理由は何もない。スパッと謝って、すっきり悔い改める生き方が、私たちには与えられているんですよ。難しいことかもしれない。でも、古い自分にこだわることをやめて、つくりかえてくださる聖霊の促しに自分を任せていきたいと思います。この自分の罪が赦されているのかと、改めてイエスさまの十字架を感謝し、神さまへの賛美をささげていく。復活の新しいいのちを満喫しながら、心新たに礼拝を捧げていこうではありませんか。

イエスさまが十字架にかかられたのは、私たちが「罪を離れ、義のために生きる」ためです(Ⅰペテロ2:24)。罪の生き方ではなく、新しいいのちを、何度でも、何度でも再確認しながら、この地上の生涯を歩み通していこうではありませんか。地の塩として、世の光として、この身を用いていただけるとは、なんという驚きでしょう。私たちを通して、ここに神の国が広がっていくとは、なんという驚きでしょう。それを目の当たりにできるとは。今日の洗礼式がそのような生き方の始まりとして記念され、また、すでに洗礼を受けた人たちにとっても、よい確認の時となりますようにお祈りいたします。

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【5/29】

エペソ4:16他
ペンテコステ②「聖霊と教会」

ペンテコステを6/5に控えて、先週から聖霊について、聖霊の満たしについて、聖書から学んでいますけれども、今日は聖霊と教会ということについて見ていきたいと思います。

ペンテコステは教会の誕生日、とよく言われます。それは使徒の働き2章に書かれてありますけれども、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊がくだってキリストの復活が力強く証され、イエス・キリストを救い主として信じる人たちが大勢起こされ、信仰者たちの共同体ができたからですね。そしてそこから世界中にキリストの十字架と復活が伝えられていったわけです。確かに、ペンテコステは教会の誕生日と言えるでしょう。

 

しかし、教会と聖霊の関係は、過去にそういう出来事があったということよりも、そもそも聖霊は教会的なお方なんです。聖霊が降られたから教会が始まったという出来事が大切なのは当然なのですが、聖霊と教会の関係は過去の出来事一回だけの話ではありません。聖霊は教会を始められましたが、その後も、それこそ今に至るまで、私たちに関わっておられます。救われた人が聖霊の満たしを求め続けるという意味で、聖霊と関わり続けるように、教会もまた、聖霊に扱われ続けているんですね。ペンテコステのあの日だけでなく、聖霊と教会の関係は今もなお、切っても切れないものなのです。今日はそのことを見ていきたいと思います。

<多様なことばで>
ペンテコステの出来事というのは、「多様なことばでキリストの福音が伝えられた」出来事でした。あの日、炎の舌のようなものが弟子たちの上に留まり、彼らは使えるはずのない様々な外国語で福音を語り始めたのです。それは「異言」と呼ばれる聖霊の賜物でした。聖書には二種類の異言が出てきます。一つは祈りを深めていくための異言、そしてもう一つがこの外国語としての異言でした。ペンテコステの日、聖霊に満たされた弟子たちは、この外国語としての異言を語り始めたのでした。当時、エルサレムには祭りのために世界各地に住むユダヤ人が戻ってきていましたが、彼らは、自分の母国語でイエスの弟子たちが話すのを聞いたのです。「・・・」(使徒2:7-11)多種多様な言語でした。それでいて、語られる内容は「イエスの十字架と復活という神のみわざについて」、このことなのでした。この「多種多様な言語でありながら、一つの内容」というのがポイントです。聖霊は、福音を届けるためにバラエティ豊かな、多種多様な言語を用いられます。

これとは対照的に、多様な言語を強制的に一つにしていた、させていた例があります。バラエティ豊かな人々の個性を認めず、言葉を認めずに、権力のある者たちが強制的に一つの言葉を用いさせていた。創世記に出てくるバベルの塔です(創世記11:1-9)。11:1に「さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」とありますが、これは全世界のことというよりも、このバベルの塔が建てられたシンアル(つまりシュメール)の地のことを言っています。ノアの洪水後、全世界の言葉が多種多様に分かれていった様子は10章に詳しく載っています(10:5、10:20、10:31)。多様な言葉があったのです。しかし、シンアルの地の権力者たちは、自分たちの力を誇示するための塔を建てる工事を始めるにあたり、周辺の民族を力でねじ伏せて強制労働に当たらせたのでしょう。言葉がバラバラでは仕事になりませんから、シンアルのことばを話すように強制したのだと思います。

神さまは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われて、人が世界中に散って、そこでこの世界を管理するために、互いに協力していくことを願っておられました。しかし、シンアルの人々は「われわれが地の全面に散らされるといけないから」と言って、塔を建て始めた。多種多様な言葉を認めずに、自分たちと違うものを認めずに、一つのあり方を押し通して、押し付けたんですね。その結果は、みなさんもご存知の通りです。

ペンテコステに起こったことというのは、このバベルの塔で起こったことの逆なんです。聖霊は多種多様なあり方で、多種多様な言語で、ご自身のわざを進めていかれるお方です。教会もまた、そうでありたい。いや、聖霊によって始まった教会は、本来そういうところのはずなんですね。私たちのうちに、「こうでなければならない」と、自分のやり方を相手に押し付けるようなことがないでしょうか。私たちの教会は、多様なあり方が認められていく集まりでしょうか。ペンテコステの機会に、確認したいと思います。

<聖霊の賜物とキリストのからだ>
次に、「聖霊の賜物」についても見ていきましょう。聖霊は私たちに賜物、ギフトを与えてくださいます。私たちの内に「御霊の実」が実っていくということを先週話しましたが、これも聖霊の賜物です。私たちのうちに、神さまからの愛が溢れてくる。神さまが共にいてくださるからこその喜びがあふれてくる。平安があふれてくる。そういったことですね。ちなみに「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とありますが、これは別々の「実」ではないんです。御霊の実とあるのは単数形です。これらは別々の実ではなくて、こういったいろんな側面のある、いろんな味のするというか、そういう実なんですね。さっきの話ではないですけど、ここにも聖霊の働きの豊かさがあらわれています。

聖書には聖霊の賜物として、他に預言をすることだったり(これは占いのようにして未来を当てるということではなくて、神さまのことばを預かって話すということですね)、異言を話すということなどがあります。先ほども言いましたが、異言には二種類あって、外国語としての異言と、そしてもう一つは祈りを深めていくためのもので、自分にも周りの人にも祈っている内容がわからない、そういう祈りとしての異言の賜物があります。外国語としてのものは、宣教の賜物ですね。その言葉で福音が広がっていく。そして後者は祈りを深めていくためのものです。第一コリント書を開くと、ほかにも、信仰の賜物、癒しの賜物などが出てきます。一人一人にはいろんな賜物が与えられていて、協力しあって奉仕していく。仕えていくんです。少し長いですが、第一コリント12:4-27をお読みします。「・・・」

私たちはそれぞれ賜物を与えられています。それは生まれ持っての賜物かもしれないし、聖霊によって与えられた賜物かもしれません。生まれ持っての賜物も神さまからのものですよね。それこそいろいろな賜物があるわけです。それらは「キリストのからだ」と呼ばれる教会の一つの枝なんです。からだの一つ一つの部分なんです。からだにとって、必要のない部分なんてありません。聖霊によって生まれた教会は、様々な賜物が持ち合わされて建て上げられていく、キリストのからだなんです。私たちは様々な賜物を持ち寄って、バラエティ豊かな、それぞれの個性を持ち寄って教会を建て上げます。バベルの塔ではありません。私たちは、聖霊に導かれながら、キリストのからだを、教会を形作っていくのです。エペソ4:16「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」

何でもできないと思わないでください。多種多様なんですから。「あらゆる節々、あらゆる部分」なんですから。あなたがここにいるというだけが、どれだけこの教会にとって励ましになっていることか。ここに来ることができない方々もおられます、しかしそこで、そのところで一生懸命神さまを見上げているじゃないですか。それはたった一人でも信仰を守り抜くというような立派な生活ではないかもしれなくて、マンネリ化と戦いながらの、ゆっくりとした歩みかもしれません。しかし、それでも、そうやってでも信仰を諦めないで、イエスさまとともに歩むことを諦めないでいる、あなたの存在が、キリストのからだにとって、なくてはならないものなのです。

ペンテコステを前に、聖霊がとてもバラエティ豊かな働き方をなさるということ、画一的なお方ではないということ、私たちにも多様な賜物が与えられているということ、私たちはそれらを持ち寄って、多種多様なあり方を持ち寄って、一つのキリストのからだを建て上げていくんだということを確認しました。来週は、いよいよペンテコステです。聖霊が私たちのところに来てくださったことを、私たち一人ひとりを豊かに用いてくださっていることを改めて感謝する日となりますように。

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【5/22】

ヨハネ7:38他

「ペンテコステに向けて①」

今年は6/5にペンテコステを迎えますが、これが何を記念する日なのか、また私たちはこれを経てどのように生きるように招かれているのか、ということを何週かに分けて聖書から確認していきたいと思います。

 

<三位一体>
聖書の神は、「父なる神、子なるキリスト、そして聖霊の三位一体」です。この世界を造られた父なる神がおられて、私たちが罪を赦されてこの方の御心にそって歩めるように、私たちの救いのためにこの世に来られたのが子なる神、キリストですね。そして、私たちに信仰を与え、イエスさまの十字架と復活を信じさせてくださり、ともに歩み続けてくださるのが聖霊なる神です。注意が必要なのは、三つの神、三人の神さま、じゃないということです。聖書を読むと、神は唯一です。ただおひとり。しかし同時に、三つの位格があることも聖書からわかるんです。「1でありながら3」「3でありながら1」なんですね。普通に考えるとあり得ないことなので、神さまは三位一体の方なんだという枠組みとして捉えて、そこから離れないことが大切だと思います。三位一体を独自に理解するところから信仰がずれていった例が歴史上にたくさんあります。つまり、私たちもそうなりやすいということです。1だけに偏って理解したり、逆に3に偏って理解したり。私たちは偏ってしまいやすいので、聖書を読むこと、そして教会の交わりの中でお互いの信仰に教えられていくことが大切になってきます。

 

<信仰の歩みを助けてくださる>
先ほども少し触れましたが、聖霊は私たちに信仰を与え、私たちの内に住んでいてくださる方です。先週の「救い」についてもそうでしたが、「聖霊」についても、天地創造から新天新地までの流れの中で理解するということが大切です。神さまがもともと持っておられたご計画に「立ち返る」、神さまがデザイン通りの生き方に「立ち返る」、それが「救い」でしたが、聖霊はその生き方を助けてくださる方だということです。私たちが自分の望む通りに生きることを助けてくださるのでも、私たちの自己実現を助けてくださるのでもありません。私たちが、神さまのデザインされた生き方に戻る、立ち返る、そのことを助けてくださり、救われた後も共に歩み続けてくださる。私たちの信仰の歩みを助け続けてくださるのが聖霊です。

<信仰の与え主>
聖霊は信仰を助けてくださるのですけれども、そもそも、その信仰すら聖霊が与えてくださるものです。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」と書いてある通りです(Ⅰコリント12:3)。聖霊が私たちに信仰を与えてくださいます。私たちは自力でイエスさまを信じたのではなかったはずです。伝えてくれる人がいて、神さまの導きの中で信仰に至ったはずですね。振り返れば、すべて神さまの恵みだったのです。信仰の根拠が私たちの側にあるのなら、こんなに不安定なことはありません。私たちの心や意思は、右にずれたり、左にずれたり、揺れ動くからです。しかし、神さまの側で、あらゆることを用いて私たちに信じさせてくださる。聖霊が私たちに、イエスこそ主だと、救い主だと信じさせてくださるのですね。神さまが責任を取ってくださいますから、安心して信じていけばいい。この方について行けばいいのですね。

<聖霊に満たされる>
聖霊は私たちの内側に住んでくださる神の霊であり(Ⅰコリント6:19)、私たち信じる者のうちには聖霊がおられます。これは確かなことです。その上で、パウロは、すでにクリスチャンになっていたエペソの教会の人たちに向けて「御霊に満たされなさい。」と言うのです(エペソ5:18b)。これは「満たされ続けなさい」という意味です。聖霊に満たされる、満たされ続けるとはどういうことでしょう。聖書は聖霊のことを水や風にたとえていますが、中でも水のたとえは「聖霊の満たし」という表現につながっていきます(「使徒の働き」の随所など)。私たちのうちに、命の水が満ち満ちていく。あふれるくらいに、満ちていく。私たちの内側に住んでくださっている命の水が、満ちあふれていくんです(ヨハネ7:38)。神さまの思いが溢れてくるということでもあるでしょう。するとまた、私たちの神さまへの思いもまた溢れてくる。そうやってクリスチャンとして成長していくんですね。

だから、私たちは聖霊の満たしを求め続けなければなりません。「満たし」という言葉は100%の満たしを表します。私たちの実際は、罪の思いに溢れています。でも、だからこそ、聖霊に満たされていくことを願い、祈り求めていこうではありませんか。

<罪を知り、十字架の恵みを知る>
注意しなければならないのは、クリスチャンとしての成長とは、何か立派なお祈りができるようになるとか、聖書の表現をたくさん覚えるとか、そういったことで測られるものではないということです。何があっても倒されないような、鋼の信仰をもったとしても、クリスチャンとしての成長はそういうことで測られるものではないのです。

「(聖霊は)罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。」とあるように、聖霊に満たされると、私たちは自分の罪に気がつきます(ヨハネ16:8)。満たされれば満たされるほどに、自分の隠された罪があらわにされるのです。神さまの前にどれほど高慢な態度を取っていたかを思い知らされて、へりくだらされます。そうやって低くされればされるほど、そこにさらに聖霊が満ちてくださる。そして、イエスさまに似た者へと、つまり神さまが願っておられる生き方へと、私たちは変えられていくんです。イエスさまこそ、まさにへりくだられたお方でしたから(ピリピ2:6-9)。

<聖化の歩み>
「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)

クリスチャンとして成長していくということは、イエスさまに似た者として成長していくということです。「聖化」といいます。しかし、神になるということではありません。神さまは創造主。私たちは被造物。聖書は「私たちも神になる」ということは教えていません。イエスさまのコピーになるということでもありません。しかし、もともと人は神のかたちであるイエスさまに似たものとして造られた(コロサイ1:15、創世記1:27)、そのそのあり方に回復していくということです。私たちのうちに神のかたちが回復していく、それこそがクリスチャンとしての成長なのです。

イエスさまに似た者として変えられていく、などと言われると、まったくそのようになっていない自分を見て、愕然とします。自分はクリスチャンとして成長していないのではないかと思わされます。でも、それがまず一歩です。私たちは失敗しますけれども、何度でも起き上がって、そこからまた始めていけるのです。イエスさまの復活と同じように、今、ここで、私たちも起き上がることができるからです(「復活」とは「起き上がる」の意味)。また、聖霊による成長のことを「御霊の実」という表現で表します(ガラテヤ5:22-24)。桃栗三年柿八年ということわざもありますが、実が実ることには時間がかかります。それでも、「そうこうしているうちに」実が実っていくのです(マルコ4:27)。

<結果ではなくプロセスが大事>
聖霊に満たされていく、聖霊と共に歩むという時に、大切なのはその結果どうなったかということよりも、聖霊と共に歩むそのプロセスです。聖霊による満たしが必要だということ、聖霊に伴っていただかなければダメなのだということに気がついて、聖霊の満たしを求めて祈っていく、そのことが大切なんです。聖霊に満たされることを願い、神さまを無視する心の向きを変える(悔い改める)。何度でも変える。それはある意味戦いです。でも、聖霊は必ずあなたをつくりかえてくださいます。

イエスさまに似たものにつくりかえられ、きよめられていく「聖化」とは、それはつまり、イエスさまと共に歩み続けることそのものなんだということです。つくりかえられて何かに変わるというよりも、イエスさまと共に歩み続けること。それが聖化です。そうやって聖霊が私たちをつくりかえていてくださるんです。聖霊のお働きに、自らをお任せしていきましょう。

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【5/15】

ヨエル2:32
使徒4:12

「救いとは」
 

今日のローズンゲンの御言葉から、「救い」について聖書から確認したいと思います。救いとはなんでしょうか。救われるとはどういうことなのでしょうか。私たちの罪が赦されて、神の子とされる。永遠のいのちが与えられて、天国に行くことができる。どれも合っていると思うのですが、それがどういうことなのか、罪の赦しとは、永遠のいのちとは何なのか、聖書が語っているところを確認していきたいと思います。

<聖書の文脈>
聖書は神さまがこの世界をつくられたところから始まり、新天新地をつくられるところで終わります。それが神さまのご計画なんですよね。歴史の流れとその向かう先という言い方もできると思います。救いも含めて、聖書に記されていることは、この流れの中で理解することが大切だと思います。

神さまがつくられた世界は、もともと素晴らしい世界でした。創世記一章、二章があらわす美しい世界です。そこでは人が協力しあって世界を正しく管理していました。人は自分自身を、また隣人をそのままで愛し、受け入れていました。神を愛し、その御言葉に従っていたのです。

しかし、そこに罪が入りました。人は神のことばを無視するようになり、自分を隠すようになり、隣人を受け入れることができなくなりました。事実、私たちはそうですよね。

救いとは、そういう罪の状態から新しくされるということです。神さまがつくられたこの世界に、神さまの愛があらわされていくという当初のご計画のために、もともと神さまから与えられていた、神さまにデザインされた生き方を思い出すことです。世界をよく管理することも、隣人と協力し合うことも、自分自身を愛し、隣人を愛し、何よりも神とその御言葉を愛する生き方を、私たちは忘れてしまっている。罪でそれを忘れてしまっています。しかし、そこから新しくされる生き方があるのです。

<キリストの十字架>
「罪が赦されるためには血が流されないといけない」というのが聖書の教えの枠組みにあります。罪のない神の子の血です。それがイエスさまの十字架の意味でした。イエスさまの十字架の血はあなたの罪を赦します。それは、今までの過ちはもう全部チャラにするから、あとは好きに生きていいよということじゃないんです。もともと神さまがデザインされた生き方を思い出しなさい、聖書に記された神の愛に生きる生き方を今一度歩み直しなさいということですね。

<永遠のいのち、神の国>
ただ、救われたからといって、その生き方を自力で進めていくことは無理な話です。私たちは何度も転びます。失敗する。でも、その度に新しいいのちで歩み直すことができる。聖霊がそうさせてくださる。新しいいのち、復活のいのちが与えられているからです。イエスさまの復活はその証拠なんです。イエスさまが復活されたように、私たちも復活します。それは、やがての主の再臨の時に復活するというだけでなく、今日、今この時も私たちは復活を経験できる。それが新しいいのち、永遠のいのちです。私たちは何度も起き上がりながら、救われた者として、神さまの御心を求めながら、神さまがデザインされた生き方を聖書から確認しながら、この地で、地の塩として、世の光として生きていきます。私たちを通して、ここに神の国が広がっていく。それが救いです。私たちが、何度でも何度でも、聖書から神様の願っておられることを確認し、そこに立ち返り、地の塩、世の光として何度でも生き直していく。そのことで、ここに神の国が広がっていくんです。そのために私たちは救われたのだということです。

神の国では、神さまがもともと願っておられたような生き方がなされます。人々が神とそのことばを愛し、自分自身を愛し、また隣人を愛していくあり方です。協力しあってこの世界を正しく管理していくんです。自然環境だけでなく、人間社会も痛みと破れだらけですよね。そこに神さまの愛を表していく。神さまが願われた通りにこの世界を管理していく。この世界のために仕えていくんです。

世界は救いを必要としています。ここに神の国が広がっていくことを必要としています。罪だらけの私たちが、欠けだらけ、ヒビだらけの私たちが、そのために用いられる。聖霊が私たち一人ひとりをそのように用いてくださいます。救いとは、なんと驚くべきことでしょう。

<イエスの名だけ>
使徒の働き4:12にはこうあります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていない。」救いの根拠は、自分自身の何かじゃない。この方以外の何かでもない。私たちが救われるには、もともと神さまがデザインしてくださった、本来の生き方に戻るには、イエス・キリストの名前だけなんだということですね。

招きの言葉で読みましたが、ヨエル書2:32にこうあります。「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」救われるためには、イエスさまの名前が必要です。イエスさまの名前を呼ぶことが必要なのです。名前というのはその人の本質を表します。聖書の世界観では特にそうです。イエスの名を呼ぶこと、それはつまり、イエスさまを信じるということにほかなりません。イエスさまを信じる、そのことだけなんですね、救われるためにはい。だから安心して信じて入られます。救いの根拠が自分の立派さだったり何かだったとしたら、こんなに不安なことはありません。でも、救いの根拠はイエスさまの側にあります。だから、私たちは救いの確信を得られます。

「信じる」というと、本当はそうじゃないかもしれないけど、そう思うことにするというような意味で捉えてしまうかもしれません。しかし、聖書が言う「信じる」というのは、そういうあやふやなものじゃありません。ある先生が、キリストを信じるとは「キリストに帰る」ことと言い換えておられました。私たちが帰るべき場所はどこでしょうか。イエスさまのところ以外にないですよ。さあ、今、イエスさまのところに帰ろうではありませんか。すでに救われている人は、その喜びを今一度思い出そうではありませんか。何度でも、私たちはイエスさまのところに帰るんです。「悔い改める」という言葉も、向きを変えるという意味ですから、私たちは何度でもイエスさまのところに向きを変え、向きを変え、イエスさまのところへ帰っていきたい。イエスさまが願われる生き方へと戻っていきたい。そう願います。

今日は「救い」ということについて確認しました。赦されて、すべてチャラになって終わりじゃなくて、神さまが願っておられる神さまのご計画に戻っていく。イエスさまの願っておられる生き方に帰っていくということですね。この救いを、その喜びをいつも思い出していたいと思いますし、そしてまたこの喜びを伝えていきたいと思います。

 

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【5/8】

ヨハネ21:15〜17②
「キリストの友として」

<「わたしを愛していますか」>
イースターが終わった後も、しばらくイエスさまの復活に関連した聖書箇所を読んでいますけれども、今日も先週に引き続き、ガリラヤ湖畔での出来事を見ていきます。復活されたイエスさまがペテロに対して、「あなたはわたしを愛していますか?」と問われた場面です。

最初に少し振り返りますが、イエスさまが「あなたはわたしを愛していますか?」と問われたのは、イエスなんか知らないと三度も言ってしまったペテロに皮肉を込めて、意地悪な質問をされたのではありません。イエスさまが「愛する」と言われたのは「アガペー」と言って無条件の愛をあらわす言葉でしたけれども、イエスさまを裏切ってしまったペテロに対して、「何があってもわたしを愛し抜きますか?」と問われたのではありません。イエスさまは十字架にかかられる前夜、「互いに愛し合いなさい。」という新しい命令を教えられており、それも「アガペー」でした。つまり、私たちがイエスさまを愛することと、私たちが互いに愛し合うこと、それはコインの裏表のように一つのことなんですね。イエスさまを愛するということは、他の人のことも愛するということなんです。だから、ペテロに向けて主は「わたしの羊を飼いなさい」と、隣人を愛すること、面倒を見ることを励ましておられるわけです。イエスさまを愛することと、隣人、となりびとを愛することは一つです。

アガペーの愛は無条件の愛です。感情的に好ましいから、愛せるから愛するのではなく、「〜だから」愛するのではなく、「〜にもかかわらず」の愛です。しかし、無条件の愛で愛し合うと言っても、その愛は私たちの内側からは出てきません。大切なことは、この愛はまず、イエスさまが私たちを愛してくださった愛だということです(ヨハネ3:16)。私たちの内側から出てくる愛ではなく、まずイエスさまが愛してくださった愛です。自分自身のことを知れば知るほど、こんな私が神さまから、無条件に愛されているということに気づいて、驚いていきたいと思います。イエスさまが愛してくださったから、私たちは愛することができるのです(Ⅰヨハネ4:19)。聖霊が私たちを助けてくださり、この愛の道を歩ませてくださいます。愛は御霊の実の筆頭です。聖霊がこの愛を与えてくださる。実らせてくださいます。

<ペテロの応答>
さて。では、ペテロはそのアガペーの愛を理解していたのかと言われれば、理解していなかったか、もしくは聞いていたはずのその教えを忘れていたようです。主イエスはここで「互いに愛する」ということを踏まえて言っておられるわけです。「わたしを愛していますか」、つまり「わたしを愛し、互いに愛し合いますか」と。だからこそ、他の人にも心を配るようにと、「わたしの羊を飼いなさい」と言われているわけです。しかし、ペテロにとってはイエス様への忠誠心を試されているようにしか聞こえなかったようです。後悔の念で心がいっぱいになっていたからでしょう。心を刺されたペテロは、もじもじと回りくどい言い方をしてしまいます。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」いつものペテロのように、「はい、主よ、私はあなたを愛しています!」と勢い良く言ってほしいところです。しかしペテロは、後悔と自責の念でいっぱいになっていたのでした。「絶対に、死んでもあなたを知らないなどとは言いません」などと大きなことを言っておきながら、ペテロはイエス様を裏切ってしまったのですから(ルカ22:54-62、ヨハネ18:15-27)。聖書では「三」というのは特別な数字です。ペテロは、イエス・キリストなど知らないと、三度、完全に否定したのです。だから、もじもじと回りくどい言い方になってしまいます。

注目すべきは、イエス様はアガペーの愛をあらわす「アガパオー」という言葉で問いかけられたのに対して、ペテロはフィリアの愛、友情の愛をあらわす「フィレオー」で答えているということです。「愛」についてのやりとりなんですが、それが食い違っているんですね。脚注付きの新改訳聖書をお持ちの方は、コメ印がついていてよく分かると思います。続けて見ていくと、16節での二回目の問いも、イエス様はアガパオーで問いかけられ、ペテロはフィレオーで答えています。

イエス様の問いかけで責められているように感じてしまったのですから、ある意味当然の答え方だったかもしれません。私はあなたを無条件で愛することなど出来ませんでした。私はあなたを裏切ってしまいました。とても「アガパオー」では答えることが出来ません。しかし、せめて、キリストの友でいたい。せめて、イエス様、あなたの友でありたい。「フィレオー」は友情の愛、友愛を表す言葉だと先ほど言いましたが、ペテロの心中はそのようなものだったと思うのです。これをやってしまったから、もう取り返しがつかない。こうなってしまったら、もうおしまいだ。イエス様に顔向け出来ない。でも、主よ、私はあなたと共にいたい。あなたの友でありたい。このペテロの感情は、私たちにもよく分かるものではないでしょうか。

しかし、主はペテロを責めておられるのではありません。弟子としての忠誠心を試すような、意地悪な質問をされたのでもありません。主イエスの新しい戒めを踏まえてのこの「アガパオー」は、私たちが互いに愛し合うということです。無条件に、互いに愛し合うこと。それがイエス様の言われた「アガペー」です。それがイエス様を愛することにつながる。

イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われます。小さな立場の人たちを愛するように、また16節や17節では「小羊」だけではなく「羊」とも言われています。教会にはいろんな人がいます。分け隔てなく、みなを愛するように、羊飼いが羊を牧するように養い育てなさいと言われるのです。私たちは神を愛すると自覚していますけれども、お互いに愛し合うことがなければ。牧し合うのでなければ、私たちの神への愛は歪んでいるのです。他の人がそこに神の愛を認めることができないのなら、私たちの神への礼拝は歪んでいるのです。

私たちの神への愛は、そのようなアンバランスなもの、偏ったものになりがちなのですが、いや、事実アンバランスなのですが、イエス様の方から、御声をかけてくださる、御言葉をかけてくださっていることに慰められます。自らの愛の歪みを知り、「私はあなたを愛します」と大声で告白出来ないそんな時にでも、主は繰り返し、繰り返し、その御言葉をもって、「互いに愛し合う」新しい生き方へと、私たちを導いてくださるのです。

<三回目はフィレオー>
さて、17節です。「…」ここに至って、イエス様の問いかけの調子が変わります。それまでは「アガパオー」で問いかけていたのに、脚注をご覧ください。ペテロに対して三度目は「フィレオー」で問いかけられているのです。イエス様は、ペテロに対して「アガペーの愛で愛し合う生き方」を求めることを、あきらめたのでしょうか。ペテロはとうとう、あきらめられてしまったのでしょうか。

結論から申し上げれば、イエス様はペテロをあきらめたりなさいません。17節の最後では、同じように「わたしの羊を飼いなさい」と、互いに愛し合うことを励ましておられます。また、今日は見ることが出来ませんけれども、18節以降、特に19節で、ペテロを「神の栄光をあらわす器」として見ておられることが分かります。主はペテロをあきらめたりなさいません。同じように、主は私たちを、あなたをあきらめたりはなさいません。

まず、三回問いかけられたということ。それは、ペテロの失敗の回数でした。あの痛恨の極み。イエスなど知らない、と三度も言ってしまったあの出来事にイエス様は寄り添ってくださるのでした。主はペテロが何回否定したか、ご存知でした。主はペテロの弱さをご存知で、そしてその回数分だけ、何回でも、失敗に付き合ってくださるのです。ペテロは三回問いかけられました。私は、いったい何回問いかけられることかと思います。私は自分の信仰生活の中で、どれだけイエスさまの声を無視してしまっているか。互いに愛し合うというイエスさまの新しい教え「アガペー」から、遠く離れた自分の現状を見ます。やっぱり、条件付きの愛になってしまう自分の現実を見ます。しかし、それでも、主は私たちを見放さず、その失敗が深ければ深いほど、御声を、御言葉をかけ続けてくださいます。だから、大丈夫なんですね。

そしてまた、イエス様があえて「フィレオー」で問いかけられたということ。これは、ペテロに対して求めるレベルを落とされたということではありません。「わたしの羊を飼いなさい」とありますから、主は依然として「互いに愛し合うアガペー」を求めておられます。では、なぜここへ来て「フィレオー」と言葉を変えられたのでしょう。

この違いにはあまりこだわる必要はないという解釈もあるのですが、三回の否認に合わせて三回問いかけられた、その最後の締めの質問だったことを考えると、やはりこの「フィレオー」は大事なんだと思います。この言葉こそが、悔い改めと回復のプロセスのまとめだったということです。イエス様は、罪ゆえの弱さに落ち込む私たちを励まし、新しい教えに生きるようにと一貫して私たちを導いておられて、その意味では依然として「アガパオー」なのですが、そのまとめとして「フィレオー」、「さあ、わたしの友として生きなさい」と招いておられるのではないでしょうか。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを友として愛しますか。」キリストの友として生きる、そのことが、私たち一人一人にとって、回復のプロセスのまとめなのです。

キリストの友として生きる、そんなことは、クリスチャンなら誰だって願っていることです。ペテロだってそうでした。だからこそ、今まで三回問いかけられて、ずっと彼も「フィレオー」で答えて来たのです。ペテロは初めから心を痛めて来ました。イエス様を裏切ったのですから。17節に改めて「心を痛めて」と書いてあるのは、三回なら三回失敗に付き合ってくださったイエス様の愛に気づかず、自分は回復のプロセスの中に置かれているということに気づかないペテロの呻きであると思われます。主からの励ましの問いかけを、責められているようにしか受け取れず、主が「わたしの友でありなさい」と言ってくださったのに、なお、心を痛めているペテロの姿です。

私たちも、日々、イエス様を裏切ってしまう存在ではないですか。そして、そのことを悔やみます。主の方では、私たちを癒すための段階を経てくださっているのですが、そのことにも気づかないでいることが多い。私たちは、自分の弱さのゆえに主イエスに従えないことにずっと心を痛めて来て、その間の主のお取り扱いにも気づくことなく、相変わらず呻いているということがないでしょうか。

<主は共にいてくださった>
詩篇73:21-23にこうあります。「…」。ここで歌われているのは、自分の努力で主のもとに留まり続けましたという自負というよりも、獣のような私と主は共にいてくださっていたという驚きだと思います。キリストの友としておれないことに心を痛め、こんな自分ではクリスチャンと言えるのだろうかと呻く時。獣のような心でわめく時。しかし主が、主の方で、私たちと共にいてくださる。

私たちが、キリストの友たり得ないと落ち込む時、私たちがキリストの友でありたいと願う時、まだ見ていない、キリストの友としての自分を望む時、聖霊が私たちとともにうめいてくださいます。ローマ8:25,26「…」この御言葉は、まだ見ていないものを待ち望む、この世界が、そして私たちが神さまのみこころの通りに回復するその姿を待ち望む、それと同じように聖霊様も私たちの成長を待っていてくださるという文脈で語られています。まだ見ていないものを待ち望む呻きなんです。さあ、キリストの友としての自分を待ち望もうではありませんか。聖霊も呻きながらそれを待ち望んでいてくださるというのですから。

ヨハネの福音書に戻ります。「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です」と、ペテロは心を痛めて言いました。主は私たちの弱さを全てご存知です。どんな時にキリスト抜きで物事を考えてしまうか。どんな時にキリストを否定して自らの身を守ろうとするか。主は全てご存知です。それと同時に、主は、心の奥底で、私はあなたの友でいたい、私はあなたについて行きたい、私はクリスチャンでありたいと願うその呻きをも知っておられます。主は知っていてくださる。主は「あなたを見放さず、あなたを見捨てない」とおっしゃいました(申命記31:8)。大丈夫。私たちは、キリストの友として召されています(ヨハネ15:15)。

それは、「互いに愛し合う」という生き方です。主は言われます。「わたしの羊を飼いなさい。」(v17)キリストの友として、キリストの新しい教え、互いに愛し合うアガペーの愛に生かされる者でありたいと願います。それこそが、私たちに与えられた召し、使命なのです。教会とはそういう者たちの群れです。復活のイエス様により頼みながら、互いに愛し合う生き方へとさらに導かれていきましょう。主は必ず、私たちをキリストの友として成長させてくださいます。そのことを信じ、待ち望みつつ、主があらわしてくださる新しいことに、期待していきたいと思います。

 

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【5/1】

ヨハネ21:15〜17①
「キリストを愛する」

<「わたしを愛していますか」>
復活されたイエスさまはガリラヤ湖で弟子たちに会い、焚き火を囲んで食事をとり、ペテロに三度「あなたはわたしを愛していますか?」と問いかけられました。その問いは、イエスさまが捕らえられた時に「イエスなど知らない」と三度否定した事実に、ペテロを否が応でも向き合わせたはずです。イエスさまと出会う時、イエスさまに気がつく時、私たちは自分の過ちと向き合わされます。神から的を外している状態(罪)に気がつかないふりをしていたり、蓋をして見ないふりをしていた事柄に、しっかりと向き合わされるのです。

ところで、イエスさまが「あなたはわたしを愛していますか?」と聞かれたことの意味は、「お前はわたしを知らないと言ったよな?」という断罪ではありません。イエスさまは「わたしの子羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と、ペテロを励ましておられたのです。私たちのことも同様です。主は私たちを癒し、回復させて立たせ、そして与えられている使命を再度確認してくださるお方です。

「愛する」という言葉は、「アガパオー」(無条件に愛する)というギリシャ語で記されています。上に書いたように、イエスさまはペテロを断罪しているのではありませんから、これは「困難をものともせずに、わたしを無条件に愛し抜きなさい」という意味ではありません。捕らえられた晩に、イエスさまは「新しい戒め」として互いに愛し合うことを命じておられましたが(ヨハネ13:34,35)、それも「アガパオー」であったことを思い起こすと、イエスさまを愛することと、私たちが互いに愛し合うことは表裏一体なのだということです。それが「わたしの子羊を飼いなさい」という、他の人たちの面倒を見て世話をしなさいということに繋がっていきます。

私たちは多かれ少なかれ、イエスさまを裏切って生きています。その汚名を挽回するには、互いに愛し合うことに尽きるのですね。アガペーの愛は無条件の愛です。感情的に好ましいから愛するとか、仲が良いから愛せるというものではありません。受け入れることが出来るから、好ましいから、「〜だから」ではなく、「にもかかわらず」の愛です。イエス様はペテロにアガペー、無条件の愛で愛し合うことを問われたのです。

<神の愛>
それは、まず神さまが私たちを愛してくださった愛でした。聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネ3:16にはこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子(キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」聖書の神は、私たちが何が出来る、出来ないに関わらず、立派で有る無しに関わらずに、私たちを愛していてくださいます。私が私だから、神に受け入れられている。大切に思われている。あなたがあなただから、他の誰でもないあなただから、神はあなたのためにいのちまで投げ出した、それが聖書のメッセージです。神の愛は無条件の愛、アガペーです。「神が私たちを」愛してくださったのです。

この神の愛で愛された者は、互いにアガペーの愛で愛し合うのです(Ⅰヨハネ4:19)。神に愛されたからと言って、私たちのうちからアガペーの愛は出てきませんから、聖霊の助けが必要であることは言うまでもありません。イエスさまは「新しい戒め」に続けて聖霊の約束を与えてくださいました。この聖霊が、私たちの歩みを全うさせてくださるのです。「聖霊に満たされる」とは、自分が恵まれて充実した気持ちになるためではなく、キリストの新しい教え、アガペーの愛に生きることが出来るようにと、求め続けていくものなのです。

イエスさまに対して熱心である、信仰に熱心であるように見えて、隣人への愛を忘れてしまっているのなら、それはアガペーの愛を忘れてしまっているのです。神に愛された者として、イエスさまからアガペーの愛を託された者として、私たちは自分自身の生き方を点検したいと思います。隣人とは誰でしょう。目の前の家族や友人はもちろん、地域社会において弱い立場の人たち、世界に目を向ければ戦争・紛争によって難民となった人々。彼らの隣人に私たちがなっていっていくということを、今日の箇所から教えられ、迫られています。

次週は、ペテロの応答についてもう少し詳しく見ていきます。

 

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【4/24】

ルカ24:13〜43
「気づかせてくださる主」

イエスさまがよみがえられた日、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に出かけて行きました。二人はエルサレムで起こった一連の出来事について語り合ってましたが、そこにイエスさまご自身が近づいて来られました。しかし、二人の目は「さえぎられていて」、イエスさまだとは分からなかったのです。

 

イエスさまはよみがえられました。復活されました。そしてそばにいてくださいます。しかし、そのことに気づけない時があるのです。この二人の弟子のように。また、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちのように(ヨハネ21:4)。私たちはどうでしょうか。私たちの目は開かれているでしょうか。

 

エマオの途上の弟子たちも、ガリラヤ湖の弟子たちも、最終的にはイエスさまに気がつきます。イエスさまが気づかせてくださいました。このこと自体に励まされる思いがします。私たちの方から、何としてでも気がつかなければ、というのではありません。イエスさまが、イエスさまの方から、ご自分をあらわしてくださいます。私たちにできることは、それに気がつかないふりをしないことだけです。

信仰というと、私たちが自分で頑張って何かを信じるというイメージがあるかもしれません。イエス・キリストという神さまを選んで、それを信じることにする、というようなものです。しかし、イエスさまは言います。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」(ヨハネ15:16)イエスさまの方から私たちを選んでくださったというのです。「選び」とは、「選ばれていない人」と比べるためのものではなく、この信仰が私由来のものではなく、神さまからの頂きものであり賜物であること、だから自らの不安定さに悩む必要はなく、救いは確実であることを再確認するためのものです。イエスさまは続けてこうも言っておられます。「それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」(同16-17節)イエスさまの愛の教えに生きる、そしてそれを伝える。イエスさまはそのために私たちを選んでくださったのです。

二人の弟子は復活のイエスさまに出会い(気がついて)、「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」と語り合います(ルカ24:32)。イエスさまは私たちの人生の旅路の折々に、その道々において、語りかけていてくださり、そして私たちの心はイエスさまの愛に感動して燃えていたはずなのです。二人はエルサレムに取って返し、復活の主イエスに出会ったことを証しました。

さあ、今度はあなたの番です。私たちの番です。復活のイエスさまに気がつかされて、その語りかけを思い起こしたい。そして、燃える心で主イエスの復活を証言していきたい。心からそう願います。

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【4/17】

Ⅰコリント15:20

「キリストはよみがえられました」

 

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

 

イースターおめでとうございます!主はよみがえられました。イエス・キリストの復活は、キリスト教信仰の核です。聖書は、やがて私たちも死後に復活することを力説していますが、キリストの復活はその初穂であり、もしキリストが復活しなかったのなら、私たちが復活するはずもないと言い切ります(Ⅰコリント15:12-20)。

復活とは、やがての将来のその日のことだけではありません。生きている限り、私たちは何度も倒れ、つまづきますが、その度に起き上がる(復活と同義)ことができます。初穂であるイエスさまが復活されたからです。私たちはやがて、そして今も、起き上がり続けることができるのです。

キリストの復活は、聖金曜日の受難日から足掛け三日後の日曜日に起こりました。だから教会では日曜日を主の日として、この日に礼拝を守ります。毎週の礼拝は(今はそれぞれでの礼拝だったとしても)、イエスさまの復活を祝うためのものなのです。

イエスさまが復活した時、弟子たちはそのことを信じられませんでした。彼らは泣いたり、閉じこもったりしていました。私たちも、復活を信じることが難しい、むしろ信じられなくて立ち上がれない時があります。目の前に主イエスがおられても気がつかないのです。私たちの主はよみがえられたのであり、私たちもまた立ち上がることができるのに、トマスのように「信じない」と意地を張ってしまう時があるのです。むしろ、それが私たちだと言えるでしょう(ヨハネ20章)。

しかし、イエスさまの方から近づき、ご自分を表してくださいます。私たちの名前を呼び、平安があるようにと声をかけてくださるのです。

信仰に停滞感を感じている時、仕事に行き詰まりを感じている時、日々の生活が閉塞感に包まれているような時に、私たちはまた立ち上がることができます。自力で立ち上がるのではなく、イエスさまが声をかけてくださるから、御言葉を思い出すことができるから、私たちは再び立ち上がることができるのです。

立ち上がることなどできないという方は、その期間を大切になさると良いと思います。十字架刑の三日後に復活があったように、キリストが三日、墓の中で休まれたように。必要な期間を経て、立ち上がれる日がきっと来ます。

賛美の動画:「よみがえりの主」
https://youtu.be/GkvchDeB1bo

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【4/10】

テトス2:14

「キリストの十字架」

「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」

毎年、イースターの前の週は「受難週」と言って、イエス・キリストの受難(十字架にかかるという苦しみ)を特に覚えて偲ぶ期間とされています。受難週の最初の日曜日は「棕櫚(しゅろ)の日曜日」といい、イエスさまがエルサレムに入城された際に群衆が棕櫚の葉を振って迎えたことを記念します。それは王の入城でした。しかし、力で押さえつける王ではありません。自らのいのちと引きかえに私たちを生かす王です。

罪で歪んだこの世界を新天新地に作り変え、神の国を完成させるために、私たち一人ひとりには、神を愛し、人に仕え、世界を管理していくという役割が与えられています。キリストの十字架と復活が私たちに新しい命を与え、愛を示し、赦しを教えて、神の与える使命と役割に邁進させるのです。

そのためには、イエスさまが十字架にかからなければなりませんでした。イエスさまの十字架の死は、あなたにいのちを与えるためです。あなたの罪が赦され、あなたの古きが刷新され、あなたが神の与える使命に生き抜くことができるためです。

イエス・キリストの十字架を信じて、新しい生き方を始めませんか?新しい生き方を、何度でも始め直してみませんか?

あなたのために、十字架を背負って歩んだ王がおられること。十字架の上でご自身をささげ、私たちのために祈られた王がおられること。それが私たちの王なる主イエスであることを、今週また思い返すことができますように。

賛美の動画:「どうしてそこまで」(録音)

https://youtu.be/eficY8oApQ0

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【4/3】

創世記21:17−18
「癒しを運ぶ者として」

「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたからだ。立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。わたしは、あの子を大いなる国民とする。」

荒野に追放された女奴隷ハガルとその息子イシュマエルは、水も尽きてしまい、いつ死んでもおかしくない状況下にありました。ハガルがアブラハムのもとを出ざるを得なかった経緯は省略しますが、理不尽に追い出された悔しさと、水がなくなったことへの焦りと、目の前にある死への恐怖と。どれほど過酷だったことかと思います。弱り果てた息子を一本の灌木の下に投げ出して、ハガルは離れて泣いていました。

17節、神は少年のうめく声を聞かれ、天の使いを通してハガルに、少年を起こして抱く(以前の翻訳では「力づける」)ように伝えます。そして神はハガルの「目を開き」、彼女は井戸を見つけて水を得るのです。神は彼らと共におられ、イシュマエルは力強く成長していきました。

この場面から教えられることはいくつかありますが、まず「神はイシュマエルの声を聞かれた」ということです。「声をあげて泣いて」いたのはハガルであり、その泣く声を聞かれたと書かれていても良さそうな場面ですが、神さまはむしろ、描かれてすらいない、弱り果ててうめいていただろうイシュマエルの声を聞かれたというのです。神さまは、最も弱い立場の人を見捨てられはしない。私たちの声にならないうめきもすべて聞いていてくださる。そんなことを思います。

次に、ハガルはイシュマエルを起こして抱きかかえ、力づけることができましたが、それはまずハガル自身が神さまの御声に慰められ、助けるための具体的な力(水)を得たからです。ハガルが聞いた「神があの少年の声を聞かれた」ということばは、イシュマエルが生まれる前、身重のハガルが最初に荒野を放浪した時に神さまから励まされた内容でした(イシュマエル=「神は聞きたもう」)。神のことば(ダーバール)と、神さまの恵みの出来事(ダーバール)を思い出すことは、私たちを励まし、目の前の人を助ける力を与えるのです。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」(Ⅱコリント1:4)。

ウクライナやシリアの難民キャンプで、震災の避難所で、コロナ 病棟のベッドの上で、死と隣り合わせの人たちは今もたくさんいます。私たちはそのその痛みや苦しみを経験してはいないかもしれません。理解することも難しいかもしれません。しかし、愛とは想像力です(逆に、愛の対義語は無関心になります)。自分と同年代の、自分と同じような状況の誰かのことを思い描き、その人のために祈ることができます。また、難民支援の団体に献金をすることもできるでしょう。

そして、もし、想像ではなくリアルに自分と同じ体験をして弱っている人がいたなら、手を差し伸べたいと思います。そのためにも、まず、あなた自身が癒されてください。神さまの声を聞いて、過去の痛み、うずく傷から、あなた自身が癒されること。そして、今度はあなたがその癒しを人々に届ける器となること。神さまはそれを願っておられるはずです。
 

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【3/27】

マタイ25:40
「終末の時代に大切なこと」

<終末の出来事>
弟子たちがエルサレム神殿の見事さに目を見張っていた時、イエスさまは「ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」と言われました。弟子たちが「いつ、そのようなことが起こるのですか。世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」と尋ねると、イエスさまは「終末」のことについて話し始められます(マタイ24章)。

 

<戦争や疫病、天変地異について>
イエスさまは言われました。「また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こります。」このように聞くと、「戦争も神の計画なのか」「世の終わりに向けた神の計画なのか」と思われるかもしれません。しかし、これらは「産みの苦しみ」です(24:8)。聖書全体から分かる神さまの計画とは、「罪で歪んでしまっているこの世界を、新天新地につくり変えること」です。戦争も、疫病も、天変地異も、罪のために歪んでしまっているこの世界の現状です。それらは私たちの罪の結果です。しかし、この世界を救い、贖い、つくり変えること、それこそが神の計画なのです。

戦争の預言の成就は、今回の戦争に限りません。預言は重層的に、螺旋階段のように重なりながら成就していきます。イエスさまが言われた通り、戦争は繰り返されており、「過去も、今も、これからも繰り返しそれは起こる」のです。ただし、それは人の罪の故であり、神さまの計画が進んでいく上での産みの苦しみです。

私たちの罪の故に歪んでしまったこの世界、この社会では、これからも戦争は繰り返されていくでしょう。東西の問題、南北の問題、いびつな国際社会です。「だから仕方がない」のではなく、だからこそ、平和のために祈り、行動していくことが、痛みながら産みの苦しみを進めていく世界のためになお一層必要なのです。

<最も小さい者たちのひとりに>
さて、終末の出来事を語ったその流れで、イエスさまは「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」と言われました(25:40)。空腹の人たちに食べ物を与え、渇いている人に水を与え、旅人に宿を貸して助けた人は、イエスさまに対してしたのだというのです。そして、そのことが最高の栄誉として描かれます。

終末の時代に大切なことは、最も小さな人たち、弱い立場の人たちに寄り添い、友となり、その必要を満たすことです。それこそがイエスさまを愛し、イエスさまに仕える道です。

東日本大震災以降、災害が起こると被災地には教会ボランティアの拠点が作られるようになりました。彼らはあえて「宣教」はせずに、ただひたすら人々のニーズに応えて仕え続けました。人々が困っているその時を「教会に人を呼び込むチャンス」としては用いず、ひたすら寄り添い、その必要を満たす時として用いたのです。熊本地震をきっかけに作られた「九州キリスト災害支援センター」でも同様で、その結果、現地の教会関係者は被災者の方々から「キリストさん」と呼ばれるようになったといいます。彼らの後ろ姿が、キリストのそれと重なっていたとすれば、イエスさまに仕える者として、これほどの喜びがあるでしょうか。そして、そこには聖霊が働かれ、救いの出来事が起こっていったのです。

終末を予感させる今日この頃、私たちが手を差し伸べるべき小さい人とは誰のことでしょう。弱っている人とは誰のことでしょう。ウクライナやシリアの難民かもしれません。震災の被災者かもしれません。生活に困ったり、悩んでいる人たちかもしれません。社会を見回す前に、家族が苦しんでいるかもしれません。「最も小さい者たちの一人」の必要のために、仕えていきたいと思います。それこそが、終末の時代に最も大切なことだからです。

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【3/20】

マタイ5:4

詩篇56:8

「慰めを受け取る」

〜悲しむ者は幸いです。 

その人たちは慰められるからです。〜


〜あなたは 私のさすらいを記しておられます。 
どうか私の涙を あなたの皮袋に蓄えてください。 
それとも あなたの書に記されていないのですか。〜


今日もどこかで誰かが泣いています。生命がおびやかされる戦地で、親しい人との別れによって、はたまた新型コロナで生活が一変してしまって。彼らに慰めは届くのでしょうか。

泣いているのは自分自身であるかもしれません。誰にも知られずに、一人で泣いている人もいるでしょう。一人でたくさん泣いて元気を出すのだとしても、泣くというその行為そのものには慰めが必要なのだと思います。

イエス・キリストはガリラヤ湖に向けて風が吹き下す高台の上から人々に語りかけました。「悲しむ者は幸いです。」と。それを聞いた人たちはどう思ったでしょうか。集まった人々の中には、家族がツァラアト(社会的隔離を余儀なくされる重い皮膚病。宗教的汚れともされた)に犯されていたりとか、家業が立ち行かなくなって生活が苦しくなってしまった人とか、ローマ兵の暴行を受けたというような人たちがいたはずです。「悲しむ者は幸いです。」などと、普通なら受け取れる内容ではありません。しかし、イエスさまはそのまま「その人たちは慰められるからです。」と続けられました。逆転の発想とでも言えるような、驚きの内容です。

悲しみを否定してはならないのです。それを経ないと慰めを受け取れないからです。十分に嘆き、悲しんでこそ、その先にある光をしっかりと受け取ることができます。慰めを受け、回復し、立ち上がることができます。

そしてまた、そのことには時間がかかるということも思わされます。

「神よ。私をあわれんでください。」と始まる詩篇56篇には、ダビデが苦しみ、涙を流して悲しんでいた様子が歌われています。「ペリシテ人が、ガテでダビデを捕らえたときに」という標題にもある通り、ダビデは自らの主君サウル王に終われて敵地ガテに亡命し、しかしその先でも受け入れられずに苦しい思いをしました。結局は気が狂ったふりをして、そこからまた逃れて行ったのです。8節の「私のさすらい」とは、文字通りの逃避行でした。その旅の苦しさを、この涙を、あなたは覚えておられないのですかと、神に対して直訴しています。しかし、その直訴の直後から様子が変わります。神が私を助け、味方してくださること、神のことばへの信頼、そして神への感謝の歌に変わっていくのです。

「悲しむ者は幸いです」という言葉を、悲しんでいる人に対して、知った顔をして軽々しく言うことはできませんが、必要な悲しみの期間を丁寧に過ごすことで、きっとそこから感謝が生まれてくることを踏まえつつ、それこそきちんと悲しめるようにそっと見守ることが必要でしょう。そして、それは自分自身に対しても同じです。

聖霊なる神は、パラクレートス(慰め主)とも呼ばれます。この方が私たちのうちにおられます。あなたを、そしてこの世界をいやし回復させる神のみわざ、その慰め(パラクレーシス)を、しっかり受け取っていきたいと思います。

私たちの涙を拭ってくださる、神さまの祝福と慰め、そして具体的な助けが豊かにありますように。

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​【3/13】​

詩篇33:16

「何に頼るのか」

〜王は軍勢の大きさでは救われない。勇者は力の大きさでは救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならず軍勢の大きさも救いにはならない。見よ、主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。〜

 

<軍事力に頼った王たち>
聖書には、イスラエルの王たちが神のことばへの信頼を忘れ、大国の軍事力に信頼した姿が記録されています。

南ユダ王国のアハズ王は、北イスラエルとアラムの連合軍を前に絶体絶命のピンチを迎えていました。一度は退けたものの、彼らが去らずに留まったと聞いて「林の木々が風で揺らぐように」動揺します(イザヤ7:2)。預言者イザヤは「神は我らと共におられる(インマヌエル)」という希望の約束を届けました。それは、やがての救い主誕生にも重なるような預言だったわけですが、それにも関わらず、アハズはアッシリア帝国に貢物を納めて助けを求めます(Ⅱ列王記16:7-9)。ピンチを逃れることはできましたが、今度はアッシリアによって苦しめられることになるのです(同17章)。

アハズの子ヒゼキヤ王は、初めこそ神への信頼を大切にし、アッシリアに仕えることはしませんでしたが、アッシリアに攻められて町々を取られると「私は過ちを犯しました。」とアッシリアに対して貢物を納めます。同時に彼はエジプトに接近して、助けを求めました(Ⅱ列王記18:21)。大国の力に怯え、別の大国の力に擦り寄っていくヒゼキヤに対して、またも預言者イザヤが「わたしはこの町を守って、これを救う。」という神のことばを伝えます。そして、神さまの奇跡的な介入によってアッシリアの侵攻は阻止されました。しかし、彼は今度はさらに別の大国バビロンの使者に宝庫や武器庫すべてを見せてしまいます。このことは、後のバビロン捕囚に繋がっていきます。

 

<力ではなく神のことばに信頼する>
彼らは神への信頼を忘れ、目に見える力に頼りました。力への恐れで心が満たされていたのです。しかし、大切なことは軍勢の大きさや軍馬の数(つまり軍事力)を恐ることではなく、神のことばへの信頼だったはずです。「見よ 主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。」(16節b)とあるように、心を主なる神に向け、主への思いで、そのことばへの思いで心を満たすべきでした。神さまは何度もその御言葉を届けてくださり、語りかけてくださっているのですから。その先にこそ、真の解決があるのです。

大国が軍事力に物を言わせる今の時代にも、私たちは同じことを問われているように思えてなりません。ロシアとウクライナの間では調停が重ねられていますが、停戦の兆しは見えません。ロシアにとって、モスクワからわずか1000kmしか離れていないウクライナがNATOやアメリカと繋がることは大きな脅威なのでしょう。ロシアと西側世界の双方が相手を脅威に思い、力をぶつけ合っている状態です。しかし、どのような事情があれ、指導者たちが会議室で戦争を決め、現場では一般の市民たちが血にまみれるということがあってはならないはずです。

神のことばはすでに語られています!国連ビルの前にはイザヤ書の次の御言葉が刻まれています。「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」(イザヤ書2:4)この御言葉が実現していくことを追い求め、平和を作っていく努力がなお一層大切です(マタイ5:9)。歴代の王たちが力を頼んで神のことばに聞かなかったことの同じ轍を踏んではなりません。

<私たちからまず>
私たちは今、イースター(復活祭)前の「受難節(レント)」という期間にいますけれども、神のことばそのものであるキリストが抹殺された十字架の出来事を思い返し、世界の、そして自分の現状を思いつつ、やがて復活の朝が来ることに慰めを得ながら、祈りを新たにしていきましょう。神のことばが響くべきは遠くの戦地だけではありません。私たちの身の回りの日常生活でこそ、そのように生きていきたいと強く願います。私たちがより頼んでしまう「力」は何でしょう。神のことばにこそより頼みましょう。語られている神のことばで心を満たしていきましょう。

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