礼拝メッセージ

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●録音
●原稿
【4/26】
マタイの福音書7章13節〜29節
「狭い門・良い実・岩の上」
山上の説教も今日で終わります。少し長いですけれども、イエスさまに出会い、イエスさまの語りかけを聞くつもりで、この聖書の箇所に向き合いましょう。
今日の箇所は「狭い門」の話で始まります。狭い門、狭き門というと、たとえば入試とか就職なんかで倍率が高いときによく使われる言い方です。どこそこの学校に合格するのは狭き門だとか、どこそこの会社に採用されるのは狭き門だというような言い方をするわけです。本来ならもっと広い方が良かったのだけれど、狭くなっているから、仕方ないから、その狭い門を頑張って通りなさいという意味になります。
しかし、今日の箇所で言われていることは違います。仕方ないから行きなさいではなくて、わざわざ探してでもそこを行きなさいということです。14節に「それを見出す者はわずかです。」とありますが、これは探し出してでもこれを行きなさい、仕方ないからではなくて、むしろ選び取ってここから入りなさいということですよね。
これは当然、たとえなわけです。スリムな体でないと通れない門から入りなさいということではない。これは15節以降の偽預言者たちの生き方と対比して書かれています。神のことばを預かって語るのが預言者ですが、神のことばよりも自分のことばを重んじる偽預言者の生き方、それは「広い門、広い道」だと言っているのです。それは滅びに至る門だと。しかし、いのちに至る門は狭い。そしてその道も狭い。だから、見つけにくい、見つけられないというのです。
偽預言者の生き方などというと大袈裟に聞こえますが、神のことばよりも自分のことばを重んじてしまうということは、私たちにもあることです。祈らずに物事を決めてしまう時、神さまは何を望んでおられるかを考えずに決めていく時、私たちは広い道を歩んでいるのです。楽だからです。
しかし、そうではない生き方とはどういうものか。自分のことばではなく、神のことば、神の御心を重んじる生き方とは具体的にはどういうものなのか。それはなかなか見つからない。具体的にどのような言動をするのか、どのように考え、たち振る舞うことが神のことばを重んじることになるのか、それは狭い道。なかなか見つけられないんですね。
ハリー・ポッターという魔法使いの少年が主人公の小説があります。映画にもなりました。魔法学校行きの列車はロンドンの駅の9と4分の3番線から出るんですよね。その入口はまさに隠されている。そこを通って魔法学校に行く道はまさに狭い門なんです。9と4分の3番線は壁の中に隠されています。ぶつかるという恐怖を克服して、壁に向けて歩みださないとそこには入れないわけです。今朝の聖書箇所を読んでいて、そのことを思い出しました。神さまのことばを重んじる生き方とは何なのか。自分はどのように生きることで神さまのことばを重んじることになるか、その道は隠されています。狭い門です。そして、それに歩みだすには勇気が要るのです。
<15節 偽預言者たち>
狭い門、狭い道の反対の生き方として、偽預言者たちが出てきます。15節「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。」偽預言者、つまり広い門、広い道を行く人のことですけれども、その見た目は羊なんです。従順で、いかにもクリスチャンというような感じです。しかし、その内側は貪欲な狼だと言われます。
神さまに逆らう生き方というのは、あからさまに神さまに背くというわかりやすいものよりも、一見、羊のように見えるというわかりにくいものの方が多いと思われます。そもそも、この世界に罪が入った時もそうでした。エデンの園で、サタンのささやきは至極真っ当に聞こえたわけです(創世記3章)。カモフラージュされていて、わかりにくいんです。
「偽預言者たちがあなたを騙そうとしてやってくるから用心しなさい」ということでもありますが、問題は、私たち自身の中に偽預言者性があるという事実です。だから、神さまに喜ばれる生き方が狭い門になってしまう。広い道、楽な道ばかり歩んでしまって、なかなか狭い門に気づけないのですね、私たちは。
<16節〜20節 実によって見分ける>
偽預言者を、もしくは自分の中の偽預言者性をどのように見分けるか。それは「実」によって見分けるのです。16節にあるように、茨からぶどうは採れないし、あざみからいちじくは採れません。そもそも茨もあざみも果物が採れる木ではありません。17節18節ではさらに、良い実、悪い実、という話がなされます。良い木には良い実がなる。悪い木には悪い実がなるんです。良い木に悪い実はならないし、悪い木に良い実はならないんです。
一連の文脈は、偽預言者には悪い実がなるという話です。そういう生き方、つまり神さまのことばを第一にしていない生き方には、良い実はならなくて、悪い実しかならないんです。繰り返しますが、これは私たちにとっても他人事ではありません。自分の中に偽預言者性があるからです。
ガラテヤ人への手紙に、御霊の実、つまり聖霊が実らせてくださる良い実についてのリストがあります。有名な箇所です。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22-23)しかし、それに先駆けて、「肉のわざ」として、つまり悪い実のリストがあるのです。5章19節〜21節「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」しかし、御霊の実は・・・ということで御霊の実のリストに入っていく文脈になっています。
それにしても、この悪い実のリストは強烈な印象を与えます。淫らな行いとか好色というようなこと、もしくは魔術とか、あとはお酒ですね、泥酔とか。こういったことはやっていないと思っても、たとえば憤りとか妬み、こういったことから無関係な人はいないですね。このリストは、「これとこれはやっていないからセーフ」とか「これは関係ないから大丈夫」というためのものではないです。肉のわざ、悪い実にはこのようなものがあるというリストですから。全部じゃないからセーフ、なのではなくて、当てはまるものがあるなら、その正体は肉のわざ、悪い実なのだよということです。憤るなら、それが悪い実なのです。人を妬むなら、それが悪い実なのです。神さまのことば、神さまの御心を第一にしない生き方から生まれてくるものなんだという話です。
そして、厳しいのは「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」ということばです。マタイの福音書の今日の箇所でも19節にこうあります。「良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。」私たちは自分のうちに偽預言者性があるかどうかを実によって見分けなければなりませんが、現に今、実際に悪い実がなってしまっている私たちは、切り倒されて火に投げ込まれるしかないのでしょうか。どうしたらいいのでしょう。
<あなたがたは枝です>
ヨハネの福音書15章1節〜2節にこうあります。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」イエスさまにつながっている枝ならば、そこには良い実が実る。しかし、そうでない枝は取り除かれるんですね。こういう箇所を読むと、私たちは悲観的になります。「自分は取り除かれる」と思う。当然です。
しかし、この「取り除く」とは、「持ち上げる」という意味にもとれるそうです。以前も説明したことがありますが、イスラエルにおける昔ながらのぶどうの栽培法というのは、ぶどう棚につるを這わせるのではなく、すいかやいちごのように地面につるを這わせ、実を実らせるというものでした。実を結ばない枝を、神さまはそっと持ち上げてくださる。そして泥まみれになっている土を落とし、葉っぱの陰になってしまっているならその場所を変えてくださるわけですね。また、ほんの少しでもよい実を結ぶなら、その枝を剪定されます。つまり、栄養分が集中して実が大きくなるように切り込みを入れられる。
ヨハネの福音書ももう少し読むと、15章6節には、イエスさまにとどまっていない枝、つまり良い実を結ばない枝は投げ捨てられ、燃やされるという表現もあります。ただ、この文脈においてそれはあえての反対の説明です。ここで一番強調されているのは、「それでも、あなたはわたしの枝だ」ということ。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。わたしの枝ですとイエスさまは断言しておられます。イエスさまは私たち一人ひとりをあきらめないお方です。良い実を結ばない、むしろ悪い実しか結ばない私たちですが、泥を落とし、余分な葉を落として、光を当て、水を与えてくださるのです。私たちが良い実を結ぶようにです。
<実によって見分ける>
マタイの福音書に戻りましょう。20節には「あなたがたは彼らを実によって見分けることになる」とあります。偽預言者を見分けるには、その実を見ればよい。それによって何が結実しているかを見ればよいという話ですが、まずは自分の中に偽預言者性がある。私自身が悪い実を結んでいるのです。狭い門から入る生き方は隠されているので、自分の言動、自分の生き方を確認することは難しいことです。だから、何が結実しているか、その実を見て判断する。自分自身のこととして、自分には何が結実しているか、その実を見ていく。その上で、悔い改めるべきがあるなら悔い改めていくことが大切です。
21節以降は、先ほどの羊と狼の話と同じで、よい実だと思われていたものが実は悪い実だったことのたとえです。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」
いかに「主よ、主よ」と信仰深そうにしていても、神の名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行ったのであっても、「天におられる父なる神のみこころを行う」のでなければ、天の御国には入れないということです。繰り返しますが、これを周りに当てはめてさばくのではなく、自分への問いかけとしても読み取りたいのです。これは狭い門の反対として描かれているのだからです。神さまの御心を考えずに生きる道は広い門です。楽な道です。しかし、狭い門を通りなさい。天の父の御心を行う歩みをしなさい、と主は励ましてくださっているのですね。
<岩の上に家を建てる>
その上で、「ですから」と24節以降のたとえになります。有名な箇所だと思います。大切なのは24節「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者は」というここです。「これらのことば」というのは、直前までの話題だった「天の父の御心を行う」という狭い門の生き方ということでもあるし、またこれが山上の説教の締めくくりであることを考えると、5章1節から始まった山上の説教の全てを含むとも考えることができるでしょう。
神さまの御心を行う。天の父の御心を実際に生きる。それは、地の塩として、世の光としての生き方です(5:13-14)。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る生き方です(5:44)。神さまとの関係のゆえに祈ることを大切にし(6:5)、ほどこすこと、人々と分かち合うことを大切にし(6:4,11)、自分の持ち物には固執せずに神の国と神の義を求めるという生き方です(6:33)。これらを聴いて終わるのではなく、実際の生き方を変えるんです。そういう人は、岩の上に家を建てた人に似ていると。何があっても揺り動かされないというわけです。
それとは逆に、広い道を歩く人、つまり神さまの御心よりも自分にとって楽かどうかで物事を考えて、地の塩としての生き方をあえてしない人は、砂の上に家を建てた人に似ていると。雨が降って、風が吹けば、その家はひどい倒れ方をするというわけです。私たちはどちらでしょうか。
「岩の上に家を建てる人になりましょう」と言うことは簡単です。しかし、それをただ言うだけでは、羊の衣を着た狼ということになりかねません。私たちの現実としては、まさに砂の上に家を建てているのだということを認めなければならないし、実際に雨や風でひどい倒れ方をしているのだということを直視しなければなりません。先ほど来の言い方で言うならば、悪い実を結んでいるのです。
でも、思い出してください。だからこそ、イエスさまが十字架にかかられたということを。私たちの罪そのものとしてイエスさまが十字架にかかられた、つまり私たち自身がそこで死んだのだということを(Ⅱコリント5:21)。今、悪い実しか結べていない自分は、砂の上に家を建てている自分は、何度でも復活のいのちで、新しいいのちで歩み直せるのだということを思い出してください(ガラテヤ2:19-20)。
悪い実を実らせるなら、そこを切り取っていただきましょうよ。剪定していただきましょう。それは痛いことです。悔い改めには痛みが伴います。でも、それを通してでないと、良い実が実らない。
砂の上に建ててしまった家がひどい倒れ方をしているのなら、今度は岩の上に建てましょう。岩の上に建てたつもりが、実はそんなに強い地盤ではなくて、また倒れるということもあるかもしれない。なにしろ、それは「狭い門」だからです。どこに建てたらいいのか、どういう建て方がいいのか、私たちにはなかなか分からない。だったら何度でも建て直しましょう。ここだ、ここがその岩地だというところを何度でも選び直して、そこに建てていきましょう。
ここまで山上の説教で語られてきたように、私たちは地の塩として、世の光として、人々のただ中で生きるのです。周りが悪に流される時に、自分はそこで狭い門を通るのです。自分のことばではなく、自分が楽かどうかではなくて、神さまのことばを第一にして生きるのです。そうした時に、5章16節が実現します。「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになる」のです。
今日は「行い」ということを繰り返していますけれども、救われるためには行いは必要ありません。そこは誤解のないようにしていただきたいところです。救われるために行いは必要ありません。イエスさまが私たちの罪のために死なれたこと、そしてよみがえられたこと、この方が私たちの救い主であることを信じるのみです。でも、私たちは極端ですよね。信じるのみで行いは要らないのだからと、自分の生活を改めることをしない。自分の生き方を改めることをしない。聖書は言っています。「信仰も行いが伴いなら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)。救いそのものには行いは必要ではありません。それは間違ってはいけないことだし、大前提です。その上で、救われた私たちは、神さまの御心をこの地に表していくために、神の国がこの地に広がるために、成長して、用いられていくんです。聖霊が私たちをそのような行いに導かれます。私たちは神さまのみわざのために、神さまの御用のために、何と、用いられていきます。私たちの生き方は変えられていくんです。その聖霊の促しを無視するのではなく、神さまの御心を求めて、天の父の御心を追い求めて、自分自身を神さまに用いていただく私たち一人ひとりでありますように。
29節、イエスさまはこれらのことを「権威ある者として」教えられました。神のことばは私たちを生かし、私たちを立ち上がらせて、狭い門を通らせ、岩の上に家を建てさせる権威あることば、力あることばです。この方の語られたみことばは必ず実現します。私たちの現実としては広い道を歩んでしまうし、悪い実を実らせているのですが、それでも神さまは私たちをあきらめずに、招き入れ、成長させてくださいます。私たちの内におられる聖霊はみことばを思い起こさせ、その通りに歩ませてくださるお方です(ヨハネ14:26、エゼキエル36:27)。狭い門から入る生き方を、良い実を実らせ、岩の上に家を建てる生き方を導いてくださるのです。今、みことばから示されていることはありますか?胸に響く聖書のみことばがあるでしょうか。そこが狭い門の入り口かもしれません。神さまの導きに従いながら、共にその狭い道を歩んでまいりましょう。
ーーー
「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを、あなたの耳は聞く。」(イザヤ30:21)
私たちをご自分の枝として見てくださる主イエス・キリストの恵みと、
悪い実を結ぶ私たちを持ち上げ、剪定してくださる父なる神の愛、
そして、狭い門から入るようにと、私たちの歩みを導き続けてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン
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【4/19】
マタイの福音書7章6節〜12節
「神に求め、人に与える」
ここしばらく、受難週やイースターに関連したメッセージが続きましたけれども、今日からまたマタイの福音書に戻ります。山上の説教も終わりに近づいてきましたが、引き続き丁寧に読み進めていきましょう。
<6節>
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。」
いきなり何の話かと思いますよね。「豚に真珠」という言い方がありますけれども、ここから来ています。私たちは聖なるものを持っているのだから、誰にでもむやみやたらと分け与えてはいけないということでしょうか。それにしても、表現がきついし、唐突に思えます。なんでいきなりこんな話になったのでしょうか。こういう時には、前後の文脈に注目するといいですね。続く7節以降の内容が「求める」ということについてであることを考えると、どうやら6節の犬や豚の話というのは、反面教師として言われているようですね。犬や豚は聖なるものを求めもしない。それどころか、かえって歯向かってくる。しかし、あなたがたはそうではなく、求めなさい。神が与えてくださるものを、歯向かわずに受け取りなさいということですね。
つまり、犬や豚というのは他の誰かのことではなく、神の恵みを踏みつけてしまう私たちのことなんです。
<7節〜8節>
その上で7節です。有名な箇所ですね。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」ギリシャ語の現在形には現在進行系のニュアンスが含まれますから、これは求め続けなさい、探し続けなさい、叩き続けなさいということです。この後の内容からも明らかなように、これは神さまが与えてくださるものを求め続けるということです。
8節には「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」とあって、求めて祈り続けることの大切さが言われているわけです。神さまは与えてくださるお方です。必要なものがあるなら、欲しいものがあるなら、そのために祈ってください。祈り続けることが大切です。それが神さまから見て本当によいものなら、与えられます。もちろん、何でもかんでも、祈りさえすれば与えられるということではありません。神さまがよしとされるなら、与えられる。神さまから見て、私にとってよいものなら与えてくださるのです。だから、あきらめずに祈り続けるんです。むしろ、最初は自分が欲しいものを求める祈りだったのが、祈る中で、その祈り自体が変えられていくということも、私たちは経験します。ゲツセマネでのイエスさまの祈りがそうだったように(マタイ26:36-46)。イエスさまは十字架の杯をとりのけてくださいと祈られました。十字架はどうしても避けたいものだった。しかし、最後には十字架への道を受け取られました。「わたしの願うところではなく、あなたのみこころのままになさってください」と最後には祈られた。与えられた十字架への道は、避けたいものから、神さまのみこころの道へと変わったのです。祈りによって願い自体が変わっていくし、その結果、与えられるものの意味づけが変わっていくんですね。これは、大なり小なり私たちも経験してきたことではないでしょうか。
<9節〜11節>
9節以降、人間の親のたとえが出てきます。「 自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」
人間の親たち、しかも11節にあるようにそれがたとえ「悪い者」であったとしても、人間の親たちは子どもによいものを与える。それならばなおさらのこと、私たちの天の父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか、ということです。今は毒親というような言葉も取り沙汰されるご時世ですが、一般論として、基本的な理解として、このたとえは分かりやすいわけです。人間の親たちがそうなら、天の父はなおさらのこと、求める者によいものを与えてくださいます。
よくお伝えしていますが、「神さまは人間の親のようなお方」なのではありません。父なる神というのは、「父のようなお方」なのではない。逆です、神さまが本来的に私たちの父なのです。人間の親たちは不完全ですから、「神さまは父のようなお方だ」というのなら、神さまの愛も不完全ということになってしまいます。しかし、不完全な人間の親ですらこうなのなら、神さまは、天の父はそれ以上に、私たちに良いものを与えてくださるのだということですね。
ちなみに、並行箇所のルカ11章13節では、神さまは求める者たちに聖霊を与えてくださるとなっています。私たちはイエスさまを信じた時点で聖霊をいただいていますけれども、聖霊に満たされ続けてていきなさいと聖書は語っていますので、聖霊を求め、聖霊の満たしを求めて祈ることは大切なことです。神さまは私たちを聖霊で満たしてくださいます。良いものを与えてくださる。聖霊で満たしてくださるのです。
もっとも、今日の箇所は別のテーマです。神さまは私たちに良いものを与えてくださる。「ですから」というつながりで12節に入っていくわけです。これはルカの文脈とは違います。福音書それぞれに視点があるのです。
<12節 黄金律>
「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」これは「黄金律」と呼ばれる教えです。道徳の授業でも出てくるような言葉です。似たような表現として、「自分がされて嫌なことは、人にもしない」というものがあります。同じような内容ですが、そちらは「しない」という否定文なのに対して、こちらは積極的な表現です。「人にもする」というポジティブな言い方になっているのが特徴的ですね。
「律法と預言者」というのは以前も触れましたが、旧約聖書全体という意味です。律法学者たちはそれを守らせるために、別のルールをたくさん作っていたわけですが、イエスさまは、むしろ律法と預言者をまとめるならこれなんだとして、この黄金律を教えてくださったわけです。聖書に従って生きる、律法と預言者が示す生き方をするというのならこれなんだ、これこそが聖書が言っていることなんだというわけです。
見落としてはならないのは、ここには「ですから」という接続詞があることです。つまり、前からの文脈があるんです。神さまはよいものを与えてくださるお方です。神さまに対して求めて、そしてよいものを与えられるのだから、人に対しては、むしろ自分が与える側になりなさいということですね。「天の父は良いものを与えてくださるのだから、天の父の子としてそれに倣って、あなたも人によいことをしてあげなさい。」ということです。
神さまとの関係は、人との関係に影響します。影響するはずなんです。神さまから愛されている者は、人を愛するはずなんです。しかし、神さまのことばかり語っているけれども、信仰熱心だけれども、人への愛がないということが容易に起こります。気をつけたいところです。
私自身、こういう役割を仕事としていますから、まさに神さまのことをたくさん語るわけですけれども、しかし、それが人への接し方に反映されていないのではないかと、たまに自分の現実を見て落ち込みます。しかし、落ち込んでいるひまはないんですよね。この「ですから」ということばは、励ましです。これを読むたびに、「ああ、そうだ、父なる神が私に最善を与えてくださっているのだ。だから、私も人に最善を尽くすんだ。そういう生き方へ私は入れられているんだ。人からしてもらいこと、よいことを、私も人に対してなそう。」何度でもそう思い返していくんですよね。その繰り返しです。みなさんも、そうではないでしょうか。
「与えられているのだから、私も人に与える」という、この「与える」という話は、神さまとの関係がベースです。与えられているのだから、あなたも与えなさいという単なる命令ではなくて、神さまとの関係、神さまとの豊かな関係の恵みが、人との関係にも流れ出る、反映していくという話です。ですから、まず第一に大切なのは、神さまとの関係を味わうということです。神さまから良いものをいただいている、こんなにも恵みをいただいているということに気がつくことです。招きのことばで読んだ第一ヨハネ4章19節にこうあります。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」この神さまの愛をしっかりと受け取りましょう。
<獣のような私たち>
最初に犬や豚の話が出てきました。これは私たちの姿そのものです。神さまからの恵みを受け取ろうともせずに歯向かっていく、まさに獣のような時が私たちにはあります。私の福音理解の割と中心的な聖句なので、何度も引用していますけれども、詩篇73篇21節〜24節にこうあります。
「私の心が苦みに満ち/私の内なる思いが突き刺されたとき/私は愚かで考えもなく/あなたの前で 獣のようでした。/しかし 私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手を/しっかりとつかんでくださいました。/あなたは 私を諭して導き/後には栄光のうちに受け入れてくださいます。」
まさに文字通り、獣のような時がある。今日の箇所で言われていたように、神さまの恵みを求めないどころか、神さまに向けて歯向かっていく、そんな時が私たちにはあるのです。しかし、この詩篇は歌います。「何と驚くべきことか、それでも私はあなたと共にいました。」そして、神さまは私たちの右の手、つまり物事をなす利き腕をつかんでいてくださり、栄光のうちへと、神さまが望まれる生き方へと、導き続けてくださる。今日の箇所で言うならば、人からしてもらいたいことは何でも、同じように人にするという生き方へ、そういう日常へと、私たちを励まし導き続けてくださる。父なる神さまから受けている愛や恵み、すべての良いものが、人へのまなざし、人との関わりに反映していくような、そんな人生を歩ませてくださるのです。
繰り返しますが、黄金律には文脈があります。神さまとの関係がまずありきです。神さまから良いものを受けている、いただいている、「だから」、私もそのように生きるのです。まずは神さまの恵みを十分味わうこと。神さまからいただいてるものに気づくことが最初ですし、一番重要です。忙しい時代、私たちにはいろんな状況がありすぎて、あれが足りない、これが足りないと思ってしまいますが、神さまの恵みは十分にあるはずです(Ⅱコリント12:9)。それに気が付き、それを味わうところからすべては始まります。いただいている恵みに感謝して、今日良かったことを一つ一つ思い出しながら、神さまを褒め称えて一日を終えていく。そうこうしていくうちに、その生活に、その言動に、神さまの愛が、神さまの恵みが反映している、気がついたら神さまの恵みが反映されている、そのような日々の営みでありますように。
ーーー
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)
私たちに、神に求める生き方を、そして人に与える生き方を教えてくださった主イエス・キリストの恵みと
私たちに良いものを与えてくださる父なる神の愛
そして、愛された者として人を愛する生き方へと、私たちを励まし導き続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、その周りに
豊かにありますように。アーメン
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【4/12】
ルカの福音書24章13節〜33節
「復活の主と出会う道行き」
先週のイースター礼拝に引き続き、イエスさまが復活された場面を読んでいきます。今お読みしました箇所は、弟子たちが復活のイエスさまに出会った「エマオの途上」と呼ばれる有名な場面です。私たちもまたイエスさまに出会い直すことができます。そんな期待と共に読んでいきましょう。
<13節〜16節 どこだか分からないエマオ>
イエスさまの墓が空になっていたことを女性たちが発見したちょうどその日、弟子たちのうちの二人がエルサレムからエマオという村に向けて歩いていました。エマオという村がどこだったのか、実は定かではないのですが、エルサレムからの距離が60スタディオンだったとあります。これはほぼ10キロ〜11キロの距離に相当し、エルサレムから10キロというといくつかの候補があるようです。
興味深いことに、エルサレムから約30キロのところにも、ここがエマオだったのではと言われる遺跡があります。実際に、13節の表現が160スタディオンになっている写本があるんですね。それでも、ほとんどの写本ではここは60スタディオンと伝えています。
場所がどこか、正確にはわからない。それでも、むしろその方がこの話を受け取りやすいように思います。場所がはっきりしないからこそ、この話は私たちの物語として響いてくるのではないでしょうか。私たちにとってのエマオへの道はどこでしょう。夕暮れの道はどこでしょうか。学校から、職場から帰る道。一日を終えて疲れて帰る帰り道かもしれない。どこかへ出かけた帰りではなくても、たとえば部屋で静かに過ごしている夕方かもしれない。そこで私たちはイエスさまに出会うことができます。イエスさまから私たちに近づいてきてくださるのです。
14節、彼らは歩きながら「これらの出来事すべてについて」、つまりここ数日の出来事について語り合っていました。金曜日、イエスさまが十字架にかかられ、死なれ、そして今朝、日曜の朝、墓が空になっていたということについて、ああでもない、こうでもないと話し合いながら歩いていたのです。そこに、15節、イエスさまご自身が近づいてこられて、彼らと共に歩き始められました。
この場面を読んでいて、気付かされることがあります。一つは先ほども言ったように、一日が終わろうとする夕方の道でイエスさまと出会えるということ。その慰めに満ちた光景です。もう一つは、誰かと主のみわざについて語り合っている時にイエスさまと出会えるということです。しかも、彼らは復活を理解していません。聖書を正しく理解していたわけではない。それでも、自分たちに分かる範囲で、自分にできる表現で、この一連の不思議について語り合っていたんです。神さまがなさったのだろう出来事について語り合っていた。そこにイエスさまが近づいてこられ、共に歩き始められたのです。誰かと小さな証をし合うことの大切さを思います。大げさでなくていい、身近な、小さなことでいい、神さまがしてくださったことの不思議を話題に出して語り合う時、そこにはイエスさまがいてくださる。しっかりとすべてを理解した上での話、ではなくていいのです。自分の言葉で神さまがなさったことの不思議を語り合う。そこに主がいてくださるのです。いつも礼拝の後の午後の交わりではお互いの近況報告や祈祷課題を分かち合っていますが、このエマオの途上と同じように、そこに主がともにいてくださる、そのような時間でありますように。
ところが16節です。イエスさまが共に歩んでくださっていたのに、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかったというのです。
イエスさまがおられるのに分からない。イエスさまが語りかけてくださっているのに気づけない。そんなことが、私たちにもあるように思います。でも、だからこそ、聖書はイエスさまから目を離さないようにと私たちを励まします(ヘブル12:2、ルカ22:61、詩篇119:18等)。安心して、その励ましを受け取っていきたいですね。
<17節〜24節>
17節「イエスは彼らに言われた。『歩きながら語り合っているその話は何のことですか。』すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。」イエスさまがよみがえったとは思っていない二人は、暗い顔をして立ち止まりました。彼らにとってこの話は暗い話だったのです。復活がなければ、福音は良い知らせたり得ない。暗い話にしかならないのです。
18節、ここに、二人の弟子のうち一人の名前が明らかにされています。クレオパという名前でした。ルカの福音書が記された頃、このクレオパはよく知られた人だったのでしょうね。これがあのクレオパだということで、この話の信憑性を高めているのだと思われますが、むしろもう一人の方、名前も知らないもう一人の方に親近感を覚えますね。これこそ私だと思う。エマオがどこか分からないことで、この話に自分を重ねやすいと最初に言いましたが、この人の名前も分からないことで、ここに自分を重ねやすいですよね。
19節、イエスさま本人に向けて、「あなただけがご存じないのですか」などと、滑稽な話になっていますが、この会話のように滑稽でもいい。的を外したような言葉でもいい。イエスさまとことばのやりとりをする、イエスさまとの対話をすることが大切です。こんなことをお話ししていいのかしら、こんなことを祈っていいのかしらと私たちは思ってしまうのですが、今日のこの場面を思い出してください。何でもお話ししていけばいいのです。
その後、彼らはイエスさまのことを紹介するのですが、その内容が半分当たりでありつつ、外れているというか、足りていない表現です。確かにイエスさまは預言者だとも言えるのですが(使徒の働き3:22等)、この方はどなたかと端的に言い表すなら、やはりこの時クレオパたちは「この方は神のキリストでした。」と言うべき場面だったと思います。同じルカの9章19節〜21節にそのようなペテロの信仰告白が出てきます。ルカはここを対比させていると思います。クレオパたちもイエスさまの弟子ですから、ペテロの信仰告白のことも知っていたはずだし、この方は神の子キリストだと信じていたはずです。しかし、十字架を経て、それが分からなくなってしまっていました。本当にこの方は神の子だったのだろうか。十字架で死んでしまって、すべて終わってしまったではないか。本当にキリスト、救い主だったのだろうか。イエスさまへの信頼が、イエスさまへの信仰が過去のものとなっているんです。21節に「望みをかけていました」とあるように。
極め付けは24節です。「あの方(の遺体)は見当たりませんでした。」としか言えない。「あの方は復活されました。以前に言っておられたように、よみがえられたのです。」とは言えない。復活を信じられていないからです。そして、イエスさまが過去の人になってしまっているのです。
<25節〜27節>
25節でイエスさまは「ああ、愚かな者たち。」と言われます。こういう表現を読むと、私たちは「ああ、信仰をよくわかっていないと叱られるんだ。だから黙っていよう。」と考えてしまいがちですが、これはイエスさまが本音でぶつかってきてくださっているわけですよね。イエスさまとのことばのやりとりを諦めてはいけません。間違った内容でもいい、不正確なままでもいい、イエスさまと語り合うことが大切です。だからこそ、イエスさまはこうやってことばを続けてくださるのです。
「預言者たちの言ったこと」というのは、旧約聖書で預言されてきた救い主の約束です。26節にあるように、救い主は苦しみを受け、その後に栄光に入るという表現は旧約の各所にあります(詩篇16、22、イザヤ53、ホセア6:2等)。彼らはユダヤ人ですから旧約聖書の預言はよく知っていたはずです。しかし、それがイエスさまの復活と結びついていませんでした。みことばを知っているのに、イエスさまのことを知識としては知っているのに、それが復活されたイエスさまのこととして、今ここに共にいてくださるイエスさまのこととして繋がっていないということは、これは私たちにもありますよね。
27節、イエスさまはモーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書かれてあることを説き明かされたのでした。聖書全体というのが大事ですね。聖書は部分的に読むのではなく、全体で理解することが大切です。もっともイエスさまの時点では新約聖書はまだ書かれていないので、直接的にはここで言われているのは旧約聖書全体からということではあるのですが、その旧約の約束通りに来られたイエスさまを証ししているのが新約聖書ですから、旧新約66巻全体が大切です。イエスさまは聖書全体からご自分を示されました。私たちもまた、旧新約聖書全体から主に出会っていくのです。
<28節〜31節 食事の席で>
彼らはエマオの村に着きましたが、イエスさまはもっと先まで行きそうな様子だったため、29節、彼らは「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めました。荒野の気候、地域において、夜の旅は危険です。もっとも、夜になるからというよりも、もっとお話を聞きたいと思ったのでしょう。イエスさまも、それではと共に中に入られました。そして30節、食卓で食前の祈りをされたのです。
食前の祈りはこのように、この食事を与えてくださった神さまをほめたたえるものです。私たちの信仰で一番大切なのはイエスさまの十字架と復活を信じることなので、いわば形として食前のお祈りをするかしないかということにこだわる必要はないと思います。ただ、忘れてはいけないのは、この糧を与えてくださったのは天の父なる神さまです。そして、私たちはよく祈ることを忘れます。それほど忙しいし、疲れているんですよね。だから、食事のたびごとに祈るという実践にはやはり意味がありますね。この食事を与えてくださった神さまに感謝を捧げ、御名をほめたたえるのです。機会を設けて祈っていくということです。
パンを裂くというのは聖餐式のイメージもありますが、これはむしろ、そもそもの食事のスタイルですね。大きなパンを割いて分け合うのです。パンとは分け合うもの。食事とは分かち合うものです。
このようにして、イエスさまは感謝の祈りを捧げてからパンを裂いて弟子たちに手渡されました。そして、その時、彼らの目が開かれたのでした。それまで、本当の意味ではこの方のことを見えていなかったのですが、今やはっきりと見るようになったのです。
そのきっかけは、彼らにとっては食事でした。パンを裂くという普段の食事だった。私たちにとっては何でしょう。イエスさまがおられることをはっきりと知ったきっかけは何だったでしょうか。それは折に触れて思い出したらいいと思います。また、そういう劇的な経験はなかったという方もおられるでしょう。私もそうでした。ただ、それからの歩みにおいて、ああ、主は生きておられるんだと知らされ続けてきた。今も知らされている最中です。それらの出来事を、ぜひ書き留めておいてください。そして、いつか証をしていただけたら感謝です。
<「見えなくなった」主>
さて、そのようにして目が開かれた彼らでしたが、その時イエスさまは見えなくなりました。これはなぜでしょう。この二人の弟子と共にエルサレムに凱旋し、弟子たちに、またエルサレム中の人たちにご自身の復活を示せばよかったのではないか。なぜ、姿を消してしまわれたのでしょう。
いや、注意深く読むと、「イエスさまが消えた」のではなくて、「その姿は見えなくなった」なのです。この二つのニュアンスは結構違います。「イエスさまが消えた」だとすると、突然いなくなったとか、どこかへ移動してしまわれたという感じです。しかし、「見えなくなった」のであれば、これは弟子たちの視点です。一連の話の流れから言っても、やはりここでは「見えなくなった」なのです。弟子たちの視点です。エマオの途上でイエスさまが来られたのに見えていなかった。しかし目が開かれた。そしてまた見えなくなったのです。ただ、最後の見えなくなったというのは最初の時とは明らかに違います。同じように見えていないのですが、それでも、イエスさまが生きておられること、共におられることが最後にははっきりとわかっているのです。
32節、二人は話し合います。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
私たちも同じですよね。イエスさまを直接には見ていません。それでも、イエスさまと出会い、イエスさまの声に、そのみことばに心を燃やされ、励まされ、導かれてここまで来ました。私たちも復活のイエスさまに出会っているから。姿は見えなくても、確かにここにイエスさまがおられること、私たちと共にいてくださることを、私たちは知っています。
たまにそのことを忘れてしまう私たちです。この弟子たちのように、的の外れたようなことしか祈れません。でも、それでいいし、同じようにイエスさまは私たちにご自身をあらわしてくださいます。聖霊が私たちを励ましてくださり、イエスさまのことば、神のことばに気づかせてくださる。主ご自身と出会い直させてくださる。その繰り返しです。これからも、私たちはそうやって歩んでいくのです。それぞれのエマオへの道を。
招きのことばで読んだ第一ペテロ1章8節〜9節をもう一度お読みします。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」私たちは喜び踊っています。この喜びを取り去るものは何もありません。
この後、彼らはただちにエルサレムに戻ります。みなにこの知らせを告げるためです。エマオに来る時には「ああでもない、こうでもない」と話していた彼らでしたが、今は、主がよみがえられたことを確かに証する者へと変えられていました。
その時に、イエスさまがまた来てくださったことをルカは記していますが、その話はまた別のどこかでと思います。今日は、エマオに向かう二人の弟子たちの物語に、私たち自身を重ねましょう。彼らは語り合う中でイエスさまに出会うことができました。主のなさった不思議を語り合う中で、イエスさまと出会った。私たちもと願います。夕暮れ時のエマオへの道は、私たちの歩む道でもあります。身も心も疲れているような、そんな状況、そんな時間帯、そんな人生の季節において、イエスさまが出会ってくださる。夕暮れ時に、光が差し込むのです(ゼカリヤ14:7)。主は、私たちと共におられることをはっきりと分からせてくださいます。そして私たちは、イエスさまの復活を証する者とされるのです。
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あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(1ペテロ1:8)
私たちと出会い直してくださる主イエス・キリストの恵みと、
夕暮れ時に光を与えてくださる父なる神の愛、
そして、復活を証言する者へと私たちを導き続けてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン
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【4/5】復活祭(イースター)
ルカの福音書24章1節〜12節
「途方に暮れても」
<復活の知らせ>
イースター(復活祭)おめでとうございます!イエスさまの復活はキリスト教信仰の中心です。信仰の中心は十字架と言うことももちろんできますが、十字架と復活はセットで大切なんです。パウロが書いたように、キリストが復活したのでなかったら、私たちの信仰は中身のないものになってしまうからです(Ⅰコリント15:12-19)。
復活は、十字架が無駄ではなかったことの神さまによる確認です(ローマ4:25)。復活がなかったら、十字架が本当に神の救いだったのか、私たちには確かめようがないのです。しかし、「私たちのために死なれた方が、よみがえり、今も生きて私たちと共にいてくださることが明らかになる」のなら。そして「私たちも新しいいのちで、歩んでいける」のなら。それは私たちの生き方を変える知らせになります。それこそが「良い知らせ」、「福音」です。
死んだ人が生き返るなどと、どうして信じることが出来たでしょう。マリアたちが途方に暮れていたのも分かります。しかし、「イエスさまが死なれた」というだけの福音理解であれば、私たちはどうしたって途方に暮れてしまうのです。死んだイエスさまを探しても見つかりません。生きておられるイエスさまを探さなければ。この方はよみがえられ、私たちはイエスさまと出会うことができます。そして、「私たちも復活するんだ」という希望が与えられるのです。
今日の箇所に入る前に、もう少し復活について振り返っておきたいと思います。イエスさまの復活は、この私も復活するということの確証です。私たちも同じように復活するのです(ローマ6:5)。それは、これが「初穂の祭り」の日に起こったということからも分かります。レビ記23章10節〜11節によると、過越の祭りの期間中の安息日の、その翌日は初穂の祭りです。イエスさまの十字架は過越の期間中の出来事で、その翌日は安息日でした。ですからその次の日、つまりイースターのこの日というのは初穂の祭りの日なのです。初穂の祭りとは、収穫の最初の束をささげる日です。麦など穀物の最初の収穫を神さまにささげます。その意味は、この後に大きな収穫がくるということ。これと同じものがたくさんとれるという意味です。イエスさまの復活は初穂であったと聖書は記しています(Ⅰコリント15:20)。それなら私たちも、初穂であるイエスさま同様、死者の中から復活します。私たちも復活するのです。イエスさまの復活は、その希望の証です。
私たちは限りある命を生きていて、やがて死を迎えることが定まっています。確かに、しばしの別れは寂しいものです。それは当然です。しかし、イエスさまを信じる者には復活の希望がある。ここがブレることがないように、聖霊が私たち一人ひとりの信仰を守り励まし続けてくださいますように。
また、「復活」にはやがてイエスさまが戻ってこられた時によみがえるという未来の出来事以外の意義があります。やがての復活だけでなく、今、復活を味わうことができるのです。「復活」を意味する「アナスタシス」ということばは本来、死からの復活を指しますが、ここには「起き上がる」という意味も重なります。傷ついても、倒れても、失敗しても、私たちは何度でも起き上がる。主が起き上がられたように、私たちも起き上がるのです。やがての復活を先取りして、今私たちは生きている。それこそが永遠のいのちです。
<週の初めの日の明け方>
では、イエスさまが復活されたイースターの朝、初穂の祭りの朝の出来事を見ていきましょう。1節「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。」イエスさまがよみがえられたのは「週の初めの日」、つまり日曜日でした。イースターに限らず、そもそも日曜日の礼拝は、イエスさまの復活を祝うものです。何度でも思い出し、心に留めたいことですね。季節限定のことじゃない。毎週私たちは復活の喜びを祝っているのです。
マリアたちが墓にやってきたのは「明け方早く」という時間帯でした。まだ薄暗い時間帯です。復活はそれに先駆けて、夜の闇の中で起こっていたのだということです。そしてイエスさまと出会って朝を迎えることになる。イザヤ書の預言を思い出します。「闇の中を歩んでいた民は/大きな光を見る。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に/光が輝く。」(9:2)私たちも人生において、日常の生活において闇を経験しますが、そこに復活の主が光を照らしてくださいます。復活の主と出会う朝は必ず来ます。
救いの出来事と「朝早く」ということを考えると、出エジプト記を思い出します。先ほどイエスさまの十字架は過越の期間中の出来事だった、つまりイエスさまの十字架には過越の小羊としての意味があったことに少し触れました(ヨハネ1:29)。過越の祭りについて出エジプト記を振り返ると、過越の小羊がほふられた晩にイスラエルの民はエジプトを発ち、次の日の夜、海辺の宿営地にエジプト軍が迫り、神さまが海を分けてくださって、その夜のうちに全員が向こう岸に渡ったという出来事がありました(出エジプト13:20-14:31)。過越から足掛け三日目の朝、彼らは対岸にいたのです。迫り来る追手から完全に守られて、三日目の「明け方早く」、彼らは対岸にいました(14:27)。同じなんです。イエスさまの十字架は、過越の小羊のように、私たちの罪が赦されるためのもの。そしてイエスさまの復活は、私たちがまるで出エジプトのように罪から自由とさせられることの象徴でもあった。夜が明けて、闇の中に光が照った時、イスラエルの民は自分たちがエジプトから完全に救われたことを知りました。私たちも、イエスさまの復活を知らされているのですから、イースターのこの日、自分が救われているということの確信がさらに深まっていきますように。イエスさまがよみがえられたのは、ただ不思議な出来事があったということではなく、私は救われたのだということの確かな証拠なのです。
<石はすでにない>
さて、墓の入り口は大きな石で塞がれているはずでした。当時の墓の様子をよく残している遺跡がエルサレムの郊外にありますけれども、岩をくり抜いて作った小部屋のようになっていて、中に入ることができ、その入り口は、丸くて大きな石の円盤を転がしてきてそこを塞ぐようになっています。手元のメモには、厚さ60センチ、直径4メートルとありました。平均的な大きさはそれぐらいだったでしょう。簡単に転がせるようなものではありません。この石は邪魔なんです。イエスさまに出会うためには、この石は邪魔であり、どうにかしてどかさなければならないものでした。しかし、すでにそれはなかったというのが大事なポイントです。私たちがイエスさまと出会う、出会い直すためには邪魔だと思われるものは、実はすでにもうないんです。イエスさまのもとに立ち帰るための、イエスさまと出会い直すための道をふさぐものなど何もないのです。
<途方に暮れる>
しかし、「道をふさぐものなど何もないということにとまどう」ということが起きているのです。邪魔だてするものがないということに途方に暮れてしまっているのです。石が転がしてあったのも、墓の中にイエスさまのからだがなかったのも、これらは、復活のしるしです。イエスさまが言っておられたようによみがえられた、何よりのしるしです。本来なら、喜ぶべきところです。しかし、それを見て途方に暮れてしまった。なぜか。復活が起こるとは思っていないからです。自分たちのすることは遺体に香油を塗ることだと思い込んでしまっているからです。みことばの約束を忘れている。だから、想定外の出来事に直面して、それは復活の何よりの証拠だったのに、途方に暮れてしまっているのです。
先週、十字架の上で「エリ、エリ」と、つまり「わが神、わが神、どうして」と祈られたイエスさまのことばを聞いて、周りの人たちが「彼はエリヤを呼んでいる」と勘違いした場面を読みました。ここぞという時に祈るという発想がないから。十字架の上でまさかこの人が祈るとは思ってもいないから。だから勘違いしてしまう。今日の箇所もある意味では同じです。復活するとは思っていないから。まさか石が転がしてあり、遺体が消えているとは思ってもいなかったから、だから途方に暮れてしまうのです。
神さまのなさることはいつも不思議で、私たちの想像をはるかに超えた形であらわされますけれども、その時に、これは主がなさったことだと気づくことができる、しなやかな感性がほしいですね。普段から、主のなさることに期待していくものでありたいです。
<みことばを思い起こさせる助け>
しかし、そこに助けが来ます。みことばを思い起こさせる助けが送られる。まばゆいばかりの衣を着た二人の人、つまり二人の御使いが語りかけます。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」
聖書のことばで「御使い」というのは、何も翼が生えている天的な存在という意味に限定されません。描かれているのは天から送られる天使ですし、それは今日の場面も同様です。しかし、御使いということば自体の意味は「神のみことばを届ける者」なんです。神さまは、文字通りの天使を遣わしてくださることもあるし、もしかしたら身の回りの人を用いて神さまのことばを届けてくださる、思い起こさせてくださるということもありますね。ありがたいことです。
神さまの約束を思い出したなら、墓の中にイエスさまがおられないことは喜びに変わります。ここにはおられない。生きておられるからです!自分が思い描いたような、心づもしてきたような展開ではない。しかし、イエスさまの復活を知るなら、それが喜びになるのです。目の前にある、この途方に暮れた状況は喜びに変わるのです。
<福音ととるか、たわごとととるか>
マリアたちは墓から戻って、使徒たちとまた他の弟子たち全員にこれらのことを報告しました。しかし、11節「この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった」のです。
11節に「話」という単語が出てきます。使徒たちはこの「話」をたわごとのように思ったわけですが、これは8節の「イエスのことば」という時の「ことば」と同じ単語です。女性たちはイエスのことばを思い出して信じました。しかし、使徒たちはそれを信じなかったという対比がここにあります。
使徒というのは十二弟子のことです(ユダが死んだので今は十一人になっています)。誰よりも長くイエスさまの近くにいて、誰よりもそのみことばを聞いてきたはずの人たちです。それなのに、イエスさまのことばを信じることができない。復活を信じることができない。そんなことが起こると思っていないのです。クリスチャン暦何年というのは、あまり意味がないことですね。
しかし、12節、ペテロは立ち上がって墓に走っていきました。ペテロの行動力はいいですよね。12節には「信じた」とか「みことばを思い出した」というような表現はありません。走っていって、のぞき込んで、驚いて帰ったという、それだけです。でも、ここでは明らかに何かが生まれていますよね。イエスさまが語られたことばを思い出し、信じるというのは、このようにプロセスで起こります。最初から全部確信を持てなくてもいいのです。信じられなくてもいいから、見に行く。そして驚く。そうこうしているうちに、イエスさまの方から会いにきてくださったということを私たちは知っています。そして、それは私たちが体験したことでもあったはずです。
<信仰はプロセス>
信じるという言葉の意味は、「これこれこういう内容が本当だと強く思う」ことであるわけですが、信仰において信じるとは、イエスさまとの出会いであり、イエスさまとの人格的な関係です。「キリスト教ではこういうことになっているから、それを信じる」というように、宗教の内容を信じるというよりも、イエスさまと出会うということです。それは、こちらが頑張って「こういうものだ」と信じた結果ではなくて、イエスさまが出会ってくださったということであるし、イエスさまが出会い続けてくださってきたことに気づくということでもあります。信仰とはキリスト教パッケージの内容を確信をもって強く心に信じるということよりも、イエスさまとの人格的な、つまり心と心のやりとりであり、大切なことはそれが段階を経ながら、プロセスを経ながらなされていくということです。今日の女性たちのように。また、使徒たち、そしてペテロのように。
イエスさまの復活を信じることにおいてもそうです。段階を経ながら、徐々に信仰は深まっていくし、復活への確信も深まっていきます。折に触れて、みことばを思い出しながら、思い出させてくれる存在に助けられながら、そしてペテロのように驚きながら、そうやって明日は今日よりもさらに復活を信じられます。イエスさまが復活なさったことをさらにさらに知らされていくし、そして私たちもまた復活するのだということへの確信もさらにさらに深まっていくのですね。
先日は、大野姉の召天式でした。死は終わりではありません。イエスさまが復活されたように、私たちには復活が約束されています。先に召された方々と私たちは天で再会し、そして、それで終わりではなくて、ともどもに復活するのです。そのことの確信もまた、徐々に深まっていきます。
<復活は今ここで>
初めに触れたように、復活とは遠い将来のことだけではありません。私たちは今、すでに、復活のいのちで生きています。永遠のいのちを生きている。だから、何度でも立ち上がることができます。
私たちが日常の中で経験する復活も、イエスさまの復活と同じで想定外の出来事として起こるので、なかなかそのことに気づけないということがあります。途方に暮れることがあります。でも、大丈夫。復活のイエスさまが一緒におられるのですから。そして、そのことに徐々に気付かされていく。それでいいのです。
四月から新しい年度が始まって、特に子どもたちは新しい歩みが始まります。どうか、日々の歩みの中で、日常の生活の中で、復活のイエスさまが共におられることに気づいていってください。そして、自分自身復活のいのちを生きていることを何度も体験していってほしいと思います。それは大人の皆さんも、もちろん同じです。何度でも、イエスさまの復活を体験し直していくのです。
今年のイースターが、また一つ復活のイエスさまと出会う機会となりますように。そして、今ここでの復活を経験する時となりますように。
ーーー
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6:4-5)
私たちのために十字架にかかって死なれ、よみがえられた主イエス・キリストの恵みと、
御子イエスをよみがえらせたように私たちも復活させてくださる父なる神の愛、
そして、復活のいのちで何度でも立ち上がらせてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【3/29】受難週
マタイの福音書27章45節〜50節
「わが神、わが神」
受難週を迎えています。イエスさまは金曜日に十字架にかかられ、死なれました。足掛け三日後の日曜日に復活されたことを私たちは知っています。イースターの喜びがあることを知っています。しかし、十字架なしに復活はありません。今日はイエスさまの十字架を偲び、感謝を新たにしたいのです。それでこそ、復活の知らせを改めて受け取り直すことができます。
先週、大祭司の庭で、ペテロがイエスさまを三度知らないと言ってしまった場面を読みましたけれども、あの後イエスさまは大祭司の家で地下牢に入れられたと思われます。大祭司カヤパの家の跡から地下牢が見つかっています。夜が明けるとすぐに議会に引いていかれ、そして総督ピラトやヘロデ王のところへたらい回しにされました。それから、先ほど読んだ場面に入ります。今日のメッセージ自体は45節からですが、それでもあえて長くお読みしました。あの時、何があったのか。私たちの主はどのように十字架にかかられたのか。ぜひ他の福音書も合わせて、またお読みください。そして、これが私たちのためだったこと、私のためだったことを心に刻みましょう。
<45節 世界の悼み>
さて、45節ですが、十二時から午後三時まで闇が全地をおおったとあります。イエスさまが十字架につけられたのは午前九時です(マルコ15:25)。それから三時間ほど経った十二時から三時まで、全地が暗くなったというのです。
後の時代の記録に、この頃に昼でも星が見えるほどの異変があったと伝えられています。オリゲネスやエウセビオスといった初期キリスト教の重要な著述家たちによると、2世紀の歴史家フレゴンがこの出来事に言及しているとのこと。昼でも星が見えるほどの異変というのは、まるで皆既日食のような現象だったのかもしれません。しかし、これは自然な日食では説明がつかないことなのです。日食は新月のときに起こる現象ですが、イエスさまが十字架にかかられたのは過越の祭り、つまり満月の時期だったからです。
聖書はただ「全地が暗くなった」と語るだけですので、これが日食だったと断定することはできません。大切なことは、これが単なる天文現象ではなく、創造主なる神ご自身がこの出来事に関わっておられたということです。また、神のことばによって造られたこの世界そのものが悲しみを表現していました。あの日、光は退き、世界は沈黙しました。被造物すべてが、神のひとり子の死を悼んでいたのです。
<46節 わが神、わが神>
46節「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
これは詩篇22篇の引用になっています。イエスさまは十字架の上で詩篇22篇を暗誦されました。息も絶え絶えに、この詩篇を口にされたのです。やはり聖書を覚えると、まさにこのように自分自身と聖書を重ねることができますね。引用とか暗誦聖句ということではなく、みことばを自分の出来事として生きる。特に詩篇は「私たちのために書かれた」みことばと言われます。詩篇を自らの祈りとして読む。自分を重ねるどころか、自分のたましいの叫びとしてこれを読み、これを祈る。これで祈るのです。
さて、ご存知の通り、十字架は死刑の道具です。古代ローマ帝国において、最も残忍な死刑の方法だったのが十字架です。今の時代で言えば絞首刑、電気イス…。これらはみな、一瞬で命を奪いますが、十字架は違います。何時間も何時間も、時には数日間かけて命を奪っていくのです。十字架につけられた本人は、自らの体重で肺が潰れていきます。最後は呼吸困難で亡くなるのだそうです。
石のついた鞭で打たれて体を裂かれ、全身血まみれのところに紫の王服を着せられ、それを剥がされて十字架にかけられました。どれほどの痛みだったか。釘は手の平ではなく、手首の真ん中に、骨と骨の間に釘を打ち込まれたようです。その方がしっかりと固定できるからです。
痛みだけでなく、十字架は政治的にも、宗教的にも、恥と憎しみの対象でした。ローマ帝国がユダヤを制圧しようとしてやってきた時、歯向かう者は十字架につけられました。それは見せしめとして、人通りの多い道路脇に立てられたそうです。十字架とは憎きローマの処刑法であり、これにかけられるということはユダヤ人としても終わったことを意味したのです。
しかし、それ以上に、もともと十字架刑は「神に呪われた者」の烙印でした。「木にかけられた者は神に呪われた者である」(申命記21:23)と書いてあるからです。イエスさまにとって十字架とは、痛みや恥だけでなく、神さまとの関係が断絶される苦しみの場でした。まさに詩篇22篇にあるように、イエスさまは十字架の上で神から見捨てられたのです。
父なる神から見捨てられるということが、どれほど苦しいか。私たちはそんなことは絶対にないと信じていますし、だからこその信仰です。イエスさまは三位一体の交わりの中におられて、私たち以上に父なる神との関係は深いわけです。それが、見捨てられた。見放されたのです。十字架にかかる前の晩、ゲツセマネの園で「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈りに祈って、そして最後には「あなたが望まれるままに、なさってください」と十字架を受け取られたイエスさまです(マタイ26:39)。ご自分が十字架にかかることが父なる神の御心だとわかっていたはずです。それでも、このように、詩篇で祈らざるを得なかった。御心に従いつつも、「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、自分の思いを吐露せずにはいられなかったのです。
信仰とは、確信を持って堂々と歩み抜くことが最終目標かというと、そうではないと思います。イエスさまでさえ、このようにご自分の思いを吐露されました。「父よ、なぜ。」こう祈りながらでも歩んでいく。それが信仰。それでいいのです。
<47節〜49節 祈る主イエス、見物する群衆>
47節〜49節「そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。『この人はエリヤを呼んでいる。』そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。ほかの者たちは『待て。エリヤが救いに来るか見てみよう』と言った。」
これはどういうことかというと、旧約聖書最後の預言者マラキの預言に次のようなことばがあるのです。「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ4:5)大いなる恐るべき日、つまり世の終わりが来る前に預言者エリヤが再来するというのです。人々はこの預言を知っていたので、イエスさまが「エリ、エリ」と呼びかけた時に「エリヤ」を呼んでいると勘違いしました。世の終わりに現れるというエリヤを呼んで、助けを求めているのだと。
イエスさまが呼ばれたのは「エリ」、つまり「私の神」です。エリとエリヤ、話し言葉のアラム語なので日本語聖書でもカタカナで書かれていますが、似ています。先ほどのマラキの預言のこともあって、人々は「これはエリヤを呼んでいるんだろう」と勘違いしたのです。まさか、「わが神、わが神」と呼びかけているとは思わなかったということです。
十字架の上という究極の場所で、「わが神、わが神」と祈るとは思ってもいない。私たちはどうでしょうか。そのような究極の場所で、神さまに向けて祈るという選択肢があるでしょうか。祈りたいですね。「わが神」と。「わが父」と。「なぜですか」と、天の父とのことばのやりとりをしたい。
人々が見落としていたのは「わが神」という祈りの呼びかけだけではありません。聖書全体を見るならば、このエリヤとはバプテスマのヨハネのことだったことがわかります(マタイ11:14、17:12)。そのエリヤは救い主の道備えをするために来たのです。今、目の前にいるのは、エリヤどころか、そのエリヤが道を備えた救い主なのです。それなのに、彼らは「エリヤが来るかどうか見物しよう。」などという有様でした。
酸いぶどう酒を乾いたスポンジのようなものでイエスさまの口元に差し出したのも、エリヤが来るまで、ほら、頑張れという嘲りの意図がありました。しかし別の人は「待て。」という。エリヤが来てこいつを助けるなら、そんなものは要らないだろう、と。何にせよ、目の前にメシアがいるのに、救い主がいるのに、奇跡が起こるなら見物しようということなのでした。ヨハネの福音書の並行箇所を読むと、没薬を混ぜたぶどう酒は受け取らなかった、つまり麻酔効果のあるものは受け取らなかったけれども、この酸いぶどう酒は受け取られたイエスさまでした。どこまでも、十字架をそのまま受け切っていかれたイエスさまでした。
目の前にイエスさまがおられるのに。目の前に救い主がおられるのに。私たちの目がそれを見ていない。理解していない。気づかない。それはなんと悲しいことか。
<50節 大声>
50節「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」イエスさまは何を叫ばれたのでしょう。十字架上の最後のことばとして、ルカの福音書23章46節には「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」ということばが、そしてヨハネの福音書19章30節によると「完了した。」ということばが記されています。福音書は、それぞれ違った角度からこの最後の瞬間を伝えています。
どちらのことばも大切ですが、ヨハネの方、つまり「完了した」という言葉を軸にすると、詩篇22篇全体が浮かび上がります。イエスさまは十字架の上で詩篇22篇を全部祈られたのではないかという考え方があるのです。息も途切れ途切れに、絞り出すようにして、詩篇22篇全体で祈られたのではないかという理解です。詩篇22篇は1節の「わが神 わが神/どうして私をお見捨てになったのですか。」で始まり、31節の「主が義を行われたからです。」で終わります。ヘブル語の詩篇だと、一番最後の単語は「行われた」になります。ヨハネが描く「完了した」ということばと響き合うようにも感じられます。
実際に十字架上で22篇を全部暗誦されたのかどうかは推測の域を出ません。しかし、この詩篇全体で祈っておられた。1節だけでなく、詩篇22篇全体を意識して祈っておられたと理解することはできるでしょう。確かに、22篇を読み返してみると、その全体からイエスさまの苦しみが伝わって来るようです。しかし、苦しみのまま終わらない。最後は絶望ではなく、どこか希望に向かって開かれています。
先ほども言ったように、十字架の上では、最後は声も出なくなるはずです。それなのに大声で叫ばれた。それはイエスさまによる勝利の宣言でした。十字架とは、主がなさったこと。主が完了されたこと、成し遂げられたことです。苦しみと、痛みと、恥と呪いの十字架は、神さまのみわざでした。ここへ来て意味が逆転する、いや、本当の意味が露わになるのです。十字架とは、私たち一人ひとりを、つまりあなたを救い、贖うためのものだった。イエスさまは、そのことを十字架の上で大声で宣言されました。あの大声は、希望に満ちた宣言だったのです。
イエスさまの十字架は、私を、あなたを、この世界を救うためのものでした。この十字架によって、私たちの救いは成し遂げられたのです。
<聖餐式>
今日はこれから、聖餐式を行います。イエスさまの十字架の死を偲び、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」というあの祈りを偲び、そして、その最後の大声、希望の宣言を味わいながら、この聖餐式を守り行いましょう。イエスさまがあなたのために、私たち一人ひとりのために十字架にかかられたことを、今一たび、心に深く刻もうではありませんか。
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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(John 3:16)
私たちの罪を赦し、救うために十字架にかかられた主イエス・キリストの恵みと、
私たちが永遠のいのちを生きるようにと、御子を与えてくださった父なる神の愛、
そして、「なぜ」と祈り続けることを励まし、主のなさったことへと目を開かせてくださる聖霊の満たしと祝福が、
受難週の今週も、お一人お一人の上に、その周りに
豊かにありますように。アーメン
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【3/22】受難節
ルカの福音書22章54節〜62節
「主イエスのまなざし」
イースター前の四十日間を受難節(レント)と呼びますけれども、イエスさまが私たちの罪そのものとして十字架で処分されたということを思い返す大切な期間です。イースターにはイエスさまの復活をお祝いしますが、その前に、私たちは十字架の死を思い返さなければなりません。受難週に向けて心を整えていきましょう。
<ペテロのネガティブ・ケイパビリティ>
さて、本日の箇所はイエスさまが捕まった場面です。オリーブ山の麓、ゲツセマネの園でイエスさまを捕らえた人々は、そのまま大祭司の家に向かいました。オリーブ山とは反対側のエルサレムの町へ向けて斜面を上っていきます。この時に通っただろう階段が発掘されています。ペテロはその道を遠く離れてついていきました。彼は数時間前、最後の晩餐の席で「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と豪語したのです。22章33節ですね。またイエスさまが捕まった時、50節、大祭司のしもべに打ちかかったのは、ヨハネの福音書によればこれはペテロです(ヨハネ18:10)。しかし、イエスさまはペテロを制し、その傷を負ったしもべの耳を癒されました。もうペテロにできることは何もなかった。一隊の(つまり六百人の)兵士たち(ヨハネ18:3)、怒りと憎しみに満ちた祭司長たちを前に、彼は逃げました。しかし、ペテロは「遠く離れてついていった」のです。弟子としてしっかりお側にということはできなかったけれども、完全に離れてしまうのではなく、恐れて距離を取らざるをえなかったけれども、それでもついていったのでした。みじめですけれど。でもそれでもついていった。39節で、オリーブ山に向かうイエスさまに「従った」ということばと、54節の「ついて行った」、これらは同じ単語です。あの時は意気揚々と従っていったのです。何でもできるような気がした。怖いものは何もなかった。しかし今では距離をとって、こっそりついていく有様です。思い描いたような歩みはできない。それでも、そうやってでも、ついて行ったんです。
私たちは、とかく完全なクリスチャンらしい歩みでなければならないという思いから、0点か100点か、どちらかしかないと思いがちです。でも、物事にはグラデーションがある。人生は試験ではないのですから、合格か不合格かでは決められないことがある。先週もお話ししましたが、人生の物語はまだ続いている。神の物語はまだ続いているんです。
以前も紹介しましたが、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉があります。消極的能力とか、否定的能力と訳されます。不確実なこと、あいまいなことを受け止める能力のことです。焦りや不安に駆られて、早急な判断をしてしまうのではなく、自分なりの答えが現れてくるのをじっと待つことができる力のことです。物語の場面が移り変わることを待てる力、とも言えるでしょう。
ペテロの姿はネガティブそのものです。しかし、ここにこそ私たちの人生のリアルがあるじゃないですか。そこから離れないで、ネガティブな自分、あいまいな自分を受け止めているんです。彼は火の側で震えながら、しかしそこから離れなかった。彼はみじめでもついて行った。それは「従った」ということなんです。100点じゃない自分はダメだとか、信仰が強くない自分はダメだとか、そのように思う必要はないんです。信仰が曖昧でも、そのぐちゃぐちゃしたままでイエスさまに何とかついていく。それでいいんです。
ペテロは意識的にそういうつもりでいた、ということではないでしょう。無我夢中ですから。私たちもそうですよね。無我夢中で、後から振り返ったら分かるということが多いと思います。その時その時、何とかイエスさまについていく。それでいいんですよね。
<イエスさまのまなざし>
とは言っても、ペテロのその歩み、イエスさまに従っていく道のりはいよいよ困難なものになりました。55節、大祭司の家の中庭で、人々が火をたいて温まり始めたので、ペテロもその中に紛れ込みます。勇気を振り絞って、ひっそりとそこにいます。建物の中から聞こえて来る罵声に耳を凝らしながら、イエスさまがどうしておられるかを必死に探ろうとしていました。
しかしそこで突然、声をかけられるのです。「この人も、イエスと一緒にいました。」隠れていたかったのに。身を明かさず、紛れ込んでいたかったのに。しかし座り続けていた中で突然声をかけられ、自分の立場が明かされてしまいました。57節、彼は慌てふためいて、「いや、私はその人を知らない。」と答えるのです。とっさの場面で、イエスさまとの関係を否定してしまいました。
信仰とはイエスさまとの関係です。イエスさまに知られ、イエスさまを知ることです。しかしペテロは身の危険を感じた時、それを否定しました。イエスさまを捕らえて亡き者としようという側の人たちに囲まれて、自分も捕らえられるのではないかと不安になり、とっさに出た言葉がそれだったのです。私たちにもよくわかるところです。
クリスチャンではない人が圧倒的多数を占めるこの社会にあって、イエス・キリストを救い主として信じていることで目立ってしまう。そのことで身に危険を感じてしまうメンタリティを私たちも持っています。マイノリティ・コンプレックスです。いや、そんなことは気にしない。人は人、私は私。私はイエスさまについていくのだとペテロはそう思っていたのです。しかし、突然の出来事に、とっさに出た言葉は「私はあの人を知りません」でした。イエスさまとの関係よりも、自分の身を守ることを優先してしまう、私たちの姿です。人にどう思われるかは関係なくても、自分の言動、日々の生活を「イエスさまとは関係ない」としていくなら、イエスさまとの関係よりも自分の快適さ、自分の慣れ親しんだ状況を優先していくなら、それは同じことです。「私はあの人を知りません」ということです。私たちは、「イエスなんて知らない」と容易に言ってしまう。
そして、同じことが繰り返されていきます。58節、しばらくして、また別の人から言われるのです。「あなたも彼らの仲間だ。」これは受け取りようによっては褒め言葉なわけです。あなたは確かにクリスチャンだ。あなたは確かにイエスと共に生きている。しかし、ペテロはそれも否定するのでした。
ペテロは戦っています。先ほども言ったように、イエスさまに従っていきたい思いがなくなったわけじゃないんです。イエスさまとの関係を完全に否定してしまったわけじゃないです。だって、彼はまだ立ち去らずにここにいるんですから。最初に指摘された時点で、最初にバレた時点で、立ち去ることだってできました。でもとどまり続けた。恐れと焦りでいっぱいになりながら、それでもイエスさまがどうなったかを知ろうと、その場にとどまり続けたのです。59節「それから一時間ほどたつと」、彼は一時間もここにいた。自分も捕まるんじゃないかという恐れと戦いながら、それでも何とかイエスさまの安否を知ろうとそこにいたんですよ。ペテロの葛藤を思い描きながら、ネガティブな自分でもそのままそこに留まり続けたペテロに思いを馳せながら、いたたまれない思いと、そしてペテロに対する親近感で胸がいっぱいになります。
彼は、また別の人から言われてしまいます。59節「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」言葉のなまりで、ペテロが北部ガリラヤの人間だということがわかってしまいました。今捕まっているイエスはガリラヤのナザレの人です。先の二人の証言と合わせて、「確かにそうだろう。ガリラヤ訛りのこの男は、ガリラヤからイエスについてきたのだろう」と言われてしまったのです。
ペテロの答えは、また否定でした。60節「あなたの言うことは分からない。」他の福音書には「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め」という表現があります(マタイ26:74)。風前の灯のような、吹けば飛ぶような信仰でなんとか留まっていましたが、自分自身の特徴を指摘されて動揺したのでしょうか。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。主が言われた通りになりました。33節〜34節「シモンはイエスに言った。『主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』しかし、イエスは言われた。『ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」マルコの福音書には、それに対するペテロの応答があります。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)彼は力を込めて言い張ったのでした。しかし、彼は鶏が鳴く前に三度イエスさまを知らないと言ってしまったのです。
ペテロがイエスさまを三度否認したこの出来事は四つの福音書全てに載っていますが、ルカだけが記していることがあります。それが61節「主は振り向いてペテロを見つめられた。」という、ここです。これはルカにしかない表現です。ルカがこれをどうやって知ったかといえば、ペテロの自己申告だったでしょう。イエスさまがペテロを見つめられたというのは、ペテロ本人にしかわからないことだからです。そして、ペテロもまたイエスさまを見つめたということ。二人の目が合ったということです。ずっと後になってから、ペテロはこの時のことを回想して、ルカに語って聞かせたのですね。
ペテロが思い出したイエスさまのまなざしは、ペテロを責めるようなものではなかったはずです。言った通りだっただろう?というものではあったと思いますが、怒っているような、軽蔑するようなまなざしではなかったはずです。31節〜32節「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」立ち直ったら。つまりここでイエスさまはペテロが信仰的に挫折することを知っておられました。しかし立ち直るようにと祈っておられた。イエスさまは、失敗してしまったペテロだけでなく、その先のペテロのことも見据えておられました。ペテロのはっきりしない、いざという時に頼りにならない態度のことも、そのまま受け止めて、その先に彼が成長することを見据えて、祈っていてくださった。イエスさまもまた、ネガティブ・ケイパビリティの視点でペテロを見ていてくださったのですね。そのまなざしは、私たちにも向けられています。
<詩篇73篇21節〜24節>
よく開く箇所ですが、詩篇73篇21節〜24節をお読みします。
私の心が苦みに満ち
私の内なる思いが突き刺されたとき
私は愚かで考えもなく
あなたの前で 獣のようでした。
しかし 私は絶えずあなたとともにいました。
あなたは私の右の手を
しっかりとつかんでくださいました。
あなたは 私を諭して導き
後には栄光のうちに受け入れてくださいます。
私たちには、苦しみ、内なる思いが突き刺され、心のうちがぐちゃぐちゃになって、まるで獣のように吠えるしかできない、そんな時があります。愚かで、考えなし、わきまえのない時があります。しかしそれでも、何と驚くべきことか、23節「私は絶えずあなたとともにいました」。これは、私たちの側で「いた」んだというわけじゃないですよね。だって「獣のような心」で、何をしているかわからない状況なんですから。それでも、絶えずあなたと共にいたというのは、神さまの側でしっかりと掴んでいてくださったからに他なりません。
私たちの側でどんなにイエスさまを否定しても、いや、否定したくない、でも怖い、というギリギリの戦いの中でやっぱりどうしても否定してしまうというような時でも、イエスさまが見つめていてくださいます。愛に満ちた眼差しで、私のことを見据えてとりなして祈っていてくださいます。そして、私の右の手をしっかりつかんでいてくださる。右の手は力の手です。離さないようにしっかりつかんでいてくださる。もし私が手を開いてしまっても離れないように、ギュッと手首を掴んでいてくださる。そんなイメージです。そして私を導き、励まし、神と共に歩むという聖化の歩みに伴ってくださり、後には栄光のうちに受け入れてくださる。栄化ですね。天の御国で文字どおりともにあってくださるのです。
今日はネガティブ・ケイパビリティという話をたくさんしていますが、まさに神さまがこういう視点で私たちのことを見てくださるんです。獣のような心でも、イエスさまのことを知らないと言ってしまうような時があっても、神さまは変わらずに私たちと共にいてくださる。あなたと共にいてくださいます。だから、私たちもその視点で、そのまなざしで、自分のことを見ていたいし、周りの人のことを見ていきたいですね。
<ペテロの悔い改め>
この後、ペテロは悔い改めました(61節〜62節)。いや、正確に言うと悔い改めのプロセスを歩み始めました。ただ泣くことが悔い改めではありません。それはただの後悔です。しかし悔い改めとは向きを変えること。イエスさまを否認してしまう生き方から、イエスさまを証しする生き方へと、舵を切り直すことです。ペテロはその歩みを始めたのです。
ペテロは外に出て激しく泣きました。彼は、イエスさまから言われた「あなたはわたしを三度知らないという」ということばを思い出して泣きました。それ以上に、その直前に言われた「わたしはあなたのために祈っているからね」というそのことばを思い出していたはずです。彼はそれを思い出して泣いたんです。その後、彼はどうしたのでしょう。イエスさまの十字架を遠くからこっそり眺めながら、絶望したでしょう。取り返しのつかないことをしてしまった。最悪の別れ方をしてしまった。後悔の念でいっぱいでした。しかし、彼はそれでも他の弟子たちと一緒にいましたよね。ユダは絶望して一人離れて行きましたけれども、ペテロとユダの違いが何だったかと言えば、ペテロは主を信じる者たちの交わりから離れなかったんです。そしてイースターの日を迎え、彼は復活のイエスさまにまたお会いすることができたのです。ガリラヤ湖では上着のまま飛び込んでイエスさまに会いに行きました。そして、自分に与えられた召命、つまり自分の役割を再確認していくのです。
悔い改めはプロセスです。一気に悔い改められるわけじゃない。ヘテロのように何度でも何度でも主のことばを思い出しながら悔い改めの道を歩んでいく。そうやって、イエスさまと一緒にその道を歩んでいくんですよね。
熱心に、信仰深く、確信を持ってイエスさまについていけなくても、迷いながら、戦いながら、ときに否定してしまいながらでも、それでもイエスさまと共に行く。イエスさまのまなざしに気がつきながら、つまり自分もイエスさまを見つめながら、遠く離れてでもこの方についていくものでありたい。悔い改めながら、この方についていきたい。聖霊はそのようなペテロに、また弟子たちに注がれました。私たちも日々新たに聖霊の満たしを求め、主と共に歩む、主についていく歩みを追い求めていきましょう。主が必ずそのようにしてくださいます。(ヘブル12:2)
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信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2)
私たちを見つめていてくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちの右の手をしっかりと掴んでいてくださる父なる神の愛、
そして、悔い改めて主と共に歩む生き方を励まし、導き続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン
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