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​礼拝メッセージ
お知らせ

●録音

20250112(マタイ3:1〜4)主を迎える準備
00:00 / 34:52

●原稿

【1/12】

マタイの福音書3章1節〜4節

「主を迎える準備」

今日からまた、マタイの福音書の講解に戻ります。久しぶりなので少し振り返りますけれども、イエスさまの系図、そして東方の博士たちの記事を経て、二章の後半では、幼子イエスさまがヘロデ王から逃れるためにエジプトに行かれたこと、そして戻って来られたことを見ました。ここには出エジプトの出来事を振り返るホセア書の預言が重ねられています。またヘロデによるベツレヘムの幼児虐殺事件についてはエレミヤの預言が引用され、バビロン捕囚が重ねられている。こうすることで、読む人に昔も今も変わらない神さまの恵みを思い出させ、この幼子はその体現であると強調しているのです。私たちも、今の自分を形成するような過去の出来事、しかも苦しかった出来事を思い返します。しかしそこで助けてくださっていた方、その恵み、その希望をも思い返すなら、またイエスさまに出合い直すことができます。「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも同じ」お方だからです(ヘブル13:8)。また、「この方はナザレ人と呼ばれる」という預言も引用されました。軽蔑される北部の町ナザレでこの方は育たれたということを明らかにすることで、主はとことんまで身を低くされたこと、私たちの生活感を理解し、共にいてくださる方だということが確認されました。私たちは過去の重大な出来事を振り返ることだけでなく、今の生活の中でも、この主と出会い直すことが出来る。今日はその続きです。「主を迎える準備」ということで、イエスさまと出会う、イエスさまと出会い直すということについて、引き続き見ていくことになります。

<3:1 そのころ>
3:1は「そのころ」と始まります。どのころなのかと言いますと、2:23と直接つながっているわけではなくて、あきらかに長い時間が経っています。ルカの福音書には、イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになったのは「皇帝ティベリウスの治世の第15年」だったとあります(3:1)。ティベリウスというのは二代目のローマ皇帝ですが、初代皇帝アウグストゥスが死んだのが西暦14年。そこで交代して15年を数えると西暦29年になります。ただティベリウスはアウグストゥスがなくなる3年ほど前から共同統治をしていたようなので、そこから数えると西暦26年ということになります。その他の聖書の箇所をいろいろ突き合わせて判断しても、ティベリウスの15年というのは西暦26年のことのようですね(ヨハネ2:20など)。これは空想やおとぎばなしではなく、イエスさまは私たちのこの歴史の中に確かに来られたお方なのです。

<神のことばと荒野>
さて、バプテスマのヨハネについて触れる前に、彼が活動した「荒野」という場所について見ていきます。荒野とは神さまのことばを聴く場所です。しんと静まり返った、何もないこの場所で、旧約の時代から人々は神のことばを聴いてきました。創世記に出てくるアブラハムも、ヤコブもそうでしたよね。荒野とはヘブル語で「ミッダバール」と言います。ことばとは「ダーバール」と言いますが、まさに荒野(ミッダバール)とは、ことば(ダーバール)を聴く場所なんです。聖書のことばが、身の回りの出来事の中にどのように響いているのかを聴き取るには、見定めるには、何でも思い通りになる環境ではなく、何もない荒野にいる必要があります。私たちは今、どこにいるでしょうか。物事が思うように進まない、助けになるようなものが何もない、荒野のような場所に今いるなら、それはピンチではなくチャンスです。神さまからの語りかけを聞いていくチャンスなのです。

ただ、荒野で神のことばを聴くというのは、周りの人と交わりを断って一人の世界に閉じ込もることではありません。イスラエルの荒野には羊を飼う遊牧民がいるんです。今で言うベドウィンのような、羊のための草を求めて移動しながら生活している人たちがいる。アブラハム、イサク、ヤコブも荒野で羊を飼っていました。潤沢にどこもかしこも草原というわけではないのですが、雨季の雨によって草が生える。花も咲くんです。たしかに厳しい環境です。基本的にはごつごつした岩肌なので。昼夜の温度差も激しい。でも、人々がそこで助け合いながら生きている。荒野とはそういう場所でもあります。神のことばを聴くとは、荒野に生きるとは、そこで出会う人たちと協力しながら、厳しい世界を生きていくということです。そうやって聴こえてくることばがある。私たちは神のことばを聴くという信仰的な表現を理由にして、一人の世界に閉じ込もってしまいがちだと思いますが、聖書の神は交わりの神であることを忘れてはなりません。

<荒野の声>
さて、バプテスマのヨハネです。ヨハネは預言者イザヤによってその登場が預言されていた人でした。ザカリヤとエリサベツの子です。らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていたとあります。預言者エリヤのようです(第二列王記1章)。マタイは、このヨハネこそイザヤが預言していた「荒野の声」だと言うのでした。3節はイザヤ40:3の引用です。これも例によって、イザヤはバプテスマのヨハネの登場を言い当てる預言をしていたわけではなくて、イザヤの文脈というのはバビロン捕囚からの解放です。バビロン捕囚とは神さまがエルサレムから離れて行ってしまう出来事とも言われたわけですが、しかし「主なる神が戻ってこられる。だからその道を整えてお迎えせよ」、つまりバビロン捕囚からの解放をイザヤは預言したのでした。そしてその通りになりました。バビロン捕囚は終わった。つまり、神さまが戻って来られた。そして今度はマタイがバプテスマのヨハネの登場をその預言に重ねました。預言は重曹的に成就していきます。時至ってついに来られたイエスという方は、神の民と共に生きてくださるお方、私たちに新しいいのちを与えてくださるお方、主なる神ご自身なのです。バプテスマのヨハネは荒野の声としてその方の到来を告げ、王をお迎えするために必要なことを人々に告げる存在でした。彼の両親であるザカリヤとエリサベツは高齢でしたから、早くに亡くなったでしょう。ヨハネはイスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた、とルカの福音書は記しています(1:80)。彼は荒野の厳しい環境で地道に生活しながら、時に遊牧の羊飼いたちとも助け合いながら、神のことばを聴き取っていきました。そして、自分の役割、自分の召しを確信していったのでしょう。

そして、ついに人々の前で語り始めたその内容は、2節「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というものでした。実はこの後4:17でイエスさまもまったく同じメッセージで宣教を始めておられます。「天の御国」についてはそちらでまた深く掘り下げていきたいと思いますが、今日は主を迎えるために、イエスさまを迎えるためには「悔い改める」ことが必要だということ。この点を特に考えたいと思うのです。

<悔い改める>
「悔い改める」とはメタノイアといって、向きを変えるということです。ただ単に「悪いことをしてしまった」「いけないことをしてしまった」と後悔するだけなら、それは悔い改めとは言わないのです。生き方の向きを変えないと。神さまの方を向き直さないと。それが悔い改めなんですね。神さまの方を向き直し、神さまとの関係を正すことです。イザヤ書55:6〜7「・・・」この主に「帰る」という言葉、旧約聖書ではこれが「悔い改め」に相当します。シューブというヘブル語です。この6節、7節から悔い改めについて学べることは、まず悔い改めとは、主を求めることです(55:6)。他のことで心がいっぱいになっている私たちですが、まずそこから変えられる必要があります。主の臨在を慕い求める、つまり主がここにおられるという確信を求めていくということです。次に、悔い改めには時間の制限があります。「お会いできる間に」とあります。再臨のイエスさまが戻ってこられるのがいつなのか分からない以上、神さまとの関係はいつも正しておきたいと思います。また「近くにおられるうちに」、これは「お会いできる間に」と同じような意味でいいでしょう。そして「呼び求める」。主を求めるということに加えて、「呼ぶ」のです。神さまの名前を呼びます。インマヌエルと呼ばれる方を。「わたしはある」と呼ばれる方を。「主は救い」という意味のイエスという名前を、呼ぶのです。神さまを呼びながら、その名前を呼ぶことでその名前の意味をかみしめながら、そうやって神さまを求めていくなら、悔い改めないままでいることはできませんね。7節にあるように、自分の道、自分の計画を捨て去らざるを得ないでしょう。神さま抜きであれこれ考えていたことを捨てざるを得なくなる。それが悔い改めです。そうやって生き方を変える。そうやって主に帰るのです。「そうすれば」主はあわれんでくださる、と。ここには注意が必要です。私たちが悔い改めたから、それを条件として憐れんでくださるという意味ではありません。放蕩息子のたとえを思い出します。彼が父親の元に戻って来る前から、あの父親はずっとずっと待ち続けていましたし、お詫びのことばを言い終わらないうちに、それをさえぎるようにして赦し迎え入れてくれました。神さまは私たちが悔い改めたからあわれみを示してくださるのではなく、私たちは神さまの憐みのうちにあるから、悔い改めることができるのです。そしてイザヤ55:7最後ですけれども、「私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」神さまはただ赦してくださるだけでなく、豊かに赦してくださるお方です。神さまの赦しが届かないところなどないのです。だから私たちは安心して神さまの前に悔い改めていくことができます。

招きのことばで読みましたが、詩篇80:19も開いてみましょう。ここにも「シューブ」が出てきます。「(私たちを)元に戻し」という、ここです。悔い改めるとは、神さまが作られた自然なあり方に戻ることです。加えて、主が私たちを元に戻してくださる、主が私たちを悔い改めさせてくださるということがわかります。私たちは自力で悔い改めることはできません。自分の悟りだけで悔い改めることはできません。聖霊なる神の示しがなければ悔い改めることはできない。聖書のことば、神のことばに刺されるということがなければ、悔い改めることはできないのです。しかし、「主が」私たちをあるべきところに戻してくださる。神さまとあるべき関係に返してくださいます。ここに「そうすれば 私たちは救われます。」とありますが、イエスさまを信じてすでに救われた私たちにも大いに関係があります。救いというのは「過去に救われ、今救われ、そしてやがて完成する」ものです。私たちは救われている、そのことが揺るがないようにしつつ、救いの完成を待ち望むものでありたい。そのためにも、日々悔い改めることが大切なのです。悔い改めとは、イエスさまを信じたときのことだけではなく、一生続くものです。

神さまは、無理矢理に私たちの首根っこを捕まえて向きを変えさせるようなことはなさらないので、悔い改めの恵みを受け取るためには、神さまからの示しに応答しなければなりません。聖霊がみことばを通して促してくださることに、そっと乗っていく。それすらも聖霊が私たちに力を与え、勇気を与えてくださるから可能なことです。私たちはそのために聖霊の満たしを求めるのです。興味深いのは80:14です。「万軍の神よ どうか、帰って来てください。」この「帰る」、これもシューブなんですね。バビロン捕囚によって神の民から離れて行かれた主に向けて、帰って来てくださいと祈っているのです。70年という神さまが決めた時間が必要でしたが、その間、イスラエルの民はこのように祈り、神さまを待つことで整えられていきました。神さまが帰って来てくださる、またその御顔を私たちに向け、照り輝かせてくださる、そのことを信じていたから、自分たちも神さまの方に向き直す、悔い改めて、礼拝者として、生き方を整えられていく。悔い改めとは、私たちが神さまの方を向くことですが、それは「神さまがこちらを向いてくださる」という希望と切っても切れない関係にあるのです。先ほど、放蕩息子の父親のたとえで見たように、私たちは安心して悔い改めることができます。主はこちらをら向いていてくださるから。主は必ずこちらを向いていてくださるから。だから、神さまの方を向いていけるんです。

<主の道>
ここで、バプテスマのヨハネに戻りましょう。彼は「荒野で叫ぶ者の声」でした。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と。神が来られる。神があなたを回復させてくださる。だから、その道をまっすぐにしなさい。主が通りやすいように、王が通りやすいように、道を整えなさいということです。古代、王が出かけるときにはその前に使者が使わされ、道を整えさせたということがありました。荒野の声は叫びます、主の道を用意せよ、その道をまっすぐにせよ、主が来られる!と。そして、その通りに主は来られました。イエスさまは2000年前のベツレヘムにお生まれになり、ナザレで育たれました。人として、私たちの間に住まわれたのです。

その後、十字架の死と復活を成し遂げて、天に戻られたイエス様ですが、私たちはもう一度この方と出会うことができます。そこでも、マタイが引用したイザヤの預言は有効です。「荒野に主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにする」ことが大切です。私たちが復活の主と出会うには、悔い改めることが必要です。主の方を向き直し、主を求め、主を呼ぶことが必要です。「荒野で叫ぶ者の声」とありましたが、「叫ぶ者の声がする、荒野に主の道を用意し」と訳すことも可能です。荒野の真ん中に、主のために道を整えるのです。荒野で主と出会うのです。何もない、乾ききった地で、主を求めるのです。主に帰るのです。そうすれば主は豊かにあなたを恵みで満たしてくださいます。

今、悔い改めるべきことはないでしょうか。「自分が罪人だということは聖書の教えとして知っている、しかし具体的にこれが罪だといえるものは思いつかない」ということが、ままあると思います。しかし、神さま以外のもので、神さま以外のことで心が満ちている、神さまが二の次になっているという領域がないでしょうか。神さまなしで、祈ることなし、みことばなしで切り抜けられる、自分の経験だけで判断できると思っていることがないでしょうか。先ほどのイザヤ書にありましたが、それらは「悪者」や「不法者」のものだと聖書は言うのです。だから、それを捨て去りなさいと。生活のただ中で、一つ一つ、神さまに呼びかけながら、祈りながら確かめていくものでありたいですね。

荒野の真ん中に、主のために悔い改めの道を整えましょう。改めて主とお出会いするために、心を、生活を、神さまの方に向き直しましょう。聖霊なる神は必ず私たちをそのように励まし、導いてくださいます。(詩篇80:19)

ーーー
荒野で私たちと出会ってくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちに悔い改めを与えて、ご自身も向き合ってくださる父なる神の愛、
そして、救いの完成に至る私たちの信仰の歩みを守り導いてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにあふれますように。
アーメン

 

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【12/22】

アドヴェント第四週

​クリスマス礼拝

ルカの福音書1章26節〜38節

「神のことばの実現」

クリスマス、おめでとうございます。このアドヴェントの期間、神のことばが実現することを待ち望む信仰の姿勢について、聖書から教えられてきました。神さまのことばは必ず実現します。私たちにはそれを信じる、信頼することが難しいのですが、神のことばは必ず実現します。神のことばそのものであるイエス・キリストが来られたからです(ヨハネ1:1,14)。その誕生が実現したからです。今日はもう一人だけ、神さまのみことばの実現を待ち望んだ人を振り返りたいと思います。それは、他でもない母マリアです。

先ほどお読みした聖書の箇所はマリアのもとに天使があらわれて、赤ん坊の誕生を告げる場面です。26節、神殿でザカリヤのもとに天使が現れてから六ヶ月目のことでした。ガリラヤのナザレという町にいた一人の処女のところに、天の使いがあらわれます。28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」日本語では「おめでとう」とありますが、もともとは「喜びなさい」と訳せるところです。主が共におられることを喜びなさいと。これから天使が伝える内容は、社会的には大変な困難を伴う内容でした。結婚前に、婚約者のヨセフも知らない子どもを宿すことになるのですから、これは不安でしかない内容です。しかし、御使いは言うのです。「おめでとう」と。「喜びなさい」と。

私たちも、自分の理解を超えた想定外のことが自分の身に起こると動転します。不安になります。しかし、御使いは神さまのメッセージを届けて言うのです。「喜びなさい、恵まれた方。主があなたとともにおられる」と。私たちが途方に暮れる時、神さまはそれに先んじて、すでに希望の言葉を届けてくださっているのです。主が共におられる。神さまが共にいてくださる。マタイの福音書には、この子が「インマヌエルと呼ばれる」とありますが、インマヌエル、まさに「神は私たちと共におられる」、これがクリスマスのメッセージの根幹なんですね。神さまは私たちと共におられます。神さまは天高く遥か遠くにおられる方ではありません。この世界を造られた方がこの地上に、この世界に降りてこられました。時間にも場所にも制約されないお方が、時間と場所の制約を受ける形で、つまり確かにこの世界に来られたのです。今から2000年ほど前、ルカが2:1で記すようにローマの皇帝アウグストの時代という具体的な時間、ユダヤのベツレヘムという具体的な場所に、この世界に、神さまが肉体を取ってきてくださった。「神は私たちと共におられる」、そのことをありありとあらわすためにです。これは書物の中の遠いお話じゃない。あなたに関することです。神は私たちと共におられる。神はあなたと共におられます。

御使いは続けます、31節、マリアはみごもって男の子を産むと。これは先ほども言ったようにあり得ないことですし、あってはいけないことでした。これが知られたら石打の刑という事態です。しかし御使いは淡々と続けます。名前はイエスとつけなさい。これは「主は救い」という意味の名前です。へブル語ではヨシュア、また彼らの話しことばであったアラム語ではイェシュアと言って、実は一般的な名前です。しかし超自然的な方法で生まれるということもさることながら、32節、33節は驚くべき内容でした。旧約聖書で預言されていたことがこの方によって成就するということです。ずっと待っていた聖書の約束がいよいよ成就するのです。理想の王が来られる。神の計画が進むのです。しかしそれは、未婚のマリアがみごもって男の子を産むという、スキャンダラスな形を通してでした。もう少しまともな方法はなかったのか。当時の結婚年齢から考えて、おそらくマリアはこの時まだ12,3歳と言われます。マリアじゃなくてもよかったのではないか、もしくは、もう少し遅らせてもよかったのではないか。しかし、イエスさまは人の通常の営みによって誕生するのではなく、処女マリアから生まれなければならなかった。人としてお生まれになりましたが、神が送られた救い主として。神のひとり子としてのお方です。そのために選ばれたのがマリアでした。何の力もない、田舎の、一人の未婚の少女。しかし、彼女は神さまのご計画の鍵を握る人物だったのです。周りはマリアのことを、なんの影響力もない田舎の少女と見たでしょう、本人もそう思っていたに違いない、しかし、彼女なしに神さまが救いの計画を進めることはありませんでした。

マリアは尋ねます。34節「どうして(もしくは、どのようにして)そのようなことが起こるのでしょう。」当然です。あってはいけないこと。まずあり得ないことでした。普通に考えて不可能なことです。子どもが生まれるためには、精子と卵子が受精することが必要です、しかしそれなしに、マリアはみごもるというのですから。

御使いは答えます。「聖霊があなたの上に臨むのだ」と。そして「いと高き方の力があなたをおおう」のだと。だから聖なる神の子が生まれるのだと。人の営みによらず、ただ聖霊の出来事として、このことは起こるのです。その証拠、その証として提示されたのが36節、マリアの親戚エリサベツが老年になってから子を宿したということです。神さまの扱いをいざ受けた際の、いわば参考として、兄弟姉妹の証を覚えておくことは大切ですね。そして極め付けにはこうです、37節「神にとって不可能なことは何もありません。」ここのニュアンスとしては「神のことばに不可能なことは何もありません、神のことばは必ず成就します」という感じです。マリアの上には聖霊が臨むのです。いと高き神の力がマリアを覆うのです。そしてマリアは男の子を産むのです。それは必ず成るのです。神が語られたことは必ず成就するのだからです。

マリアは「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と答えます。神さまの言葉がこの身に起こるように。神さまの約束の通りに、この自分の上になりますようにと、神さまの言葉に信頼したのでした。ちなみに、ビートルズの名曲で「Let it be」という曲がありますが、この箇所から歌詞が取られています。聖母マリアが私に「Let it be」という知恵のことばを教えてくれたという歌詞ですけれども、Let it beとは、日本語でいうなら「そのとおりになりますように」とか「それがそのままそうであれ」という意味ですね。神さまの約束がそのまま、私の上になりますようにということです。

しかしビートルズの歌詞もそうですが、マリアも気楽に「Let it be」と言えたわけではありません。「どうぞ、あなたのおことばどおりに」などと、気楽に言えるわけがなかったのです。先ほども言ったようにそこには確実に困難があったからです。思い描いていた幸せとは全く違う展開になることが明らかでした。【マリアはヨセフのいいなづけの妻でした。いいなづけ、つまり婚約関係ではありましたが、実はこれは法的にはすでに「夫婦」とみなされていました。ユダヤでは結婚式を2回行います。1度目の結婚式はいわば婚約式のようなものですが、その時点で法的にはもう「夫」や「妻」と呼ばれるのです。最終的な二回目の結婚式の日までお互いに貞潔を守り、誠実にすごす、そのような期間を過ごしていました。その間の不貞行為は姦淫と見なされました。】聖霊によってみごもったのだなどという、そんな超自然的な話を、ヨセフは信じてくれるでしょうか。普通であれば法に則って離縁の手続きが取られるでしょう。それだけではなく、姦淫の罪を犯したとしてさばかれ、律法の掟に従って石打ちの刑にされる状況です。12、3歳の少女にとって、これがどれほど不安で過酷な状況かと思うのです。

しかし、マリアは告白します。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますようにと。私は主のはしためです、とも。奴隷は主人の言葉を聞くことが絶対です。そのようにして、マリアは主のことばを絶対のものとしました。そして、その通りになった、マリアが信じた通りになったことを私たちは知っています。ルカの福音書2章に書かれてある通りです。クリスマスは、神の言葉がその通りに成就した出来事だったのです。神のことばに不可能は一つもありません。今年のクリスマスはいつにもまして、「神の言葉に不可能はない、神の言葉はそのまま成る」ということを肝に命じたいと思います。

<私たちの上にも>
さて、聖霊なる神さまはマリアの上に臨んだだけでなく、私たちの上にも臨み、私たちを力で覆ってくださいます。もちろん、私たちは処女懐胎はしません。それは神の子イエスさまの誕生だけです。しかし、イエスさまを信じた私たちも神の子だと聖書は言います。私たちは聖書の神さまを信じる信仰によって神の子とされたのです。聖霊の助け、聖霊のお導きによってイエスさまを信じた私たちは、なお一層、聖霊に満たされて歩んでいきます。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆うという約束は私たちにも与えられている、ということを確認しましょう。同じルカが書いた使徒の働き1:8「・・・」ルカが描いた二つの書物の冒頭でそれぞれ聖霊に満たされるということが出てくることは注目に値します。ルカは明らかに力を込めてここを書いています。聖霊はあなたの上にも臨まれるのです。そしてそれは、私たちの考え、常識、思い描いていたものをはるかに超えて起こるのです。私たちはイエスの証びととしての力を受け、地の果てにまでキリストを証するものとなるというのです。地の果てとは、宣教師になるということだけではありません。今私たちがいるその場所が、まず地の果てです。私たちは今置かれている場所で、今遣わされているこの場所で、イエスさまの証びととして生きていきます。そうやって、イエスさまがまた戻ってこられることを、主の再臨を待つのです。アドヴェントには、主の再臨を待つ意味もあると、繰り返しお話ししている通りです。

いつの日か、主はまた戻ってこられると聖書は記しています。その日まで、私たちはイエスさまを待ち続けのです。神のことばは、また戻って来られるという主のことばは必ず実現します。その日まで、十字架によって赦され、軽やかに生きていけるという福音をこの身を持って証しながら、私たちは生きていくのです。

ちなみに、再臨のイエスさまはオリーブ山に来られます(使徒1:11,12、ゼカリヤ14:4)。エルサレムの街を見下ろす山です。そしてそこから黄金門、今は閉じられていますけれども、そこからエルサレムに入城するわけです(エゼキエル43:4)。再臨のイエスさまを待つという時、エルサレムはとても大事な鍵になる場所なんですね。イスラエルでは戦争が止みませんけれども、彼の地の平和のために祈らなければなりません。政治に関しては専門家でないと読み解けないような裏の事情、裏の裏の事情があると思いますし、イスラエル政府のやることをすべて無条件に称賛する必要はありません。時代は混迷を深めていて、私たちには簡単に断言できないことが多すぎる。でも、ここが主の再臨の場所だということははっきりしていて、私たちはイエスさまが戻ってこられるのを待っているのですから、「エルサレムの平和のために祈れ」と詩篇にあるように(詩篇122:6)、彼の地の平和のために祈るものでありたいと思います。

私たちは主を待ちます。いよいよクリスマスを迎えようとしているこのアドヴェント第四週、そしてクリスマスの礼拝をも兼ねるこの日に、また再臨の主を待つ心を新たにしたいのです。主を待ち続ける力は聖霊が与えて下さいます。聖霊はあなたの上に臨まれます。あなたのうちに満ち溢れてくださる方です。そのようにして、力強く福音を証しながら主を待つしもべへとつくり変え続けてくださるのです。「どうしてそのようなことになり得ましょう」と言われますか?私の現状は主を待つなんて心持ちとは程遠いし、聖霊に満たされることともほど遠い、そう言われるでしょうか。しかし、その疑問にはすでに2000年前に答えが出ています。つまり、「神にとって不可能なことは何ひとつ(ない)」のです。私たちはキリストを待つ者として凛として生きていくことができます。地の塩として、世界の光として世の中に仕えながらのその歩みは、聖霊が守ってくださいます。「聖霊があなた方の上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、地の果てにまで、わたしの証人となります。」「神にとって不可能なことは何ひとつありません。」今年新たに、神のことばに不可能はないということを深く胸に刻みたいと思います。そして、マリアのように、思い描いていたこととは違っても、神さまに信頼し「あなたのおことばどおり」とその道をお任せして歩んでまいりましょう。

ーーー

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)
 

私たちの罪を赦して新しい生き方を与えるため、ついに来られた主イエス・キリストの恵みと、
そのみことばに不可能はない神の力、
そして私たちの上にも臨んで福音の証人としてくださる聖霊の満たしと祝福が、

今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。

アーメン

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【12/15】

アドヴェント第三週

ルカの福音書1章57節〜80節

「沈黙とその終わり」

アドヴェントの第3週を迎えています。今日は引き続きザカリヤとエリサベツについて、ルカの福音書1章57節以降から見ていきます。彼らが経験した沈黙、そして待ち望むということについて考えていきましょう。

まずは前回のところを振り返りますが、祭司のザカリヤは天使からお告げを受けました。それは高齢の自分たちに子どもが生まれるということ、そしてその子が救い主の道備えをするという内容でした。ザカリヤは、子どもが生まれるということ以上に、その生まれた子が救い主の道備えをするということに反応しています。それこそが彼の真の願いだったのですね。しかし、彼はその実現を信じることはできなかった。「仮に子どもが生まれたとしても、その子が大きくなる頃にはもう自分は生きてはいまい。その子が主の道備えをするなどということを信じることは出来ません。」これが彼の答えでした。その結果、彼は口が利けなくなり、耳も閉ざされました。それは、自分のことばを話せず人のことばも聞けない沈黙の中で、神のことばを信頼していくための訓練でした。神のことばは、時が来れば必ず実現します。そのことを信頼し、信じ続けることができるか。私たちにも問われていることです。

このようにして、ザカリヤとエリサベツは神のことばが実現することを待ち始めます。それは子どもの誕生だけでなく、救い主の誕生を待つことをも意味していました。その子どもは救い主の道備えをするというのですから。エリサベツの妊娠は、二人が神のことばを信頼したことの証です。「信頼して待つ」ということは信仰において大切な態度ですが、それは何もしないで待つという受け身の姿勢ではなく、神さまを信頼して、自分にできることをしながら待つという積極的な姿勢です。がむしゃらに自分の勢いで進めるのではなく、神さまのことばに押し出されるようにして、神さまのことばに支えられながらのことです。ザカリヤのように、エリサベツのように、神のことばに押し出されながら、そのみわざのあらわれを「積極的に待つ」ということを、私たちも改めて問われています。

<57節 沈黙の終わり>
さて、間にマリアの訪問の記事を挟みつつ、ザカリヤとエリサベツの話は57節に飛びます。月が満ちて、エリサベツは男の子を産みました。待ち望んだ日です。しかし、ザカリヤの口は閉ざされたままです。沈黙はまだ続いていました。子どもが生まれた喜びと忙しさの陰で、まだなのか?いつまでなのか?と思ったでしょう。確かに子どもが生まれた。そして救い主も親類のマリアから生まれることが分かった(これは直前の箇所でマリアが訪ねてきたシーンがあります)。それならば、いよいよこの口が開かれるのではないか。しかし、そもそも、ガブリエルが告げたことによれば、ザカリヤの口が閉ざされるのは「これらのことが起こる日まで」ということでした。「これらのこと」には、ザカリヤに子どもが生まれることだけでなく、その子が救い主の道備えをするということまで含まれます。まだ、天使が告げた「その時」ではないのです。もしかしたら、一生口が利けないままかもしれない。ザカリヤはそう思っていたと思います。でも、それなら「あなたは一生涯口が利けなくなる」と言われるはず。結局、いつまでなんだ。いつまで待てばいいのか分からないのです。ザカリヤとエリサベツの気持ちがよく分かります。みことばの実現を信じるための訓練は、いつまで続くのでしょう。詩篇13篇1節にこうあります。「主よ いつまでですか。/あなたは私を永久にお忘れになるのですか。/いつまで 御顔を私からお隠しになるのですか。」

子どもが生まれた後も、彼らは待ち続けます。そして八日目、ユダヤ人の男の子として割礼が施され、名前がつけられる日になりました。割礼というのは、ユダヤ人の民族的な印として、生まれたばかりの男の子の包皮を切り取るわけですね。そこで名前がつけられることが一般的でした。当時、幼子に名前をつけるときには、一族の誰かの名前に因むということがよくなされていたようです。特に祭司の一族は家系を途絶えさせないことを大切にしていたので、人々は父親の名に因んで、この子もザカリヤと名付けようとしました。当然そうなるだろうと思ったわけです。

しかし、母エリサベツは「名はヨハネとしなければなりません。」と言いました。ヨハネとは「主(ヤハウェ)の恵み」という意味です。かつて、ザカリヤが天使から言われていた名前です。エリサベツは、この一連の出来事がすべて神によることを理解していましたし、ザカリヤの口がいまだに開かれない今も、神さまのみわざに信頼し続けていたのです。筆談でしか話せない状況で、この二人がこの十ヶ月の間、どれほど祈り合ってきたことか。これはすごいことです。

人々は「あなたの親族には、そのような名の人はいない」として、ザカリヤにどうするつもりなのかを確認します。身振りで尋ねていますから、やはりザカリヤは口だけでなく、耳も聞こえなくなっていたのです。ザカリヤは書き板を持って来させて、その子の名はヨハネと書きました。そしてその時、ザカリヤの沈黙の期間が終わったのでした。この子が成長してメシアの道備えをする時にはまだなっていません。しかし、ザカリヤ夫妻がこの子をヨハネと名付けた、主の恵みと名付けたその時に、訓練は終わりました。ザカリヤが「やはり自分の子にもザカリヤと名付けよう。」などと言ったなら、訓練はまだまだ続いたでしょう。しかし、「この子の名はヨハネ。」これは彼の、彼らの信仰の告白でした。御使いから伝えられた神のことばに従うという彼らの信仰告白だったのです。彼らはこの子を祭司の跡取りではなく、預言者として育てる決心をしました。主の道備えをするのは、エリヤの再来のような人物、つまり預言者だからです。ずっと夢見てきた、我が子が祭司の職を継いでくれるという夢は手放して、神さまのみことば実現のために自分たちの人生を捧げたのです。そして事実、この子がそのような人物に成長したことを私たちは知っています。

口が開いたザカリヤは、神を褒め称え始めました。まさか、今終わるとは思わなかった訓練期間が終わったのです。まだまだかかる、もしくは一生かかると思っていた神さまからの取り扱いの期間が終わったのです。ここにも「すでにといまだ」があります。この子がメシアの道備えをするという神のことばはまだ実現していません。ザカリヤの真の願いもそこにあったわけですが、それはまだ実現していない。しかし、まったく不可能のはずだったのにこの子は誕生しました。これは奇跡であり、しるしです。神のことばは必ず実現するということの、今すでに与えられた証です。だから、ザカリヤはみことばの最終的な実現を見ずに信じました。すでにといまだの間で、彼はみことばの実現を信じた。その時に訓練期間は終わったのです。

彼は開口一番、まず神を褒め称えました。私たちもそうありたいと願います。そして続く彼の賛美の内容を見ると、そこには自分の苦労を振り返ることばはなく、神への賛美が続きます。そして、生まれたこの子への呼びかけがある。ザカリヤはこのことを確信しているのです。これは我が子への呼びかけでありながら、同時に、神のことばは必ず実現するという宣言であり、彼の信仰の告白なのでした。

近所に住む人たちはみな恐れを抱き、これらのことの一部始終がユダヤの山地全体に語り伝えられていきました。ザカリヤの沈黙とその終わりは、神のことばが確かに実現することの証でした。「何によって知ることができるでしょうか。」と証拠を求めたザカリヤに対して与えられたしるし、それこそがこの沈黙であり、そしてその沈黙が終わることだったのです。それはザカリヤ夫妻に対してだけでなく、広く人々に伝えられていくことになりました。人々が集まる祝いの割礼の日、八日目の日に、人々の目の前で口が開かれたということにも意味がありました。これはザカリヤ個人やその家庭だけでなく、公に人々に伝えられていくべき喜びの知らせだったのです。神のことばは必ず実現する。すでにといまだの間で、神のことばは信じるに足るものだ、私たちは神のことばを信じて生きていいのだということの証です。そして、神のことばそのものであるメシア、キリストがついに来られることの証なのでした。

<待ち望むアドヴェント>
沈黙の終わる日を待ち続けたザカリヤの姿勢は、そのままクリスマスを待ち続けるアドヴェントと重なります。クリスマスとは、神の沈黙が終わった証でもあるからです。旧約聖書の最後、マラキの預言が語られてから400年間、預言者は現れず、神さまの約束がどうなっているのか、神さまはなんと言っておられるのか、人々は知る術を持ちませんでした。神の沈黙です。しかし、それを破ったのがクリスマスの出来事だったのです。イエスさまはまさに、神のことばそのものとして来られたお方だからです(ヨハネ1:1-5)。ザカリヤの沈黙とその終わりは、神さまの沈黙とその終わりを象徴する形にもなっているのです。

私たちも、今一度、このアドヴェントの時、神さまのみことばの実現を待ち望む心を新たにしていただきましょう。特に今年、私たちは「霊的成熟」というテーマで学び続けてきましたけれども、聖霊が私たちを成長させてくださる、成熟させてくださるという約束が実現するのかどうか、今の自分を見るとまったくそのようには思えないということだらけです。しかし、霊的成熟とか、聖化というのは、神と共に歩み続けるということです。私たちは、神さまとの歩み方を教えられている最中なんですよね。今、自分は神さまからこのような語りかけを受けているなと思ったら、そう示されたなら、しっかりとその訓練に、生き方の練習に、参加していきたい。ザカリヤとエリサベツの「待ち方」は「積極な待ち方」でした。私たちも、神さまとの歩み方を積極的に練習していきたい。私たちを成長させてくださるという神さまのみことばは必ず実現しますから、その「いまだ」を見据えつつ、神のことばそのものであるイエスさまが「すでに」来られていることを思い起こしつつ、神さまと共に歩むことを続けていきたい。

神さまの訓練期間に入ることは、決して不証なことでも恥ずかしいことでもありません。神さまは、信じられなかったザカリヤの不信仰すらも、ご自分のみわざを表すために用いられました。ザカリヤの沈黙とその終わりは、神の沈黙とその終わりを象徴するために用いられたんです。神さまは私たちの不信仰すら用いてくださるお方です。神さまからのお取り扱いは、安心して受け取っていけばいいのです。その私たちの姿が、神さまのみわざを表すことになるからです。

アドヴェントは「待つ」ということの訓練の時です。待つという信仰の大切な実践の時、訓練の時なのです。それは、積極的に待つという姿勢です。神のことばに押し出されて、神のことばを信頼するがゆえに、自分にできること、自分に任されていることをしていくという待ち方です。今、まさにその訓練の中にあるという方がおられるでしょうか。それは沈黙を課されるような、もしくは神が沈黙しておられるように思えてしまうような、そんな日々かもしれません。しかし、神さまは沈黙してはおられないんです。神のことばはすでに来られたんです。私たちにはすでに希望が与えられていることを思い出しましょう。ザカリヤと同じように私たちも「すでにといまだ」の間で苦しい思いをいたします。でも、イエスさまは、神のことばはすでに来られました。ザカリヤに倣って、エリサベツに倣って、その只中で神さまを信頼していきたいのです。信頼し直していきましょう。そして、神と共に歩む歩み方を、みことばの実現を積極的に待つという生き方を、ほんの少しでもまた一歩進めようではありませんか。

「主よ いつまでですか。」という問いかけで始まった詩篇13篇は、次のように終わります。「5 私はあなたの恵みに拠り頼みます。/私の心はあなたの救いを喜びます。6 私は主に歌を歌います。主が私に良くしてくださいましたから。」ザカリヤの口から賛美がほとばしり出たように、主を待つ私たちの口にも賛美があふれますように。

そういえば、ザカリヤとは「神は覚えておられる」という意味、そしてエリサベツとは「神の誓い、神の約束」という意味の名前です。神さまは私たちへのみことばを覚えておられます。神さまは、私たちに語りかけてくださったことを一つ一つ覚えておられます。そのことを忘れないで、私たちも彼らの後を追う者として、彼らの背中を追う者として、主への信頼を新たにしていきましょう。彼らの訓練の先にクリスマスの出来事が実現していったように、私たちが経験する日々の先にも、きっと神さまのご計画があります。

ーーー

 

主よ いつまでですか。/あなたは私を永久にお忘れになるのですか。/いつまで 御顔を私からお隠しになるのですか。/私は主に歌を歌います。/主が私に良くしてくださいましたから。(詩篇13:1、6)

私たちの罪を赦して新しい生き方を与えるため、ついに来られた救い主、主イエス・キリストの恵みと
私たちの不信仰をも用いて訓練をし、みわざを表してくださる父なる神の愛、
そして、みことばの実現を待つ者として私たちをつくり変えてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン

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【12/8】

アドヴェント第二週

ルカの福音書1章5節〜25節

「主のことばの実現を待つ」

アドヴェントの第二週の礼拝です。今週と来週の2回に分けて、ルカの福音書1章前半から、ザカリヤとエリサベツのことについて見ていきます。今年の年間聖句である第一ペテロ5章7節も開くことになります。

<5節〜9節 ザカリヤという人>
まずはルカ1章ですけれども、5節〜6節「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。」ユダヤの王ヘロデの時代に、とルカは記します。最近取り扱ったマタイの福音書にも記されていた通りです。ヘロデ大王の治世は紀元前37年から紀元前4年とされています。紀元前と呼ばれる時代が終わろうとしていて、紀元後、つまり西暦元年に近づいていく頃のことでした。

旧約最後の預言者マラキの活動から400年が経ち、預言者を通しての神の語りかけもなくなっていました。しかし、ついに神さまのご計画が動き出そうとしていたのです。

 

ユダヤにザカリヤという名の祭司がいました。祭司とは神殿での礼拝を司る人です。モーセの兄アロンが最初の祭司で、祭司は代々その子孫が担ってきました。ザカリヤは祭司ですから、アロンの子孫。そしてその妻エリサベツもアロンの家系、祭司の家系の人でした。心を合わせて神を礼拝し続けてきた二人でした。やがて救い主が来られる、メシアが来られるという神の約束の実現を待ち望みながら、礼拝を続けてきたのです。7節、彼らには子どもがいませんでした。祭司は特に家系を重んじるそうです。バビロン捕囚の期間も守り抜いた祭司の家系、アロンから続く祭司の家系を途切れさせないことは、私たちが想像するよりも重要なことだったのです。それなのに子どもがいないということが、ザカリヤとエリサベツにとってどれほどの痛みだったか。しかし、それでも彼らは落ち度なく神を礼拝し続けてきたのです。何十年も、神を信頼して、神さまは良いお方だということを信じて、仕えてきたのです。

8節〜9節「さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。 」当時、イスラエルの地には一万八千から二万人もの祭司がいたと言われます。アロンの子孫のレビ人たちはダビデ王によって24の氏族に組み分けされ、神殿での日々の奉仕が割り当てられていました(第一歴代誌23、24章)。各組が年に二回、各一週間ずつ、神殿での日々の礼拝を担当していたようです。午前と午後、全焼のいけにえが捧げ終わる時に香がたかれます。午前と午後に一人ずつ、各氏族の務めは年に合計二週間ですから、年に28名です。これがくじによって決められました。一万八千から二万人の祭司が24組に均等に分けられていたなら各組の祭司は750人から830人、氏族ごとに増減はあったでしょうから千人ほどいたかもしれません、どちらにせよ、その人数からくじをひいてこの香をたく役割が当たる確率はとても低い。およそ三十年に一度あるかないかの確率で回ってくる役割だったことになります。しかも、これを経験できるのは生涯で一度きりだったとか。ザカリヤにとって、これは一生のうち最初で最後の特別な礼拝の場だったのです。

今日の礼拝は、生涯で最後の礼拝かもしれない。同じキリストのからだとされている兄弟姉妹たちと心を合わせて神をたたえ、神のことばを聞き、神に賛美を捧げ、祈るのは今日が最後かもしれない。礼拝とは、一回一回が特別なんです。私たちがここに集まって礼拝を捧げている、今日のこの礼拝は、後にも先にもない、一度きりの礼拝であることを覚えます。ザカリヤのように神を信じて仕えてきた、お一人お一人です。子どもがいないザカリヤがそのことの痛みに耐えながら、しかし神を信頼して歩んできたように、家の中に、また自分自身に大きな傷を抱え、痛みを抱えて、しかし、それでも今日ここで礼拝を捧げておられるお一人お一人に、神さまからの慰めと励まし、導きが豊かにありますように。アーメン。

10節「彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。」祭司にお任せではありません。エルサレムの神殿に集まる人々は、みなが祈っていました。一丸となって祈る。みなで懸命に祈る。教会もまたそのようなところですね。

<11節〜20節 ザカリヤの真の願い>
ザカリヤは香をたき始めます。香の芳しい煙は祈りの象徴です。煙が天に向けて立ち上っていく様子は、祈りが神に向かっていく様を表していました。ザカリヤはおそらく何度もリハーサルをした手順に則って、その役割を始めました。するとその時、11節、主の使いが彼に現れ、祭壇の右に立ったのです。12節、これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われました。旧約聖書には、神の臨在に触れていのちを落とした人の記事がいくつもあります。香をたく壇は、神殿の最深部、至高の聖所である至聖所の幕の目の前にあります。聖なる神の臨在の一番目の前という場所で、彼は神の御使いを見たのです。自分は打たれる、打たれたと思って不思議はなく、むしろその方が当然という状況です。彼は取り乱し、恐怖に襲われました。

しかし御使いは言いました。13節〜14節「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。 14 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」ザカリヤの願いは聞き入れられた。二人に子どもが与えられるというのです。

注意深く読むと、ザカリヤの願いは実は、単に子どもが与えられるということだけではなかったということが読み取れます。子どもが生まれたらそれでいいのではなかったのです。だから天使は15節以降のようなことも言うのです。ザカリアは子どもが与えられることを願っていましたが、同時に、いやそれ以上に、その子がメシアの道備えをすることを望んでいたのです。それこそが、彼の真の願いだった。子どもが欲しいという切実な思いの奥底で、彼の霊が望んでいたこと。それはメシアが来ること、そして自分の子がその道備えをするということだった。そこまで含んで、彼の真の願いだったのです。天使はそのことを言っています。

私たちにも、自分でも気づいていない願いがあります。自分では気づいていないけれども、神さまは知っていてくださる願いがある。それは、神さまのみわざのために用いられるということです。何か大きな派手な働きをしたいという意味ではありません。身の回りのレベルであっても、私たちの生き様が神さまの素晴らしさをあらわすものになるということ。私たちが神さまの素晴らしさの生き証人になることです。ここ数ヶ月、私たちが学んでいる言い方で言えば、私たちが霊的に成熟するということですね。私たちは自分の古い性質で生きることの方が楽なのですが、それでも私たちの霊は、私たちの存在の奥深いところで、新しい生き方を全うしたいと願っている。神と共に歩むことを切望しています。この身をもって神さまの栄光を表すことを切望している。神さまに造られたものはそうなんです。ロマ書に書いてある通りです(ローマ8:23)。気付きたくないと思っているかもしれない、気づかないふりをしているかもしれません、しかし、神さまに造られたものには、神さまのために生きたい、神さまのために用いられたいという深い願いがあるんです。神さまは、御使いを使わして、私たちが自分たちの真の願いに気がつくようにと示し続けてくださる。

15節から17節の表現は難しいのですが、酒を飲まないというのはナジル人と言って、神さまの働きのために聖別される人のことです。17節にあるエリヤの霊と力というのは、旧約最後の預言書であるマラキ書の最後の預言に関係しています。救い主が来る前に、エリヤの再来のような預言者が現れ、救い主のために道備えをするというのです(マラキ4:5-6)。ザカリヤは確かに子どもが与えられることを願っていた。それは祭司の家系を継がせて自分が安心するためではなくて、その子には救い主に仕える存在になってほしい。それが彼の真の願いだったのです。

私たちも、心に多くの願いを抱きます。ああなるといい、こうなるといいと様々な願いを持ちます。それは当然のことですし、変なことではない。ただ、それらの奥底で光っている、真の願いがある。自分でも気がついていない、霊の願いがある。神さまは御使いをよこして、そのことを気づかせてくださるお方です。

<みことばの実現の「すでにといまだ」>
しかし、ザカリヤは言うのです。18節「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」ザカリヤが意味しているのは、歳をとっているのでもう子作りは無理ですということではなさそうです。子どもが生まれることに関してなら妻が妊娠すればわかるわけですから、「何によって知ることができるか」などとは聞きません。ここでザカリヤが聞いているのは、明らかにされた自分の真の願いに関することです。「生まれてくる子が救い主のために働くということを、私はもう年齢的にも見ることはできないので信じられません」ということです。彼は自分の真の願いを自覚したのです。確かにそれが私の願いだ。しかし、その願いが聞かれたなどと、本当だろうか。本当に私には子どもが与えられて、その子は救い主の道備えをするのだろうか。それを信じることはできない。霊の願い、真の願いを自覚しても、それを信じることは難しいのですね。

19節〜20節、御使いは彼に答えました。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。 20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」これは罰ではありません。「私のことば」とありますが、御使いは神のことばを届ける役割ですから、これは神のことばという意味です。その時が来れば実現する神のことばを信じるための期間に入りますということです。神のことばを信じなかったから罰が与えられたということよりも、ザカリヤは神のことばが実現することを信じるための訓練の期間に入ったのです。

ここにもまた「すでにといまだ」があります。神のことばは必ず実現するのです。神は約束を覚えておられ、それは必ず実現する。その意味ではすでに約束は確実なんです。でも、いまだ実現していない。このすでにといまだの狭間で、私たち信仰者は神の約束を信じて、神のことばを信じて歩むのです。その歩みは完璧で順風満帆な信仰の歩みではありません。神のことばを信じるための期間、訓練の期間に入れられることもある(ヘブル12:10-11)。ザカリヤは口が聞けなくなっただけでなく、62節によると耳も聞こえなくなっていたようです。自らのことばを話せず、他人のことばも聞けない中で、ただ神のことばを聞き取り、神のことばを信じていくことを教えられていったのです。神のことばを信じるために、余計なものは削ぎ落とされたザカリヤでした。

<21節〜24節 ザカリヤとエリサベツ>
21節〜22節「民はザカリヤを待っていたが、神殿で手間取っているので、不思議に思っていた。 22 やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。」

ザカリヤは神殿から出て、人々に祝祷の祈りをするはずでした(民数記6:24-26)。しかし、彼は口がきけません。人々は何か不思議なことが起こったのだ、彼は神殿で幻を見たのだと知りましたが、詳細はわかりません。ザカリヤはその週の務めの期間を終えて、自分の家に帰りました。ザカリヤとエリサベツが住んでいたのはエイン・カレムといって、エルサレムの近くにある村だそうです。彼は失望して帰っていったのでしょうか。何も説明できないもどかしさと、神のことばを信頼できなかったことへの後悔は確かにあったと思います。しかし、神さまからの訓練期間に入っていること、つまり必ずこの先に神さまはよいものを用意していてくださることを確信し、彼は聖なる恐れに包まれながら、神さまの前にひれ伏す思いで帰っていったのではないでしょうか。

今、自分が神さまからの訓練期間にある。その時に抱く聖なる恐れ。これは何か分かる気がしますよね。

24節、その後、エリサベツは身ごもりました。それは全くの自発的な行為によります。神さまから操られてのことじゃないです。神のことばは必ず実現する。私たちには子が与えられる。そして、救い主のためにお仕えする者となる。これは必ず実現する。そう信じていないと、確信していないとできないことです。高齢の二人にとって、簡単なことではありません。それでも、神の計画に参加していった。参画していったのですね。ザカリヤはことばで説明はできませんから、筆談でエリサベツに何があったかを事細かに説明し、同意を求めたのではないでしょうか。エリサベツもすぐには信じられなかったでしょう。今更・・・という思いがまさって当然です。妊娠しなかったら、妊娠したとしても、無事に安定期に入るかどうか。しかし、彼らは神さまのことばを信じた。そして、自分たちの行動をそこに重ねたんです。信仰がないとできないことです。

24節にはエリサベツの素直な思いが綴られています。ここまで、ザカリヤの真の願いとか、すでにといまだというようなことを述べてきましたが、そうとは言っても、やっぱりエリサベツにとって、子がないことは「人々の間の私の恥」だったんですね。今の時代は多様な生き方が認められ、尊重される時代ですが、この時代を生きたエリサベツにとって、それがどれほど辛いことだったか。神さまは、私たちの素直な思いも聞き取ってくださる。優しいお方です。

<あなたがたの思いわずらいを>
ここで、今年の久遠キリスト教会の年間聖句を思い出しましょう。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5:7)神さまは、私たちの願いを、思いわずらいを知っていてくださる。そして、私たちの内なる願い、神さまに用いられたいという願いにも気づかせてくださいます。あとはこの方についていけばいいんです。

私たちは今、クリスマスを待ち望むアドヴェントの期間を過ごしていますけれども、いつも言いますように、それは主の再臨を待ち望む期間でもあります。私たちの真の願い、それはイエスさまにお会いすることです。様々な思いや願いは当然ありますけれども、私たちの霊が望んでいるのはイエスさまと相見えることなんです。私たちの願いの奥底で光っている、真の願いがある。私たちも気がついていない、霊の願いがある。それは、イエスさまにお会いすることじゃないですか。先ほどのザカリヤが気づいたように、イエスさまのために用いていただきたいということであり、それは突き詰めるならイエスさまと共に歩みたい、イエスさまとお会いしたいということです。ザカリヤが、その真の願いを自覚させられたように、私たちも、イエスさまを待ち望む心を、イエスさまに用いられたい、イエスさまにお会いしたいという願いを、いよいよはっきりさせられていくのです。

神さまは御使いを遣わして、そのことを気づかせてくださるお方です。再臨を待ち望む心を、神さまが明らかにしてくださる。主の再臨を待ち望みつつ、今、ここで、地に足をつけて主とともに歩みたい、という願いに気づかせてくださる。その上で、ザカリヤが訓練期間に入ったように、私たちもすでにといまだの狭間を、神さまのことばを信じて歩むようにと導かれます。そうやって余計なものが削ぎ落とされていくのです。神さまのことばを聞き取るために、余計な物が取り去られていく。削ぎ落とされていく時があります。それは、神さまが、必ず実現するご自身のことばを、どうにかして私たちに信じてもらいたい、信頼してほしいという思いから、私たちに特別にそのような期間を与えてくださっているんですね。旧約聖書に記された信仰の先輩たちは、救い主を待ち望みつつ、救い主を見ることなく召されていきました。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(ヘブル11:13)私たちもこの地上を寄留者として、神の国のすでにといまだの狭間を歩みます。神のことばを信じながら、やがて必ず実現する神の国の完成を信仰によって確信しながら歩むのです。主は必ず来られます。それは必ず実現する。私たちはそのことを、信仰によってすでに得ているのです。

私たちが霊的に成熟して、主と共に歩む、主に用いられながら、主の栄光を表しながら歩む、そのことも必ず実現します。私たちはそのことを、信仰によってすでに得ている。そのように励まされながら、歩み続けてまいりましょう。

ーーー
私のたましいは あなたの救いを慕って 絶え入るばかりです。
私はあなたのみことばを待ち望んでいます。(詩篇119:81)

私たちのために人として生まれてきてくださった主イエス・キリストの恵みと
私を、あなたを救うためにひとり子を世に遣わされた父なる神の愛、
そして、主の再臨の日まで私たちを守り導き、励まし続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン

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【12/1】

アドヴェント第一週

イザヤ書8章22節〜9章7節

「光が来た喜び」

クリスマスを待ち望むアドヴェントの第一週となりました。昨年同様、イザヤ書8章22節〜9章7節を開いてこの喜びの期間を始めましょう。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる」という有名なメシア預言を含む箇所です。

まず8章22節です。「彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。」私たちの周りにはどんな苦しみがあるでしょうか。「地を見ると」というのは、まず自分の足元。そして、広く社会全般のことでもあるでしょう。今日は詳しく見ることはできませんが、8章17節からの文脈で、この人は「私は主を待ち望む」と言っているのです。神さま、いつまでですか。まだ苦しまなければならないのですか。これはそのような苦難であり、闇なのです。詩篇13篇には次のような歌があります。「主よ いつまでですか。/あなたは私を永久にお忘れになるのですか。/いつまで 御顔を私からお隠しになるのですか。/いつまで 私は自分のたましいのうちで/思い悩まなければならないのでしょう。/私の心には 一日中 悲しみがあります。/いつまで 敵が私の上におごり高ぶるのですか。」(13:1-3)解決を待ち望みながら、苦難の只中でじっとしていなければならないことは辛いことです。イザヤの預言も同じです。自分だけでなく、見渡す限りの闇だというのです。

しかし、9章1節です。「しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。/先にはゼブルンの地と/ナフタリの地は辱めを受けたが、/後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、/異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。」ここで言われている地域は、北イスラエル王国のあったところです。アッシリア帝国に滅ぼされるという辱めを受けました。しかし、後には栄誉を受けると。ガリラヤを中心としたこの地方は、後に多くの異邦人が住む地域となったので、「異邦の民のガリラヤ」と表現されています。礼拝の中心地であるエルサレムからは遠く離れた、異邦人の多い地域として、イエスさまの時代にも人々から見下される地域でした。しかし、イエスさまがどこで宣教を開始されたか。イエスさまが教え始められたのは、まさにこのガリラヤだったのです。イエスさまは闇の中に来られた光でした。光は周りを照らし、温め、導きます。イエスさまはまさに、暗闇の中の光として来られたのです。2節にあるとおりです。「闇の中を歩んでいた民は/大きな光を見る。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に/光が輝く。」

3節「あなたはその国民を増やし、/その喜びを増し加えられる。/彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、/分捕り物を分けるときに楽しむように、/あなたの御前で喜ぶ。」あなたというのは「御前」ともあるようにこれは神さまのことですね。私たちは、滅ぼされて民がいなくなってしまった北イスラエルに重ねられていますが、「神さまがその国民を増やす」と。私たちの痛みは、私たちの苦しみは、恥は、苦難は、癒されるということです。私たちを照らす光が来たので、私たちは喜ぶのです。穀物の収穫の時のように。またこの時代は戦がごく普通のことでしたから、分捕り物という表現も出てきます。大事なことは、光が来たので、私たちは主の御前で喜ぶということです。

4節、「あなたが、彼が負うくびきと/肩の杖、彼を追い立てる者のむちを、/ミディアンの日になされたように/打ち砕かれるからだ。」喜ぶ理由が語られます。神さまはギデオンとたった三百人の部下を用いて、十二万以上のミディアン人を追い払われたという話が士師記に載っています(士師記6章〜7章)。つまり、奇跡としての勝利です。本来ならどう逆立ちしたって勝てっこない戦いでした。しかし、神さまが介入してくださったから勝てたのです。私たちの苦難が解決されるのも、まるでその時のようだというのです。本来なら、どう頑張ったって解決しっこないのです。でも、神さまが介入してくださるなら、私たちは喜ぶことができる。喜ぶことができる。イエスさまの到来は、そういう出来事なんだということです。

5節、「まことに、戦場で履いたすべての履き物、血にまみれた衣服は焼かれて、火の餌食となる。」戦争で使われたものは用無しになって火で焼かれるということです。平和が来るということですね。世の中を見渡せば、イスラエルとハマスの戦争は終わりを見せません。ヒズボラとは停戦の合意がなされましたが、さっそくヒズボラの施設が爆撃されるなどのことが起こっています。ロシアとウクライナの戦争も終わりません。悲しいことに、人が作り出す平和は脆いです。しかし、神さまは、「キリストの平和」を与えてくださる。しかもそれを、私たち人の手に託してくださる。このような時代だからこそ、私たちはキリストの平和を託された者としての生き方を改めて点検しなければなりません。世界の平和のために大きなことはできませんけれども、そのためにする小さなことを諦めたくないですし、まずは自分の身の回りから、神さまの平和を一つ一つ証ししていきたいと思います。その動機は「喜び」です。光が来られたから喜んだという、2節、3節以降の喜びは、4節、5節、6節に続いていく喜びなんです。ここには「〜だからだ」という接続詞があるのです。英語で言う「because」ですね。私たちは喜ぶのです。神さまがミディアンの日のような奇跡を起こしてくださるからです。私たちは喜ぶのです。争いは終わるからです。

そして6節です。私たちは喜ぶのです。ひとりのみどりごが私たちのために生まれたからです!「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。/ひとりの男の子が私たちに与えられる。/主権はその肩にあり、/その名は『不思議な助言者、力ある神、/永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」

みどりごというのは、万葉集に載っているような古い日本語ですね。生まれたばかりのみずみずしい赤ん坊のことです。イエス・キリストは私たちのために赤ちゃんとしてお生まれになりました。神が人として、私たちのところに来てくださったのです。聖書の証しする神は、高いところから下界を見下ろして指図してくる神ではありません。人として、自ら私たちのところに来てくださったお方です。

この世界の破れを繕うために。この世界の痛みに手を当ててくださるために、主は来られました。私たちの破れを繕うために。私たちの痛みに手を当ててくださるために、主は来られました。そして、その働きを私たちに託してくださった。私たちは主と共にこの世界の破れを繕い、この世界の痛みに手を当てます。世界の暗闇にこの光を届けるのです。

また、6節には「主権」ということばがあります。これは英語では「government」、つまり政府と訳されることばです。世の中の国は、権力者たちは、自らの利益と立場を守るために権力を振るいます。しかし、この方は、私たちのためにいのちを捨てる王です。私たちはこの方の愛を生きるのです。しかも、この方はよみがえられました。私たちは今も、この方と共に生きるのです。

「不思議な助言者という表現」は英語の聖書ではワンダフルカウンセラーとなっていますね。私たちの話を聞き、私たちの心に溜まったいろんなものを吐き出させて、そして生きる力を、希望を与えてくださるお方です。そして、平和の君と。今こそ、キリストの平和がこの世界を覆うように祈りたいと思います。主の祈りで「御国が来ますように」と祈るように、神の国が、その平和がこの地に実現していくように、なおなお祈っていかなければなりません。

7節、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、/ダビデの王座に就いて、その王国を治め、/さばきと正義によってこれを堅く立て、/これを支える。今よりとこしえまで。/万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」イエスさまが来られたことで、神の国はこの地に始まりました。神の国はすでに来ています。しかし、いまだ完成はしていません。主が再び来られるその日まで、私たちは神の国のすでにといまだの狭間で、やはり苦しい思いをいたします。しかし、光は来ているのです。最終的な解決、最終的な勝利は確実なのです。神の国はいまよりとこしえまで、堅く立ちます。万軍の主の熱心がこれを成し遂げます。人の工夫や工作ではなくて、主の、万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。だから必ずそれはなるんです。ゆだね、期待し、信じようではありませんか。あなたの問題を、この世界の問題を、痛みを、すべて解決してくださる方がおられます。その方は再び来られます。いつも話すことですが、アドヴェントには、主の再臨を待つ意味もあります。クリスマスを待ちながら、私たちは主の再臨を待つのです。聖霊なる神が、私たちの信じて待つ心を励まし続けてくださいますように。主が共にいてくださいますから、すでに私たちは御国の完成の前味を味わうことができます。どんな困難の中にあっても、どんな痛みの中を通っていたとしても、どんなに暗闇の中に今たたずんでいるのだとしても、私たちから、この光をが与えられた喜びを取り去るものはありません。今年のクリスマスも、この喜びを改めて味わい直すことができますように。

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光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。ヨハネ1:5

私たちのために人としてきてくださった、主イエス・キリストの恵みと、
暗闇の中にいる私たちを光で照らしてくださった父なる神の愛、
そして、神の国のすでにと未だのはざまで、私たちを励まし続けてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン

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【11/24】

詩篇143篇10節 他

「霊的成熟④御心を行うことを」

霊的成熟のシリーズ説教の四回目です。今日は、今読んだ詩篇143篇10節、並びに最近読んでいるマタイの福音書からヨセフの姿をヒントにしながら、前回学んだ第二部の第一章「御心のわかる人格へ」という部分を振り返りたいと思います。

まず本の内容を振り返りますが、本の中で「私たちは『御心を教えてください』と祈るよりは、『御心のわかる人格に成長させてください』と祈るべきではないか。」という言葉が紹介されていました。もちろん、私たちは神さまの御心を求めて祈るわけです。神さまが願っておられるように生きたいと思うのは当然です。ただ、注意しなければならないのは、そもそも私たちには神さまの御心を知り尽くすことはできないということです。これは詩篇にもそのような表現があります(詩篇139:17)。ですから、自分は神の御心を知れるんだ、知れたんだという確信はある意味では危険なんですね。神さまが私たちを愛しておられること、ひとり子イエスさまのいのちをかけるほどに私たちを愛しておられることは疑いようもないことですが、私たちがどう生きるか、生活する上で何を選択していくのかという具体的なことについて、私たちは神さまの御心を簡単に語るべきではないと思います。これを選ぶ方が御心だ、これをする方が御心だと簡単に語るべきではないと思います。

そもそも「御心を教えてください」という祈りで私たちは何を望んでいるのでしょうか。神さまの御心というのは、それにさえ従っていればいいという安心装置なのでしょうか。それを知ることさえできれば、何も考えずにそれだけ守っていけばいいという楽な生き方のためのものなのでしょうか。私たちは無意識にでもそれを願っている可能性があります。しかし、神さまは私たちに、指示待ち人間のようになることを望んではおられないはずです。神さまは私たちをロボットのように造られたのではないからです。

極論ですが、何をしてもいいのです。聖書には、どのような進路に進みなさいとか、どのようなタイミングで引っ越しなさいというようなことは書かれていない。それらは自分で決めていいのです。祈りながら、神さまと相談しながら、どちらへ進んでも、何を選んでもいいのです。そこに神さまがおられます。あとでその決断を振り返れば、ああ、神さまが導いてくださっていたと分かるんですよね。

<紋切り型のミココロ>
著者の経験として本の中で紹介されていた出来事ですけれども、ある日の礼拝でピアノの奏楽者が礼拝に遅刻してきたということがあって、何だかボーッとして、いかにも寝坊しましたという感じだったと。著者の関先生の心は不満でいっぱいになりました。それは、礼拝の重要性を知り、そこにすべてをかけている者にとっては当然の怒りだったわけです。この姉妹は神の御心を行っていないと思ったわけです。

しかし、後で事情が明らかになります。彼女はその朝、礼拝に行くことを快く思っていないご主人から思いっきり殴られたというのです。そのような中でも神を礼拝しにやってきたのでした。関牧師はそれを知って、彼女に対する心からの尊敬の念に満たされ、彼女のことをさばいた自分を恥じたといいます。礼拝を大切にしていない彼女は神さまの御心を損ねていると、最初は関先生は思ったわけですよね。でも、ご主人に殴られた後もどうにか許しを得て礼拝に来た、そんな状況でも何とか礼拝に来た、その姿が神さまの御心を損ねているはずはないんです。

この話というのは、迫害にも負けずに信仰を貫き通しました、何があろうと礼拝に出ましたということにポイントがあるのではありません。「何かができたかどうか」というところにポイントがあるなら、それは行いが評価される宗教です。神さまの御心はそうじゃない。あれをしたか、こうしたかという紋切り型の判断で私たちが簡単に白黒をつけられるものではないということです。こうしておけば神さまの御心にかなっているから大丈夫、それから外れさえしなければ大丈夫、果たしてそうなのか、そうではないのです。礼拝に遅刻しないでやって来さえすればいいのか、しかし、遅刻しないで礼拝に参加したとしても、心が他のことでいっぱいということだってあるわけです。それだったら、たとえ遅刻してでも、なんとかして神を礼拝したいとやって来たなら、その人の方が真の礼拝をささげた人なわけです。

何が神の御心かということを、私たちは簡単に白黒つけて判断するのではなく、この波乱に満ちた人生の中で、正解が簡単には見つからない人生において、私たちは神さまの御心を追い求め続けるしかない。私たちは、正解というパッケージで包まれた御心を指示待ち人間のようにして待つのではなくて、神さまの御心を求めて「動く」しかない。それが今日の詩篇にもよく表れていると思います。

<詩篇143:10>
「あなたのみこころを行うことを教えてください。」(詩篇143:10)あなたの御心が何かを教えてくださいというのではなく、あなたの御心を「行う」ことを教えてくださいというのです。神さまの御心を行うのです。それは先ほど触れた「行いが評価される宗教」ということではありません。何を行うか、何を行わないか、それはある意味どちらでもよくて、神さまとの関係、神さまからの語りかけのゆえに選び取っていくことが大事なんです。それこそが「あなたは私の神であられますから」という生き方、神を信じる生き方です。「あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。」その生き方を、聖霊が助けてくださるんです。平らな地というのは平安な土地であり、平安な生活のことと言えます。神さまが私を愛してくださっていることを信じて、その神さまの御心を行う生き方を追い求めて、聖霊の助けをいただきながら歩んでいくんです。何を選んだら良いのか分からない、何が答えなのかは分からないと私たちは迷います。迷うしかない。私たちの人生には坂道や凸凹道がつきものですが、それでも主が共に歩んでくださるから、その道は平らです。主が共にいてくださるからです。

<ヨセフの生き方>
ここ最近読んでいるマタイの福音書1章、2章も、ある人物を通してそのことを教えているように思います。それはヨセフです。来週から始まるアドヴェントを前に、もう一度ヨセフのことを振り返りたいと思います。彼は神さまの御心を追い求めて行動した人でした。

マタイの福音書1章18節、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」ヨセフとマリアは婚約期間中でしたが、ユダヤ人の結婚観においては、婚約期間中であっても法的には正式な夫婦であったということは、以前お話ししました。まだいっしょには住みませんが、二人はすでに正式な夫婦とされたんです。その間に、ヨセフの知らないところでマリアはみごもったのですから、これは不倫として裁かれるべきことでした。しかしマリアはもちろん、不貞によって身ごもったのではありません。マリアは聖霊によって身ごもったのです。事の経緯はルカの福音書に詳しく書いてあります。マリアは一生懸命説明したでしょうが、ヨセフは信じることができませんでした。その苦悩はいかほどだったでしょう。

19節に、ヨセフは「正しい人」だったとあります。これは「旧約聖書の律法にかなった人物」という意味です。こういう場面なら、律法に従っての裁きがなされてしかるべきでした。それが律法の正しさです。申命記22章には、不倫の当事者は石で打ち殺すようにという命令があります(22:23〜24)。律法にかなう正しさというのなら、マリアを石打ちにするというのでしょうか。しかし、同じく申命記24章には、正当な理由で離婚する際には離婚状を書いてしっかりと手続きを取るという教えがあります(24:1)。ヨセフは彼女を晒し者にしたくなかったので、これを公にして騒ぎ立てるのではなく、離婚状を書いて内密に去らせようとしたのでした。正しさとは、ある面だけを強調することではありません。ある面だけを捉えて、これが神の御心だ、これが律法の正しさだと主張することはできないわけです。ヨセフは律法を多面的に捉え、幅のある理解をすることが出来る人でした。

また、マタイ2章にはヨセフがベツレヘムからエジプトに逃げた際の経緯が記されています。救い主はベツレヘムから出るというのは神さまの預言であり、そのとおりに幼子はここまで育って来た。この時すでに二歳ほどになっているわけです。このまま、ダビデ王の故郷であるこのベツレヘムで成長していくはずだし、それは正しいことだ、これが神の御心だと彼は確信していたでしょう。しかし、神さまの御心は別のところにあったわけです。救い主はベツレヘムで生まれ、そしてナザレで育つと。それで彼は「立って」幼子とその母を「連れ」、エジプトへ「逃れて」いきました。先週もお話ししましたが、「立つ」と「連れていく」がセットになっている表現はここだけです。マタイはヨセフの決意と行動を特別に表現しています。また「逃れる」ということばは、博士たちが「帰っていった」と訳されているのと同じ単語です。神さまの御心に従うために方向転換をしなければならない、いったん退かなければならない、そういうことがあるんですよね。これが神の御心だと確信していたベツレヘム滞在をやめて、退く。そこにこそ神の御心があったわけです。これが神の御心だと確信しすぎて、凝り固まってしまうということが私たちにはあると思います。でも、ヨセフのように、その都度その都度神さまから示されることに敏感でありたい。そして、一歩退いて、退いて、神さまの新たな導きに従って歩んでいきたいものです。

<御心を行うことを教えてください>
詩篇143篇に戻ります。「あなたのみこころを行うことを教えてください。」神さまの御心とは、簡単にこれだと断言できるものではありません。それさえ守っていれば間違いないというものでもない。私たちはその都度悩みながら、葛藤しながら立ち上がり、時には退く選択もしながら、一歩一歩歩んでいくしかないのです。しかし、その歩みにこそ、神さまは伴なっていてくださる。

神さまがそれぞれに語りかける内容は一人ひとり違います。自分の確信とずれているからといって、他の人を簡単に裁いてはなりません。私たちは神さまの御心の一側面しか分からないのですから、神さまが別の視点も持っておられることを弁えていたいですね。伝道者の書にこのような御言葉があります。「あなたは正しすぎてはならない。」(7:16)これは本当に心しなければならないことだと思います。

<神への信頼は揺るがない>
だからといって、神さまへの信頼まで揺らがせないようにしてください。繰り返しますが、神さまが私たちを愛しておられることは揺るぎません。詩篇143篇は「あなたのみこころを行うことを教えてください。」と歌った後に、このように続けます。「あなたは私の神であられますから。」私たちの側がいくら揺らいでも、迷っても、神さまご自身は揺るがないということです。この方が私たちの神であること、私たちに平安を与え、将来と希望の計画を持っていてくださるということ自体は揺るがないのです(エレミヤ29:11)。そのためにイエスさまが十字架にかかったんです。この方の愛は揺るがない(Ⅰヨハネ4:9-10)。だからこそ、私たちは安心して悩んでいい。私たちを愛し導いてくださる神さまと、どのように歩むのか、どのように生きていくのか、悩みながら歩んでいけばいい。追い求めていけばいい。神さまが共にいてくださることだけは確かです。それで十分なんです。イエスさまが一緒なんですから。安心して選択して、歩み進めていけばいいのですね。

私たちは主なる神さまと祈りの交わりをしながら、つまりことばのキャッチボールをしながら、歩んでいきます。そのうちに私たちは変えられていく。神さまの御心をあらわす器へと変えられていく。聖霊がそれをしてくださるんです。私たちに出来ることは、私たちがすべきことは、たとえどんな凸凹道でも、主との交わりを諦めないで歩み続けることです。

来週からアドヴェントに入ります。クリスマスを待ち望む期間です。それと同時に、イエスさまの再臨を待ち望む心を新たにするときでもあります。私たちはイエスさまの再臨の時まで、この地上を歩み続けます。その道は凸凹しているし、転ぶ時もあるし、傷が痛む時だってある。何が御心なのか分からなくなってしまうことだってある。でも、主が共におられることは確かですし、主が戻って来られることも確かです。一歩一歩、神さまを見上げながら進んでいこうではありませんか。神さまの御心を行うことを選び取りながら、歩んでいこうではありませんか。

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「あなたのみこころを行うことを教えてください。/あなたは私の神であられますから。/あなたのいつくしみ深い霊が/平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:10)

十字架にかかるほどに私たちを愛しておられる主イエス・キリストの恵みと
私たちのために将来と希望を与える御心を持っていてくださる父なる神の愛
そして、私たちの人生に寄り添い、励まし力づけながら共に歩んでくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン

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【11/17】

マタイの福音書2章13節〜23節

「キリストに出会う場所」

マタイの福音書の続きになります。先週はイエスさまがお生まれになった時、誰もイエスさまを歓迎しなかったということを見ました。しかし、東の国の博士たちは救い主の誕生に気がつきました。星に気がつき、その後聖書の記述に出会い、みことばによって道を定められ、救い主に出会って喜んで礼拝をしたということ。そして、新しい道を帰っていったということですね。みことばをきちんと理解しているはずのユダヤ人たちではなく、異教の博士たちの方が救い主に近かった、いや、救い主にお会いすることができたということ、これは私たちも心にとめなければなりません。私たちはみことばを知っていると思っていても、実はイエスさまから遠く離れているということが起こり得るのです。

今日はその続きで、イエスを亡き者としようとしたヘロデの策略と、幼子イエスさまが間一髪でそれを逃れ、最終的にはナザレの町に住むようになった、その経緯についてです。

<13節〜14節 ヨセフの決断>
博士たちが帰っていった時、主の使いが夢でヨセフに現れ、「エジプトへ逃げなさい、ヘロデが幼子イエスを殺そうとしている。」と告げました。先週も見たように、ヘロデ王はユダヤ教に改宗し、神殿の大掛かりな工事を始めてもいましたが、旧約聖書が示すメシアを受け入れることはできませんでした。彼は自分の立場や自分の安全を守るためには、メシアだろうが何だろうが抹殺しよう、亡き者にしようとしていたのです。主の使いはそのことを知らせに現れたのでした。

ところで、ヨセフはよく夢で神さまからのお告げを受けます。1:20で、マリアの処女懐胎について悩んでいたときにも、御使いがヨセフの夢に現れました。その時と、そして今エジプトに逃げなさいというこの時、また19節〜20節でエジプトから帰ってくる時、さらに北部のガリラヤ地方に立ち退くことを決めた22節でも、神さまは夢を通してヨセフに語りかけておられます。ヨセフに分かる形で示してくださったのです。夢に限らず、神さまは私たちが気づけるような形でみことばを語りかけてくださるお方です。ヨセフはイエスさまとは血のつながりはありませんでしたけれども、幼子イエスさまを守る社会的な父としての責任を任された人でした。マリアについては、「神さまから選ばれた」ということがよく語られますが、ヨセフもまたこの務めのために選ばれた器でした。幼子イエスの父親として彼を守り育てることは、ヨセフにしかできないことだった。ヨセフを通してでしかあらわされない神さまのみわざだったのです。ヨセフの人となりというのは、マタイやルカの生誕物語くらいにしか出てきません。大工であり、子どもたちをよく育てた人物だったことは聖書のいくつかの箇所から伺えますが、この後登場しないところを見ると早くして亡くなったようです。聖書の登場人物の中でもあまり目立たない存在と言えるかもしれません。それでも、自分の置かれた場所で、神さまから託された使命に生きた人でした。

さて、夢でヘロデから逃げるように示されたヨセフは迅速に行動します。彼の行動を表す動詞を見ていきたいのですが、14節、ヨセフは「立って」、そして幼子とその母を「連れて」いきます。「立つ」も「連れていく」もよくある普通の動詞ですが、この二つがセットになっているのはこの場面だけなんです。立ち上がり、そしてすぐに行動に移すヨセフでした。続いて「逃れる」という動詞も出てきます。この「逃れる」は博士たちが「帰っていった」と訳されているのと同じ単語です。神さまのみこころ実現のためには方向転換をしなければならない、いったん退かなければならないような場面で使われています。ヨセフは神さまの導きでベツレヘムまで無事に旅してやってきたことなどを思い出し、できるなら今後もここにいたいと思ったかもしれません。メシアはベツレヘムから出るのですから、ここで生まれ、ここで育つべきだと思っていた、それが神さまのみこころだと思っていたはずです。しかし、神さまからの示しがあったなら、それに従って立ち退いたのです。自分の確信ではなくて、神さまからの示し、神さまからの促しに従ったヨセフでした。そのことにはとても勇気が要りますし、エネルギーが必要なことですけれども、聖霊が助けてくださることを私たちは知っているし、経験してきたはずです。私たちも、自分のこだわりではなく、神さまから示されたことにさっと従うことができたらと思います。

<16節 ヘロデの暴虐>
15節はあとで触れます、16節、夢で主の使いが告げた通りになりました。怒り狂ったヘロデがベツレヘム近辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。その年齢は7節で博士たちから聞いていた時間から割り出されました。星の出現は2年ほど前だったのでしょう。今幼子は最高で2歳ほどになっているはずということで、2歳以下の男の子が皆殺しにされました。当時のベツレヘムの人口は500人くらいと推定され、2歳以下の男の子は10人ぐらいだっただろうと言われます。彼らは権力者の自己保身の犠牲者でした。今もそういうことってありますよね。権力者が自分の立場を守るために、何の力も持たない弱い立場の者たちを抹殺していく。政治的権力者だけでなく、私たちの問題でもあります。自分の立場を守るために、弱い立場の人を後回しにしたり無視したりする、つまり社会的に抹殺するわけです。

ヘロデによるベツレヘムでの幼児虐殺事件は聖書以外の歴史書には記録がありません。しかしこれは、史実ではなかったということではなくて、ヘロデは反逆を企てた村があればその住民2000人を焼き殺したというような記録があるくらいですから、ベツレヘムの2歳以下の男の子10人ほどを皆殺しにするなど容易いことすぎて、記録に残っていないということでしょう。彼にとってこれは容易いことだった。ますます自分のこととして問われます。意識せずにそういうことをしていないか、問われます。そしてどこに記録がなくても、むしろ、聖書にはそれが残されているということ、神さまの前にはそういう姿は明らかだということです。そんな私たちの罪のためにイエスさまが十字架にかかられたのだということ、そして私たちは今復活を信じて生きているのだから、安心して何度でも悔い改めていけばいいということはしっかりと押さえたいと思います。

<15節、17節〜18節 旧約聖書の成就>
さて、ここで15節と、17節、18節についてですけれども、マタイはこれらの出来事を通して旧約聖書の預言が成就したと説明しています。15節「これは、主が預言者を通して、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と語られたことが成就するためであった。」ここで言われているのはホセア書11:1です。幼子イエスさまがエジプトに逃げて、また帰ってくることで、ホセア書の預言が成就したというわけです。しかし、ホセア書のもともとの文脈がどうなっているかというと、未来のことに関する預言ではなく、ホセアよりもさらに前のこと、あの出エジプトの出来事を振り返っている内容なのです。過去のことを振り返っている内容なのに、未来において、イエス・キリストによってそれが成就したというのはどういうことなのでしょうか。

17節、18節のエレミヤの預言に関してもそうです。こちらもエレミヤのもともとの文脈は、未来のある時にベツレヘムで虐殺が起こるということではなく、バビロン捕囚のために南ユダの民がラマに集められ、そこから引いて行かれた時の悲しみについてです(エレミヤ31:15)。もしくはそれよりも少し前に、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた時の悲しみについても含まれているようです。エレミヤは600年後に救い主が生まれる時のことを預言していたわけではなくて、彼と同時代のバビロン捕囚や、それより少し前のアッシリアによる北イスラエル滅亡のことを振り返っているわけです。決して、未来に起こるベツレヘムでの幼児虐殺事件についての預言ではないわけです。

しかし、マタイはこれが預言の成就だと言うのです。聖書の預言というのは「予めの言葉」という意味での「予言」というよりは、神の言葉を「預かる」という字で「預言」なので、「聖書の預言が成就した」と言った時に、必ずしも未来のことが言い当てられた、当たったというだけでなく、それも含みますが、今回のケースのように「過去に語られた神のことばが、今日においても何らかの形で繰り返された」ということでもあるんですね。それも含めて預言の成就なんです。「神さまの働きの原則は過去も未来も変わらない」ということです。ヘブル書に「イエス・キリストは昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」というみことばがありますが(13:8)、神さまが働かれる際の原則は変わらない。

マタイがここで引用している出エジプトと、バビロン捕囚には共通点があります。両方ともに苦しみの期間がありましたが、それだけでなく、最終的には解放があった。神さまは助け出してくださった、そういう出来事なんです。出エジプトはもちろんエジプトからの解放です。またバビロン捕囚も70年後に解放されたわけですね。先ほどのエレミヤ書には悲しみだけでなく、回復までセットで語られています。ラマで声がする、ラケルが泣いているという箇所にすぐ続ける形で、「子どもたちは帰ってくる」という回復の希望も語られているのです(エレミヤ31:15〜17)。

ここにマタイの意図があります。エジプトでの苦悩もバビロン捕囚の苦しみも、解放、回復につながるためのものでした。神さまは試練を与えるけれども必ず解放を与えてくださる、希望を与えていてくださるお方だということです。それはイエス・キリストもそうなのだ、と。世の中は歪んでいる、私たちの社会は歪んでいる、人々は救い主を迎え入れず、人の権力や自己保身がとんでもない悲劇を引き起こしている、それが私たちの罪の現実だ、私たちは苦しんでいる、もがいでいる、しかしそこから解放してくださる方がおられる。エジプトからの解放、バビロンからの解放、それと同じような、いやそれにまさる希望と平安を与えるお方がおられる。イエス・キリストこそそのお方だ、この方こそ希望であり解放なんだという宣言なんですね。

<19節〜23節 ナザレへ>
ヘロデは紀元前四年に死んでいます。イエスさまが生まれたのは西暦元年ではなく、紀元前四年から六年の間だろうというのは先日触れたとおりです。幼子イエスさまがどれくらいエジプトに滞在したのかははっきりしませんが、数週間から数ヶ月だっただろうと言われます。当時のエジプトはローマの支配下にあってヘロデにも簡単に手出しはできませんでした。滞在先はアレクサンドリアだったでしょう。そこにはユダヤ人のコミュニティーがあったことが知られています。ちなみに、今日エジプトのクリスチャンの多くはコプト正教会に属していてコプト教徒と呼ばれますが、幼子イエスが自分たちのところに滞在したということを、自分たちの記憶としてとても大切に思っているそうです。イスラム過激派組織ISが台頭していた頃、コプト教徒はかなり辛い目に遭いました。礼拝の度に、世界のクリスチャンのために祈っていますが、エジプトのクリスチャンたちのことも覚えていきたいと思います。福音が世界中に広がっていることを覚えていきたいと思います。世界中にと言えば、今年もBFPに献金をさせていただきましたけれども、ユダヤ人たちのために、そしてアラブ人のクリスチャンたちのために捧げました。世界中のクリスチャンたちのために覚えて祈るものでありたい、特に争いの中にある、大変な状況の中にある方々のことを覚えましょう。

さて、エジプトにいるヨセフのもとに、また主の使いが夢で現れて、イスラエルの地に帰るようにと告げました。21節、彼は幼子とその母を連れてイスラエルに戻ります。「イスラエルの地に【入った】」という表現は、出エジプトの民がイスラエルの地に入ったということと重ねられているようです。ホセアの預言の成就であることが意識されています。

22節、ヘロデ大王の死後、ローマ帝国はユダヤを三人の息子に分割統治させましたが、ベツレヘムやエルサレムなどを含むいわゆるユダヤ地方を任されていたアルケラオという人物がまた残忍な人物でした。ヨセフはそこに戻ることを恐れ、そしてまた夢でそこに戻るなと警告を受けたので、北部のガリラヤ地方に立ち退き、ナザレに戻りました。もともと自分たちが住んでいた町です。幼子イエスさまはナザレで育つことになります。このことを通して、「この方はナザレ人と呼ばれる」という預言が成就したのでした。もっとも、ナザレという町の名前は旧約聖書には出てこないので、書物には残されなかった預言があったということでしょう。またイザヤ11:1には、町の名前ではないのですが「ナーツァル(若枝)」という言葉が出てきます。ナザレと少し形は違いますが、同じ言葉です。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」という箇所で、オリーブの木の根っこのところから細い若枝が生えてくる、と。これはメシア預言になっていて、イエスさまがナザレ人として成長されるということが表現されています。

このようにナザレとは若枝という意味の素敵な言葉なのですが、福音書には「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」という言葉も出てきます(ヨハネ1:46)。ガリラヤのナザレなど、取るに足らない場所であり、何の良いものも出ない場所だとして軽蔑されていたのです。ナーツァルという言葉はあるけれども、ナザレという町のことは旧約聖書には直接出てきませんし、異邦人の地との国境沿いである北部ガリラヤの地というのは、エルサレムなど中央部の人からは軽蔑されていたのです。しかし、マタイは臆することなく書くのです。「この方はナザレ人と呼ばれる」と語られていたと。私たちも特段誇れるものもないような、むしろ軽蔑されるだけの現状であったり、背景であったり、そういったものを抱えていますが、イエスさまはナザレ人として育たれました。この方は私たちと共に歩んでくださいます。とことん、私たちと一緒になってくださるお方です。

<キリストに出会う場所>
今日の箇所は、イエスさまがどのような方としてこられたかを示します。それはそのまま、私たちがキリストに出会う場所を教えます。本日のタイトルは「キリストに出会う場所」とさせていただきましたが、まず主は私たちにとっての出エジプトのような方。バビロンからの解放のようなお方だということです。出エジプトというのは、私たちにとっては救いの雛形なんです。奴隷の地から出て、海の中を通って約束の地へ向けて旅をすることは、私たちが罪の奴隷だったところから、水をくぐって(つまり洗礼を受けて)、そして天の都を目指して旅をすることに重なっています。バビロン捕囚もそうです。自分の罪ゆえにさばきは受けるけれども、それは回復するため。礼拝者として、神の民として整えられるためでした。ユダヤ人読者が自分たちの歴史にこの方を重ねたように、私たちも自分の歩んできた道を振り返る時、そこでイエスさまに出会い直すことができるでしょう。特に、彼らにとってこの二つは自分たちの存在を形成するような重大な出来事でした。私たちも、今の自分を形作るような、重大な過去の出来事を振り返ってみてください。そこに主はおられます。そこで再び主に出会うことができます。

そしてまた、この方がナザレ人と呼ばれたこと。特権階級のエリートではなく、軽蔑されていたガリラヤ人として育たれたということ。主は私たちの日々の生活感をわかっていてくださるお方です。ごくごく普通の人として、私たちの間に生まれ、育ち、住んでくださった。人から軽蔑されるような、自分でもマイナスに思うような、そんなところにも主は共にいてくださいます。それが私たちの主、イエスさまなのです。重大な歴史的事件だけでなく、日々の暮らしの中で、そう、日々の暮らしの中でもイエスさまに出会うことができます。主は今日も、あなたを呼んでおられるのです。

ーーー
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」(出エジプト20:2)


ナザレ人として、私たちの傍にいてくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちを罪から救い、信仰の回復を与えてくださる、父なる神の愛、
そして、日々復活の主イエスと出会わせてくださる聖霊の満たしと導きが、
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン

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【11/10】

マタイの福音書2章1節〜12節

「救い主はどこに」

久しぶりになりましたが、マタイの福音書を読み進めていきましょう。

一章では、イエスさまが聖書の預言していた「アブラハムの子、ダビデの子、救い主」としてこられた方だということを、マタイが丁寧に書いている様子を見ました。カタカナの名前が羅列される系図には明確な意図が込められていて、マタイはこの方が待ち望まれてきたメシア、キリストであることを明確にしているのでした。

そして、マリアの妊娠を知ったヨセフの苦悩を見ました。マリアは聖霊によって身籠ったわけですが、ヨセフにそれを信じることは難しいことでした。律法には、そのような人は石で打ち殺せとある。と同時に、正当な理由がある場合の離婚についても律法には書かれていて、ヨセフはその道を選びました。しかし、夢で天使の知らせを受けて、彼はいよいよ救い主が生まれるという神さまの計画を知ります。そして自分たちがその子を育てるのだと決意し、マリアを妻として迎え入れたのでした。今日はその続きです。

<ヘロデ>
さて2:1ですけれども、イエスはヘロデ王の時代に生まれたとあります。1世紀のユダヤ人読者には自明のことですが、ヘロデがどんな王だったかということを振り返る必要があります。聖書には何人かヘロデ王と呼ばれる人が出てきますが、イエスさまが生まれた当時のヘロデは「ヘロデ大王」と呼ばれる人物です。イエスさまが十字架にかかる時のヘロデ王はその息子です。ヘロデ大王は、ローマの当局側からユダヤの統治を任された王でした。ローマはヘロデの能力と忠誠心を信頼し、ユダヤの国土の大部分を彼に治めさせたので、ユダヤの国土はダビデ・ソロモン時代に匹敵するほど回復します(回復と言ってもローマの支配下ではありますが)。ヘロデは建築に関してもかなり詳しく、実行力もあったようで、多くの建造物を建てました。彼が建てさせたもののいくつかは遺跡としてまだ残っていて、その際たるものがエルサレムの神殿です。ローマ軍に壊されたので部分的にしか残っていませんけれども、有名な「嘆きの壁」など、今でも残っているような建造物をヘロデ大王は建てました。神殿の建築には80年以上かかったそうです。工事は紀元前19年に始まり、西暦63年に完成しているので、イエスさまの時代、エルサレムの神殿はずっと工事中だったんですね。サグラダ・ファミリアのようです。大がかりで、そして相当に美しい神殿だったようです。彼が豪華な神殿を建てたのには理由があって、それをもって民衆の支持を得ようとしたのでした。というのも、ヘロデ大王は人々から嫌われていたのです。征服者であるローマ帝国から任命された王だったから。そして、彼が純粋なユダヤ人ではなく、イドマヤ人、つまりエサウの子孫であるエドム人だったからです。民族の誇りを持つユダヤ人たちから、二重の意味で嫌われていたわけです。そんなこともあってか、彼は猜疑心の塊のような人物でした。自分の王位を狙っていると思ったら家族だろうと容赦なしに処刑する残忍な男でした。

ヘロデ大王は紀元前4年に死んでいます。イエスさまが生まれた時にヘロデ大王はいたわけですから、イエスさまの誕生は紀元前4年より前になります。西暦はイエスさまの誕生と思われた年を基準として考案されましたが、間違いがあったようです。もう世界で定着していますから、それはそれでいいのですが、イエスさまの誕生がいつだったかというと紀元前4年から6年ということになるようです。ちなみに、今日の場面ですが、東方の博士たちが訪ねてきたのはイエスさまが生まれたその夜ではありません。11節にあるように、もう家畜小屋ではなく家に住んでいますし、16節から判断するとこの時点ですでに2歳、少なくとも1歳にはなっていたと思われます。ヘロデが死ぬ紀元前四年の時点で1、2歳だったとすれば、紀元前5、6年頃がやはり誕生の年なわけですね。

<博士たちの登場>
さて、イエスさまが生まれて羊飼いたちが礼拝をしたあの夜から1、2年経ったある日のことです。エルサレムの町に、東の国の博士たちがやってきました。彼らはヘロデ王に謁見し、このように言ったのです。2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」この博士たちは「マゴス」と言って、ペルシャやバビロンの占星術の学者たちでした。彼らはやがてユダヤ人の王が生まれること、その方が全世界を治めることを知っていました。あのバビロン捕囚で連れて行かれたユダヤの人々は、連れて行かれた先でメシアの預言を思い出し、語り合っており、現地の人々にもそれが知られていきました。バビロンの王宮に出入りしていたようなダニエルも、有名なメシヤ預言を残しています。ユダヤから世界を治める者が現れるという期待は当時広く知られていたようです。マゴスたちは「メシアが世界を治める」という預言を知っていたのです。

2節には「その方の星を見た」とありますが、これは民数記24:17に「(やがて)ヤコブから一つの星が上が(る)」と言われている場面があるのです。それはダビデ王のこと、もしくはダビデの子としてのメシヤのこととして言われていますが、彼らはそういう預言も知っていて、そして文字通り大きな星が現れた時に「これはメシヤが生まれたに違いない」と気がついたわけですね。紀元前4〜6年の間にどのような星が現れたか、例えば惑星同士が接近するなど、そういうことがあったか、天文学的な計算をするといくつか候補があるようですが、断定することは難しいようです。とにかく、彼らは東の方で不思議な星を見て、はるばるエルサレムまで旅をしてきたのでした。

博士たちが語った「ユダヤ人の王」という呼び名ですけれども、これはヘロデに対する呼び名、ヘロデの称号でした。「ユダヤ人の王」。ですから「新しくユダヤ人の王が生まれた」と聞いてヘロデが恐れ惑ったというのは当然です。自分に代わる新しい王が生まれたというのですから。「エルサレム中の人も同様であった」とあります。ヘロデの側近など宮殿に出入りする人たちは当然、また噂を聞いた町の人たちも、猜疑心の塊で残酷なヘロデが何かしでかすのではないかと恐れたのでしょう。ヘロデは祭司長や律法学者といった宗教家たちを皆集めて、キリスト、つまりメシアがどこで生まれるのか問いただしました。ヘロデは民衆の手前、ユダヤ教に改宗し、神殿の工事も始めるなど熱心さを装っていましたし、メシア誕生の預言も一般的に知られている程度には知っていたと思いますが、本気で信じていなかったのかもしれません。いざどこで生まれたかと問われて動揺します。赤ん坊として生まれるとは思っていなかったということもあるかもしれません。

宗教家たちの答えはこうでした。5節と6節、救い主はベツレヘムで生まれるのだということです。預言者ミカの書に記されていたのでした。7節、ヘロデは博士たちから星のことを詳しく聞き取り、8節、幼子のことを調べてわかったら知らせるようにと伝えて送り出します。この「幼子」というのは弱く、無知で、権力もなく能力もない存在ということです。ヘロデ大王とは逆の立場として2章では「幼子、幼子」と繰り返されています。

ヘロデはこの時点で兵を博士に同行させ、見つけ次第その幼子を殺すということもできたと思うのですが、それはしませんでした。神のことばだか約束だか知らないが、大したことはない、自分の王位は揺るがないと考えていたのでしょうか。また、町の人たちもついにメシアが生まれたらしいという反応は見せませんでした。神の約束の実現よりも、王が面倒なことをしないかということばかり考えていたのです。せっかく救い主が来られたのに、これが世の中の現状でした。私たちも同じなんです。せっかくみことばの約束が実現しているのに、それを見ようとしない。人にばかり目がいって、聖書のみことばの力を何も見ようとしないのです。ヨハネ1:9〜12「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 10  この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 11  この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。 12  しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」私たちはイエスさまを信じ、神の子どもとされる特権をいただいたのだとヨハネは言います。そのことを忘れてしまうことの多い私たちですから、聖霊なる神にそこから助けて頂く必要があります。神のことばが今働いている、神さまのみことばが今実現している、神さまのみことばのとおりだと気づく、そのためには聖霊の助けが必要です。みことばの事実を、その力をしっかりと見据えていたいものです。

<9節〜、博士たちによる礼拝>
9節、星が先導したというのは、これは詩的な表現です。星が道案内をして特定の家だけを指し示すような動きを取ったのであれば、それはもう通常の星ではありません。博士たちが進めば星も進み、彼らが止まれば星も止まるという、今でも私たちが経験することをこのように表現したのでしょう。それにしても、この星を見て彼らははるばる旅をしてきたのです。ベツレヘムの上に輝く星を見ながら、エルサレムからの道を下りつつ、感慨深く思っていたことでしょう。

私たちにも、神さまの導き(彼らにとってはこの星)を思い返す時がありますね。神さまのみことばに押し出されて、ここまで来たということを、いつも感謝のうちに振り返るものでありたいです。

さて、ここにはマタイが読者のユダヤ人たちに読み取ってほしいチャレンジがあります。聖書のみことばを知っていながら、メシアを礼拝しに来なかったユダヤ人たちと、星の輝きという出来事を通して神の計画を確信しつつやってきた博士たちの対比です。彼らは異教徒であり、ユダヤ人たちからしたら付き合ってはいけない人たちです。メシアの預言は知っていたようですが、聖書のことは知らない異教徒です。先ほど「マゴス」という言葉を説明しましたが、占星術の学者であり、ゾロアスター教の祭司でもありました。使徒行伝13章では「魔術師」と訳されています。聖書の価値観からしたら偶像礼拝者なのです。しかし、そんな彼らの方がメシアに近づくことができたのです。

マタイはこの福音書をユダヤ人読者に向けて書いています。ユダヤ人はどうしてもそのプライドから異邦人、特に異教徒のことは見下してしまっていました。しかし、形だけみことばを知っていても、それはみことばを知らない人たちと比べて優劣がつくようなことではありません。私たちも同じです。クリスチャンはここを勘違いしないようにしなければなりません。自分たちは救われている、真理を知っているけれど、あの人たちは救われていない、真理を知らないとして裁くのではなく、付き合わないというのではなく、救われているのなら、まだイエスさまを知らない人たちのために仕えていくべきです。それが「地の塩・世の光」としての生き方です。ユダヤ人の王として生まれた方は、ダビデの子は、「世界の」救い主なのですから。先に救われたからと言って、異教徒・偶像礼拝者のマゴスを見下すことはできません。してはならないのです。確かに、聖書の神は占星術、占いやオカルトを禁じています。にもかかわらず、彼らに分かる方法で神さまはご自分を示されました。みことばを知っていると自負していたユダヤ人たちではなく、宗教家たちではなく、異教のマゴス達が救い主に会うことが出来たのです。

彼らは、星というこの世界の出来事を通して神さまのご計画に気が付きました。そして聖書のみことばによって確信を得て、主イエスとの出会いに至りました。特別啓示としての聖書も、一般啓示としての世の中の出来事も、両方大切です。しっかりはっきり明文化して書いてあるのは聖書ですが、出来事を通しても神さまの御心は示される。そして、そのことに確信を与えるのが聖書だということですね。

私たちにも、聖書のみことば以外のところで神さまが語りかけていてくださるわけです。聖書の文字を追い、それを覚え、聖書の語彙やキリスト教用語で考えたり語ったりできるようになることは大切なことですが、一般啓示としての世の中の動きを忘れてはなりません。私たちにも、マゴス達にとっての星のように、神さまの下に導く何かがかつてあったのではないでしょうか。今も、身の回りの何かを通して神さまからの語りかけがあるのではないでしょうか。神さまが造られ、今も支配しておられるこの世界を、身の回りの地域社会を、もっとよく見つめていきたいと願います。そこから、神さまが語ってくださっているからです。

<11節~>
11節にはその家に到着した博士たちの礼拝の様子が記されます。実は博士が三人だったとはどこにも書いてなくて、宝物が三種類だったことから三人ではないかと推測されているわけです。黄金は王の王への贈り物。乳香は祭司としてとりなされる方への贈り物。そして没薬は十字架にかかって死なれる方への葬りのためにと捧げられました。異教のマゴス達からの贈り物でしたが、とても的を得た内容だったわけですね。ちなみに、この後ヨセフとマリヤはイエスさまを連れてエジプトに逃げますが、その時の旅先での費用などのためにこの宝物が用いられたとみられます。

12節、博士たちは夢でお告げを受けたのでヘロデの元へは戻らず、エルサレムには寄らないで別の道から帰って行きました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」と聞いて訪ねた彼らの旅は、幼子イエスさまへの礼拝でその大きな目的を果たしました。彼らは星を通して、神さまの計画に気が付き、ミカ書の聖書のみことばに触れて確信を得、救い主に出会いました。そして礼拝をした。10節の「この上もなく喜んだ」、そして11節の「拝んだ」「ささげた」、これらはみな礼拝ですよね。そして別の道を通って帰っていった。新しい道を行ったのです。イエスさまと出会った彼らは、もう以前と同じではありません。救いのこと、十字架のこと、聖書の内容を知るのはまだまだこれからでしょう、しかし、彼らはイエスさまと出会い、礼拝し、新しい道を歩み始めたのです。

みことばを知っていながら、救い主を探そうともしなかったヘロデや町の人たちのようにではなく、この博士たちの姿に学ばなければなりません。占星術をしろ、偶像礼拝をしろというのではありません。先に直接啓示としての聖書を知らされているのですから、私たちの応答の仕方としてそれはできないですよね。使徒信条にもあるように「我は信ず」ですから。他の人が偶像礼拝をしようが、星占いをしようが、私たちはそれはできない。しかし、それをしている人をさばいてはならないし、そこから神さまが語りかけられ、導かれることがあるということはわきまえる必要があるということです。

そうでないと、ヘロデの宮殿のように立派ではないところにおられる、無力な幼子として来られた方の恵みに気付くことが出来ないのです。主は思いがけないところにおられます。そしてまた、主を求める人々も思いがけないところから訪ねてきます。柔軟な心とまなざしで、この世界をみつめ、仕えていきたいと思うのです。そのようにして私たちもまた、イエスさまに会うことが出来るのです。主は思いがけないところにおられます。その方の御声を、みことばを、聴き逃すことがありませんように。聖霊なる神さまの助けをいただいていきましょう。

ーーー

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ30:21)

 

幼子として来られ、私たちと同じ道を通ってくださった主イエス・キリストの恵みと、
どんな者をも導かれる父なる神の愛
そして私たちをキリストに出会わせ、礼拝者としてまたそれぞれのところに送り出してくださる聖霊の満たしと励ましが
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン

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【11/3】

召天者記念礼拝

ヨハネの福音書3章1節〜5節、16節

「永遠のいのちという生き方」

今年も、召天者記念礼拝を持つことができて感謝しています。先に天に召された信仰の先輩方を偲び、神さまに感謝を捧げましょう。そして、彼らは何を信じていたのか、本日はニコデモの場面から信仰について確認したいと思います。

<ニコデモとイエスさまの対話>
先ほどお読みしたヨハネ3:1〜5は、パリサイ人のニコデモが、人目を避けて夜にイエスさまに会いに来たという、有名な場面です。ニコデモは2節にあるように、イエスさまがなさる数々のしるし(奇跡)に驚いていました。直前の2:23には、多くの人がイエスさまの奇跡を見てその名を信じたということが書かれてあります。イエスさまは数多くの奇跡をなさったので、多くの人がそれを見てイエスさまを信じたということです。ニコデモはパリサイ人として、イスラエル社会の宗教指導者として、簡単にこのイエスという人を救い主と認めるわけにはいかなかったのですが、それでもどうしても気になったのでしょう。こっそりと会いにきたのでした。そして、まずは適当な挨拶で会話を始めたのです。

しかし、イエスさまはニコデモが来た理由を知っておられました。そこで単刀直入に、いきなりズバりの答え方をなさいます。ニコデモが挨拶して来たような「奇跡」の話題は本質ではなかった。大切なことではなかったからです。2:23には奇跡を見て信じた人たちのことが書かれてありましたが、続く24節には「しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」とあります。23節の「信じた」と24節の「任せる」は実は同じ単語です。ギリシア語でピスティスと言って「信じる」とか「信頼する」という意味の言葉です。人々はイエスさまを「信じた」けれども、奇跡を見てうわべだけで御名を信じるような人々を、イエスさまは「信じなかった」、信用しなかったというわけですね。対比されているわけです。だからニコデモが奇跡の話で切り出しても、そこは見事なまでにスルーして、しかしニコデモが本当に知りたかったことを答えていかれました。奇跡の話ではない、ニコデモのたましいが求めていることにズバりと切り込んでいかれました。曰く、「『まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」まことに、まことにというのは「アーメン、アーメン」ということです。本当です、という意味です。本当に大切なことを、あなたに向けて、本当に言いますからね、という、イエスさまがよくなさった語りかけですね。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」これはどういうことでしょう。イエスさまは余計な話はカットして、ニコデモの心の奥底にある飢え乾きに直接答えておられます。しかし、ニコデモ自身にその意味は分からなかった。ニコデモは自分の心の奥底の願いに気づいていないんですね。それで4節のような答え方をしています。

私たちは心の奥底で、神の国を望んでいます。人には、自分でも知らないでいる自分の願い、真の願いがある。自分でも知らないでいるけれど、神さまが知っていてくださる私たちの願いがある。自分自身の奥底に隠された願いがあるんです。イエスさまはそこに触れてくださる。私たちの真の願いを浮き彫りにしてくださるんです。ニコデモは、心の奥底では、神の国を見たいと思っていた。私たちも神の国を見たいと願っているんです。

<神の国とは>
では、神の国とは何か。「天国」のことという言い方もできるのですが、それは「死んだ後に行く天国」ということだけではありません。もちろん、その意味もありますが、それだけじゃない。神の国とは「神さまが支配されるところ」「神さまの御心があらわされているところ」という意味です。主の祈りでも祈ったように、天上だけでなくこの地の上でも神さまの御心がなるということです。そこが神の国。もしくは、私たちが、神さまの御心を生きるなら、それは神の国を生きていることだと言えます。私たちが、神さまの御心を生きるなら、私たちは神の国の人間になっているということです。神さまは罪で歪んだこの世界を回復なさろうしておられますが、それはこの地上に、この世界に、この地域社会、私たちの身の回りに神さまの御心があらわされていく、つまり神の国が広がっていくということに他なりません。この世界を造られ、私たちを、この世界を愛し、大切に大切に思ってくださっている方の願う通りに、御心の通りに生きられるなら、それが一番良いわけです。私たちはそういう生き方を願っている。心の奥底で、神さまを信じ、神さまと共に歩むという人生を願っているんです。自分自身を振り返った時に、「どうも、こうじゃないんだよな。これじゃないんだよな。」と思うことってあると思うんです。その裏側には、やっぱり私たちは神の国、神さまの御心を求めている、願っているんですね。

その生き方、神の国の生き方に入るためには、新しく生まれる必要があります。3章3節にあるとおりです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」むしろ、新しく生まれるならば、私たちは神の国を見ることができる。神の国に入ることができる(5節)。神さまにお任せして、神さまと共に歩む、神さまによって癒され続けていく、回復させられていく生き方に入ることができるんです。

<新しく生まれる>
キリスト教用語で「新しく生まれる」と書いて「新生」というものがあります。イエスさまを信じるというのは、これは「新しく生まれる」ということなんです。3節の「新しく生まれる」という表現には、「もう一度生まれる」ということに加えて、「上から」生まれるというニュアンスがあります。つまり、神さまが新しく生まれさせてくださるということです。「聖霊によらなければイエスを主とは告白できない」と第一コリント書に書いてありますが(12:3)、新生は聖霊の働きによります。聖霊なる神の働きによって私たちはイエスさまを救い主と信じ、新しく生まれるのです。信じるということすら、神さまの助けがあってこそなんです。私たちは、自分で神さまを信じることはできません。あれが気になって、これが気になって、イエスさまを信じるということができない。でも、神さまの側で、神の霊が、聖霊が私たちを助けてくださり、私たちは新しく生まれることができるのです。そして、神さまの御心が行われていく世界を見ることができる。そこに入ることができる。神さまの御心に参加する生き方を始めることができます。

この福音書を書いたヨハネは、そのままの流れで3章16節にこう書いています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」これはイエス・キリストの十字架の話です。私たちは神さまの御心から外れていて、意識、無意識に関わらず人を傷つけたり、自分も傷つけていったりと、人との関係や自分自身との関係も壊していくことしかできません。社会や自然などこの世界との関係も、歪んでしまっています。それは神さまが本来望んでおられることではない。三位一体の神さまはそもそもが交わりのお方なので、交わりを壊す、関係を壊すというのは、神さまの御心から外れたことなんですね。聖書はそれを「罪」と言いますけれども、その私たちを回復させるために、イエスさまが十字架にかかりました。あなたの関係性が癒されるため。あなたが赦されるため。救われるためです。この方を信じる者は滅びることなく、永遠のいのちを持つ、とあります。死んだ後に魂になって永遠にふわふわ生きるのではなく、今、イエスさまを信じた今この時から、すでに永遠は始まっています。永遠のいのちは始まっているんです。神さまと共に生きることが永遠のいのちです(ヨハネ17:3)。神さまは私たちを見放さない。決して見捨てないお方です。やがて私たちはこの地上での人生を終えますが、その後も復活が約束されている。その後もずっとイエスさまと一緒に歩めると聖書は約束しています。この世界は癒される。あなたも癒される。私も癒されます。神の国が完成するんです。

神さまが願っておられる生き方を、今から始めてみませんか。あなたもこの生き方に招かれています。神さまにとって、私たち一人ひとりは、高価で尊く、愛すべき最高傑作なんです(イザヤ43:4)。神さまは、あなたにこの生き方をしてほしいと願っておられます。すでにイエスさまを信じているという方々も、今一度、このことを確認しましょう。私たちは生まれ変わったんです。「自分は救われているのかな。変わってないな。」と思うんです、でも私たちは確かに生まれ変わった。新しく生まれて、神さまが願っておられる生き方を始めたんです。何度でもそれをやり直していくんですよ。そのことを今一度、思い出そうではありませんか。

<先に召された方々>
さて、今日は召天者記念礼拝です。先に召された信仰の先輩方は、お一人お一人が神の国を見て、そこに入った方々です。イエスさまの十字架の死と復活を信じて、永遠のいのちを与えられたお一人お一人です。

ヘブル11章13節〜16節「13  これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。 14  そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。 15  もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。 16  しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」

13節の「これらの人たち」というのは、旧約聖書に記された信仰の先人たちです。彼らは「約束のものを手に入れることはありませんでした。」つまり、救い主の到来を見ることはなかった。救い主が来られるという約束を信じていましたけれども、その到来を見ることはなかった。それでも、はるか遠くにそれを見ていた。救い主が来られることを確信していたんです。11章1節にあるとおりです。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」また、16節を見ると、彼らは「天の故郷」に憧れていたとあります。天に目を留めて生きる人生を生き抜いた、全うしたんです(16節)。ヨハネの表現でいうなら、永遠のいのちを生きたということです。永遠のいのちは死んでから与えられるのではなく、神と共に生きる時にすでに始まっています。彼らはそれを生き抜いた。16節「ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」この永遠の都こそ、復活した私たちが神と共に生きる場所です。そこには「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみも」ありません(黙示録21:1-5)。

旧約聖書の登場人物たちだけでなく、私たちも同様です。私たちは救い主の到来を知っています。私たちは、イエスさまがすでに来られた後の時代を生きている。しかし、神の国の完成を見てはいません。先に召された先輩方もそうです。神の国の完成を見ずに召されたわけです。しかし、私たちは知っています。信仰の先輩方も同様です。私たちは信じている。私たちは確信している。私たちは、まだ見ていないけれども確信しています(Ⅰペテロ1:8-9)。私たちは、すでに永遠のいのちを与えられています。そして、今ここで地に足をつけて歩みながら、天の都を目指して生きている。先に召された信仰の先輩方もまたそうだったのです。

<今の私たち>
今、改めて、私たちにできることはなんでしょう。イエスさまが触れてくださる、私たちの真の願い、神の国を見たい、入りたい、神の国をもっと味わいたいという私たちの真の願いに気づき、その生き方に招き入れてくださるイエスさまを信頼すること。イエスさまを信じて、永遠のいのちを、今日また新しく生き始めることです。何度でもやり直していいんんです。何度でも神さまを信じ直していく。その歩みを続けるんです。神さまは、私たちの神と呼ばれることを恥とはなさらない。いつまでも私たちの神として、私たちの父としていてくださる。この方を信頼して歩む生き方を、いのちをご一緒に全うしていこうではありませんか。

ーーー
詩篇39:7「主よ 今 私は何を待ち望みましょう。 私の望み それはあなたです。」

私たちを救うために十字架にかかられ、復活された主イエス・キリストの恵みと、
私たちに新しいいのちを与えて、神の国に入れてくださる父なる神の愛、
そして、私たちに新しいいのちで生きることを何度でも教え直してくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に、とりわけ、愛するご家族を天に送られた方々の上に、豊かにありますように。
アーメン

直近の録音メッセージです。過去分はこちらから。

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キリストにあって
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