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​礼拝メッセージ
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●録音
20260614(マタイ8:28〜28)主イエスに従う特権
00:00 / 28:36
●原稿

【6/14】

マタイの福音書8章28節〜34節
「主イエスに従う特権」

 

久しぶりにマタイの福音書に戻ります。前回はイエスさまに従うというテーマでした。イエスさまに従ってここまで来たのに、嵐に会うということがある。私たちはそこで泣き叫ぶような、「信仰の薄い者たち。」と言われるしかないものですが、それでもその信仰の薄さで叫ぶしかないのであって、イエスさまに向けて叫んで祈ることが大切なんだ、叫びながらでもイエスさまと同じ舟に乗り続けていることが大切なんだ、という話をしました。イエスさまはそこで、嵐の湖がすっかり凪になるという奇跡を見せてくださいます。今日はその続きです。

<28節 異邦人の地>
28節「さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来てイエスを迎えた。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。」

ガリラヤ湖を渡り終えて、舟はガダラ人の地に着きました。ガダラというのは民族名ではなく、町の名前です。ギリシャ語が話され、ローマ文化が強く、異邦人が多い町がこの近くにありました。この辺りはガダラを中心とした地域だったということですね。

以前も触れましたが、ガリラヤ湖の周辺というのは、北側のシリアとの国境も近く、またローマ文化の強い町も多くて、異邦人、つまりユダヤ人から見れば外国人が多く住む地域でした。礼拝の中心部であるエルサレムからは、距離だけではなく生活や文化自体が遠く離れていて、見下されていた地域です。しかし、預言者イザヤはこう語っていました。「ゼブルンの地とナフタリの地、/海沿いの道、ヨルダンの川向こう、/異邦人のガリラヤ。/闇の中に住んでいた民は/大きな光を見る。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に/光が昇る。」(マタイ4:15-16)聖書は確かにユダヤで生まれた、つまり神さまは聖書を記させるためにユダヤ人をお用いになったのですが、その聖書が、旧約聖書の預言の時代から、こうやって福音が異邦人世界に広がっていくことを描いているのです。救い主はユダヤ人だけの救い主ではなく、世界の救い主であることを告げていました。福音が爆発的に世界に広がっていくのは使徒の働きの証言を待つことになりますが、イエスさまご自身が、このように異邦人の地にわざわざ出向いておられたわけです。ユダヤ人たちが避けたがる土地へ行き、墓場に住むなどという異常な人にあえて近づいていかれる。それは、悪霊に憑かれたその人を癒すためでした。

イエスさまは、宗教的・信仰的・教会的に中心にいる人たちだけの救い主ではありません。少し先の9章で言っておられることですが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マタイ9:12-13)イエスさまは、私の、あなたのために来られた救い主です。

<悪霊たちも、イエスが神の子だと知っている>
さて、イエスさまの一行がガダラ人の地に着くと、悪霊につかれた人が二人、墓場から出て来ました。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどだったということです。悪霊にとりつかれて正気を失い、墓に住みながら暴れていた。大声で神の御名を汚し続けていたと思います。そんな彼らがイエスさまと対面した時にこう叫びました。29節、「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」

ここから分かることは、悪霊もイエスさまのことを知っているということです。また、世の終わりにおいて、最終的に悪霊もサタンも滅ぼされることを彼らも知っているということです。聖書に関する知識が増えることも、神さまのご計画を知ることも大切なのですが、それらを知っているというだけならば、それは悪霊たちだって知っているんです。荒野でイエスさまを誘惑したサタン(悪魔)も聖書のみことばを引用しました(マタイ4:6)。知識だけでは信仰にならないわけです。知識だけでいいならば、それは悪霊だって知っているのです。

では何が大切か、それはイエスさまを神の子として、救い主として信頼すること。信頼して、お委ねして、ついていくこと。従っていくことです。それが信仰です。この方が私を救うために来られたと信じる。信頼する。それが信仰ですね。

<30節〜 主イエスの権威>
30節「そこから離れたところに、多くの豚の群れが飼われていた。」ユダヤ人は豚を汚れた動物だとして飼うことをしません。ここは異邦人の地であり、信仰的・礼拝的な地ではないので、豚が群れで飼われていました。それを見て31節、悪霊どもはイエスに懇願して、「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に送ってください」と言いました。

彼らがなぜ豚に乗り移ることを願ったのか、詳しい理由はわかりません。追い出そうとされるのでしたら、せめて豚の中にというわけですが、悪霊たちに関してここからわかることは、彼らには勝手に乗り移ることはできなかったということ。イエスさまを前にして、勝手に豚の中に逃げていくのではなく、許可を求めた。彼らには何の権限もないということですね。8章を振り返ってみると、ツァラアトに冒された人はイエスさまのところに来ました。百人隊長はイエスさまの権威を認めました。弟子たちは舟に乗ったし、風と波すらイエスさまに従いました。そして、悪霊もイエスさまに従うのです。

イエスさまの権威とは、それほどのものです。私たちの主は、この世界におけるあらゆる権威、あらゆる権力の上にあるお方です。

<豚がかわいそう?>
なお、32節「イエスは彼らに『行け』と言われた。それで、悪霊どもは出て行って豚に入った。すると見よ。その群れ全体が崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだ。」ここを読んで、豚がかわいそうと思う人もいるでしょう。しかし聖書は動物を粗末に扱って良いなどとは教えていません(参考:創世記1:28の「支配する」は「適切に管理する」の意味)。今日のこの場面で描かれていることというのは、この豚の群れは人々の財産ですから、これを許せばイエスさまは人々から恨まれるという場面です。それでも、どんな犠牲を払ってでも、イエスさまは悪霊に憑かれていたこの二人の人を癒し、解放してくださったということですね。そのためにわざわざガリラヤ湖を渡ってここまで来られたのです。

イエスさまは、この二人を助けるために悪霊たちの申し出を許可し、「行け」と言われました。32節には「すると見よ。」とあります。今日の箇所に何箇所か出てきますが、注目してくれということです。なんと、ということですね。豚の群れはその全体が崖から湖になだれ込んでいったのでした。それほどの出来事。このお方は、こんなにしてまでこの人たちを悪霊から解放してくださったのだということです。

<従うというテーマ>
さて、驚いたのは豚を飼っていた人たちです。33節、彼らは逃げ出して町に行き、悪霊につかれていた人たちのことなどを残らず知らせたのでした。そしてガダラの町の人たちがやってきました。

ところで、悪霊に憑かれていた人たちはどうなったのでしょうか。この話の流れから推測するに、癒され、正気に戻ったはずです。並行箇所のマルコ5章の方では、癒された人はイエスが自分にしてくださったことを言い広め始めたとあります。でも、マタイの方ではそれは書かれていない。マタイは意図的にこれを町の人たちの話にしているようです。それは34節に「すると見よ」とあることからも分かります。ここでの注目ポイントは、町の人たちです。マタイが記しているこの話というのは、あえて言うならば、癒された人の話ではなく、町中の人たちがイエスさまに立ち去ってほしいと懇願したという話なんです。彼らはイエスさまに言いました。「この地方から立ち去ってほしい。」と。つまり、関わらないでくれ、私たちの生活を変えないでくれ、ということですね。

さきほど、8章の頭から振り返りました。ツァラアトに冒された人はイエスさまのところにきました。百人隊長はイエスさまの権威を認めました。弟子たちは舟に乗ったし、風と波すらイエスさまに従いました。そして、悪霊もイエスさまに従った。それなのに、人がイエスさまに従わない。人がイエスさまを拒絶しているのです。理解できない超自然的出来事への恐れ、自分たちの世界を揺るがす存在への恐れ、そして経済的な損失への恐れが入り混じり、もう関わりたくないと思ったわけですね。

見下されて虐げられてきたこの地方に、この世界を変える、いや、この世界を救うお方が来られたのに、「立ち去ってください。関わらないでください。」などと言ってしまう。これは私たちの姿ではないでしょうか。今日のこの箇所は、悪霊に憑かれていた人たちが癒されたという話でもありつつ、むしろ、イエスさまに従うのか、従わないのかというテーマがずっと続いているのです。今日の箇所は、これほどのことが起こったのに、イエスさまに従わなかった人たち、「立ち去ってほしい。」と言ったこの町の人たちの話ですね。そして、今これを読んでいる私たちの話でもある。「あなたはどちらか。」聖書は問いかけてくるのです。

<主イエスに従う特権>
ヨハネの福音書1章10節〜11節にこういうくだりがあります。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」

イエスさまを受け入れること、イエスさまを信じ、従っていくことには、変化が伴います。慣れ親しんだ生活、自分にとって一番楽な考え方が変わってしまうのが恐くて変えられないというのなら、イエスさまに従っていくことはできないのです。ガダラ人たちがそうだった。そしてこれは、信じる歩みをすでに始めている私たちにとっても、いつまでも言えることです。

先ほどのヨハネの箇所には続きがあります。世はこの方を知らなかったし、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(1:12)イエスさまに従う道は変化の道です。しかし、それは神の子どもとされる特権なのです。そして、私たちが神の子とされていることは確かなことだと聖書は語っているのです(Ⅰヨハネ3:1など)。であるならば、変化を恐れずに、その特権の大きさ、恵みの大きさを思い返しながら、イエスさまに従っていこうではありませんか。

私たちの日々の生活の中で、慣れ親しんだ生活やものの考え方が変わってしまうのが恐くて、イエスさまに対して「関わらないでください」「立ち去ってください」と言っているというようなことがないでしょうか。イエスさまを受け入れる道、イエスさまに従う道では、失うものがあります。彼らは豚の群れを失いました。以前も触れたように、何かを捨てなければ従えないのではない、しかし、従うゆえに何かを捨てるということは起こります。それでもなお、この方と共に生きる喜びを私たちは知っているはずです。イエスさまと同じ舟に乗っていれば絶対大丈夫だということを私たちは知っています。私たちは神の子とされているのです。イエスさまに従う道を歩む者とされているんです。その幸いな道を歩んでいる。これは特権です。

私たちはしばしばガダラの人々のようです。特権を与えられているのに、それなのにガダラの人たちのように振る舞う、彼らのように生きてしまう私たちです。しかし主は、そのような私たちの内にも聖霊を住まわせ、従う者へとつくり変え続けてくださいます。嵐の湖を越えて会いに来てくださったイエスさまは、あなたのところにも来られます。「すると見よ。」とマタイは書きました。豚の群れが湖に落ちていったと。それほどのインパクト、それほどの出来事はなかなかないかもしれない。でも、思い出してください。私たちの人生において、ああ、神は私を愛しておられるとわかった出来事がきっとあったはずです。「すると見よ。」主がなさったことに目を留めましょう。

闇の中に住んでいた民は、大きな光を見るんです。見たんです。この光に導かれ、照らされて、その指し示す方向へと、歩み続けていこうではありませんか。

 

ーーー
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)

私たちのところに来てくださったまことの光、主イエス・キリストの恵みと
キリストの十字架のゆえに神の子としての特権を与えてくださった父なる神の愛
そして、キリストに従う者として私たちをつくり変え続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

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【6/7】ペンテコステ③​

コリント人への手紙第一12章31節b〜14章1節a

「愛の道」

ペンテコステ以降、互いに愛し合うということをみことばから教えられています。イエスさまが与えてくださった新しい戒め、新しい生き方、それは「イエスさまが愛してくださったように、互いに愛し合う」ということでした。私たちのうちに住んでくださっている聖霊は、そのために来てくださった助け主です。

ペンテコステはバベルの塔の出来事と対比されるということにも触れました。塔を建てようとする人たちは、周辺の人々に多様な言語を使わせずに自分たちのことばを使わせました。自分たちのやり方を押し通すためです。しかし、ペンテコステの日、福音は多様な人々の母国語で語られました。相手の心のひだに届くことばで、相手に寄り添うことばで、バラエティ豊かな人々に向けて、神のみわざが語られた。聖霊はまさに、私たちが互いに愛し合うという新しい戒めに生きるための助け主なのです。相手に寄り添うことばを語る、語り合う。そのための助け主なんですね。

引き続き、愛し合うということについて聖書から聴きたいと思います。今日は第一コリント13章を開いています。

<「キリストのからだ」のための賜物>
第一コリント13章は有名な箇所で、「愛の章」とか「愛の賛歌」と呼ばれるところですけれども、そこに至る流れを確認します。直前の12章では賜物について書かれてきました。一人ひとりには神さまから賜物が与えられて、それはキリストのからだ、つまり教会を建て上げる、教会の交わりを作り上げていくためにあるのだとパウロは書いているわけです。12章26〜27節「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」このように、多様な賜物があって、それらが力を合わせて一つのキリストのからだを建て上げるということが語られてきました。28節以降でも、さまざまな役割、さまざまな賜物があることが述べている。そして31節では「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」とあります。これは賜物に優劣がある話ではなくて、14章に繋がっていく表現です。異言よりもむしろ預言の賜物を求めなさいというわけですね。14章というのは、異言よりもむしろ預言の賜物を求めなさいという内容です。異言とは自分と神さまの関係を深めていく祈りの賜物ですが、預言というのは神さまのことばを預かって取り次ぐ、つまり人に伝える賜物です。「よりすぐれた賜物を」というのは、この文脈上、自分と神さまだけの関係ではなく、キリストのからだ全体のために求めていきなさいということですね。14章全体を読めば、パウロが異言を禁じているわけではないことが分かりますが、神さまとの一対一の関係が深まる一方で、異言の賜物に関連して、人同士の交わりには混乱が起きていました。それがコリント教会の課題だった。パウロは12章で賜物の大切さを説き、14章ではそれが混乱のもとにならないように注意しているわけです。

その間に13章が挟まれています。賜物の話は続けるけれども、その前に、12章31節「私は今、はるかにまさる道を示しましょう。」として、「道」、つまり生き方の話をここで挟むんです。それが愛の章と呼ばれる13章です。

<愛がなければ>
1節〜2節「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」異言の賜物があったとしても、そして預言の賜物があったとしても、愛がなければむなしいのだと語ります。預言とは占いのように未来を言い当てることではなくて、先ほども触れたように、神のことばを預かり、取り次ぐことです。そして文脈上、パウロはその預言の賜物を追い求めなさいと言っているわけですが、それすらです、それすら、愛がないなら無に等しいというのです。ほかにも、あらゆる奥義、あらゆる知識、完全な信仰、そして3節で言われるような自己犠牲ですら、愛がなければ何の役にも立たないと。

つまり、パウロがここでわざわざ13章を挟んだのは、賜物にはいろいろあるし、それぞれに個性がある、与えられているものがある、それら一つ一つは大切なものだ。ただ、それらを自分と神さまだけのために使わないで、キリストのからだを、つまり教会を建て上げるために使うことが大切なんだ。そのためには互いの間に愛が必要なんだということがここで言われているのです。愛というのは、一人では成り立たない概念です。人と人との間に、また神さまと私たちの間の愛ということもありますが、どちらにせよ一人では成り立たないものです。賜物をもって仕え合う時に、互いの間の愛が必要だとパウロはここで言っているのです。

神さまは私たち一人ひとりに賜物を与えてくださっています。それは異言や預言ということに止まらず、一人一人に与えられているものの考え方とか、それぞれが経験してきたことであったり、そういったものも賜物なわけです。それらは一つ一つ尊いものです。ただ、それらを自分と神さまだけのために使わないで、キリストのからだを建て上げるために使うのです。完全な信仰とか自己犠牲ですら、愛がなければ、つまり他者への視点、隣人への視点がなければ意味がないのです。あなたに与えられている賜物、よいものを、それを愛をもって用いる。これこそが、イエスさまの言われた「新しい戒め」、互いに愛し合うという生き方に必要なことなんですね。

<4節〜8節前半>
4節以降は、ここがまさに「愛の章」とか「愛の賛歌」と呼ばれ、一般の結婚式場でもよく読まれる箇所です。8節の前半までもう一度読みます。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。」すべてのことばの意味を掘り下げることはできませんが、少なくとも言えることは、ここに自分を当てはめると苦しくなるということです。私たちは寛容ではないし、親切でもない。人を妬むし、自慢もするし、高慢になる、礼儀に反するし、自分の利益しか考えないし、苛立つし、人がした悪をいつまでも覚えているのです。6節以降も以下同文です。

ただ、これらがイエスさまのことを表しているとしたらどうでしょう。イエスさまはまさにこのようなお方でした。私たちがそうではないことは明らかですが、イエスさまだけがこの愛を生きられたお方です。その上で、イエスさまの新しい戒めは「わたしがあなたがたを愛したように」でした。私たちがここにある愛のリストに当てはまらないことは明らかですけれども、でもイエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように」と言っておられる。聖書には、私たちはイエスさまと同じ姿に変えられていくというみことばもあります(Ⅱコリント3:18)。今日の箇所に書いてあるような愛をもって、お互いの賜物を持ち寄って愛し合うというのは、私たちの力でここに達することはできない内容ですが、だからこそ助け主が来てくださったことを思い出しましょう。だからこそ聖霊が私たちを助けてくださることを思い出しましょう。聖霊は、私たちがイエスさまの新しい戒めである「互いに愛し合うという生き方」を助けてくださるお方です。イエスさまの似姿に成長させてくださるお方、そのための助け主です。私たちが寛容になるように、親切になり、人を妬まなくなるように、聖霊が助けてくださる。成長させてくださいます。だから、ここに書いてあることは無理なこと、関係ないこととして読み飛ばしてはなりません。私たちはここを目指して成長する、いや、ここを目指して成長している最中なんです。聖霊がこのようにしてくださるという聖なる憧れを失ってはなりません。

<人がした悪を心に留めず>
せっかくなので、愛のリストの中から一つだけ、以前も紹介しましたが、5節にある「人がした悪を心に留めない」ということについて触れたいと思います。ここに使われているのは「数える」とも訳される動詞です。私たちは、あの人にこうされた、ああされたと一つ一つ数え上げてしまうものですが、私たちが目指し憧れる姿は、イエスさまが願っておられるあり方は、それは人のした悪を数えないという生き方です。

もちろん、悪を悪として見ないとか、不正を見逃すということではありません。6節には「不正を喜ばず、真理を喜ぶ」とあります。

では、ここで言われている「人がした悪を数えない」とはどういうことか。数えるなら、むしろこれを数えなさいと聖書が教えているものがあります。それは主の恵みです。主がよくしてくださったことです。詩篇103篇2節に「わがたましいよ 主をほめたたえよ。/主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。私たちは、人にされた悪を数えるのではなく、主が良くしてくださったことを数え、それをこそ忘れないという生き方に入れられています。このような生き方にすでに入れられていることを思い出し、主がこのように私たちを導き、成長させてくださる、成熟させてくださるという聖なる憧れを、いつも心に新しく持っていたいのです。

<互いに愛し合う>
今年のペンテコステ以降、イエスさまがくださった新しい戒め、新しい生き方についてのシリーズでみことばに聴いています。イエスさまがくださった新しい戒め、それは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」というものです(ヨハネ13:34)。先日の分かち合いの中で、家族の中でこそそれは難しいという話がなされました。本当にそうです。うまくいかないんですよね。悩んで、考えて、やっと出した言葉が的外れで、自分にがっかりすることだらけです。

でも。

だからこそ、聖霊が来てくださったことを思い起こし、私は本当に励まされています。助け主が来てくださったということが、遠い話ではなく、今ここにいるこの自分のためだということがよく分かるから。愛のない自分を知れば知るほどに、この自分を神さまは成長させてくださる、いや、今すでにそのプロセスにあるということの不思議を思います。だったら、その聖霊のみわざを信じて、信頼して、自分にできることを続けていくのみです。小さな愛のわざを、愛のことばを届けていく。寛容であること、親切であることを目指し、苛立たず、人がした悪ではなく主がしてくださった良いことを数えて、今日も生きていくのです。何度失敗してもです。何度も失敗するでしょう、でもその度に聖霊の助けをいただいていくのです。

<いつまでも残るものは愛>
その後、8節後半以降では、預言や異言、知識といった賜物は永続的なものではないということの説明が続きます。それらは部分的なものに過ぎないけれども、10節「完全なもの」が現れたら、部分的なものはすたれると。完全なものとはイエスさまの再臨です。イエスさまと再び相まみえること。いつもお伝えしていますが、イエスさまの再臨は恐ろしい日ではなくて、希望の日です。そして12節、その時には私たちもイエスさまを完全に知る。つまり、私たちの成長、私たちの聖化が完了するということですね。

逆を言えば、それまでは私たちはいつも工事中だということ。成長の途上です。それでいいのです。何回でも、繰り返し失敗しながら、その度に聖霊の助けをいただいていく。それでいいんです。そうやって聖霊が成長させてくださるんですから。

そして有名な13節に続きます。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」信仰とは見えないものを確信させるものですが、それはやがてイエスさまに会う、イエスさまを見ることに変わります。希望も、やがて実現に変わります。信仰も希望も大切なものですが、やがて実現するものなので、いわばその時には不要になる。しかし、愛だけは永遠に続くものです。天の御国でも、私たちは「互いに愛し合う」という新しい生き方を続けていくのです。そこには、今私たちが感じているような「愛したいのに、うまくいかない」という嘆きはもうありません。そこには涙も死も、悲しみも、叫び声も苦しみもないのですから(黙示録21:4)。

<愛を追い求める「道」>
そのまま14章1節に続きます。「愛を追い求めなさい。」愛こそは永遠に、いつまでも残るものだから。愛を追い求めなさいと。これは、愛せるようになりなさいと突き放すことばではありません。自分に愛のないことを知らされているのなら、もはやその自分が生きているのではなく、愛を生きられたイエスさま、愛を教えてくださったイエスさまが私のうちに生きておられるのだということを思い出しましょう。ガラテヤ書にこう書いてある通りです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)愛を追い求めなさいと今日の箇所は語ります。愛を追い求めるとは一回きりのことではなく、継続です。「追い求める」なのですから。愛そのものであるイエスさまから目を離さずに、歩み続けるということですね(ヘブル12:2)。

自分に愛がないことに直面したのなら、つまり、自分の正しさにしがみつき、人を赦さず、自己の利益ばかり考える自分に直面したのなら、それはイエスさまの十字架の愛を思い出すときです。そして、聖霊が私たちをイエスさまの似姿へと変えてくださることを信頼し直すときです。私たちは自分のうちに愛がないということを嘆きます。その悲しみは大切なものです。でも、そこで終わりじゃない。自分に愛がないことがわかったなら、そこでまたイエスさまの十字架を思い出し、聖霊の助けを求めるのです。

それこそが、パウロが言っていた「はるかにまさる道」です(12:31)。互いの賜物を持ち寄って愛し合うという、愛の道です。道とは続いていくものです。愛したいのにうまくいかない時が、きっとまた来るでしょう。今、その最中かもしれません。それでも、私たちはこの道を歩み続けます。私たち一人一人には、神さまから与えられた賜物があります。考え方も、経験も違うし、得意なことも違う。出来ることはそれぞれに違う。でも、その違いがあるからこそ、教会は「キリストのからだ」と呼ばれるのです。神さまから与えられたものを自分のためだけに用いるのではなく、互いのために用いていく。そのために必要なのが愛です。どんなに信仰があっても、どんなに個性豊かな賜物であっても、愛がなければ意味がない。教会に限らず、あらゆる場所で、私たちが人と関わる場所では愛が必要なんです。でもその愛は私たち自身にはないからこそ、イエスさまから目を離さないでいましょう。イエスさまがどういうお方かを日々知らされていきましょう。聖霊が私たちを成長させ、成熟させてくださることを信じ直していきましょう。そうやって、イエスさまがくださった新しい戒めを、新しい生き方を、その道を歩んでいく。助け主に支えられながら、聖霊の満たしを求めながら、歩んでいく。失敗しても、何度でもその道を目指すんです。

愛をもって互いに愛し合い、仕え合うこの道を、この生き方を目指して、今日も、これからも、共に歩んでまいりましょう。


ーーー
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)

私たちを愛し、新しい戒めを教えてくださった主イエス・キリストの恵みと、
私たち一人ひとりに賜物を与えてキリストのからだを建て上げさせてくださる父なる神の愛、
そして、与えられている賜物をもって互いに愛する者へと私たちをつくりかえ続けてくださる、聖霊の満たしと励ましが、
今週も、お一人お一人の道の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

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【5/31】ペンテコステ②

使徒の働き2章1節〜11節

「互いに愛し合うために」

(録音では「多様性のある一致」としていますが、改題します)

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先週はペンテコステの礼拝でした。クリスマスやイースターと並んで大切な日で、聖霊なる神さまが来られたことを記念します。イエスさまは十字架にかかる前に、ご自分が天に帰ってから代わりに聖霊が来てくださるということを約束しておられました。聖霊は「助け主」と呼ばれます。この方は、イエスさまが教えてくださった新しい生き方、「互いに愛し合いなさい」というイエスさまの「新しい戒め」の通りに生きることができるように私たちを助けてくださるお方です。エレミヤ書に書かれてある通り、新しい契約においては、律法(戒め)は心に書き記されます(エレミヤ31:33)。聖霊は、私たちに無理やり戒めを守らせようとするのではなく、私たちが心から神の戒めに従い生きることを励まし、導いてくださるお方です。

さて、先ほど読んだ箇所は、ペンテコステの日に起こった出来事の場面でしたけれども、ここには聖霊がどんなお方か、つまりイエスさまが教えてくださった「互いに愛し合う」生き方を助けてくださるお方だということが、この箇所からも良くわかります。今日はそのことを二つのポイントからじっくりと読み取っていきましょう。

<炎のような舌が「分かれて」現れ>
聖霊は私たちが互いに愛し合う生き方を助けてくださるお方です。その一つ目のポイントは、聖霊が「分かれて現れた」ということです。1節、聖霊が来られた時、不思議なことが起こりました。「天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。」以前の翻訳では、ここが「分かれた舌」となっていたので、先が分かれた舌のようなイメージがあったかもしれませんが、「分かれて」現れた、つまり聖霊は一人ひとりに分け与えられたという点がとても大切ですね。聖霊は一人ひとりに、みなに降られたのです。

聖霊体験というと、個々人それぞれの信仰が深められていくことが強調されてきたと思います。確かに、それは大切なことです。聖霊が内におられること、聖霊の内住があいまいであるなら、はっきりさせてくださいと祈るんです。それと同時に、聖霊が分かれて一人ひとりの上に留まられたということを覚えたいのです。聖霊の満たしは個人的なことに終始するものではない。「私を聖霊で満たしてください。」ではなく「私たちを聖霊で満たしてください。」と祈るべきですね。私たちが「互いに愛し合う」という時に、その原動力は「イエスさまが私たちを愛されたから」だということは前回触れましたが、聖霊がそのことを思い起こさせてくださいます。私たち一人ひとりに降っておられる聖霊が、私たち一人ひとりのうちに住んでおられる聖霊が、そのことを思い起こさせてくださいます。

愛せない人、赦せない人がいたとして、それでもイエスさまが私たちを愛してくださったから、そのことのゆえに互いに愛し合うのが新しい戒めです。新しい生き方です。互いに愛し合うとは、お互いイエスさまの十字架で贖われているということ、そしてお互い、聖霊が、助け主が与えられているということを知るところから始まっていくのです。

<異なることばで>
二つ目のポイントは、聖霊に満たされた弟子たちが「他国のいろいろなことば」で話したということです。聖霊が話させてくださることばを「異言」と言い、聖書には二種類の異言が描かれています。一つはコリント書でパウロが触れている、祈りとしての異言。これは言語化される前の心の思いを聖霊の助けでそのまま口に出す祈り方です。そして、もう一つが今日の箇所で描かれている外国語としての異言、つまり宣教のための異言です。習ったことのない外国語を話すようになるという現象、奇跡であり、賜物ですね。大事なことは、その外国語をもって彼らが語ったことは神さまのみわざ、つまり福音だったということです(2:11)。このように、神に向けて深く祈るための異言と、人に神のみわざを伝えるための異言があります。 

誤解がないようにしておきたいのですが、異言は賜物の一つです。祈りのための異言にせよ、宣教のための異言にせよ、異言で祈ることは聖霊に満たされたことのしるしの一つであって、聖霊に満たされたら必ずこうなるということではありません。パウロがコリントの教会の人々に向けて「皆が異言を語るでしょうか。」と書いている通り、聖霊の内住は全ての人のためのものですが、みなが異言で祈るわけではありません(Ⅰコリント12:30)。いろいろな賜物があるのだからです。ペンテコステのこの日には彼らはみなが異言を語りましたが、それは、そこにいる人々に福音が届けられる必要があったからです。賜物なので、神さまが、神さまのやり方で与えられるものです。

説明が長くなりましたが、それでは、二つ目のポイントである「異なることば」について、ペンテコステのこの日に起きたことを振り返ってみましょう。

<多くの外国人に>
5節以降をもう一度読むことは省略しますけれども、五旬節のこの日、エルサレムは世界各地からの巡礼者でごった返していました。ユダヤ人は世界中に離散していましたが(つまりディアスポラのユダヤ人たちですね)、ユダヤの祭りの日になると、自らのアイデンティティを忘れないために、つまり自分とは誰であるのかを忘れないために、彼らはエルサレムに上りました。一生に一度はというような思いで、世界中から離散のユダヤ人たちが集まってきた。5節に「敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいた」とあるように、巡礼どころか移住してきた人たちも大勢いました。また、ユダヤ人ではないけれど、聖書の神に惹かれ、その教えを大切にする外国人たちもいて(2:11「改宗者」)、彼らも祭りの時期のエルサレムに巡礼にやってきていたのです(ヨハネ12:20)。こういった人たちが4節の異言(外国語)に反応したのです。言葉の分からないエルサレムの人混みの中で、自分たちの母国語が聞こえてきたのですから、彼らは驚き、そして喜んだことでしょう。

自分の生まれ故郷の言葉、自分に分かる言葉が聞こえてくると、驚きますし、嬉しいものです。以前も紹介しましたが、語学に堪能なあるYoutuberの方が、外国の人と初めは英語で話していて、話が盛り上がってきたところで相手の母国語に切り替えて驚かせるという動画をたまに見るんです。相手の方は本当に驚くんですよね。「あなた、それどこで習ったの?独学?信じられない」とびっくりされるという動画がたくさん公開されています。自分の言語、自分の母国語で話してもらえることって本当に嬉しいし、まさかの場所でそれが起きるなら興奮するほどの出来事なんですよね。6節にも「呆気にとられてしまった」と書かれています。

ペンテコステのこの日、多くの外国人が、そして外国生まれのユダヤ人たちが、母国語でイエスさまの話を聞きました。福音がバラエティ豊かな、多様な言葉で伝えられた。そしてこの後、ペテロが声を張り上げてはっきりとイエスの救いについて語り、三千人もの人が主を信じるという出来事につながっていきます(2:14以降)。ペテロの話を理解できない人のためには異言でそれぞれの外国語に通訳されたのでしょう。1章8節でイエスさまが約束されていたように、神の国の福音が「エルサレムだけでなく、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」広がり始めた瞬間でした。話される内容はただ一つ、イエスさまのことでしたが、それが本当に豊かな、多種多様な言葉で表現されていったというのがポイントです。福音が、多様な人々がそれぞれ理解できる形で伝えられていったのです。

<届く言葉>
母国語とは、いわば心のひだに届く言葉だと思うのです。心のひだに届く言葉。だとするなら、それはもはや日本語とか、英語とか、語学のことだけの話ではなくて、例えば若者には若者言葉、高齢の方には高齢の方に届きやすい語り方、そして、未信者の方には未信者の方に届きやすい語り方で、イエスさまの話を伝えていきたいですね。目の前のその人に届く言葉で語ることが大切なんだと思います。福音を語るという場面だけでなく、家族の中、友人同士での会話もそうだし、職場でも地域社会においてもそうです。「相手に伝わる言葉、相手の心に寄り添う言葉」を使いたいものです。それは異言の賜物ということではないのですが、でも「神のことばそのもの」であるイエスさまが私たちのところに来てくださった「受肉」という出来事自体が示すように、言葉というものは相手のために自分がへりくだるためのものなんです。言葉というものは相手のために自分がへりくだるためのものなんです、そもそも。そのようにして語る、へりくだって相手に届くように語るということは、これもまた確かに聖霊が導いてくださる生き方です。

今日の箇所を読んで、「聖霊を受けた使徒たちは異言の賜物を受けて外国語を話すようになった」ということも大切なんですが、自分の心のひだに届く言葉でイエスさまのことを教えてもらった人たちの喜び、興奮、感謝がここにあることを見逃したくないですし、ここに、「互いに愛し合う」生き方のヒントがあるように思うのです。それは、相手にわかる言葉で、つまり心に寄り添う言葉で語り合うということです。

<バベルの塔ではなく>
このように、ペンテコステの日に起こった出来事とは、多種多様な言語で一つのこと、つまりイエスさまの福音が語られていったというものでした。イエスさまの福音が、バラエティ豊かな言葉で語られていった。しかし、これとは対照的に、多種多様な言語を強制的に一つにしていた、させていた例があります。バラエティ豊かな人々の個性を認めず、言葉を認めずに、権力のある者たちが強制的に一つの言葉を用いさせていた。創世記に出てくるバベルの塔です(創世記11:1-9)。バベルの塔の話は「さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」と始まりますが、これは全世界のことというよりも、このバベルの塔が建てられたシンアル(つまりシュメール)の地のことを言っています。全世界にはすでに多種多様な言葉があった様子は直前の創世記10章に詳しく載っています(10:5、10:20、10:31)。多様な言葉があったのです。しかし、自分たちの力を誇示するための塔を建てることにしたシンアルの地の権力者たちは、周辺の民族を力でねじ伏せて強制労働に当たらせたのでしょう。言葉がバラバラでは仕事になりませんから、シンアルの言葉を話すように強制したのです。神さまは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われて、つまり人が世界中に散って、そこでこの世界を管理するために、互いに協力していくことを願っておられました(創世記1:28、9:7)。しかし、シンアルの人々は「われわれが地の全面に散らされるといけないから」(11:4)と言って、塔を建て始めた。多種多様な言葉を認めずに、自分たちと違うものを認めずに、一つのあり方を押し通して、押し付けたんですね。その結果は、みなさんもご存知の通りです。

<多様性のある一致>
ペンテコステに起こったことというのは、あのバベルの塔で起こったことの逆なんです。聖霊は多種多様なあり方で、多種多様な言語で、ご自身のわざを進めていかれるお方です。炎のような舌は一人ひとりに「分かれて」与えられました。一人ひとりに分け与えられた。聖霊の働き、そのあらわれには多様性があるんです。聖霊によって始まった教会も、本来そういうところのはずなんですよね。私たちのうちに、「こうでなければならない」と、自分のやり方を相手に押し付けるようなことがないでしょうか。私たちの教会は、多様なあり方、多様な言葉が認められていく集まりでしょうか。つまり、互いに愛し合う集まりでしょうか。この機会に確認したいのです。

先ほども言ったように、ペンテコステとか聖霊体験というと、個人の信仰が深められていくことが強調されてきたと思います。確かに、それは大切なことです。聖霊の内住があいまいであるなら、はっきりさせてくださいと祈るんです。聖霊の満たしを祈り求めていきましょう。それと同時に、聖霊が分かれて一人ひとりの上に留まられたということ。そして多様な人々のニーズに応えるために、多様な言語を語らせたということを忘れてはなりません。決してバラバラじゃない。かと言って違いを認めずに一つであろうとするのでもない。様々な言葉で、一つの福音が語られたということ。一つの福音を伝えるために、たくさんの言葉が用いられたということ。多様性のある一致が大切です。多様性と一致とは、本来なら反対の意味の言葉です。しかし、聖霊にあってそれは可能なんです。

今年のペンテコステ、私たちは互いに愛し合うことをみことばから教えられています。聖霊はそのために来られた助け主です。教会に限らず、私たちは、自分が置かれている場所での、自分の愛のなさに直面します。相手に寄り添う言葉を使えない。イエスさまが言われたようには愛せない。でも、だからこそ、イエスさまはこれを新しい戒めとして教えてくださいました。そして、聖霊はそれを私たちの心に書き記してくださる。できるか、できないかじゃないんです。愛するのか、愛さないのかです。何度失敗したっていい。その度に、新しい戒めに生きるのだ、イエスさまが愛してくださったから、イエスさまが愛してくださったように愛するのだと、悔い改めて、仕切り直していきます。聖霊がその生き方を導いてくださいます。互いに愛する者へと、私たちをつくり変え続けてくださいます。

ーーー

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)

私たちを愛し、新しい戒めを教えてくださった主イエス・キリストの恵みと、
私たち一人ひとりに聖霊を与えて信仰の歩みを導き続けてくださる父なる神の愛、
そして、互いに愛する者へと私たちをつくりかえ続けてくださる、聖霊の満たしと励ましが、
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

 

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【5/24】ペンテコステ(聖霊降臨祭)①

ヨハネの福音書14章15〜21節、25〜31節
「愛することの助け主」

<ペンテコステ>
今日はペンテコステです。聖霊が私たちのうちに来てくださったことを記念します。聖書が証ししている神は三位一体の神です。父なる神、子なるキリスト、そして聖霊です。聖霊はペンテコステ以降に現れた新しい神さまなのではなくて、聖書の最初から、それこそ創世記の初めから描かれています。その後、旧約聖書の時代には、聖霊は預言者など限られた人だけに降っておられましたが、ペンテコステ以降は、イエスさまを信じるすべての人に降られる。私たちがイエスさまを救い主として信じることができたのも、今、信じていられるのも、聖霊の助けによります。神さまは天におられるお方のはずですが、聖霊という形において、私たちの内に住んでくださっている。私たちは神さまと繋がって、聖霊に満たされて、この地上を、イエスさまの弟子として歩んでいくことができるのです。

私たちが信仰を守っていくには、聖霊の助けが必要です。自分の力で、自分の熱心だけで信仰を守り通せると思ったら、それは間違いなのです。ペテロは自分の熱心だけでは信仰を守れませんでした。「ご一緒なら死ぬ覚悟もできています。」とまで言ったのに、「あなたも彼の仲間だろう。」と言われて、出て来たことばは「私は彼を知らない。」でした。信仰は自分の力や熱心だけで守れるものではありません。聖霊の助けが必要なのです。

それゆえに、私たちは聖霊に満たされることを求めていきますけれども、聖霊に満たされることはゴールではありません。聖霊に満たされたらそれで完成するわけでもない。何回でも満たされて続けていく、プロセスが大切です。そうやって私たちはイエスさまの似姿に変えられていく。成長していく。霊的に成熟していくのです。

さて、先ほど読んだ箇所は、イエスさまが十字架にかかられる前夜におっしゃった聖霊の約束の場面です。今日はたくさん賛美をしていますし、時間も限られていますから大まかにですけれども、さっそく見ていきましょう。

<15節〜21節 新しい戒めへの助け>
15節「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」このような表現を読むと、私たちは身構えてしまいますけれども、これは脅しではなくて、イエスさまを愛することと、イエスさまの戒めを守ることは同じ一つのことだということの確認ですね。こういう箇所を読むとどうしても萎縮してしまいやすいのですが、ある牧師が言っていた表現なのですが、「聖書の主語は神さま。そして、書かれていることの動機は愛」なんです。脅したり萎縮させるためのことばなんてないんです。この視点を押さえておくと、聖書はグッと分かるようになると思います。この箇所も同様です。イエスさまが私たちを萎縮させるために言っておられるのではない。ただ、イエスさまを愛することと、その戒めを守ることは同じ一つのことだという確認がされています。振り返ると、13章34節に「新しい戒め」として、「互いに愛し合いなさい。」というイエスさまの教えが出て来ます。イエスさまを愛するという縦の線だけでなく、私たちには横の線、お互いに愛し合うということが必要です。神さまだけ信じていればいい、世の中のこと、身の回りの人たちのことはどうでもいいというのでは、それはイエスさまを愛していることにはならないんですね。

その流れで16節です。「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」聖霊は助け主とも呼ばれますが、何を助けてくださる方なのかというと、イエスさまの新しい戒め、私たちが互いに愛し合うということを助けてくださるお方なんです。私たちが人を愛し、赦し、受け入れあっていくには、聖霊の助けが必要です。聖霊に満たされることが必要です。16節後半にあるように、この方はいつまでも私たちと共にいてくださる。私たちと共に歩んでくださるお方です。

17節「この方は真理の御霊です。」聖霊が私たちと共にいてくださる。私たちは一人ではない。それは真理、本当なんです。18節、19節、イエスさまは十字架にかかられた後、復活して天に上られました。言わば、天に行ってしまわれた。しかし、私たちは一人ではない。18節の「あなたがたのところに戻って来ます。」これは、将来の再臨のことと読んでもいいのでしょうが、ここは聖霊の文脈です。イエスさまが天に上られて、その代わりに私たちと共に歩んでくださる聖霊が来られるという流れですので、18節、19節で言われている「イエスさまが戻ってくる」というのは、これは聖霊が来られることを指していると読むのが自然でしょう。三位一体なので、聖霊が来られるということは、イエスさまが来られるということでもあるわけです。

私たちは、イエスさまを信じ、そして互いに愛し合う生き方へと入れられています。なかなかそれを自分の力で遂行していくことはできませんけれども、でも聖霊がそれを助けてくださいます。だから、自分の力だけで愛そうとしなくていいのです。聖霊が助けてくださるのだからです。

<25節〜31節>
少し飛びますけれども、25節「これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。」つまり、これからイエスさまは十字架にかかり、その後よみがえって天に上られます。しかし、26節、代わりに来てくださる聖霊は、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせて」くださる。聖霊は、主が言われたことを、聖書のみことばを、思い起こさせてくださるお方です。聖書のことばを思い起こさせてくださるお方。

先ほど、「互いに愛し合う」ということについて、私たちは自分の頑張りだけで愛そうとしなくていいということを言いましたが、私たちがすることは、聖霊の促しに耳を傾けるということです。聖霊の促しに耳を傾ける。そして聖霊が導いてくださることに自分をお委ねする、お任せするということです。聖書のことばをもって、そして神さまに造られたこの世界のあらゆる出来事を通して、聖霊は私たちにみことばを思い起こさせます。イエスさまを信じるものは互いに愛し合うんだということを、聖霊が私たちに促してくる。聖書のことばを語りかけ続けてくる。それを無視してはいけないですね。

神さまの恵みとは、太陽の光のようなものと言われます。私たちの努力とか、私たちの熱心さに関わらずに私たちを照らし、暖めるているのです。ただ、私たちがそれを受け取るには、心のシャッターを開けなければならない。光を作り出そう、自分が光になろうとする必要はありません。しかし、光を受け取るには、心を開く必要があります。今日の箇所で言うならば、互いに愛し合うというイエスさまの新しい戒めに生きるようにと聖霊が助けてくださる、それは恵みです。その恵みを受け取るために、私たちは聖霊の語りかけ、聖霊の促しに対して心を開く必要があります。

私たちの身の回りに、あなたの身の回りに、愛せない人がいますか?赦せない人がいるでしょうか。イエスさまが「互いに愛し合いなさい」と言われたことばに対して、私たちは、あなたは、どのように応答しますか。心配はしないで大丈夫です。聖霊が共にいてくださいますから、大丈夫です。みことばの事実に自分自身を明け渡していくんです。心のシャッターを開きましょう。

15章12節に、もう一度新しい戒めが出て来ます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」違う表現で言い直してくださっています。これも脅しではないです。イエスさまが私たちを愛してくださったのだから、私たちも人を愛さなければならないという脅しではない。私たちが人を愛するのは、イエスさまの新しい戒めに従って互いに愛し合うのは、それは私たちの熱心が原因なのではなくて、イエスさまが私たちを愛してくださったからだということです。脅されて、愛さなければならないと力んで愛するのではなくて、イエスさまの愛が、私を救いあなたを救ったイエスさまの愛が源であり、土台であり、理由なんだということです。イエスさまの十字架は私たちを脅すものではなくて、私たちを心から動かします。聖霊は私たちに十字架の意味を教え続けてくださいます。十字架の意味を。

14章に戻りましょう。27節「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」聖霊の語りかけに従い、自分の生き方を具体的に変えるということには勇気が要ります。みことばに従って大丈夫なのだろうかと、私たちは不安になるんです。でも、イエスさまがこうおっしゃっているのです。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。」だから、聖霊の促しに従って大丈夫です。互いに愛し合う、その一歩を踏み出して大丈夫です。先ほども読んだように、イエスさまが私たちを愛してくださったのですから、その愛を受けていくなら、自然とこの新しい戒め、新しい生き方へと導かれていきます。聖霊がそのように私たちを成長させてくださる。一歩、一歩、成長させてくださいます。

なお、今日のこの箇所は最後に「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」ということばで終わります(31節)。この「ここから行く」ということばのギリシャ語は一人称複数、「私たちは」なんです。つまり、イエスさまは弟子たちに「さあ、行け。」と言っておられるのではなくて、「さあ、共に行こう。」と言っておられる。私たちの信仰の歩みには、私たちの人生には、イエスさまが一緒にいてくださるんです。さあ、共に行こうと。聖霊を通して、イエスさまご自身が私たちと共にいてくださる。何を恐れることがあるでしょうか。16章33節でこのように言われている通りです。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

今日はペンテコステです。聖霊が私たちのところに来てくださったことを記念する日です。それは、聖霊を通してイエスさまが私たちのところに来てくださった、戻って来てくださったということでもあるのです。三位一体の神さまなので、いろんな言い方ができます。イエスさまは今天におられて、父なる神の右で祈っていてくださるという表現も聖書にはあります。ただ、今日の箇所は、イエスさまご自身が聖霊として私たちのところに来てくださっているという側面を伝えています。大切なことは、主なる神が私たちと共におられるということです。主なる神が、私と共におられる。そして、みことばに従って歩む生き方を励まし続けてくださる。促し、導き続けてくださいます。そうやって私たちは変えられ続けていくのです。この私が、あの私が、主イエスを愛し、人を愛する者へと変えられていく。楽しみにしていこうではありませんか。そして、聖霊の促しに耳を塞いでいることがあるのなら、みことばを思い起こさせてくださる御霊の語りかけに耳を塞いでいることがあるのなら、その手をどけて、シャッターを開けて、耳を開いて、素直にイエスさまのことばに従っていこうではありませんか。そのことも、聖霊が助けてくださいます。だからこそです、だからこそ、聖霊に満たされることを求め、求めて、祈り続けていきましょう。

ーーー
「立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」(ヨハネ14:31)

私たちを愛し、新しい戒めを教えてくださった主イエス・キリストの恵みと、
私たちに聖霊を与えて信仰の歩みを導き続けてくださる父なる神の愛、
そして、私たちを愛する者へとつくりかえ続けてくださる、聖霊の満たしと励ましが、
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

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【5/17】

マタイの福音書8章18節〜27節

「主に従う道」

マタイの福音書を読み進めています。今日の箇所は前半と後半で異なった内容に見えますが、同じテーマが響いています。さっそく見ていきましょう。

<18節〜20節 枕するところもない>
18節に群衆が出てきます。8章1節のところで、イエスさまについていった群衆が慕わしく見えるという話をしました。イエスさまについていくという意味ではそうです。ただ、18節ではやはり群衆は弟子と対比されていると思います。群衆は「従う弟子」としては描かれていません。今日の箇所には「従う」というテーマが流れていて、私たちは群衆ではなく弟子たちの姿に注目するように促されている。私たちは弟子として成長する歩みへ、向こう岸へと船を出す生き方へと招かれているんです。

さて、群衆が押し寄せて岸辺に立っていることすらできなくなったのでしょう、似たような場面はルカの福音書5章にも出てきますが、今回イエスさまは弟子たちに命じて、そのまま舟でガリラヤ湖を渡ろうとされたという場面です。

そこに、一人の律法学者がやってきて言いました。出発間際のイエスさまに向けて、名乗り出た。19節「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」「先生」というのは当時のユダヤ教の教師を指す呼び方です。ヘブル語では「ラビ」と言いました。ラビについて行って聖書を教えてもらうことは、当時の感覚から言っても普通のことでした。

しかし、イエスさまの答えはこうでした。20節「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」狐にも鳥にも巣があるが、人の子には眠る場所すらないというのです。人の子というのは、救い主としてのイエスさまを指す言葉です。私についてくる道は険しい道だ。険しい生き方だ。それでも従ってきますか?と覚悟を問われたのです。

確かに、十二弟子のことを振り返ってみると、ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネといった弟子たちは、網を捨てて、親もそこに置いて、イエスさまに従ってきました。すべてを捨てて従ってきたのです。イエスの弟子として歩む道には厳しい面があるのは事実です。私たちがイエスさまに従うとは、自分の考え方ではなくてイエスさまのみこころを優先するということだったり、聖書に記されたみことばを信じ抜いていくということだと言えますが、そのような生き方においては、結果として大切なものを手放さなければならないことはあるのです。

しかし、「捨てる」「手放す」ということにおいて、みなが同じ形を求められているわけではありません。前回、イエスさまがペテロの家に行ったことが記されていましたが、ペテロは持ち家があったわけですし、妻がいて、姑もそこにいました。また、後にイエスさまを埋葬したアリマタヤのヨセフという弟子がいましたけれども、彼は裕福でしたが弟子と表現されています(27:57)。肉親や財産を捨ててでも従うというのは、イエスさまに従うなら結果としてそうなることもあるということで、そうしなければならないとか、それだけが従う道だということではありません。

それでも、イエスさまのこのことばは厳しいものです。教会の古い伝承では、ペテロは最後にはローマの地で殉教の死を遂げたとされていますし、アリマタヤのヨセフにしても、ユダヤの宗教議会の中で周りから白い目で見られたことは想像に難くありません。イエスさまに従う道は、何かを捨てる道。それは家や財産ということに限定されないけれども、イエスさまに従うゆえに「枕するところ」もなくなるということがあるのです。何かを捨てなければ従えないということではありません。しかし、従うゆえに何かを捨てるということがあるのです。むしろ、イエスさまのみことばを自分の人生の軸にする時、私たちは何かを捨てなければならなくなります。それが何かは、人によって違います。

この人がどのように反応したのか、その話は出てきません。別の箇所に似たような話があって、そちらでは質問者は悲しみながら去っていったとあります(19:16-22)。しかし、今日の箇所では質問者の応答は書かれていない。こういう箇所には私たちは自分を重ねやすいです。私たちの応答はどのようなものでしょうか。

<21節〜22節 父を葬ることを>
この箇所は、聖書の中でも特に理解しにくいところだと思います。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」と願い出たのに対して、イエスさまの答えは「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」というものだったのです。親の葬式もさせてもらえないのかと読めてしまいますが、違います。聖書は両親を敬うように教えています(出エジプト20:12)。この箇所から伺える状況としては、この人の父親は実はまだ健在なんですよね。かつ、この人は父親から財産の分前をもらうことになっていることを考え合わせると(ルカ15:12)、この人のこのことばは、自分がもらえるはずの財産をしっかりもらえるように、その時まで待ってくださいということなんですね。それなら文脈がすっきりと通ります。「主に従う」というこの文脈の中で、この話は、「いつか従います」と先延ばししている人の話なんです。

将来に向けて財産を管理することは大切なことです。私たちも貯金をしたり、保険をかけたりするわけです。問題は優先順位でした。この人は、今ここで対面しているイエスさまに従うことよりも、自分の将来の財産を優先しているのです。財産だけでなく、将来の安定や、自分の人生設計を把握することをイエスさまより優先しているのでした。

イエスさまの答えは痛烈でした。「わたしに従ってきなさい。」いつか従いますではなく、今、従ってきなさいということですね。「いつか」と言いながら、結局いつまでも従わない、従えないでいる私たちですが、今、イエスさまに従う者でありたい。

そして最後の「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」という部分ですが、これも痛烈な皮肉になっています。「葬りのことは死者たちに任せなさい。」という、ちょっと日本人の感覚としては理解し難いところですが、前提としておそらくこの人の父親はまだ健在なので、これはやはりイエスさまの皮肉というか、あえてとられた極端な表現ということだと思います。

ここでも、この人の最終的な反応は書かれていません。私たちなら、どのように反応するのでしょうか。なお、一つ、先ほどの律法学者と違う点があります。それは、この人も「弟子」と表現されていることです。この人は弟子なんです(21節)。イエスさまの弟子たちも、イエスさまを信じて従って来た者たちも、「今この時」イエスさまに従うことが求められるのです。イエスさまに従って来たというのは、それは感謝なことですけれども、今従うかどうか。今、この時従うかどうか。私たちもまた問われています。

彼のように、自分の将来の安定を優先してしまう者であっても、ここで「弟子」と表現されている。これは慰めです。励ましです。私たちは白か黒か、ゼロか100かで物事を考えてしまいやすいので、「こういうことを言ってしまうようでは弟子ではない。」と思ってしまいます。彼のことばは失敗だ、間違いだと思ってしまう。でも、そんな彼も弟子なんですよね。私たちだってそうじゃないですか。聖書はそんなこと百も承知で、この弟子に向けてイエスさまへの応答を促している。私たちにとっても同じです。私たちも彼と一緒。私たちに向けても、イエスさまは毎回毎回、心を込めて「わたしに従って来なさい。」と声をかけてくださっています。

<23節〜27節 嵐の中で>
23節、それからイエスさまは弟子たちと共に船に乗り、向こう岸に向かわれました。24節「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。」ガリラヤ湖は海抜マイナス200メートルほどという、非常に低い位置にある湖です。そして周りは山や丘に囲まれています。高低差がありすぎて、突風が吹き、天気が急激に変わることがあるのです。そしてこの時、漁師としての経験豊富な弟子たちが恐れるほどの大きな嵐になりました。

ところが。「ところがイエスは眠っておられた。」のでした。船がひっくりかえりそうな嵐の中でよく眠れるなと思いますが、とにかく、イエスさまは眠っておられた。

かわいそうなのは弟子たちです。向こう岸へ行こうと言われたから船を出したのに、こんな嵐になって、当のイエスさまは眠っておられる。つまり、助けてくださらない。

今日の箇所には「イエスさまに従う」というテーマが流れているわけですが、イエスさまに従って漕ぎ出して、その結果大変な目に遭うという状況は、私たちにも大なり小なり経験があると思います。大変な目に遭うということよりも、一番の問題は、主はなぜ助けてくださらないのだろうということです。

25節、弟子たちの行動は当然のものでした。「弟子たちは近寄ってイエスを起こして、『主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます』と言った。」

前回、何の表明ができなくてもイエスさまは癒してくださったという箇所を読みました。熱を出して伏せっていたペテロの姑や、悪霊に憑かれた人たちです。彼らは自分から「癒してください。助けてください。」と表明することすらできませんでしたが、それでも主は癒しの奇跡をなしてくださいました。彼らは文字通り何も言えなかったからです。しかし、今回の弟子たちは話せます。祈れます。叫ぶことができるのです。彼らは助けを求めて叫んでいいし、叫ぶべき場面です。これでいいんです。

26節でイエスさまが「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」と言っておられるので、弟子たちは叫ぶべきではなかった、ただ信じて待つべきだったとここから読み取ることもできるでしょう。でも、なぜと思って祈れるのなら、そう祈るべきでしょう。イエスさまご自身がそう祈られたのですから(マタイ27:46)。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」イエスさまも、こうやって祈ったのです。

26節の「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」というイエスさまのことばは、怖がることの禁止ではないはずです。「信仰の薄い者たち」とありますが、これは「怖がって叫んではならない」ということではなくて、「わたしが一緒にいることを忘れるのは、それは信仰が薄さだよ。」ということです。それ以上でも、それ以下でもなくて、「それは信仰の薄さだね。」という話です。信仰の薄い人を叱ったり断罪することばではないです。イエスさまが共にいることを忘れないで、もっと信頼していくようにという励ましです。私たちが怖がる存在だからこそ、信仰が薄い者だからこそ、励ましてくださっているわけです。

私たちは、なぜ助けてくださらないのですかと祈っていいのです。神さまに、見捨てないでください、助けてくださいと祈っていいし、祈るべきです。今の信仰の薄さで祈るしかないのですから。でも、そうやって祈った先に、イエスさまが奇跡を見せてくださいます。

<みことばの権威>
26節後半から27節「それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」

7章の終わりから、イエスさまの権威の話が続いています(7:29)。百人隊長の話もそうでした(8:9)。そして、今ここでイエスさまの権威の前には自然界も従うのだということが明らかにされます。この世界は神のことばによって造られました(創世記1章)。そして、イエスさまは神のことばそのものであるお方です(ヨハネ1:1)。この世界は、自分を造られた方の声を知っています。風や湖がこの方の言うことを聞くのは当然なのでした。

あの百人隊長は、この方のことば一つで世界の現実が動くと信じていました。この方のことばには権威があると信じていた。そして、それはその通りでした。病だけでなく、自然だけでなく、私たちの生活、私たちの人生においても、この方のことばには権威があります。この世界を造られたお方の権威です。

「人々は驚いて言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。』」ここに「人々は」とありますが、ここにいるのは弟子たちです。船に乗っているのは弟子たちです。イエスさまを信じて従ってきた人たちです。それでも、まだまだこの方の権威に驚かされていくんです。私たちも同じです。イエスさまを信じてここまできましたけれども、私たちはイエスさまのみことばの権威を、その力を、まだまだ知らない。つまり、これから、さらに知らされていくのです。

今のこの信仰の薄さで、今のこの、みことばの権威に対する無知なままで、このままで神さまに向けて祈っていきましょう。叫んでいきましょう。今日、今この時がスタート地点です。

<イエスさまに従う>
今日の箇所では、主に従うとはどういうことか、そして従った先で私たちはどのように祈るのかを見てきました。イエスさまに従うとは、自分の具体的なこの人生を、日々の生活における判断基準を主のみことばに、そのみこころに置くということです。神さまがこの私を愛しておられることを、何があっても信じ抜いていくこととも言えるでしょう。

 

その生き方において、私たちは何かを手放さなければならないようなことになり得ます。無理にでも何かを捨てなければ、手放さなければ従えないのではありません。それは条件ではない。しかし、従っていくときに、結果として何かを手放すことはある。

また、イエスさまに従う道は「いつか」歩む道ではありません。「献身」とは、牧師や宣教師になることだけを意味するのではなく、クリスチャン一人ひとりが問われることです。「いつか」ではなく、「今」ここで、神さまに自分を捧げるのです。それがイエスさまに従うということです。

そして、イエスさまに従う道は、その先で「なぜですか」と叫びたくなるような困難が起こります。私たちは、「信じれば問題はなくなる」と期待してしまいます。しかし、イエスさまに従う道には困難が起こります。嵐がある。それでも、そこには主が共にいてくださるということが大事なんです。前回お話ししたように、一羽の雀も「父なる神なしには」地に落ちることはありません。何が起こったとしても、神さまは共にいてくださっています。それだけは確かです。すぐには助けてくださらないかもしれません。でも、だからこそ、私たちは祈ることができる。主に向けて叫ぶことができます。信仰が薄い者だからこそです。今いるところがスタート地点。毎回、そうなんです。そこで叫びながら、今日も、明日も、少しずつ信仰が濃くなっていくんです。そうやって、私たちは主に従っていくのです。

今、私たちはイエスさまから何を問われているでしょう。あなたはどのように主に従っていきますか。日々の具体的な生活の中で、生活の場で、自分はどのようにして主に献身するのか、主に従っていくのか。ぜひ考えてください。以前、「人間をとる漁師」というところを扱った際に、私たちにとっては漁師ではなく何だろうという話をしました(4:19)。人間をとる主婦、人間をとる母親、学生、会社員、高齢者、様々です。主に従う道は様々です。あなたにとっての「主に従う道」は何ですか。一人ひとり、その道は違います。その歩みを励まし合う、祈り合い、証しし合っていく教会でありたいと願いますし、そのようにして共に進んでいこうではありませんか。

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「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)

私たちの生活や人生を含むこの世界において、絶対の権威を持っておられる神のみことば、主イエス・キリストの恵みと、
私たち一人ひとりに、主に従う道を用意していてくださる父なる神の愛、
そして、信仰の薄い私たちを励まし、今日またここからの歩みをさせてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

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【5/3】

マタイの福音書8章1節〜17節

「癒してくださる方」

先週、私たちは山上の説教を読み終えて、今日の場面はイエスさまが山を下りられたところからです。

<1節 イエスについていった群衆>
1節「イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。」人々はイエスさまが語られる権威あることば、力あることばに驚き、そしてイエスさまについて行きました。ぞろぞろと、イエスさまについていったのです。聖書では群衆というのは弟子と対比して描かれることが多いわけですが(従う弟子に対して、聞くだけの群衆)、イエスさまにぞろぞろとついていったというこの人たちがとても親しく感じられます。もちろん、イエスさまの弟子として成長するように私たちは招かれています。しかし、弟子とか成長とか言われても、よくわからないというのが本当のところではないでしょうか。せめて、この人たちのようにイエスさまについていく、次は何をお語りになるかと期待しながらついていく、まずはそのような者でありたいのです。その先に、成長があります。

さて、今日はイエスさまの「癒し」についての記事が続きます。四つのケースが並んでいます。

<2節〜4節 ツァラアトに冒された人の癒し>
一つ目はツァラアトに冒された人の話です。2節「すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、『主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります』と言った。」

ツァラアトは「重い皮膚病」とも訳され、これに冒されると次第に肌や肉が崩れていってしまうというものです。当時、病は神からのさばきだと見做されていて、ツァラアトはその最たるものでしたから、ツァラアトの患者に触れてはいけない、それは汚れているのだから共同体の中にいさせてはならないということで、隔離、いやむしろ追放されるという悲劇がありました。

そのツァラアトに冒された人がやってきたのです。普段は隔離されて、家族からも生まれ育った町からも引き離されて暮らしていた人が、イエスさまの話を聞きつけてやってきたのです。来てはいけないところに、それでもやってきた。そしてひれ伏してイエスさまを礼拝し、言いました。「主よ。お心一つで私をきよくすることがおできになります。」先ほど言ったようにツァラアトに冒されている者は汚れているという扱いがなされましたから、ここで彼は「きよめ」を願っています。ツァラアトが癒やされ、きよめられることを願い出たのです。彼もこの方の権威(7:29)を目の当たりにして、もしくはその話を噂に聞いて、このようにひれ伏して願い出たのです。しかも「癒してください。治してください。」というお願いの形ではなく、「おできになります」という確信に満ちた断言でした。神にしかできないことを、この方もなさるという確信が彼にはあったのです。

それに対するイエスさまの言動がまた驚くべきものでした。まず、イエスさまは彼に触ったのです。当時の考え方で言ったら、ツァラアトの人に触れるなどあってはならないことでした。病気がうつるという以上に、汚れがうつるとされていた。だから、誰もこの人に手を差し伸べなかったし、誰も触ってくれなかったのです。しかし、イエスさまはまずこの人に触れました。

病気の人を診察したり、看病したりすることを「手当て」と言いますよね。病院でお医者さんにまさに手当てをされると、ああ、診てくれているんだなぁと感じます。私たちも人に対して手を当てるものでありたい。実際に手を触れるかどうかではありません。ボディタッチが多すぎるのも、特に日本では考えものです。ただ、少なくともしっかりと相手の目を見て、そのことばを聴き、寄り添うというイエスさまの姿に倣いたいのです。

その上でイエスさまは言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」わたしたちがいやされること、きよめられることはイエスさまの御心です。隔離されて、断絶されて、孤独の中にある私たちが交わりの中に戻されることは、イエスさまの御心です。イエスさまはそのような心で私たちに向き合い、手を当て、「きよくなれ」と、癒やされなさい、回復しなさいと声をかけてくださる。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられました。癒やされたんです。

この人はイエスさまの心、イエスさまの御心に信頼して願い出た。これが一つ目のポイントになります。

<4節 メシアの秘密>
ところで、二つ目のポイントに入る前の4節は不思議な箇所です。「イエスは彼に言われた。『だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。』」

福音書には、イエスさまがご自分のことを隠されるような、公になるのを避けるような、そういう表現があります。専門用語で「メシアの秘密」と言います。人々は救い主という存在をローマ帝国からの解放者として理解していましたから、今イエスさまが救い主である、キリストであることが公になると、奇跡を行う人としてだけ熱狂的に担ぎ上げられ、十字架にかかって死ぬというイエスさまの使命が果たせなくなる恐れがありました。だからイエスさまは表面的な奇跡の話だけが一人歩きしないように、「誰にも話してはいけないよ」と念を押された。釘を刺されたのです。

ただ、癒やされた人がその話をしたい、証しをしたいと思うのは当然のことです。この人はこれから町に戻る、家族のところに戻るわけです。癒やされたということを話さないわけにはいきません。彼は話したいのです。イエスさまもその思い自体を否定されたわけではありません。まずは祭司のところに行って、ツァラアトが癒やされたことの確認をしてもらいなさい、そして「証しのために」感謝のささげ物をしなさいと言っておられる。イエスさまは「証し」を否定しておられるわけではありません。むしろ、「出来事中心ではなく、神中心の証しをしなさい。」ということなんですね。

イエスさまのこのことばは語ることの禁止ではなくて、証しが本当に証しになるためにあえて時間を取りなさいということだったと思われます。もちろん、ケースバイケースですし、すぐにでも証しすることが間違いなのではありませんが、でも往々にして私たちは出来事中心の証しをしてしまいがちです。私たちが生きる世界では常に様々な出来事が起こるわけですが、でも、その中で神さまが何を語っておられるのかということに耳を澄ませ、心のアンテナを向け、そして、神さまがなさったことを証ししていく。神さま中心の証しをしていくものでありたいのです。イエスさまもそのことを促し、励ましておられます。

<5節〜13節>
5節から13節は二人目の癒し、百人隊長のしもべの話です。イエスさまがカペナウムの町に入られると、そこにローマの百人隊長がやってきて、自分のしもべが中風で苦しんでいるというのです。つまり、癒してやってくださいということですね。イエスさまは「行って彼を治そう」と言われました。

しかし、8節、百人隊長は答えました。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」

彼は何を言っているかというと、権威あることばの力についてです。軍隊において上官の命令は絶対です。上官のことばには権威があり、それは絶対に従わなければならないものでした。それと同じだというのです。主よ、あなたのことばには権威があります。力があります。あなたが「癒す」と言ってくだされば、私のしもべは必ず治ります、ということですね。この人はイエスさまを「命令すれば現実が動く方」として見ていたのです。

10節、イエスさまはこの答えに驚き、彼をほめ、そして13節「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」と言われます。そして、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされました。二つ目のポイントは、この人が主のことばの権威を信じたということです。

<救いの確信>
なお、10節でイエスさまは「わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」と言われました。これは最高の褒め言葉なんです。当時のユダヤ人たちは「救いとは自分たちだけのもの」だと考えていましたが、イエスさまはローマ人のこの百人隊長の信仰をほめられたのです。しかも「イスラエルの中でこれほどの信仰を見たことがない!」と。11節にある「多くの人が東からも西からも来て」というのは、救いが広く全世界に広がることを示しています。世界中からの人が救われて、天の御国で祝宴の食卓につくのです。12節はあえての説明でその逆が表現されています。「御国の子ら」とは、ここでは自分はイスラエル人だからということで、悔い改めもせず、救い主を信じようともしない人たちのことです。そういう人たちは外の暗闇に放り出されてしまうと。しかし、ここのメインは「救い主を信じ受け入れる人たちが世界中に起こされる」というここですね。

私たちもまた、東の果ての国で救われました。救いがあるはずがないと思われていた場所で。私たちは自分自身を見ると、自分は救われているのか不安になることもあるのですが、私たちが救われていることは神のことばの権威のゆえに揺るがない事実です。サタンは「本当にあなたは救われているのか」と囁いてきますが、この百人隊長のように、主のことばの権威を信頼していきましょう。私たちは自分の状況がどうかではなくて、神さまのことばの権威のゆえに救われているのです。

<14節〜17節>
三人目の癒しはペテロの姑です。「それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。」

ペテロの姑、つまり妻の母です。主の弟子たるもの、肉親を捨ててでも主に従わなければならないというような極端な誤解がされる時がありますが、聖書にはこういう箇所もあることを忘れてはなりませんね。

さて、一連の癒しの文脈では、ツァラアトに冒された人はイエスさまの御心を信じて癒しを願いました。百人隊長はそのみことばの権威を信じて癒しを願いました。それでは、ペテロの姑は何を信じていたのでしょうか。ここには何も記されていません。ただ、熱を出して寝込んでいるだけです。信仰を表明することすらできないのです。祈り、願うことすらできない。それでも。イエスさまは彼女を癒されました。彼女に手を当てて、癒してくださいました。

これは16節の悪霊に憑かれた人たちも同様です。彼らも、自分の信仰を表明したわけではありません。悪霊に憑かれていたのですから、むしろイエスさまに敵対するような、神を呪うようなことを大声で喚いていたと思います。それでも、イエスさまは彼らをみな解放し、癒されたのです。

今日の箇所には、このように四箇所、三パターンの癒しの記事が並べられています。神の御心を信じて癒された人、神のことばを信じて癒された人、そして、何も言えなかったけれども癒された人です。何も言えなかったけれども癒やされた人。

癒しは、というよりも神さまのみわざは、私たちの状態に関わらずになされます。私たちは御心を信じて祈れるならそう祈ればいいですし、みことばへの信頼、確信があるなら、その上に立って祈り求めればいいです。そして、何も祈れないとしても大丈夫なんです。それでも神さまは共にいてくださるし、奇跡を起こしてくださいます。

今日もまたピッタリなので引用せざるを得ないのですが、まさに詩篇73篇21節〜24節です。「私の心が苦みに満ち/私の内なる思いが突き刺されたとき/私は愚かで考えもなく/あなたの前で 獣のようでした。/しかし 私は絶えずあなたとともにいました。/あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。」何も語れなくても、何も祈れなくても、むしろ獣のようにうなるだけで(マタイ7:6)、神さまに素直に向き合えないような状態でも、それでも神さまは共にいてくださいます。そして、みわざを行ってくださるのです。

マタイの福音書に戻りますが、17節「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを担い、/私たちの病を負った。』」「彼は」、つまり「イエスさまが」そのようなお方だから。イエスさまが救ってくださり、癒してくださるお方だから。だからです。私たちの側の調子がいいときも、低空飛行なときも、イエスさまは変わらずにいてくださり、私たちを癒してくださるのです。

<癒されないケース>
なお、今日は癒しについての記事を読んでいるわけですが、このように神さまの奇跡として癒やされるという話と同時に、癒されなかった人のことも聖書は記しています。パウロです。パウロは目が悪かったと思われます。そのことのゆえに諦めなければならなかった働きもあったでしょう。彼が癒されれば、どれだけ主のための働きがさらに大きく広がったことでしょうか。しかし、彼は癒されませんでした。それは、神さまの恵みが十分であること、神さまの力は弱さの中に完全に現れるということが明らかになるためでした(Ⅱコリント12:7−10)。癒されないからと言って、それは信仰が足りないということではないのです。むしろ、神の恵みが明らかになるため。ここはぜひ押さえておきたいところです。

マタイの福音書10章29節にこうあります。「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。」一アサリオンはローマ世界で一番安い貨幣です。雀とはそういう鳥でした。そんな雀の一羽さえ、父なる神の許しなしに地に落ちることはない、つまり父なる神の許しなしに死ぬことはないというわけですが、実はここのギリシャ語には「許し(許可)」という単語は本来ないのです。ここは「父なる神なしには」という文章です。「そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父なしに地に落ちることはない」というのです。

「許し」とか「許可」ということばが入ってしまうと、神さまが高いところから指図して許可して決まるというニュアンスに聞こえてしまいます。しかし、そうではなくて、「父なる神が共にいてくださることなしには、何事も起こらない」なのです。父なる神は雀が地に落ちるときにさえ共にいてくださる、ましてや、私たちの病、私たちの痛みに伴っていてくださる、共にいてくださるのです。高みの見物をしておられるのではなく、天高いところからGOサインを出すのではなくて、寄り添っていてくださるお方です。

だから、癒されていないからといって、ご自分の信仰を卑下なさらないでください。癒しを体験していないからと言って、自分の信仰が足りないからだなんて思わないでください。あなたは神の子とされた、掛け替えのない存在です。イエス・キリストの十字架の血潮によって贖われている、救われている、大切な存在なんです。あなたの病、あなたの痛み、そこには主が共におられることを忘れないでください。主は天から指図して、許可を与えてあなたに病を与えられたのではない。自ら地に降りて、私たちの苦しみを共に担ってくださったお方です。

そのように神さまはわかっていてくださるのですから、大胆に癒しを願って祈っていきましょう。「パウロも癒されなかったから」ということを理由にして、自分は願わない、祈らないということではもったいないです。あのパウロのことばは、祈り抜いた先で体験することです。私たちは、今は大胆に癒しを祈っていきましょう。あのツァラアトの人のように。そして、あの百人隊長のように。もしくは、ペテロの姑のように何も祈れなくても大丈夫です。主は癒してくださるお方です。

神さまのご計画、神さまの意図がそこにあるなら癒されます。もしくは、癒されないことで神さまの栄光が表されるなら、そのためにあなたのその弱さはそのまま用いられます。どちらにせよ、私たちの父がそこに伴っていてくださることは忘れないでいてください。私たちの病が癒されるにせよ、癒されないにせよ、イエスさまは私たちのわずらいを担い、私たちの病を負ってくださったお方です。この事実は何があっても揺るぎません。

ツァラアトの人を癒し、百人隊長のしもべを癒し、ペテロの姑を、また悪霊に憑かれた人々を癒やされた主は、あなたにも手を置いてくださる。手を当ててくださるお方です。

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「わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」(出エジプト15:26)

私たちに手を当て、癒してくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちの弱さ、私たちの病に伴っていてくださる父なる神の愛、
そして、私たちが祈れない時でも共に呻いていてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

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