礼拝メッセージ
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●原稿
【9/15】
ピリピ人への手紙4章10節〜23節
「主にあって喜ぶ生き方」
ピリピ人への手紙をここまで読み進めることが出来て、感謝しています。使徒の働きを読み終えた後、それに続けてピリピ書を読めたのは幸いでした。ローマに着いてからパウロは軟禁状態にあったわけですが、まさにこれはその時期に書かれた手紙です。使徒の働きの余韻も感じながら、ここまで読み進めることが出来ました。最後なので、まず内容を振り返ってみたいと思います。
ピリピ書は「喜びの手紙」と呼ばれます。パウロは獄中にあって裁判もいつ開かれるかわからない、先行き不透明な状況にいます。それでも彼は「喜び」と繰り返し書くのです(1:18, 25、2:2, 17−18、3:1、4:1, 4)。そして、もう一つ彼が繰り返していた表現がありました。それは「主にあって」「キリストにあって」ということです(1:1、2:1、3:1、4:1)。つまり、彼は「主にあって」喜んでいた。キリストにあって喜んでいたと言うことができます。
私たちはよく自分の状況に左右され、喜んだり、喜べなかったりするわけですが、イエスさまがしてくださったことを思い起こし、主の恵みを数えていると、状況には関係のない喜びに気が付きます。これが「主にあって喜ぶ」喜び、「主にある喜び」ということです。パウロがテサロニケの教会に向けて「いつも喜んでいなさい・・・これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と書いたように(Ⅰテサロニケ5:16〜18)、私たちは状況によらず、主にあって喜ぶことができます。
その関連で4章8節の「心を留めなさい」ということも理解することが出来ます。これは勘定に入れるという意味のことばです。つまり数えなさいということですね。8節に直接書いてあるのは私たちの生き方に関することで、真実なこと、正しいことに心を留めるという話なのですが、ピリピ書全体を振り返るならば、キリストのしてくださったことに心を留めなさいというニュアンスで捉えることが出来ます(詩篇103:2)。イエスさまがしてくださったこと、十字架にかかるほどにへりくだられたこと、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てることが出来ないとは考えず、御自分を無にして仕える者の姿を取り、人間と同じようになられたこと(2:6〜7)に心を留めなさい。その方のことを思い起こし、その恵みを勘定に入れなさいということですね。この「心に留める/勘定に入れる」ということばは第一コリント13章にも出てきます。有名な「愛の讃歌」と呼ばれる箇所ですが、5節に「(愛は)人のした悪を思わず」とあり、この「思う」が同じことばです。人のした悪、人にされた悪は勘定するなということです。人にされたことを忘れることは難しいでしょう。身の回りの状況を無視することも出来ません。しかし、それらをいちいち数え上げるのではなく、イエスさまの恵みに目を向けるのです。イエスさまがしてくださったことに目を留め、それを数えるのです。それがこの「愛の賛歌」の中に書かれているということも、意味が深いと思わされます。イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と教えてくださいましたが(ヨハネ15:12)、人のした悪を思わずに、イエス・キリストの恵みに心を留めるということこそ、「愛」という生き方のための大きなヒントです。そして、そこには「主にある喜び」が生まれてくるのだということです。
しかも、それはイエスという方が私たちのために死なれたという悲しい知らせで終わるものではありません。この方はよみがえられ、私たちはこの方に似た者として成長していけるのです。救われた者はそうなっていくのです。そして、その生き方は世の光として用いられる。そんな喜びがあるのです。そんな「主にある喜び」があるのです。パウロその喜びのゆえに、それまでのパリサイ派エリート律法学者としての地位もプライドもすべてをちりあくた、ゴミだと言い切ります。3章ですね。過去の栄光、またそれを捨てていなければ今頃はもっとキャリアを積めていたはずという未練、そういった思いを後にして、ひたすら、ひたむきにイエス・キリストを目指して走っているのだと彼は言います。そして、その喜びの生き方にあなたがたも加わっていてほしいと書き送ってきたのです。ピリピ教会にはユウオディアとシンティケの仲違いという問題がありましたが、共にそのような生き方を全うしよう、何も思い煩わないで、神から平安をいただいていこう、また具体的な行いや日々の生活も守っていただこうと、パウロはこの二人だけでなく教会全体、一人ひとりに向けて語りかけてきたのです。
<10節>
さて、10節です。「私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。」ピリピの教会はこれまで何度もパウロを助けてきました。第二次宣教旅行の際、パウロはピリピを出発した後テサロニケに向かっていますが、ピリピの教会はそのパウロのために献金を送るなどの支援をしていたのです。使徒の働きで言えば16章から17章にかけてのこととなります。今日の箇所では15節や16節にある通りですね。10節に「機会がなかった」とあるのは、パウロが今ローマで軟禁状態にあることを彼らは最近になって知ったということだと思われます。それまで、パウロが今どこにいるのか、消息が不明だったのですね。しかし、今どうやらパウロはローマにいるらしいということが分かった。それで、パウロのもとにエパフロディトを遣わしました。彼らは問題の解決のためにパウロの助言を求めたのと同時に、パウロに支援物資や献金をも届けたのでしょう。パウロはそのことを感謝しています。
しかし、このような書き方だと、何だかお金を要求しているような、いやらしい表現になりかねません。そこでパウロは11節以降を明記するのです。11節〜12節「 11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。 12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」
聖書は富とかお金を持つこと自体を否定はしていません。ただ、お金の奴隷にならないようにと戒めています。神に仕えるのか、富に仕えるのか、二人の主人に仕えることは出来ないのです(ルカ16:13)。神に仕えつつ、お金をきちんと管理することが大切ですね。イエスさまはタラントのたとえでお金とか経済のことを引き合いに出していますし(マタイ25:14〜30)、箴言には次のようなみことばがあります。「7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。 8 むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。 9 私が満腹してあなたを否み、『主とはだれだ』と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」(箴言30:7〜9)つまり、貧しさそのもの、裕福さそのものが問題なのではなくて、どのような状況にあっても神を第一とすることが問われています。パウロもまた、どのような状況にあっても満足することを学んだと言っているのです。
その流れで有名な13節です。「13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」私たちはお金に限らず、何かを持ちすぎるとその奴隷になってしまいますし、逆に持たなすぎると盗みをしてしまうという極端なものなのです。バランスの良い生き方というのは私たちには難しいというか、無理に思えます。しかし、私たちは、私たちを強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。どんな境遇にも対処して、地の塩として、世の光として生きていくことができるのです。
13節は、ここだけが有名になってしまっているような気がしますが、自分はやりたいことは何でもできるんだ、自分に出来ないことはないんだというような万能感の根拠にはならないですね。聖書は文脈が大事です。このみことばは、ここだけ切り取って自己実現の根拠にできるような箇所ではありません。ただ、文脈が大事といった時に、聖書は手紙であって辞書とかマニュアルではないので、他のことが思い浮かぶことはあるし、それは大切にしていいと思います。具体的にはお金とか経済的支援の話がここでされているわけですが、お金の話に限らないで、私たちが何か両極端になってしまうことがあるなら、それを当てはめることは十分できます。私たちはどんな境遇にも対処できる。私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんな境遇にあっても満ち足りることができるのです。13節に「方によって」という表現がありますが、実はここも「エン」という前置詞で、「キリストにあって」とか「主にあって」と同じなんです。キリストによって力を得て何でも出来る無敵な人になるということではなくて、主にあって、キリストにあって、私は強いんだということです。困難な状況はある。あらゆる困難な状況がある。でもその中で、私は主にあって強いんだという宣言です。
<14節〜16節>
14節に「苦難を分け合う」という表現が出てきます。支援をする側、される側の関係というのは、お金を出す側と受け取る側というよりも、苦難を分け合う関係です。
毎年10月16日は世界食料デーと言って、食べるものがなくて困っている人たちへの支援を特に意識しようと国連がキャンペーンをしているのですが、日本国際飢餓対策機構(通称ハンガーゼロ)というクリスチャンの団体が「世界食糧デー礼拝」をしませんかと呼びかけています。私たちはすでに毎年ワールドビジョンなどに献金をしているので、あまり献金先を増やせる状況でもないと思っていたのですが、ある週の礼拝を「世界食料デー礼拝」として、その日の献金はそのまま世界食料デーのためにささげるというのはいかがでしょうか。日付は要検討ですけれども、ハンガーゼロの方のメッセージ動画を用いて礼拝をすることができます。世界に目を向けることというのは、機会がないとなかなか難しいことだと思いますが、私たち食料を持つ者が持たない方々を支援するということではなく、共に苦難を分け合うことの具体的な実践という意味でも、そのような礼拝の日を設けたいと思います。このことについてはまた相談させてください。
<17節〜20節>
17節「私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。」これは面白い表現だと思います。ピリピの人たちがパウロを支援すると、その実は、その実りは、ピリピの人たちの霊的な口座に加えられていくというのです。主が再臨された時に、私たちが主から言われることとして、「あなたがたが最も小さい者にしてあげたことは、わたしにしてくれたことなのだ。」というものがありますが(マタイ25:40)、弱い人を助けることはイエスさまをお助けすることです。また今日の箇所からも分かるように、そのことによって生まれた成果、実りは、助けた側に返ってくる。つまり、神さまが覚えていてくださり、そのことゆえの報いを与えてくださるというのです。例えば、私たちが世界食料デーのために献金をし、そのお金で得た食料で生きることが出来た子どもがいたとします。その子が成長して成し遂げたことのために、私たちが捧げた献金は神さまが覚えていてくださるということですね。これはあくまでたとえですが、その子が何か立派なことをしたかどうかは関係ないですね。ニュースになるような偉業だったとしても、誰にも知られずに身の回りの人に親切にするというような隠れたことだったとしても、事の大小にかかわらず、私たちが捧げたものの実は神さまが見ておられ、喜んでおられ、そして私たちの霊的な口座にはその報い、その実が残るというのです。
18節「私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」香りというのは、神殿で捧げられるささげ物の香りです。神殿では祈りの時に香が焚かれましたが、その香りは天に上っていく祈りそのものをあらわしていました。また、神さまは全焼のいけにえが捧げられた時にその香りをかがれたというような表現もあります(創世記8:20〜21)。ピリピの人たちからのパウロへの献金は、ささげ物は、パウロへのカンパではなく神へのささげ物なのだということです。これは私たちの礼拝献金にも同じことが言えます。献金のたびにいつも祈ることですけれども、献金とは神さまへのささげ物です。これをもって私たち自身をお捧げするわけです。そして、その具体的な使い道として、この会場の使用料であったり、関西集会の活動のために用いられていきます。会費としてそれらを集めるのではなく、献金として神に捧げるのです。ピリピの人たちによるパウロへの献金も同様でした。それはまず神へのささげ物です。その具体的な使い方として、パウロの生活が支えられていきました。私たちも、神さまに献金としてお捧げし、それを神さまの御用のために用いていただく、用いさせていただくという意識を大切にしていきましょう。会計の奉仕をしてくださっている方、してきてくださった方、また、礼拝後の片付けの時に献金を数えてくださる方、何よりもこれを捧げるお一人お一人に、神さまの祝福が豊かにありますように。
19節「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」先ほど、パウロは貧しさの中にある秘訣も知っていると書いていましたが、この19節が一番基本的なこととして底にあって、その上にあのような信頼が積み重なっているのですね。神さまは「キリスト・イエスにある豊かさ」をお持ちです。エペソ1章18節にこうあります。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、(知ることができますように。)」神さまは栄光の富をお持ちです。そして、必要に応じて私たちを助けてくださる。養い、満たしてくださいます。詩篇23篇1節にありますよね、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」神さまが私たちを養ってくださる。これも「主にある喜び」に繋がりますね。あらゆる状況の中にあっても、普通の感情としては喜べないような状況にあっても、私たちは「主にあって喜ぶ」ことが出来ます。この方に、20節「私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」アーメンとはそのとおりです、真実ですということです。本当にそのまま、アーメンですね。
<21節〜23節>
そして、ピリピ書の結びのことばとなります。21節〜23節「 21 キリスト・イエスにある聖徒の一人ひとりに、よろしく伝えてください。私と一緒にいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。 22 すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。 23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」
パウロは一人ひとりにと言います。誰一人漏れることはない。キリストのからだにあって、不要な存在などないのです。「私と一緒にいる兄弟たち」というのは、ルカやテモテ、またアキラとプリスキラのように、今ローマでパウロと一緒にいる兄弟姉妹たちですね。教会同士の交わりです。22節にある「カエサルの家」というのはローマ皇帝に属する人々ということです。カエサルとは皇帝のことをこう呼びました。つまり、ローマの軍人たちということですね。パウロの話を聞いて、そういった人たちが救われるようになっていたのです(1:12〜13)。ピリピの人たちは植民都市の住民として、ローマ人としての自覚がありましたので、ローマから届いたこの手紙に、このような表現があるのを見て嬉しく思ったでしょうし、励まされたことでしょう。特に、ピリピ教会の最初からのメンバーに牢屋の看守がいましたが、彼もローマ兵です(使徒16:24〜34)。ローマ皇帝を神と崇めなければならないローマの軍隊において、唯一まことの神を信じる彼は心細さを感じていたと思いますが、ピリピの教会に届いたこの手紙を読んで喜んだことと思います。ピリピの町には他にも退役軍人がたくさん住んでいましたから、こちらでもカエサルの家に属する人たちが救われてほしいと祈りを新たにしたのではないでしょうか。23節「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」このように祈ってパウロは「喜びの手紙」、いや、「主にある喜びの手紙」を書き終え、筆を置きます。私たちもこれを読んで大いに励まされました。パウロが熱く書き連ねたこれらのことばを書かせた聖霊なる神が、今、私たちにも語りかけておられます。主にあって喜んでいきましょう。主にあって喜ぶ生き方の醍醐味を味わっていきましょう。
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「まことに あなたは私の助けでした。御翼の陰で 私は喜び歌います。」(詩篇63:7)
あらゆる状況の中にあっても、ご自身にある者を強く保ってくださる主イエス・キリストの恵みと
ご自身の栄光の富で私たちを養ってくださる父なる神の愛
そして、私たちの心の目を開いて主にある喜びを与えてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン
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【9/8】
ピリピ人への手紙4章6節〜9節
「共におられる平和の神」
先週の礼拝で6節と7節は扱ったのですが、これは8節9節との繋がりが大事であることに気がつきまして、今日はもう一度6節から読みたいと思います。ここは今年の御言葉として、年初に三浦牧師からメッセージをお聞きした箇所でもあります。
<6節 神との対話>
6節「何も思い煩わないで」とあります。もともとのギリシア語では、「何もいらない」という意味の単語で始まります(英語で言えば”nothing”)。しかし、「すべて」(”everything”)神さまに祈りなさいということです。「何も」と「すべて」が対比されているのです。心配事は「何も」いらない、でも「すべて」神さまに知っていただきなさいという表現です。私たちはいろんなことを悩みますし、思い煩います。でも、それらをすべて神さまに祈るのです。何でも祈っていい。この箇所でパウロが念頭に置いているのは、特にユウオディアとシンティケの仲違いのことだと思いますが、それに限らず「何でも」祈ることができる。「何でも」なのですから。悩んでいること、もやもやしていることは何でもイエスさまに知っていただきなさいということです。そしてそこに、心に願っていることも全部祈る、感謝も忘れないで、という表現がついています。つまりは、すべて神さまにお話ししていきなさいということですね。思い煩いも、感謝も、願いも、洗いざらい神さまに聞いていただくのです。
ユウオディアとシンティケはお互いに受け入れることのできない点を神さまに申し上げたでしょうし、彼女たちの不仲をどうすることもできなかったピリピの教会の人たちも、自分たちにはどうすることもできないそのことを神さまに祈ったことでしょう。祈りは神さまとの対話です。『霊的成熟を目指して』の本で学んだように、神さまは私たちと「ことば」を交わしたいと願っておられます。人が罪を犯して隠れた時には「あなたはどこにいるのか」と問いかけられ、恐れて縮こまっている時にも「あなたは何をしたのか?」と問いかけられた神さまです(創世記3章)。それは責めるためというよりも、本人の心からのことばを聞きたかったからです。それに対して私たちは言い訳のことばしか発することができなかった。しかし、今はイエスさまの十字架のゆえに、私たちは恐れなく大胆に神の前に出ることができます(ヘブル4:16)。神さまとことばの関係、人格的な関係は回復させられて、私たちは何でもこの方に聞いていただくことができるのです。
そして、祈りは対話だと言いましたが、神さまはご自身の御声を聞かせてくださるお方です。それは具体的な聖書箇所の引用というときもあります。ただ、私たちが直面している課題、生活していく上で、生きていく上での課題についての具体的な指示は聖書には書いてありませんから(例えば、これこれに関してはこうしなさいというような指示は聖書には書いていない)、聖書全体を通して示されている神さまの御心を聞き取る、神さまの御心が平安のうちに腑に落ちるということが大切かと思います。神さまの語りかけは劇的な体験を通して示されるケースもあれば、何でもないような日常の中で、静かに神さまの思いが染み渡ってくるような、そんな場合もあります。神さまは私たちの理性や思考を通しても語ってくださる。今まで歩んできた道のり、今まで首都共に歩んできた道のりを振り返り、そこで明らかに示されていたことを思い起こす時、そこに思いを寄せる時に、神さまが豊かに語りかけてくださる。後で話しますが、このことは私の実体験としても証しできます。
祈りは神との対話です。私たちは神さまに何でもお話しし、そして、神さまが語られたことを聞くのです。
<7節>
7節にはこうあります。「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」パウロは神さまが与えてくださる平安を表しきれずに、「すべての理解を超えた」と表現します。どんなに言葉で説明しても説明しきれないような、「あり得ない平安」だというのです。例えば、ピリピ3章8節を振り返ってみると、「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。」と言っていますが、この「すばらしさのゆえに」というのも、「すばらしさの上にすばらしい」とでも訳せるような表現を使っています。どうにかして分かってもらいたいのだけど、どう説明していいのかわからん!というパウロの熱量が伝わってくるようです。使徒の働きやピリピ書をずっと読んできて、パウロがどれほど神さまに導かれ、主と共に歩んできたかを思い返します。パウロはどんな困難の中にあっても神さまから与えられた平安のうちに守られていました。それは、この「すべての理解を超えた神の平安」だったに違いありません。
<祈って与えられた平安のうちに、決断して歩む>
少し証しをさせていただきたいのですが、私は自分の進路に悩んでいた時に、このピリピ書4章6節、7節を思い出して祈りました。「思い煩いを神に聞いていただくならすべての理解を超えた神の平安が与えられる」というのなら、その平安をくださいと言って祈ったんです。学校の先生になりたかった。でも牧師として歩むべきじゃないのかという思いがどうしても消えなかった。自分はどう歩むのか悩んでいたその思い煩いを、神さまに申し上げて祈りました。すると、その日のローズンゲン日々の聖句の箇所は「恵みと平安があなたがたにありますように。」という第一ペテロ1章2節だったんです。平安を求めて祈ったら、「平安があるように」というドンピシャリのみことばがその日のために用意されていました。また同時に、詩篇103篇11節「天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」というみことばも与えられました。その時夏休み中のアルバイトで富士山の山小屋に滞在していたのですが、目の前にはこのみことばの通りの光景が広がっていました。眼下に広がる雲海、それはそれ自体が地上よりはるかに高いはずなのですが、それよりもさらに高く、目の前には天が広がっていました。これを造られた神さまが、私のために御思いを持っておられる。そのことに圧倒されました。これらのみことばは、「牧師になりなさい」とか「いつ、どこどこの神学校に入りなさい」などという具体的な指示ではありません。しかし、神さまが守っていてくださるという平安だけは確かで、その平安のうちに自分で決めていけばいいと思わされ、そのように歩んできました。振り返ってみると、自分のものの考え方から言って東京基督神学校はやはり最善の導きでしたし、その後久遠教会で9年伝道師をさせていただいて、その後関西集会に遣わされてきたこの歩みは、神さまに導かれてきたなと確信を持って言うことができます。完成した歩みではもちろんありません。今もみなさんからいろんなことを教えていただきながら、育てていただいていますし、それも含めて、自分の歩みは導かれてきたし、今も導かれている。今後、自分がどう歩むのか、その具体像はまったく分からないけれど、それでも主は私と共に歩んでくださることは確信しています。
7節に「神の平安は私たちの心と思いを守ってくれる」とあるわけですが、特に「思い」ということばに注目したいのです。これは「考え方」とも訳せます。神さまは私たちの考え方も守っていてくださるということです。先ほど、神さまは私たちの考え方を通しても語ってくださると言いましたが、私たちのものの考え方が、神さまの御思いと大きく逸れていかないように守ってくださり、そこにご自身の導きをあらわしてくださるということだと思います。神さまは特に具体的な課題に関しては、ああしろこうしろという答え方はなさらなくて、私たちに任せてくださっていますから、私たちは祈りつつ考えて選択していけばいいのです。神さまが私たちを愛し、私たちのために大いなる計画を持っておられることだけは確かです。それが具体的に何かというのは、自分の決断で歩むしかないのですが、その選択を、その考え方を、主は守ってくださいます。
<8節>
さて、8節、9節です。「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。 9 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」
先ほど、具体的なことに関しては自分で考えて決めていくしかないという話をしましたが、その秘訣が8節と9節ですね。何が真実か。嘘や偽りがないか。尊ばれるべきことは何か。正しいことは何か、清いことは何か、愛すべきこと、人々の評判の良いこと、徳とされ賞賛されることは何か、そういったことを念頭に考えていけばいいのです。ここで「真実なこと、正しいこと」が何かを考えなさいというのはわかりますが、「評判の良さや人からの賞賛」という表現には注意が必要です。日本人は特に「世間体」を気にするのですが、それを基準に考えろと言っているのではありません。これは人を愛し、人に仕え、証しをしていきなさい、そのために周囲との関係を大切にしなさいということです。証しだからと言って、周りの意見も聞かずに強引に物事を進めていくような考え方には注意が必要です。
パウロは9節で、「あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。」と続けます。パウロはすでに3章17節で「私に倣う者となってください。」と書いています。それと同じで、つまりこれは「共にそのように歩もう」という招きなんですね。何でも神さまに祈って、表現しようのない平安が与えられて、その中で決断していく生き方を、共に歩んでいきましょうという招きです。繰り返しますが、この招きは、今これを読む私たちにも向けられています。
私たちがクリスチャンになって学んだことは何ですか。受けたことは何ですか。聞いたみことば、目の当たりにしたこと、その恵みの数々を思い出しましょう。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあるように(詩篇103:2)、主の恵みを数えてください。そして、それを学んだのなら、それを受けたのなら、聞き、そして見たのなら、そのように行うんです。そのように生きるんです。これは、行い至上主義ではありません。救われるためには行いが必要だとか、クリスチャンらしくなるためには行いが必要だということじゃない。そんなことは聖書は言っていない。私たちはただ恵みによって、イエスさまの十字架を通して救われたんじゃないですか。そして、聖霊が私たちを主と同じ姿に変え続けてくださる、成長させてくださるのではないですか。だからこそ、私たちは、共に、このような事柄を心に留めて、神に祈りつつ、地に足をつけて歩んでいこうではありませんかという招きなのです。
「そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」これは、そのように歩むのでなければ主は共にいてくださらないとか、そのような歩み方ができない人とは主は共にいてくださらないということではありません。この「そうすれば」という箇所に対応するギリシア語はカイと言って、普通の「and」にあたります。こうすれば共にいてくださるという「原因と結果」というよりも、ただ単に「そして」なんです。「そして」主は共にいてくださる、私たちはそのことに気がつく、ということですね。ただ、私たちは気づけないことが多い。ヤコブもそうだったですよね。彼は命を狙われることになって、決断して、逃げました。その最中に、荒野で石を枕に眠りについたところで夢を見て、そこで彼は気がつくんです。神が共にいてくださっているのに、私はそれに気がつかなかった、と(創世記28:16)。私たちの神は、「インマヌエル」と呼ばれるお方です。神は我らと共におられるという意味です。神に何でも祈りつつ、平安をいただきつつ、一つ一つ、周りの人たちと相談して決断しながら歩んでいきましょう。気がつけば、神の臨在があなたを、また周りの人々を包んでいることでしょう。「平和の神があなたがたとともにいてくださる。」とあります。平和と平安は同じことばです。パウロはヘブル語のシャロームを意識しているはずです。すべての理解を超えた神のシャロームが、私たちの心と思いを守ってくださる。それだけでなく、私たちの実際の歩みも、行いも、考え方も導いてくださる。神の平和が導いてくれる。このことをいつも味わいながら、体験させられながら、このみことばの通りだと感動しながら、これからも共に歩んでまいりましょう。
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キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(コロサイ3:15)
ただ恵みによって私たちを救ってくださった、主イエス・キリストのその恵みと
私たちの祈りを聞き、平安・平和で満たしてくださる父なる神の愛
そして、私たちの行い、生活を守り導いてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン
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【9/1】
ピリピ人への手紙4章2節〜7節
「主にある喜びの一致」
ピリピ人への手紙も終盤に差し掛かってきました。私に倣ってくださいと、つまり共にこの信仰の旅路を走っていこうと、パウロはピリピの教会の人たちを招いています。これを読む私たちもまた、その招きを受けている。3章はそんな内容でした。
<2節〜3節>
さて、4章2節からですけれども、パウロは具体的な人名を出してさらに踏み込みます。「ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。」耳馴染みのないカタカナの名前ですが、女性の名前のようですね。3節にも「彼女たち」とあります。ピリピ教会のメンバーだったユウオディア、そしてシンティケというこの二人が、どうやら一致できずにいた。お互いに反目しあっていたようです。パウロはこの二人に「主にあって同じ思いに」なるようにと伝えているのです。彼女たちの状況が、教会全体にとっても良くないものだったからです。
繰り返しになりますが、「同じ思いを持つ」ことは、何も全く同じ考え方をもって、異論や反論をしないということではありません。違う人同士がまったく同じになることなど無理に決まっていますし、そうなるべきでもありません。それぞれは独自の、ユニークな存在だからです。人が違えば考え方は違いますし、感じ方も違います。キリストのからだと呼ばれる教会も同じです。身体には様々な部分があって、それぞれに役割や感じ方は違います。いろんな考え方の人がいていいし、それを無理矢理に一つに合わせようとすることは、パウロが意図していることではありません。
パウロはこれまでも「同じ思いになってください」と書いてきましたが、それは「キリストにあって」ということです(2:1-2)。救いの根拠として、キリストの十字架以外に何かを付け足そうとするのではなく、十字架を信じて救われたんだということ、十字架と復活を信じて救われたんだということ、その思いを一つにしなさい。その信仰で一つになりなさいということです。性格や考え方はそれぞれ違っていい。むしろ違った方がいい。でも、私たちは自分の行いではなくイエスさまの十字架によって救われたんだということ、そこにおいては一つでありなさいということですね。パウロは一人ひとりに向けて「私に倣ってください、共に走ろう、一緒に走り抜こう。」と声をかけているわけですが(3:14,17)、それはそれぞれがバラバラに走るのではなく、キリストのからだとしての多様性、豊かさを表しながらも一つであるという、一つのからだであるという、そのことを表していきなさいということです。性格的にそりが合わないとか、考え方が違うということはあります。それでも、私もあの人も共に、それぞれイエスさまから愛されている大切な一人ひとりなんだ。そこに立つ。それが「主にあって一致する」ということです。
そして、そのことにはまわりの協力、助けも必要です。3節「そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。」と。パウロから「真の協力者」と呼ばれている人物がいます。これは「真の協力者」という意味のスズゴスという人名だった可能性もなくはないのですが、むしろパウロはユウオディアとシンティケを助けてあげるようにと、ピリピの教会の人たちみなに呼びかけていると考えられます。キリストのからだとは、ある部分だけが問題になるのではなく、からだ全体で助け合うものだからです。人の身体だってそうですよね。片手を痛めてしまったら、脳で痛みを感じ、そのことと関連して顔を歪め、もう片方の手で庇ったり、ケガの処置ができる場所まで足で移動するわけです。全部つながっているからですよね。
キリストのからだをよく言い表しているエペソ書4章16節にこうあります。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」あらゆる節々、あらゆる関節が支えとなってつなぎ合わされ、からだ全体で協力していく中で、愛のうちに建て上げられていく。それが教会だというんですね。問題はユウオディアとシンティケだけのことじゃない。パウロは、ピリピの教会全体に向けて、キリストのからだとして成長するようにと励まし、書き送っているのです。そのためには「真の協力者」と呼ばれるこの人の協力が必要でした。名前の明かされないこの人はあなたのことかもしれません。私たちは誰かのために、からだの各器官をつなぐ関節になることができます。そのことも聖霊が助けて、導いてくださるでしょう。
3節後半「この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。」いのちの書に名が記されている、というのは救われた人の名前が天の書物に記されているということです(ルカ10:20)。でも、それはピリピの教会の人全てがそうなわけですから、ここではその中でも、特にすでに天に召されている人というニュアンスだと思います。教会は時間の流れの中に生かされている存在なので、私たちにはすでに召された信仰の先輩方がおられます。このクレメンスという人は、ピリピ教会にとって大切な信仰の先輩だった。長老格の人だったと思われます。パウロは彼のことを思い出しつつ、ユウオディアもシンティケも、クレメンスやまたそのほかの同労者たちと共に、福音のために戦ってきた大切な仲間だと言っているんですね。一致しなさいという言い方ではない。四の五の言わずに一致しろなどという言い方でもない。キリストの福音のために共に労してきた仲間、主にある兄弟姉妹として心配し、気にかけているんですね。彼らは、パウロがピリピ教会を開拓した当初からの、古くからの仲間であり友人だったのだと思います。
キリストのからだというのは、広く諸教会を含むということをお話ししたと思いますが、それは地域だけなく、時代も超えます。先に召された信仰の先輩方とも、教会は、キリストのからだは一つとされているのです。私たちの教会にもクレメンスがいますね。先に召された信仰の先輩方のことを偲ぶ召天者記念礼拝が11月にはもたれますが、時代も超えた教会の広がり、そんなことも意識したいと思います。
<4節 主にあって喜ぶ>
4節「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」大事なことは二回言われます。主にあって喜びなさい、と。パウロはユウオディアとシンティケに、いや、ピリピの教会に向けて「主にある一致」をするようにと呼びかけてきたわけですが、その秘訣は「主にある喜び」なのでした。
「いつも喜んでいなさい」と言いますが、これは感情を押し殺してでもいつも喜んでいなさいということでは決してありません。大切なのは「主にあって」です。振り返ると、3章1節でも彼は「主にあって喜びなさい」と言っていました。「主にあって」喜ぶ、つまり主がしてくださったことを思い起こし、そのことのゆえに喜びなさいということです。目の前でいいことがあったから喜ぶとか、嬉しいことがあったから喜ぶというのは、それはそれで喜んでいればいいのです。嬉しいんですから。泣きたいことがあったなら泣けばいい、悲しいことがあれば悲しむべきです。悲しいんですから。でもそれとは別に、主にあって喜ぶことを大切にしていきましょう。主がしてくださったことを思い起こしていきましょう。ピリピ書を読みながら繰り返し確認してきたように、イエスさまが私たちのために十字架にかかって死なれたこと、それほどにへりくだられたこと、よみがえられたイエスさまと私たちは共に歩めること、聖霊が私たちをつくりかえ、主イエスに似た者としてくださるということ。そして世の光として、私たちの生き方を用いてくださるということ。それらのことをいつも思い起こして、喜んでいようではありませんか。
実はピリピ書は「喜びの手紙」とも呼ばれます。この短い書物に、喜ぶという単語がたくさんでてくるからです。日本語だと17回ですね。私は喜んでいます、これからも喜ぶでしょう(1:18)、私は喜びます、共に喜んでください(2:18)といった具合です。思い出してください、パウロは獄中にいるんです。ある程度の自由があったとはいえ、四六時中番兵に見張られている状態でした。そんな中で彼は「喜びの手紙」を書いたんです。目の前の状況は決していいものではない。それでも彼は「喜び、喜び」と言う。それは、パウロが「主にあって」喜んでいたからでした。いつも、主がしてくださったことを思い起こしていたから。だから、状況的には厳しくても、彼の心には喜びがあったのです。この主にある喜びこそが、主にある一致の秘訣なのでした。
<5節 寛容な心>
5節「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。」先ほどのユウオディアとシンティケの話はまだ続いています。主にあって一致しなさい。主にある喜びをもって一致しなさい。寛容な心、広い心を示し合いなさい、そして、そのことが広く知られるようにしなさい。仲違いをしてしまうのは人の常ですが、教会は違う。イエス・キリストに従う人たちは違う。彼らも仲違いはするけれども、寛容を示し合う。寛容な心でお互いを同じからだだと思っているようだ。キリストにある喜びで一致しているからだ。これは世の中に対して、何よりも大きな証しになるのです。
「寛容」とは御霊の実です(ガラテヤ5:22)。イエスさまに似た者へとつくりかえられていく、霊的成熟の指針の一つです。ピリピ書において、パウロはイエスさまに倣うように、成長していくようにと励ましてきました。主にある成長は、確かに始まっています。その実を、今与えられている分でいいから、それを用いていきなさいということですね。寛容な心でお互いに受け入れ合いなさい。今与えられているその御霊の実を用いていきなさい、ということです。
「主は近いのです。」とも言われます。主はやがて戻って来られる。その日は近い。だから、ますます主にあって成長させられていきなさい。救いの達成に努めなさい。走り続けなさいということですね。また、「近い」には時間的な意味だけでなく、物理的な意味もあるでしょう。主が共にいてくださる。近くにいてくださる。むしろ、内にいてくださる。そして、寛容の実を、御霊の実を実らせてくださるのだから大丈夫なのです。
<6節〜7節>
そして、有名な6節に入ります。「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」お気づきのように、このことばは文脈上は主にある一致のために祈りなさい、何も心配しないで、主にある一致をしたいというあなたがたの願い事を神に知っていただきなさいということですね。ことばというのは、いろいろなニュアンスを持ちえるものだと思いますので、文脈以外のことであっても神さまは語りかけてくださることは踏まえつつ、今日は文脈を大切に見ていきたいと思います。
私たちには、主にある一致を回復させなければならない人がいるでしょうか。もしくは、そのことを手助けしてあげられるような、そういうことがあるでしょうか。自分に何ができるという恐れ、今さらという思い、わかります。よくわかります。でも、その思い煩いを捨てて、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、その願いを神さまに聞いていただきましょう。そうすれば、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」私たちが祈る時、神さまに向けて申し上げる時、すべての理解を超えた、人知をはるか超えた、私たちには表現しきれない神の平安が与えられるというのです。
平安、シャロームです。すべてが完全に満ち足りている状態。この神のシャロームが、私たちの心と思いを守ってくれる。そう、守ってくれるんです。今さら一致できないという恐れ、自分に何ができるという恐れから、主が私たちを守ってくださる。そして、神のシャロームは絵空事ではありません。具体的な、実際的なことです。必ず、主のみわざを見せてくださいます。
私たちが一致しなければならない人は誰でしょう。主にある一致が求められているのは誰でしょう。もしくは、そのことを手助けしてあげられるような状況があるでしょうか。また、人のことだけでなく、自分自身の中に、バラバラだったいろんなものが一致させられていく、統合させられていく必要性というものもあるかもしれませんね。自分の中では意味がないと思っていたあのこと、このことが、パズルのピースがはまるように一致していく。神さまが意図しておられたことがわかってくる。そんなこともまた「主にある一致」としてあるかもしれない。
何にせよ、神さまは私たちのことを「真の協力者」と見ていてくださるお方です。パウロがピリピの教会の人々をそう呼んで書いたように、今、聖霊なる神がそのことばをもって私たちに呼びかけておられます。「そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。」神さまがこうやって呼びかけて来られることの意味を知ってください。こうまでして私たちのことを用いてくださるというのです。何も思い煩わないで、心配しないで、主にある一致、主にある喜びの一致を与えてくださる方にお委ねし、その導きに従っていきましょう。
ーーー
「いつも喜んでいなさい。 17 絶えず祈りなさい。 18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」Ⅰテサロニケ5:16-18
私たちに主にある一致を与えてくださる主イエス・キリストの恵みと
私たちを真の協力者と見ていてくださる父なる神の愛
そして、思い煩う心に平安を与えてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン
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【8/25】
ピリピ人への手紙3章17節〜4章1節
「天国人として」
ピリピ人への手紙を読み進めています。前回は、信仰の旅路を走り続けることの励ましでした。パウロはそのままピリピの教会の人たちを励まし続けます。その励ましは私たちにも向けられています。さっそく見ていきましょう。
<17節 倣う>
17節「兄弟たち。私に倣う者となってください。」私たちは、なかなかこういう表現をしないと思います。私なんか見ないでください。私なんか良い手本ではありません。私じゃなくてイエスさまを見てください。そう言うのではないでしょうか。自分を誇らずにイエスさまを誇るという意味ではよいことでしょう。しかし、パウロは「私に倣ってください。」と言うのです。これはどういうことでしょうか。別の箇所では、自分は罪人のかしらであるとも言っていますので(Ⅰテモテ1:15)、自分を誇っての表現ではないでしょう。そもそも、ここまでパウロは、救いの根拠はキリストの十字架だけであると繰り返してきたわけです。自分を誇る、自分の行いを誇ってこのように言っているわけではありません。パウロは自分のあり方、信仰の姿勢を倣ってくれと言っているわけです。パウロの信仰の姿勢、それは、ここまで彼が書いてきた通りです。
主にあって喜ぶこと。自分が生きるにしても死ぬにしても、キリストがあがめられることを願いつつ、キリストの福音にふさわしく生活すること。キリストの十字架だけを誇ること。キリストが十字架にかかるほどにへりくだられたように、私たちもへりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思うこと。救われた者を成長させてくださる聖霊のみわざに感謝し、ゆだね、自らを世の光として用いていただくこと。そのことを諦めないで、走り続けるという姿勢についてパウロは語ってきました。そのように、あなたがたも生きてくださいということですね。
つまり、この「自分に倣ってくれ」という表現は、自分を誇っているのではなく、共にイエスさまを目指して走り続けようという励ましであり、招きなのです。そして、その励ましと招きは、時を超えて今の私たちにも届いています。聖書が私たちを励まし、共に走ろうと招いているんです。その招きに応えたい。またパウロは、「あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」とも書いています。イエスさまを目指して走り続けているのはピリピの教会だけではありません。キリストのからだとは各地域教会だけのことではない。イエスさまを救い主として信じる人々・教会のすべてを幅広く含みます。地域も、時代も超えて、一つのからだとされている。それがキリストのからだである教会です。日本にはクリスチャンの数が少ないですし、良くも悪くも周りの空気を読むことを良しとする社会ですから、私たちは縮こまって、マイノリティコンプレックスを持ちやすいですよね。ですから、なおのこと自分の教会だけでなく、違う教会の兄弟姉妹とも交流を持つことで視野が広がりますし、励まされます。今週の土曜日に、北摂合同クワイアの最初の顔合わせがありますが、コンサートを開くということ以上に、私としてはその練習段階も含めて、違う教会の兄弟姉妹と共に賛美ができること、共に神さまをほめたたえることができることに期待しています。このクワイア(合唱団)はまだメンバーを募集していますし、未信者の方にも参加していただきたいと思っています。コンサートは12月1日(日)の午後に開かれます。ぜひお祈りください。
<18節 十字架の敵>
そして18節ですけれども、パウロは招きの理由を続けます。「多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるから」というのです。十字架の敵というのは、これまで彼が書いてきたように、救いの根拠として十字架以外のものを付け加えることです。そして、十字架ほどのイエスさまの愛を受けたのに、イエスさまを目指して成長することをあきらめたり、世の光として用いていただくことをまったく意識しないでいることですね。これらが、「十字架の敵として歩む」ということです。一番恐いのは、この「十字架の敵として歩む」ということが、クリスチャンの中で起こるということです。これは十字架の救いを知らない人に向けて書かれた手紙ではない。イエスさまの十字架によって救われたのに、十字架の敵として歩んでしまうということをピリピの人たちに注意喚起しているわけですよね。あなたがたはそうではなく、私に倣ってください、と。十字架を誇りとし、救われた喜びに生き、そして聖霊として今も共にいてくださるイエスさまの喜ぶ生き方をしたいと願い続ける。イエスさまを目指して成長し続ける、そのように生きることをあきらめない。そういう生き方をしてくださいとパウロは言っているのですね。それも、涙ながらに言っているのです。
私たちはイエスさまが十字架にかかるほどに愛されています。神さまから最高傑作品として見られている。大切に、大切にされているんです。キリストの十字架を忘れてはなりません。そして、キリストに似た者へと成長することへの聖なる憧れを捨ててはなりません。ひたむきに、主を見上げながら歩もう、走ろうではありませんか。十字架の敵として歩んではなりません。19節にあるように、それは自分の欲望を神とする生き方です。「恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える」生き方です。当時、割礼派の教えのように、本来の福音ではない教えが出回っていました。極端に言えば、「救われたんだから何をしたって平気。罪を犯したって関係ない。霊が救われているのだから、この体が滅びても関係ない。」とする立場です。グノーシス主義と言います。彼らは自分の霊と体を分けて考え、霊において救われているのだから、体においては何をしたって構わないと教えていました。でも、聖書が語るのはそういうことじゃない。霊と体を分けて考えて、霊はまさっていて体は劣っているという考え方は聖書の教えではありません。どちらも大切なんです。私たちの体は、神さまがつくってくださった尊いものです。イエスさまもわざわざ人の体をもってお生まれになりました。私たちはこの体をもって、実際の生き方として、実際の生活としてイエスさまを目指して成長していくんです。霊だけが問題なんじゃない。地に足をつけているこの体、この具体的な生活が大切なんです。霊と体を分けない。霊も体も全てが、私という存在の全てが救われたんです。
しかし、霊と体を分ける考え方というのは、簡単に私たちの中に生まれてしまうんです。「救われてるんだから、何をしたって構わない、罪を犯したって悔い改める必要なんかない」という思いは私たちの内にもあるんですよね。悔い改めることってすごくエネルギーを使います。勇気が要る。出来るならしたくない。でもそこで自分にとって楽な道、自分の罪の道を選び続けるなら、それは栄光ではなく恥なんだとパウロは力説しています。それは結局この地上のことだけ考えていることであり、滅びの道なんだと指摘しているのです。
<20節 私たちの国籍は天に>
20節「しかし、私たちの国籍は天にある」とパウロは続けます。私たちは地上の生き方、普段の生活を大切にします。救われた者だから何をしてもいいのではなくて、救われた者だからこそ、この地上での生活を大切にします。イエスさまの十字架を感謝し、普段の生活の中で、イエスさまに喜ばれることを選び取っていきます。それは、私たちの国籍が天にあるからです。私たちは天国人だからです。だからこそ、普段の生活を大切にするんです。
ピリピの人たちにとって「国籍」という考え方はわかりやすいものでした。ピリピの町はローマの植民都市だったことはすでにお話ししました。ローマから離れた場所にあっても、いわばローマのモデルシティだったわけです。ピリピ市民ということは、つまりローマ市民ということなのでした。それと同じように、私たちは天国人なのです。地上に生きているけれども、同時に天国人。むしろ、天国人だからこそ、この地上で生きることが大事なんです。普段の生活の中でイエスさまと共に歩むことが大切なんです。ここで、この場所で、日常の生活の只中で。十字架を仰ぎ、主にあって喜びながら生きていきなさい、ともに生きていきましょうとパウロは励まし、招いているわけです。
振り返ると1章27節に、「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」とありましたが、そこには「市民としての生活をする」というニュアンスがありました。つまり、キリストの福音にふさわしく生活する、そういう市民であれ、そういうピリピ市民であれということです。今日の3章20節も同じです。天国に国籍がある天国人として、今、ここで生きていくんです。私たちもそうです。普段の生活の中で、イエスさまの十字架を誇りとし、主にあって喜びながら、主にある成長を祈り求めながら生きていく。ピリピの人たちにとっての国籍の話のように、私たちにはそれぞれに具体的な立場があります。天国人としての、家庭人でありなさい。そういう働き人でありなさい。そういう児童・生徒でありなさい、ということです。具体的な普段の役割、普段の生活に、天国人として取り組みなさいということですね。
20節後半「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」イエスさまがやがて戻って来られる再臨を待ち望むことは、この地上での生き方、普段の生活はどうでもいいとすることではありません。「どうせ最後にイエスさまが戻って来られるなら、その時だけちゃんとしていればいい。今はどうでもいい。」んじゃないんです。主を待ち望むからこそ、今、実際のこの生活を大切にします。イエスさまの十字架に感謝し、イエスさまを目指して走り続けるのです。主の再臨の日、それは大いなる希望の日。喜びの日です。終わりの日に私たちは神の前で自分の行いを申し開きしなければなりません(ヘブル4:13)。しかし、「私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」(Ⅰヨハネ2:1)イエスさまが私たちのために弁護してくださるのです。だから、再臨の日は恐れの日ではなく希望の日です。
その日、私たちの聖化、私たちの霊的成熟も完成するからです。21節「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」「私たちの卑しいからだ」とありますが、私たちは神さまから造られた最高傑作品です。そのことを忘れてはなりません。しかし同時に、神さまの喜ばれることができない、神さまを悲しませることしかできない、罪の現実があります。その意味で「卑しい」からだです。しかし、私たちの主は、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に私たちを変えてくださる(Ⅱコリント3:18)。その日、私たちの聖化、霊的成熟は完成するのです。この約束があるから、13節にあったように私たちは「ひたむきに」走り続けます。この信仰の旅路を、信仰の人生を走り続けることができます。また2章の12節にあったように、「自分の救いを達成するように努め」ます。つまり、つくりかえてくださる聖霊のみわざにおゆだねしていく、従っていくのです。この地上で。この地域社会で。私たちの国籍は天にあるのだからです。
<4章1節>
「ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。」堅く立っていてください。フラフラしていないで、しっかりと立っていてくださいということです。パウロがどれほどの思いをもってピリピの人たちに語りかけているか。あなたがたは私の喜びであり、冠だと言うのです。パウロにこれを書かせた聖霊が、今、私たちにもこのことばを語りかけておられます。主が私たちのことを喜びであり、冠だと言ってくださる。この方の思いに精一杯応えたいですよね。イエスさまの思いに応えられるか応えられないかと言ったら、応えられるわけはないんですよ。でも、出来るか出来ないかじゃない。やるかやらないか。信頼するか、しないかという話です。何度失敗しても良い。何度でも心から悔い改め、この方の方に向き直って、向きを変え直して、今日も歩んでいきましょう。走り続けましょう。主が共にいてくださいます。主が共に走ってくださいます。
ーーー
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。 2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。(ヘブル12:1-2)
私たちのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリストの恵みと、
私たちの霊も体も、この存在を丸ごと救ってくださった父なる神の愛、
そして、天に国籍のある者としてここで私たちを用いてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【8/18】
ピリピ人への手紙3章1節〜16節
「走り続ける」
ピリピ書の三章に入ります。さっそく見ていきましょう。
<1節〜3節 キリストにあって心に割礼を受けた喜び>
パウロはこれまでさまざまなことを書いてきたわけですが、ここへ来て改めて、「主にあって喜ぶように」と伝えます。これは「主にあって」という部分が大切です。これまでも、「キリストにあって(in Christ)」という表現を繰り返してきましたが、これも同じです。キリストにあって、主にあって喜びなさいというのです。
つまり、主がしてくださったことを思い起こし、そのことのゆえに喜びなさいということです。イエスさまが私たちのために十字架にかかって死なれたこと、それほどにへりくだられたこと、よみがえられたイエスさまと私たちは共に歩めること、聖霊が私たちをつくりかえ、主イエスに似た者としてくださるということ。そして世の光として、私たちの生き方を用いてくださるということ。それらのことを思い起こして、それらのことを踏まえて、喜んでいなさいということですね。
それから、こう続けます。「私は、また同じことをいくつか書きますが、これは私にとって面倒なことではなく、あなたがたの安全のためにもなります。」それは2節にあるように、割礼派の人たちについての警告でした。「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。」かなり激しい口調で警告しています。パウロは1章28節で「(福音への)反対者」について言及していました。また、この手紙に以外にも、パウロはこれまでの間にピリピの人たちに何通か手紙を送っていた可能性もあり、そこでも繰り返してきたことだったということかもしれません。
パウロが繰り返している大切なこと、それは「救いはイエスさまの十字架と復活を信じることのみによる」ということです。これにプラスアルファをしてはなりません。割礼を受けてユダヤ人のようにならなければ救われない、という割礼派の教えとパウロはいつも戦ってきました。使徒の働きで見てきたように、一部のユダヤ人クリスチャンの中には、救われるためには割礼を受けなければならない、キリストの十字架を信じるだけではなく、ユダヤ人のようにならなければならないと主張する人たちがいたのです。ユダヤの人は旧約の時代から守ってきた割礼を、民族の文化として守っていけばいいのです。しかし、ユダヤ人であったとしても、割礼を受けたから救われたのではないんです。救いはイエスさまの十字架と復活を信じることのみによります。人の側が何かをしたから救われるのではない。イエスさまがしてくださった十字架の贖い、それだけが救いの理由であり根拠です。救いは人のわざではないのです。でも、それを信じるだけでは物足りず、私たちも何かしたほうがいい、何かしないと救われないと思ってしまう。そんなことはありません。救いのためにと割礼を受ける必要はないし、それを強要してはならないのです。
割礼派などというと、昔そういう人たちもいたというくらいに考えてしまいますが、これは私たちも気をつけなければならないことです。イエスさまの十字架で救われたということに満足できずに、あれもしなければならない、こうならなければならないという余計なものを持ち込んでいないでしょうか。今、「霊的成熟」というテーマで毎月学んでいますけれども、それも救いの条件のように感じてしまうなら本末転倒です。「成長」や「成熟」は目指すべきです。でも、いくら成長していない自分でも、100%救われている。ここが揺らいではなりません。以前もお話しましたが、私たちが美しいものに感動したり、自分の好きなものにのめり込んでいく、それと同じように、神さまは私たちの存在に感動し、のめりこんでいてくださっているんです。その方の十字架以外に、他に何が必要でしょうか。何も必要ないんです。ましてや、かつての割礼派のように、自分たちと同じようにならなければだめだという、自分たちの物差しで隣人を測っていくことなど、あってはならないことですね。神さまは、私たち一人ひとりを、あなたのことも、そしてあの人のことも最高傑作として見ておられる。愛しておられるのだからです。
3節「神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」割礼とは本来何かと言いますと、ユダヤの人たちが、救い主が生まれる民となるという約束、神さまとの契約のしるしとして、生まれたばかりの男の子の包皮の皮を切るわけです。契約の民であるということを体に刻むわけですね。もっとも、肉体に割礼を受けるよりも、心に割礼を受けることの方が大切だと律法の中にすでに書かれています(申命記10:16、30:6。エレミヤ4:4にも)。つまり、肉体に割礼を受けたかどうかではなく、イエスさまを信じることで聖霊を受けて、心に割礼を受けることが大切なんです。心の余計な肉を削ぎ落とされ、キリストに対して心があらわにされ、神の民だというしるしを受けるのです。パウロは「私たちこそ、割礼の者」だと言っています。パウロ自身はユダヤ人として肉体の割礼を受けていますから、肉体の割礼の有無という話ではないんです。それは関係ないんです。ユダヤ人であろうが、そうでなかろうが、イエス・キリストを信じて心に割礼を受けること。心に聖霊をお迎えし、御霊によって神を礼拝していくこと。それが一番大切で、それこそが割礼の本来の意味なんだということですね。
割礼派の人が何と言ってこようと、私たちが救われたのは変わらない。私たちは、誰かのようにならなければ救われないというような、そんな知らせは信じていない。私たちは、このままで、イエスさまを信じる信仰だけで救われた。神の民とされた。むしろ、私たちの方こそ心に割礼を受けたのだ。そのことを喜びなさいということです。そのことを、主にあって喜んでいなさいということです。どうか、お一人お一人の救いの確信が、より深められていきますように。
<4節〜9節 ちりあくたである過去の栄光>
4節から、パウロは自分のことを振り返ります。彼は生まれも育ちもエリートの律法学者でした。ユダヤ人の中のユダヤ人、ヘブル人の中のヘブル人。6節に律法による義については非難されるところがない者でしたとあるとおり、彼こそが割礼派の急先鋒だったとしてもおかしくない、そういう人だったのです。
しかし、7節「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。」と言うのです。そして、8節と9節「8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、 9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」律法を守ることによって神の民とされるのではない、キリストを信じることによって神の民とされるのだ。義とされるのだ。そのことのゆえに、自分がどれほどエリートだったかという過去の栄光はちりあくた、つまりゴミだと言い切っているんですね。それは、パウロ自身が「主にある喜び」に満たされていたからに他なりません。
有名な讃美歌に「キリストには代えられません」という曲があります。「キリストには代えられません。世の宝もまた富も。このお方が私に代わって死んだゆえです。」まさにこのパウロの心境を歌った曲であり、また、私たちの告白でもありますね。
<10節〜11節 死者の中からの復活>
10節、11節「10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、 11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」聖書が語る福音は、イエスさまが十字架にかかって死んでくださったというところで終わるものではありません。イエスさまは復活されました。そして、私たちも復活するのです。
私たちは日々、イエスさまの復活を体験できます。復活とは「起き上がる」という意味のことばです。イエスさまに信頼していく時、私たちの人生は大逆転の連続です。死からいのちへ。闇から光へ。神のことばを信じ、信頼していくことをあきらめないでください。その先で私たちは必ず起き上がることができる。
パウロはそのような信仰の醍醐味を日々味わっていたはずですので、ここで「何とかして達したい」と言っているのは死後の復活、文字通りの復活のことでしょう。聖書によれば、私たちは死んだ後イエスさまの御許に行きます(ピリピ1:23)。いわゆる死後の天国です。でも、そこで終わりじゃない。復活するんだ、肉体を持って、栄光の肉体を持って、そして全く新しくされた新天新地に復活するんだと聖書は語っています。パウロはそこまで見通しながら今を生きている。何とかして達したいとは言っても、自分の努力できることではありません。主がしてくださることです。私たちにできることは、そのことを信じ抜いていくことですね。信じることすら主からの賜物ですから。私たちに信仰を与え、それを守ってくださる主に信頼していくこと、ですね。「何とかして」という表現はどういうことなんだろうと考えたのですが、信仰は肩に力を入れて自分の努力で一生懸命守っていくものでありませんから、ここは意味が少しわからない。ただ、そのように守ってくださる聖霊の働きを邪魔しない、主の語りかけ、みことばの語りかけに耳を塞がない、ということはある意味では戦いですよね、信仰というのは。主と共に、聖霊の助けをいただきながら、この人生を戦い抜いていきたい。そういう意味だと思うと、この「何とかして」という言葉もわかる気がいたします。
<12節〜16節 走り続ける>
今、人生を戦いにたとえましたが、パウロは人生をレースにたとえています。ちょうどオリンピックがあって、アスリートたちが賞をもらうために一生懸命競技する様子を私たちは感動をもって見守ったわけですが、まさに彼らのように、「すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、 14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」以前の翻訳には「ひたむきに前のものに向かって進み」とありました。ひたむきさ。よい言葉ですよね。漢字で書くと「直向き」と書くそうですね。キリストに向かって直向きに。ひたむきに。目標を目指して一身に走る、走り続けるものでありたい。この人生という競技を、走り抜けていくものでありたいです。
「走る」というと、特にスポーツが得意ではないという人には抵抗感があるかもしれません。でも安心してください。聖書には走るという表現がたくさん出てくるのですが、これは「情熱をかたむける」という意味です。「走る」でなくても、誰かにとっては「歌う」かもしれません。「描く」かもしれません。情熱をもって続けることが、信仰の歩みと重ねられているのです。詩篇119篇32節にこのようなみことばがあります。「私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが私の心を広くしてくださるからです。」主が私たちの心を広くしてくださる。今朝のことばで言えば、主にある喜びを与えてくださる。だから私たちは走り続けることができます。神さまに向けて情熱を持ち続けることができるのです。
以前にも話したかもしれませんが、どこかで開かれたマラソンの大会で、途中で転んで怪我をし、走れなくなった選手が、一生懸命、それこそひたむきに、ゴールを目指して歩く映像を見たことがあります。その様子に心を打たれた別の選手が、肩を貸して自分も一緒に歩き、二人で一緒にゴールをしたのです。私たちも走れなくなる時があります。走れなくても、歩いてでもゴールを目指しましょうよ。そしてこの選手に友がいたように、私たちにも信仰の仲間が与えられています。何にも増して、聖霊なる神が私たちと共に歩んでくださいます。
16節にあるように、「私たちは到達したところを基準にして(つまり今日もまた新しくここから)、進むべきです。」今いるここから、今新しく、今日新しく、ここからまた歩き出す。走り出すんです。神さまに向けてひたむきに歩きつづけていく。そのような歩みであれと願います。
賛美の映像を見ていただきたいのですが、「走り続ける」という賛美です。ひたむきに前を向いて走り続けることを励ましてくれます。→こちらから。
主にある喜びをいつも確認しながら、私たちも走り続けていきましょう。主が共にいてくださいます。
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「私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが私の心を広くしてくださるからです。」詩篇119:32
私たちに主にある喜びを与え続けてくださる、主イエス・キリストの恵みと
私たちを最高傑作品として見ていてくださる父なる神の愛
そして、キリストを目指して走り続ける人生の伴走者、聖霊の満たしと励ましが
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン
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【8/11】
ピリピ人への手紙2章19節〜30節
「主にある同労者」
ピリピ書を読み続けています。パウロはここまでピリピの教会の人々にキリストの十字架を語り、それほどにへりくだってくださって父なる神の御心に従われたイエスさまに倣って、神のことばに従順であるようにと励ましてきました。その生き方は世の光として用いられます。私たちも、私たちを世の光として用いてくださるという主のみことばに私たち自身をお捧げし、お委ねしていきましょう。生活の只中で、具体的な場面で、主のみことばを選び取っていきましょう。
<19節>
さて、19節からですが、パウロはテモテについて書き始めます。テモテの名前は1:1にもありました。彼はローマでパウロといっしょにいて、この手紙の共同差出人でもありました。パウロはこれから、テモテをピリピに向けて送り出そうとしており、そのこともあってピリピの人たちに、テモテのことを思い出してほしかったのだと思われます。
テモテは、パウロが第二次宣教旅行でマケドニアに渡る前にリステラで見出し、一緒に宣教旅行に連れて行った青年です。パウロと一緒にピリピも訪れています。一時期別の場所に遣わされたりしたこともありましたが、基本的にはずっとパウロと旅を共にしてきました。第三次宣教旅行の終わりには、異邦人教会の代表の一人として共にエルサレムに渡っており、最終的に彼はパウロと共にローマまで来ているんです。パウロはこのテモテをピリピに送るつもりでした。パウロにとって、自分とともにいてくれるテモテを送り出すことは大きな犠牲です。始終兵隊に見張られている今の状況で、いつもそばにいてくれる人、そしておそらくは身の回りの世話をしてくれる人は貴重な存在だったはずです。それでも、テモテをピリピに送り出そうとしていたのは、19節後半「あなたがたのことを知って、励ましを受けるため」、つまりテモテにピリピの人々の様子を見てきてもらうためでした。それが大事だったのです。自分にとっての快適さが守られるかどうかよりも、自分の安全が守られるかどうかよりも、ピリピの人達の様子を知れることの方がパウロにとっては大切でした。繰り返しになりますが、パウロとピリピの人々の間には深い信頼関係がありましたし、パウロはピリピの人たちの現状を聞いて心配していました。20節にあるように、パウロはピリピの人たちのことを「真実に心配して」いたのです。
教会は「キリストのからだ」と呼ばれます。このようにお互いのことを心配し、気にかけ合い、祈り合う共同体なのです。からだという表現は「いろいろな部分がある、役割がある」ということのたとえでもありますが、「ひとつの部分が苦しめば、みなが苦しむ」ということのたとえでもあります(Ⅰコリント12:26)。「喜ぶ者と喜び、泣く者とともに泣く」のです。(ローマ12:15)私たちも、お互いのために祈り合うことをますます大切にしていきましょう。
<20節 テモテ>
さて、20節からパウロはテモテのことを紹介していきます。まず、テモテは「(パウロと)同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している」と言います。彼はパウロと「同じ心」になっていると。二章の最初の方で、パウロは「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにしてください」と言っていました(2:2)。後々明らかになりますが、ピリピの教会には一致がなかったようです。分裂というほどに大きなものではなかったかもしれませんが、少なくとも二人の人が互いに協力しあえずにいました(4:2)。そのことが教会全体に大きな影響を与えていたのです。そのことをエパフロディトから知らされたパウロは、この手紙の中で一致するように、同じ心を持つようにと繰り返してきました。そしてテモテはそのことのよい手本でした。テモテの生き様は21節〜22節に逆説的に記されています。21節「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めていはいません。しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。」つまり、テモテは自分自身のことよりもイエスさまのことを求める人だった。イエスさまの喜ばれることを喜び、追い求める人だったということです。それが「同じ心を持つ」こと、一致の鍵なんですね。
以前も言いましたが、同じ心を持つとは、異論も反対意見も何もなく、全く同じ考えでなければならないということではありません。それぞれに違う役割があるのですから、視点も違います。考え方も違います。それでも、キリストをかしらとして、一つのからだにされている。鍵はイエスさまなんです。それぞれ、違う人同士だけれど、性格も考え方もそれぞれ違うけれど、みながイエスさまに向けて成長していくなら、みながそれぞれに神さまから造られた最高傑作として、それぞれにイエスさまに向けて成長していくなら、そこには一致が生まれるんですね。
22節後半〜23節「子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。 23 ですから、私のことがどうなるのか分かり次第、すぐに彼を送りたいと望んでいます。」テモテの存在は、パウロにとっては親子のようなもので、囚われのパウロには彼の存在がどれほど喜びだったことでしょう。しかし、パウロはそのテモテをピリピに派遣することにしました。ピリピの人たちの様子を知るためであり、ピリピの人たちを励ますためでした。そして、彼らのことを知って自分も励ましを受けるためでした。自分のことがどうなるか分かり次第、とありますので、今すぐにということではありませんでしたし、今すぐ送り返すのはむしろエパフロディトなのですが、テモテのことも早く送り出したいと願っているわけですね。
24節「私自身も近いうちに行けると、主にあって確信しています。」パウロのローマでの獄中生活は二年間だったことが使徒の働きの最後に記されていましたが、その後、彼は釈放されたと考えられています。彼が最後に書いたと思われる第二テモテまでには、ある程度の期間が想定されるからです。ローマで二年を過ごして、そこで命を落としたわけではなさそうなのです。パウロの獄中書簡や牧会書簡を読み合わせると、クレタ島、小アジア、マケドニア、ニコポリスを回っている様子が浮かび上がってきます。いわば、パウロの第四次宣教旅行です。ピリピはマケドニアにある町ですから、その時にピリピにも行ったことでしょう。24節で書いていたように、パウロ自身、釈放されてからピリピに行ったはずです。
パウロが書き残したものではありませんが、第二ヨハネにこのようなことばがあります。「あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。」(Ⅱヨハネ12)私たちは便利な時代に生きていて、直接会わなくても安否を知らせ合うことは出来ます。インターネット、特にスマホの時代になってからは、手のひらで、手軽に連絡が取り合えるわけです。そのような時代の便利さはもちろんありつつ、直接会うということの大切さ、これも忘れないでいたいですね。
<25節〜30節 エパフロディト>
25節からは、エパフロディトのことに話題が移ります。エパフロディトは、ピリピ教会からの手紙をパウロに届けた人です。パウロはそのエパフロディトを、ピリピに送り返さなければならないと気にしています。彼はピリピ教会からの手紙を届けた後、ローマで病気にかかってしまい、すぐにはピリピに帰ることが出来なかったのでした。27節には、死ぬほどの病気だったと書かれてあります。今ほど医療が発達しているわけでもない時代です。どれほど大変だったか。もちろん、パウロは彼の癒やしのために祈ったでしょう。宣教旅行中に神さまがあらわしてくださった癒やしの奇跡を祈り求めたはずです。しかし、神さまのみわざがあらわれるには、神さまが定めた時があります。今回はそうではなかったようです。むしろ、薬や医療、人間の体の回復力を用いて癒やしがなされました。それもまた、ある意味では奇跡であることを私たちは忘れがちかもしれません。このようにしてエパフロディトは癒やされました。パウロも一安心した様子が伺えます。エパフロディトが病に倒れた知らせはピリピにも届いており、そのことを彼は気にしていました。そこでパウロは大急ぎで彼をピリピに送り返すことにしました。今書いているこの手紙を持たせて送り返すわけですね。
29節〜30節「29 ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。 30 彼はキリストの働きのために、死ぬばかりになりました。あなたがたが私に仕えることができなかった分を果たすため、いのちの危険を冒したのです。」
キリストの働き人を尊敬しなさい、ということですね。ピリピの人たちはパウロに仕えることは出来ません。場所が離れすぎています。その代わりにエパフロディトがやってきたわけです。おそらく、長旅ゆえにかかった病だったのでしょう。彼を尊敬し、大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてくださいというパウロのことばからは、彼自身がエパフロディトを尊敬していた様子が伺えます。25節に「兄弟、同労者、戦友」と書かれているとおりです。長旅ゆえに病を得たのであれば、彼がローマでパウロのために出来たことは実質何もなかったのかもしれない。迷惑をかけて申し訳ないと思いつつ、伏せっていることしか出来なかったかもしれません。しかし、パウロは彼を戦友だと思っていたのです。何か大きなことをしたかどうかではない。わざわざ遠くまで旅をして会いに来てくれた、愛するピリピ教会からの手紙を届けてくれた、それだけで、パウロにとってエパフロディトは戦友であり主にある同労者だったのです。
私たちも、自分のために何か大きなことをしてくれたかどうかではなく、大きな利益や成果があったかどうかではなく、結果的にその人は何も出来なかったのだとしても、それでも私のために苦労してくれた人、頑張ってくれた人への感謝と尊敬を忘れないようにしたいですね。
また、教会というレベルでは、私たちに出来ない働きをしてくださっている方々のために、献金を送ることはしていますけれども、そういった方々をこの礼拝に招き、神さまがそこでみわざをあらわしてくださっている様子をお聞きする。そのような機会を持っていきたいと願っています。キリストのからだというのは、この関西集会という集まりのことだけではありません。世界は広いです。神さまの造られたこの広い世界で、私たちの知らないところで、今日も神さまのみわざが広げられています。その様子を知り、そのために祈り、私たちもそこに参加させていただく。そのような機会を考えていますので、どうぞお祈りください。
今日はパウロがテモテやエパフロディトを、主にあって我が子のように、兄弟のように思っていたこと、彼らを同労者と思い、ピリピの人々に紹介し推薦している箇所を読みました。私たちもお互いのことを覚えて祈り合う中で、彼らのような信頼関係を育ませていただきましょう。聖書は御霊にある一致を保ちなさいと言います(エペソ4:2−3)。作り出しなさいではない。私たちの内に住んでおられる聖霊が、主にある一致を与えてくださっているんです。そのことを忘れない。そのことに目を開き続けていく。事あるごとにそのことを思い起こすということですね。主が与えてくださっているキリストのからだとしての一致、多様性のある一致を目の当たりにさせられつつ、そんな主にある兄弟姉妹として、同労者たちとして、私たちも歩んでまいりましょう。
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「2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、 3 平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」エペソ4:2−3
私たちをご自身のからだとして見ていてくださる主イエス・キリストの恵みと、
この広い世界でご自身のみわざを今もあらわし続けてくださっている父なる神の愛、
そして、主にある交わりの一致を保たせてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン
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【8/4】
ピリピ人への手紙2章12節〜18節
「世の光として」
(礼拝後に改題しました。録音の中では「救いの達成」としています)
ピリピ書を読み続けています。前回は2章の前半、キリストのへりくだりの場面を読みました。イエスさまは神であるお方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、人間と同じようになられました。それは、人間として十字架にかかるためです。私たちの罪のために十字架で死に、その先に復活のいのちで生きる道を私たちに開いてくださるためでした。そのために、イエスさまはへりくだって、神であるお方がわざわざ人として生まれてきてくださったのです。今日はその続きです。
<12節〜14節 救いの達成?>
12節「そういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。」
パウロとピリピ教会の人々の間には、深い信頼関係があったことにはすでに触れましたが、パウロはここでピリピの教会の人々と共に過ごした時のことを思い出して書いているわけです。彼らが従順であったというのはパウロに対してというよりも、むしろ神さまに対して、神さまのことばに対して従順であったということです。今はなおさらそのようであってくださいということです。「そういうわけですから」でつながっている文脈ですから、イエスさまが父なる神の御心に従順であったように、そのようにあなたがたも従順でありなさいとパウロは励ましているわけです。私たちもイエスさまに倣って、神とそのことばに対して従順でありたいですね。
「自分の救いを達成する」というのは、少し注意が必要です。罪からの救いはイエスさまの十字架を信じることだけによるのです。それ以外に何かを付け加える必要はないし、付け加えてはいけないのです。イエスさまの十字架を信じること以外に何かを付け加えるのなら、それは割礼派と同じですね。では、パウロは何のことを言っているのでしょうか。
救いとは、個々人が罪から救われて終わるものではありません。そこから、イエスさまに似た者としてつくりかえられていくこと(成長とか聖化、霊的成熟という言い方ができます)も含めての救いです。そう聞くと私たちは身構えてしまうのですが、救われている事自体は絶対に揺るぎのないことですから、自分はちっとも成長していないと感じたとしても、救いに関して不安に思う必要はありません。私たちが神の子されている、そのことを不安に思う必要は全くない。救われた私たちがつくりかえられていくこと、霊的に成熟していくことは聖霊のみわざであり聖書の約束ですから、必ず実現します。信じ、お委ねしていけばいい。パウロが「救いの達成に努めなさい」というのは、自力で成長するように努力しなさいという意味でもありません。イエスさまに似た者とされることを信じ、期待して、聖霊のみわざにお委ねしていきなさいということですね。聖霊に委ねるというのは、受け身なのですが、「積極的に委ねる」、「能動的に委ねる」という姿勢が大切だと思います。何もしない、何も祈らない、何も考えないで過ごすのではなく、祈りながら、神さまと語り合いながら、日々の生活の具体的な場面で聖霊の促しに従っていくことが大切です。パウロは先ほどから、その従順について述べています。イエスさまが父なる神の御心に従われたように、それに倣って、私たちも主のことばに聞き従っていきましょう。主は私たちに語りかけてくださるお方ですから、それを聴き取っていきましょう。そのようにして聖霊にゆだねていくんですね。
また、ここでは「愛する者たち」と呼びかけられているように、読み手が複数であることに注目したいのです。自分の救いとある「自分の」ということばも複数形の単語が使われています。教会として成長する。教会として、キリストのからだとして成長していくことが表現されています。私たち、関西集会もそのように成長していきたいですね。その理由は、その根っこは、「そういうわけですから」です。つまり、イエスさまが私たちのために十字架にかかるほどにへりくだられたのだから、ということです。これがすべての理由なんです。
13節「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」これはここだけ切り取って覚えられやすい箇所だと思いますが、主にある成長、聖化、キリストに似た者としてへりくだっていくという文脈で語られています。私たちを成長させてくだるのは主です。その意味では受け身です。しかし、先程も言ったように私たちは積極的に、能動的な受け身を取ります。主が語りかけてくださったことに従う。聖霊が聖書のみことばを思い起こさせてくださることに従う。その道を選び取っていく。その志を立てさせ、そのようにさせてくださるのは主だということです。主のことばに従う、その力もまた聖霊が与えてくださいます。何から何まで助けてくださるというのです。すごいことですよね。頑張ってどうにかしなければ、と方に力を入れる必要はないんです。神さまのことばに従っていけばいい。肩の力を抜いて、聖霊の促しに従っていけばいいんです。何から何まで助けてくださるのだからです。
14節「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」これも、主が示してくださったことに従いなさい、主のことばに従順でありなさいということですが、主が助けてくださることを受け取って、そのようにさせていただきなさいということです。みことばの促しに従ったって、だめだと諦めてしまわないで。そこまで真剣に神さまのことを信頼したって、どうせだめだとうそぶいてしまわないで。主が助けてくださるというのですから、助けてくださるんです。事を行わせてくださるというんですから、行わせてくださるんです。大丈夫です。心配しなくて大丈夫なんです。
<15節〜16節 世の光として>
そのような生き方は、この世界を照らす光となります。「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となる」というのは、間違いを犯さない完璧な人になるということではありません。イエスさまへの信頼が、イエスさまへの思いが純真になるということですね。「あの人はお世辞でも完璧とは言えない人だけれど、イエス・キリストを信じるその気持ちだけは混じり気がないね。」そう言われたいものです。何を信じたらいいのか、わからないこの世の中で、その心がキリストにしっかりとつながっている様子、その行いがキリストを信頼している様子は、曲がった邪悪な世代、時代の中で世の光となるんです。私たちが神さまを信頼して生きていくその姿は、世の光として用いられるんです。いのちのことば、聖書のことばをしっかり握り、揺り動かされることなく、神さまから愛されていることが揺らぐことなく生きている様子は、力強くキリストを証しします。
世の光と言えば、マタイの5章を思い出します。「あなたがたは、世の光です。」(5:14)イエスさまは、弟子になりたての、まだまだ頼りない人たちに向けてこう言われました。「あなたがたは、世の光です。」世の光になりなさいではない、世の光になるでしょうでもない。「あなたがたは、世の光です。」このイエスさまのことばが、そしてパウロが書き送った手紙のことばが、今、私たちに、あなたに向けて響いています。
<17節〜18節>
さて、この話の最後に、パウロは不思議な表現を使っています。「17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。 18 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。」旧約時代、神殿での礼拝において、祭壇に動物のいけにえを捧げる際に、ぶどう酒を注ぎかけるということがありました(出エジプト記29:40)。ピリピの人たちの礼拝というささげものがまずあって、それに添えるささげものとしてパウロは自分自身をたとえている、そのように自分自身を理解しているわけです。この「注ぎかける」というイメージで、いのちを注ぎ出すということを表現しているようです。つまり、パウロは死を意識しているんですね。ある程度の自由があるとは言え、ローマでは軟禁状態で、いつどうなるかわからないという緊張感がありました。
16節の後半に「キリストの日」という表現もありましたが、これはキリストの再臨の日です。私たちは主の前で、自分について神に申し開きをすることになります(ローマ14:12)。その際にキリストが弁護してくださるということもまた、聖書が記すところです(Ⅰヨハネ2:1)。パウロはその時の光景をリアルに、ありありと思い描いています。私たちも、イエスさまに会えるのが楽しみですよね。私たちを罪から救い、ご自身に似た者へと変え続けてくださるイエスさまにお会いしたい。そして主が与えてくださった恵みの数々をご報告したい。お見せしたいと思います。
それは、今のいのちや生活を軽んじることではありません。パウロは、イエスさまのところに行きたいけれど、今しばらく地上で生きていることが必要だから、その板挟みになっているとピリピ1章で書いていましたね。私たちも、この地に足をつけて、誠実に生活しつつ、目は天に向けて、イエスさまを仰いで歩んでいこうではありませんか。
イエスさまの十字架、イエスさまのへりくだり、そういうわけですから、と今日の箇所は続きました。イエスさまの十字架こそが私たちの信仰の歩みの原点であり、原動力です。イエスさまのへりくだりこそが、私たちの聖化の歩み、霊的成熟の歩みの道しるべです。この方に似た者とさせられていく旅路を、味わい、楽しみながら、歩んでまいりましょう。
ーーー
「14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。・・・ 16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:14,16)
私たちために十字架にかかるほどにへりくだられた、主イエス・キリストの恵みと
みこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる父なる神の愛、
そして、それぞれの生活の場で私たちを世の光として用いてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン
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【7/28】
詩篇118篇6節
ローマ人への手紙8章35節〜39節
詩篇118篇は「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」という節で始まり、それと全く同じ表現で終わっています。日本語の「起承転結」のような文章の書き方として、ヘブル語の詩篇にはこのような挟み込みの技法が見られます。この詩は、その形からして、すべては主のいつくしみと恵みの大きさのゆえだという信仰の告白になっているのです。私たちの生活もまたそうであれと願います。主への感謝で始まり、主への感謝で終わる日々でありますように。
この詩人は敵に取り囲まれ(10節)、押し倒されそうになりましたが(13節)、主が助けてくださった時のことを、絶体絶命の時に神さまが助けてくださった時のことを思い返し、感謝しています。それは決して簡単なことではなく、なぜ?と思える辛い状況も多々あったようです(18節)。それでも、彼は「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。」と告白するのです。
主は私に最善をなしてくださる。すべてのことは相働いて最善となる。主にあって、恵みとまことが私を追ってくると信じ、信頼してお委ねしたいと思います(ローマ88:28、詩篇23:6)。それでも私が願うようにではなく、つらい状況が襲ってくることはあります。それが生きるということです。しかし、その嵐の中でも、主は共にいてくださることを教えてくださいます(マタイ8:26)。
「国々」という表現からもわかるように、今日の箇所には神の民のことを歌っている面もあるようです。神の民の役割は救い主を待ち望むことでしたが、その召命は変わることがありません(ローマ11:29)。かつてはユダヤ人が神の民として救い主を待ち望んできましたが、今はユダヤ人もギリシヤ人もなく、「イエスを救い主として信じるすべての人々」が神の民です(エペソ2:11−22)。私たち神の民は再臨のキリストを待ち望むのです。自分のことだけでなく、神の民であるお互いのために祈り合いたいと思います。神の民は、キリストを待ち望む信仰が揺すぶられる時があるのです。しかし、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。・・・37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。 38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、 39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35−39)
22節「家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。」これはまさにイエスさまのことを言い表しています(マタイ21:42)。神殿を建て上げる宗教指導者たちが捨てた(十字架につけた)イエスさまこそ、救い主だったということです。神の民の信仰はまさにここに立脚するのです。私たちの主は、十字架につけられたイエス・キリストです。ここがぶれることがないように、聖霊の助けをいただいていきましょう。
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【7/21】
ピリピ人への手紙2章1節〜11節
「キリストに倣って」
パウロの獄中書簡であるピリピ書の2章に入ります。1章の後半からピリピの人々へのアドバイスが始まっていましたが、2章以降も続いていきますが、特に今日の箇所はただのアドバイスではなく、神さまへの賛美が渾然一体となったような、そんな内容になっています。早速見ていきましょう。
<1節〜4節>
1節〜2節「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、 2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」
「キリストにある励まし」とは前回も読んだ通り、キリストの十字架だけが救いの理由であることの励ましです。割礼を受けたかどうかではない。私たちが何をしたかとか、何が出来るかではない。イエスさまが十字架にかかってくださったから、そしてよみがえられたから私たちは救われたのです。どんなにクリスチャンとして成長していなくても、まず私たちが救われていることは確かです。どんなに反対する者がいたとしても、それは絶対に確かです。その励ましです。私たちは罪から救われて、新しい生き方へと招かれました。未だに古い生き方を引きずってしまうものですが、何度でも向きを変えて歩み直すことが出来るのです。何度でもです。なお、「励まし」だけでなく、ここに並んでいる「愛の慰め」、「御霊の交わり」、「愛情とあわれみ」、これらもすべて「キリストにある」ものと考えてよいでしょう。私たちはイエスさまから慰めを受けます。また、御霊の交わり、つまり聖霊の交わりを与えられています。私たちの内に聖霊がおられ、そのことを折に触れて示してくださるんですよね。そして愛情とあわれみがある。イエスさまから愛情とあわれみを受けています。特にこれは、ピリピの人たちが持っていた愛情とあわれみのことを言っているかもしれません。彼らは経済的に苦しくても、パウロやエルサレム教会のために喜んで献金をしました。イエスさまから愛情を受けたからこそ、困っている人に具体的に手を差し伸べることができたわけです。
であるならば、とパウロは続けます。2節「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」つまり、あなたがたは一致してくださいということです。そのことで私を(パウロを)喜ばせてくださいということですね。ここに、ピリピ教会が陥っていた別の苦難が見え隠れします。確かに、彼らはキリストの励ましを受けていたんです。愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを受けていたんです。でもそれを共有していなかった。同じ思い、同じ心でお互いにキリストを喜び合い、お互いに救われたことを感謝し合う交わりになっていなかったということです。
個々人がそれぞれキリストとの関係を持つことは大前提でありつつ、そのような一人ひとりが「共に」主を見上げることこそが教会の醍醐味であり、そこにこそ存在理由があります。教会は「キリストのからだ」と呼ばれるからです。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(Ⅰコリント12:27)全く違う個々人が(それは見た目や働き方や生活スタイル、信仰の深さなどすべてが全く違うわけですが)、それでも不思議と一つとさせられているのが教会なんです。
後に4章で具体的な名前も出てきますが、ピリピの教会には分裂があったようです。分裂というほど大きなものではなく、一致できない空気感というか、不協和音のような状態だったかもしれません。違う人同士がまったく同じになることなんて無理に決まっていますし、そうなるべきでもありません。それぞれは独自の、ユニークな存在だからです。パウロが「同じ思い、同じ心」と言っているのは、全員が同じ考えを持たなければならないとか、異論は認めないということではありません。違う部分同士であっても、違いを認めつつ、相手を受け入れ合っていくからこそ、「からだ」のたとえが使われているのです。また、2節に「一致を保ち」とありました。一見バラバラのようでも、御霊にあって、聖霊にあって私たちは「すでに」一つとさせられているのです。そのことを思い起こし、それを保っていきなさいということですね(エペソ4:3)。お互いに違う存在でありながらも、まったく違う考え方をする者同士であっても、一つのからだとされているんだということに驚きながら、キリストのからだとされていることを感謝しながら歩んでいくということですね。
3節〜4節「3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。 4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」
利己的というのは自己中心のこと、虚栄というのは見栄を張ることです。自己中心とか見栄っ張りなどと言うと、いい大人はそんなことはしないと思ってしまいますが、ピリピ教会の問題の発端はここにありました。利己的な思いという表現には「党派心」という別訳があります。コリントの教会が「私はアポロにつく、私はパウロにつく」と党派心で分断されてしまったように、これは容易に起こることなんです。
パウロは「そうではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」と言います。へりくだるというのは謙遜のことですが、「自分なんて大したことありません」というのは謙遜ではなくて自己卑下なんですよね。へりくだるとは、自分を小さく見せることではなくて、仕えることです。自分を必要以上に小さく見せるのではなく、相手をすぐれた者として見て、その相手に仕えること。それがへりくだりです。自分のことをどう隠すか、どう小さく見せるかではなく、他の人のことを考え、その人のために仕えていくようにとパウロは言うのです。それがキリストのからだの一致を保つことにつながるからです。
<5節>
5節「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」へりくだり、ほかの人のことも考え、仕える。これはイエスさまの姿です。私たちはイエスさまに似た姿へと成長していくことを目指しているので、私たちもまた人々に仕えるのです。イエスさまに倣って、ですね。
「イエスさまに倣って私たちも」と考えるときに、そうしなければならないとか、そうしなければ救われていないと考える必要はありません。そうしなければクリスチャンとは言えない、などと考える必要はない。パウロはそういう考え方と対決してきたのだし、このピリピ書でもそれを書いていることを忘れてはなりません。善い行い、イエスさまに似た行いをするというのは、救われていることの根拠ではありません。それをしていないようでは救われていないということではないのです。それでも、あえてパウロは言うのです。「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを(つまり、へりくだって人に仕えるという思いを)、あなたがたの間でも抱きなさい。」と。英語で”being”と”doing”という言い方があります。beingとは存在のこと。doingとは行いのことです。doing行いではなく、being存在を大切にしなさいというのは正解です。何が出来るかではない、あなたがあなただから素晴らしいのです。神さまは、あなたがあなただから愛しておられる。何が出来るか、何をしたかではない。あなたがあなただから、神さまはあなたのことを愛しておられるのです。ここがぶれてはなりません。特に現代社会ではここがぶれてしまいやすいですね。あなたがあなただから、神さまはあなたを愛しておられるんだということ。そこがぶれてはなりません。それが大前提です。その上で、私たちはイエスさまのdoingに倣う必要があります。誰かに何かを教えてもらった時のことを思い出してください。習い事の先生から教わった時のことを、思い出してください。私たちはまずその人のdoingに倣う必要があるのです。まずはそのとおりにやってみる。その上で、自分なりのやり方に発展させていくんですよね。doingをすることで、beingが確立していくという面もあるのです。私たちもイエスさまのへりくだりに倣う。やってみる。それは強制とか無理やりということではなくて、イエスさまに似た者となりたいという思いから自然と湧き上がってくる思いですね。へりくだって人に仕えられたイエスさまに倣って、私たちも人に仕えるのです。誰かのために、人のために、自分のことは後にして、その人のために仕える。そういうことをやってみるんです。そうやって仕える練習をしていくんですよね。何事も練習が必要です。人に仕えることにも、練習が必要なんです。
<6節〜>
6節から11節というのは、初代教会でよく歌われていた賛美の歌詞だったのではないかと考えられています。キリスト讃歌と呼ばれる箇所です。
6節「キリストは神の御姿であられるのに」、つまり神であるのにということです。イエス・キリストは立派な人だったというのではなく、イエス・キリストは人として生まれた神であると信じるのがキリスト教の信仰です。聖書が証ししているのは、父なる神、子なる神であるキリスト、そして聖霊なる神、この三位一体の神です。キリストは神であられるお方なのに、「神のあり方を捨てられないとは考えず」、つまり神のあり方を捨て、「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」神さまは人を造られたお方です。神さまが創造主であり、人は被造物です。しかし、神さまの側が、創造主である方が、わざわざ人として生まれてきてくださった。それを祝うのがクリスマスです。
それは何のためだったか。気まぐれで、たまには人間になってみるかという話ではありません。神ご自身がへりくだられた。8節「自らを低く」されたのです。へりくだりとは、相手に仕えることだと言いました。イエスさまがお生まれになったということの意味は、神さまが、私たちに仕えるために、私たちと同じ様になってくださったということなのです。そのへりくだりは徹底していて、人のために死ぬ、それも十字架で死ぬ、そのことで人々に永遠のいのちへの道を開くというものでした。それが父なる神のみこころだったから。イザヤ書53章5節「彼は私たちの背きのために刺され、/私たちの咎のために砕かれたのだ。/彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、/その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」10節「彼を砕いて病を負わせることは/主のみこころであった。」三位一体の神である方が、子なる神である方が、私たちの救いのために十字架にかかるという父なる神のみこころに従い尽くしてくださったのです。わざわざ人として生まれてきたのは、人として十字架にかかるためです。本来はその必要はない方が、人に仕え尽くしてくださったのです。イエスさまは、あなたのために十字架にかかられたのです。
それゆえ、9節「神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」高く上げるというのは、最高の栄誉、最高の栄光を与えられたということです。「すべての名にまさる名」というのは、救いのために必要なのはイエスさまの名前以外にないということですね。そして10節、11節「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」膝をかがめるとはひざまづくこと、礼拝の姿勢をあらわします。この世界のすべての者がイエスさまを礼拝します。「舌」とありますから、賛美をし、ほめたたえるということを指します。賛美とは、神さまに栄光を帰すること。あなたこそ最高のお方、賛美されるべきお方とほめたたえることですね。私たちが「イエス・キリストは主です」、私のあるじです、私の王ですと告白する時、父なる神は栄光を受ける。私たちの信仰告白はそのまま神への賛美なのです。私たちが信仰を告白するというのは、私たちの目の前の、身の回りの小さな出来事ではないのですね。それは宇宙規模で、天に向けて、神さまへの賛美になっているというのです。私たちは今日も、へりくだられた方を賛美します。十字架にまでへりくだられた方を礼拝しているのです。このようにへりくだられた方、キリストに倣っていくのです。
<ダミアン神父のこと>
自分には本来その必要はないのに、人に仕えるためにへりくだるということは難しいことです。聖霊の助けが必要です。でも、逆を言えば、私たちの内には聖霊が住んでおられますから、私たちをそのように導かれます。自分としてはそれはやりたくないという思いで、聖霊の励まし、聖霊の促しを無視してはなりません。私たちを成長させてくださる聖霊のみわざに自分をお委ねしていく。お任せしてしまうことが大切です。
ダミアン神父という人がいます。1840年、ベルギーに生まれたカトリックの神父で、23歳の時にハワイに宣教師として派遣されました。ハワイで活動する内に、彼はハンセン病患者が誰からも世話を受けていないこと、彼らは島に隔離されてそこで死んでいくのを待つだけということを知りました。そこで彼は、自分がその島に行って、ハンセン病患者の世話をしたのです。33歳の時に彼は島へ移り住みます。そして隔離されていた人々の生活環境を整えていきました。彼はそのうちに、患者の患部に触れることに躊躇しなくなり、文字通りハンセン病患者の人々と共に生きていったのです。44歳の時、彼自身もハンセン病にかかります。49歳で亡くなりました。
彼は自分はハンセン病ではなかったのに、ハンセン病の人たちのところに行きました。そして、自分もその病にかかるほどに、彼らと共に生きたのです。彼は聖霊に促されて、キリストのへりくだりを体現した、体現させられた人でした。キリストに倣った人でした。
ダミアン神父のような生き方は出来ないかもしれない。それでも、私たちも、ほんの少しでもイエスさまに倣って、ほんの少しでも自分の権利は捨てて、へりくだって人に仕える生き方をしたいと思います。自分がこうであるのは当然だ、自分がこうするのは当然だという権利を捨てて、目の前の人に仕えるということは、ダミアン神父のような大きな社会問題だけでなく、むしろ日常生活の中で問われることです。イエスさまに倣う生き方のチャンスは、日常生活の中に転がっているんです。そして、そのような日常レベルでのへりくだりこそが、パウロが促しているように、キリストのからだとして心を合わせ、思いを一つにしていくために必要不可欠なのです。私たちはイエスさまの十字架を信じています。でも十字架に従って生きる、十字架に従って歩むというと、何か漠然とした感じになってしまいませんか。小さなことでいい、具体的にへりくだる。具体的に、自分の立場や権利を捨てて、目の前の人に仕える。聖霊がそのように私たちを導いてくださいますから、そのままついていきましょう。イエスさまのように、へりくだって仕えるものとさせられていきましょう。
最後に、音楽宣教師の内藤容子さんによる「キリスト賛歌」という曲をお聴きください。→こちらから
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「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)
私たちのために十字架にかかるほどにへりくだられた主イエス・キリストの恵みと
キリストのいのちをかけるほどに私たちを愛された父なる神の愛
そして、私たちをへりくだる者として成長させてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。アーメン
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【7/14】
ピリピ人への手紙1章27節〜30節
「キリストの福音にふさわしい生活」
ピリピ人への手紙を引き続き読んでいきましょう。1章の最後の部分となります。ピリピ書1章はこれまで、手紙の書き出しの挨拶があり、パウロの近況報告と続いていきましたが、今日の箇所からはピリピの兄弟姉妹たちへのアドバイスになっています。
<27節〜28節 福音への反対者>
27節に「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」とあります。これが何のためのアドバイスかというと、27節の後半からですね。「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、 28 どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない」、そのために、キリストの福音にふさわしく生活しなさいということです。
ピリピ教会が陥っている状況は、具体的にはわからないのですが、28節にあるように、どうやら「脅かしてくる反対者たち」がいたようです。それは割礼派の人々だったと思われます(3:2−3)。割礼派というのは、救われるためにはユダヤ人の律法に従って割礼を受けなければならないと主張する人たちのことです。使徒の働きでパウロはずっとこの問題と戦ってきましたよね。救いは信仰のみを通して、完全に恵みとして与えられるのであって、私たちの側の行為には因りません。何をしたか、あれをしたか、これをしたかということは救いには関係がないのです。ユダヤ人は民族の文化として割礼を守ればいいし、ユダヤ人以外にはその必要はありません。でもどちらも、イエス・キリストへの信仰のみによって救われるのです。それなのに、非ユダヤ人(つまり異邦人の)クリスチャンも割礼を受けなければならないとする人たちがいたわけです。これはずっと続いてきた問題でした。第一次宣教旅行が終わった後、パウロは割礼派の人々と激しく対立し、論争しています。ユダヤから(つまりエルサレムから)やって来た人々が割礼の必要性を説き、パウロとバルナバはそれに激しく反対しました(使徒15:1−2)。また、ガラテヤ書によると、それ以前にもパウロはエルサレムで割礼派と対立し、一歩も譲歩しなかったということがありました(ガラテヤ2:5。これは使徒の働き11:30〜12:25のエルサレム滞在のときのことだと思われます)。このようにしてパウロは、何回も何回も彼らと話し合い、激論を交わし、割礼を強制されそうになった異邦人クリスチャン(テトスなど。ガラテヤ2:3)を守ってきました。そのうちにエルサレム会議が開かれ、そこで正式に、異邦人クリスチャンが救われるために割礼を受ける必要はないことが確認されたのです。その後の宣教旅行でどこへ行っても、彼はこのことを話して回ったはずです。それでもまだ、この問題が起こっているのでした。
救われるためには、私たちと同じようにならなければならないと考えるユダヤ人が、それだけ多かったということです。イエス・キリストを信じるだけでは不十分で、私たちと同じようにならなければならないという考え方です。これはユダヤ人だから割礼の問題になりますが、私たちにも同じようなことが起こり得ます。あの人が、あの人のまま救われるのが気に入らない。自分たちの文化、自分たちの風習に染まっていないと気に入らないということが往々にしてあるわけです。福音への反対者というのは、他宗教の人たちというよりも、むしろ自分たちの内にある。自らの内にあることを覚えましょう。聖書に描かれているこの問題は、確かに今の私たちにもあります。
また、人に対してだけでなく、自分の救いの確信が揺らぐということもあります。自分は本当に救われているのだろうか。イエスさまを信じるだけで救われるなんて、都合が良すぎるんじゃないか。ちっとも成長していない自分は、そもそも救われていないんじゃないか。イエスさまの十字架と復活を信じるだけでは不十分で、自分は救われるために何かしなければならないのではないか、とする思いが自分自身に向けられることもあるのです。でも、それは神の愛を疑わせるサタンの囁きです。確かに成長を目指すようにとみことばにあります(3:12〜16)。しかし、成長していないからといって、救われていないことはないんです。イエスさまの十字架と復活による救いは絶対です。そこが揺らいではなりません。ローマ8章33節〜34節などをいつも読み返していたいですね、。しかし、それを疑わせる「反対者」が、自分の内側にも現れることは覚えておくべきでしょう。
<キリストの福音にふさわしく>
この「反対者」に立ち向かうために、パウロは「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と言うわけです。キリストの福音を思い出しなさい。ただ恵みによって救われたことを忘れないでいなさい。自分の何かで救われたかのような、自分がなにか偉くなったかのような勘違いをしないようにしなさい。キリストの十字架と復活にプラスアルファしたくなるような誘惑に負けず、キリストの十字架によって共に死んだ者として、復活のいのちを与えられている者として歩みなさいということです。赦された者として、愛された者として歩みなさいということですね。
27節の「生活しなさい」ということばには、「市民としての生活をする」というニュアンスがあります。「市民」という考え方は、ピリピの町の人たちには馴染み深いものでした。ピリピの町はローマの植民都市、つまりローマの町そのものとして機能している特別な町だったからです(使徒16:12)。彼らには、自分たちはピリピの町の人間だ、ローマの住民だという意識が強くありました。そんな彼らにパウロは言うのです。「キリストの福音にふさわしく生活する、そういう市民でありなさい。ピリピ市民でありなさい。」と。
以前の翻訳には、脚注に「御国の民として」という別訳があって、私はそれが好きでした。私たちは天の御国のものなので、キリストの福音にふさわしい市民生活とは、御国の市民としての生活です。なるほど、確かにそうです。しかし、新しい翻訳での別訳は、「市民として生活しなさい」というだけになっています。「御国の」という表現をなぜ外したのでしょうか。それはおそらく、パウロがここで書いているのは、あくまでも「ピリピ市民」としての生き方のことだからです。あえて「御国の」という表現を追加すると、「この世ではなく御国の」というか、この世と御国を対比させた話になってしまう。パウロは後でそういう話もするのですが(3:20)、今日のこの箇所では「ピリピの市民」として地に足をつけて歩みなさい。その際に、キリストの福音にふさわしく歩むことを意識していなさい、ということだと思うのです。
キリストの福音に生きるピリピ市民として生きなさい。これは大事なことです。確かに、3章20節にあるように、「私たちの国籍は天に」あります。しかし、今、私たちはここで生きている。彼らはピリピの市民として。私たちもそれぞれに住んでいる市があり、町があります。私たちはその町のために仕えて生きるのです。目は天に向けつつ、信仰を持って天を見上げつつ、しかし地に足をつけて生きるのです。キリストの福音に生かされている者として、この町のために祈り、人々に仕えるのです。バビロン捕囚の民が、置かれたその場所で生きるように言われたのと似ています。この町のシャロームのために祈れと主は言われました(エレミヤ29:7)。イエスさまも言われたように、私たちは地の塩、世の光です(マタイ5:13−14)。塩は小瓶の中で固まっているためのものじゃない。そこから外に出てこそ、塩の役目を果たすことが出来ます。光もそうです。枡をかぶせてしまっては、周りを照らすことが出来ません(同5:15)。
市民として、人々の間で。地の塩として、世の光として、人々の間で、キリストの福音にふさわしく生きようではありませんか。キリストを信じることだけで救われた者として、キリストの十字架に何もつけくわえることなく、そのままで救われた者として、その喜びを胸に、人々のところに出ていきましょう。そして、その喜びを分かち合っていきましょう。
<反対者>
そこには、先ほど触れたような「反対者」の存在があるのです。むしろ自分で自分の救いに反対していることすらある。それが現実の生活です。しかし、だからこそキリストの福音にふさわしく生きなさいというアドバイスなのです。そうすれば、「どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない」のです。
また、28節、それこそは「救いのしるし」だとも言います。キリストの十字架で救われた者が、キリストの十字架だけを誇りとし、自分のわざに頼らず、自分の功績に頼らず、キリストの十字架に頼り続けることは、まさに救いのしるしです。
そしてまた、キリストの福音にふさわしくその生きる生き方は、一人で守っていくものではないということも大切なポイントです。27節〜28節に「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦い」ともあるように、みなでその信仰を励まし合っていくことが言われています。教会とはそのような場所なんです。私たちも、なおなおそのように成長させられていこうではありませんか。
<29節〜30節 苦しみ>
29節「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」
ピリピの教会がどんな苦しみを経験していたのか、それはいろいろな可能性があって、経済的に苦しかったということも考えられます。エルサレム教会のための献金プロジェクトに参加したときには、彼らは経済的に豊かではなかったけれども喜んで捧げたと第二コリントに書かれています(Ⅱコリント8:1−2)。あれからさらに、経済的にはいよいよ苦しくなっていたのかもしれません。
そういったこともありつつ、今日の箇所で言われているのは「反対者に脅かされてしまう」という苦しさのことでしょう。信仰が揺らいでしまう。十字架だけが頼りではなくなってしまう。他の人のことも、自分の救いのことも含めて、イエスさまの十字架以外に何かが必要なように感じてしまう。そういう苦しさがあります。いわば、自分の信仰に悩むということですね。救いの確信が揺らいでしまったり、自分の信仰があいまいになってしまうという悩みであり、苦しみを彼らは抱えていました。十字架の恵みに反対する者に脅かされてしまうのです。
ただ、パウロはそのことを否定したり叱ったりはしないのです。その苦しみは、キリストのために受けた恵みでもあるんだと言っている。苦しみが恵みだなんて、苦しんでいる当人からしたらとんでもない話かもしれません。自分はそんなふうに苦しんだことがないから、適当なことが言えるんだと反発してしまうかもしれません。しかし、パウロもまた同じ経験をしてきたことが30節に記されます。「かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。」パウロも、自分の救いは十分じゃないんじゃないかとか、救われるためにもっと何かしなければいけないんじゃないかとか、そういうことを悩んだことがあったんですね。そして、今もその弱さがあるんですね。パウロはイエスさまの十字架については迷いがない、救いについては迷いがない人だと思っていましたが、パウロもまた、キリストの福音にふさわしく生きること、キリストの福音だけを頼りにすることに関して、悩んだり苦しんだりしているんですね。このことは今回の本当に大きな発見で、私はすごく励まされました。
それでも、パウロはこのような手紙を書いています。ガラテヤ2章19節後半から。「私はキリストとともに十字架につけられました。 20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。 21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」キリストに命がけで愛された者として、その愛が人々にも向けられていることを知らせるために、パウロはこの知らせを伝え続けたのです。
<神に愛されている>
先日、『もう自分を隠さない』という本を書いた牧師の講演会に行ってきました。著者は日本生まれですが、幼少期からカナダで育ち、今もカナダ在住という方です。関西牧会塾という牧師たちの学びの場があるのですが、そこの主催でした。そこで私は個人的に大きな収穫があったんです。神さまから愛されているということを理解するための大きなヒントをいただきました。いくつかあるのですが、一番わかり易いと思ったのが、美しいもの、きれいなもの、すごいなぁと思えるものと向き合った時の気持ちを思い出してみてください。それは自然の素晴らしさに感動した時の気持ちかもしれない。山の緑、川の水のきらめき、東の空から上ってくる朝日だったでしょうか。またはお気に入りの音楽かもしれない。美しい和音の響き。ワクワクするようなリズム。またはお気に入りの小説かもしれない。このまさかの展開は、いつ読んでも心を打たれるというような。もしくはお気に入りのテレビ番組かもしれない。面白くて、おかしくて、最高だ!と思う。これらの気持ちは、神さまが私たちに対して持っておられる気持ちと似ているというのです。神さまは、私たちのことを最高傑作として見ておられるからです。ああ、なんて素晴らしいんだろうと見てくださっている。確かに、創世記1章31節にこう書いてあります。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」神さまが私たちに対して持っておられるこの気持ちを想像すると、神さまの愛がほんの少しだけ分かるような気がしました。実際には、神さまの愛はもっともっと広く、長く、高く、そして深いのです(エペソ3:18−19)。でも、具体的なイメージとして、私たちが美しいものに感動したり、ワクワクする気持ちというのは、目からウロコでした。いかがでしょうか、みなさんは神さまの最高傑作なんです。神さまがどれほどあなたのことを喜び、ワクワクして見てくださっていることか。
であればこそ、なんです。私たちはその神さまの愛、十字架の愛をしっかりと受け取り、それ以外に何もいらないということをはっきりさせ、キリストの福音にふさわしく生きていきましょう。今置かれているそれぞれの町で。その場所に生きる市民として。神の愛に満たされ、周りの人々にそれを分かち合う者とさせられていこうではありませんか。
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あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4a)
私たちのために十字架にかかって死なれた主イエス・キリストの恵みと
私たちを最高傑作として造ってくださった父なる神の愛
そして、キリストの福音にふさわしく、この地で生きることを励まし続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン
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