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20250518(ヨハネ21:15〜17)イースター⑤キリストの友として
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●原稿
【5/18】
ヨハネの福音書21章15節〜17節
イースター⑤「キリストの友として」

イースター以降、弟子たちが復活のイエスさまに出会い直していく場面を、ヨハネの福音書から読んできましたけれども、今日で一区切りとしたいと思います。来週は東京の久遠教会の方で、別の箇所からメッセージを取り次いできます。再来週からは6/8のペンテコステに向けて、心を整えていきたいと思っています。またしばらくペンテコステのメッセージを続けた後、マタイの福音書の講解に戻ります。

さて、よみがえられたイエスさまは、ヨハネの福音書によるとこれまで三回にわたって弟子たちにご自身を示して来られました。よみがえられた日の明け方と夕方。ヨハネはこれを一回とカウントしていますね。そしてその八日後。三回目はガリラヤ湖畔にて。「使徒の働き」の記述によると、よみがえられたイエスさまは、四十日にわたって彼らに現れて神の国のことを語られたとありますから(1:3)、この三回だけじゃない。何回でもイエスさまと出会い直すことができるのです。

<「わたしを愛しますか」>
さて本日の箇所ですが、15節からは、食事を終えた後、イエスさまの視線が一人の弟子に向かいます。「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。』」誰誰の子、というのは人を指す時に使われる一般的な表現で、シモンというのはペテロのもともとの名前です。食事が終わったとき、主イエスはペテロに対して「あなたはこの人たち以上にわたしを愛しているか」と問われました。

ペテロはイエスさまが十字架にかかる前夜、裁判を受けている場で三度イエスさまを知らないと言いました(ルカ22:55-62)。今朝の箇所でイエスさまがペテロに対して三回こう言われたのは、これは明らかにあの三回の否定に対応してのことです。ガリラヤ湖のこの場面、9節に「炭火」が出てきますけれども、これはヨハネが描くペテロの三度の否定の場面にも出てくるんです(ヨハネ18:18)。ヨハネは明らかに今日の場面をあの三回の否定に関連付けています。そこでイエスさまが言われたのは「あなたはわたしを愛していますか」というものでした。「アガペー」というギリシャ語が使われています。無条件の愛です。新約聖書は、この無条件の愛を表す「アガペー」という言葉で神の愛を表現しました。それは、感情的に好ましいから愛するとか、仲が良いから愛せるというものではないのです。受け入れることが出来るから、好ましいから愛するのではなく、無条件に愛する、です。「〜だから」ではなく、「にもかかわらず」の愛と言われます。イエスさまはペテロにアガペー、無条件の愛を問われたのです。

無条件の愛などと聞くと、私たちは身構えてしまいます。そんなのは無理じゃないかと思う。確かにそうでしょう。しかし、アガペーという言葉に出会ったとき、まず思い出すべきは、アガペーとは私たちの愛というよりもまず、神さまが私たちを愛してくださったその愛のことだということです。聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネの福音書3章16節にはこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。(「世」というところに、私たちは自分の名前を当てはめて読むことが出来るわけです)それは御子(キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」また、第一ヨハネ4章19節には、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」とあります。神がまず愛してくださった愛。それがアガペーです。聖書の神は、私たちが何が出来る、出来ないに関わらず、立派で有る無しに関わらずに、私たちを愛していてくださいます。私が私だから、神に受け入れられている。大切に思われている。あなたがあなただから、他の誰でもないあなただから、神はあなたのためにいのちまで投げ出した、それが聖書のメッセージです。神の愛は無条件の愛、アガペーです。「神が私たちを」愛してくださったということです。

しかし、主イエスはここで、「ご自分に対して」アガペーの愛で愛しているのかとペテロに確かめられます。これはどういうことでしょうか。無条件にイエスさまを愛するということですから、何の見返りがなくても、クリスチャンとして生きることに対する神からの見返りが何もなくても、ということでしょうか。自分の願うところが神の御心とは違い、祈ったことに答えられなかったとしても、それでも神への信仰をやめないですか?ということかもしれません。しかも「この人たち以上に」と言われます。他の誰が神を信じなくとも、私は神を信じる、神を信頼する。確かに、信仰とはそういうものだと思います。

<すでに語られていた「アガペー」>
しかし、ここでイエスさまがそのように言われたことの意図は、「信仰とはそういうものだ、自らに危険が迫ろうともわたしを否定したりせず、無条件にわたしを愛しなさい」ということでペテロを叱ったというよりも、前に話された別のことを念頭に置かれているようです。ヨハネの福音書の中で、このアガペーという単語は何度も使われて来たのですが、イエスさまが話した言葉として特に印象的なのは13章34節、35節でしょう。主イエスは十字架にかかられる前夜、このことを大切な新しい教えとして話されました。「34  わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 35  互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」イエスさまが「新しい戒め」として、新しい生き方として教えられたこと、それは、互いに愛し合うということでした。キリストが私たちをアガペーの愛で愛してくださったように、私たちも互いにアガペーの愛で愛し合うこと、それがキリスト者のしるしであるということです。

十字架による死から復活されたイエスさまが、十字架にかかる前夜に話されたことを踏まえて語られたと考えるのは自然なことですし、実際聖書はそういう書き方をしています。十字架前夜に「新しい戒め」を教えられた場面でも、また飛んで今日の場面でも、ともに「子どもたちよ」という呼びかけがあることに気づきます。これは先週もお話ししましたね。何かを中心軸として、線対称のようにして配置するということが聖書の文体にはよく見られます。聖書の読み方のコツの一つかと思いますが、こうやって文章の強調点を浮きだたせているのです。ここでは、イエスさまの十字架という中心軸の前後に「子どもたちよ」という呼びかけであったり、炭火が置かれている。イエスさまがペテロにアガペーを問われた今朝のこの場面は、「互いに愛し合う」という新しい教えと対応するものとして表現されています。キリストの愛を受けた者は、その愛をもって互いに愛し合う。受け入れ合うのです。アガペーの愛を受けた者は、アガペーの愛で愛する者へと変わることが求められているのです。無条件に愛された者は、無条件に愛する者へと変わること、それが、聖書の私たちに対するチャレンジです。キリストを愛するということは、私たちが互いに愛し合うことと表裏一体なのです(マタイ25:40)。

しかしその愛は、本来私たちの内にはないものです。アガペーの愛は私たちのうちにはないものです。だからこそ、イエスさまは13章の「新しい戒め」に続けて、聖霊の約束をしてくださいました。ヨハネの福音書14章から16章はそのために書かれています。私たちは、自分が恵まれるためではなくて、キリストの新しい教え、アガペーの愛に生きることが出来るようにと、聖霊の満たしを求め続けていかなければならないのです。聖霊の満たしとは、聖霊のバプテスマとは、自分が恵まれるためではなくて、アガペーの愛に生きることができるためのもの。イエスさまの愛が私を通してあらわされていくためのものです。

<ペテロの応答>
さて。では、ペテロはそのアガペーの愛を理解していたのかと言われれば、理解していなかったか、もしくは聞いていたはずのその教えを忘れていたようです。主イエスはここで「互いに愛する」ということを踏まえて言っておられるわけです。「わたしを愛し、互いに愛し合いますか」と。だからこそ、他の人にも心を配るようにと、「わたしの子羊を飼いなさい」と言われているわけです。しかし、ペテロにとってはイエスさまへの忠誠心を試されているようにしか聞こえなかったようです。後悔の念で心がいっぱいになっていたからでしょう。心を刺されたペテロは、もじもじと回りくどい言い方をしてしまいます。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」いつものペテロのように、「はい、主よ、私はあなたを愛しています!」と勢い良く言ってほしいところです。しかしペテロは、後悔と自責の念でいっぱいになっていたのでした。「絶対に、死んでもあなたを知らないなどとは言いません」などと大きなことを言っておきながら、ペテロはイエスさまを裏切ってしまったのですから(ルカ22:54-62、ヨハネ18:15-27)。聖書では「三」というのは完全をあらわす特別な数字です。ペテロは、イエス・キリストなど知らないと、三度、完全に否定したのです。だから、もじもじと回りくどい言い方しかできないのですね。

脚注のある方は注意深く読んでいただきたいのですが、イエスさまの問いかけはアガペーの愛をあらわす「アガパオー」という言葉で記されているのに対して、ペテロの答えはフィリアの愛、友情の愛をあらわす「フィレオー」という言葉になっています。続けて見ていくと、16節での二回目の問いも、イエスさまの問いかけはアガパオーで、ペテロの答えはフィレオーで答えています。

イエスさまの問いかけで責められているように感じてしまったのですから、ある意味当然の答え方だったかもしれません。私はあなたを無条件で愛することなど出来ませんでした。私はあなたを裏切ってしまいました。とても「アガパオー」では答えることが出来ません。しかし、せめて、キリストの友でいたい。せめて、イエスさま、あなたの友でいたい。「フィレオー」は友情の愛、友愛を表す言葉だと先ほど言いましたが、ペテロの心中はそのようなものだったと思うのです。もう取り返しがつかない。こうなってしまったら、もうおしまいだ。イエスさまに顔向けは出来ない。でも、主よ、私はあなたと共にいたい。せめてあなたの友でありたい。このペテロの感情は、私たちにもよく分かるものではないでしょうか。

しかし、主はペテロを責めておられるのではありません。弟子としての忠誠心を試すような、意地悪な質問をされたのでもない。主イエスの新しい戒めを踏まえての、互いに愛し合う新しい生き方を思い出させるためのこの「アガパオー」です。イエスさまが私たちを愛されたように、だから私たちも互いに愛し合うということ。それがイエスさまの言われた「アガペー」です。それがイエスさまを愛することにつながる。イエスさまはここで、その新しい生き方を励ましておられる。

イエスさまは「わたしの子羊を飼いなさい」と言われます。小さな立場の人たちを愛し、養い育てるように、また16節や17節では「子羊」だけではなく「羊」とも言われています。教会にはいろんな人がいます。分け隔てなく、みなを愛するように、羊飼いが羊を牧するように養い育てなさいと言われるのです。私たちは神を信じている、神を愛していると自覚していますけれども、お互いに愛し合うことがなければ。牧者のように、養い合うのでなければ、私たちの神への愛は歪んでいるのです。他の人がそこに神の愛を認めることができないのなら、私たちの神への礼拝は歪んでいるのです。

私たちの神さまへの愛は、そのようにアンバランスなもの、偏ったものになりがちなのですが、いや、アンバランスなのですが、イエスさまの方から、御声をかけてくださる、御言葉をかけてくださっていることに慰められます。自らの愛の歪みを知り、「私はあなたを愛しています」と大声で告白出来ないそんな時にでも、主は繰り返し、繰り返し、その御言葉をもって、「互いに愛し合う」新しい生き方へと、私たちを導き続けてくださるのです。何回でも、語りかけてくださる。

<三回目はフィレオー>
さて、17節です。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」ここに至って、イエスさまの問いかけの調子が変わります。それまでは「アガパオー」で問いかけていたのに、脚注をご覧ください。ペテロに対して三度目は「フィレオー」で問いかけられているのです。イエスさまは、ペテロに対して「アガペーの愛で愛し合う生き方」を求めることを、あきらめたのでしょうか。ペテロはとうとう、あきらめられてしまったのでしょうか。

結論から申し上げれば、イエスさまはペテロをあきらめたりなさいません。17節の最後では、同じように「わたしの羊を飼いなさい。」と、互いに愛し合うことを励ましておられます。また、今日は見ることが出来ませんけれども、18節以降、特に19節で、ペテロを「神の栄光をあらわす器」として見ておられることが分かります。主はペテロをあきらめたりなさいません。同じように、主は私たちをあきらめたりはなさいません。

まず、三回問いかけられたということ。それは、ペテロの失敗の回数でした。あの痛恨の極み。イエスなど知らない、と三度も言ってしまったあの出来事にイエスさまは寄り添ってくださるのでした。主はペテロが何回否定したか、ご存知でした。主はペテロの弱さをご存知で、そしてその回数分だけ、何回でも、失敗に付き合ってくださるのです。ペテロは三回問いかけられました。では私は、いったい何回問いかけられることかと思います。私は自分の信仰生活の中で、どれだけイエスさまを否定してしまっているか。互いに愛し合うという新しい教え「アガペー」から、遠く離れた自分の現状を見ます。互いに愛し合うのでなければ、それはイエスさまを愛しているとは言えない。しかし、それでも、主は私たちを見放さず、その失敗が深ければ深いほど、御声を、御言葉をかけ続けてくださいます。これは本当に慰め深いことです。励ましです。イエスさまの方であきらめずに、何回でも言葉をかけてくださる。

そしてまた、イエスさまがあえて「フィレオー」で問いかけられたということ。これは、ペテロに対して求めるレベルを落とされたということではないんです。「わたしの羊を飼いなさい」とありますから、主は依然として「互いに愛し合うアガペー」を求めておられます。では、なぜここへ来て「フィレオー」と言葉を変えられたのでしょう。

この違いにはあまりこだわる必要はないという解釈もあるのですが、でも三回の否認に合わせて三回問いかけられた、その最後の締めの質問だったことを考えると、この言葉こそが、悔い改めと回復のプロセスのまとめであったことが分かります。イエスさまは、罪ゆえの弱さに落ち込む私たちを励まし、新しい教えに生きるようにと一貫して私たちを導いておられて、その意味では依然として一貫して「アガパオー」なのですが、そのまとめとして「フィレオー」、「さあ、わたしの友として生きなさい」と招いておられるのではないでしょうか。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを友として愛していますか。さあ、友として私を愛しなさい。」キリストの友として生きる、そのことが、私たち一人一人にとって、回復のプロセスのまとめなのです。

キリストの友として生きる、そんなことは、クリスチャンなら誰だって願っていることです。ペテロだってそうでした。だからこそ、今まで三回問いかけられて、ずっと「フィレオー」で答えて来たのです。その意味ではペテロは心を痛めていたのは初めからでした。イエスさまを裏切ったのですから。17節で改めて「心を痛めて」と書いてあるのは、三回なら三回失敗に付き合ってくださったイエスさまの愛に気づけず、回復のプロセスの中に置かれているということに気づかないペテロの呻きです。主からの問いかけを、責められているようにしか受け取れず、イエスさまが「わたしの友でありなさい」と言ってくださったのに、なお、心を痛めているペテロです。

私たちも、日々、イエスさまを裏切ってしまう存在です。そして、そのことを悔やみます。イエスさまの方では、私たちを癒すための段階を経てくださっているのですが、そのこと自体に気づかないでいることが多い。私たちは、自分の弱さのゆえに主イエスに従えないことにずっと心を痛めて来て、その間の主のお取り扱い、主のみことばにも気づくことなく、相変わらず呻いているということがないでしょうか。

<主は共にいてくださった>
以前も開きましたが、詩篇73:21-23にこうあります。「21  私の心が苦みに満ち/私の内なる思いが突き刺されたとき/22 私は愚かで考えもなく/あなたの前で 獣のようでした。/23 しかし 私は絶えずあなたとともにいました。/あなたは私の右の手を/しっかりとつかんでくださいました。」ここで歌われているのは、自分の努力で主のもとに留まり続けましたという自負ではなくて、獣のような私と主は共にいてくださっていたという驚きです。キリストの友としておれないことに心を痛め、こんな自分ではクリスチャンと言えるのだろうかと呻く時。獣のような心でわめく時。しかし主が、私たちと共にいてくださるのです。そして、詩篇73篇はこう続きます。「24 あなたは 私を諭して導き/後には栄光のうちに受け入れてくださいます」栄光のうちに受け入れられる、つまり、私たちはキリストに似た者として成長するということです。霊的な成長、霊的な成熟が与えられるのだということです。私たちを通して、イエスさまのアガペーの愛があらわされるなんて信じられない気がします。それでも、聖書の御言葉がこのように励ましている以上は、それは必ずなるのです。

ヨハネの福音書に戻ります。「主よ。あなたはすべてをご存知です。」と、ペテロは心を痛めて言いました。主は私たちの弱さを全てご存知です。どんな時にキリスト抜きで物事を考えてしまうか。どんな時にキリストを否定して自らの身を守ろうとするか。主は全てご存知です。それと同時に、主は、心の奥底で、私はあなたの友でいたい、私はあなたについて行きたい、私はクリスチャンでありたいと願うその呻きをも知っておられます。主は「あなたを見放さず、あなたを見捨てない」とおっしゃいました(申命記31:8)。大丈夫。私たちは、キリストの友として召されています。

キリストの友。それは、「互いに愛し合う」という生き方です。主は言われます。「わたしの羊を飼いなさい。」(17節)キリストの友として、イエスさまの新しい教え、互いに愛し合うアガペーの愛に生かされる者でありたいと願います。それこそが、私たちに与えられた召しなのです。教会とはそういう者たちの群れです。復活のイエスさまにより頼みながら、互いに愛し合う生き方へとさらに導かれていきましょう。主は必ず、私たちをキリストの友として成長させてくださいます。そのことを信じ、待ち望みつつ、主があらわしてくださるその新しいことに、期待していきたいと思います。

ーーー
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。1ヨハネ4:12

私たちを友と呼んでくださった、主イエス・キリストの恵みと
無条件の愛で私たちを愛しておられる、父なる神の愛
そして、互いに愛し合う生き方へと私たちを導き続けてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
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【5/11】
ヨハネの福音書21章1節〜14節
イースター④「戻る場所、進む道」

<主イエスと出会った場所>
よみがえられたイエスさまは、まず墓のところでマグダラのマリアにご自分をあらわされた後、その日のうちに、弟子たちが集まっていたところにも来られました。その時トマスがいなかったわけですが、翌週トマスも含めて弟子たちがいる時にまた来られます。そしてヨハネが記す三回目は、今日の箇所であるティベリア、つまりガリラヤ湖の湖畔でした。他の福音書には、お墓のところでイエスさまが女性たちに向けて、「弟子たちに、ガリラヤに行くように告げなさい。そこでわたしと会えます」と言っておられるシーンがありますので(マタイ28:10)、弟子たちはまたイエスさまに会いたい一心でガリラヤまで戻ってきたのでしょう。キリストとの出会いの原体験の場に戻る。イエスさまと出会った時の事を思い出すことは大切です。イエスさまから語られたこと、その十字架から教えられた事を振り返った時に、今まさに直面している問題への答えであったということはよくありますよね。あの時イエスさまから、みことばを通して確かに語られた事が、今も変わらない励ましとして迫って来るのです。聖書って不思議ですよね。そのみことばには力があります。弟子たちにとってガリラヤ湖はイエスさまと歩み始めた、そして多くを共に過ごした思い出の場所です。ただの思い出ではなく、イエスさまのことばを思い出して今の糧とするための、大切な、いつもそこに戻るべき原体験の場なのでした。

イエスさまに会いたい。またここで会えると言っておられた!しかし、はるばるガリラヤ湖まで来てみても、そこですぐには会えませんでした。イエスさまが待っていてくださると思っていたけど、目の前には慣れ親しんだガリラヤ湖の湖面が静かに広がっているだけなのでした。何の変化もない。期待したものがないわけです。暇を持て余したか。イエスさまと出会う前の生業(なりわい)だった漁をするために船に乗りました。3節、ペテロが「私は漁に行く」と言うと、他の弟子たちもそれについて行きます。彼らはプロの漁師でした。しかし、その夜は何もとれなかった。何の成果もない。好ましい結果は何も得られなかったのでした。イエスさまに会えると思って期待してやってきて、でも何もない。誰もいない。そして何かやってみても、何の成果もない。焦ってしまうような場面です。

しかし、4節です。「夜が明け始めていたころ、イエスは岸べに立たれた。」聖書は朝のことを神さまと出会う最良のときとして教えているようです。モーセがシナイ山に登ったのも朝、ヤコブが神さまと格闘したのも朝でした。詩篇27篇4節には「(主の)宮で思いを巡らすために」とありますが、この「思いを巡らす」が「朝」を意味する言葉と語呂合わせなんですね。また同じく詩篇63篇1節には「私はあなたを切に求めます」とありますが、この「切に」は「暁」とか「夜明け」という意味が含まれます。イエスさまご自身も朝早くに祈る時間を持っておられましたし、復活されたのも「朝早くまだ暗いうちに」でした(ヨハネ20:1)。朝の何時であるべきだという決まりはありませんが、まだ誰にも邪魔されない時間帯、何の予定ともバッティングしない時間帯に神さまと二人だけの時間を持つということを意識したいですね。

<イエスに気がつかない>
しかし、それにしても、イエスさまがご自分を示されたのに、分からないでいるということがありますね。4節後半です。「弟子たちには、イエスであることが分からなかった。」この時の弟子たちは、また会えると言われたのになかなか会えずに、どうしてお会いできないんだと焦っていたと思われます。特に三回もイエスさまを知らないと言ってしまったペテロは、そのことで取り扱いを受ける前なので、まだまだ落ち込んでいたと思われます。私たちも、いろんな要因が重なって、イエスさまに気づかないことがあるのです。そこに人影があるのはわかります。誰かが岸べに立っているのは見えている。でも、それがイエスさまだとは気がつかない。

私たちも同じです。もしかしたらイエスさまは困っている人、小さく弱っている人の姿で目の前に既におられるのかもしれない。私たちが思いもよらない方法で、思いもよらない方向からこえをかけてくださるのかもしれない。それになかなか気がつけない私たちです。

普段の暮らしの、普通の出来事の中に、主がおられます。あそこに見える、岸べに立っている人の影という、普通すぎてそのまま通り過ぎてしまうような出来事の中に、主がおられる。普段の何気ない出来事の中に、神さまの声が聞こえるのです。その声を聞き逃してはいけません。

<「子どもたちよ。」>
5節、その声は言いました。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」イエスさまが弟子たちに向けて「子どもたちよ」と呼びかけられたのはこれが初めてではありません。十字架にかかられる前、13章33節で新しい戒めを与える場面で彼らをこう呼びました。ギリシャ語の単語自体は別の言葉なのですが、イエスさまは「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを与えたその時に、弟子たちに「子どもたちよ」と呼びかけておられるのです。そして、ガリラヤ湖畔でもまた「子どもたちよ」と。あの時主が言われたことを思い出すようにと、著者ヨハネは特別に意識して書いていると思われます。聖霊がそのように導いておられる。それは読み手の私たちに対しても同様です。イエスさまと出会い直すとは、「互いに愛し合いなさい」というイエスさまのことばを思い出すということなのです。

見知らぬ人から「食べるものがありませんね?」と聞かれて、素直に「ありません」と答えるしかない彼らでした。しかし、それは神さまからの問いかけだった。イエスさまからの問いかけだったのです。何も獲れなかった彼らは、自分の無力さを思い知らされていたわけですが、このように素直に答えられて幸いでした。私たちの周りにも、自分の無力さを知らせてくれる人がいます。その言葉に素直になれたら、そこで主と出会うことができるのだと思います。

<「主だ。」>
6節は弟子たちの召命の場面を彷彿とさせます。イエスさまがこの同じガリラヤ湖で彼らに向けて「わたしについてきなさい」と言われた時、まさに同じことが起こりました。ルカの福音書5章にありますが、あの時も全く何もとれていなかった。しかし、イエスさまの言われる通りにしてみたら、網が破れそうなほどの大漁となったわけです。そして主は言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」そして、その通りに彼らは歩んできたのです。罪の深みから人々を救い上げる漁師として、人々をイエスさまにつなげるものとして、イエスの弟子として、彼らは歩んできた。その最初の出来事をヨハネが思い出しました。7節、「イエスが愛されたあの弟子」、これは福音書を書いたヨハネ本人のことです、彼が言いました。「主だ。」自分の無力さに気づかせてくれる見知らぬ人がいれば、直接「主だ」と教えてくれる友人もいる。ペテロは上着をまとって湖に飛び込みました。とにかく会いに行かなければ。会って何が言えるかわからない。これまで復活のイエスさまに二回は会っていますが、そのどちらでも彼はイエスさまに対して何も言えなかった。謝れなかった。多分、顔を見れていなかったと思います。また何も言えないかもしれない。でも、湖に飛び込んででも早く主の元に行きたい。あの頃のように。そう思ったのではないでしょうか。他の弟子たちは網を引きながら船でやってきました。「200ペキスほどの距離」というのは、100メートルほどのことですね。5節、6節の会話はかなりの大声で叫ぶようにしてのものだったでしょうね。

9節、彼らが陸地に上がった時、そこには炭火と、魚と、パンの食事が用意されていました。そこに今とれた魚も少し加えるようにとイエスさまのことばからは、生活感といいますか、優しさを感じますね。食事とは赦しと受け入れの行為です。イエスさまはペテロを赦しておられたし、ペテロもそのことを感じていました。もっとも、以心伝心で済ませるのではなく、15節以降で言葉と言葉を交わすことになるわけですが。

11節「153匹の大きな魚」、これは誰が数えたんでしょうね。獲れた魚は数えるのが普通だったのかは分かりませんが、とにかく大漁です。そして、それほど多かったけれども、網は破れなかったとあります。先ほども言いましたが、イエスさまはここで弟子たちに、人間を取る漁師としての召命を再確認させています。その網は破れない。これまた意味深です。イエスさまに言われる方法で人々を漁るなら、舟の右側に網を下すなら、大漁になる。網は破れない。この後、聖霊を受けた弟子たちは世界中に福音を伝えていきますけれども、この時の破れなかった網のことをいつも思い出していたことでしょう。153匹の魚は、世界中にいる神の民の象徴です。これからもどんどん増えていくでしょう。

イエスさまは言われました。「さあ、朝の食事をしなさい。」信仰とは心だけの問題なのではなく、身体も大事です。イエスさまは肉体をとってこの世に来られましたし、私たちの肉体的な弱さも知っておられます。主の祈りで「私たちの日毎の糧を、今日もお与えください」と祈るたびにそのことを思い出し、主が養ってくださることに慰められます。そして、繰り返しになりますが、食事とは赦しと受け入れの行為です。かつ、先ほど触れたようにイエスさまはここで「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めについて念頭に置かれているようです。互いに愛し合う、互いに赦し受け入れ合うということを貫いていく事は私たちの頑張りではできないわけですが、イエスさまが真ん中にいてくださってのみそれは可能なんですね。イエスさまが招いてくださる食事です。「さあ、朝の食事をしなさい。」イエスさまが真ん中にあってこそ、それは可能なんですね。

弟子たちはもう誰も「あなたはどなたですか」とは尋ねませんでした。見知らぬ人や旧知の友から示されたりしながら、私たちはイエスさまの声を聞き分けていきますけれども、ああ、確かに主だ。ああ、これでいいのだと確信を与えられたなら幸いです。直面している問題へのそのものずばりの回答というのは聖書には書いてありませんが、神さまのみことばによって平安を与えられ、ああ、主よ、これでいいのですね、この選択でいいのですね、こちらでいいのですね、と分かるわけですよね。そうやってイエスさまの声を聞きながら歩んでいきたい。

<弟子としての召命の再確認>
14節「イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。」一度目は慰めと平安を与えるために。二度目は復活の確信を与えるために。そして三度目は弟子としての召命を再確認するために。イエスさまはご自身を現されました。このどれもが大切です。イエスさまと出会うということにはこういう意味があるのだということです。イエスさまと出会い直すことには意味があるのです。私たちもイエスさまから慰めと平安を頂きましょう。「平安があなたがたにあるように」と主は言われます。そして復活の確信を頂きましょう。主はよみがえられました。そう、主はよみがえられました。そして、私たちもよみがえります。その上で、今日この箇所が強調しているのは、弟子としての生き方、役割の再確認です。人間を取る漁師としての召命の再確認です。イエスさまの弟子は、神さまから慰めをいただいたなら、平安と励ましを頂いたなら、その希望を、喜びを、それぞれが置かれたところで証をしていくのだからです。

「人間をとる漁師」ということばについてですが、マタイの福音書でこのことばに触れた時に、彼らは漁師だったから「人間をとる漁師」と言われたという話をしました。では、私たちは何と呼ばれるでしょう。私たちは何になるべく召されているのでしょう。人間をとる学生?人間をとる高齢者?いや、「とる」という表現自体が漁師に関連しています。私たちは漁師ではないのなら、それでは主の弟子としての私たちの生き方とはどのようなものでしょうか。地の塩として、世の光として、具体的にどう生きるのか、どのように主に従っていくのか、ぜひ考えて続けていただきたいのです。

また、「舟の右側」に網を打つ、網を下ろすということについて。実は2018年のイースターにここを開いて、教会としての歩みを祈り求めていきましょうとお話ししたのです。今までとは違うあり方を、今までとは違う方法を考えていきたい。いや、イエスさまがそのように導いておられる方法、「そっちじゃない、こっちだよ」とイエスさまが言っておられることに気づいていきたい。それは今も同じです。お一人お一人が主の弟子としてどのように歩むかと同様に、私たちが教会としてどのように歩むか。どのようにして主の弟子たちの集まりとして歩んでいくのか。なお一層、導きを求めていきましょう。イエスさまは何度でも私たちと出会い直してくださいます。私たち一人ひとりと。そして関西集会というこの教会としても、私たちは主に出会い直すことができる。主の導きに期待しつつ、祈っていきましょう。

ーーー
「私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。」詩篇130:6

私たちを弟子として見ていてくださる主イエス・キリストの恵みと、
御子イエスをよみがえらせ、それを信じる私たちをもよみがえらせる父なる神の愛、
そして、人間をとる漁師としての生き方を教え、励ましてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
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【5/4】
ヨハネの福音書20章19節〜31節
イースター③「聖霊を吹きかける復活の主イエス」

イエスさまの復活をお祝いするイースターの季節を過ごしています。イースターは最近有名になってきましたけれども、私たちの罪のために十字架にかけられて死んだイエスさまがよみがえられたことをお祝いする、キリスト教のお祭りです。そのことを信じる私たちは、毎年これを思い返したいと思います。イエスさまは私たちの罪のために、というよりも、むしろ私たちの罪そのものとして十字架上で処分されてくださったわけですけれども、それはつまり、私たちの罪も恥も弱さもすべて、私たち自身がイエスさまと共に十字架で死んだということなのだと聖書は語っています。そして、イエスさまがよみがえられた以上は、私たちも復活するのです。それが聖書の考え方なんです。イエスさまがよみがえられたから、やがて私たちも復活します。それだけでなく、今もその前味として復活のいのちを生きていける。私たちはもう、いまだに引きずる弱い自分、古い自分に絶望しなくていい、今私たちは復活のいのちを生きている。それが復活祭イースターの意味でした。キリストが復活されたという知らせは私たちの生き方を変えるんです。


先ほど読んだ箇所に、イエスさまの弟子たちが出て来ました。イエスの弟子たちと言えば、初代教会のリーダーとなった人たちです。イエスさまが十字架で死なれた時には、彼らも絶望したんです。でも、復活の主イエスに出会って変えられたのでした。復活のイエスさまとの出会いがどのようにして起こったのか、今週もまた引き続き見て参りましょう。

<19節〜20節 不安の只中に来られる主イエス>
「その日、すなわち週の初めの日の夕方」、これは日曜日の夕方ということです。以前もお話ししましたが、ユダヤでは日没から一日を数えますので、金曜日にイエスさまが亡くなってから、金曜日、土曜日、日曜日と足掛け三日目が終わろうとしている時間帯でした。「弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。」とあるのは、文字通り、弟子たちは屋内に閉じこもって鍵をかけていたのです。「戸」というのはもともと複数形で書かれていますので、建物の入り口だけではなく、部屋の入り口にも鍵をかけ、あちこち鍵をかけて閉じこもっていたということです。なぜ、彼らはここまで恐れていたのでしょうか。彼らはマグダラのマリアから「よみがえられたイエスさまに出会った」という報告は受けていたわけですし、ペテロとヨハネは空の墓も確認してきたわけです。ヨハネに至っては、主がよみがえられたことも信じ始めていました。しかし、彼らは「ユダヤ人を恐れて」いました。イエスの墓が空になっているということの知らせは、祭司長たちにも知られていました。しかも、「弟子たちがイエスの遺体を盗んでいって、イエスが復活したとデマを流している」という噂も流れ始めていたのです(マタイ28:11-16)。まだ混乱の中にあった弟子たちが、噂に恐れをなして閉じこもってしまったのも無理はありません。私たちも、自分の心の中に何重にも鍵をかけて閉じこもっていることがあるかもしれませんね。恐れと不安でいっぱいになって、隠れよう、隠そうとしていることがある。それは無理もないことです。


しかし、そこにイエスさまが来られるのです。恐れと不安のその場所に、隠れていたい場所に、私たちの主は来てくださる。あの日、弟子たちがいたところには部屋という部屋に鍵がかけられていたけれども、イエスさまが来られ、彼らの真ん中に立って「平安があなた方にあるように。」と言われました。これは幽霊のようにフッと現れたということではありません。この直後に、「わたしは幽霊ではない」ということを示しておられるわけですから。イエスさまは鍵を開けて入って来られたんでしょうね。使徒の働きにも、ペテロが投獄されていた際に、天の使いが鍵を開けるシーンが出てきます(使徒12:10)。とにかく、幽霊ではなく、もしくは実態のない、何か彼らの思い出の中だけの出来事でもなく、イエスさまは実際に来てくださったのだということです。恐怖と混乱、疲弊の只中にあった彼らのところにイエスさまが来てくださった。何重にもかけた鍵をものともせずに、イエスさまは来てくださいました。私たちの心の中にもこの方は来られます。

扉を開けて入ってきてくださるといえば、私たちがイエスさまを信じた時、私たちの心の扉をイエスさまが外側から開けることはなさいませんでした(黙示録3:20)。扉を開けることは私たちに任されていた。今日の話はそれとは違って、私たちがうずくまって隠れているところに主は来てくださるということです。共にいてくださるということが今朝の箇所では強調されています。

<平安があるように>
「平安があるように。」安心しなさい、と主は言われます。以前学んだように、「平安」とはヘブル語で「シャローム」ということばです。平安とか、平和と訳されることばです。しかも、ただの安心、ただの平和というだけでなく、神さまによる完全な力といのちに満ちた、生き生きとした意味があると説明されます。つまり、ただ争いがないこと、心配事がないことというよりは、もっと積極的に、神さまが与えてくださるあらゆる良いものに満たされている状態。健康も、安全も、生活も、あらゆる領域に神さまの恵みが満ち溢れている状態。それをシャロームと言うのです。ヘブル語の挨拶は今も、この「シャローム」です。神さまの恵みと祝福がありますように、神さまの平安がありますようにということですね。イエスさまは、私たちにシャロームと声をかけてくださるお方です。


イエスさまは今、間違いなく生きておられる。そして、今ここに共にいてくださる。20節、イエスさまは手と脇腹を彼らに示されました。その傷は十字架にかけられた時の傷です。紛れもないイエスさまでした。イエスさまご自身がここにいてくださる。このことは、暗闇の中にいる人にとってどれほど平安なことであり、喜びであることでしょう。どれほど、「シャローム」であることでしょう。今、暗闇の中にいるという人がいるかもしれません。今、疲れ切って隠れているという人がいるかもしれません。これからそういう場面になるかもしれない。そんな時は、私たちのために、あなたのために十字架にかかられたその傷跡そのままの、イエスさまご本人がそこに来てくださること、「シャローム」を与えてくださることを忘れないでください。

<主を見て/主と会って>
「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。これは主にお会いして喜んだということです。日本語でも英語でも「見る」という言葉には「会う」という意味がありますよね。「まみえる」とか、「Nice to see you(お会いできて嬉しいです)」とか。新約聖書が書かれたギリシャ語でも同じです(ヘブル13:23等)。ここで弟子たちは、イエスさまと「会って」喜んだんです。見るとは、会うこと。信仰とは、信じるとは、何か目に見えない得体の知れない何かを、いると思い込んで、頭の中で強く思い描くということではありません。確かに、今私たちはイエスさまを見ずに信じているわけですが、それは、本当はいないはずの何かをいると強く思い込むということではありません。イエスさまを信じるとは、イエスさまに「会う」ということなんです。しかも、私たちが努力してこの方に会ったんじゃない。この方の方から、イエスさまの方から私たちに会いに来てくださった。私たちがイエスさまを選んだのではなく、イエスさまが私たちを選んでくださったという箇所がありますが(ヨハネ15:16)、今日のこの箇所でも同じです。イエスさまの方から会いにきてくださっています。


<24節〜29節 トマス>
さて、ここで先に24節〜29節を見ておきますが、弟子たちがイエスさまに会ったその日、弟子の一人のトマスはそこにいませんでした。何と復活なさったというイエスさまに、彼は会い損ねていました。後から話を聞いたトマスは、「私は決して信じません。」と断言します。トマスは疑い深かったというよりも、これは自分だけ奇跡を体験していないという寂しさや焦りから来た態度だったのではないかと思います。というのも、彼は以前、これからどうなってしまうのだろうというような場面で、他の弟子たちを鼓舞してこう言っています。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(ヨハネ11:16)ペテロと似たようなタイプの熱血漢だったようです。しかし、その自分が、自分だけがイエスさまに会っていない。寂しさというか悔しさというか、思わずこう言ってしまったのではないでしょうか。つまり、これは「私も信じたい!」という叫びだったと思うのです。


そのトマスにも、イエスさまは来てくださいました。八日後、つまりまた日曜日にイエスさまは再度来られました。トマスもいる時に。そして、「平安があなたがたにあるように。」と再び言われたのです。ちなみに、弟子たちはまた扉をしめて鍵をかけていたとありますから、ここ最近繰り返していますように信仰の確信は徐々に徐々にだということをここでも再確認します。だから、トマスのためだけじゃない、弟子たち皆のためにまた来てくださったのですね。何度でもご自身を表してくださる主です。

それでも27節以降は明らかにトマス一人のためでした。トマスが言っていたこともご存じで、その答えとして手と脇腹を示されました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」「見ないで信じる人たちは幸いです。」これはトマスを叱ったのではなく、信仰とはこういうものだよと励ましておられるのです(Ⅰペテロ1:8-9)。背中を押してくださっているんですね。

イエスさまのシャロームを信じたい、でも自分はそこにいなかった。イエスさまのシャロームは自分には縁がない。そう思っていたトマスにも、イエスさまはその信仰を励ましに来てくださいました。私たちも同じです。私たちも、神さまの恵み、主にある成長、霊的成熟、そういったことは私には縁がない、そうつぶやいてそっぽを向いていることがあるかもしれません。でも、イエスさまはあなたをあきらめない。あなたを離さない。そして、わたしのシャロームを受け取りなさいと何度でも迫ってくださるんです。それをまた、見ないふりをするのでしょうか。主はここにおられます。見ずにそのことを信じる者は幸いですと、私たちを、あなたを励ましておられるのです。

<21節〜22節 聖霊を吹きかけられる>
さて、21節に戻ります。イエスさまが「シャローム」と繰り返された理由がこれです。「父が私を遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」父というのは、父なる神のことです。この世界を造られたお方。私たちの罪の赦しのために、ひとり子イエスさまをこの世に遣わされました。イエスさまは、この方の御心の通りに生きられた。十字架にかかって死ぬというほどに、完全に父なる神に従って生きられました。それと同じように、今度はイエスさまが私たちを遣わされると言うのです。イエスさまの御心の通りに生きるようにと。神さまの御心の通りに生きるようにと。そういって、弟子たちに息を吹きかけられました(22節)。


創世記に、次のような記述があります。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」(2:7)これは、天地創造のストーリーの中でも特別に際立っている箇所です。人間だけが、神さまのいのちの息を吹き込まれて造られました。だから、人には役割と責任があるんです。神さまを礼拝できるのは人間だけです。そして、神さまが造られたこの世界を大切に管理できるのは人間だけです。私たちの、あなたの存在には意味がある。神さまにとって、私たち一人ひとりはかけがえのない存在なのだと聖書はその最初から語っているのです。しかし、そのすぐ後の創世記三章に、人の心に罪が入った様子が記されている。それ以降、人と神との関係、人と人との関係(ここには自分自身との関係も含まれます)、そして人と世界との関係は歪んでしまいました。

イエスさまの十字架はその罪の歪み、つまり的外れの状態を正すためのものでした。十字架にかかってそのみわざを完成されたイエスさまはよみがえられて、そして今一度私たちにいのちの息を、神の息を吹き込まれます。これは新しい創造です。創世記のあの箇所が繰り返されている。新しい創造なんです。私たちはイエスさまにあって新しくされる。新しい人となる(コロサイ3:10)。そうやって、遣わされていくのです。神さまの御心をこの世界に広げていくために。イエスさまが教えられたみことばをこの世界に広げていくために。そうやってこの世界を管理する、この世界に仕えていくために、そのために、いのちの息が必要なのでした。息というのは聖書のことばでは「霊」を意味します。神の息とは、それすなわち聖霊です。ペンテコステを前に弟子たちには聖霊が吹きかけられていたんですね。もっとも、イエスさまが天に昇ってから聖霊が来られたというペンテコステが決定的な日ですので、これはその前の旧約時代と同様に、特別なケースとしての聖霊の注ぎかけということになります。この時、聖霊を、神の息を吹きかけられたのはここにいた弟子たちだけでした。十一人の弟子たちと、マグダラのマリア他数人の人たちだけだったと思います。主イエスを信じるすべての人に聖霊が注がれるという出来事は、これから50日後のペンテコステの日を待つことになります。

<23節 赦しの福音を携えて>
さて、23節にはドキッとするようなことが書いてあります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」これはどういうことでしょう。


まずこれは、「誰かがあなたに罪を犯した場合、あなたが赦すならその罪は赦され、あなたが赦さないならその罪は赦されません」ということではありません。究極的な罪の赦しは神さまがなさることですし、個人的なあなたへの罪を赦すかどうかという話がここでされているわけでもありません。それについては、何度赦すべきですかという弟子の質問に対して、イエスさまは七度を七十倍、つまり完全に赦せとおっしゃっています(マタイ18:21-22)。これは簡単なことではなくて、まずは人を赦すことができないそのままの自分でイエスさまに向き合い続けることこそが大切だと思います。今日のこの箇所で言われていることは、罪の赦しを宣言するという役割についてです。

解説を入れながら詳しく言い直すなら、「あなたがたが、だれかの罪に関してイエスさまの十字架の赦しを宣言するなら、つまりその人にイエスさまを紹介し、その人が罪の赦しを受け入れるなら、その人の罪は赦されます。」ということ。逆に「その人に赦しの福音を伝えないなら、それはそのまま残ってしまうのだから。」という話です。つまり、赦しの福音を伝えなさいということ。その人の罪の赦しのために、イエスさまの赦しの福音を伝えなさいということですね。そのために遣わされていく。そのためにイエスさまは私たち一人一人を遣わされる。いや、今すでに遣わされているのです。

罪というのは犯罪のことではなく、先ほども言ったように神さまとの関係が歪んでいる状態のことです。だから様々な生きづらさが生じます。関係の破れが生じます。でもその状態を神さまは癒してくださる。回復させてくださる。イエスさまの十字架によって、回復させてくださる。その知らせを伝えるようにと、イエスさまは聖霊を吹きかけて弟子たちを遣わされました。私たちも同様です。聖霊に満たされて、神の霊に満たされて、罪の赦しの宣言を、十字架と復活の福音を、人々に証しするべく遣わされているのです。

<私たちもイエスさまと出会える>
イエスさまと出会わなければならない、出会い続けなければならないのは、私たちも一緒です。私たちはイエスさまと出会い、イエスさまを救い主として信じ、今を歩んでいますが、なおなおイエスさまと出会い直していく必要があります。弟子たちのように徐々に徐々に、何度でも繰り返して、出会い直していくのです。劇的な出会いがあるかと思えば、聖書のみことばを通して心が燃やされるような、静かな出会い方もあるでしょう。


この箇所を読みながら、改めてイエスさまと出会っているような感じがします。ここを読むたびにそうです。こうやって、何回でも出会い直していくんですよね。

イエスさまは、私たちの固く閉ざされた心の扉を開けて、ご自身が生きておられること、共にいてくださることをはっきりと示してくださいます。今日の箇所は、失意のどん底にいる私たちに、「わたしはここにいるよ、一緒にいるよ」ということを教えてくださるイエスさまだということが強調されている。聖書の大切なことばに「インマヌエル」という表現がありますが、「神は私たちと共におられる」という意味です。復活のイエスさまは、今も私たちと共にいてくださいます。
それは聖霊においてです。私たちは聖霊を内に宿すものとして新しく創造されました。新しい人とされました。依然として古い生き方をひきずってしまうものですが、何度でも自分は新しくされた者だったと思い出しましょう。31節に「これらのことが書かれたのは・・・あなたがたがいのちを得るためである。」とあるように、私たちは新しく創造され、新しいいのちを得て、新しい人とされました。私たちは新しいいのちを生かされています。イエスさまのシャロームを、生かされている。


であるならば、イエスさまの十字架による赦しの知らせを人々に伝えていきたい。新しく生きることができる、その良い知らせを、福音を、伝えていきたいと思います。この福音は自分にも、今なお必要なんです。私たちだって同じです。何度でも新しくされていく。自分もそのように生きることによって、この福音を証ししていきたいです。聖霊なる神はそのように私たちを導いてくださいます。神さまのなさることにお委ねしつつ、期待しつつ、これからもインマヌエルの主と共に歩んで参りましょう。

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神の霊が私を造り、/全能者の息が私にいのちを下さる。(ヨブ33:4)

私たちに平安を与えて遣わしてくださる主イエス・キリストの恵みと、
御子の十字架と復活による新しいいのちを与えてくださった父なる神の愛、
そして、私たちを用いて赦しの福音を証ししてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
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【4/27】
ヨハネの福音書20章11節〜18節
イースター②「名を呼んでくださる方」

先週は感謝なイースターの礼拝でした。しばらく、イエスさま復活の後の様子を読み進めていきたいと思います。そうすることで、ペンテコステに向けての良き備えになることを願っています。

<11節>
「一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」

このマリアとは、1節にあるようにマグダラのマリアのことです。聖書にはマリアという名の女性が複数出てきますが、マグダラ出身のマリアということでこのように呼ばれました。かつて、彼女には7つの悪霊が住み着いていました(ルカ8:2)。7つの悪霊とはどういうことか。悪魔(サタン)の手下は悪霊と呼ばれます。7というのは完全数ですから、ただ単に複数の悪霊が住み着いていたということ以上に、もう完全に悪魔に捉われていたという意味でもあったと思います。両方の意味があるでしょうね。具体的に、マリアがどのような状況に陥っていたかについては明確な記録はありませんが、悪霊がたくさんとりついていた事例として、ガリラヤ湖の向こう岸、ゲラサ人の地での出来事があります(ルカ8:27)。あの人の場合には「レギオン」つまり「ローマの軍団6000人の兵士」という名前の悪霊が取り付いていました。文字通り悪霊が6000取りついていたという意味なのか、比喩だったのかはわかりませんが、実際、最終的にはそのレギオンは豚の群れに乗り移っていきますから、数という意味でもやはり相当の数の悪霊が取りついていたのです。彼は墓場に住み、自分の体を傷つけ(マルコ5:9)、鎖で押さえつけられてもそれを引きちぎってしまっていました。マグダラのマリアもそれに近い状況があったと思われます。誰も助けることができなかった。しかし、ナザレのイエスという方が。レギオンに取り憑かれていた人も、そしてこのマグダラのマリアのことも、悪霊から解放したのです。

「Chosen」(選ばれし者)という海外のドラマがあって、イエス・キリストの生涯や弟子たちの生き方が描かれているのですが、各種配信サービスや、専用のアプリでも観ることができます。先日、ふと思い出して観てみました。マグダラのマリアの話からスタートするのです。初めてイエスさまと出会ったシーンは終盤で唐突にやってきて、思わず涙が出ました。ドラマですから創作された脚本ですけれども、聖書のメッセージを印象深く描いていますので、ぜひご覧いただけたらと思います。マリアはイエスさまに救われたんです。彼女はイエスさまに出会って人生が変えられました。

そのマリアが、空になった墓の前で泣いています。自分を救ってくれた、自分を正気に戻してくれた、自分を助けてくれた方が十字架刑で殺された。何も悪いことはしていないのに、私たちは、私は、あの方を助けることはできなかった。自分は助けてもらったのに、助けることはできなかった。せめて遺体でもいいから近くにいたくて、お墓参りに来たわけです。日本のように火葬して遺灰を収めるお墓ではなく、没薬や香料などで遺体に腐敗防止処置をして、布で巻いて、岩をくり抜いて作った小部屋に安置するというというお墓です。その墓が空になっていた。お墓参りに来たら、墓石がどけられていて、中の骨壷がみんな消えていたというような状況です。墓が空になっていたのです。

マルコやルカの福音書では、マリアと他の女性たちはイエスさまの遺体に香油を塗りに行ったということになっています(マルコ16:1-3、ルカ23:56-24:1)。イエスさまが息を引き取った金曜日の夕方というのは、日が暮れれば安息日が始まってしまいますから、急いで埋葬された様子が伺えます。香油が足りていないと思ったのかもしれません。しかし、ヨハネの福音書では19章39節、40節からもわかるように、すでに相当量の香油が用いられている。今日、この箇所から読み取れるマリアの心境とはどのようなものだったのでしょうか。香油の処置はニコデモがすでに十分にやってくれました。香油が足りていないということではない。ここで描かれているマリアは、香油が必要だからと行ったのではなく、ただただお墓の前に行きたかっただけなのではないでしょうか。あれをしなければならない、もっとこれをしておかなければならないというようなことではなくて、そんなことはどうでもよくて、ただ、静かに、イエスさまの遺体が置かれている墓のそばにいたかった。ただ、それだけだったのです。

そうだとすると、先週20章1節で「石が取りのけられていた」ということについて、「イエスさまと会うのに邪魔なものはすでになかった」ということを話しましたが、そしてそれはそれでいいのですが、ただ、今日のこの場面ということにこだわってみるなら、「石が取りのけられていた」のなら、そこで感じるのは「これでイエスさまの遺体に香油が塗れる」というどこかホッとした安堵の気持ちではなくて、ただただ、どこまでも不安と混乱でしかないのです。イエスさまが死んでしまった、それだけでも今は辛いのに、遺体すらなくなってしまった。墓が空っぽになってしまったというのですから。

四つある福音書が描き分ける違いというのは、どれもが本当なわけですが、特に今日は、私たちはこのマリアの悲しみと混乱に心を寄せるべくここを開いています。他の見方ができればいいのかもしれない。香油を塗れるとホッとすればいい場面なのかもしれない。でも、自分としては途方に暮れて、泣くしかない。できることはなにもない。そういうことがあるわけですよね。

<12節〜>
12節「すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。」白い衣を着た天使というのは、今起こっている出来事が神さまの力によることの証でした。通常神さまの働きは、地の塩・世の光である私たちを通してあらわされていくことが多いわけですが、超自然的な形で神さまの奇跡がなされることがあります。普通ならまったくあり得ないことが、起こったのです。イエスさまの遺体が見当たらないのは、盗賊や墓荒らしにあったからではありません。神さまの奇跡でよみがえられたから、なのでした。

御使いはマリアに言いました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」この「女の方」という表現には高貴な女性に対する尊敬の単語「ギュナイ」が使われています。優しく、それでいて敬意を込めて呼びかけているんですね。イエスさまはよみがえると言っておられたのに(ヨハネ2:19-22、マタイ16:21など)、いざそのことが起こった時にそれが分からないで泣いている、つまりみことばの約束を思い出せないで苦しんでいる、これは私たちの姿そのものです。みことばの約束を思い出せないで、途方に暮れているのです。でも、御使いは(つまり彼らを遣わした神さまは)、敬意をもって接してくださる。

マリアの答えは「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」というものでした。御使いを目の当たりにして、何か不思議なことが起こっていることは理解したでしょうが、まさかイエスさまが復活したとは思っていない。そう言っていた主のみことばを思い出せないままでいるのでした。

ところで、御使いがマリアに告げたように、自分はなぜ今泣いているのか、何を不安に思っているのか、そういったことをあえて自分に問いかけてみることで考えが整理される。見えてくることがある。これは私たちも日常的に経験するところです。言語化してみる。ぐちゃぐちゃした思いを、自分の言葉で言い表してみることが大切なわけですよね。ただ、冷静に自分自身に問いかけることって結構難しかったりしますから、そのために声をかけてくれる、まさにこの御使いのような存在を、神さまは与えてくださいます。

なぜ泣いているのか、自分のことばで表現してから、彼女は振り返ります。誰かがいることに気がついたからです。しかし、それがイエスさまだとはまだ気づいていません。イエスさまとの出会い直しというのは、このように徐々に、徐々になされていくんですね。先週のヨハネと同じです。

イエスさまと出会っていながら、なお、マリアは「あなたがあの方を運び去ったのでしたら・・・」と言っています。彼女はまだ、主の復活に気づいていないのです。それでも、それでも、イエスさまとのやりとり、ことばのやりとりを重ねていくことが大切です。私たちだってそうです。大変なことが起こった時に、途方に暮れた時に、そのぐちゃぐちゃした心のままでイエスさまに祈る。イエスさまにことばで伝えていくんです。そのようなことばのやりとりを重ねていく中で、主は直面している出来事の意味を教えてくださるし、ご自身がそこにおられるということを決定的に見せてくださいます。

<16節 名前を呼んでくださる方>
16節「イエスは彼女に言われた。『マリア。』彼女は振り向いて、ヘブル語で『ラボニ』、すなわち『先生』とイエスに言った。」

イエスさまは悲しみのどん底にいるマリアのそばにいてくださった。マリアは気づいていなかったけれど、イエスさまはマリアと一緒にいてくださっていた。そして、イエスさまの方から名前を呼んでくださる。名前を呼ぶというのは、その人を目がけて語りかけるということです。その人の人格に向けて語りかけるということです。そして、呼ばれた側も、ああ、自分が呼ばれているとはっきり分かるわけです。目の前のこの人は、他の誰でもない、自分に声をかけているのだと、自分が呼ばれているのだとわかるわけですよね。名前を呼ぶことは、人格的なやりとりにかかせないことです。イエスさまは「マリア。」と彼女の名前を呼ばれました。

イエスさまに気づいたマリアは「ラボニ」と呼びかけます。先生のことをアラム語で「ラビ」と言い、「ラボニ」というと「私の先生」という意味です。これまでマリアは「誰かが私の主を取っていきました」と言っていました。「主」というある意味立派な表現を使っていますが、それは自分の理解できる範囲内での主だった。自分が理解している範囲の中でイエスさまを手元に置いておきたい、イエスさまの遺体とはこうあるべきだ、ここにあるべきだという自分の思いがあった。そういう意味での「私の主」だった。しかし、イエスさま本人に気がついた時、マリアはおそらくそれまでずっとそう呼んできた「ラボニ」という呼び方で、つまり、イエスさま自身へ向けて、イエスさまを呼びました。人格的なやりとりとしてイエスさまに呼びかけたのです。マリアには、正真正銘、これがイエスさまだと分かったのです。その方は自分の理解は遥かに超えて、復活なさったお方です。マリアは本物のイエスさまに出会って、すがりつくようにして抱きついたのだと思います。

ところで、ヨハネはわざわざこれがヘブル語であったと記しています。「ラボニ」という言葉です。アラム語とヘブル語はとても似ているのですが、マリアの呼びかけは本来は話し言葉のアラム語であったはずだし、この「ラボニ」というのもアラム語です。それを、著者のヨハネはなぜ「ヘブル語で」と断り書きをしているのでしょう。

ヨハネはこの福音書をギリシャ語で書いていますが、福音書に登場する人々が話していた言葉、ユダヤ人の話し言葉はアラム語です。人々が互いに話し合っていたのはアラム語で、それをヨハネがギリシャ語で記録しているというわけです。もう一つ大切な言語があって、それがヘブル語でした。旧約聖書が記されたヘブル語は当時は日常の話し言葉ではなく、聖書の朗読など宗教的な場面、礼拝の場面で用いられていました。マリアがここで「ラボニ」と呼びかけたアラム語を、あえてわざわざヘブル語だとしたのは、この二つがよく似ているということよりも、この言葉は単なる呼びかけではなくて、これはマリアの信仰告白だったのだということをヨハネが強調しているのだと思います。

マリアが普段呼びかけていたような親しい呼び方でも、それが祈りになり、信仰告白になるということです。かしこまって「主よ」とか「神さま」「天のお父様」という表現を使う祈りでなくても、私たちは神さまとのやりとりができる。祈ることができます。特別な祈りの言葉でなくてもいい。礼拝のメッセージに則った長い祈りでなくてもいい。普段の自分の言葉、普段の呼びかけでいいのです。その一言でイエスさまと呼び合い、語り合うことができます。言葉のやりとりができます。ことばのやりとりですね。大切なのは形式ではなく、心からの言葉であるかどうか。私たちも、借り物ではない自分自身の言葉で、今ここにおられるイエスさまに応答していきたいですね。

17節、18節は軽く触れる程度にしますが、すがりついてくるマリアに向けて、イエスさまは「わたしにすがりついてはいけない」と言われます。まだ父のもとに上っていないからと。つまり、これからイエスさまは天に上るということです。イエスさまは、ご自分が天に上ること、そして代わりに聖霊が来られることを予告しておられました(ヨハネ14:16-19)。イエスさまがよみがえられたからと言って、イエスさまをここにとどめておいてはいけないのです。この後イエスさまは天に上り、そして聖霊が来られるということが大事なんですね。ヨハネの福音書にはそのテーマがずっと流れています。それで、イエスさまはマリアに、弟子たちに伝えるようにと伝言を託すのです。イエスさまは、イエスさまの父であり、また私たちの父である方、イエスさまの神であり、そして私たちの神であるお方のもとに上ると。いよいよ、イエスさまの昇天と、その後に来るペンテコステに向けて、神さまのご計画が動き出したわけですね。聖霊降臨日、ペンテコステはイースターの50日目になります。礼拝では来週以降も、イエスさま復活後のヨハネの福音書シリーズを続けていきますが、20章17節まで行ったら、そこからはペンテコステに向けてのシリーズに入らせていただきます。

18節、マリアはイエスさまと出会ったことをそのまま伝える人になりました。彼女はイエス・キリスト復活の証人となったのです。イエスさまと出会い、名前を呼ばれ、新しい役割を与えられ、彼女は変わりました。

<名を呼んでくださる方>
招きの言葉でも読みましたが、イザヤ43章1節にこうあります。「だが今、主はこう言われる。/ヤコブよ、あなたを創造した方、/イスラエルよ、あなたを形造った方が。/「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。/わたしはあなたの名を呼んだ。/あなたは、わたしのもの。」

私たちの神は、私たちの名前を呼んでくださるお方です。イザヤ書が描くイスラエルの民というのは、神さまの律法を守れない、しかも神さまを信頼することもしないという有様でした。しかし、今、ヤコブよ、と主は言われます。ヤコブとはイスラエルのことですよね。「わたしがあなたの名を呼んだ、わたしがあなたを贖った。あなたはわたしのものだ。」と。贖うとは代価をもって買い取るということ、それゆえに新しい意味を与えるということです。奴隷が買い戻されたなら、その人生には新しい意味が与えられるように、私たちの人生は神さまから贖われている。イエスさまの血の代価で私たちを贖った方が、私たちのいのちに新しい意味を与えてくださったお方が、私たちを呼んでおられる。「マリア。」と呼んでくださったお方が、今日もあなたのことを呼んでおられます。この方に応えていきたいのです。聖霊はそのように促されます。その導きについていきましょう。

ーーー
よみがえられ、私たちの名を呼んでくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちを贖い、この人生に新しい意味を与えてくださった父なる神の愛、
そして、日常の言葉・日常の場面で主を呼び、主と交わるようにと導き続けてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
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【4/20】
ヨハネの福音書20章1節〜10節
​イースター①「復活を信じる」

<復活の知らせ>
イースター(復活祭)おめでとうございます!イエスさまの復活はキリスト教信仰の核です。中心です。十字架と言うこともできますが、十字架だけじゃない。十字架と復活はセットで大切です。パウロが書いたように、キリストが復活したのでなかったら、私たちの信仰は中身のないものになってしまいます(Ⅰコリント15:12-19)。福音(Good News)とは、「イエスさまが私たちのために死んでくださった」というだけのものではありません。そこで終わるなら、「申し訳ない」で終わってしまいます。しかし、「私たちのために死なれた方が、よみがえり、今も生きて私たちと共にいてくださる」なら。そして「私たちも新しいいのちで、歩んでいける」なら。それは私たちの生き方を変える知らせになります。それこそが「良い知らせ」、「福音」です。

しかし、死んだ人が生き返るなどと、どうして信じることが出来たでしょう。マリアが途方に暮れて泣いていたのも分かります(11節)。しかし、「イエスさまが死なれた」というだけの福音理解であれば、私たちはどうしたって途方に暮れてしまうのです。死んだイエスさまを探しても見つかりません。生きておられるイエスさまを探さなければ。イエスさまはよみがえられ、私たちはこの方と出会うことができる。そして、「私たちも復活するんだ」という希望が与えられるのです。

イエスさまの復活は、そんな不思議なこともあったのかという他人事ではありません。これは、私も復活するということの確証なんです。それは、これが「初穂の祭り」の日に起こったということからも分かります。レビ記23章10節〜11節によると、過越の祭りの後の最初の日曜日は初穂の祭りです。イエスさまは人の罪が赦されるための、言わば過越の祭りの小羊として十字架にかけられているのですが(Ⅰコリント5:7)、過越の祭りの後には初穂の祭りが来るんです。受難日から足掛け三日後の日曜日、つまりイースターの今日この日のことです。この日はもともと初穂の祭りとして、収穫の初穂の束をささげる日なのでした。麦など穀物の最初の収穫を初穂と言いますが、祭司は初穂の束を主に向かって揺り動かします。主にその初穂の束を捧げるのです。初穂の意味とは、この後に大きな収穫がくるということ。これと同じものがたくさんとれるという意味です。イエスさまの復活は初穂であったと聖書は記します(Ⅰコリント15:20)。それなら私たちも、初穂であるイエスさま同様、死者の中から復活します。私たちも復活するのです。そう。イエスさまの復活は、私たちも復活するのだという希望の証です。

私たちは限りある命を生きていて、やがて死を迎えることが定まっています。確かに、しばしの別れは寂しいものです。それは当然です。しかし、イエスさまを信じる者には復活の希望がある。ここがブレることがないように、聖霊が私たち一人ひとりの信仰を守り励まし続けてくださいますように。

また、「復活」にはやがてイエスさまが戻ってこられた時によみがえるという未来の出来事以外の意義があります。「復活」を意味する「アナスタシス」ということばには「起き上がる」という意味がある。傷ついても、倒れても、失敗しても、私たちは何度でも起き上がる。主が起き上がられたように、私たちも起き上がるのです。やがての復活を先取りして、私たちは生きている。それこそが永遠のいのちです。

<1節〜>
さて、先ほど読んだ箇所はイエスさまが復活されたイースターの朝、初穂の祭りの朝の出来事です。今日から何週かかけて、ヨハネの福音書が描く主イエスの復活後の場面を読んでいきます。以前も取り扱った箇所ですが、改めてまとめてこれを読んでいきたい。ここから語られる主の語りかけに耳を傾けましょう。

1節「さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。」イエスさまがよみがえられた日曜日は、週の初めの日でした。ユダヤ教では土曜日が安息日でしたから、クリスチャンたちも最初は土曜日に集まっていました。しかし、主がよみがえられたこの日を記念して、日曜日に礼拝をするようになりました。私たちも礼拝を持って新しい一週間を始めている、ここからスタートしていくということを、毎週の礼拝で思い返したいと思います。

マグダラのマリアが墓にやってきたのは、まだ朝早く暗いうちでした。それに先駆けて、復活は夜の闇の中で起こったのです。そしてイエスさまと出会って朝を迎えます。イザヤ書の預言を思い出します。「闇の中を歩んでいた民は/大きな光を見る。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に/光が輝く。」(9:2)私たちも人生において、日常の生活において闇を経験しますが、そこに復活の主が光を照らしてくださいます。

なお、先ほどイエスさまの十字架は過越の小羊としての意味があったことに少し触れました(ヨハネ1:29)。過越の祭りの起源について出エジプト記を振り返ると、過越の小羊がほふられた晩にイスラエルの民はエジプトを発ち、次の日(土曜日)の夜、海辺の宿営地にエジプト軍が迫り、神さまが海を分けてくださって、その夜のうちに全員が向こう岸に渡ったという出来事がありました(出エジプト13:20-14:31)。過越から足掛け三日目の朝、彼らは対岸にいたのです。迫り来る追手から完全に守られて、三日目の「夜が明ける前」、彼らは対岸にいました(14:27)。同じなんです。イエスさまの十字架は、過越の小羊のように、私たちの罪が赦されるためのもの。そしてイエスさまの復活は、私たちがまるで出エジプトのように罪から自由とさせられることの象徴でもあった。夜が明けて、闇の中に光が照った時、イスラエルの民は自分たちがエジプトから救われたことを知りました。私たちも、イエスさまの復活を知らされているのですから、イースターのこの日、自分が救われているということの確信がさらに深まっていきますように。

<石はすでにない>
さて、墓の入り口は大きな石で塞がれていました。当時の墓の様子をよく残している遺跡がエルサレムの郊外にありますけれども、岩をくり抜いて作った小部屋のようになっていて、その入り口は丸くて大きな石の円盤を転がしてきてそこを塞ぐようになっています。手元のメモには、厚さ60センチ、直径4メートルとありました。平均的な大きさはそれぐらいだったでしょう。簡単に転がせるようなものではありません。他の福音書では、この時女性たちが数人いたことになっていますが、ヨハネはマグダラのマリアに焦点を当てています。どちらにせよ、石は動かせません。この石は邪魔なんです。イエスさまに出会うためには、この石は邪魔であり、どうにかしてどかさなければならないものでした。しかし、すでにそれはなかったというのが大事なポイントかと思います。私たちがイエスさまと出会う、出会い直すために邪魔だと思われるものは、実はすでにもうないんです。

<2節〜10節>
マリアは驚いて、ペテロとヨハネのところに行って事情を説明します。「誰かが墓から主を取って行った」と報告するのです。そのようにしか思えなかったわけです。「イエスが愛されたもう一人の弟子」というのは、この福音書を書いたヨハネ自身のことです。二人は墓を目指して走りました。ヨハネが先に着いて、空の墓を覗き込むと、亜麻布が置いてあるのが見えました。亜麻布は遺体を包んであった布です。遺体を埋葬するために使われる布でした。そう言えば、イエスさまはお生まれになった時にも亜麻布で包まれたんでしたよね(ルカ2:7)。次に着いたペテロは墓に入りました。ペテロはこういう時、大胆ですよね。イエスさまの体を包んでいた亜麻布と、頭を包んでいた布は離れたところに丸めてあったとわざわざ書いてあるのは、これが混乱の中で起こったことではないということの強調でしょう。これは盗難や墓あばきなどではなく、神さまのみわざとして秩序のうちに、整然と起こった出来事だったのです。ペテロに続いてヨハネも中に入りました。8節に「そして見て、信じた」とあるのは、これはヨハネのことです。ペテロはいろいろと目の当たりにしましたが、まだ信じるには至っていません。ヨハネは信じた。ただ、ヨハネも含めて彼らは、9節「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」ので、10節「弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った」のでした(ここらへんも、翻訳が整理されて分かりやすくなったと思います)。つまり、8節のヨハネの「信じた」は「信じ始めた」ということですね。でもまだ聖書が約束してきたキリストの復活について理解したわけではなかったので、もと来たところに帰って行ったというわけです。

ここから読み取れるのは、信仰が芽生えるのは徐々に徐々にだということです。いきなり強い信仰が与えられることもあるのでしょうけれど、信じてみたいというような小さな信仰から始まることの方が多いと思います。その小さな種が、大きく大きく育っていくのです。

<球根の中には>
後ほど歌いますが、「球根の中には」という讃美歌があります(『讃美歌21』575番)。歌詞をお読みします。
1)
球根の中には花が秘められ
さなぎの中から命はばたく
寒い冬の中 春は目覚める
その日 その時を ただ神が知る
2)
沈黙はやがて歌に変えられ
深い闇の中 夜明け近づく
過ぎ去った時が未来を拓く
その日 その時を ただ神が知る
3)
命の終わりは命の始め
恐れは信仰に 死は復活に
ついに変えられる永遠の朝
その日 その時を ただ神が知る

球根というのは、乾いた、いわば種のようなものですけれども、そこから花が育つ。花が開く。信仰もそうですね。初めは小さな、乾いた塊でしかないけれども、大きく育っていく。「恐れは信仰に、死は復活に」とあるように、私たちも主イエスと同じように復活する希望、信仰による希望が確かなものになっていくのです。

初めに、イエスさまの復活は初穂であったと説明しました。招きのことばでも開きましたが、第一コリント15章20節〜21節をお読みします。「20  しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 21  死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。」最初の人アダムによって私たちが罪の中を生きざるを得なくなったように、第二のアダムと呼ばれるキリストによって、私たちは復活の希望を生きるようになりました。初穂とは、この後にそれと同じような大きな収穫が来るということの象徴です。私たちもイエスさまと同じように復活するのです。しかも、それは大きな大きな収穫。地域も、歴史も時代も超えて「キリストのからだ」と呼ばれる教会の広さ、大きさを思うと、また黙示録の「大きな群衆」というような表現を思い出すと(黙示録7:9、19:1,6)、これは本当に大きな収穫だなと思わされます。そして、そこに加わる人がまだまだ起こされてほしい。そのように思います。そのことを信じる信仰はまだ小さいかもしれません。しかし、ここからです。この後、弟子たちは復活のイエスさまに出会い、変えられていきます。少し信じることができたけど、やっぱり元に戻ってしまうような弟子たちは、ここをスタートとして変えられていきました。聖霊が注がれて、彼らは変えられていった。私たちも同じです。復活の希望を少しずつ、少しずつ大きくしていただくんです。聖霊なる神は、そのようにして私たちに信仰を与え、育ててくださいます。復活の希望を胸に、天を見上げ、地に足をつけて、日々の生活を送っていきましょう。

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「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。」(Ⅰコリント15:20-21)

私たちの初穂としてよみがえられた、主イエス・キリストの恵みと、
キリストの十字架によって私たちの罪を完全に赦してくださった父なる神の愛、
そして、復活の希望を日々大きく育ててくださる聖霊の満たしと励ましが
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
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【4/13】
ルカの福音書23章39節〜43節
受難週②「主イエスと共に死に、共に生きる」

今週の金曜日は、イエスさまが十字架にかけられた日です。木曜日の夜にゲツセマネの園で捕らえられ、大祭司カヤパや律法学者たちの尋問を受け、金曜日の明け方早くに総督ピラトのもとに連行され、ヘロデのところに送られ、そして送り返され。そして、そこで十字架刑が決まります。ムチで打たれ、いばらの冠をかぶせられて十字架を運ばされ、ゴルゴタの丘で磔にされたのは午前九時ごろでした(マルコ15:25)。その金曜日をイエスさまの受難の日、受難日(聖金曜日)と言い、そこに向かう今週一週間は受難週と呼ばれます。私たちの罪が赦されるために十字架にかかられたイエスさまを思い出しながら歩む一週間として過ごしましょう。

さて、先ほどルカの福音書に記されている十字架の場面を一通りお読みしましたけれども、すべてを取り扱うことはできませんので、二人の犯罪人、イエスさまと共に十字架にかけられていた二人の犯罪人に注目したいと思います。彼らはイエスさまの右と左、それぞれに十字架につけられていました。

<二人の犯罪人>
39節「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』と言った。」彼はどのような思いだったでしょうか。実は、十字架にかけられたまま会話をすることは並大抵のことではありません。十字架刑の何が苦しいかと言えば、息ができないことだと言われます。十字架にかけられた人は、体が前に倒れるようにぶら下がった姿勢になるため、うまく息ができません。体勢的に胸が広がらず、息ができない。息を吸うためには、その度ごとに足を踏ん張って体を持ち上げる必要があります。ただその時、足は地面についていないわけですから、足に打たれた釘のところに全体重をかけて、やっとの思いで体を起こして息をするしかない。この世のものとは思えない激痛の中で、一回一回、何とか呼吸をする。最後は力尽きて体を持ち上げることができず、呼吸困難で亡くなっていくのです。

そんな状況下で、彼はイエスさまに悪口を言いました。文字通り息も絶え絶えの恨み節です。「おまえはキリストではないか。」これは信仰告白ではなくて、お前がキリストだというのなら、という皮肉です。自分と俺たちを救えと。彼には、自分はこの刑を受けて当然という自覚はないのでした。自分は助かるべきだ。自分は十字架につくほど悪いことはしていない、というわけです。

それに対して、もう一人が口を開きました。40節、41節「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 41  おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」他の福音書によると、彼も最初はイエスさまを罵っていたようです。しかし、イエスさまの姿を見て、また十字架上でのイエスさまのことばを聞いているうちに考えが変わったのだと思います。

「おまえは神を恐れないのか。」彼は、ナザレのイエスという目の前のこの男が神の子である、神ご自身であることを知っていました。この場で気づいたのか。もしかしたら、今までにどこかでイエスさまの話を聞いたことがあったのかもしれません。その方が「同じ刑罰を」受けている、つまり私たちと共にいてくださっていること。そう、十字架という痛みと恥と呪いの極致であるこの場所に、この方は私たちと共にいてくださっているということに、彼は気付いた。自分たちは当然の報いとしてこれを受けている。十字架刑というのはローマが行う最も残酷な処刑法として、よくあることだったのです(もっとも、あまりに残酷であるということで廃止されていきますが)。自分たちは当然の報いとしてこれを受けている。しかし、この方は何も悪いことはしていない。不条理だというのなら、それこそ、この方は何もしていない。しかし、この方はそれでもここにいてくださっているのだ、と。十字架という死の場所に、イエスさまは一緒にいてくださっている。そのことに彼は気付いたのですね。

このさばきの場に神の子であるイエスさまが一緒におられるという事実の、なんと驚くべきことでしょう。主がまったく同じ場所にまできてくださったことの、なんと驚くべきことでしょう。

彼は最低最悪の場所でイエスさまと出会い、イエスさまの方を向き直して、パラダイスの約束、いや、宣言を受けたのでした。この直前までイエスさまを罵っていたのに。彼は極悪人でした。十字架刑がふさわしいと自覚するほどの悪事をしたようです。人殺しか、強盗か、ローマ帝国への反逆か。内容はわかりませんけれども、彼は罪人でした。しかし、彼はこう告白するのです。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」

「御国」、つまりイエスさまが王であり、主であることを告白しているのです。すべての権威の上に立つお方だという告白です。自分の罪を認め、この方は何も悪くないのに私と一緒に死んでくださっているという信仰に立ち、この方を主の主、王の王と認めている。この人の信仰告白には大事な点がみんな入っていますね。体系だった聖書の学びをして、しっかり理解してから信仰を告白して洗礼を受けるというイメージが私たちにはありますし、それは確かに大事な面でもあるんですけれども、こういうのっぴきならない状況で、自然と口から出た信仰告白こそが大切なのでしょうね。

<主と共にパラダイスに>
さて、イエスさまはこのように言われました。43節「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」今これから死んで、今日、一緒に天国に行くという意味で理解してもいいのですが、実際に彼がこの後すぐに死んだかというと、十字架にかけられた人は数日間かけてじっくりと殺されていきます。先ほど説明したように、十字架刑では足に釘が打たれて、ギリギリのところで息ができるようにしてある。イエスさまがすぐに死んだので総督ピラトは驚いたという記述がマルコの福音書にありますけれども(15:44)、それくらいに、十字架の上で人は数日かけて死んでいく。この強盗はこのあと何日間か生きていたと考えるのが自然です。すると、イエスさまが「今日パラダイスにいる」と言われたのは、これはどういう意味だったのでしょうか。

この箇所の解釈と翻訳は実はとても難しいようです。ギリシャ語の写本にはもともとコンマもピリオドもスペースもなかったからです。どのように区切って理解し翻訳するか、具体的にいうなら、「今日」ということばがどこに係ると理解するかには、解釈に幅があります。「いる」ということばが未来形なので、普通に読めば、「今日、パラダイスにいるだろう」という内容だと理解できます。基本的にはそれでいいのでしょう。しかし、聖書が書かれているのは人の言葉であり、コンピューターを動かすためのプログラム言語ではありません。言葉には、いろいろな意味を同時に持たせることがあるわけです。聖霊の導きの中でルカが書いたこの文章もそうだったはずです。ことばにはいろんな意味があっていいし、それをみなで語り合いながら、読み合わせていく。そして、自分の中にすとんと落ちてくる神さまからの語りかけがある。それが聖書の読み方ですね。

いつも言っていることですが、ギリシャ語の未来形にはあいまいなニュアンスはなくて、「確実に起こること」「確定的な現実」をあらわす意味合いが強いです。だとすると、イエスさまのこのことばは時間軸としての未来のことだけを言っているのか。それもあるだろうけれども、ある面では「わたしは今日、あなたに言います。」という理解もできる。だとするなら、これは「あなたはわたしと共にパラダイスにいます。」という宣言としても読めるのです。それは、聖書が他の箇所で「主と共にいるならそこがすでに天の国だ」と語っていることとも合致します(ルカ17:21やヨハネ5:24、6:47、11:25-26、17:3など)。イエスさまと共にいる「今」が、イエスさまと一緒に居る今が、ここがすでに神の国、パラダイスなんだということ。繰り返します。イエスさまと一緒にいる今が、ここがすでにパラダイスなのだということを、私たちはこの箇所からも読み取ることができます。

<死後の天国としてだけでなく>
人が死後に行くところについて、イエスさまのみもとに行くのだということ以外、聖書はあまり明確に語っていません(ピリピ1:23)。もちろん、死後はイエスさまのみもとに行く、それがいわゆる天国ですしパラダイスです。それは大事なことです。けれども、むしろ、さらにその後、いわゆる天国の後に復活するということについて、聖書は明確に記しています(Ⅰコリント 15:12-20、Ⅰテサロニケ4:13-17、黙示録21:1-5など)。ですので、今日のこの箇所からも、死んだらすぐにパラダイスに行くということだけでなく、イエスさまと一緒にいるなら苦しみの中ですらそこはパラダイスなんだということを、大切に、丁寧に読み取りたいと思います。イエスさまと一緒にいるなら、苦しみの中でもそこはすでにパラダイスなんだということです。誤解のないようにしたいのですが、もちろん、死んだ後は天国に行くんです。イエスさまのみもとに行くんです。パウロも「世を去ってキリストのみもとに行きたい」と言っています(ピリピ1:23)。そこが天国です。しかし、聖書全体を見るなら、その後に復活がある。新しい天と新しい地があるのです。しかも、それはただ遠い未来のことだけじゃない。今、ここで、その前味を味わいながら生きることができる。今、ここですでに永遠のいのちを生きることができる。やがて完成する神の国、そこでのいのちを、今、ここですでに私たちは与えられている。イエスさまと一緒に生きていくことで、私たちはすでに、ここで、神の国を、パラダイスを生きることができる。

<主と共に死に、主と共に生きる人生>
「イエスさまと一緒に」、「イエスさまと共に」というよりも、私たちはイエスさまと一つとさせられて生きていくのです。聖書が伝える十字架の信仰とは、「キリストが私のために死んでくださった」というよりも、それも間違いではないのですが、むしろ「キリストの十字架で私も共に死んだ」ということです。パウロは語ります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

私たちはイエスさまと一つとさせられて生きるのです。キリストと共に十字架につけられたというのは、イエスさまとひとつになるということを意味しています。イエスさまが究極的な捧げ物として十字架にかかられたのですから、「私たちもでは一緒に」と別の十字架にかかる必要はありません。イエスさまの十字架が自分の十字架です(ルカ9:23)。イエスさまの十字架が私の十字架なんです。

あの犯罪人は、隣で別の十字架につけられたわけですが、それでもなお、彼の生き様は私たちの手本です。十字架のイエスさまを見、十字架のイエスさまのことばを聴きましょう。それが私たちのためであったことを繰り返し思い返しつつ、自分もそこで共に死んだのだということ、もう古い生き方にこだわる必要はないのだということを、何度でも思い返しましょう。そして、イエスさまと共に生きる人生、復活のイエスさまと一つとされて歩む新しい生き方へと舵を切って、向き直し続けていこうではありませんか。

イエスさまは、私たちの最悪の場所に一緒にいてくださるお方です。イエスさまが一緒なら、そこがパラダイスです。最悪、最低な時、そこに主が共にいてくださる。それはなぜですか。神さまがそれほどにあなたを愛しておられるから。神さまの最高傑作としてのあなたが、古い生き方ではなく、神さまの意図しておられた生き方を歩んでいけるように。そのための十字架でした。私たちも、古い自分はそこで死んだのです。私たちは、イエスさまと一緒に十字架で死にました。罪でしかない私は、あのイエスさまの十字架で処分されました。今私は、復活のいのちを主と共に生きている。その信仰を何度でも確認していきたい。

<今年もまた>
今年の受難週、イエスさまと一緒に十字架に死ぬ、そしてイエスさまと一緒に復活のいのちを生きるということ、もう一度心に刻みたいと思います。二人の強盗と比べてみて、自分は一人目だなと思わざるを得ません。自分のことは棚に上げて、神さまに悪態をついているわけです。しかし、だからこそ、こんな私たちのためにイエスさまは十字架にかかられたのだということを思い出しつつ、二人目の強盗のように、主と共に死に、主と共にパラダイスを生きる幸いをなおなお知らされていきましょう。

日々の歩みの中で、聖霊なる神がそのことに気づかせてくださいます。私たちはすでにパラダイスにいて、天国の民として生きている。主と共に生きている。そうとわかれば、私たちの生き方は変わります。適当に生きることなんてできないです。私たちは主のものとして、この地に生かされているのですから。私たちの目が、そのことにますます開かれていきますように。

ーーー
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:19b-20a

私たちのために十字架にかかり、私たちと共に、私たちの罪そのものとして死なれた、主イエス・キリストの恵みと、
愛する独り子を私たちのためにお与えになった父なる神の悲しみ、それほどの愛、
そして、キリストと共に十字架に死ぬ者に、復活の命を与えてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン
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【4/6】
ルカの福音書22章54節〜62節
受難週①「主イエスのまなざし」

イースター前の四十日間を受難節(レント)と呼びますけれども、イエスさまが私たちの罪そのものとして十字架で処分されたということを思い返す大切な期間です。イースターにはイエスさまの復活をお祝いしますが、その前に、私たちは十字架の死を思い返さなければなりません。イースター直前の一週間は特に受難週として、礼拝では聖餐式を行なってきました。今年は当日の場所が音の工房で飲食ができませんので、今日、イースターの二週間前ですが、本日の礼拝にて聖餐式を執り行います。

<ペテロのネガティブ・ケイパビリティ>
さて、本日の箇所はイエスさまが捕まった場面です。ゲツセマネの園でイエスさまを捕らえた人々は、そのまま大祭司の家に向かいました。ゲツセマネのあるオリーブ山から、エルサレムの町へ向けてまた斜面を上っていきます。この時に通っただろう階段が発掘されています。ペテロはその道を遠く離れてついていきました。彼は数時間前、最後の晩餐の席で「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と豪語したのです。22章33節ですね。またイエスさまが捕まった時、50節、大祭司のしもべに打ちかかったのは、ヨハネの福音書によればこれはペテロです(ヨハネ18:10)。しかし、イエスさまはペテロを制し、その傷を負ったしもべの耳を癒されました。もうペテロにできることは何もなかった。一隊の(つまり六百人の)兵士たち(ヨハネ18:3)、怒りと憎しみに満ちた祭司長たちを前に、彼は逃げました。しかし、ペテロは「遠く離れてついていった」のです。弟子としてしっかりお側にということはできなかったけれども、完全に離れてしまうのではなく、恐れて距離を取らざるをえないけれども、それでもついていったのでした。みじめですけれど。でもそれでもついていった。39節で、オリーブ山に向かうイエスさまに「従った」ということばと、54節の「ついて行った」、これらは同じ単語です。あの時は意気揚々と従っていったのです。何でもできるような気がした。怖いものは何もなかった。しかし今では距離をとって、こっそりついていく有様です。思い描いたような歩みはできない。それでもそうやってでも、ついて行ったんです。

私たちは、とかく完全なクリスチャンらしい歩みでなければならないという思いから、0点か100点か、どちらかしかないと思いがちです。でも、物事にはグラデーションがある。人生は試験ではないのですから、合格か不合格かでは決められないことがある。一般的にも言われていることですが、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉があります。消極的能力とか、否定的能力と訳されます。不確実なこと、あいまいなことを受け止める能力のことです。焦りや不安に駆られて、早急な判断をしてしまうのではなく、自分なりの答えが現れてくるのをじっと待つことができる力のことです。答えの出ない事態に耐える力と言うこともできます。現代社会というのは、効率がいいことや、白か黒かが分かりやすいことが重要視されますが、効率が悪くても、簡単に答えが出ないあいまいなことであっても、そのことを否定しないで、そのあいまいさをそのまま受け止めていける力はとても大切なのだと思います。

ペテロの姿はネガティブそのものです。しかし、ここにこそ、私たちの人生のリアルがあるじゃないですか。彼はみじめでもついて行った。それは「従った」ということなんです。100点じゃない自分はダメだとか、信仰が強くない自分はダメだとか、そのように思う必要はないんです。信仰が曖昧でも、そのぐちゃぐちゃしたままでイエスさまに何とかついていく。それでいいんです。

<イエスさまのまなざし>
とは言っても、ペテロのその歩み、イエスさまに従っていく道のりはいよいよ困難なものになりました。55節、大祭司の家の中庭で、人々が火をたいて温まり始めたので、ペテロもその中に紛れ込みます。勇気を振り絞って、ひっそりとそこにいます。建物の中から聞こえて来る罵声に耳を凝らしながら、イエスさまがどうしておられるかを必死に探ろうとしていました。

しかしそこで突然、声をかけられるのです。「この人も、イエスと一緒にいました。」隠れていたかったのに。身を明かさず、紛れ込んでいたかったのに。しかし座り続けていた中で突然声をかけられ、自分の立場が明かされてしまいました。57節、彼は慌てふためいて、「いや、私はその人を知らない。」と答えるのです。とっさの場面で、イエスさまとの関係を否定してしまいました。

信仰とはイエスさまとの関係です。イエスさまに知られ、イエスさまを知ることです。しかしペテロは身の危険を感じた時、それを否定しました。イエスさまを捕らえて亡き者としようという側の人たちに囲まれて、自分も捕らえられるのではないかと不安になり、とっさに出た言葉がそれだったのです。私たちにもよくわかるところです。

クリスチャンではない人が圧倒的多数を占めるこの社会にあって、イエス・キリストを救い主として信じていることで目立ってしまう。そのことで身に危険を感じてしまうメンタリティを私たちも持っています。マイノリティ・コンプレックスです。いや、そんなことは気にしない。人は人、私は私。私はイエスさまについていくのだとペテロはそう思っていたのです。しかし、突然の出来事に、とっさに出た言葉は「私はあの人を知りません」でした。イエスさまとの関係よりも、自分の身を守ることを優先してしまう、私たちの姿です。人にどう思われるかは関係なくても、自分の言動、日々の生活を「イエスさまとは関係ない」としていくなら、イエスさまとの関係よりも自分の快適さ、自分の慣れ親しんだ状況を優先していくなら、それはペテロと同じです。「私はあの人を知りません」ということです。私たちは、「イエスなんて知らない」と容易に言ってしまう。

そして、同じことが繰り返されていきます。58節、しばらくして、また別の人から言われるのです。「あなたも彼らの仲間だ。」これは受け取りようによっては褒め言葉なわけです。あなたは確かにクリスチャンだ。あなたは確かにイエスと共に生きている。しかし、ペテロはそれも否定するのでした。

ペテロは戦っています。先ほども言ったように、イエスさまに従っていきたい思いがなくなったわけじゃないんです。イエスさまとの関係を完全に否定してしまったわけじゃないです。だって、彼はまだ立ち去らずにここにいるんですから。最初に指摘された時点で、最初にバレた時点で、立ち去ることだってできました。でもとどまり続けた。恐れと焦りでいっぱいになりながら、それでもイエスさまがどうなったかを知ろうと、その場にとどまり続けたのです。59節「それから一時間ほどたつと」、彼は一時間もここにいた。自分も捕まるんじゃないかという恐れと戦いながら、それでも何とかイエスさまの安否を知ろうとそこにいたんですよ。ペテロの葛藤を思い描きながら、ネガティブな自分でもそのままそこに留まり続けたペテロに思いを馳せながら、いたたまれない思いと、そしてペテロに対する親近感で胸がいっぱいになります。

彼は、また別の人から言われてしまいます。59節「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」言葉のなまりで、ペテロが北部ガリラヤの人間だということがわかってしまいました。今捕まっているイエスはガリラヤのナザレの人です。先の二人の証言と合わせて、「確かにそうだろう。ガリラヤ訛りのこの男は、ガリラヤからイエスについてきたのだろう」と言われてしまったのです。

ペテロの答えは、また否定でした。60節「あなたの言うことは分からない。」他の福音書には「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め」という表現があります(マタイ26:74)。風前の灯のような、吹けば飛ぶような信仰でなんとか留まっていましたが、自分自身の特徴を指摘されて動揺したのでしょうか。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。主が言われた通りになりました。33節〜34節「シモンはイエスに言った。『主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』しかし、イエスは言われた。『ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」マルコの福音書には、それに対するペテロの応答があります。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)彼は力を込めて言い張ったのでした。しかし、彼は鶏が鳴く前に三度イエスさまを知らないと言ってしまったのです。

ペテロがイエスさまを三度否認したこの出来事は四つの福音書全てに載っていますが、ルカだけが記していることがあります。それが61節「主は振り向いてペテロを見つめられた。」という、ここです。これはルカにしかない表現です。ルカがこれをどうやって知ったかといえば、ペテロの自己申告だったでしょう。イエスさまがペテロを見つめられたというのは、ペテロ本人にしかわからないことだからです。そして、ペテロもまたイエスさまを見つめたということ。二人の目が合ったということです。ずっと後になってから、ペテロはこの時のことを回想して、ルカに語って聞かせたのですね。

ペテロが思い出したイエスさまのまなざしは、ペテロを責めるようなものではなかったはずです。言った通りだっただろう?というものではあったと思いますが、怒っているような、軽蔑するようなまなざしではなかったはずです。31節〜32節「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」立ち直ったら。つまりここでイエスさまはペテロが信仰的に挫折することを知っておられました。しかし立ち直るようにと祈っておられた。イエスさまは、失敗してしまったペテロだけでなく、その先のペテロのことも見据えておられました。ペテロのはっきりしない、いざという時に頼りにならない態度のことも、そのまま受け止めて、その先に彼が成長することを見据えて、祈っていてくださった。イエスさまもまた、ネガティブ・ケイパビリティの視点でペテロを見ていてくださったのですね。そのまなざしは、私たちにも向けられています。

<詩篇73篇21節〜24節>
詩篇73篇21節〜24節をお読みします。
 私の心が苦みに満ち 
 私の内なる思いが突き刺されたとき
 私は愚かで考えもなく 
 あなたの前で 獣のようでした。
 しかし 私は絶えずあなたとともにいました。 
 あなたは私の右の手を 
 しっかりとつかんでくださいました。
 あなたは 私を諭して導き 
 後には栄光のうちに受け入れてくださいます。
 
私たちには、苦しみ、内なる思いが突き刺され、心のうちがぐちゃぐちゃになって、まるで獣のように吠えるしかできない、そんな時があります。愚かで、考えなし、わきまえのない時があります。しかしそれでも、何と驚くべきことか、23節「私は絶えずあなたとともにいました」。これは、私たちの側で「いた」んだというわけじゃないですよね。だって「獣のような心」で、何をしているかわからない状況なんですから。それでも、絶えずあなたと共にいたというのは、神さまの側でしっかりと掴んでいてくださったからに他なりません。

私たちの側でどんなにイエスさまを否定しても、いや、否定したくない、でも怖い、というギリギリの戦いの中でやっぱりどうしても否定してしまうというような時でも、イエスさまが見つめていてくださいます。愛に満ちた眼差しで、私のことを見据えてとりなして祈っていてくださいます。そして、私の右の手をしっかりつかんでいてくださる。右の手は力の手です。離さないようにしっかりつかんでいてくださる。もし私が手を開いてしまっても離れないように、ギュッと手首を掴んでいてくださる。そんなイメージです。そして私を導き、励まし、神と共に歩むという聖化の歩みに伴ってくださり、後には栄光のうちに受け入れてくださる。栄化ですね。天の御国で文字どおりともにあってくださるのです。

この詩篇から作られた賛美の動画があるので、後ほど聖餐式の時にみなさんで聴きたいと思います。(→こちらから)
https://youtu.be/K-DXQhsa8NY?si=KUU2QLdAoStkRhCv

今日はネガティブ・ケイパビリティという話をたくさんしていますが、まさに神さまがこういう視点で私たちのことを見てくださるんです。獣のような心でも、イエスさまのことを知らないと言ってしまうような時があっても、神さまは変わらずに私たちと共にいてくださる。あなたと共にいてくださいます。だから、私たちもその視点で、そのまなざしで、自分のことを見ていたいし、周りの人のことを見ていきたいですね。

<ペテロの悔い改め>
この後、ペテロは悔い改めました(61節〜62節)。いや、正確に言うと悔い改めのプロセスを歩み始めました。ただ泣くことが悔い改めではありません。それはただの後悔です。しかし悔い改めとは向きを変えること。イエスさまを否認してしまう生き方から、イエスさまを証しする生き方へと、舵を切り直すことです。ペテロはその歩みを始めたのです。悔い改めとはプロセスであることがわかります。ペテロは外に出て激しく泣きました。その後、彼はどうしたのでしょう。イエスさまの十字架を遠くからこっそり眺めながら、絶望したでしょう。取り返しのつかないことをしてしまった。もう二度とお会いできないのに、最後の最後は最悪の別れ方をしてしまった。後悔の念でいっぱいでした。しかし、彼はそれでも他の弟子たちと一緒にいましたよね。ユダは絶望して一人離れて行きましたけれども、ペテロとユダの違いが何だったかと言えば、ペテロは主を信じる者たちの交わりから離れなかったんです。そしてイースターの朝、マグダラのマリヤから報告を受けて墓まで走って行きました。そして空の墓を見て信じました。そしてその日、鍵の掛けられた部屋の中で皆で集まっていたときに主と再会します。八日後にはトマスも一緒にまたお会いし、その後はガリラヤまで行ってそこで主に気がついて湖に飛び込んで会いに行きます。三度主を知らないと言ったペテロは、そこで三度主を愛するとお答えし、召命、生きる使命、与えられた役割を再確認しました。このようにペテロはぐちゃぐちゃでも、みじめでも、何でもいいから主から離れなかったのです。外に出て行って激しく泣いたそのときも、実は先ほどの詩篇のように、主は共におられたのです。彼は、イエスさまから言われた「あなたはわたしを三度知らないという」ということばを思い出して泣きました。それ以上に、その直前に言われた「わたしはあなたのために祈っているからね」というそのことばを思い出していたはずです。彼はそれを思い出して泣いたんです。悔い改めはプロセスです。一気に悔い改められるわけじゃない。そうやって、何度でも何度でも主のことばを思い出しながら悔い改めの道を歩んでいく。それは、イエスさまと一緒にその道を歩んでいくことになるのです。

今日、これから聖餐式を持ちますが、まさに主がこれを守るように言われたその席で、ペテロは「私はあなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったのでした。しかし、その後は今読んできた通りです。自分の熱心で信仰を守っていくのではありません。そんなものは、状況や環境によってすぐに左右されます。熱心に、信仰深く、確信を持ってイエスさまについていくのではなく、迷いながら、戦いながら、ときに否定してしまいながら、それでもイエスさまと共に行く。イエスさまのまなざしに気がつきながら、つまり自分もイエスさまを見つめながら、遠く離れてでもこの方についていくものでありたい。悔い改めながら、この方についていきたい。聖霊はそのようなペテロに、また弟子たちに注がれました。私たちも日々新たに聖霊の満たしを求め、主と共に歩む、主についていく歩みを追い求めていきましょう。主が必ずそのようにしてくださいます。(ヘブル12:2)

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私たちを見つめていてくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちの右の手をしっかりと掴んでいてくださる父なる神の愛、
そして、悔い改めて主と共に歩む生き方を励まし、導き続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン
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【3/30】
マタイの福音書5章4節
「悲しむ者の幸い」

マタイの福音書も五章に入り、山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれる箇所を少しずつ読み進めています。山上の説教はその冒頭にある八つの幸いをはじめとして、5章から7章の終りまで、キリスト者の倫理が示されているところです。キリスト者の倫理、つまりイエスさまの弟子の生き方ですね。それは「この世からは離れて、きよく正しい生き方をしなさい」というようなものではありません。5章1節にイエスさまがまず「この群衆を見て」とあったように、イエスさまのことばを聞きはするけれども従うわけではない「群衆」をイエスさまはまずご覧になって、その上で彼らに仕えるようにと、彼らのただ中で生きるようにと弟子たちにその生き方を教えられたのが山上の説教です。13節、14節に「あなたがたは地の塩、世の光です」とあるとおりです。また、大切なことは、これらは決して「こうしなければクリスチャン失格だ」というようなリストではないということです。確かに、求められるハードルは高いように思えます。例えば39節「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」であったり、44節「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というところなど。私たちはこれを読んで「自分には無理だ。」と思ってしまうのです。しかし、「すでにといまだ」です。ここに書いてあることを達成できない自分を責めたり、落ち込んだり、もしくは「どうせ無理だ」と思うのでもなく、神の国の「すでにといまだ」の間で、私自身もこのような幸いな者へと「すでに」されており、かつ、「これからも」このように変えられ続けていくという希望をしっかりと見据えていたいと思います。八つの幸いが「幸いなるかな」ということばで始まっているように、山上の説教で教えられていることは、まさに「幸いな」生き方なんです。私はたちはすでにその幸いに入れられていますし、これからもこの幸いを味わい続けることができます。

<悲しむ者の幸いとは>
今日は八つの幸いの二つ目。「悲しむ者は幸いです」という、ここです。一体、悲しむことが幸いだなんて、これはどういう意味でしょうか。しかも原語だと「今悲しんでいる人」というニュアンスになりますが、イエスさまは目の前の悲しんでいる人に向かってどのような意味でこう言われたのでしょう。一つ確認しておきますが、これは悲しい心には蓋をして、無理にでも笑っていきなさいというようなことではありません。先週も開きましたが、マタイの9章には「(イエスさまが)群衆を見て深くあわれまれた。彼ら羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」とあります(9:36)。また、ラザロが亡くなった時には涙を流されたという場面もあります(ヨハネ11:15)。私たちの心が経験する、感情的な悲しみについて、悲しむ必要はないと言っているのではありません。イエスさまは共に悲しんでくださるし、私たちの心に寄り添ってくださるお方です。

では、「悲しむ者の幸い」とは何か。イエスさまがここで何を前提にして話しておられるのかを知るために、4章16節に戻りましょう。聖書の読み方のコツとして、極端なことが書いてあるなと思ったら文脈を振り返ってみてください。聖書の内容って箇条書きに記されているわけではなくて、話の流れ、話の前提の上に重なっているのが多いので、特に福音書なんかそうですね。山上の説教に関しても、その土台となっている話の前提というのは、4章16節だと思いますね。「闇の中に住んでいた民は/大きな光を見る。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に/光が昇る。」イエスさまが宣教を開始された場面です。この時からイエスさまは宣教を開始されて、神の国の福音を語り始められたわけです。この暗闇というのは苦しみのこと、悲しみのこと。そこに光がきた。喜びがきたんです。引用元であるイザヤ書9章2節、3節を見るとさらにはっきりわかります。苦しみの中に、喜びの光が照ったんです。彼らは喜んだ。そう、光に照らされた者は喜んだとイザヤは記しています。そのことは、時を経てこのマタイの福音書で、イエスさまの時に成就しました。苦しんでいた者に、闇の中にいた者に喜びがもたらされたのです。イザヤ書のもとの文脈というのは、バビロン捕囚です(イザヤ8:22)。自分たちの偶像礼拝の罪、そのさばきとしてのバビロン捕囚です。国を失い、連れていかれました。そこでは名前や言葉、つまり自分のアイデンティティーを否定されて、自分ならざる者として生きなければならなかった。彼らは自分の罪の結果を悲しみ、そして自分個人ではどうしようもない構造的な社会全体の罪とその結果を悲しんでいたのです。しかし、光が照るとイザヤは預言した。救い主が来ると。今日の聖書個所ではその通りにイエスさまが来られたという話題が続いて、そして、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」と語られる。これも同じ文脈にあります。「悲しむ者」とはつまり、自らの罪を悲しみ、またこの社会の罪を、この世界の罪を悲しむ人のことです。神さまの悲しみを知り、そこに心を寄せている人のことだと言えます。神さまの悲しみを知る人。

<神と共にこの世界を「かなしむ」>
私たちのあらゆる苦しみや痛み、また歪み、これらは、神さまのもともとの願いではありません。神さまが造られた世界は「見よ、それは非常に良かった」という世界ですから(創世記1:31)。罪で歪んだこの世界を、私たちが日常的に経験しているあらゆる苦しみを、神さまは悲しんでおられます。「ああ、これは本来の姿じゃない」と言って悲しんでおられる。だからこそ、イエスさまが十字架にかかってくださったわけです。罪のど真ん中にある私たちが、救われるために。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)神さまはこの世界を愛しておられます。私たちを愛しておられる。この世界の罪、私たちの罪を、この現実を悲しみつつ、私たちのことは、この世界そのもののことは愛しておられる。ひとり子のいのちを(つまりご自身のいのちを)かけるほどにです。

この「愛していおられる」ということと、「悲しんでおられる」ということ。これらを、とてもよく言い表すことができる古い日本語があります。それが「かなしい」ということばです。万葉集などに見られる表現ですが、この「かなしい」ということばを書く時に、悲哀の悲で「悲しい」とも書いたし、愛という字を当てて「愛しい」とも書いたのです。「かなしみ」と言った時に、そこには「せつなさ」だけでなく「愛おしさ」が含まれている。神さまがこの世界の罪の現状を悲しんでおられる、そこには私たちへの限りない愛が込められているんです。

その上で、「悲しむ者は幸いです。」というこのことばを読むと、迫って来るものがあります。神さまがこの世界を愛し、かなしんで(悲しんで/愛しんで)おられる、その思いを共に持ち、自分も同じようにこの世界をかなしむ(悲しむ/愛しむ)、人を愛し、この世界を愛し、罪によるその痛みを悲しむ者は幸いだということになります。神と共にこの世界を愛し、悲しむ者は幸いなのです。

罪を悲しむとは、神さまのかなしみ(悲しみ/愛しみ)を知ることです。イースター前の40日間をレント(受難節)と呼びますが、神さまの悲しみに心を寄せる期間だということもできるでしょう。今一度、神さまの愛、そのかなしみを知らされていく日々でありますように。

<その人たちは慰められるから>
ではそれがなぜ幸いかと言うと、その理由は「その人たちは慰められるから」だというのです。

この「慰められるから」というのは、未来形で書かれています。八つの幸いは始めと終わりが現在形で、中の六つが未来形という一まとまりの形を取っていると言いましたけれども、これは神の国自体の「すでにといまだ」をあらわします。イエスさまが来られたことで、私たちは慰めを得ました。私たちの罪を贖う方、この世界を贖う方、救い主イエスさまが来られたんです。しかし、まだ罪を悲しむ現実があります。私たちは今もなお苦しんでいる。悲しんでいます。自分の罪ゆえの状況だったり、自分にはもうどうしようもない構造的な社会の罪であったり、その歪みの中で痛み、苦しみ、悲しんでいる。この社会を、そこにいる人々をを愛しつつ、愛しているからこそ、心を痛め、悲しんでいます。それでも、「その人たちは慰められる」と聖書は言うんです。イエスさまが来られたからすでに慰められています。かつ、イエスさまがまた戻って来られる時、再臨の時に、必ず、私たちは神さまの慰めを完全な形で受けることができる。よく言っていることですが、ギリシャ語の未来形にあいまいなニュアンスはありません。これは必ずそうなるという宣言なのです。

ちなみに、この慰められるという表現ですが、ギリシャ語でパラカレオーといいます。慰めを与える人のことはパラクレートスと言い、聖書でパラクレートスといえば、聖霊のことですね。助け主と訳されています。聖霊様が私たちに働きかけ、助け、慰めて下さるのだということです。だから私たちは、聖霊に満たされることを求め続けていかなければなりません。聖霊が私たちに、神さまの視点を与えてくださる。神さまの思いでこの世界を愛し、悲しむようにと、聖霊が私たちを導いてくださるのです。

<ラケルの苦しみ>
さて、山上の説教に至る文脈(つまり人の罪の現実、暗闇)を振り返ってみた時に、2章17節〜18節の悲しみを忘れることはできません。「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。『ラマで声が聞こえる。/むせび泣きと嘆きが。/ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。』」イエスさまが幼い頃ベツレヘムで起こった幼児虐殺事件の箇所ですけれども、ここには三つの悲しみが重ねられています。ベツレヘムの母親たちの悲しみと、預言者エレミヤの時代にバビロンに子どもを連れていかれた母親たちの悲しみ、そして創世記にまでさかのぼってヤコブの妻ラケルの悲しみ。この三つが重ねられています。

ラケルのことを覚えておられるでしょうか。姉のレアとともにヤコブの妻となり、姉妹間で子どもの数を競い合った、あのラケルです。ラケルは旅の途中、ベツレヘムに向かう道で命を落としています(創世記35:16-19)。女性の出産には苦しみが伴います。その先には新しい命の誕生の喜びが待っているわけですが、命を削るようにして産む。そして、そのまま自分が命を落とすことがある。恐らく逆子の難産だったのです(同17節)。頭が引っかかって赤ちゃんが危険な状態になりやすく、帝王切開になることも多いといいますが、この時代に果たしてそれができたか。とにかく難産でした。どうにか産み落としたその時でしょうか、ラケルは死に臨み、そのたましいが肉体から離れ去ろうとするときにその子の名を「ベン・オニ」と呼びました。私の苦しみの子という意味です。

ラケルの苦しみとは出産の苦しみだけでなく、ここまでのラケルの歩みのすべてが苦しみだったのです。ラケルはヤコブの愛を一身に受けた幸せな妻、のはずでした。しかし、姉のレアが次々に子どもを生んでいく中で、ラケルにはなかなか子どもが与えられませんでした。レアは夫の愛を得ようと必死でしたが、ラケルにはそれは与えられていて、その意味ではラケルの方が強い立場だったのです。しかし、子どもがいなかった。そのことがラケルを苦しめました。どれだけ夫の愛を受けていても、姉と自分を比較し、劣等感に苦しみ続けたのがラケルでした。そして、その願い通りに二人目の子が与えられた時、彼女は自分の命を落とすことになりました。彼女が呼んだ「私の苦しみの子」という名前には、最後まで満足できずにずっと求め続けて苦しんで生きてきたラケルの人生が重ねられていたのかもしれません。そしてやっとまた子どもが与えられた時、自分の命は燃え尽きてその子にもう会うことはできないのです。

このラケルが葬られたところというのが、ベテルからベツレヘムに向かう道の途上にあるラマという場所で、バビロン捕囚の時に、預言者エレミヤがラマの母親たちの嘆きにラケルの嘆きを重ねました。「ラマで声が聞こえる。/嘆きとむせび泣きが。/ラケルが泣いている。その子らのゆえに。/慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。/子らがもういないからだ。」(エレミヤ31:15)ラケルの場合は母親が死んでしまったわけですが、バビロン捕囚の時には子どもたちが多く連れて行かれました。どちらにせよ、もう会うことができないという嘆きです。

そしてマタイの2章です。ヘロデ王がベツレヘム近郊の2歳以下の男の子を皆殺しにした際、マタイはこのエレミヤの預言を引用して、これはその成就だと言います(2:17)。ラケルの嘆きと死は、バビロン捕囚の時代、また福音書の時代の母親たちの嘆きのモチーフになっているのです。エデンの園で人が罪を犯したとき、主なる神はエバに「あなたの産みの苦しみを増す」と言われました(創世記3:16)。子どもを産むということだけでなく、育てることも。また子どもが与えられないということや、育てることができない、会うことができないということも含めて、今読んだ通り、女性には苦しみがあります。悲しみがある。その根源はエデンの園で人が罪を犯した出来事に遡ります。自分ではどうしようもないものです。そしてラケルが苦しんだ原因の一つであった一夫多妻制、これも当時は当然のことだったという意味では構造的なもの、人間社会の罪であり、自分ではどうしようもないことですよね。ラマの母親たちの嘆き、これもそうです。バビロン捕囚のため、つまりイスラエルの国の偶像礼拝の罪が原因なのです。自分ではどうしようもない苦しみがあり、悲しみがある。それが私たちの現実です。しかし、エレミヤの預言はこのように続きます。「主はこう言われる。『あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。ーー主のことばーー彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。ーー主のことばーーあなたの子らは自分の土地に帰って来る。』(31:16,17)ラケルの嘆きと死には母親たちの、いや全ての女性たちの嘆きと苦しみが重ねられてきましたが、主は聞いておられて、それを慰め、癒し、回復させてくださるのです。私たちも自分の罪のゆえに悲しみます。また人間社会の罪のために傷つき、痛みます。これは自分の力ではどうすることもできない種類の苦しみです。痛いのなら、うめくべきだし、泣きたいのなら、泣いた方がいいです。しかし、その上で神さまは「あなたの泣く声、目の涙をとどめよ」とおっしゃいます。泣くだけ泣いたら、最後には、それをとどめなさいと。悲しむ者は幸いです、その人たちは慰められるから、と。

もしかしたら、ラケルのように、神さまの慰めやいやしを生きている間には体験できないということがあるかもしれません。しかし、それでも私たちは「すでにといまだ」を信じるのです。イエスさまの再臨の日、それは必ず成就します(黙示録21:4)。私たちは必ず神さまの慰めを受けます。この希望は、この慰めは、遠い将来のあいまいなものではありません。あやふやなものではありません。私たちは今それを確信することができます。信仰によって今、神の慰めを受け取ってまいりましょう。聖霊はそのことを助けてくださるんです。さあ、信仰によって今、神の慰めを受け取っていきましょう。そうやって今週も、一歩一歩歩んでいこうではありませんか。(黙示録21:4)
 
ーーー
私たちの悲しみに寄り添い、伴っていてくださる主イエス・キリストの恵みと、
ご自身の悲しみを知る人にいやしと回復を与えてくださる、父なる神の愛、
そして、必ず慰めを与えてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。アーメン

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【3/23】
ヨハネの福音書14章6節〜9節
霊的成熟⑤「愛と義〜十字架に表される父の思い」

『霊的成熟を目指して』を読み進める中で教えられていることは、私たちは聖霊の働きによって主イエスと同じかたちに姿を変えられていくということです(Ⅱコリント3:18)。イエスさまと同じ性質、同じあり方という事、つまり霊的に成熟するということです。主にある成長と表現することもできるでしょう。そして、そのための鍵は、天の父との人格的関係にある。つまり、天の父の御声を聴き、こちらからも自分のことばで応答するという「ことばの関係」にあるんだということ。それを通して、私たちは霊的に成熟する。主イエスに似た者へと成長する。神さまとの「ことばの関係」を通して、御心がわかる人格へと成長していくのです。こういったことについて、自分には今も今後も無理だなどと思う必要はありません。私たちは主にある成長においても「すでにといまだ」の狭間にあるからです。私たちの内にはすでに聖霊が住んでおられる。かつ、成長の途中なのです。私たちは聖められています。しかし同時に、聖化の途上にある。私たちは必ず、霊的に成熟するのです。聖霊が私たちを主と同じ姿に変えてくださるという聖書のみことばは必ず成就するのだからです。

さて、今日は第三部の第一章をふりかえりたいと思いますけれども、霊的成熟の鍵となる「天の父との人格的関係」について、天の父についてどのようなイメージを持っておられますか?という問いがなされました。私たちはどうしても自分の父親のイメージで父なる神を捉えてしまいます。厳しいだけの父親像があったり、優しいだけの父親像があったりするわけです。場合によっては父親像がないというケースだってあります。人間の父親のイメージで父なる神を理解しようとしても、そこには限界がある。しかし、「神とは父親のような存在」なのではなく、むしろ、神さまの存在をあらわすために父親というものが造られたのだと、本の中で指摘されていました。「神さまというのは父親のような存在」なのではなくて、父なる神を指し示すために父親という存在がある。卵が先か鶏が先かという話とは違って、これは明らかに神さまが先なんです。本来は神さまが先で、その神さまを指し示すための役割として父親という役割があるわけです。しかし人には罪がありますから、人間の父親は不完全なので、そのイメージで神さまを捉えてしまうと、聖書が示している神さま像とは違う理解になってしまう。神さまを指し示すことができない、できていない。これは人間の父親たちが持つ限界ですね。私は自分のことを振り返ってみても、自分が父なる神さまのことを正しく表現できていないということに、改めて戦慄を覚えるというか、今までそうやって自分のことを考えてこなかった、自分と神さまのことだけで、自分が誰かにとって神さまを指し示す存在だということへの意識が希薄だったと思います。これは「子どものいる既婚男性」だけの話ではなくて、誰もが霊的な親として、誰かに神さまを指し示す存在なわけです。それは自分の子どもに対してかもしれないし、友人知人に対してかもしれないし、逆に自分の親に対して、自分が霊的な親になるということもありますよね。ですので、自分はいわゆる「父親」ではないから関係ないと思わないでください。私たちはみな、誰かに神さまを指し示すという霊的な親の役割を持っているのです。

ということは踏まえつつ、一番わかり易い例として聖書に出てくる父親たちのことを振り返りますけれども、やっぱり神さまのことを正しく指し示せてはいないわけです。例えばイサク。彼は双子の息子エサウとヤコブのうち、兄エサウを偏愛していました(創世記25:28)。それはそのまま、今度はヤコブがヨセフを偏愛したことに引き継がれていますよね(同37:3)。また、祭司エリ。少年サムエルに対しては良き師だったかもしれませんが、自分の子どもたちの非道を責めても正すことはせずに放置、そのために自分も命を落とすことになりました(第一サムエル3:13)。聖書の中で、このような例は枚挙にいとまがないんですよね。これが人の現実。これが罪で歪んだ人の現実です。父親たちは自分自身を通して神さまを指し示すことができない。愛し方が偏っていたり、不正を正し義を立てることができない。父親たちだけでなく、私たち一人一人がみなそうなわけですが、特に「父なる神」と言ったときに、私たちが持っている父親のイメージが影響してくるわけです。そこには限界があるし、それは深刻です。

であるからこそ、私たちは、人間の父親像ではなくみことばから父なる神を理解しなければなりません。むしろ「わたしを見た者は父を見たのです。」と言われたイエスさまから、父なる神を理解しなければなりません(ヨハネ14:9)。「父」ということばにひっぱられて、地上の父親のイメージがどうしてもついて回るのですが、そこには限界があるのだということ、むしろ、イエスさまを通してこそ、本当の意味での「父」を知れる。本当の意味での父を知るには、私たちの父親像や一般的な父親像ではなく、イエスさまを通して知ることが必要なのです。

<聖=愛+義>
聖書は神さまの性質を「聖」だと言います(レビ11:44-45、イザヤ6:3など)。これは「きよらかな」というような意味ではなくて、全く別の、区別された様子のことですが、別の側面から神さまのご性質を言い表している聖書箇所もあります。ローマ8章22節「ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。」聖なる神さまには、いつくしみ、つまり愛と厳しさのが両方ある。「聖=愛+義」です。聖書の神は聖なる神、そして愛と義の両方がある神です。

愛とは無条件で赦す愛です。アガペーというギリシャ語が使われています。神の愛は無条件の愛です。しかし同時に神さまは義なるお方でもある。義とは正しい関係性のことです。正しい裁きをするということです。物事を正しいあり方にするのです。そして、本来、私たちはその裁きに耐えられません。

この神の愛と神の義、相反する両極端のものが見事に重なり合ったものがイエスさまの十字架でした。聖書の枠組みとして、罪が赦されるためには血が流されなければならない。いのちが捧げられなければならないという世界観があります(レビ17:11、ヘブル12:13等)。それが罪の赦しのための、つまり神さまとの関係回復のためのあり方。正しいあり方です。神さまはそこでどうされたか。ご自分のひとり子イエスさまを十字架にかけるという方法を取られたのでした。つまりここに、神の愛と神の義があらわされているのです。

<神ご自身のいのちを>
ところで、キリストの十字架とは、父なる神による、子なる神への虐待ではないかと言われることがあります。しかし、聖書の神は三位一体なんだということを忘れてはなりません。神さまはいわば、ご自身のいのちをかけられたのです。使徒20章28節には「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」という表現があります。文脈上、ここで言われている「神」はキリストというよりも父なる神です。しかし、神がご自身の血をもって贖いをなされたとパウロは言うのです。

そもそも、イエスさまの十字架は強制されたものではなく、イエスさまご自身の自発的な行為だったという表現は聖書に多数あります(ヨハネ10:17-18、ピリピ2:6-8)。大枠としては、父なる神さまのご計画によって子なるキリストが十字架にかかったという表現で基本的には良いのですが、聖書にはいろんな表現があって、少なくともこれが強制されたことではなく、自発的なものだったことは確かです。三位一体の神ご自身が、私たちのためにいのちを捨てられたということを、今日は特に心に留めたいと思います。

<神の愛と神の義>
この十字架に、キリストの十字架に、父なる神の愛は完全に現れているのです。だから、イエスさまは「わたしを見た者は父を見たのです。」と言われました(ヨハネ14:9)。

キリストの十字架には、父なる神の義が示されています。ローマ3:25「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。」血による宥めのささげ物とはつまり十字架のことですね。それは神の義が明らかにされるためだったというのです。

そして、キリストの十字架には、父なる神の愛が示されています。ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」イエスさまの十字架には、私たちに対する神さまの愛が明らかに示されているのです。

<神の子として天の父を見る>
私たちの罪の現実は、天の父を正しく見ることができなくさせています。つまり、天の父を指し示すはずの父親像が歪んでしまっているので、私たちは天の父の姿を正しく見ることができない。それってとても重大なことなんです。天の父を正しく見れないということは、神の子とされた自分の立場を理解できていないということだからです。

私たちのうちに住んでおられる聖霊は、私たちをして父なる神を「アバ、父」と呼ばせるお方です(ローマ8:15)。「アバ」とは、イエスさま当時の話し言葉であったアラム語で「お父ちゃん」とか「パパ」というような意味で、子どもが親しみを込めて父を呼ぶ呼び方なんです。イエスさまが天の父を「アバ」と呼ばれたことがマルコの福音書に記録されていますが、それは、当時の読者にとって衝撃的なことでした(マルコ14:36)。聖書にもそのまま「アバ」という表現で残されているほどですが、なんと驚くべきことに、私たちも天の父を「アバ」と呼べる。天の父を「アバ」と呼んでいい立場にされているんです。救いとは、神の子とされることです。そして聖霊は、私たちが神の子どもであることを明確にしてくださるお方です(ガラテヤ4:4-7)。

あなたは神さまの子どもです。神の子とされたんです。養子として。神がご自身のいのちをかけて大切にしておられる、かけがえのない存在です。私たちにとって父親というもののイメージがどうであろうと、神さまは私たちの天の父です。私たちにいのちを与え、私たちをいのちがけで愛しておられます。私たちは子とされたものとして、その父を、天の父を、まっすぐに見上げたい。

そのためには、十字架のキリストを見据えることが必要なんです。そこには天の父が、そのいつくしみと厳しさの両方があらわされているからです。

ヨハネ14章6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」今、イースター前の40日間ということで、受難節(レント)と呼ばれる期間に入っています。イエスさまの十字架を偲び、改めて感謝する日々でありますように。また、礼拝ではマタイの福音書を読み進めながら、イエスさまの姿、イエスさまの教えを振り返っています。イエスさまの言動はすべて十字架に至るためのものですから、十字架の場面だけでなく、そのすべてが重要です。その意味で福音書ってとても大事です。私たちは今一度、イエスさまと出会い直していきたい。そうやって父なる神の姿を見ていきたい。私たちが子としてどれほど愛され、どれほど大切にされているか、今一度、みことばからそのことを受け取り直していきましょう。聖霊がそのように導いてくださいます。聖霊は、私たちが神の子であることを明らかにしてくださるお方です。安心して、祈りつつ、お委ねしつつ、みことばをいただいていきましょう。(ヨハネ14:6)
 
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私たちに天の父を示してくださった主イエス・キリストの恵みと、
ご自身のいのちをかけて私たちを大切にしてくださっている父なる神の愛、
そして、神の子とされた身分をいつも思い出させてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。
アーメン
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【3/16】
マタイの福音書5章1節〜3節
​「心の貧しい者の幸い」

今日から山上の説教と呼ばれる部分を取り扱います。5章1節にあるように、山の上で語られたことから「山上の説教」と呼ばれます。写真を用意してきました。ガリラヤ湖のほとりにこのような教会堂が建てられています(写真)。「山上の説教の教会」です。ドーム型の屋根を支える壁は上から見えると八角形になっていて、先ほどお読みした聖書個所の八つの祝福を表しているそうです。この教会の建物の少し脇に行くと、湖に向けてなだらかな斜面になっていて、ここが山であることが分かります。ガリラヤ湖は周りを山に囲まれているので、確かにこういう場所で山上の説教を語られたのだと思います。風に乗って声が遠くまでよく聞こえるそうです。
山上の説教2016a.jpg

マタイの福音書をここまで読んできて、これまでは、イエスさまがまことの王であること、神の国の福音を宣言して宣教を開始されたことなどを見てきましたが、五章からはイエスさまの教えの詳細が明らかになっていきます。さっそく見ていきましょう。

<1~2節>
まずこれが誰に向けて話された内容かというと、弟子たちです。1節と2節には「群衆」と「弟子」という言葉が出てきます。群衆というのは直前の25節にあったように、イエスさまの噂をきいて国中から集まってきた人たちのこと。弟子とは、20節や22節にあったように、イエスさまに従った人たちのことです。先週、福音には力があって、大勢の人がそれを聞きたいと願い、集まってきたと言いましたけれども、聖書は群衆と弟子を分けて表現しています。あえて端的に言えば、群衆とは聞くだけの人のことです。25節には群衆がイエスさまに「従った」とありますが、あくまでも群衆としてついていったのです。弟子として従っていくこととは別です。イエスさまの教えは、特に今日の山上の説教などは一般の方々にも有名で、芥川龍之介なんかもこれに感銘を受けたと書いているそうですが、いいことを言っているな、聖書にはいいことが書いてあるなで止まっているなら、それではあくまでも群衆なのです。

しかし、群衆だからといってイエスさまは軽く考えておられるわけではありません。イエスさまが何のために弟子を任命されたかといえば、「人間をとる漁師」にするためでした。人々を救いの中に入れるためでした。9章36節には、人々がまるで羊飼いのいない羊の群れのように弱り果てているのをかわいそうに思われたともあります。私たちはイエスさまを信じていますし、少なくとも従いたいと願ってはいるわけで、弟子なのですが、だからと言って群衆を、つまりクリスチャンではない人々を見下すようなことがあってはなりません。自分も群衆の一人だったわけですし、イエスさまは今も群衆に向けて、そこにいる人、ひとりひとりに対して熱い思いを持っておられるわけですから。「私は救われた人。あの人たちは救われていない人」として、そこに線引きを持つべきではないですね。むしろ彼らに愛をもって仕えるためにイエスさまの弟子とされているのだということを思い出しましょう。イエスさまは群衆を見たからこそ、話し始められた。イエスさまは「群衆を見て」、そのうえで「弟子たちに」語られました。

その内容が何かと言えば、それは「天の御国に属する者の生き方」です。あなたたちは、人々のただ中にあってこういう生き方をしなさい。この世から離れた場所でではない、この世のただ中にあって、しかし天の国に属するものとして、天国人としてこのように生きなさいということですね。山上の説教は、救われた者が、弟子とされた者がどのように生きるのか、その指針です。羅針盤ですね。それはこの世から分離しての生き方ではなく、この世のただ中にあっての生き方だということを忘れずにいたいと思います。

1節、イエスさまは腰を下ろして話をされました。当時のラビは立って聖書を朗読し、座って教えを語ったのだそうです。また2節、口を開いて教え始められた。話す時に口を開くのは当然ですが、これも、この教えに権威があることを意味するユダヤ的な表現です。マタイがわざわざこのように表現しているのは、読者のユダヤ人たちに向けて、これをしっかり読んでほしいと思ったからです。これはいのちのことば。これは権威のあることばです。その熱意は、今の私たちにも向けられています。私たちもそこに招かれています。主は口を開いて教えられます。私たちに分かるように、言葉をもって語りかけられる。しっかりとそれを聞き、従っていきたいと思うのです。

<3節>
さて、山上の説教は「八つの幸い」から始まりますが、その一番初めがこれです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」ギリシャ語の原文ではまず「幸いなるかな」、「幸いだ」、ここから始まっています。これは詩篇をはじめ、旧約聖書によく見られる表現だったので、これを聞いた弟子たちにも、その周りで聞いていた群集にも、またその記録をここで読んでいるマタイの周辺のユダヤ人クリスチャンたちにも、良く分かる、ピンとくる表現でした。「幸いなるかな」、これは神さまの契約、神さまの約束の中での祝福のことです。単に「幸運」だ、ラッキーだという以上に、神さまの祝福だということをここで言っています。

では「心の貧しい者」とはどういうことでしょう。これは「心【が】すさんだ」状態、心がギスギスした状態のことを話題にしているのではなくて、「心【において】」貧しい、しかも実はここは「心」というよりも「霊」ということばなので、「霊【において】貧しい者」ということになります。どういう意味でしょうか。

聖書がいう「霊」と「心」は別です。心は感情のことですが、霊というのは私たちの存在の奥深くで神さまを求めている機能というか、性質のことだと言えます。心と重なり合ってもいるので、厳密に分けきれない感じでもあるのですが、基本的には分けて理解できます。心は感情のこと。霊は神さまを求める機能、性質。その「霊において」貧しいとは、ではどういうことか。しかもこれは単なる貧しさではなく、きわめて貧しい状態のことが表現されています。まったく無一文であり、自分ではこれっぽっちも自立できないような貧しさのことです。霊とは、私たちの存在の奥深くで神さまとの関係を求め続けている場所のことだと言いましたが、そこにおいて貧しいとは、きわめて貧しいとは、それはつまり神さまとの関係がなければ、自分は生きていけないのだということがはっきりわかっているということです。神さまの前に誇る物は何もないことを自覚し、自分は神さまのことを全く知らないことを自覚し、神さまからの招きに応答する力のないことを自覚し、だから神さまの恵みが必要なのだということ、神さまのみことばが必要なのだということ、御霊に満たされることが必要なのだとはっきり分かっている人のことです。それが霊における貧しさなんです。ある人はここの翻訳を「霊において乞食である人たち」としています。ちょっとどぎつい表現ですが、むしろそちらの方がニュアンスをきちんと表しています。神さまからの恵みがなければ生きていけない、それほどの貧しさです。何が何でも神さまから恵みをいただこうとします。神さまに向けて手を伸ばすわけです。そういう状態のことです。

そういう人は幸いなんです。霊における貧しさだけでなく、実際にこれを読んでいた読者、マタイが宛てて書いた初代教会の人々は実際に貧しい生活をしていました。私たちもそうですよね。働いても働いても生活が楽にならない。生活の貧しさを大なり小なり経験しています。しかし、たとい生活が貧しくても、霊においては貧しくていい。それこそが幸いなんです。祝福なんです。なぜなら、「天の御国はその人たちのものだから」です。

天の御国とは場所のことではなく、神さまが一緒にいてくださることのことだと言いました。「霊において貧しい人は幸いです。なぜなら、神さまが共にいてくださるのだから。」そういうことですね。

イエスさまを救い主として信じて、天の御国の民とされたなら、霊において貪欲に神さまとの関係を求めていきます。神さまが共にいてくださるという、神さまの臨在を求めるのです。主が共にいてくださることを見せてください、分からせてくださいと祈っていくんです。そして、その祈りは答えられるんです。だから、たとえ貧しくても幸いなんです。私たちの霊が満たされるから。主はその祈りに必ず答えてくださるので、私たちの霊は満たされる。だから、幸いなんです。たとえ身体が病を負い、心が折れてしまっていても、私たちの霊が満たされるなら、神さまとの関係が満たされるなら、私たちは幸いです。もちろん、身体のことも心のことも、神さまは心配してくださいます。そこは誤解のないようにと思います。聖書にも「健やかでありなさい」と書いてある(第三ヨハネ2節等)。しかしたとい、神さまの何らかのご計画によって身体や心が癒されない時にも、私たちの霊は変わらずに神さまとの関係に満たされていくんです。

もう召されましたけれども、久遠教会の顧問という形で関わってくださっていた精神科医の平山正実先生がこう言っておられました。精神科医の方なので、心の問題を数多く見てこられた方ですが、「どんなに心が病を負っていても、その人の霊の部分は変わらずに神を求めている。霊の部分というのは、心の病に関係なくしっかりとあって、神を求め続けている。」これが先生の実感としてあったということですね。印象深く覚えています。私たちのその霊の部分が、神さまとの関係に満たされていくのだということです。

<すでにといまだ>
ところで、山上の説教の冒頭を飾るこの八つの幸いの、はじめと終わりに、この「天の御国はその人たちのものだから」という表現があります。3節と10節ですね。この二つで他の六つを挟み込んでいます。こうやってこの段落をひとつのまとまりとして浮きだたせています。これらの祝福は別々の、バラバラのものではなくて、一つのものなんですね。だから私たちは心の貧しい者の幸いだけでなく、ここにある一つひとつの幸いをすべて味わうことができる。むしろ、キリストの弟子とは霊において貧しい者であり、悲しむ者であり、柔和な(つまりへりくだった)者である。イエスさまの弟子は義に飢え渇き、あわれみ深く、心のきよい者である。平和をつくり、義のために迫害される、こういう生き方がキリストの弟子の生き方であり、天の御国の者とされた人たちの生き方なんだということですね。天の御国は彼らのものであり、その人たちは慰めを受け、地を受け継ぎ、満ち足り、あわれみを受けると。神を見る、神の子と呼ばれる。だから、イエスさまの弟子は幸いなんだということです。

またこれらの八つの祝福全体に関することでもう一つあるのですが、最初と最後は現在形で書かれ、中の六つは未来形で書かれるという形になっています。それでいて、先ほど言ったように一つのまとまりなんです。つまり、これら一つ一つはすべて現在のことであり、同時に未来のことでもある。そもそも、「神の国」自体が「すでに」と「いまだ」の間にあるのでしたよね。イエスさまが来られたことで神の国、天の御国が到来した。その意味ではすでに来た。しかし、主の祈りで御国が来ますようにと祈るように、天の御国はイエスさまの再臨の時に完成するのです。その意味ではまだ来ていない。それと同じように、私たちの弟子としての生き方も、その祝福も、今すでにそうであり、またやがて完成するのです。何が言いたいかと言うと、山上の説教は「生き方」を教えるので、「生き方」なんて言われると、ともすると「霊において乞食のように神を求める」なんていう次元にはいない自分を責めてしまったり、この後出てくるような「地の塩、世の光」として生きるなんてこととは程遠い自分に落ち込んだり、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなんて決してできない自分に落ち込んだりということが起こり得ます。しかし、自分の御国の民としての生き方は「すでにといまだ」なんだということを思い出してください。自分はそんな生き方はできない、そんな「幸い」とは無縁だ、そう思えるかもしれません。しかし私たちはすでに「新しい人を着た」のであり(コロサイ3:10)、御霊が私の「内なる人」を強くし続けてくださるのだということを忘れないでください(エペソ4:16)。その意味で、山上の説教は「クリスチャンたる者、ああしなさい、こうしなさい」というようなものではないのです。「生き方の指針」だと言ったことの意味は、キリスト者はこのような生き方へと召されている、私たちはこのような者へと変えられていくという、イエスさまの弟子に与えられた特権なのです。

<心貧しい者の祈り>
そう言ったことを踏まえて、もう一度「心の貧しい者の幸い」に戻りましょう。何箇所か、心の貧しい者の幸いについて他の聖書箇所を開きます。

詩篇69篇32節、33節「心の貧しい人たちよ 見て喜べ。/神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。/主は 貧しい者に耳を傾け 捕らわれたご自分の民を蔑まれない。」先ほど、聖書を読むときのヒント、コツということで「挟み込み」の技法のことを言いましたが、ここにも別の技法があります。詩篇とか箴言に多いのですが、同じ意味のことばや表現を、二行に分けて繰り返して並べるというものです。32節はまさにそうです。「心の貧しい者たち」と「神を求める者たち」が並べられています。これらは同じ意味なんです。心の貧しさとは、神を求めるということなんです。心の貧しさ、霊の貧しさにおいて、神さまを求め続ける、神さまに尋ね求める、祈りの中で神さまと対話していくことが大切です。神さまは、自分の弱さにがんじがらめになっている私たちを決して見捨てないお方です。心貧しく、霊において貧しく神さまを求めていくなら、貪欲に祈っていくなら、そういう人は天の御国を味わうことになる。つまり、神さまの臨在を見ることになる。主が共にいてくださることを目の当たりにし、喜ぶことになります。

主はその祈りに耳を傾けていてくださるからです。そして、捕われ人をさげすみなさらない。バビロン捕囚は民の偶像礼拝の罪が裁かれてのことでした。イスラエルの民は土地を失い、捕われの身として遠くバビロンの地に連れて行かれました。神さまの約束の地から切り離され、遠いところへ来てしまった。しかし、彼らの祈りもさげすまれることはないのです。私たちも同じです。今どれほど神さまから遠く離れていると思われる現状があっても、神さまを慕い求めるなんて生き方からどれほど遠く離れてしまっていても、それでもそのまま神さまの前に出ていけばいい。そのまま神さまに祈っていけばいい。主は必ずその祈りを聞いていてくださるのです。私たちの心はそうやって守られ、生かされていきます。

私は大学に入って初めて親元を離れて学生寮に入ったときに、しばらく教会に行かなくなった時期がありました。それまでは家族で教会に行くことが当たり前の生活をしていたのに、それがなくなった時に、自分からは行かなくなったのです。それでも寝る前の祈りは続けていたのですが、ある時、祈りながら「あぁ、神さまが遠くへ行ってしまった。」と思ったんです。それは自分にとってすごく大変なことで、そのときの感覚は忘れられないです。今から振り返れば、神さまが遠くへ行ってしまうわけはなくて、自分がそっぽを向いていただけなのですが、でもあの時に祈ったから今があるなと思います。神さまからどんなにそっぽを向いていても、離れていても、それでも神さまが必要ですってその場で祈るなら、祈りの手を伸ばすなら、主は聴いてくださる。答えてくださるんだということを、小さな体験ですが、私も証しすることができます。

もう一つはルカ18章13節、14節です。「13  一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』 14  あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」


この人は自分を低くして祈りました。まさに霊において乞食であるほどに自分を低くして神さまに祈ったのです。これと対照的だったのは律法の専門家であるパリサイ人で、直前の11節、12節「11  パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。 12  私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』」神さまの前に義と認められた、神さまとの正しい関係に入れられたのは取税人の方でした。心貧しく、自分には何もないことを自覚し、だからこそ神さまの恵みにすがりついていくのです。この私をあわれんでくださいと叫んでいくのです。そういう人が神さまとの正しい関係の中にいれられる幸いを得ました。この人も、まさに「心の貧しい者の幸い」を得たのです。

私たちも、この幸いを与えられているのだということを思い出し、そこに立ち返りながら、歩み続けたいと思います。なかなかそういう、神さまを求めるという心持ちになれなくても大丈夫、「すでにといまだ」です。私たちは新しくされているんです。どんなに泥沼の中にいても、あなたを求める思いを与えてください、あなたを仰ぎ見る信仰を与えてくださいと祈っていけばいいのです。それこそが、幸いな生き方、御国に属する者の生き方なんだということです。そうやってイエスの弟子は成長していくのですから。(詩篇69:32〜33)

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私たちをご自身の弟子として見ていてくださり、その幸いを教えてくださる主イエス・キリストの恵みと、
心貧しく祈る者に豊かに答えてくださる父なる神の愛、
そして幸いな生き方へと私たちを導き続けてくださる聖霊の満たしと祝福が、

今週もお一人お一人の上に、その周りに、

豊かにありますように。アーメン

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【3/9】

マタイの福音書4章23節〜25節

「広がる神の国の福音」

引き続き、イエスさまがガリラヤで宣教を開始された様子を見ていきます。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子として、イエスさまはガリラヤ地方の全域を巡り、神の国の福音を伝えていかれました。

<23節 ガリラヤ全域>
「イエスはガリラヤ全域を巡り」。繰り返しになりますが、ガリラヤ地方というのはイスラエルの北部、このガリラヤ湖のあたりですね。イエスさまが育たれたナザレ、宣教を開始されたカペナウム、またヨハネの福音書にありますが、結婚式の祝いの席で水をぶどう酒に変えたカナの町はここですね。みな、この辺り、ガリラヤ地方にあります。ガリラヤ全域というくらいですから、あちこちの町や村に出向かれたのでしょう。

聖書に登場する地名は私たちには馴染みがないものばかりなので、どうしてもカタカナの羅列に思えてしまうのですが、私たちと同じような人々がそこに普段の暮らしをしていたのです。小さな子どもたちがいたでしょう。今のような学校の制度はまだありませんでしたが、ユダヤ人の子どもは「会堂」で聖書の勉強をしましたから、それが学校のようなものでした。親たちは子育てに悩みながら、日々の仕事や家事をこなしていたでしょう。彼らの労働環境、職場の環境はどのようなものだったでしょうか。私たちが日々仕事をしながら感じる葛藤や、また喜びを、彼らも同じように感じていたはずです。または、年を重ねて、身体をはじめとして、様々なことが思い通りにいかなくなるということも、しかし人生の悲喜こもごもを重ねたからこそわかるものがあるということも経験していたでしょう。要するに、カタカナの馴染みのない町々ですが、ここに私たちがいる、私がいると思って読んでみると、いやこれは本当にここに私がいると思わざるを得ない。聖書は自分に重ねて読むものです。昔、あそこで書かれたこの古い文書が、今、ここで、新しく私に語りかけてくる。聖霊がそうやって語りかけてくださる。それが聖書です。

ガリラヤは昔から異邦人(外国人)がよく出入りしていた地域で、イエスさまのこの頃には人口の半数以上が異邦人だったという説明もあります。ユダヤ人は選ばれた民族という意識が強いですから、異邦人の多い地域は軽蔑されました。周りの地域から軽蔑されつつ、またそこに住む人たちの中でも、異邦人に対する差別の心は根深いものがあったでしょう。地域の枠組みとしてもう外国人がいなければ成り立たない社会だった。それでいて人々の内には差別の心があった。以前も触れましたが、ガリラヤ地方は農業や漁業が盛んで活気のある地域でした。しかし、その裏側には複雑な民族感情もあったというわけです。まさに、今の私たちを見ているようです。

イエスさまはそのようなところで公生涯を始められました。そこは異邦人の地。聖書が異邦人と言う時には、神さまの約束の外にある人たち、神さまを知らない人たちという意味があります。外国人差別とかそういう意味ではなくて、むしろ本来私たちが神を知らずに生きていた異邦人であるわけですよね。以前も開きましたけれども、エペソ2章11節〜13節「・・・」そして19節「・・・」イエスさまはとことんまで私たちの側に立ち、私たちに寄り添ってくださるお方です。そうやって私たちを、神など知らないで生きてきた私たちを、ご自分に属する者、神の家族としてくださった。飼い葉おけに寝かされて、ナザレで育ったイエスさまは、ガリラヤで宣教を開始されました。神の子である方が、とことんまでへりくだって、文字どおり私たちの間に来てくださったということを、マタイの福音書を読みながら何度も繰り返していますけれども、イエスさまはガリラヤ全土を回られたのだと今朝の箇所は記します。イエスさまは、私のところにも来てくださるということです。あなたのところにも来てくださる。

少し戻りますが、4章15節、16節「・・・」ここの人々は、つまり私たちは、「暗闇の中に」座っていたのです。死の地と死の陰に住んでいたのです。私たちも同じでした。しかしイエスさまが来られたなら、そこに光が昇ります。そして、私たちはすでにイエスさまにお会いしている。光はすでに昇ったのです。そのことを忘れないでいてください。

<会堂で教えながら>
さて、イエスさまが何をしながらガリラヤ全域を巡られたかというと、三つのことがわかります。「会堂で教えながら」、「御国の福音を宣べ伝えながら」、そして「人々を癒しながら」、ガリラヤ全域を巡られたということになります。一つ一つ見ていきたいと思います。

まずは会堂について。ユダヤ人たちの会堂をシナゴーグと言います。バビロン捕囚で神殿が破壊されてから、ユダヤ人の礼拝は神殿でいけにえをささげることから、聖書の教え(律法)を学ぶことへ力点が移っていきました。その後、ユダヤ人は世界中に離散していくことになりますが、行く先々で会堂(シナゴーグ)を建て、自分たちの生活の基盤としました。2000年近く国土を離れて世界中に離散してもなお、ユダヤ人がそのアイデンティティーを保つことが出来たのは、聖書のことばがあったから。かつ、それを共に読み、互いに励まし合う共同体があったからです。そして、その生活の中心にあったのが会堂(シナゴーグ)でした。先ほども少し触れましたが、子どもたちはここで聖書を学びました。大人もこの会堂を祈りの家(ベイト・ハ・テフィラー)として、学びの家(ベイト・ハ・ミドゥラーシュ)として用いたのです。安息日には礼拝が持たれました。クリスチャンが日曜日に集まって礼拝をすることの起源はここにあります(ユダヤ人の安息日は土曜日ですけれども)。そしてそこでは、大人の男性であれば聖書を読み、簡単なメッセージを取り次ぐことも出来ました。会堂で「教えた」とありましたが、会堂はみことばの真理を教える場所でした。祈る場所であり、そして教える場所であったのです。先週、教会とは聖書の内容をただ教える場所ではないと言いました。ただ知識を得るためだけの場所ではない。シナゴーグもそうでした。聖書を教える場所、教えてもらう場所なわけですが、それはただ知識を増やすためではないのです。そこで得た知識を、生活の中で、人生を通して知恵深く用いていく。ただ頭の中だけの知識ではなくて、生き方として、知恵としてそれを生かしていく。私たちも、そのために聖書を学び続けるのです。

なお、マタイの福音書では省略されていますが、イエスさまはガリラヤに戻った時にまずナザレに行っておられます。13節、しかしナザレを去ってカペナウムに来たという流れです。この時ナザレで何があったかというと、ルカの福音書に書いてあるんです。イエスさまは自分が育った町ナザレの会堂で「いつものとおりに」説教をされました。イエスさまはナザレの会堂つきのラビではありません。しかし、そこのメンバーとして、いつも礼拝の場で聖書を朗読し、聖書の話もしていた。しかしナザレの人たちはイエスさまを追い出し、イエスさまはカペナウムに移られたという流れなのでした。【※ルカ4:14〜16, 23を読むと、ナザレの前にまずカペナウムということだったようです。訂正します。イエスさまはナザレの会堂で「いつものように」語られたという論旨は変わりません。】

さて、話を会堂に戻します。彼らにとって会堂はそのように信仰生活の基盤となる場所でした。では、私たちはどうでしょうか。関西集会には決まった礼拝の場所はありません。公共の会議室を借りたり、ホテルの会議室を借りたりしています。振り返ってみると、初代教会と言われる人たちもそうでした。彼らも会堂を持たず、メンバーの家に集まって礼拝を捧げました。中国の家の教会も有名ですね。久遠教会自体、はじめは丹羽先生の家庭集会、家の教会でした。自前の会堂があれば、大きな会堂があればあれができる、これができると考えることは多いのですが、会堂を持たないことのメリットもまたあります。社会の状況を見ても、不動産や大きな資産を持たずにレンタルでというのは当然考えられるあり方です。経済的に右肩上がりだった頃は、キリスト教会も同じ時代の空気の中にありますから、会堂を建てるということがゴールになりがちでしたけれども、今はむしろ建物よりもその中身、そこに集う人々のつながり、交わりをどう強く保つかというところが意識されている、そういう時代ですね。イエスさまは会堂を大切にされたから、私たちも会堂を持つべきだという簡単な話ではなくて、逆に、今の時代は会堂のようなものは持たない方がいいのだという話でもなくて、どちらにせよ、大切なことは会堂のあるなしではなく、教会の本質をどう保っていくかということでしょうね。私たちは自前の会堂を持っておりません。であるならば、どうすれば生活の中心としての礼拝を意識できるでしょう。互いに祈り、信仰を伝え、神の民としてのアイデンティティーを確認していくことができるでしょうか。そのことを考えていきたいのです。礼拝も、午後の交わりも、礼拝に来られなかった方のためにメッセージを配信しているのも、教会だよりを作っているのも、そのことを意識してのことです。よりよいあり方のために、ぜひ声を聞かせてください。イエスさまは会堂で教えながらガリラヤを巡られました。私たちの小さな群れのところにも来てくださいます。来てくださるといいますか、教会はキリストのからだです。ここにはイエスさまがおられるんです。誇りをもってこの教会をとらえていきたいですし、今日、ここに主がおられる。そのことを信じていきましょう。

<御国の福音を宣べ伝えながら>
次に、イエスさまが「御国の福音を宣べ伝えながら」ガリラヤ巡りをされたということですが、「御国の福音」、これはイエスさまが宣教を開始された時のことばを思い出させます。4章17節です。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」天の御国、神の国です。特定の場所のことではなく、神さまの支配、神さまの御心があらわされるところ。そのご計画が実行されるところのことですね。イエスさまはそこの王。まことの王なんです。この方は私たちのために命を捨てるお方です。私たちもその十字架で共に死んだ。そして、私たちはこの方と共に復活の命を、新しい生き方をすることができる。それが福音なんです。福音とは良い知らせのことです。ユーアンゲリオンと言って、当時は皇帝がやってくるという知らせ、皇帝が戦争に勝ったという知らせ、そのような良い知らせのことを指しました。しかし、聖書を記した人々はそのユーアンゲリオンということばをもって、皇帝ではなくイエス・キリストの到来を告げました。神の国の到来を表現したんです。聖霊がそのように促されたわけですが、神の国の到来、イエス・キリストの到来、それこそが本当に真の意味で良い知らせだったからです。死んだ後にあの世としての天国に行けるというだけではなくて、今も、私たちはすでに神の国にいます。死んでからだけじゃない、だから今はどうでもいいんじゃない、今も、新しい生き方が出来るのです。私たちはすでに「新しい人を着ている」からです(コロサイ3:10)。私たちは自分自身では変われません。この性格が変わりさえすればとどれほど願っても、自分で自分を変えることはできません。しかし、私たちのうわべが変わらなくても、神さまの永遠の視点で見れば私たちはやがて神さまの満ち満ちたさまにまで成長し、聖化が完成することを聖書は教えています。だから「そこに」希望を置いて、かといって古い自分に胡坐をかくのではなく、自分自身を十字架に明け渡し続けながら、つまり日々悔い改めて歩んでいくことが大事です。悔改めなさいとイエスさまは言われましたが、それは悔い改め続ける、悔い改めながら歩むということです。何が出来た、出来なかった、クリスチャンとしてこういうことができた、できなかったという「結果」を見て一喜一憂するのではなく、その時その時、神さまを見上げて歩んでいくこと。上手くいく時も、上手くいかない時も、あきらめないで神さまを見上げて歩み続けることが大切です。聖書の登場人物たちはみなそうでした。それこそが永遠のいのちであり、神の国の者としての生き方なんです。福音とはそういう生き方に招かれていますよという知らせなんです。

日々の生活を振り返って、どうでしょう、私たちは神の国、天の御国の民として歩んでいるのでしょうか?繰り返しますが、それはクリスチャンらしくするとか、柔和でいるとか、親切であるということを直接指すというよりも、それらも大事なことかもしれませんが、それらが出来ない自分であっても、なんとか神さまが喜ばれるような生き方をしたいと願い、祈り続け、失敗を繰り返しながらでもそのことをあきらめない。それこそが大事なんです。「悔い改めなさい」というのは、悔い改め続けなさいという意味です。ギリシャ語の現在形には、現在進行形の意味が含まれます。門をたたき続けなさい、探し続けなさい、そして、悔い改め続けなさいということです。出来るかできないかと言われれば、私たちは神さまを喜ばせる生き方なんてできないわけです。じゃあ新しい生き方とは何か、新しい人を着たとはどういうことかと言えば、どんなに凸凹であっても、神さまと共に歩み続けること。私たちの罪そのものとして十字架にかかられたお方、そして復活して今も私たちと共にいてくださるお方と共に歩み続ける。そのことなんです。そういう生き方に私たちは招かれている。

この良い知らせを「宣べ伝えながら」、イエスさまはガリラヤを巡られました。この良い知らせを人々に届ける。それが宣教です。どんな形であっても。直接神さまのことを話せなくても、あなたを見ていると、軽やかな生き方で、自分に固執していないで、うらやましいと言われるようならしめたものです。そこで「聖書を読んでるからかも」なんて言えたらさらに一歩前進ですよね。何が一番人の心に響くかと言えば、カミが、ツミが、という話ではなくて、生身の人間の生き方です。最初に言ったように、ガリラヤ全土で。私たちが生きて生活しているこの身の周りで、私たちは御国の福音の証びとになりたい。ほんの少しでもいいから、そうやって私たちを通して御国の福音が広がったらと願います。そんなあなたにイエスさまは声を掛けてくださいます。19節「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」イエスさまはこう言って私たちに声をかけてくださる。イエスさまがそう見ていてくださるんですから、このみことばはそのまま実現するんです。そのことを信じていきましょう。

<癒し>
三点目ですけれども、イエスさまはガリラヤ全域を巡りながら、「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒され」ました。イエスさまは癒し主。病を癒してくださるお方です。イエスさまがあらゆる病気を癒されたことは福音書によく描かれています。24節にはてんかんや中風などの病名も出ていますが、あらゆる病気を癒されました。病気の原因は肉体的なものだけでなく、社会的な貧困や貧しさと関連していることありましたし、何よりも罪が原因だとして、共同体の中から立ち切られてしまう、社会的に抹殺されてしまうこともありました。また悪霊に憑かれた人というのも出てきますね。悪魔や悪霊というのは確かに存在しているので、オカルトにはまってしまって悪霊にやられてしまうことが今もあります。しかし、それすらもイエスさまは癒してくださいます。イエスさまの癒しは、ただ病の癒しということを越えて、それは、イエスさまのメッセージが真理であることの証拠であり(ヨハネ14:11)、イエスさまが待ち望まれていたメシアであることのしるしであり(マタイ11:2-6)、神の国が始まっていることの確証なのです(9:35)。

ところで、今日、神さまは通常は医療を通して、薬を用いてそれを現わしてくださいます。私は喘息で内科に行ったり、アトピーで皮膚科に行ったりして、そこで薬をいただくわけですが、お医者さんなど医療に従事される方々、薬剤師さんら薬を調合してくださる方々というのは、本当に有難い存在で、感謝しなければならないなと思わされます。その上で、それらの薬が身体の中でどのように溶けて、吸収されていくか、それが病に対してどう効果を現わしていくか、そのプロセスは神さまの領域ですね。鍼に行ったり、教えてもらって自分でお灸をしたりもするんです。お灸をすると古傷の痛みが緩和されます。西洋医学と東洋医学の良いとこどりでいこうと思っているんですが、薬にせよお灸にせよ、私の身体がそれに応えて改善していっている、それは神さまの癒しのみわざです。神さまはお医者さんたちを用いて、薬を用いて、私たちに癒しを与えてくださる。

しかし、そうでない時というのもまたある。医療では治せないものがある。進行性が速かったり、出来る部位が特殊な癌などです。神さまは全能のお方ではなかったのか。いかに人間の医療に限界があろうとも、神さまがそれを用いられるのならば、癒されないはずがなかったのではないか。その問いが終わることはないでしょう。私たちがどれほど願っても、祈っても、癒されないことがある。パウロもそうでした(Ⅱコリント12:7-9)。また、ヨブのことも思い出します。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」を告白したヨブの姿です(ヨブ1:21)。

ただこれは、癒しを求めて祈ることもまあほどほどにしておけばよいという意味では決してありません。そんな諦めの境地は神さまとの人格的な関わりではありません。私たちは祈り続ける。癒してくださいとあきらめないで祈り続けます。神さまに泣きついて、食らいついて、「祝福してくださるまで離しません!」と言ったヤコブのように、私たちは祈り続けるのです(創世記32:26)。その先のことは神さまの領域だということです。

<福音の広がり>
最後に24、25節ですが、イエスさまの噂は「シリヤ全体」に広がったとあります。イスラエルの国境を越えてシリアにまで、ということではなく、あくまでもイスラエルの中でのことなので、シリアに近い北部、つまりガリラヤよりもさらに北の地域のことでしょう。

さらに25節を見ると、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ地方、及びヨルダンの川向うからとあります。以前、ヨルダンの向う岸というのはヨルダンの西側のことだと言いました。イスラエルの民が東からヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったからです。その理解でいいのだと思うのですが、ここではこのほかにガリラヤや、エルサレム、ユダヤも名前を挙げていますよね。デカポリスまで含めて、これはもう全国にイエスさまのうわさが広まったということを表現していいますから、この「ヨルダンの向う岸」というのはもしかしたら東側のペレアのことかもしれません。まあ、どちらにしてもイスラエルの国中からということです。イエスさまはこの時ガリラヤで宣教しておられます。ガリラヤの町々を巡っておられます。しかし、その噂は広く全国に広がっていったのですね。そして全国各地から人々が集まってきたのでした。福音には力があります。まことの王がおられる。その方が私たちのために十字架にかかり、よみがえって私たちを罪の力から解放してくださった。もうあらゆる生きづらさにおびえる必要はない。私たちは罪から解放された者として生きていくことが出来るという、この福音には力があります。御国の福音を携えて、私たちも出ていきましょう。私たちにとってのガリラヤ中に、自分の生活領域のあちこちに出ていきましょう。そこで何らかの形で福音の証をしたい。聖霊なる神さまに助けを求めましょう。そうやってこの福音はここまで広がってきたのだということを思い出しつつ、今日も、今週も、福音の証人として立たせていただきましょう。主がそう見てくださるから。私たちは懸命に、丁寧に、日々の暮らしを送っていこうではありませんか。(イザヤ9:2)
 

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御国の福音を携えて私たちのところに来てくださった、主イエス・キリストの恵みと、
「わたしは主。あなたを癒す者である」と言ってくださる父なる神の愛、
そして、福音の広がりのために私たちを用いてくださる聖霊の満たしと祝福が、

今週もお一人お一人の上に、その周りに、

豊かにありますように。アーメン

 

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