top of page
​礼拝メッセージ
お知らせ
●録音
20250706(マタイ5:6)義に飢え渇く者の幸い
00:00 / 43:45
直近の録音メッセージです。過去分はこちらから。
IMG_0054.jpg
●原稿

【7/6】

マタイの福音書5章6節

「義に飢え渇く者の幸い」

山上の説教を一つずつ読み進めています。今日は4つ目です。6節「義に飢え渇く者は幸いです。/その人たちは満ち足りるからです。」イエスさまのこのことばを見ていきましょう。

まずはじめに「義」ということばですけれども、正義の義、正しさということですから、何か道徳的な正しさのことと思われるかもしれませんが、ここで言われている「義」とは「正しい関係性」のことを指します。神さまと私たちの間の、正しい関係性、それが義です。以前、たまたまテレビでみた大河ドラマでこんなシーンがありました。どこかの武将がお殿様から相談を受け、ある国との友好関係を破棄して違うところと組むだったか、そういう話をしている時に、主人公の武将が「それはなりません。それでは義が立ちません」と進言するのです。ああ、義というのは関係性のこと。正しい、あるべき関係性の事なんだと納得した事でした。

聖書が描く神さまと私たちとの正しい関係とは何か。いろんな説明ができると思うのですが、4つにまとめてきました。まず一つ目は、神さまは創造主であり、私たちは被造物であるということ。そして二つ目に、神さまは私たちに生き方を教えてくださり、私たちはそれを守るということ。三つ目に、神さまは礼拝を受けるべきお方であり、私たちは神さまを礼拝するということ。こういったことが挙げられると思います。

このほかにも四つ目として、「公の義」と書いて「公義」と新改訳が訳しているのも同じことば(ツェダカー)です。義とは個人の内面の話だけではなく、社会のあり方が神さまとの関係にかなっているかという問題でもあるのです。社会的な正義ということですね。弱者が虐げられること、権力をもったものが不正に手を染めること、そういったことは本来あるべき姿ではない、神さまとの関係の中において、それらはさばかれるべきこと。正されるべきことです。

このように義について四つの側面を取り上げましたが、一つ一つをもう少し掘り下げてみましょう。

<①創造主との関係>
まず、「創造主との関係」です。神さまは創造主であり、私たちは被造物であるということ。聖書は「はじめに神が天と地を(つまりすべてのものを)創造した。」と始まります(創世記1:1)。神さまが創造主、そして私たちは被造物である。これが大前提ですね。詩篇33篇6節〜12節を開きましょう。6節「主のことばによって 天は造られた。天の万象もすべて 御口の息吹によって。」神さまはことばによってこの世界を造られました。「光、あれ」と主が言われて光ができたと聖書は語ります。神さまはみことばでこの世界を造られましたのです。天の万象というのは天体だけでなく、気象のことも含むでしょうね。自然界のすべてということです。人は自然の大きさやその力を目の当たりにした時、自然の美しさと共にその脅威を感じるわけですが、聖書は、その自然そのものの力というよりも、それを「造られたお方」について記しています。私たちはその神を信じている。7節〜8節にあるように海の水を集められた方を恐れ、敬うのです。その方が言われる事はそのとおりになる。みことばはその通りになる。9節〜11節「9 主が仰せられると そのようになり/主が命じられると それは立つ。 10 主は 国々のはかりごとを破り/もろもろの民の計画をくじかれる。 11 主のはかられることは とこしえに立ち/みこころの計画は 代々に続く。」主が仰せられるとそのようになるんです。主が命じられるとそのようになるんです。主のことばには力があるから。主はこういうお方です。だからその民は幸いなんです。12節「幸いなことよ/主を自らの神とする国は。/神がご自分のゆずりとして選ばれた民は。」私たちは、神さまのみことばは必ず実現すると信じて、日々の暮らしにおける具体的なひと場面、ひと場面において、みことばに信頼して歩んでいきたいですね。それが、みことばによって造られた私たちのあるべき姿、神さまとのあるべき関係性です。

<②律法授与者との関係>
二つ目に、神さまは私たちに生き方を教えてくださり、私たちはそれを守るということについて。つまり、律法授与者との関係です。神さまが教えてくださる生き方、それはつまり律法、特に十戒のことと考えるとよいでしょう。律法というのは、イエスさまが来られた以上は、もう必要なくなったものもあります。いけにえのささげ方であったり、神殿や幕屋の建て方などは、私たちはもうそれを守っていく必要はありません、それらは完成されたものなので。しかし、十戒に関しては、今も私たちが従うべき神さまのみこころがありありとあらわされていて、私たちが生きる指針、ガイドになるわけです。神さまは私たちに生き方を教えてくださる。出エジプト記20章がその場面ですけれども、イスラエルの民が十戒を与えられるのに先立ってこういう書き出しがあります。出20章2節「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」これが十戒の大前提です。私たちを救い出してくださったお方だということ。私たちを救い出してくださったお方が、私たちに生き方を教えてくださるのだということです。神さまとの関係がある。だから、これは機械的なルールブックではないんです。ここから、この前提から始まって、「あなたはわたしの他に、他の神々があってはならない」ということや、「偶像を作ってはならない」、また「偽証してはならない」「むさぼってはならない」という十戒が始まっていくのです。十の戒めと書いて十戒ですが、実は旧約聖書のヘブル語では「戒め」ではなく「十のことば」となっています。戒めというと、それを守る事ができないと罰せられる恐ろしいルールというニュアンスが入ってしまいます。しかし、神さまが私たちに律法を与え、神の民としての生き方を教えてくださったのは、断罪して裁くためではなく、その逆です。私たちにいのちの道を歩ませるためです。神さまは私たちに生き方を教えてくださる方であり、私たちはそれを守る。これも、あるべき関係性。「義」なんです。神さまが私たちに生き方を教え、示してくださるのは、私たちを縛るためではありません。私たちを愛し、救い出し、そして育ててくださる神さまの愛だということをを忘れてはなりません。

<③礼拝を受ける方と捧げる側>
三つ目は、礼拝について。この方は礼拝を受けるにふさわしい方、そして私たちは礼拝を捧げる側という関係性ですね。黙示録5章11節〜14節「11 また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。 12 彼らは大声で言った。/『屠られた子羊は、/力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を/受けるにふさわしい方です。』 13 また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。/『御座に着いておられる方と子羊に、/賛美と誉れと栄光と力が/世々限りなくあるように。』 14 すると、四つの生き物は『アーメン』と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。」四つの生き物とは何か、長老たちとは何者か、というところまで今日は触れる事はできませんが、「御座に着いておられる方」とは父なる神のこと。そして「子羊」とは十字架でいけにえとしてささげられたイエスさまのことですね。神さまは賛美を受けるのにふさわしいお方。この箇所は、ヘンデル作曲のメサイヤの最後に出てくる「アーメンコーラス」の歌詞になっています。畳み掛けるような賛美の歌詞はここから取られていますね。黙示録というのは、天で捧げられている礼拝の様子を、ヨハネが神さまから見せられた時の内容が記されているわけですが、私たちの主なる神は、このように礼拝を受けるにふさわしい、礼拝を受けるべきお方です。そして私たちは礼拝者としてこの方を賛美する。私たちが週ごとにささげるこの礼拝には実はすごい意味があるのです。私たちはこの天の軍勢、天の賛美と一つとさせられています。キリストのからだは時代も地域も超えた教会、神の民のことです。先ほどの箇所には天の軍勢、御使いたちだけでなく、造られたすべてのものの賛美が載っていました。私たちはそこに連なっているのです。彼らと共に、天地の造り主である神を礼拝しているのです。日曜日だけでなく、日ごとに、そしてふと神さまを見上げて祈る時、心の中で賛美をする時に、私たちは天上での礼拝に参加しているのだということを思い出しましょう。

<④社会的な正義>
最後に「公義」、社会的な正義についてです。これも神さまとの関係性の中で問われることです。ミカ書にこのような個所があります。ミカ6:6-8「6 何をもって、私は主の前に進み行き、/いと高き神の前にひれ伏そうか。/全焼のささげ物、一歳の子牛をもって/御前に進み行くべきだろうか。 7 主は幾千の雄羊、/幾万の油を喜ばれるだろうか。 /私の背きのために、私の長子を、/私のたましいの罪のために、/胎の実を献げるべきだろうか。 8 主はあなたに告げられた。/人よ、何が良いことなのか、/主があなたに何を求めておられるのかを。/それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、/へりくだって、/あなたの神とともに歩むことではないか。」6節に出てくる全焼のいけにえとは、いけにえとしてささげるものを文字通り全焼させ、後で祭司の取り分として肉をいただくとかそういうこともまったく無しに、完全に焼き尽くすささげものです。神さまのためだけに、すべて焼き尽くす。まったき献身のあり方とも言えます。子牛を全焼のいけにえとしてささげる、それは立派な信仰の行為ですね。しかしここで彼は極端に走りそうにもなっています。7節後半、自分の子どもを捧げるべきだろうか、と。人身供養は神さまがもっとも嫌われることの一つです。神さまがアブラハムにイサクをささげるように言われたのは、アブラハムの信仰を見るためであって、神さまは人身供養のようなことを嫌われるのです(エレミヤ19:5、レビ18:21)。この人はどうやって神さまとの関係を築こうかと思っているわけですが、全焼のいけにえをささげようとしたり、逆の極端に走ったりと視点が定まらない。しかし主が何と言っておられるか。主が何を求めておられるのか、それは8節後半「それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、/へりくだって、/あなたの神とともに歩むこと」だと言います。実は、ミカ書の前半には社会的な罪、強い人が弱い人を虐げて私腹を肥やしていく様が描かれています。政治のリーダーたちだけでなく、祭司や預言者たちでさえも、いつわりに満ち、わいろをうけとっていた。そういう社会の様子がミカ書の前半では書かれているのです。しかし、神さまが求めておられるのは、そのような社会の中にあって公義をあらわすこと。社会的正義をあらわすことなんです。神さまは社会的正義を喜ばれる。虐げられている人たちを助けること。不正をただすこと。それは神さまの御心です。本来神さまが願っておられるような社会にしていく。これも「義」なんです。

「義」ということばは多様な使われ方をしますけれども、基本的にはこのように神さまとの正しい関係のこと、本来あるべき姿の関係性のなのことです。

<義の中の義>
さて、義というのは神さまとの正しい関係性のことであり、それを求めるとは、そこに立ち返ること、正しい関係性を大切にすることだと今言ったわけですが、究極的には、私たちには義はなしえない、私たちは不義でしかないということを覚えておく必要があります。先ほどの四つで言えば、私たちは創造主のみことばを信頼しきれない。また、私たちは律法授与者である神さまが、愛ゆえに私たちに生き方を教えてくださっているのに、それに反することばかりしています。神さまの御心に自分の生き方を合わせていくことというのは、私たちには自分の力ではできません。礼拝を捧げるということもそうです。形だけ礼拝を捧げていても、一向にその生き方が神さまの愛を反映していかない。礼拝をささげてもその生き方で神さまを証していくことがない。自分の力で義はなしえない。社会的な正義、公義と言っても、私たちのこの社会を見てください。もう、構造的な罪の中で私たちにはどうにもならない社会の不正があります。どうしたらいいのかわからない。私たちは不義でしかない。

しかし、その中で、義の中の義とでもいいますか、私たちと神さまとの間のもっとも大切な関係性、それは、イエスさまが十字架にかかられたということです。神さまと私たちとの間のもっとも大切な関係性とは、不義でしかない私たち、罪でしかない私たちのためにイエスさまが十字架にかかられたということです。神さまがそれほどに私たちを愛していてくださるということ。私たちはイエスさまが十字架にかかるほどに愛されているということ。この関係性こそが「義」なんです。義の中の義。正しい関係性です。 それは私たちが成し得るものではなくて、神さまの恵みでしかありません。

私には、忘れることができない一つの経験があります。大学生の頃に久遠教会に集うようになりましたが、青年会でみなで聖書研究をした時のことです。聖書研究というのは、バイブルスタディーという言い方もしますよね、グループでその日の聖書をすこし詳しく突っ込んで読み込んだ上で、幾つかの問いを受けて思い巡らし、みなで自分なりの答えを分かち合ったりするわけです。そうすると、すごくその箇所の理解が深まっていくんですよね。関西集会でもいつかじっくり聖書そのものから聴いていく、この聖書研究をしたいなと思っていますが、それはさて置き、青年会のその時の聖書箇所が「神さまの喜ばれること」というような箇所だったんです。そこで私は意気揚々と、「神さまの義をあらわしていこう」というようなことを言ったのでした。私たちは神さまに喜ばれる正しいことをしていこうというようなニュアンスで、ですね。そこには、自分には義を成し得る、私たちは自分で立派なクリスチャンに成長していける、そういう前提が無意識にでもあったのだと思います。一人、年長の教会員の方が参加してくださっていたのですが、「でもね、義っていうのはイエスさまがしてくださったことだね」と静かに言われたのでした。脳天をかち割られるようなショックというんですかね。聖書が言っていることってそういうことなんだと、少し分からされた経験でした。私たちは100%の罪人である。少しはいいところのある99%の罪人ではなく、100%の罪人、不義でしかない存在である。私たちは自分から神さまとの関係を正せない。だからこそイエスさまの十字架がありがたいこと、イエスさまの復活が力強いこと、そうやって神さまが私たちを愛してくださったことこそが、神さまと私たちとの正しい関係なんですよね。これは聖書を読むときの大切な枠組みです。こういう視点で聖書を読んでいくと、聖書の筋が見えてきます。イエスさまこそ、義の中の義。これからもしっかり押さえていきたいポイントです。Ⅱコリント5章21節「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」キリストの十字架のゆえに、不義でしかない私たちが義とされた。それが神さまの願われた、神さまと私たちとの間のあるべき関係性です。ここに福音の驚きがあるのです。

<義に飢え渇く>
さて、ではこの神さまとの正しい関係に飢え渇くとはどういうことになるでしょうか。神さまの側では私たちをそのように愛してくださっています。私たちはそのことを受け取るだけ。信じるだけです。義に飢え渇く、神さまとの正しい関係に飢え渇くとは、神さまに愛されていることを知り、なおなおその愛を実感し、その愛に生かされていくことを求めていく、求め続けていく人のことです。そのような生き方への憧れを諦めることなく、飢え渇いた人が水を求め、食べ物を求めるように、そのように神さまとの関係を求めていく人のことですね。

ヨハネの福音書6章35節にこのようなみことばがあります。「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」

身体の飢え渇きは水や食べ物を摂ることで癒すことができますが、私たちの存在そのものが欲している飢え渇きはイエスさまと出会うことでしか満たすことができないのだと、主は言われます。

同じくヨハネ7章37節〜38節「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスさまを信じ、イエスさまのもとに行くなら。荒野に水が湧いたように、私たちの渇ききった心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになると。続いて39節「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」イエスさまが十字架にかかって死なれ、復活して天に昇られることで栄光をお受けになり、それからペンテコステの時に聖霊が来て下さったわけですが、そのことが言われています。生ける水の川、それは聖霊のことだとヨハネがここで注意書きをしているわけですね。私たちはイエスさまが十字架にかかって死なれたこと、私たちのために死なれたこと、そして死をも打ち破って復活されたこと、今は天で私たちのために祈ってくださっていることを知っています。今私たちは聖霊が私たちのうちに住んでいてくださることを知っています。であればなおさら、聖霊に満たされることを求めていきましょう。そのためにはイエスさまのもとに行くことです。イエスさまは「わたしのもとに来なさい、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われるからです。何度でもイエスさまのもとに立ち返るんです。そして、主が私たちのためにしてくださったことを受け取り、今の自分をよく見つめて、その上でそのことも全部イエスさまにお話ししていくんです。クリスチャンになったからといって、生きていく上での自分の課題がすべてなくなるわけではありません。イエスさまとの関係をどんどん深めていきながら、あの領域もこの領域も、神さまへの信頼を深めながら歩み続けていくなら、そこに主は聖霊の実を実らせてくださいます。聖霊が働かれるんですから、そこには実が実る。私たちは変えられていくんです。生ける水の川のように聖霊があふれ、流れ、私たちを満たしてくださり、私たちは変えられていく。神さまの義を何度でも受け取り直しながら、そして地の塩として、世界の光として、つまりこの世界に向けて公義を表していく者へと、私たちは変えられていくのです。

イエスさまは言われました。義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。満ち足りる、これは五千人の給食など、文字どおりパンを食べて満腹するという場面で使われています。食べ物で空腹が満たされていく時の安心感、充足感というのは身近なよくわかる感覚です。神さまとの正しい関係を喜び、それがますます深まっていくことを求める人は、その飢え渇きは必ず満たされるのです。そこには安らぎと力が生まれます。

私たちは神さまとの関係の中に安らぎ、満ち足ります。問題は山積みのままかもしれないけれど、それでも私たちは歩み続ける力を得ます。そうやって神さまの平安の中を歩み続けることができるから。だから、目の前の現実から逃げないで、地に足をつけて神さまと共に歩み続けることができます。だから幸いなのです。義に飢え渇くものは満ち足りるから。だから幸いなんです。この幸いはもう一度噛み締めていきましょう。

ーーー

「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」(ヨハネの福音書6:35)

私たちを義とするために十字架にかかり、復活された主イエス・キリストの恵みと、
ひとり子を十字架にかけるほどに私たちを愛しておられる、父なる神の愛、
そして、私たちのうちに溢れ流れて私たちを作り変え続けてくださる、聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに
豊かにありますように。アーメン

​ーーーーーーーーーーーーー

【6/29】

マタイの福音書5章5節

「柔和な者の幸い」

ずいぶん久しぶりになってしまいましたが、マタイの福音書の講解に戻ります。山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれる箇所を少しずつ読み進めていましたので、その続きからとなります。山上の説教はその冒頭にある「八つの幸い」をはじめとして、5章から7章の終りまで、イエスさまの弟子としての生き方(キリスト者の倫理)が示されているところです。それは世の中からは距離をおいて、きよく正しく生きなさいというようなものではありません。5章1節でイエスさまがまず「この群衆を見て」とあるように、イエスさまのことばを聞きはするけれども従うわけではない「群衆」をイエスさまはまずご覧になって、その上で彼らに仕えるように、彼らのただ中で生きるようにと弟子たちに教えられた、それが山上の説教です。その内容は「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(39節)であったり、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(44節)ということなど、ハードルが高いような表現も多く、自分には無理だと委縮してしまう私たちです。しかし大切なことは、山上の説教とはこのような生き方をしなければクリスチャン失格だというようなリストではないということです。ここに書いてあることを達成できない自分を責めるのではなく、神の国の「すでにといまだ」の間で、私たちは「すでに」この幸いな者とされているんだということ、イエスさまを信じる生き方とはこんなにも幸いなことなんだという再確認です。そして、「これからも」このように変えられ続けていくという希望をしっかりと見据えていたいと思います。その冒頭に八つの幸いが示されているように、これは「幸いな」生き方なんです。私たちはすでにその幸いに入れられています。そしてこれからもこの幸いを味わい続けることになります。

<柔和な者の幸い>
今日は八つの幸いの三つ目、「柔和な者は幸いです」というこの部分ですが、まず「柔和」というのは性格のことでしょうか。そうするとここはいかにも倫理的といいますか、優しく、穏やかにいなさいということでしょうか。しかし、どうもそういう簡単なことではないようです。脚注のある聖書をお持ちの方は、ご覧になっていただくと、柔和な者とは、「へりくだった者」とも訳されることがわかります。生まれ持っての性格ということであれば受け身ですが、へりくだるとは能動的な、主体的な態度です。

日本語で「柔和」というと、どちらかというと弱々しいニュアンスを持つかもしれません。荒々しく激しい感情がなく、心が静かで穏やかなことというような。しかし、ここで使われているギリシャ語の「プラウス」とはそういう意味ではなく、感情や自己主張を適切にコントロールできていることを言うようです。怒りのような感情がないわけではなくて、でもそれらがコントロールされていること。野生の馬が調教されるとエネルギーをきちんとコントロールできるようになる、プラウスとはそういうことだそうですね。「柔和」とは激しい感情がないことではなく、それを適切にコントロールできるということです。そして、この「適切なコントロール」は感情のことだけでなく、自分自身の在り方や、与えられている賜物についても言えることなのです。

例えば、自分をどのように評価するかということもその一つです。適切なコントロールですから、自分を過大評価したり、逆に過小評価することもありません。日本社会では「能ある鷹は爪を隠す」のが美徳とされます。それがポジティブに働くこともあれば、ネガティブな結果につながることもある。爪、つまり自分に与えられている賜物を隠すことが、他の人を立て育ていくためであればいいのですが、自分がやらなければならない場面ですらそれを隠しているようではいけません。柔和な心、謙遜なへりくだった心というのは、自己卑下とか、自分を過小評価することとは違います。神さまから与えられている賜物を過大評価も過小評価もせずに、適切に評価し、適切に用いるのです。自分の感情だけでなく、自分の賜物も適切にコントロールするのです。それは人との関係に大きく影響します。あえて自分を前へ出さないのは、人を育てるためです。自分に与えられている賜物を適切に評価し、周りの状況によってそれを用いるか用いないかを判断するのは、人を活かすためです。そのために自分の力を、自分自身をコントロールするのです。それがへりくだるということであり、柔和な者の姿です。

<詩篇37篇>
さて、5節後半の「地を受け継ぐ」という表現ですけれども、これは詩篇37篇に繰り返し出てくるフレーズです(37:9、11、22、29、34)。詩篇37篇はヘブル語アルファベットのいろは歌になっているので、当時のユダヤ人たちにとっても特に覚えやすい、親しみのある詩篇だったと思われます。イエスさまが「柔和な者は地を受け継ぐ」と言われた時、おそらくこの詩篇37篇が念頭に置かれていたと思われます。聞く人たちも「ああ、詩篇37篇ね。」と頷きながら聞くことができたのです。とすると、今回話題になっている「柔和な人」というのは、詩篇37篇全体で言われているような人だということもできるでしょう。

37篇1〜2節「1  悪を行う者に腹を立てるな。/不正を行う者にねたみを起こすな。/2  彼らは草のようにたちまちしおれ/青草のように枯れるのだから。」

37篇8〜9節「怒ることをやめ 憤りを捨てよ。/腹を立てるな。それはただ悪への道だ。/9 悪を行う者は断ち切られ/主を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。」

悪者に腹を立てるな、怒るなと言われても、先ほども言ったように怒ることそのものの否定ではないのです。正義のための憤り、「義憤」ということはありますし、イエスさまも神殿が金儲けの舞台になっているのを見て怒られました。悪事そのものには怒るべきです。むしろ、ここで言われているのは、2節にあるように「不正を行う者に対して妬みを起こすな」ということです。私たちが悪者に対して腹を立てる時、そこには「あいつばっかりうまいことやって、ずるい」という妬みの感情があるわけです。しかし、そういう腹の立て方ならば、怒るな。妬みながらであるなら、憤るなというわけです。そうではなく、37:3「主に信頼し 善を行え。/地に住み 誠実を養え。/4 主を自らの喜びとせよ。/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」悪者を妬むのではなく、神さまに信頼して、自分のなすべきことをするということですね。悪者を妬んで怒る方向にエネルギーを使うのではなく、神さまに信頼して、自分のなすべきことをコントロールしていく。そのような人が「地を受け継ぐ」と言われているのです。

<地を受け継ぐ>
このようにして、詩篇37篇から見えてくる「柔和な人」とは、悪を前にしても動じず、神を信頼し、善を行い続ける人でした。そのような人たちが「地を受け継ぐ」のです。では、「地を受け継ぐ」とは何のことでしょう。

普通に考えれば、財産としての土地を相続するということですが、イエスさまの時代のユダヤ人たちにとっては、「地を受け継ぐ」とは祖国の回復、つまりローマ帝国からの独立を意味していました。人々は、いつになったらメシアが立ち上がってローマを追い出してくれるのか、ダビデの王国イスラエルを回復してくれるのかと待ち焦がれていたのです。彼らが望んでいたのは、軍事的な力によって「地を受け継がせてくれる」救い主、つまり軍事的メシアでした。彼らにとって「地を受け継ぐ」とは力による土地の解放だったのです。

しかし、イエスさまが言われた「地を受け継ぐ」は、そうした期待とは全く異なるものでした。もともと詩篇37篇に書かれている内容からしても、それは力によってなされるものではないのです。軍事力によってなされるものではない。むしろ柔和さ、柔和な心によってなされることです。悪を前にしても動じず、神さまに信頼し、善を行い続ける人がと言われているのですから。

悪を前にしても動じずに、神に信頼して自分をコントロールしつつ善を行い続ける人。そのような人が受け継ぐ地、それは「神の国」です。イエスさまの宣教の初めのことばを思い出してください。イエスさまが、その宣教のはじめにまず何を言われたか。それは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という宣言でした(4:17)。天の御国、そう、私たちが受け継ぐ地というのは、まさに天の御国のことなのです。

私たちが受け継ぐ地、それは神の国のこと。別の言い方をすれば新天新地のことです。黙示録にあるように、もはや、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもないと言われる、イエスさまといつまでも一緒におられる、新しい天と新しい地。そここそが、私たちが受け継ぐべき場所です(黙示録21:1-4)。

その意味では、私たちが御国を受け継ぐのは将来のことなのですが、神の国には「すでにといまだ」の側面があります。神の国が新天新地として完成するのは先のこと、イエスさまが再臨なさった時のことですが、イエスさまがすでに来られた時に神の国は始まっているのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というのは、天の御国が、神の国が、もうここにある」という意味です。イエスさまが来られたことで、神の国が始まりました。私たちはすでに神の国の人間とされています。

聖書には私たちが御国を受け継ぐという表現がたくさんあります(エペソ1:14、ヘブル12:28)。そして今日の箇所は言います、「柔和な者は幸いだ、その人たちは地を受け継ぐから。」御国を受け継ぐから、と。確認しますけれども、それは性格的に穏やかな人が天国に行けるという意味ではありません。自分に与えられた力や賜物をきちんとコントロールして、他者に仕えていく人のことですね。注意しなければならないのは、そのようにして善を行えば天に行けるということでもないんです。神の国の人間になるために必要なのはイエスさまを信じる信仰だけです。ですので、ここに書かれているのは条件ではなくて、むしろ逆ですね。神の国の人間は、このような柔和な生き方になっていくのです。イエスさまに似た者とされていくので。自分の力ではなく、神さまに信頼し、自分の力は神さまにお委ねして適切に管理する人に、私たちもなっていくのです。変えられていくのです。これは、自分の力を誇示していく世の中の常識とは違う生き方です。力の否定ではありません。力は持っている、でもそれを正しくコントロールしながら使う。自分を立てるためではなく、人を立てるためにその力を使ったり制御したりする「神の国の柔和な人」に、私たちもなっていくのです。

<イエスさまこそ柔和なお方>
イエスさまは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われた後に、このように続けておられます。「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイ11:28-29)。以前の翻訳で「わたしはやさしく」となっていたところが「わたしは心が柔和で」となりました。ここもプラウスだからです。ここまで見てきたように、柔和とは、ただ優しいことではありません。イエスさまは内に秘めた激しい感情を持っておられます(マタイ21:12-13)。しかし、それらをコントロールしておられる。怒るべき時に怒る。泣くべき時に泣く。そして自分に与えられた賜物を適切に用いていく。決して自分を大きく見せるためではなく、かといって自分を過小評価するのでもなく。それこそが謙遜、柔和ということです。私たちはこの方の姿に倣いたいですね。「わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」と主が言っておられる通りです。

今日の箇所は、神の国のものとされた人たちが、イエスさまの品性に似たものとなっていく幸いを伝えているのだと思います。イエスさまの品性に似た者とされていく、霊的に成熟していく人の幸いです。聖霊が私たちのうちに実らせてくださる御霊の実の中にも、「柔和」が出てきます(ガラテヤ5:23)。御霊の実ですね。つまり、御霊によってイエスさまのように変えられていく人は幸いだということでしょう。その人たちは神の国を受け継いでいるのです。

繰り返しになりますが、これはまだそのように変えられていない自分を見て落ち込む必要はなくて、自分は新しい人をすでに着たのであり、自分の内側はすでにそのように変えられ続けているんだということ、これからも変えられ続けていくんだということ、私たちは御霊によって、聖霊によって、イエスさまのように変えられ続けていく幸いな人々だということです。その幸いを見失ってはなりません。

私たちは、イエスさまのように柔和な者として、へりくだった者として、そうやって人々に仕える者として、変えられ続けていく。この地上で、神の国を待ち望みながら。すでに確実に神の国の人間とされている者として、歩んでいける。だから幸いなのです。

ーーー

主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え。(詩篇37:3)
 

ご自身が柔和な者として、私たちのために休みを与えてくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちをキリストの似姿に変え続けてくださる父なる神の愛、
そして私たちに御霊の実を実らせ、神の国を受け継ぐ者としてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

 

​ーーーーーーーーーーーーー

【6/22】

ガラテヤ人への手紙5章13〜16節、22〜25節

ペンテコステ④

​「聖霊と共に歩み続ける」

​​​

ペンテコステのシリーズ説教は今日までとさせていただきますけれども、最後は聖霊の満たしについて、特に聖霊によって「歩み続ける」ことについて聖書から確認していきましょう。

本日開いたガラテヤ人への手紙は、パウロが宣教旅行で足を運んだ小アジア、つまりトルコの内陸部ガラテヤ州の諸教会に宛てて書かれた手紙です。第一次、第二次、第三次とあった宣教旅行のうち、どのタイミングで書かれたのかは様々な説がありますが、おそらく第一次宣教旅行が終わってアンティオキアに戻った頃、エルサレム会議の前に書いたのだろうとされます(使徒14:26-28)。異邦人(つまり非ユダヤ人)クリスチャンは律法を守ってユダヤ人のようにならなければ救われない、割礼を受けてユダヤ人のようにならなければ救われないという教えが出回っており、ガラテヤの異邦人クリスチャンたちが割礼を受けさせられるというようなことが起きていました。その話を聞いたパウロは、福音はそう話ではないということを強い口調で訴えています。

「6 私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。 7  ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。」(ガラテヤ1:6-7)この手紙が第一次宣教旅行の直後に書かれたのだとしたら、パウロは彼らに教えてきたばかりなのです。ガラテヤの諸教会を育て上げてきたばかりで、そんなに時間は経っていないのです。それなのに、こういうことになってしまっている。それで、余計にパウロはこのように強い口調になっています。異邦人クリスチャンもユダヤ人のようにならなければということで、割礼を強要してくる「割礼派」と呼ばれる人たちのことが念頭に置かれています。「1  ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。 2  これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(3:1-2)

激しい口調でパウロが書き連ねているのは、先ほども言ったように、救われるためには律法を守ってユダヤ人のようにならなければならないという教えにガラテヤの人々が傾いていたからでした。ユダヤ人は律法を守って割礼も受けます。それは民族のアイデンティティーです。異邦人にはその必要はありません。そもそも、これが大事なポイントですが、ユダヤ人も異邦人も、律法を守ることではなくイエス・キリストを信じることを通して救われるのです。この点はユダヤ人も異邦人も変わらない。しかし、割礼派と呼ばれる人たちがいて、律法を守り割礼を受けることこそが救いの道なんだ、クリスチャンであろうとも異邦人なのであれば割礼を受けなければダメなんだ、ユダヤ人のようにならなければ救われないんだと説いていたのです。それを聞いた異邦人クリスチャンたちも、自分たちは救われていないんじゃないか。イエスさまを信じるだけじゃ足りないんじゃないかと不安になっていた。そこでパウロはガラテヤ諸教会の異邦人クリスチャンに向けて「よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります」と書き送っているのです(5:2)。イエスさまによる救いとは、なに人だからとか、そういうことには拠らないんですよね。イエスさまを信じる、その信仰によって救われるのです。割礼を受けてユダヤ人のようにならなければならないとか、そんなことはないのです。

パウロはガラテヤ書の中で大事なことをたくさん書いているのですが、たとえば2章16節「16 [しかし、]人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」(2:16)律法を守りきれる人なんていないわけですよね。「21  私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(2:21)律法の究極の完成として、私たちの罪のためのいけにえとしてイエスさまは十字架にかかられたのです。律法を完成してくださったのはイエスさまであって、私たちがそこになにか付け足すようなことがあってはならないわけです。パウロはこの文脈で、「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と書いています(2:19-20)。「私が今生きているのは、この信仰によるのだ!」と(20節)。イエスさまが私のために死んでくださった。だから私がそこに何か付け足すようなことは何もないんだ、この信仰によって救われているのだ、そこに何を付け足そうというのか!ガラテヤ書はこのパウロの熱い思いで満ちているのです。

<御霊によって歩む>
さて、そのような前提で本日の個所に入ります。ガラテヤの人々は割礼派の影響を受けてしまって、「彼らのようにならなければならない」という思いや、「そうできた私は優れている/そうできなかったあの人たちは劣っている」という考え方に陥ってしまっていたと思われます。それが15節によく表れています。互いにかみつき合ったり、食い合ったりしている状況があったのです。また26節には「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないように」とあります。つまり、ガラテヤの人々はうぬぼれて、挑み合い、ねたみ合っていたということです。自分とイエスさまの関係に満足できない。信仰によって義と認められるのに、それでは満足できない。自分にも満足できないし、あの人のことも、この人のことも気になって仕方ないんですよね。そして噛みつき合うわけです。挑み合い、ねたみ合ってしまう。当時のガラテヤの諸教会だけでなく、私たちにも似たようなところがあるかもしれません。

しかし、パウロは言うのです。あなたがたは自由を与えられているのだから、その自由をもって互いに仕え合いなさい。あなたがたはロボットじゃなくて、自由な意思を与えられているんだから、イエスさまが言われたようにあなたの隣人を自分自身のように愛しなさい、と(5:13-14)。

そのために、16節「御霊によって歩みなさい。」ギリシャ語の現在形には現在進行形の意味が含まれると以前言いましたが、ここはまさに「御霊によって歩み続けなさい」という意味になります。そうすれば「肉の欲望を満たすことは決して」ない。ガラテヤの人々のように自分とイエスさまの関係に満足できないこととか、信仰によって義と認められるのにそれでは満足できないこと、そして自分にも満足できないし、あの人のことも、この人のことも気になって仕方なくて、互いに裁き合うということですね、こういったことから自由にされるには、聖霊によって歩み続けることが必要なんです。16節の「決してない」という部分はただの否定ではなくて、強調されています。聖霊がそうはさせないということですね。

エレミヤ書の預言に「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。」とあります(エレミヤ31:33)。またエゼキエルはこう預言しました。「26  あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。 27  わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」(エゼキエル36:26-27)私たちは聖霊に満たされ続けて歩む。歩み続けていくのです。主が私たちの生き方を導いてくださるのです。御霊によって歩み続けるなら肉の欲望を満たすことは決してないとパウロは言い切るのです。

このような言い切りの表現に出会うと、いや私は肉の欲に心を乱されてばかりだなと思うのです。自分自身のことを満足できない。自分と神さまの関係に安心できない。他の人のことが気になって仕方がない。程度の差はあれ、このガラテヤの人々と自分は同じだなと思うわけです。であるならば、自分は御霊によって歩めていないのだろうか。でも、そうじゃないんです。「歩み続けなさい」なのですから。常に、その時その時を歩み続けるんです。振り返ってみてどうだったか、肉の欲に満たされていたのかどうかをジャッジするんじゃなくて、今この時御霊に満たされて、今この時御霊を求めて歩んでいくのです。出来たかどうかを評価してジャッジしていくのではなく、常に現在進行系です。満たされ続け、歩み続けるのです。

<歩むということ、生きるということ>
なお、「御霊に満たされる」ということと、「御霊によって歩む」ということ、同じような表現ですが、この両方が大切だと思わされています。御霊に満たされるのは完全に受け身です。受動です。私たちは空っぽになって、聖霊に満ち満ちていただく。これは完全に恵みであり、受け身です。いただくものです。

一方で「歩む」というのは具体的な行動ですから、これは能動的なこと。主体的なことですね。神さまがなんとかしてくれるから大丈夫とあぐらをかいて座っているのではなく、神さまの守りと導きを信じて、具体的に一歩踏み出すのです。ただ、主体性・能動性と言っても、自分が先立つのではありません。「御霊によって」なのですから。聖霊に満たされて、聖霊の導きを信じるが故に具体的に歩む。歩み続けるのです。

ヘブル語では「歩く」ということばと「生きる」ということばが同じ単語なのですが、足を使って歩く、歩む、これは生きること、生き方のことであり、具体的な日々の生活のことです。私たちは具体的な日々の生活を、聖霊に満たされて、聖霊によって歩んでいくのです。食べることも、飲むことも、仕事も、休むことも、すべてにおいて神さまと関係のない領域はありません。聖霊に満たされながら食べる。御霊に満たされながら働く。御霊によって一歩一歩生きていくんです。

私たちには生活の中で、つまり具体的な話として、自分自身に満足できない弱さがあります。隣人と比較して自信を失ったり、ああならなければと焦ったり。また、逆に隣人を見下したりするわけです。ガラテヤのクリスチャンたちがそうだったように。しかし、聖霊の満たしを求めながら歩むなら、肉の欲望が満たされていくことはありません。

今、内容はどうあれ、肉の欲望に満たされそうになっている人がいるでしょうか。まずはそんな自分を卑下しないことです。聖書はそんなこと百も承知です。だからこそ、御霊によって歩み「続け」なさい、御霊に満たされ「続け」なさいと聖書は語るのです。ペンテコステのこの季節、今一度聖霊の満たしを求めようではありませんか。

<御霊の実>
最後に、パウロのこの文脈が22節以降につながっていくことを確認したいと思います。「22  しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 23  柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」

聖霊に満たされて、私たちのうちに聖霊の実が実っていく。聖霊が私たちをつくりかえ、ご自身の性質を表してくださいます。霊的成熟ということです。そして、ここに書かれている御霊の実のリストですけれども、これらは自分一人のためのものじゃないんです。もちろん、自分を愛する、自分を喜ぶことも大切で、それらはむしろ私たちが普段忘れがちな大切なことかもしれません。でも基本的に、隣人を愛する。隣人を喜ぶ。隣人との間に平和・平安を作る。相手に寛容になる、親切にする、善意を持つ、誠実である、柔和である。これらはみな、対人関係で問われるものです。最後の自制も、人を愛するために自制する。相手に寛容になるために自制するわけです。ここにあるのは対人関係で特に大切な事柄のようです。「御霊の実」は単数形で描かれています。それぞれが別々の実ではない。聖霊が実らせてくださる実、実ですから時間がかかりますが、聖霊が実らせてくださる実にはこういうたくさんの側面があるんですね。そしてそれは、イエスさまが言われた「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という、イエスさまが与えてくださった新しい生き方をサポートするものであり、導くものなのです。聖霊が助けてくださらなければ、聖霊がこの実を実らせてくださるのでなければ、私たちはイエスさまに従っていくことはできません。御霊の実なしに、隣人を自分自身のように愛することは出来ません。しかも、それが具体的な日々の生活においてなのですから。だから聖霊に満たされ続けることが大事なんです。イエスさまが言われた生き方に、少しでもそちらを向いて歩んでいけるように。

<御霊によって進もう>
御霊の実について読む時、24節と25節も忘れてはなりません。「24  キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 25  私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」

私たちはイエスさまと共に十字架につきました。私たちの肉は、古い自我は、私たちのこの罪は、イエスさまの十字架で処分されたんです。それが霊的な現実です。だから、私たちは自分の古い肉で歩む必要はもうない。そこから解放されているのです。いつまでも居心地の良い古い自分にこだわっている場合じゃない。私たちは御霊によって、聖霊によって生かされています。25節「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」この「進む」にあたることばは、「足並みを揃える、歩調を合わせる」という意味です。聖霊に歩調を合わせるのです。聖書のことばをもって、そして造られたこの世界のできごとを通して語りかける聖霊の促しに従っていくのです。

聖霊に従うというと、自分には縁のない世界の話だと思ってはおられないでしょうか。聖霊の満たしなどというと、それらは遠い世界の話だと感じてはおられないでしょうか。しかし、ここまで見てきたように、聖霊に満たされることって、聖霊によって歩むことって、非常に具体的・日常的なことです。ガラテヤの人たちがどんな問題に直面していたか。それは私たちもよく分かる日常的な話題でした。日常の中でこそ、聖霊の助けが必要です。私たちは教会を出て、日々の生活の中でこそ聖霊に満たされることを祈り求めていこうではありませんか。

聖霊に満たされることも、御霊によって歩むことも、どちらも「自分の力で信仰を立てる」という意味ではなく、「主に信頼して従っていく」ことです。主がくださった御霊は、私たちの中で今も働いておられます。だから、歩み続けましょう。聖霊に歩調を合わせて、歩み続けましょう。御霊の実が時間をかけて実っていきます。

さあ、クリスマス、イースター、ペンテコステと続いたお祝いの季節が終わって、また今年のクリスマスまでは特別なこういうお祭りとしての、お祝いとしての礼拝はありませんが、でもここから本番なのです。聖霊に満たされて、私たちは自分自身が置かれている場所、遣わされている場所に出ていき、そこで御霊によって歩む生活を続けるのです。聖霊に満たされて、歩み続けるのです。主が共におられます。安心して、ここから出発いたしましょう。

ーーーー
「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」(ローマ15:13)

私たちのために十字架にかかってよみがえられた、主イエス・キリストの恵みと、
信仰による救いの道を与えてくださった父なる神の愛、
そして、私たちをつくり変え、私たちに伴い、私たちのうちに実を実らせてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

​​

​ーーーーーーーーーーーーー

【6/15】

使徒の働き2章1節〜11節

ペンテコステ③

「聖霊が与えてくださる多様な言葉」

先週はペンテコステの礼拝でした。クリスマスやイースターと並んで大切な日で、聖霊なる神さまが来られたことを記念します。聖霊は旧約の預言者らに降って神の民を導いてこられましたが、今やイエスさまを信じるすべての人に聖霊が降るようになったのです。「終わりの日に、わたしはすべての人に我が霊を注ぐ」というヨエル書の預言が、ペンテコステの日に成就しました。それは五旬節、つまり律法授与の記念日でした。その日に聖霊が来られたのは、神の教えが外から課されるのではなく、私たちの内に記されるということ、内側から助けてくださる方として聖霊が来られたことを意味しています(エレミヤ31:31-33)。また、この日は「七週の祭り」といって小麦の収穫を感謝し、その初穂をささげる日でした。その意味は、この後に大きな収穫が来るということの宣言と感謝です。聖霊がその日に来られたのは、聖霊に満たされて地の果てにまで福音を宣べ伝えるキリストの証人が、数えきれないほどになるということですね。その通りに、キリストのからだと呼ばれる教会は歴史を通して大きく広がってきたのです。これからも広がっていくことでしょう(黙示録7:9,10)。

さて、聖霊が来られた時に大きな風のような音と、炎のような舌が現れたという不思議な出来事がありました。これらは聖霊の象徴です。確かに聖霊が来られたということの、はっきりとした証でありしるしでした。私たちの内には、イエスさまを信じる者たちの内には聖霊が住んでおられますが、それは曖昧なことではなく、確かなことなんです。今日は特に、この炎のような舌について、もう少しじっくりと見ていきたいと思います。

<3節 炎のような舌が分かれて>
まず、これは「炎のような」舌だったとあります。炎は神さまの臨在と、きよさをあらわします。聖霊に満たされる時、私たちは自我が取り除かれ、古いものが焼かれていくイメージです。私たちは罪を赦されて義とされた者たちですけれども、それは赦されたという神さまの宣言によるものであって、私たちの内側にはまだ罪の性質が残っているわけです。それを「きよい」と言い切ってくださるところに福音の喜びがあるわけですが、だからこそですね。きよめられたからこそ、完全に赦されているからこそ、成長していけるという喜び、成熟していくという感謝を聖書は語っているわけです。古い自我は何度でも焼かれる必要があります。パウロは明らかにイエスさまに出会い、罪を赦された喜びを熱弁していますけれども、それでも自分は古い自我に従ってしまうのだと告白しています(ローマ7章)。しかし、だからこその救いであるということを何度でも確認していくところに成長があるのです(同8章)。私たちは罪赦された者として、罪との戦いを諦めてはいけません。赦されていること、義とされていることを何度でも確認しながら、聖霊の炎で何度でも私たちの古い自我が焼かれていく必要があります。

そして、ここでのもう一つのポイントは、これが「分かれて」、つまり一人ひとりに分け与えられたということです。以前の翻訳では、ここが「分かれた舌」となっていたので、先が分かれた舌のようなイメージがあったかもしれませんが、「分かれて」現れた、つまり聖霊は一人ひとりに分け与えられたという点がとても大切ですね。聖霊は一人ひとりに降られたのです。

聖霊体験というと、個々人の信仰が深められていくことが強調されてきたと思います。確かに、それは大切なことです。聖霊の内住があいまいであるなら、はっきりさせてくださいと祈るんです。それと同時に、聖霊が分かれて一人ひとりの上に留まられたということを覚えたいのです。聖霊の満たしは個人的なことに終始するものではない。教会全体、もっと言えば地域社会や国をも超えた規模で求めていっていいのです。国というレベルで、世界というレベルで聖霊の満たしを求める祈りを、大胆に祈っていきたい。このことについては、また後で触れます。

<異言>
さてこの「舌」についてですが、これは異言の賜物と関係があります。舌のことを英語で「tongue」と言いますが、異言もまた「tongue」、同じですね。4節にあるように、彼らは聖霊によって異なる言葉(異言)を語り出したのでした。これにはどのような意味があったのでしょうか。なぜ、このような出来事が起こったのでしょうか。

聖書には二種類の異言が出てきます。まずはこの使徒の働きに出てくる異言。習ったことのない外国語を話すようになるという現象、奇跡であり、賜物ですね。大事なことは、その外国語をもって彼らが語ったことは神さまのみわざ、つまり福音だったということです(2:11)。つまり、これは宣教のための異言でした。キリスト教入門コースの「アルファ」でも、聖霊に満たされて知らないはずの外国語で福音が語られたケースは紹介されていました。外国語を話すようになる異言の賜物というと、超自然的に語学をマスターして外国語がペラペラになるということもあるのかもしれませんが、何も、完璧にその言語をマスターしてしまうということだけではなくて、神さまのみわざをあらわす短いフレーズを繰り返すということもあるでしょう。いろんなケースがあると思います。聖霊の満たしを求めて祈っていた人が、突然ラテン語で神を賛美する言葉を繰り返し始め、周りの人たちが驚いたという証を聞いたことがあります。後で調べたら、間違いなくラテン語で「創造主なる聖霊よ、来たりませ」と言っていたと。ラテン語はローマの言語ですけれども、ちょうど百人隊長コルネリウスの記事に励まされていたところだったそうで(使徒の働き10章、聖霊に関する重要な箇所です)、一同大いに力づけられたということでした。聖霊に満たされてこのようなことが起こる。これがまずひとつ目の、外国語としての異言の賜物です。

では、もう一つの異言とは何かというと、祈りのための異言です。コリント書でパウロが触れているのはこちらです(Ⅰコリント12章〜14章)。今日の箇所の話題ではないので、あまり深掘りはしませんけれども、これは外国語ではなくて、むしろ言葉ですらなくて、言葉を介さずに、言葉が言語化される前の呻きのレベルで祈るという祈り方です。霊で祈る祈り方です。ホームページに私の証を載せていますので、ぜひお読みいただければと思います。大切なことは、宣教のための異言も、祈りのための異言も、努力して人の力で得られるとか、悟りを開いたら与えられるというようなものではないということです。異言は聖霊がくださる賜物であり、「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに」話されるものです(使徒2:4)。

誤解がないようにしておきたいのですが、異言は賜物の一つです。異言で祈ることは聖霊に満たされたことのしるしの一つであって、聖霊に満たされたら必ずこうなるというわけではありません。異言で祈るようになったことをもって「これが御霊が与えられた証拠だ」とか、「これこそが聖霊のバプテスマだ」と限定するような表現には注意が必要だと思っています。異言を伴う聖霊の満たし、異言を伴う聖霊のバプテスマという表現をしたい。細かい点ですが、そのように私は思います。パウロがコリントの教会の人々に向けて「皆が異言を語るでしょうか。」と書いている通り、聖霊の内住は全ての人のためのものですが、みなが異言で祈るわけではありません(Ⅰコリント12:30)。いろいろな賜物があるのだからです。ペンテコステのこの日には彼らはみなが異言を語りましたが、それは、そこにいる人々に福音が届けられる必要があったからです。賜物なので、神さまが、神さまのやり方で与えられるものです。

 

<多くの外国人に>
では、使徒の働きに戻って、その日に実際に起きたことを振り返ってみましょう。5節以降をもう一度読むことは省略しますけれども、七週の祭りのこの日、エルサレムは世界各地からの巡礼者でごった返していました。ユダヤ人は世界中に離散していましたが(つまりディアスポラのユダヤ人たちですね)、ユダヤの祭りの日になると、自らのアイデンティティを忘れないために、つまり自分とは誰であるのかを忘れないために、彼らはエルサレムに上りました。一生に一度はというような思いで、世界中から離散のユダヤ人たちが集まってきた。5節に「敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいた」とあるように、巡礼どころか移住してきた人たちも大勢いました。また、ユダヤ人ではないけれど、聖書の神に惹かれ、その教えを大切にする外国人たちもいて(11節「改宗者」)、彼らも祭りの時期のエルサレムに巡礼にやってきていたのです(ヨハネ12:20)。こういった人たちが4節の異言(外国語)に反応したのです。言葉の分からないエルサレムの人混みの中で、自分たちの母国語が聞こえてきたのですから、彼らは驚き、そして喜んだことでしょう。

自分の生まれ故郷の言葉、自分にわかる言葉が聞こえてくると、驚きますし、嬉しいものです。ここでYoutubeの話題なのですが、語学に堪能なあるYoutuberの方が、外国の人と初めは英語で話していて、話が盛り上がってきたところで相手の母国語に切り替えて驚かせるという動画をたまに見るんです。相手の方は本当に驚くんですよね。「あなた、それどこで習ったの?独学?信じられない」とびっくりされるという動画がたくさんYoutubeで公開されているんです。自分の言語、自分の母国語で話してもらえることって本当に嬉しいし、まさかの場所でそれが起きるなら興奮するほどの出来事なんですよね。

ペンテコステのこの日、多くの外国人が、そして外国生まれのユダヤ人たちが、母国語でイエスさまの話を聞きました。福音がバラエティ豊かな、多様な言葉で伝えられた。そしてこの後、ペテロが声を張り上げてはっきりとイエスの救いについて語り、三千人もの人が主を信じるという出来事につながっていきます(2:14以降)。ペテロの話を理解できない人のためには異言でそれぞれの外国語に通訳されたのでしょう。1章8節でイエスさまが約束されていたように、神の国の福音が「エルサレムだけでなく、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」広がり始めた瞬間でした。話される内容はただ一つ、イエスさまのことでしたが、それが本当に豊かな、多種多様な言葉で表現されていきました。福音が、多様な人々がそれぞれ理解できる形で伝えられていったのです。

<届く言葉>
母国語とは、心のひだに届く言葉だと思うのです。心のひだに届く言葉。だとするなら、それはもはや日本語とか、英語とか、語学のことだけの話ではなくて、例えば若者には若者言葉、高齢の方には高齢の方に届きやすい語り方、そして、未信者の方には未信者の方に届きやすい語り方で、イエスさまの話を伝えていきたいですね。目の前のその人に届く言葉で語ることが大切なんだと思います。福音を語るという場面だけでなく、家族の中、友人同士での会話もそうだし、職場でも地域社会においてもそうです。「相手に伝わる言葉、相手の心に寄り添う言葉」を使いたいものです。それは異言の賜物ということではないのですが、でも「神のことばそのもの」であるイエスさまが私たちのところに来てくださった「受肉」という出来事自体が示すように、言葉というものは相手のために自分がへりくだるためのものなんです。そのようにして語る、へりくだって相手に届くように語るということは、異言云々の話は別としても、これもまた確かに聖霊が導いてくださる生き方です。

今日の箇所を読んで、「聖霊を受けた使徒たちは異言の賜物を受けて外国語を話すようになった」ということも大切なんですが、自分の心のひだに届く言葉でイエスさまのことを教えてもらった人たちの喜び、興奮、感謝がここにあることを見逃したくはないですね。

<バベルの塔ではなく>
このように、ペンテコステの日に起こった出来事とは、多種多様な言語で一つのこと、つまりイエスさまの福音が語られていったというものでした。イエスさまの福音が、バラエティ豊かな言葉で語られていった。しかし、これとは対照的に、多種多様な言語を強制的に一つにしていた、させていた例があります。バラエティ豊かな人々の個性を認めず、言葉を認めずに、権力のある者たちが強制的に一つの言葉を用いさせていた。創世記に出てくるバベルの塔です(創世記11:1-9)。バベルの塔の話は「さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」と始まりますが、これは全世界のことというよりも、このバベルの塔が建てられたシンアル(つまりシュメール)の地のことを言っています。全世界には多種多様な言葉があった様子は直前の創世記10章に詳しく載っています(10:5、10:20、10:31)。多様な言葉があったのです。しかし、自分たちの力を誇示するための塔を建てることにしたシンアルの地の権力者たちは、周辺の民族を力でねじ伏せて強制労働に当たらせたのでしょう。言葉がバラバラでは仕事になりませんから、シンアルの言葉を話すように強制したのです。多種多様な言葉を認めずに、自分たちと違うものを認めずに、一つのあり方を押し通して、押し付けたんですね。その結果は、みなさんもご存知の通りです。

ペンテコステに起こったことというのは、このバベルの塔で起こったことの逆なんです。聖霊は多種多様なあり方で、多種多様な言語で、ご自身のわざを進めていかれるお方です。炎のような舌は一人ひとりに「分かれて」与えられました。一人ひとりに与えられた。聖霊の働き、そのあらわれには多様性があるんです。聖霊によって始まった教会も、本来そういうところのはずなんですよね。私たちのうちに、「こうでなければならない」と、自分のやり方を相手に押し付けるようなことがないでしょうか。私たちの教会は、多様なあり方、多様な言葉が認められていく集まりでしょうか。この機会に確認したいと思います。

ペンテコステとか聖霊体験というと、個人の信仰が深められていくことが強調されてきたと思います。確かに、それは大切なことです。先週もお伝えしたように、聖霊の内住があいまいであるなら、はっきりさせてくださいと祈るんです。それと同時に、聖霊が分かれて一人ひとりの上に留まられたということ。そして多様な人々のニーズに応えるために、多様な言語を語らせたということを忘れてはなりません。決してバラバラじゃない。かと言って違いを認めずに一つであろうとするのでもない。様々な言葉で、一つの福音が語られたということ。一つの福音を伝えるために、たくさんの言葉が用いられたということ。多様性のある一致が大切なのです。

<世界のために祈ろう>
争いの絶えないこの世の中に必要なのは、多様性のある一致です。それは聖霊が、助け主が与えてくださるものです。近年、戦争のニュースがいつまでも終わりません。政治の世界には裏の裏、さらにその裏にまで至る事情や背景、また歴史が複雑に絡み合った状況がありますので、簡単なことではありません。しかし、聖霊が一人ひとりに臨まれたように、そして最終的にその群れはあらゆる国語、あらゆる民族、あらゆる部族を超えた大群衆になって神をほめたたえるという幻を私たちは与えられているのですから(黙示録7:9-10)、個人レベルでの聖霊の満たしだけでなく、大胆に、国レベルでの聖霊の満たしのためにも祈っていきたいと思います。国のために祈る。世界のために祈るのです。

私たち個々人が聖霊に満たされる時、それは個人の話にはとどまらないのです。そこから神の国が広がっていきます。聖霊の満たしは個人で完結するものではない。それは多様な言語で多様なニーズに応えられていく聖霊のみわざです。ペンテコステのこの出来事の後も、歴史を通して信仰者たちが聖霊に満たされ続けてきたので、今の私たちがあります。私たちも、今いるところで、一人ひとりにとっての「地の果て」と言えるそのところで、今日も聖霊に満たされ続けていきましょう。世界のために祈りつつ、まずは自分の周りで。”Think globally, act locally”という言葉があります。世界のことを考えつつ、具体的な行動はまず地域からなんです。世界のために祈りつつ、まずは身の回りで一歩踏み出す。自らのあり方を押し付けて押し通すのではなく、聖霊が導いてくださる方向を見定め、そこで人々に仕えていきましょう。そこからまた神の国が広がり、実っていくのです。

聖霊は火のようなお方です。古い自我を焼かれ、整えられ、そして、多様な言葉で福音を語る者として立てられていきましょう。賜物として異言が与えられるにせよ、そうではないにせよ、相手の心のひだに届く言葉でキリストを証しましょう。『すべての人に我が霊を注ぐ』という約束は今も続いています。私たちを通して神の栄光が現されていくことを信じ、祈っていこうではありませんか。

ーーー

神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがなたを遣わすのだ。」(出エジプト3:12)

 

私たちのために十字架にかかり、罪の赦しを成し遂げてよみがえられた主イエス・キリストの恵みと、
神の民の生き方を教えて私たちをあきらめない、父なる神の愛、
そして、私たちに言葉を与え、多様性のある一致を与えて神の国を広げてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人おひとりの上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

​ーーーーーーーーーーーーー

【6/8】

使徒の働き2章1節〜4節

​ペンテコステ②

「聖霊を受ける教会」

<1節〜4節 五旬節の日に>
今日はペンテコステ、聖霊が来てくださったことを祝う日です。教会が大切にしてきた三つのお祝いがあって、クリスマス、イースター、そして今日のペンテコステとなります。この日起こったことを使徒の働き2章から振り返り、そのことを通して、今主が語りかけておられることに耳を傾けましょう。

イエスさまの昇天を見届けた弟子たちは、イエスさまの言われた通りにエルサレムに留まり、礼拝し、祈りながら、聖霊の約束が実現するのを待ち続けていました。1節に「五旬節の日」とありますが、これがギリシャ語でペンテコステということばで、50日目という意味です。ユダヤ人たちが「初穂の祭り」から数えて七週が過ぎた50日目に祝われていた「七週の祭り」を、ルカはギリシャ語で「ペンテコステ」と記しているわけです(レビ23:15-22)。イエスさまの復活は「初穂の日」に起こったと以前説明しましたが、それから40日経ったときにイエスさまは天に昇られ、それからさらに10日が経っていたというわけですね。

初穂の日は大麦の初物を捧げる日でしたが、五旬節(七週の祭り)は小麦の収穫を感謝する日でもありました(今、日本でも小麦の収穫の時期です)。初物の小麦粉で作ったパンをささげるんです。そして、この五旬節にはもう一つ、大切な意味がありました。この日は、律法が与えられたことの記念日とされていたのです。詳しい説明は煩雑になるので割愛しますが、五旬節は律法授与の記念日として祝われるようになっていました。出エジプト記を詳しく調べてシナイ山への到着日、律法授与の日付を割り出すと、それは七週の祭り、つまり五旬節の日に当たるんですね。収穫感謝と、律法への感謝。今でもユダヤ教の人たちは七週の祭りを、この両方の意味で祝います。

何が言いたいかと言うと、使徒たちが集まって祈っていた日というのは、小麦の初穂を捧げる日であり、そして、律法が与えられたことを記念する日でもあったということです。この日、五旬節の日、彼らはユダヤ人の習慣の通りに作物の収穫を感謝し、また律法を感謝して祈っていたはずです。その上で、聖霊を待ち望んでさらに祈っていたのです。

<2節 突然>
さて、2節です。「すると天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡」りました。また、「炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどま」り、「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」というのです(3節〜4節)。不思議なことが起こりました。これらは、約束の通りに聖霊なる神が来てくださったことの証なのでした。

「突然」とあるように、それは文字通り突然のことでした。聖霊がいつ来られるかということは言われていなかったので、弟子たちはひたすら待ちづけていたのです。しかし、祈られ、礼拝が捧げられていく中で、神さまのご計画は確実に進んでいき、ついに実現したのでした。聖霊が来られる、聖霊が注がれるという預言は旧約聖書の頃からありましたので(エレミヤ書やヨエル書など)、弟子たちが祈り始める前から、聖霊に関する神さまのご計画は進んでいた、進んできたのですが、弟子たちはその最後のクライマックスのところで、その実現に参加できたと言えるでしょう。神さまのご計画は私たちの前から進んでいるんです。でも、そこに参加できるのですね。「突然」現れた神さまのご計画に乗り損ねずに参加していくためには、弟子たちのように祈りや礼拝を続けていくことが大切なのだと思います。そうやってこそ、いざ事が動いた時に、神さまの導きを信じて進んでいけるのだと思います。

私たちにもみことばによって多くの励ましや約束が与えられていますが、その実現の時がいつなのかはわかりませんし、試練の最中にはそれどころではなく、助けを求めて祈り叫ぶのみです。でも、振り返ってみると、神さまの約束の実現はまさに一番ふさわしい時に与えられてきたことを思い返すわけです。今まで、神さまのみことばに励まされて歩んできましたよね。それはすべてベストのタイミングだったと振り返れるわけです。神さまは、天地の基の置かれる前から、私たちの歩みを支えてくださるために、お一人お一人の上に最善のご計画を進めて来られました(エペソ1:4-5)。ペンテコステの出来事もそうです。突然とは言っても、それは無計画にポッとあらわれたというような意味ではありません。そこに至るために、神さまのご計画は徐々に進んできていたのです。神さまはいつも、最善のタイミングで事をなしてくださるお方です。その時を待ち望む姿勢とは礼拝であり祈りなのだと、使徒たちの姿から教えられます。いかに突然に見えても、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とあるとおり(伝道者の書/コヘレトの言葉3:11)、神さまのなさることは最善のタイミングです。それを信じて、弟子たちのように祈りながら、礼拝を続けながら、その時を待ち望むものでありたい。

<聖霊が来られたしるし>
さて、この日起こった不思議な出来事、不思議な事柄には、どのような意味があったのでしょうか。激しい風のような響きが聞こえ、また弟子たちの上に炎のような舌がとどまるのが見えたとあります。ギリシャ語やヘブル語で「風」は霊や息と同じことばで表現されます。また炎も聖霊の象徴です(「舌」についてはまた次回に触れます)。風の音も炎も、まさに聖霊が来られたことのしるしなのでした。しるしです。つまり、聖霊の降臨は、あいまいな、あやふやなものではなく、はっきりとわかるものだったということです。聖書の神さまは目には見えませんが、私たちに分かるようにご自身を示してくださるお方です(ローマ1:20、Ⅰヨハネ1:1-2、など)。聖霊なる神も、激しい風のような響きと火のような舌をもってご自身を表してくださいました。旧約の時代には限られた人、限られた役割のためだけに注がれていた聖霊が、今や、主イエスを信じる全ての人に来てくださるようになりました。しっかりと、はっきりと、確かにそのことを起こしてくださったのです。

今、私たちのうちには、聖霊が住んでおられます(Ⅰコリント3:16、6:19)。私たちの罪は赦されていると弁護してくださる方(ヨハネ14:16)、そして私たちをつくり変えてくださる方(Ⅱコリント3:18)が私たちのうちに住んでおられる。私たちの内から溢れ出すいのちの水として(ヨハネ7:37-39)、私たちのうちに満ち溢れておられる。この方は私たちをキリストの証人として、この世の中に遣わされます(使徒1:8)。この方が、私たちのうちにはっきりと住んでおられるのです。

信仰とは、曖昧な、観念的なものではありません。何かの題目的なテーマを強く念じて信じていくということではない。信仰とは神さまとの人格的な関係です。聖霊が住んでおられることも、はっきりと分かる、分からされていきます。劇的な聖霊体験をされた方もおられるでしょうし、静かに、いつの間にか分からされていったということもあるでしょう。聖霊に満たされて異言を語るようになった人もいれば、聖霊に満たされてはいても異言の賜物は与えられていないという人もいるでしょう。聖霊の体験は人それぞれです。大切なことは、どういう現象が起こったかではなく、しっかりと、はっきりと、今あなたの内に聖霊がおられるということ自体です。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(同6:19)はっきりと来てくださった聖霊が、今、私たちのうちにもおられる。そのことがあいまいであるならば、今一度、聖霊の満たしを求めましょう。そのことがはっきり分かるようにと祈りながら、聖霊の満たしを求めましょう。決して劇的な体験だけでなく、ある人には静かに、すとんと腑に落ちるようなことかもしれません。劇的なことは何もなく、日常の中でふと受け取らされるのかもしれません。どちらにせよ、聖霊が私たちのうちにおられる。そのことがはっきりと、じんわりと受け取らされていきます。

私自身の話をさせていただきますと、ふりかえってみると、聖霊体験というのは劇的な一回ではなくてプロセスなんですよね。何回も何回もかけて、主が私を取り扱ってくださるというプロセスです。異言の賜物が与えられた経緯も含めて、聖霊の取り扱いは一回きりのものではなく、プロセスでした。私は救われているんだ、そしてこの救いを奪い取るものは何もないんだ、そのことが分からされたという時があったんです。腑に落ちたというか。クリスチャンとしてずっと生きてきたわけなのですが、それでも、その上で「ああ、私は救われているんだ、この救いを奪い去るものはないんだ」と、ふっと受け取らされた時があったんです。その時の感覚は忘れることができません。それは激しいものではなくて、すとんと腑に落ちるような、そういうことだったんです。そしてそれが、いろいろな形で繰り返されていったというか、神さまからの語り掛けが波のように押し寄せてくるのでした。教会のホームページに証を載せていますので、ぜひまた読んでくださればと思います(こちらから)。聖霊に満たされるときに、それがどういう形で現れてくるか、それは千差万別、人それぞれです。どういう形であれ、私たちが聖霊の内住をはっきりさせられる、この方とともに信仰の旅路を歩み続けていく事ができる、そのことがはっきりされる、ということが大切です。信仰は観念的なものではなくて、神さまとの具体的な関係だからです。

パウロはエペソやガラテヤのクリスチャンたちに向けて、つまりすでに聖霊をうちに宿している人たちに向けて「聖霊に満たされ(続け)なさい」「御霊によって歩み(続け)なさい」と書いています(エペソ5:18、ガラテヤ5:16)。クリスチャンは聖霊に満たされ「続けて」いくのです。「私を聖霊で満たしてください。そしてあなたの御用のためにお用いください」と、今日も新たに祈りたいと思います。

<生き方を教えてくださる聖霊>
さて、聖霊が来られたこの日が五旬節の日だったということの意味を最後にもう一度考えたいのですが、神さまはなぜこの日をお選びになったのでしょう。何か意味があったに違いないのです。聖霊が来られることに関して、どのように預言されていたかというと、エゼキエル36章27節にこうあります。「わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」神さまの霊、つまり聖霊は、私たちが神さまの掟と定めを守り行うようにしてくださるということですね。掟とか定めというと、私たちの人生をがんじがらめにするルールのような印象があります。中でも有名なのは十戒ですが、「戒め」という字が使われている時点で身構えてしまいます。しかし、ヘブル語のもともとの表現は「十の戒め」ではなくて「十のことば」なんです。神さまが私たちを救ってくださった、主は私たちの神であるという前提があって、その上で神さまが私たちに語りかけてくださることばです。律法というのは、私たちをしばるルールではなくて、神さまが私たちに教えてくださる生き方です。そして、聖霊は私たちに働きかけて、私たちが神さまのことばのとおりに生きられるよう助けてくださるお方なのです。確かに、イエスさまによって律法は完成され、もはや動物のいけにえをささげる必要はありません。しかし、イエスさまが「最も大切な戒めはこれだ」と言われたように、神を愛し、人を愛すること。神に仕え、人に仕えること(マルコ12:28-31)、これですね。イエスさまが律法の要約として挙げられたこの二つ。これは二つで一つです。神を愛し、人を愛する。神に仕え、人に仕える。この生き方を聖霊は教えてくださるし、私たちがそのように生きられるよう、助け、励まし、導き続けてくださるのです。

かつてシナイ山で律法が与えられた記念の日に、それを守ることは出来なかった私たちのために、神さまが与えてくださる新しい生き方のための助け主として、聖霊が来てくださった。それこそが、五旬節の日に聖霊が来られたことの意味ですね。聖霊は私たちの生き方を助けてくださるお方です。

<与えられる大収穫>
そして、この日が選ばれたことのもう一つの意味、それは、これが小麦の収穫祭だったことでしょう。大麦が捧げられる初穂の祭りのときと同様に、いわば第二の初穂の祭りとして、小麦の初穂を捧げる。これは、これから同じような収穫が来る、大収穫が来るということの宣言であり感謝です。これから、同じような収穫がくる。大きな収穫が来る。つまり、聖霊に満たされて、神さまからつくり変えられ続けながら、神さまの教えてくださる生き方を歩みつつ、地の果てまでキリストの証人として歩んでいく、そういう人たちがこれから大勢、数えきれないほど与えられるということですね。招きのことばで読みました、ヨハネの黙示録7章9節、10節をもう一度お読みします。「9  その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。 10  彼らは大声で叫んだ。『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。』」数えきれないほどの群衆です。これはやがて実現する、天での礼拝の様子です。数えきれないほどの礼拝者がいるのです。

ペンテコステは教会の誕生日と言われます。聖霊を注がれた弟子たちは福音を語り始め、イエスさまを救い主として信じる人たちが増えていき、彼らはキリスト者と呼ばれるようになりました。迫害を受ける時代もありましたが、キリスト者の集まりである教会がなくなることはありませんでした。それは今も広がり続けています。まさに、大きな収穫が与えられ続けている。私たちの教会もその中にあります。小さな集まりですが、実はとてつもなく大きな集まりなんです。聖霊を受けるということや聖霊体験というと、何か個人の信仰が深まることが注目されがちですが、そのような面は確かにありつつ、しかし「聖霊は教会の霊である」と表現しておられた方がいて、とても腑に落ちました。確かに、聖霊は個人個人をバラバラにそれぞれで恵ませるためではなく、キリストのからだである教会を強める方として聖書に描かれています。私たちは個々人の信仰の深まりを求めていくのはもちろんなのですが、キリストのからだとしてのこの教会がきよめられていくこと、つくりかえられ続けていくためにも祈っていきたい。どうか、この教会のために祈ってください。関西集会のために祈ってください。私たちのこの群れが、神さまの栄光を表すものとなるように。

主は私たちのためにも、大きなご計画を持っておられます。そして、現在進行形で私たちを取り扱い、導いておられるのです。私たち一人ひとりが、そしてこの教会という単位でも、聖霊に満たされながら、主の導きに従っていこうではありませんか。

ーーー
「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。』」ヨハネの黙示録7章9節、10節

私たちに聖霊を注ぐために復活して天に昇られた主イエス・キリストの恵みと、
私たちのためのご計画を、最善のタイミングであらわしてくださる父なる神の愛、
そして、しっかりと、はっきりと、私たちの内に、そして教会のうちに住んでいてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに豊かにありますように。
アーメン

ーーーーーーーーーーーーー​

​​

【6/1】

使徒の働き1章3節〜15節a

ペンテコステ①

「イエス・キリストの昇天」

来週は聖霊降臨祭、ペンテコステです。キリスト教会がクリスマス、イースターと並んで大切にしている三つのお祭り(もしくは礼拝)の内の一つです。イースターの後、復活のイエスさまに出会い直すということで、イエスさま復活後の場面を読み進めてきましたが、そのままその続きになります。以前も読んだ箇所ですが、使徒の働きを開き、イエスさまの昇天と、来週はペンテコステ当日の場面をもう一度確認しましょう。その後はしばらく聖霊に満たされることについてのメッセージを続けた後で、マタイの福音書の講解に戻りたいと思います。

イエスさまは天に上られる前に、ここで三つのことを話しておられると思います。ご自分が生きていることと、神の国について、そして聖霊の約束。この三つです。

<ご自分が生きていること>
まず、イエスさまが使徒たち(つまりイエスさまから直接教えを受けた12弟子のこと)に示されたのは、ご自分が生きておられることでした。「数多くの確かな証拠をもって」示されたとあるように。普通なら信じることのできないことを、丁寧に、証拠を示しながら教えてくださったのです。テモテに手や脇腹の傷跡を見せられたり、ガリラヤ湖で魚を食べて見せたりということがヨハネの福音書にもありましたが(20:27、21:13-14)、ご自分が幽霊のような存在ではないことをはっきり示し続けてくださったわけです。主が生きておられるということが、何よりも大事なことだからです。

イエスさまがふわふわしたイメージの中の存在ではなくて「生きておられる」、これはとても大事なことなんです。これこそが大事なことですね。いつも言うことですが、「イエスさまが私たちの罪のために死なれた」で終わってしまうならば、それはただの悲劇です。でも、十字架にかかって死なれたイエスさまはよみがえられました。死を打ち破ってイエスさまが復活された、そこが大切なんです。死がなければ復活もないので、両方大切なんですが、私たちはとかく、「イエスさまが私たちのために死んでくださった」というところで終わってしまいやすいと思います。しかし、イエスさまが復活されたからこそ、私たちにも復活のいのちが与えられるからこそ、私たちはイエスさまとともに歩み、生き方が変えられていくんです(ローマ6:5,8,11)。イエスさまの死と一つになり、イエスさまの復活と一つになる。私たちの生き方が変わるのでなければ、信じる意味がないです。でも、イエスさまが復活されたことは、私たちが新しいいのちを歩める確かな証拠なんです。私たちは自分自身を見れば、いつまで経っても変わらない、成長しないと思いますけれども、イエスさまがよみがえられたことは、私たちに復活のいのちが与えられて新しい歩みができることの証なんです。だからイエスさまはそのことを、ご自身が生きておられることを「数多くの確かな証拠をもって」示してくださいました。私たちにも、何度でも、丁寧に、ご自身が生きておられることを示してくださいます。聖書のみことばを通して、また生活の中でさまざまな出来事を通して。神のことばは聖書の文字だけでなく、出来事を含みますので、いろいろな出来事を通して、主は生きておられるということがわからされます。何度でも、何度でもです。それが一番大切なことだからです。

<神の国>
そしてまた、イエスさまは「神の国のことを」語られました。「神の国」というのは、神さまが支配しておられるところという意味です。国境線のここからここまでが神の国というような意味ではなくて、神さまが統治しておられるところ、神さまが礼拝されるところ、という言い方もできるでしょう。

神さまはこの世界を造られたお方なので、この世界はすべて神さまの支配下にある、神さまが宇宙の王であるというような表現が詩篇にはよく出てきます(詩篇29:10、47:2)。また、神さまは旧約聖書の歴史、イスラエルの歴史を王として導いて来られました(イザヤ44:6、52:7-10、ミカ2:12-13)。ダビデ王、ソロモン王と歴代の王たちが立てられてきましたけれども、究極的な王としては神さまがイスラエルの歴史を、つまり旧約聖書の歴史を導いて来られた。神さまは世界の王であり、歴史の王である。その神の国は、この世の終わりの時に新天新地として完成する、そのような大きな流れを聖書は描いている。新天新地の預言は黙示録だけじゃないです。たとえば、イザヤ書の最後にも出てくる(66:22)。こうやって繰り返し語られてきたことだった。そこには死もなく、苦しみもなく(黙示録21:1-5)、弱い人が虐げられることもありません(イザヤ32:15-18)。

「神の国」の知らせは、イエスさまの福音宣教の中心でした。イエスさまが公に活動を始めた時の最初のことばは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」でした(マタイ4:17)。これは、神の国が「もうここに来ている」という意味です。ある意味では神さまが王として、旧約聖書の時代から神の国として治めて来られたわけですけれども、決定的な形として、イエスさまが来られたことによって、神の国が来たんだというのです。神の国は、この世の終わりの時に完成すると言いましたが、その意味では「まだ来ていません」。しかし、イエスさまによって「すでに来ている」。私たちは、この「神の国のすでにといまだ」の間に生きている。まだ最終的な完成はまだ見ていないけれど、私たちはここで、すでに、神の国の前味を味わいながら、神の国の人間として生きることができるというわけです。福音書に描かれている、イエスさまがなさったことの一つ一つは、神の国到来の証明だったんです。イエスさまはこの神の国の知らせ、神の国の福音を私たちに伝えてくださいました。その宣教の初めの時にも、そして天に上げられる直前のこの大事な時にも、イエスさまが話されたのは神の国のことについてだったのです。

私たちには、神の国、天の国とは死んでから行くあの世のことだという意識があって、それはある意味では正しいのですが、別の意味では私たちは今、すでに、神の国に生きているんだということも、折りに触れて思い返しましょう。イエスさまは十字架の上で言われました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)私たちは今日、今、すでにパラダイスにいるんだ。神さまと共に天国に生きているんだ。そのことを忘れないでください。

<聖霊の約束>
そして三つ目が、聖霊の約束についてです。これについては4節以降を丁寧に読んでいきたいと思います。

4節「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」聖霊に満たされるためには、エルサレムにとどまることが大切なんですね。エルサレムというのは礼拝の町です。神殿があって、イスラエルの民はそこで礼拝をささげてきました。私たちにとってのエルサレムとはどこか。場所という意味でいうなら、この会議室。時間でいうなら、週に一度、日曜日の午前中。この礼拝の時間と場所。ここがエルサレムです。でも、もっと言うなら、日曜日の午前中だけでなくて、この部屋だけでなくて、私たちはいつも心の中で神さまを賛美し、神さまに感謝を捧げる礼拝をしていきたいですね。「あなたがたは神の神殿、聖霊の宮である」であると聖書にあります(Ⅰコリント3:16、6:19)。いつ、どこであろうと、私たちは神さまへの礼拝をささげていくんです。礼拝の恵みの中で聖霊に満たされていくんです。

そしてもう一つ、忘れてはならないのは、そこが弟子たちにとっては失敗の場所だったということです。エルサレムとは、愛する主イエスさまを裏切り、知らないと言ってしまった場所でした。その場所から離れないとは、自分の弱さや失敗をきちんと直視して、ごまかさないということでしょう。私たちが弱さを覚える部分、私たちが失敗をしてしまうところ、そこに聖霊が注がれる。そこでこそ、私たちは聖霊に満たされるんです。それが父なる神さまの約束です。

5節、バプテスマのヨハネが授けていたのは水の洗礼でした。それとは別に、私たちは聖霊のバプテスマを受ける。つまり、聖霊に沈められる、聖霊に満たされるというわけです。聖霊のバプテスマというと、何かすごいことが起こるようなイメージがあるかもしれませんが、「聖霊に満たされる」ということですね。私たちはこれを求めていくんです。あなたがたは聖霊にバプテスマされる、聖霊に沈められる、そうやって聖霊に満たされるという約束です。

6節「そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」これはヨエル書の預言で、聖霊が注がれる時にイスラエルが回復するという箇所があるんです。別の機会にまた触れたいと思いますが、弟子たちはそのことを思い出したのかもしれません。この当時、イスラエルの国はローマ帝国の一部分、属州になっていましたから、救い主はそこから解放してくれるはずだという期待が人々の間にあったのです。弟子たちもそう思っていました。だから「今こそ、私たちをローマ帝国から救ってくださるのですか。」と、こういうことを言っています。それが自然な、一般的なメシア理解、救い主のイメージでした。これは何も突拍子もないことではないのです。

イエスさまが軍事的な意味での救い主ではないことははっきりしていますが、しかしイエスさまは弟子たちの言うことを否定はなさいません。7節は否定の言葉ではないですよね。「わたしはそのために来たのではありません」とはっきり言えば良さそうなものですが、イエスさまはそのまま会話を続けるんです。ここがずっと不思議でした。これはどういうことでしょうか。ここで弟子たちは軍事的な意味で、ローマからの解放という意味で、一般的なイメージでイスラエルの復興と言ったかもしれませんが、イエスさまは同じ表現を使って、弟子たちからのボールをそのまま受け取りつつ、別の意味で答えられておられるのだと思います。イエスさまとしては「神の国の完成」についてここで言っておられる。弟子たちは「イスラエルのために」ということを、イスラエル国家がローマから解放されるという意味で言ったかもしれませんが、イエスさまは「神の民全体のために」という意味で会話を続けておられる。イエスさまって優しいですよね。ピントのずれた聖書理解、ピントのずれた救い主理解でも、イエスさまはそれを否定せず、まずは受け止めてくださり、そのまま会話を続けてくださるんです。やがて、神の国が完成します。新天新地において、主を信じるすべての人が「まことのイスラエル」として、永遠にイエスさまと共にある。ただ、それがいつとか、どんなときとかいうことは知らなくていい、父なる神が決めておられるから、というわけです。

しかし、今、大切なことはこれですと8節に続きます。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」神の国がいつ完成するのか、イエスさまはいつ戻ってこられるのか、それは確かに気になります。しかし、そういうことで気をもむのではなく、聖霊に満たされていなさいと言われているのです。神の国の完成のことは、やがての新天新地のことははるかに待ち望みながら、しかし地に足をつけて、地の果て果てで、キリストの証人(しょうにん)として、あかしびととして生きる。それが私たちの生き方です。最近の世界情勢を見ると、世の中はどうなってしまうんだろうなと思います。ますます困難な時代になっていくに違いないと思います。でも、そういったことで気を揉むのではなくて、聖霊に満たされていなさい、と。そして、私の復活を証していきなさい、とイエスさまは言われるのです。11節にあるように、主は必ず戻ってこられます。だから、その日を待ち望みながら、キリストの証人として今を生きていくのです。

「神の国の完成がいつになるのか、気をもむ必要はない」と言いましたが、聖霊は私たちに神の国の事実を教え続けてくださいます。エペソ書にこのような御言葉があります。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(1:14)聖霊に満たされることで、今ここが確かに神の国であること、そして究極的にはやがて完成することを私たちははっきりと知らされていくのです。だから、私たちは安心してキリストの証人として生きることができる。ますます聖霊に満たされながら、イエスさまが今も生きておられることを証していくのです。

「地の果て」とありますが、それは、宣教師としてどこか遠くに出かけていくということだけを意味しません。私たちが今いる場所、それが一人一人にとって地の果てです。福音はエルサレムから始まって、まさに地の果てのに日本にまで届いて、生活のただ中で私たちはその地の果て果てにいるのです。そこでイエス様がよみがえられたことの証人として生きていくのです。そのためにも、聖霊の満たしが必要なのです。

キリストの復活の証人となるとは、強く立派な信仰者になることを意味するわけではありません。聖霊に満たされたなら、汚い自分があらわにされるじゃないですか。弱い自分があらわにされるじゃないですか。イエスさまの十字架の死と復活によらなければどうにもならない自分が明らかにされるわけですよね。この私はキリストと共に十字架につきました。そして今、復活のキリストと共に生きていますということの証を身をもって表していくことになる。聖霊はそのようにして私たちを、キリストの証人として用いてくださいます。

9節、イエスさまは天に戻っていかれました。ちなみに、イエスさまが天に上げられたことを「昇天」、私たちが地上の命を終えて天に召されることを「召天」といいます。このようにしてイエスさまは天に上げられました。すると10節、白い衣を着た人が二人、これは天の御使い、天使ですね。天使が二人いてこう言ったというのです。11節「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」イエスさまは、また、オリーブ山に戻ってこられる。キリストの「再臨」と言います。そのことは聖書の他の箇所、たとえばゼカリヤ書にも書かれてありますが(14:4)、Ⅰテサロニケ4:16〜18を開いてみましょう。「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」聖書のこの慰めを受け取っていきたいと思います。世の終わりとか終末などというと、何か恐ろしいイメージがありますが、聖書が語るこれは希望の知らせ、慰めの知らせです。

<12節〜15節a>
天使の励ましを受けて、使徒たちはエルサレムに帰りました。「安息日に歩くことが許される道のり」というのは、当時のユダヤ教の律法で定められていたことですね。約1キロに相当します。13節、泊まっている屋上の部屋というのは、イエスさまと最後の晩餐をした家のことと言われます。イエスさまの十字架の後、恐れて隠れていたのもここでしょう。ここに載っている人たちは本当にバラエティ豊かな面々です。漁師もいれば、取税人もいれば、極端な政治思想を持った愛国者もいます。イエスさまの弟子たるもの、クリスチャンたるもの、こうでなければならないというような決まりはありません。イエスさまと出会い、イエスさまに信頼してついていく、共通点はただそれだけです。そして使徒たちだけでなく、マグダラのマリアら女性たち、またイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちともあります。イエスさまの肉親は、イエスさまを救い主として信じることはなかなか出来なかったようです。しかし、よみがえられてから四十日間の間に、イエスさまは彼らにもご自身を示しておられたんですね。イエスさまの弟にあたるヤコブとユダは、それぞれ新約聖書にその手紙が残されています。15節の前半までにしますが、ここに120人ほどが集まって祈っていたということです。

私たちも、人数は少ないですが、彼らのように、心を一つにして祈っていきたいのです。私たちが聖霊に満たされ、キリストの復活を証ししていくものであるように。私たち一人ひとりが、そしてこの教会が、聖霊に満たされ、神さまのみわざのために用いられていくように。そのために礼拝を続け、自らの失敗から逃げることなく、聖霊の満たしを求め続けていこうではありませんか。

<まとめ>
今日は天に昇られる前にイエスさまが言われたことを三つに整理しました。イエスさまが生きておられること、神の国のこと、そして聖霊に満たされることの約束です。聖霊の満たし、聖霊のバプテスマはキリストの証人となる力を私たちに与えるのだということも確認しました。聖霊に満たされて、私たちはイエスさまが生きておられるということ、また神の国の福音について証していきます。主が私たちを、この教会をお用いになってくださる。祈りつつ、主のわざに期待していきましょう。


ーーー
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28:20

ご自身が生きておられることを示し続けてくださる主イエス・キリストの恵みと、
神の国のすでにといまだの間で、私たちを守り続けていてくださる父なる神の愛、
そして、私たちのうちに満ち溢れて、私たちを用いてくださる聖霊の満たしと祝福が

今週もお一人お一人の上に、その周りに、

豊かにありますように。

アーメン

​ーーーーーーーーーーーーー

​​

【5/25】

ヨハネの福音書15章1節〜8節

「わたしの枝」

<ご挨拶>
ご無沙汰しております。久しぶりの方も、はじめましての方も、今日は共に礼拝を捧げることが出来て感謝しています。2017年の春に関西集会の牧師として派遣されてから、8年が過ぎました。みなさまのお祈りとサポートに心から感謝しています。細々とではありますが、毎週感謝な礼拝と交わりを続けています。聖書のみことばが解き明かされ、心を合わせた賛美と祈りがささげられる礼拝を通して、聖霊に満たされてそれぞれの生活の場に帰っていく、遣わされていくということを大切に毎週の礼拝をささげています。礼拝を終えた午後には、昼食を囲みながら互いの近況や祈祷課題に耳を傾け、祈り合っています。礼拝も午後の交わりもシンプルなものですが、みなさんがとても喜んでいてくださり、礼拝が楽しみになった、信仰が守られている、この時間がとても好きだと言ってくださっていて、励まされています。

この8年は無我夢中で試行錯誤してきて、形になったものもあれば、思うように進まないこともたくさんありました。新型コロナで社会が混乱していた頃は集まることすら出来ませんでしたし、それでなくても、高齢の兄弟姉妹方が高槻まで来られないということが年々増えてきています。そんな中で、ここ数年は「舟の右側に網を打ちなさい。」と言われたイエスさまのことばの意味を考え続けています。世の中が大きく変わっていく中で、教会というものをどのように運営していくのか、存続させていくのか、今までと同じやり方を続けていくだけでは成り立たない時代になっています。それは阿佐ヶ谷のこの教会も同じだと思います。

ただですね、新しい方法、新しいやり方というよりも、まず自分が、自分たちが、イエスさまの福音を受け取り直すということが何よりも大切なんだと今年のみことばから教えられています。「新しい革袋」という箇所を、これまで私は「新しいやり方で」という方法論のこととして読んできたように思います。しかし、イエスさまの福音というぶどう酒を入れるためには、革袋を丸ごと、つまり自分自身が丸ごと新しくされる必要があるんだというチャレンジをいただきました。私たちは、イエスさまを信じて新しくされた者たちですけれども、慣れ親しんだ古い自分にいまだにこだわってしまうことがあります。しかし、なんと自分は主にあって新しくされたんだということ、その恵みを受け取り直していく中で、「舟の右側に網を打つ」という具体的な方法、具体的な歩みも導かれていくに違いない。そのような手応え、主にある期待感を持っています。教会の今後についての悩み、恐れ、焦りは尽きませんけれども、しかし、みことばによって導かれていることは分かります。主が私たちを導いてくださっていることだけは分かる。だから、聖霊の風を受けつつ、目の前のことに忠実に、任されていることに誠実に、進んでいくのみです。

どうか、引き続き、関西集会のためにお祈りください。各地の地方集会のために、なおなお、祈ってください。距離もありますから、実際に交わりを持つことは普段はなかなか難しいのですが、同じ群れに属する教会として、今後も祈りに覚えていただいて、そして関西方面にお越しの際には、ぜひご一緒に礼拝を捧げることができれば幸いです。

さて、今日はヨハネの福音書15章1節〜8節を中心に、聖書のみことばをお取次ぎいたします。イエスさまが語られたこのぶどうの木のたとえから、聖書のメッセージに共に受け取っていきましょう。

<ぶどうの「木」のたとえ>
今朝の箇所は、イエスさまがご自分のことを「ぶどうの木」にたとえて言われた場面です。ぶどうの「実」ではなく、ぶどうの「木」ですね。これがぶどうの実の話だったら、たしかにぶどうは美味しい、ポリフェノールもたっぷりで、体にもよくて。しかしイエスさまはそれ以上のお方——というような話になると思うのですが、でも話題になっているのは「木」なんですよね。「実」の話も出てはくるのですが、登場人物としては「木」と「枝」と「農夫」です。つまり、このたとえは収穫についてのもの。収穫とはどういうものか、どのようにしてぶどうは収穫されるのか、その様子がたとえになっているんですね。先ほどの話とも関連してきます。こういう箇所を読むと、わくわくします。

<1節〜2節 励ましのことば>
さて、1節から2節をもう一度お読みします。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。 2  わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」1節については、わかります。イエスさまがぶどうの木。そして父なる神は農夫だと。でも、2節はドキッとさせられます。「実を結ばない枝は取り除かれる。」こういう箇所を読むと、自分は取り除かれてしまうのではないかと思うわけです。条件反射で身構えてしまうのは、私たち罪人の性でしょう。しかし、この2節で語られているのは「枝」のことというよりも、まず「農夫」としての父なる神の働きのことです。実のことや枝のことも書いてありますが、この文章をシンプルに突き詰めていけば、この2節というのは、神さまがどういう働きをなさるのかの説明ですよね。神さまはご自身で枝の状態を見て、関わってくださる方だということです。私たちは聖書から「何を求められているのか」にばかり注目してしまいますが、まず「神さまがどう関わってくださるか」を味わうところから始めたいのです。聖書を読んでいて身構えてしまうことってあると思うのですが、そこで語られているのは実は「励まし」です。その励ましを見落としたくはありません。

もう少しそのことを考えていきたいのですが、聖書の舞台であるイスラエルのぶどう畑について、ネット上から写真を拾ってきましたけれども(★写真)、これはユーロニュースというサイトからです。

vineyard1.JPG

荒れ果てた砂漠のようなところを、よくぞここまでという光景です。日本でもぶどうの木は基本的にはこのような形で植えますよね。この写真ではすこし分かりにくいですが、ぶどうの枝からつるが伸びていくための棚をつくって、そこにつるが巻き付いていき、そこに実が実るわけです。しかし、昔のぶどうの栽培法は違ったようです。

vineyard2.JPG

二枚目の写真はエルサレムポストという新聞社のサイトからです。これが昔ながらのぶどうの栽培法だそうです。よくみると、どの人もおおきなぶどうの房を持っていますね。ここにはぶどう棚はなく、つるが地面を這って伸びていて、そこから収穫している様子がわかります。まるでスイカとかイチゴのように、地面で実らせているんですね。イエスさまがたとえておられるぶどうの木の収穫の様子も、この二枚目の写真のような光景が前提になっています。なるほど、農夫の仕事は、ぶどうの木の枝の様子をよく見て、取り除いたり、刈り込みをする事なんです。

ここで、2節にある二つのことばに注目したいと思います。一つ目は「取り除く」ということばです。これはむしり取るというような意味ではないんです。むしろ「持ち上げる」だそうです。先ほどの写真を思い出してください。土にまみれて、もしくは他の葉っぱの陰になって、いろんな理由で実を結ばない枝を、農夫がそっと持ち上げて、その土を払い、陽がたくさん当たるように、よりよい位置に動かしてくださるならどうでしょうか。まったく印象が変わってきませんか。「取り除く」と訳されていることには理由があると思うのですが、意味としては「持ち上げる」なんですね。むしろ土を取り除き、虫を取り除いてくださる。私を、あなたを、神さまはそっと持ち上げ、支えていてくださる。神さまは絶対に、何があっても私たちを見捨てないお方です。実が実らないなら、そっと持ち上げてくださる。地べたに這いつくばっている私たちを、泥まみれになっている私たちを、主はそっと持ち上げてくださるお方です。

二つ目に注目したいのは「刈り込み」ということばです。これは剪定のことです。よりよく実を実らせるために、絶妙なさじ加減で余分な枝なり、葉っぱなりが切り取られるわけです。あえて傷が付けられます。しかし余分なところが削ぎ落とされることによって、栄養分が集中して、結果として大きな実を実らせることが出来るわけです。同じように、神さまは、私たちがより良い実を実らせるために、あえて、傷をつけられることがある。私たちはみな、傷つきながら生きています。人の罪の現実から、本来負う必要のない傷を受けたこともあったでしょう。それとは別に、あえて、神さまが、剪定として切り込みを入れられた、刈り込みをなさった傷というのもあるんですね。もっと多くの実を結ぶように、期待を込めて、あえてパチリと切り取られることがある。どちらにせよ、お一人お一人が負っている傷について、背景を何も知らない私が「その傷には意味がある」などと簡単に言うことはできません。傷は痛いから、傷と言うんです。まずはその傷が癒されていきますように。神さまは癒してくださるお方です。そして、その先に豊かな実りがありますようにとお祈りいたします。

<3節 きよめられていく>
さて、この「刈り込み」ということばは、次の3節と深く関わっています。「3  あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」突然「きよい」ということばが出てきて、話題が変わった印象を受けてしまいますが、実は「刈り込みをする」(カサイロー)ということばと、「きよい」(カサロス)ということばが掛け言葉、いわば駄洒落のようになっています。聖書ってすごくユーモアにあふれた書き方がされてるんです。父なる神の剪定によって刈り込まれているということと、イエスさまのことばによってきよめられているということが、同じこととして重ねられているんです。私たちが剪定されて受ける傷と、私たちのきよさには関係があるんです。別の言い方をすれば、きよめられるには傷が必要だということです。きよめられるには選定が必要なんです。

「聖化」ということばをご存知の方は多いと思いますが、聖書の聖に化ける、つまり聖くなる、聖くなっていくということですね。私たちは、イエスさまのことばによって、聖書全体の表現から言うならばイエスさまが十字架にかかられたことによって、きよいとされました(ヘブル10:19など)。イエスさまの十字架によって、神さまの目から見たら私たちは「すでにきよい」んです。それと同時に、聖化には「やがてきよめられる」という側面もある(ピリピ3:20-21、第一ヨハネ3:2等)。やがて、またイエスさまと相まみえるときに、私たちは主と同じ姿に変えられるという約束です。すでにきよい。かつ、やがてきよめられる。すでにきよいのだけれども、いまだ途上にある。「すでにといまだ」です。聖化にはこの両面があります。

それだけじゃない、その間、すでにといまだの間についても聖書は記しています。第二コリント3章18節にこうあります。「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」すでにといまだの狭間にあって、聖霊が私たちを日々つくり変え続けてくださる。今、今日、この時点での現在進行形という側面が聖化にはあるんですね。

父なる神の剪定を受けながら、パチリ、パチリと余計なものを削ぎ落とされていくというのはまさに、今もなおきよめられていく、きよめられ続けていく、現在進行形の聖化のことです。第二コリントのみことばのように、主が日々私たちをきよめ続けてくださる。つくり変え続けてくださる。剪定されることによって、余分なものが削ぎ落とされることによって、きよめられていくのだということを、2節と3節は示しています。

父なる神は私たちを剪定してくださるお方です。剪定ですから、切られるのですから、痛みが伴います。でもそれは、実を結ぶために必要なことなんです。痛いけれども、それで余分なものが削ぎ落とされて、大きな実が実るようになっていく。神さまは、「さあ実るぞ、大きな実が実るぞ。」と期待を込めて私たちをきよめてくださっているんですね。

私たちは傷つきながら生きていると言いました。その全てが必要な傷だったとは言いません。私たちは罪の歪みの中で、本来なら不要だったはずの傷を負ってしまうことがあります。でも、神さまは、ご自身の剪定による傷も、そして人間の罪ゆえの傷も、共に癒してくださるお方です。「わたしは主、あなたを癒す者である」(出エジプト記15:26)、どうか、あなたに主の癒しがありますように。そして、神さまがこれらのすべてのことを大きく用いてくださいますように(ローマ8:28)。

<4節〜5節 イエスにとどまる>
4節、5節、イエスさまは言われます。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」先ほどの写真、特に二枚目の、昔のやり方でのぶどうの木を思い出してください。どこが木の幹で、どこからが枝なのか、もはや分からなかったと思います。それほどに、イエスさまにとどまる。イエスさまと一つになるのです。

実は、ぶどうの木というのは何も立派な木ではないのです。それで何かを作ることは出来ないような、木材としての価値はない。そのような木です。エゼキエル書15章にはそのことが辛辣に書いてあります(15:2-5)。何の役にも立たない、と。しかしイエスさまはご自分のことをあえてこのぶどうの木にたとえられました。もっと他の木でも良かったのに、たとえば杉の木とか、樫の木も聖書には出てきます。しかし敢えて「わたしはぶどうの木です」と言われた。ぶどうの木。それは細くて役に立たず、投げ捨てられる木です。イエスさまはそこに、ご自分の十字架の死を暗示されていた、このたとえをもって預言されていたのだと思います。私たちは他の何でもない、「この」ぶどうの木にとどまるのです。十字架にかかられたイエスさまにとどまるのです。

ぶどうの木であるイエスさまにとどまるとは、イエスさまの十字架で自分も共に死ぬということ、そしてよみがえられたイエスさまと一緒に新しいいのちを生きるということです。どこが幹でどこが枝かわからないようなぶどうの木のように、私たちはイエスさまと一つとされるのです。イエスさまと一緒に死んで、そして、イエスさまと一緒に復活のいのちを生きるんです。イエスさまの十字架って、「イエスさまが私たちの身代わりに死んでくださった。申し訳ない。」という美談で終わるものではないのです。イエスさまは私たちの罪そのものとしてあそこで処分されてくださいました(Ⅱコリント5:21)。あそこでイエスさまが死んだことによって、私たちの罪が、いや、もっと言えば私たち自身があそこで死んだんです。それが聖書の考え方。だから、私たちはもう、死んだ古い生き方にこだわっている場合じゃない。自分の罪の性質にいつまでも居座っている場合じゃない。しかも、イエスさまはよみがえられました。イースターでお祝いしたばかりですよね。イエスさまが復活したのなら、私たちもよみがえるんだというのが聖書の考え方です。しかも、そのよみがえり、死後の復活とは、やがての未来のことだけではなくて、その先取りとして、今も、私たちはすでに復活のいのちを歩むことができる。新しくされた者として、今を生きることができる。これが良い知らせ、福音です。

「復活」とは「起き上がる」という意味のことばです。私たちは何度でも起き上がることができるんです。むしろ、父なる神が私たちを起き上がらせてくださる。いや、持ち上げてくださる。何度でも起き上がりながら、復活しながら、私たちは生きていくことができる。イエスさまと一緒に復活のいのちで、新しいいのちで歩んでいくことができる。それが「キリストにとどまる」ということですね。

聖書を読めば読むほど、私たちは自分の罪を示されます。聖書が示す無条件の愛で人を愛せないですし、もしくは自分をも愛することが出来ません。聖書は言います、「神は愛です」(Ⅰヨハネ4:16)。そこから的外れなことを「罪」と言います。この聖書の指摘から逃れられる人はいない。しかし、イエスさまを信じるなら、イエスさまにとどまり、イエスさまと一つとされるなら、あなたのその罪はキリストの十字架で処分されたものになるんです。人を愛せない、自分を愛せないあなたの罪は、十字架で処分されたものになるんです。私たちはキリストと一緒に死んだのだからです。ぶどうの木と枝のように。そして、よみがえられたイエスさまとと共に、新しいいのちで歩み出せるんです。ぶどうの木と枝のようにです。

<4節〜7節 実を結ぶ>
さて、4節5節には「実を結ぶ」という表現が出てきます。イエスさまにとどまる、イエスさまと一つとなる、それは実を結ぶためなんですね。むしろ、イエスさまと一つとされるなら、そこには実が実るんです。5節にあるように、人がイエスさまにとどまるなら、そこには実が実るんです。

私たちは効率の良さや、コスパの良さが重視される時代、社会に生きていて、「実」なんて言われてしまうと、イエスさまにとどまる生き方をすることで、何か成果が出たのかというようなことを無意識にでも気にしがちだと思います。物事に対して成果があるのかどうかを判断するのは大切なことではあります。神さまから預かっているものを上手に管理して何倍にも増やしたというたとえ話も、イエスさまはしておられます(マタイ25:14-30)。でも、イエスさまを信じること自体には、イエスさまと一つになって生きていくこと自体には、何の損得感情も要りません。そもそもイエスさまは、何か得があるから私たちを救ってくださったのでしょうか。そうじゃないですよね。何の得にならなくても、何の得にもならないのに、私たちを救ってくださったのですよね。神さまと私たちの間には、損得感情というものはないんです。

では、ここで言われている「実」とはなんでしょうか。今日はじっくり読むことができませんが、9節以降に書かれていることが大きなヒントになります。一番大切なのはここです。12節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」戒めというと、また身構えてしまいますが、これはイエスさまが教えてくださる新しい生き方ということですね。イエスさまが私たちを愛してくださったように、私たちが互いに愛し合うこと。これが主イエスが私たちに与えてくださった新しい生き方です。そして、先程からの文脈を踏まえるなら、これこそが私たちが剪定される理由。主が私たちにあえて傷をつけられる理由なんです。互いに愛し合う者となるように、イエスさまが私たちを愛してくださったように、そのように互いに愛し合う者となるようにと。

その愛は私たちの内側から出てくるものではありません。私たちに無条件の愛がないことは、私たち自身がよくわかっていることです。互いに愛し合うためには、イエスさまにつながること、イエスさまにとどまることが絶対必要です。イエスさまを信じているから神の愛は自分のものに出来た、無条件の愛に到達できたなどと、いつまで経っても言う事はできませんが、イエスさまにつながりつづけていく。イエスさまと一つになり続けていく。イエスさまの十字架の死と復活を日々自分のこととして受け取り直していく時に、知らず知らずとそのようにされていくんです。成長ってそういうものです。自分では気がつかないけれども、栄養が摂れているなら、自然と成長していくじゃないですか。自分では実が実るなんて思えなくても、イエスさまにとどまっているなら、そこには多くの実が実るんです。これは聖書の約束です。だから、教会は成り立つんですね。キリストにとどまる者たちには、少しずつでも、ほんの少しずつでも、実が実るんです。絶えず神さまから剪定されて、痛い目を見ますけれども、そうやって実が実っていくんです。

6節は先ほどの2節と同じように、ここで足踏みしないでください。自分は投げ捨てられて燃えてしまうなんて、卑屈にならないでください。イエスさまにとどまるなら実を結ぶという4節、5節を補足するために、あえてその逆が説明されている。でもあなたは違うんです。イエスさまは「わたしの枝」とおっしゃっています。2節にあったように「わたしの枝」です。そこには必ず実がなるんですよ。むしろ、実がならなくて投げ捨てられるはずの枝だった私たちの代わりに、神さまから完全に見捨てられた方がおられる。イエスさまの十字架ってそういうことでしたよね。招きのことばで読んでいただきましたが、イザヤ書43章1節にこうあります。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。/わたしはあなたの名を呼んだ。/あなたは、わたしのもの。」神さまがお一人おひとりをどれだけ大切に見ておられるか、知ってください。神さまが、あなたをどれだけ大切に思っておられるか、知ってください。

なお、7節は特に後半だけ切り取って覚えてしまいやすい箇所かと思います。「何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」と。でも、ここで言われているのも「実」のことです。神さまの剪定によってきよめられることで実る実のこと。私たちの内側からは全く出てこないけれども、イエスさまが言われたように互いに愛し合うための愛のことです。私たちには自分でその実を実らせることはできませんが、農夫である神さまが剪定してくださいます。私たちにその実りを与えてください、私たちに神さまの愛を教えてくださいと求める祈りはかなえられるというのですから、あきらめずに、大胆に祈っていこうではありませんか。

<8節 父の栄光>
そのことによって8節、私たちが多くの実を結び、互いに愛し合うという新しい生き方をするよう整えられていく時に、つまりイエスさまの弟子として成長していく時に、父なる神さまは栄光をお受けになります。神さまのすばらしさが明らかにされる。愛の冷えた、愛の冷めたこの時代にあって、ここには本物の愛があると、神さまは素晴らしいお方だと、神さまが栄光をお受けになるのです。私たちが神の愛によって生きていくのは、内輪で仲良くやっていくためではありません。そのことによって、イエスさまの愛が伝わっていくため。神さまの栄光のためなんです。そのことによって、聖書の神は本物だと証しされていくためなんです。

今まで教会は、私たちは、聖書の内容を体系化した教えを伝えることで神さまのことを伝えようとしてきたのだと思います。それは大切なことではあるのですが、どうすれば神さまの栄光が表されるのか、神さまの素晴らしさが伝わるのかと言えば、それは私たちが互いに愛し合うことによってだということですね。人間の努力によってではなく、神さまからいただいた愛で、お互いに愛し合うという実が実っていく時、その実は、教会の外で、神さまの素晴らしさを大きく大きくアピールしていくことになる。教会が今後どのように歩んでいったらいいのか、悩んでいる真っ最中ですけれども、でも、答えはここにあるんですよね。具体的にこれをどのようにあらわしていくのかが問われています。

なお、今日の箇所には「とどまる」ということばがたくさん出てきましたが、これは難しい意味の言葉ではありません。「そこにいる」とか「居続ける」というシンプルな、日常的な表現です。イエスさまにとどまるとは、そしてイエスさまが私たちの内にとどまってくださるとは、日常的なことなのです。私たちがぶどうの木であるイエスさまにつながるとは、普段の生活の中でのことなんです。私たちが十字架の意味を受け取り直していくのは普段の生活、日常の生活の中でこそです。神さまによって剪定されて、きよめられていく、作り変えられていくという奇跡は、日常の中で起こるのです。教会が神の愛で満たされるようにということとは逆説的ですが、私たちがキリストの弟子として、神の愛を証していくのは教会の外、日常においてです。日曜日の礼拝など言わば「非日常」の中で「恵まれた」と言って終わるのではなくて、私たちが普段過ごす場所でこそイエスさまにとどまりましょう。イエスさまも私たちにとどまってくださいます。それが、私たちが互いに愛し合うことにつながっていきます。ひいては、神の栄光につながっていくのです。

遣わされている場所は違いますが、東京でも、また各地方の集会においても、そして私たち関西集会においても、それぞれのぶどう畑において、日々神さまからの剪定を受けていきましょう。そして豊かな実がなり、父なる神がほめたたえられていきますように。そのことのために、イエスさまから「わたしの枝」と呼ばれる愛するお一人お一人が、豊かに用いられますようにとお祈りいたします。

ーーー

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。/わたしはあなたの名を呼んだ。/あなたは、わたしのもの。」イザヤ43:1
 

私たちをご自分の枝として呼んでくださる、主イエス・キリストの恵みと、
実をならせるために、私たちを持ち上げ、剪定してくださる父なる神の愛、
そして、互いに愛し合うという新しい生き方へと私たちを押し出し続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に、その周りに
豊かにありますように。アーメン

ーーーーーーーーーーーーー
【5/18】
ヨハネの福音書21章15節〜17節
イースター⑤「キリストの友として」

イースター以降、弟子たちが復活のイエスさまに出会い直していく場面を、ヨハネの福音書から読んできましたけれども、今日で一区切りとしたいと思います。来週は東京の久遠教会の方で、別の箇所からメッセージを取り次いできます。再来週からは6/8のペンテコステに向けて、心を整えていきたいと思っています。またしばらくペンテコステのメッセージを続けた後、マタイの福音書の講解に戻ります。

さて、よみがえられたイエスさまは、ヨハネの福音書によるとこれまで三回にわたって弟子たちにご自身を示して来られました。よみがえられた日の明け方と夕方。ヨハネはこれを一回とカウントしていますね。そしてその八日後。三回目はガリラヤ湖畔にて。「使徒の働き」の記述によると、よみがえられたイエスさまは、四十日にわたって彼らに現れて神の国のことを語られたとありますから(1:3)、この三回だけじゃない。何回でもイエスさまと出会い直すことができるのです。

<「わたしを愛しますか」>
さて本日の箇所ですが、15節からは、食事を終えた後、イエスさまの視線が一人の弟子に向かいます。「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。』」誰誰の子、というのは人を指す時に使われる一般的な表現で、シモンというのはペテロのもともとの名前です。食事が終わったとき、主イエスはペテロに対して「あなたはこの人たち以上にわたしを愛しているか」と問われました。

ペテロはイエスさまが十字架にかかる前夜、裁判を受けている場で三度イエスさまを知らないと言いました(ルカ22:55-62)。今朝の箇所でイエスさまがペテロに対して三回こう言われたのは、これは明らかにあの三回の否定に対応してのことです。ガリラヤ湖のこの場面、9節に「炭火」が出てきますけれども、これはヨハネが描くペテロの三度の否定の場面にも出てくるんです(ヨハネ18:18)。ヨハネは明らかに今日の場面をあの三回の否定に関連付けています。そこでイエスさまが言われたのは「あなたはわたしを愛していますか」というものでした。「アガペー」というギリシャ語が使われています。無条件の愛です。新約聖書は、この無条件の愛を表す「アガペー」という言葉で神の愛を表現しました。それは、感情的に好ましいから愛するとか、仲が良いから愛せるというものではないのです。受け入れることが出来るから、好ましいから愛するのではなく、無条件に愛する、です。「〜だから」ではなく、「にもかかわらず」の愛と言われます。イエスさまはペテロにアガペー、無条件の愛を問われたのです。

無条件の愛などと聞くと、私たちは身構えてしまいます。そんなのは無理じゃないかと思う。確かにそうでしょう。しかし、アガペーという言葉に出会ったとき、まず思い出すべきは、アガペーとは私たちの愛というよりもまず、神さまが私たちを愛してくださったその愛のことだということです。聖書の中の聖書と呼ばれるヨハネの福音書3章16節にはこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。(「世」というところに、私たちは自分の名前を当てはめて読むことが出来るわけです)それは御子(キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」また、第一ヨハネ4章19節には、「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」とあります。神がまず愛してくださった愛。それがアガペーです。聖書の神は、私たちが何が出来る、出来ないに関わらず、立派で有る無しに関わらずに、私たちを愛していてくださいます。私が私だから、神に受け入れられている。大切に思われている。あなたがあなただから、他の誰でもないあなただから、神はあなたのためにいのちまで投げ出した、それが聖書のメッセージです。神の愛は無条件の愛、アガペーです。「神が私たちを」愛してくださったということです。

しかし、主イエスはここで、「ご自分に対して」アガペーの愛で愛しているのかとペテロに確かめられます。これはどういうことでしょうか。無条件にイエスさまを愛するということですから、何の見返りがなくても、クリスチャンとして生きることに対する神からの見返りが何もなくても、ということでしょうか。自分の願うところが神の御心とは違い、祈ったことに答えられなかったとしても、それでも神への信仰をやめないですか?ということかもしれません。しかも「この人たち以上に」と言われます。他の誰が神を信じなくとも、私は神を信じる、神を信頼する。確かに、信仰とはそういうものだと思います。

<すでに語られていた「アガペー」>
しかし、ここでイエスさまがそのように言われたことの意図は、「信仰とはそういうものだ、自らに危険が迫ろうともわたしを否定したりせず、無条件にわたしを愛しなさい」ということでペテロを叱ったというよりも、前に話された別のことを念頭に置かれているようです。ヨハネの福音書の中で、このアガペーという単語は何度も使われて来たのですが、イエスさまが話した言葉として特に印象的なのは13章34節、35節でしょう。主イエスは十字架にかかられる前夜、このことを大切な新しい教えとして話されました。「34  わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 35  互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」イエスさまが「新しい戒め」として、新しい生き方として教えられたこと、それは、互いに愛し合うということでした。キリストが私たちをアガペーの愛で愛してくださったように、私たちも互いにアガペーの愛で愛し合うこと、それがキリスト者のしるしであるということです。

十字架による死から復活されたイエスさまが、十字架にかかる前夜に話されたことを踏まえて語られたと考えるのは自然なことですし、実際聖書はそういう書き方をしています。十字架前夜に「新しい戒め」を教えられた場面でも、また飛んで今日の場面でも、ともに「子どもたちよ」という呼びかけがあることに気づきます。これは先週もお話ししましたね。何かを中心軸として、線対称のようにして配置するということが聖書の文体にはよく見られます。聖書の読み方のコツの一つかと思いますが、こうやって文章の強調点を浮きだたせているのです。ここでは、イエスさまの十字架という中心軸の前後に「子どもたちよ」という呼びかけであったり、炭火が置かれている。イエスさまがペテロにアガペーを問われた今朝のこの場面は、「互いに愛し合う」という新しい教えと対応するものとして表現されています。キリストの愛を受けた者は、その愛をもって互いに愛し合う。受け入れ合うのです。アガペーの愛を受けた者は、アガペーの愛で愛する者へと変わることが求められているのです。無条件に愛された者は、無条件に愛する者へと変わること、それが、聖書の私たちに対するチャレンジです。キリストを愛するということは、私たちが互いに愛し合うことと表裏一体なのです(マタイ25:40)。

しかしその愛は、本来私たちの内にはないものです。アガペーの愛は私たちのうちにはないものです。だからこそ、イエスさまは13章の「新しい戒め」に続けて、聖霊の約束をしてくださいました。ヨハネの福音書14章から16章はそのために書かれています。私たちは、自分が恵まれるためではなくて、キリストの新しい教え、アガペーの愛に生きることが出来るようにと、聖霊の満たしを求め続けていかなければならないのです。聖霊の満たしとは、聖霊のバプテスマとは、自分が恵まれるためではなくて、アガペーの愛に生きることができるためのもの。イエスさまの愛が私を通してあらわされていくためのものです。

<ペテロの応答>
さて。では、ペテロはそのアガペーの愛を理解していたのかと言われれば、理解していなかったか、もしくは聞いていたはずのその教えを忘れていたようです。主イエスはここで「互いに愛する」ということを踏まえて言っておられるわけです。「わたしを愛し、互いに愛し合いますか」と。だからこそ、他の人にも心を配るようにと、「わたしの子羊を飼いなさい」と言われているわけです。しかし、ペテロにとってはイエスさまへの忠誠心を試されているようにしか聞こえなかったようです。後悔の念で心がいっぱいになっていたからでしょう。心を刺されたペテロは、もじもじと回りくどい言い方をしてしまいます。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」いつものペテロのように、「はい、主よ、私はあなたを愛しています!」と勢い良く言ってほしいところです。しかしペテロは、後悔と自責の念でいっぱいになっていたのでした。「絶対に、死んでもあなたを知らないなどとは言いません」などと大きなことを言っておきながら、ペテロはイエスさまを裏切ってしまったのですから(ルカ22:54-62、ヨハネ18:15-27)。聖書では「三」というのは完全をあらわす特別な数字です。ペテロは、イエス・キリストなど知らないと、三度、完全に否定したのです。だから、もじもじと回りくどい言い方しかできないのですね。

脚注のある方は注意深く読んでいただきたいのですが、イエスさまの問いかけはアガペーの愛をあらわす「アガパオー」という言葉で記されているのに対して、ペテロの答えはフィリアの愛、友情の愛をあらわす「フィレオー」という言葉になっています。続けて見ていくと、16節での二回目の問いも、イエスさまの問いかけはアガパオーで、ペテロの答えはフィレオーで答えています。

イエスさまの問いかけで責められているように感じてしまったのですから、ある意味当然の答え方だったかもしれません。私はあなたを無条件で愛することなど出来ませんでした。私はあなたを裏切ってしまいました。とても「アガパオー」では答えることが出来ません。しかし、せめて、キリストの友でいたい。せめて、イエスさま、あなたの友でいたい。「フィレオー」は友情の愛、友愛を表す言葉だと先ほど言いましたが、ペテロの心中はそのようなものだったと思うのです。もう取り返しがつかない。こうなってしまったら、もうおしまいだ。イエスさまに顔向けは出来ない。でも、主よ、私はあなたと共にいたい。せめてあなたの友でありたい。このペテロの感情は、私たちにもよく分かるものではないでしょうか。

しかし、主はペテロを責めておられるのではありません。弟子としての忠誠心を試すような、意地悪な質問をされたのでもない。主イエスの新しい戒めを踏まえての、互いに愛し合う新しい生き方を思い出させるためのこの「アガパオー」です。イエスさまが私たちを愛されたように、だから私たちも互いに愛し合うということ。それがイエスさまの言われた「アガペー」です。それがイエスさまを愛することにつながる。イエスさまはここで、その新しい生き方を励ましておられる。

イエスさまは「わたしの子羊を飼いなさい」と言われます。小さな立場の人たちを愛し、養い育てるように、また16節や17節では「子羊」だけではなく「羊」とも言われています。教会にはいろんな人がいます。分け隔てなく、みなを愛するように、羊飼いが羊を牧するように養い育てなさいと言われるのです。私たちは神を信じている、神を愛していると自覚していますけれども、お互いに愛し合うことがなければ。牧者のように、養い合うのでなければ、私たちの神への愛は歪んでいるのです。他の人がそこに神の愛を認めることができないのなら、私たちの神への礼拝は歪んでいるのです。

私たちの神さまへの愛は、そのようにアンバランスなもの、偏ったものになりがちなのですが、いや、アンバランスなのですが、イエスさまの方から、御声をかけてくださる、御言葉をかけてくださっていることに慰められます。自らの愛の歪みを知り、「私はあなたを愛しています」と大声で告白出来ないそんな時にでも、主は繰り返し、繰り返し、その御言葉をもって、「互いに愛し合う」新しい生き方へと、私たちを導き続けてくださるのです。何回でも、語りかけてくださる。

<三回目はフィレオー>
さて、17節です。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか。」ここに至って、イエスさまの問いかけの調子が変わります。それまでは「アガパオー」で問いかけていたのに、脚注をご覧ください。ペテロに対して三度目は「フィレオー」で問いかけられているのです。イエスさまは、ペテロに対して「アガペーの愛で愛し合う生き方」を求めることを、あきらめたのでしょうか。ペテロはとうとう、あきらめられてしまったのでしょうか。

結論から申し上げれば、イエスさまはペテロをあきらめたりなさいません。17節の最後では、同じように「わたしの羊を飼いなさい。」と、互いに愛し合うことを励ましておられます。また、今日は見ることが出来ませんけれども、18節以降、特に19節で、ペテロを「神の栄光をあらわす器」として見ておられることが分かります。主はペテロをあきらめたりなさいません。同じように、主は私たちをあきらめたりはなさいません。

まず、三回問いかけられたということ。それは、ペテロの失敗の回数でした。あの痛恨の極み。イエスなど知らない、と三度も言ってしまったあの出来事にイエスさまは寄り添ってくださるのでした。主はペテロが何回否定したか、ご存知でした。主はペテロの弱さをご存知で、そしてその回数分だけ、何回でも、失敗に付き合ってくださるのです。ペテロは三回問いかけられました。では私は、いったい何回問いかけられることかと思います。私は自分の信仰生活の中で、どれだけイエスさまを否定してしまっているか。互いに愛し合うという新しい教え「アガペー」から、遠く離れた自分の現状を見ます。互いに愛し合うのでなければ、それはイエスさまを愛しているとは言えない。しかし、それでも、主は私たちを見放さず、その失敗が深ければ深いほど、御声を、御言葉をかけ続けてくださいます。これは本当に慰め深いことです。励ましです。イエスさまの方であきらめずに、何回でも言葉をかけてくださる。

そしてまた、イエスさまがあえて「フィレオー」で問いかけられたということ。これは、ペテロに対して求めるレベルを落とされたということではないんです。「わたしの羊を飼いなさい」とありますから、主は依然として「互いに愛し合うアガペー」を求めておられます。では、なぜここへ来て「フィレオー」と言葉を変えられたのでしょう。

この違いにはあまりこだわる必要はないという解釈もあるのですが、でも三回の否認に合わせて三回問いかけられた、その最後の締めの質問だったことを考えると、この言葉こそが、悔い改めと回復のプロセスのまとめであったことが分かります。イエスさまは、罪ゆえの弱さに落ち込む私たちを励まし、新しい教えに生きるようにと一貫して私たちを導いておられて、その意味では依然として一貫して「アガパオー」なのですが、そのまとめとして「フィレオー」、「さあ、わたしの友として生きなさい」と招いておられるのではないでしょうか。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを友として愛していますか。さあ、友として私を愛しなさい。」キリストの友として生きる、そのことが、私たち一人一人にとって、回復のプロセスのまとめなのです。

キリストの友として生きる、そんなことは、クリスチャンなら誰だって願っていることです。ペテロだってそうでした。だからこそ、今まで三回問いかけられて、ずっと「フィレオー」で答えて来たのです。その意味ではペテロは心を痛めていたのは初めからでした。イエスさまを裏切ったのですから。17節で改めて「心を痛めて」と書いてあるのは、三回なら三回失敗に付き合ってくださったイエスさまの愛に気づけず、回復のプロセスの中に置かれているということに気づかないペテロの呻きです。主からの問いかけを、責められているようにしか受け取れず、イエスさまが「わたしの友でありなさい」と言ってくださったのに、なお、心を痛めているペテロです。

私たちも、日々、イエスさまを裏切ってしまう存在です。そして、そのことを悔やみます。イエスさまの方では、私たちを癒すための段階を経てくださっているのですが、そのこと自体に気づかないでいることが多い。私たちは、自分の弱さのゆえに主イエスに従えないことにずっと心を痛めて来て、その間の主のお取り扱い、主のみことばにも気づくことなく、相変わらず呻いているということがないでしょうか。

<主は共にいてくださった>
以前も開きましたが、詩篇73:21-23にこうあります。「21  私の心が苦みに満ち/私の内なる思いが突き刺されたとき/22 私は愚かで考えもなく/あなたの前で 獣のようでした。/23 しかし 私は絶えずあなたとともにいました。/あなたは私の右の手を/しっかりとつかんでくださいました。」ここで歌われているのは、自分の努力で主のもとに留まり続けましたという自負ではなくて、獣のような私と主は共にいてくださっていたという驚きです。キリストの友としておれないことに心を痛め、こんな自分ではクリスチャンと言えるのだろうかと呻く時。獣のような心でわめく時。しかし主が、私たちと共にいてくださるのです。そして、詩篇73篇はこう続きます。「24 あなたは 私を諭して導き/後には栄光のうちに受け入れてくださいます」栄光のうちに受け入れられる、つまり、私たちはキリストに似た者として成長するということです。霊的な成長、霊的な成熟が与えられるのだということです。私たちを通して、イエスさまのアガペーの愛があらわされるなんて信じられない気がします。それでも、聖書の御言葉がこのように励ましている以上は、それは必ずなるのです。

ヨハネの福音書に戻ります。「主よ。あなたはすべてをご存知です。」と、ペテロは心を痛めて言いました。主は私たちの弱さを全てご存知です。どんな時にキリスト抜きで物事を考えてしまうか。どんな時にキリストを否定して自らの身を守ろうとするか。主は全てご存知です。それと同時に、主は、心の奥底で、私はあなたの友でいたい、私はあなたについて行きたい、私はクリスチャンでありたいと願うその呻きをも知っておられます。主は「あなたを見放さず、あなたを見捨てない」とおっしゃいました(申命記31:8)。大丈夫。私たちは、キリストの友として召されています。

キリストの友。それは、「互いに愛し合う」という生き方です。主は言われます。「わたしの羊を飼いなさい。」(17節)キリストの友として、イエスさまの新しい教え、互いに愛し合うアガペーの愛に生かされる者でありたいと願います。それこそが、私たちに与えられた召しなのです。教会とはそういう者たちの群れです。復活のイエスさまにより頼みながら、互いに愛し合う生き方へとさらに導かれていきましょう。主は必ず、私たちをキリストの友として成長させてくださいます。そのことを信じ、待ち望みつつ、主があらわしてくださるその新しいことに、期待していきたいと思います。

ーーー
いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。1ヨハネ4:12

私たちを友と呼んでくださった、主イエス・キリストの恵みと
無条件の愛で私たちを愛しておられる、父なる神の愛
そして、互いに愛し合う生き方へと私たちを導き続けてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
​ーーーーーーーーーーーーー

 

久遠キリスト教会関西集会ホームページ

Kuon Christ Church Kansai Website

Since July 11 2017

bottom of page