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​礼拝メッセージ
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●録音
20260802(マタイ10:1〜4)イエスの弟子たち
00:00 / 32:20
●原稿

【8/2】

マタイの福音書10章1節〜4節
「イエスの弟子たち」

 

マタイの福音書も10章に入りました。先週は、イエスさまの働きのために人が用いられる、主は神の国の福音のために私たちを用いてくださるという話でしたけれども、今日の箇所はその具体的な一歩です。1節、イエスさまは十二弟子を呼んで、彼らに汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。「霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すため」、つまりイエスさまがなさっていたことを、彼らも行うためでした。

2節から十二使徒(つまり十二弟子)の名前のリストが始まります。全員は難しいですが、何人かを取り上げて、彼らが弟子とされた時のことを振り返ってみたいと思います。

<ガリラヤ湖の漁師たち>
まず、ペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネです。この四人はガリラヤ湖の漁師でした。彼らがイエスさまの弟子として呼ばれた時のことは4章18節〜20節にあります。「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」人間をとる漁師というのは不思議な表現ですが、漁師が魚をとるということが人々を神の国の中に引き上げる、つまり大勢の人を救うということのたとえになっているわけですね。救うのはイエスさまですが、その働きのために用いてくださる。まさにご自身の働きのために人を用いられるということがすでにここで明らかになっていました(9:37-38)。彼らはその呼びかけに従って、すぐに網を捨ててイエスさまに従ったのです。イエスさまのことばの意味をしっかり理解し、自分は人間をとる漁師になると意気込んで従ったわけではなかったと思います。しかし、みことばの権威に圧倒されて、信じてついて行った。これからどうなるのか、弟子としての自分の姿を思い浮かべることは困難だったけれども、それでもこのお方は信頼できると思ってついて行ったのです。

彼らは網を捨ててイエスさまに従ったわけですが、これは、何かを捨てないとイエスさまを信じることはできないという条件ではありません。彼らはイエスさまに従った時に、思わず網を捨てたんです。イエスさまに従う時に、以前と同じようではいられなくなったということです。この後、ヤコブとヨハネは舟と父親もそこに置いてとありますから、主イエスに従う道は家族すら捨てて従う厳しい道だ、そういう条件があるのだというイメージが持たれやすいですけれども、決してそうではないです。8章にはペテロの姑が出てきます(8:14-15)。ペテロはイエスさまの弟子となった後も家族を大切にしていたんです。イエスの弟子になるとは、全てを捨てて世捨て人になることではない。ただ、イエスさまに出会うと、前と同じではいられなくなるのです。

「網」は彼らにとって生活そのものでした。自分自身だった、自分の命を保つためのものだったわけです。それを手放してイエスさまについて行った。捨てるというと、完全に捨て去って関係を断つというイメージがありますが、そんなふうに考える必要もなくて、優先順位の問題だと思います。気になるあのこと、このことは依然としてありつつも、それらはイエスさまにお任せして、お委ねして、自分はみことばの招きに応答していくんです。自分の考え方や判断ではなくて、聖書のみことば、神さまの語りかけを優先していく。それが自分を捨てるということでしょうね。彼らはこのようにしてイエスさまの弟子になったのでした。

<取税人マタイ>
次は取税人マタイです(3節)。彼については最近読みました(9:9)。取税人というのは、同胞ユダヤ人たちからローマ帝国に収める税金を取り立てる人で、ユダヤ人たちからは裏切り者、罪人の代名詞のように言われていました。実際、必要以上に取り立てた分を自分の懐に入れる人も多かった。誰も彼らには関わらないし、むしろ見下されている存在でした。しかし、それでもイエスさまはマタイを呼びました。マタイをご覧になり、つまりその目を見て、「わたしについて来なさい。」と声をかけられたのです。マタイは、他の福音書と比べても自分が取税人だったことを隠していません。彼の存在自体が、彼が自分のことを記した「取税人マタイ」という表現が、まさに有名な讃美歌「Amazing Grace」の歌詞のように、主はこんな罪人を救ってくださったという証しなのです。続けてイエスさまは言っておられます。9章13節「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためにきた。」罪人を招くどころか、むしろ弟子にするために来られたのだというのです。その招きに応答したマタイでした。

<熱心党のシモン>
また、熱心党のシモンという人物がいます(4節)。彼はローマの支配に対して強く反対する民族主義的・宗教的な熱意を持つ人でした。彼についてあまり多くのことはわからないのですが、少なくともかなり急進的な愛国主義者、ナショナリストだったようです。

とすると、メシア(救い主)とはローマ帝国からの解放者だと固く信じていたでしょう。弟子になった時点で「いや、違う、この方はローマ帝国ではなく罪からの救い主だ。」と気付いたかというと、これは心許ないです。使徒の働き1章6節には、弟子たちがこの期に及んで「イスラエルの復興は今ですか。」と問う場面があります。先ほどの話と同じように、これまでの考え方を完全に捨てて、これまでの生き方とは完全に無関係になってから弟子になれるのではない。弟子になってからも、古いものは引きずっているんですよね。ただ、その古いものが新しいものとされていく。新しい意味がそこに与えられていくんです。その後、彼の「熱心」はキリストを宣べ伝えることに用いられていきます。

熱心党のシモンに関しては、別のことも気になります。弟子になった当初、ローマの手先として働いていた元取税人のマタイと、彼はうまくやっていけたのでしょうか。本来なら決して同じグループにはならないような二人です。しかし、イエスさまはこの二人を弟子として、しかも十二弟子としてお呼びになりました。神の国のために、さまざまな背景を持つ人たちが一つとされていく。十二弟子はそのあらわれでもあったのです。はじめはぎこちなかったと思います。喧嘩をすることもあったかもしれない。それでも、徐々に変えられていったのです。

十二弟子にはこのほかにも、深掘りすれば興味深い人たちが大勢います。本当にバラエティ豊かな人たちです。

<キリストのからだ>
ところで、十二人という彼らの人数は、イスラエル十二部族を思い起こさせます。十二人という数字には明らかに意味があるのです。イエスさまは十二弟子を通して、言わば新しい神の民を形作ろうとしておられました。キリストのからだ、つまり教会の目指すべき姿の原型がここにあります。少し長めに読みますが、第一コリント12章14節〜27節、ここは比喩が本当に面白い箇所です。

1Cor. 12:14  実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。
1Cor. 12:15  たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
1Cor. 12:16  たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
1Cor. 12:17  もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。
1Cor. 12:18  しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
1Cor. 12:19  もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
1Cor. 12:20  しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
1Cor. 12:21  目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。
1Cor. 12:22  それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
1Cor. 12:23  また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
1Cor. 12:24  格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。
1Cor. 12:25  それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
1Cor. 12:26  一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
1Cor. 12:27  あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

14節から22節は読んでそのままというか、分かりやすいと思います。手も足も、口も耳もそれぞれ形も違えば働きも違います。どんなに自分とは違う人であっても、その相手は必要な存在、大切な相手です。互いを必要ないとは言えない。自分なんか必要ないとも言えない。22節、手や足など目立つ働きはしなくても、弱い部分だったとしても、むしろその弱い部分がとても大切なのです。内臓などはどれもそうです。外からは見えない。皮膚や肉に守られています。でも、どれもなくてはならない働きをしています。

23節から24節は、劣っていると思う部分を見栄えを良くするもので覆う、つまりフォローする、支え合うということについて語られます。もともと格好の良い部分にはその必要がないけれども、劣ったところには見栄えをよくするものを与えて、そうやってからだを組み合わせられたと。何のことかと言うと、メインは25節です。「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです」と。強い人が支えられる必要はないけれども、強い人は弱い人を支えます。逆に、ある面においては立場が逆になることもあるでしょう。「互いに」支え合うのです。からだの中で、お互いに配慮し合うことの大切さが語られている。それはからだの中に分裂がないためです。

26節「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」ローマ人への手紙12章15節に「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」とあります。泣いている者たちとともに泣くことは、ある意味簡単ですが、喜んでいる人とともに喜ぶことは案外難しい。白けてしまったり、僻んでしまう思いが出てくるからです。しかし、からだに分裂がないために、お互いに支え合う、配慮し合うことが大切なのですね。

これは、キリストのからだが分裂しないためには、これからは互いに配慮し合いましょうという話ではなくて、キリストのからだには本来このような一致が与えられているんだということのたとえです。27節「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分」です。私たちはキリストのからだであり、そもそも、互いに配慮し合うものなんです。「御霊による一致を『保ち』なさい」とある通りです(エペソ4:3)。イエスさまが呼ばれた集まりなのであり、イエスさまゆえの一致がすでに与えられています。聖霊による一致です。そのことに目を留め、思い出し、互いに配慮し合っていくときに、弟子たちの集まりは成長する。教会は成長していきます。

エペソ4章15節、16節「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」

<教会の歩み>
私たちはイエスさまに呼び集められた者たちです。自分を捨てて従ってきたとは言え、捨てきれていないものは多く、古いものを引きずっています。しかし、その古いものは主にあって新しいものとされていきます。神さまは過去を消されるのではありません。その意味で、私たちは古いものを抱え続けます。しかしイエスさまは、それを無意味なものにはなさらない。過去も、痛みも、失敗も、主にあって新しい意味を与えられていくのです。ペテロは漁師をやめて別人になったわけではない。人間をとる漁師になりました。マタイは取税人だったことを隠していません。しかしその肩書きが恵みの証しになりました。シモンも熱心さそのものを捨てるのではなく、その熱心さが向かう先が変えられていった。過去は、私たちを縛る古いものではなく、神さまが用いてくださるものへと変えられていくのです。

キリストのからだとは、最初から立派な人たちの集まりではありません。それぞれ古いものを抱えたままイエスさまに招かれ、共に歩む中で少しずつ造り変えられていった人たちの集まりです。完成した人たちだから一つとされているのではなく、キリストがおられるから一つなのです。

私たちの教会も同じです。お互いに古いものを抱えたまま、それでもイエスさまと共に少しずつ歩んでいる人たちの集まりです。年齢も違うし、育ってきた背景も違う。物事に対する考え方も感じ方も違います。それでも、神の国のために一つになれる。一つとされているんですよね。私たちの立派さ具合ではなく、イエスさまがここにおられるから成り立っている集まりです。

イエスさまに従うとは、最初から立派な人になることではありません。何もかも理解してから従うことでもない。過去をきれいさっぱり捨ててから従うことでもないのです。このお方なら信頼できる。だから一歩踏み出す。そして、その歩みの中で少しずつ、つくり変えられていく。それがイエスさまの弟子です。

教会とはそのような人たちの集まりです。私たちもつくり変えられていく。成長させられていきます。そして、イエスさまのみわざに参加させていただける。イエスさまのなさることに加えていただける。主は働き人を必要としておられ、今も人を呼び、ご自身のみわざに加えてくださいます。私たちも、その招きに応えて歩み、イエスさまのみわざに参加させていただきましょう。その恵みを体験させていただこうではありませんか。

ーーー
「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」イザヤ6:8

 

私たちの名を呼んで弟子としてくださる主イエス・キリストの恵みと
私たちの過去に新しい意味を与えてくださる父なる神の愛
そして、御霊による一致を保たせて教会を成長させてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。
アーメン

 

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​【7/26】

マタイの福音書9章27節〜38節

「私たちの羊飼いなるメシア」

 

引き続き、マタイの福音書を読んでいきます。マタイは8章と9章でイエスさまの奇跡をたくさん紹介してきました。それは、この方が病気や自然、死に対してすら権威を持っておられることの証です。今日の箇所はその締めくくりになります。目の見えない人の目を開き、口のきけない人の口を開いたという奇跡の話に加えて、そのイエスさまがどういうお方なのか、権威を持つ方がどのように私たちに関わってくださるのかという話が続きます。

<27節 ダビデの子>
まずは27節ですけれども、イエスさまが会堂司の家から歩いていかれると、目の見えない二人の人が叫びながらついてきました。曰く、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください。」というのです。つまり私たちの目を開け、見えるようにしてくださいということですね。生まれながらに盲目だったのか、人生の途中から失明していたのかはわかりませんが、この方だったら何とかしてくれるに違いない、癒してくれるに違いないと、イエスさまに向けて叫んだのです。

「ダビデの子」というのは、「ダビデの子孫」という意味の表現です。イエスさまの時代から1000年前のダビデ王の子孫ということですね。その系図はマタイの福音書冒頭にもありました(1:1)。この方が「ダビデの子」であるということは、福音書記者のマタイ自身が強調していることでもありました。

ダビデの子であるということが、なぜ大切なのかというと、救い主はダビデの子として生まれると預言されてきたからです。旧約聖書には、やがてダビデ王の再来のような王が来るという神さまの約束が記されています(Ⅱサムエル7:12、エゼキエル34:23など)。また、メシア(救い主)が来られると、目の見えない者の目が開かれ、耳の聞こえない者の耳が開かれ、口のきけない者の舌が喜び歌うという預言もありました(イザヤ35:5-6、42:6-7など)。ダビデの子として来られるメシアは人々の目を開け、耳を開き、私たちを癒してくださるのだと人々はずっと待ち望んできたのです。

「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください。」二人の盲人は叫びました。彼らは目が見えませんから、イエスさまが今どこにいるのかわからない。でも、人々の話から察するに、イエスさまが近くに来ておられることはわかる。だから、この機を逃すまいと、なりふり構わず叫び出しました。大勢の前でひれ伏して懇願した会堂司もそうでしたし、また人に触れてはならない身なのに、群衆をかき分けていった長血の女性もそうでしたが、イエスさまに助けてもらいたい、イエスさまに何とかしていただきたいという時、私たちはなりふり構ってはいられません。私たちも彼らのように祈りたいものです。

<28節〜29節 彼らの信仰>
イエスさまがどこかの家に入られたタイミングで、二人の盲人もそこに来ました。イエスさまは彼らの叫びを聞いておられましたから、「わたしにそれができると信じるのか。」と問われます。私たちはイエスさまはなんでもできるお方、これまでもたくさん奇跡を起こしてきたお方だと知ってしまっているわけですが、マタイの福音書を振り返ると、「盲人の目を開ける」という出来事はこれまで明記されていません。あらゆる病を癒やされたとはありますので(4:23-24)、ここに至るまでそれはなかったと断言することはできませんが、しかし、目の見えない人の目を開けるということは、まさにイエスさまがメシア預言通りのお方だということになる。文字通りこの方はメシアだということのしるしになる。それでイエスさまは「わたしにそれができると信じるのか。」と言われたのです。彼らの答えは、「はい、主よ。」というシンプルなものでした。イエスさまは「あなたがたの信仰の通りになれ。」と言って、彼らの目を癒されました。メシア預言の通りに、この方は目の見えない人の目を開けたのです。

ところで、「あなたがたの信仰の通りになれ」と、イエスさまは彼らの信仰をとても評価しておられるようですが、それがどれほど大きなものだったか、どれほど立派な信仰だったかというと、実はそうではなくて、31節にあるように、彼らはイエスさまのことばに従えないのです。決して立派な信仰を持っているわけじゃない。少なくとも、この時彼らの関心はイエスさまご自身というよりも、自分たちの目を開いていただくということに向けられていました。

それでも、この方ならできる。あなたならそれがおできになる。そうやってここまで来たのです。長血の女性もそうだった。会堂司もそうでした。立派な信仰を持っているとか、信仰についてしっかり理解しているというよりも、「イエスさまなら何とかしてくれる。」「イエスさまならこの目を開けてくれる。」その思い一つでここまで来た。イエスさまはそれを喜ばれたのです。そして、目を開けてくださった。

<目が開いた>
「驚くばかりの」(Amazing Grace)という讃美歌があります。日本語の歌詞だと省略されてしまっていますが、英語の原詩には次のような一文があります。「[I] was blind, but now I see.」私は盲目だったけれども、今は見えるというのです。作者のジョン・ニュートンという人は盲目だったわけではないのですが、見えていなかった。見えているようで、私は何も見えていなかった。しかし、イエスさまに出会ったことでいろんなことが分かるようになった、神の恵みが見えるようになったというのですね。この曲の背景について、興味のある方はぜひ調べてみてください。

私たちも、心の目が閉じているということがあります。見えているようで、見えていない。分かっているようで、分かっていない。そのことに気づいて、これは自分ではどうしようもないことがわかったのなら、彼らのように叫びながらイエスさまのところにいきましょう。ある姉妹が、私の信仰は困った時の神頼みなので恥ずかしいとおっしゃっていましたが、困っているのは事実なのですから、イエスさまに助けていただかないといけないのは事実なのですから、助けていただこうではありませんか。イエスさまは、そのように助けを求めてくる人を退けられませんでした。

<30節〜31節 メシアの秘密>
さて、イエスさまは癒やされた二人の人に厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われました。イエスさまはなぜわざわざこれを秘密にしておこうとされたのでしょう。それは、ただ『奇跡を行う人』として有名になることを望まれたのではないからです。個々の奇跡はイエスさまの権威を示し、神の国の到来を告げるしるしであって、奇跡それ自体が大切なものではない。イエスさまは十字架と復活を成し遂げるために来られたわけですから。その十字架にかかるためには、ユダヤの宗教議会だけでなくローマの裁判も受けなければなりません。それに向かっていく道筋があるので、イエスさまは「だれにも知られないように」と、ある意味ではまだ秘密にしておられたというのがまず一つあるでしょう。

しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスさまのことを言い広めました。目が開けられた喜びは抑えられるものではなかった。そして、彼らが言い広め始めたからと言って、イエスさまの十字架への道筋が狂ってしまったということはありませんでした。34節、ユダヤの宗教議会によるイエスさまへの印象はどんどん悪くなっていったからです。ある意味、順調に。

では、なぜイエスさまはこれを秘密にされたのか。見落としてはならない点は、いつ、どのようにイエスさまを証言するのか、証しするのか、その主導権はイエスさまが握っておられるということです。だから、「だれにも知られないように、だれにも言わないように」というタイミングもまたある。そうやって考えると、彼らは喜び過ぎてしまった人たちではなくて、イエスさまのことばに従えなかった人たちなんですよね。黙っているべきタイミングで、黙っていることができませんでした。それでも、彼らの存在もまた用いられていった。彼らが広めていって、イエスさまの(宗教指導者たちからの)評判は悪くなっていく。十字架への道筋が続いていくという意味では彼らもまた用いられた。それはあわれみです。

証しすること、伝道すること、ことばで伝えることはもちろん大切ですけれども、ただ話をすればいい、ただ伝えればいい、機械的にでも相手に話せばいいというものではない。証しするときも、伝道する時も、イエスさまに従いながら、イエスさまが何と言っておられるかを聞き取り、従うことが何より大切です。そうやって伝えていくときに、イエスさまの愛は伝わっていくでしょう。私たちが予想する形ではないかもしれないし、予想以上にということかもしれないし、別のタイミングでかもしれません。とにかく私たちは、イエスさまに聴き従いながら、タイミングを祈り伺いながら話していく、伝えていくことが大切です。

<32節〜34節>
さて、32節、癒やされた二人の人と入れ違いで、今度は悪霊につかれて口のきけない人が連れて来られました。イエスさまがどのように悪霊を追い出されたのか、マタイは詳細には触れず、ただ、口のきけない人がものを言うようになったということをシンプルに記して強調しています。この話は、先ほどの目の見えない人の目が開かれた奇跡とセットになっていて、メシアの預言がまた一つ成就したということが述べられているようです。だから、群衆は「こんなことは見たことがない。」と驚いたのです。これは、やはり本当にメシアがやってきたのだろうかという驚きです。

しかし、同じ奇跡を見ながらも正反対の反応をする人たちがいました。先ほども触れましたが、34節のパリサイ人たちです。「彼は(イエスは)悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ。」と。ものすごい難癖の付け方です。メシアのしるしは十分に示されたわけですが、それを神のみわざと受け取る人もいれば、悪魔の仕業と決めつける人もいるのです。

大切なのは、奇跡そのものではなく、その奇跡が何を意味しているか、何を指し示しているかということです。神さまが何をしてくださったかだけでなく、それによって何を語っておられるかが大切です。こういうことが起こった、こういう感謝なことが起こったというときに、そこで神さまが何を語っておられるのかを聴き取っていく。このみわざの陰に、神さまは何を語っておられるのか。それを聴き取っていくのが大切ですね。

<35節〜38節 メシアはどのようなお方か>
さて、ここまでメシアとは誰か、目と口を開けてくださったイエスこそメシアだということが語られてきたわけですが、35節で少しトーンが変わります。あえて言うならば、その「メシアとはどのようなお方か」がここから述べられています。

35節「それからイエスは、すべての町や村を巡って」、つまりカペナウムだけでなく、ガリラヤ地方のあらゆる場所にイエスさまは出かけていかれました。そして会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、癒しの奇跡をなさいました。イエスさまは公生涯の始まりに、「天の御国が近づいた」と宣言されましたけれども(4:17)、御国(神の国)とは神が王として治めておられる世界です。それは死後の希望だけではなく、イエスさまを信じる者が今ここで生き始める新しい生き方のことでもあります。イエスさまはこの御国の生き方、神の国の生き方が始まったのだということを人々に知らせて回っておられたわけです。

そして36節、イエスさまは群衆が「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れて」いるのをご覧になり、深くあわれました。これは「スプラングニゾマイ」と言って、内臓が痛むほどの深いあわれみの思いを意味します。それくらいに私たちに共感し、あわれんでくださる。弱り果てている私たちを見てかわいそうに思い、助けてくださるお方です。そして神の国の生き方を教え、私たちを助けてくださるのです。羊飼いのように。

かつて、ダビデは歌いました。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23:1)羊飼いは、どこに水があるか、どこに草があるかを知っています。羊がどこで迷っても、必ず見つけ出して、帰るべき場所に戻してくれる、それが羊飼いです。主はまさに私たちの羊飼いなのです。

そして37節、38節でイエスさまはさらに驚くべきことを言われます。「『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」私は新潟県の生まれ育ちだからか、田んぼを眺めるのが好きです。今の季節は青々とした稲が風になびいています。見ていると落ち着きます。秋には収穫の時期を迎えて稲穂が金色に変わる。わくわくします。ガリラヤ湖の周辺も豊かな穀倉地帯です。イスラエルの国土は基本的にほぼ荒野なのですが、この辺りでは麦が育てられています。イエスさまがこのようにおっしゃったこの時期がいつなのかはわかりませんが、空の鳥を見なさい、野の花を見なさいと言われたイエスさまですから、「収穫は多い」と言われたこの時、目の前には金色に輝く麦畑が広がっていたのではないかと想像するのです。

「収穫は多い。」神さまは人々をご自分のものとして集めたい、人々を救いたいと願っておられます。しかし、彼らに御国の福音を伝える人が少ないというのです。羊飼いのいない羊を見てあわれまれたイエスさまは、その羊を集めるために働き手を求められる。イエスさまは、ご自分だけで人々を救おうとはなさらないのです。ご自分だけで、人々を神の国の民にしようとはなさらない。「働き手」が必要なんです。ご自分だけで事をなそうとはせず、人を、私たちをご自身の働きに加えてくださるのです。

山上の説教を思い出してください。弟子になりたての、まだ頼りない人たちに向けて、「あなたがたは地の塩です。世の光です。」と言われたイエスさまです。私たち一人ひとりを用いてくださるし、必要としてくださる。

ところで、35節ですけれども、もう一度お読みします。「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。」ここは4章23節の繰り返しになっています。聖書によく見られる「挟み込み」技法と言って、同じ表現で挟み込むことで、大きな段落が浮かび上がるわけです。ここで挟み込まれている内容はというと、5章、6章、7章は山上の説教、つまりイエスさまの語られたことでした。そして8章と9章はイエスさまの癒しの奇跡です。つまり、ここまでの内容はイエスさまの教えと癒し、主がなされたことなんです。その働きに、人が招かれている。私たちは神さまの働きに加えていただける。そのことの具体的な一歩として、次の10章では十二弟子が任命され、派遣されていくことになります。

私たちの羊飼いであるイエスさまは、弱った羊をあわれみ、救うだけではありません。その働きに私たちをも加えてくださいます。私たちを用いてくださる。私たち教会を用いてくださる。聖霊がそのように導いてくださいますから、「ここに私がおります」と小さくても応答させていただこうではありませんか(イザヤ6:8)。

ーーー
「主は私の羊飼い。/私は乏しいことがありません。/主は私を緑の牧場に伏させ/いこいのみぎわに伴われます。」(詩篇23:1)

私たちの目を開き、口に賛美を与えてくださる主イエス・キリストの恵みと
私たちに、救い主としてそのひとり子を与えてくださった父なる神の愛
そして、私たちを主の働きへと招いてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人一人の上に、その周りに
豊かにありますように。アーメン

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【7/19】

マタイの福音書9章18節〜26節

「いのちを与えてくださる神」

 

引き続き、マタイの福音書を読んでいきます。今日の箇所も、カペナウムの町での奇跡についてです。イエスさまがなさった数々の奇跡は、ご自身が約束されていたメシア(キリスト)であることの証しでした。その場面がもう少し続きます。

 

<カペナウムの会堂>
18節「イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、『私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります』と言った。」会堂司とは、ユダヤ人の会堂(礼拝堂)の管理者です。会堂はユダヤ人が聖書を学ぶ場所であり、地域のコミュニティーセンターのような役割も担っていました。写真はカペナウムの会堂の遺跡です。建物自体は四世紀のものですが、会堂はまったく同じ場所に建て替えることになっていて、土台の部分は一世紀の(つまりイエスさまの時代の)ものだそうです。[写真]こういう写真を見ると、聖書の世界がまた少しリアルになりますね。歴史的にも争いの絶えない地であり、今は特に解決不可能と思えるような難しい問題のある土地ですが、そのような場所にこそ救い主が来られたということの意味を思います。

カペナウム4cシナゴーグ_edited.jpg

<18節 死に対する権威>
さて、そのカペナウムの会堂司がやってきて、娘が今、死にました、おいでになって手を置いてやってください、そうすれば娘は生き返りますというわけです。イエスさまはこれまで、カペナウムの町で多くの奇跡を行ってきました。病の人を癒し、悪霊につかれている人を解放し、荒れ狂う湖の嵐を静めたのです。しかし、死んだ人を生き返らせることなど出来るのでしょうか。

病気は治ることを期待するものですし、嵐は静まることを期待するものです。しかし「死」に関しては、死だけは、誰もが「もう終わりだ」と考えます。もちろん、愛する人が死んだ場合、感情としては「死んでほしくない」「生き返ってほしい」と思うと思います。しかし、頭では「そんなことは起こり得ない。」と分かっている。それが「死」です。

それでも、マタイが描くこの話は、最初から「死にました」という前提で始まります。実は並行箇所のマルコ5章やルカ8章では、この時彼の娘はまだ死にかけている状態として描かれているのですが、マタイは初っ端から「死んだ」という前提で書いている。どうやらここには、マタイがあえてそう書いた意図があるようです。

福音書は四つあって、同じ出来事がそれぞれの視点から、多少異なった表現で伝えられています。他の福音書では、この会堂司はヤイロという名前で、娘は十二歳で、死にかけていて、イエスさまを呼びに来るも、途中で大幅な時間のロスを強いられて娘は死んでしまいます。しかしイエスさまは「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われる。その後、最終的にイエスさまがその子をよみがえらせてくださるのは同じですが、マルコやルカでは「恐れずに信じ続ける信仰の大切さ」に紙面が割かれています。途中で大幅に時間がロスしていく様子も丁寧に描写されていて、ヤイロの葛藤や焦りが伝わってくるような描き方になっているんです。

しかし、マタイはそれらをほとんどカットしています。いわば、人間側のドラマを大胆に省いている。そして、イエスさまが死に対しても権威を持っておられるということを最初から宣言する文脈にしている。最初に「死んだ」という結論を持ってきて、しかしこの方は死に対しても権威を持っておられる方だということを強調しているんですね。

マタイは8章以降、「イエスとはどういうお方なのか」ということを、次々と奇跡を並べることで示してきました。病に対して権威を持つお方。自然に対して権威を持つお方。悪霊に対して権威を持つお方。罪を赦す権威を持つお方。そして今日、死に対してさえ権威を持つお方として描いているのです。

私たちにとって、「死」は終わりであり最後の壁です。しかし、この方にとってはそうではない。イエスさまは、私たちが「もう終わりだ。」と思うところで、なお主であられる。私たちの神であられる。マタイはそのことを最初から私たちに見せようとしているのです。

<19節〜22節 汚れに対する権威>
19節、イエスさまは会堂司について行かれました。すると、20節、その途中である女性がイエスさまの後ろから衣の房に触れるという出来事がありました。

衣の房というのは、ユダヤ人がマントのように羽織って着る外套の四隅につけていた10センチ前後の紐のことです。この男性の外套についている長いひもの部分がツィツィットと言って「衣の房」ですね。前に2本、後ろに2本垂れ下がっています。これは神のことばを忘れずに、それに従って生きることを思い出すためにつけなさいと律法で命じられていたものでした(民数記15:38-40)。

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イエスさまも当然、律法を守るユダヤ人としてこの房をつけておられました。この女の人は後ろから近づいてそっとそれに触ったのです。なぜか。21節「『この方の衣に触れさえすれば、私は救われる』と心のうちで考えたから」です。この房は、「神の戒めを思い起こし、神の民として生きること」の象徴です。イエスさまは神の律法を完全に生きておられる方に違いない、その方の房に触れることができれば、私の汚れはきよめられるに違いないと考えたのです。もしくは、マラキ書4章2節にこう書かれているのを思い出していたかもしれません。「その(救い主の)翼には癒しがある。」この「翼」は実は「衣の裾」と同じことばなんです。ユダヤ人であれば、このことばを思い起こしていたとしても不思議ではありません。

十二年の間長血を患っていたとは、月経の出血に異常があったということです。レビ記15章によれば、そのような人は「汚れている」とされていました。誤解のないようにしたいのですが、聖書はこのような人を「不潔だ」と言っているのでは決してありません。道徳的な意味で汚いという意味でもない。レビ記は、「いのちは血の中にある」と教えています(レビ17:11)。血が失われることは、いのちが失われ、死の影が差している状態を象徴しているのです。しかも、その死の力は広がるとされていた。だから、誰も彼女に触ってはならない。彼女は誰にも触ってはならないのです。レビ記を読むイスラエルの人々は、「いのちとは何か」「死とは何か」という問いを抱きながら、この律法を受け取ってきました。神さまは何百年もかけてその意味をご自分の民に教えてこられました。そして今、その意味が明らかになろうとしていました。

この女性は、十二年もの間、血を流し続け、いのちが失われていく状態の中に置かれていました。私は汚れているけれども、イエスさまの衣の房に触れば癒やされるに違いない、救われるに違いないと考えた。この方が救い主ならば、その裾に触れば私は癒やされると信じ、人混みを掻き分けて進んでいったのです。誰にも触ってはならない身なのに、彼女はイエスさまを目がけて進んでいきました。先ほどの会堂司のように、みなの前でひれ伏して堂々とお願いできるような立場ではありません。ただ、触ることさえできたらと、目立たないように、後ろからそっと近づき、屈んで、イエスさまの衣の裾にそっと手を触れたのでした。

22節、イエスさまは振り向いて彼女に言われました。「『娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、その時から彼女は癒やされた。」

汚れとは死の力の象徴です。レビ記の表現では、その死の力は人から人へ、触れたものへと広がっていくものとされています。ですから、この女性が誰かに触れば、その人もまた汚れた者になってしまう。しかし、イエスさまに触れた時、まったく違うことが起こった。この方においては、死の力がいのちを飲み込むのではありません。いのちが死の力を飲み込むのです。長血の女性が癒やされた、それは単に病気が治ったというだけではありません。十二年間、いのちが欠乏し、死の力の中に置かれていた彼女が、この方によっていのちへと引き戻されたということなのです。これが、マタイが強調しているイエスさまの権威です。イエスさまの権威は、汚れに象徴される死の力を飲み込んでいくのです。

<あなたの信仰があなたを救った>
さて、マタイは人の側のドラマをカットしてイエスさまがどういうお方なのかを浮立たせていると言いましたが、それでもなお、この女性の信仰が彼女を救ったという表現は残しています。イエスさまが「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃった、ここです。ここはカットしきれない、大切な部分なのだということです。

聖書全体を見るならば、私たちを救うのは私たちの信仰の強さではなく、イエスさまの恵みです。私たちは神の恵みによって、信仰を通して救われるのです(エペソ2:8-9)。彼女が救われたのは、信仰の量が多かったからでも、信仰が立派だったからでもありません。ただ、「この方なら」と信頼してイエスさまのもとに来たのでした。

私たちも同じです。この方なら何とかしてくださると信頼して、イエスさまのもとに行っていい。するとイエスさまは、私たちの方を向いて、「娘よ、しっかりしなさい」と声をかけてくださいます。この方が救いを宣言してくださるのです。

<23節〜26節 いのちを与えるお方>
さて、23節以降ですけれども、会堂司の家で何が起こったのか、ここでもマタイの記述はシンプルです。「笛吹く者たちや騒いでいる群衆」というのは、葬儀の準備がすでに始まっていたことを表します。少女が死んだことは正式に確認されていました。しかしイエスさまは「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです。」と言われました。人々はイエスをあざ笑ったとあります。死人がよみがえるわけはないのだからです。この少女は確かに死んでいるのでした。

しかし25節、イエスさまは少女の手を取られました。これがまず驚くべきことでした。死体に触るものは汚れるとされていたからです。しかし、イエスさまは臆することなくこの子の手を取りました。先ほどの長血の女性の時と同じで、汚れが広がるのではない。イエスさまのいのちが、汚れを飲み込んでいく。イエスさまの聖さが、汚れをきよめるんです。

すると少女は起き上がった。よみがえったのです。汚れをきよめるどころか、死に対しても権威を持っておられるお方、むしろいのちを与えるお方であることが明らかにされたのでした。

このように、聖書には死んだ人がよみがえった話が複数出てきます。それらの人はやがてまたいのちが尽きて死んでいったわけですけれども、イエスさまご自身は十字架で死なれてから三日目によみがえられ、今も生きておられる。そして私たち一人ひとりの手をとって起き上がらせてくださるのです。
 

<イエスに触れる、イエスに触れられる>
今日の箇所では、イエスさまは死に対しても権威を持っておられるお方であり、私たちの汚れをきよめ、いのちを与えてくださる方だということが描かれています。それと同時に、汚れた者がイエスさまに触れることをお許しになるということ、むしろイエスさまが汚れた者に触れてくださるという場面でもありました。もっとも、イエスさまが触れてくださるというのは、今回に始まったことではありません。ツァラアトにおかされた人に触れ、熱病の人にも触れてこられたお方です。

イエスさまは、私たち一人ひとりにも触れてくださいます。私たちがどれほど汚れていても、つまりどれほどいのちを失ったかのような、死の力に支配されているような状況だったとしても、そして誰も触ってくれない、誰も関わりを持ってくれない、そんな孤独の中にあったとしても、イエスさまは私たちに触れてくださる。あなたに触れてくださいます。

そして、私たちからもイエスさまに触れることができる。あの長血の女性のように、人混みに紛れて、隠れてでも大丈夫です。なりふり構わずでもいいんです。この方は決して私たちを拒まれません。そして振り向いて、「娘よ、しっかりしなさい。」と声をかけてくださいます。そして、私たちを癒し、きよめ、いのちであふれさせてくださるのです。

私たちが触れ、また私たちに触れてくださる方は、死に対しても権威を持っておられるお方です。私たちにとって死は最後の壁ですが、この方にとってはそうではありません。私たちが「もう終わりだ。」と思うところで、なお主であられる。死の力を飲み込み、いのちを与えてくださるお方です。そのような方が、今日も私たちに触れ、「娘よ、しっかりしなさい。」と語りかけてくださいます。

ーーー
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

私たちにいのちを与えてくださる主イエス・キリストの恵みと
私たちに汚れを教え、いのちを教えて導いてくださる父なる神の愛
そして主イエスに触れるための一歩を日々踏み出させてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン

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【7/12】

マタイの福音書9章14節〜17節

「救い主が来たのだから」

 

<ヨハネの弟子たち>
先週に引き続き、イエスさまが質問にお答えになる場面です。今度は「ヨハネの弟子たち」による質問になります。このヨハネとは福音書を書いた弟子のヨハネではなくバプテスマのヨハネです。ヨルダン川でイエスさまに洗礼を授けたバプテスマのヨハネの弟子たちが、イエスさまに質問をしました。

バプテスマのヨハネとは、救い主が現れる前に人々にその知らせを伝える役割の人で、それは旧約聖書の預言者たちにも予告されていたことでした(マタイ3:1-3)。ヨハネはこの預言の通りに、救い主に会う用意をしなさい、罪を悔い改めなさいと教え、民衆からも大きな支持を得ていました。しかし彼はヘロデ王に対しても罪の指摘をやめなかったので、捕らえられて牢屋に入れられていたのです(4:12、14:3-4)。

ヨハネの弟子たちは、囚われのヨハネへの面会にも行っていたようです。11章には獄中のヨハネから遣わされて、弟子たちがイエスさまのところにやってくるというシーンがあります(11:2-3)。もっとも、今日の個所では、ヨハネの弟子たちは師からの言伝を預かってきたのではなく、純粋に自分たちが戸惑っていたことについて、イエスさまに問いかけたということでしょうね。前回のパリサイ人たちと違って、イエスさまに直接尋ねているのはさすがというところでしょうか。

彼らの質問は次のようなものでした。「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」彼らはヨハネから、「あの方は、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と聞いていました。私など、あの方の靴の紐を結ばせていただくほどの値打ちもない、と。ヨハネの弟子たちはそれを受け入れていたでしょう。しかし、そのイエスの弟子たちが、同じ弟子という立場の自分たちとはどうも違って見えたのです。

つまり、ヨハネの弟子たちが問題にしているのはイエスさまではなく、イエスさまの弟子たちのことです。直接イエスさまに聞いているようで、実は直接弟子たち本人には聞いていないのですね。前回の箇所で、パリサイ人はイエスさま本人にではなく弟子たちに聞きました。今度はヨハネの弟子たちは弟子たち本人ではなくイエスさまに聞いています。本人に聞かない。私たちも案外、本人よりも第三者に尋ねたり、話したりしてしまうものです。

自分たちもパリサイ人たちも断食しているのに、イエスさまの弟子たちだけがしていないという、その違いがどうしても理解できなかったのでしょう。そこには純粋な疑問もあれば、「私たちと同じようにするべきではないか」という思いもまたあったかもしれません。当時、宗教家たちには定期的な断食の日があったと言われています。もしこの日がその日に当たっていたとするならば、マタイの家に集まって、楽しそうに食べたり飲んだりしている場面ですから、なおさらのこと、気になったのかもしれない。今日は断食するはずの日なのに、というわけです。

<断食とは>
そもそも、断食とは何かと言うと、食事をしないで祈りに集中することです。ユダヤ人たちは、祈りと施し、そして断食を神に仕えるための大切な実践として考えていました(6:1-18)。旧約聖書には悔い改めや祈り、あるいは神の助けを求めるために人々が断食した場面がたくさん出てきます。神さまの前に、深い悲しみや切実な願いをあらわすためにも断食がなされました。パリサイ人も、ヨハネの弟子たちも、それに倣ってたびたび断食していたのです。

今でも断食祈祷院のようなところがあります。健康状態に不安のある人はやらない方がいいと思いますが、断食自体は否定されるものではないのです。イエスさまも断食を否定しているわけではありません。山上の説教に断食に関する箇所がありましたが、「断食はやめなさい。」とは言っていない。「断食する時には人から隠れてやりなさい。」と言っておられるわけですね。断食していることを人々にアピールするのではなく、隠れたところで、天の神に向けて祈るために断食しなさいと。つまり、断食をする際には体裁ではなく、中身、心が大切なのでした。

ヨハネの弟子たちの言葉からは、「私たちもパリサイ人たちも断食しています」という、人と比べる視点が伺えます。知らず知らずのうちに、「神さまとの関係」を深めるためというよりも「みんながどうしているか」が基準になっていたのかもしれません。私たちはそうなりがちなんですよね。私たちは奉仕しているのに、私たちは礼拝を休まず来ているのに、という具合で人が気になってしまう。自分と同じようにしていない人が気になってしまう。だからこそ、イエスさまは山上の説教で、「人の目を気にするのではなく、父なる神に向かって断食しなさい」と教えられたのでしょう。

<15節〜>
15節からはイエスさまの答えになりますけれども、イエスさまは山上の説教とはまた違った側面から答えておられます。15節「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。」

ユダヤ人の結婚式のしきたりにおいて、花婿に付き添う友人たちという役割がありました。彼らは花婿と喜びを分かち合う人たちです。イエスさまはその役割の人に関するたとえを話されました。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。」答えはノーです。悲しむことはできません。だから断食もしません。これから喜びあふれた結婚式です。婚礼は喜びの時です。そのような時に悲しみを表す断食をする人はいない。花婿に付き添う友人たちは、花婿と共に喜び合うことが役目だからです。

このたとえではイエスさまが花婿に、一緒にいる弟子たちが花婿の友人たちにたとえられているわけです。友人たちが花婿が一緒にいる間というのは喜びの時であり、悲しむことはできません。花婿が来たなら、断食はできない。それと同じように、弟子たちは今イエスさまと共にいるのです。イエスさまはここで、「花婿が来たんだ、待ちに待った救い主が来た、喜びの時が始まったんだ。」ということを告げておられるのです。

15節後半「彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。」やがてイエスさまが取り去られる時が来る。これは十字架の死を指した表現です。花婿が取り去られる日は確かに来る。その時には弟子たちも断食する。しかし、今はその時ではない。今は花婿が共にいる時だからです。ヨハネの弟子たちは、「私たちもパリサイ人も断食しています。」と、みんなそうしているということを基準にしていましたが、イエスさまはそのようには考えない。花婿が来た、救い主が来た、私は来たということを、その喜びをイエスさまは強調しておられるわけです。

振り返ってみると、パリサイ人たちは「罪人とは食事をするべきではない」という宗教的な枠組みで自分たちと罪人を区別していました。ヨハネの弟子たちも「自分たちと同じように断食するのか、しないのか」ということで相手を判断しています。でも、イエスさまはそうじゃない。イエスさまは、13節にもあったように罪人を招くために来ました。イエスさまは花婿として来ました。待ち望んでいたメシア、キリストはついに来た。その喜びはあなたがたを区別するためのものじゃない。13節からの流れを意識するなら、あなたがた「すべての人」のためにわたしは来たということを言っておられるのですね。

「教会とはこういうものだ。」「クリスチャンとはこう振る舞うものだ。」「昔からそうしてきた。」という、言わば宗教的な実践や文化は大切なものです(ここで言う断食のように)。イエスさまもそれらを無意味だ、無価値だとは言っていません。否定はしていない。しかし、それ自体が基準になってしまうと、パリサイ人やヨハネの弟子たちと同じになってしまう。いや、むしろ同じになっているのが私たちです。でも、視点を変える必要があります。「イエスさまが来られた。」その喜びに立ち続ける必要があるのです。人が神さまに出会い、喜んでいる姿を喜びたいし、自分もその喜びを思い起こして、改めて礼拝を喜びたい。主イエスと出会うということの喜びを味わい直したいものですね。

この後、二つのたとえによって、イエスさまは「今」という時代がどれほど新しい時代なのかをさらに説明していかれます。

<16節 継ぎ足しでは済まない>
16節「だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。」これは、布切れで継ぎを当てるというたとえです。新しい布切れで古い着物に継ぎを当てるということはしない。かえって破れてしまう。かと言って古い布切れで継ぎを当てるという話でもなくて、これは、丸ごと変えなければならない、部分的にではなく丸ごと変えなければならないというたとえですね。

花婿が来た、イエスさまが来た、という喜びの知らせ(福音)は継ぎ足しのように使うものではなくて、私たちはそれによって丸ごと変えられるのです。新しい布を継ぎ足しのように使っていても、それは私たちの破れをふさぐことにはなりません。福音とは、私たちの考え方に一部分だけ付け足すようなものではないのです。

花婿は来られたんです。救い主が来られたんです。パリサイ人やヨハネの弟子たちと同じように、私たちも枠組みを作ってそれに当てはまるかどうかで人を判断しがちです。いまだに。でも、私たちはイエスさまが来られた喜び、イエスさまが共にいてくださる喜びにこそしっかりと注目していたい。目を留めていたいのです。

<17節 新しい器が必要>
続けて17節でイエスさまはこのように言われます。「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」

これも「新しい器が必要だ」という話です。先ほどの継ぎ当ての話と同様に、イエスさまが来られたのだから、喜びの時代が始まったのだから、それを受け取る私たちは丸ごと変わる必要があるということですね。

ここでも、文脈上、古い皮袋とは、まずはパリサイ人やヨハネの弟子たちの在り方です。枠組みを作って人を判断するような、そういう皮袋では福音を味わうことはできないのです。

花婿は来られたんです。救い主が来られたんです。それなのに、私たちはいまだに枠組みを作り、ラベルを貼ってしまう。それに当てはまるかどうかで人や自分自身を判断してしまいがちです。でも、繰り返しますが、私たちはイエスさまが来られた喜び、私たちすべての人を招くために来られたイエスさまが共にいてくださる喜び、そこにこそしっかりと注目していたい。目を留めていたいのです。

<つくり変えられる>
衣を丸ごと変えると言ったって、皮袋を新しくすると言ったって、私たちにはいまだに古い性質が残っています。今日の個所で言えば、パリサイ人やヨハネの弟子たちのようにラベリングで人を判断し、福音の喜びを味わいきれないでいる、それが私たちの姿です。衣を丸ごと変えなければ、皮袋を新しくしなければ、福音を味わうことはできない。それならば、私たちは今もこれからも福音を味わうことができないのでしょうか。

この問いの答えは半分イエスであり、半分ノーですね。私たちがイエスさまと出会って救われたことは事実です。新しい衣、新しい皮袋とは、私たちがつくり変えられていく姿、聖霊が私たちをこのようにつくり変え続けてくださるという姿であって、こうでなければクリスチャン失格ですというような条件ではありません。

神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕えていく時に、聖霊は私たちをつくり変え続けていってくださいます。私たちはラベリングからも自由にされていくんです。

エペソ書2章14節にこのようにあります。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊[されました。]」イエスさまが古い基準を無効のものとされたのに、私たちがそれを続ける理由はありません。人や自分にラベルを貼ることもそうです。私たちは、自分たちが設定してしまいやすい基準ではなく、キリストが来られたことを基準に生きるのです。

救い主が来られたからです。私たちはその喜びの中に生かされています。この喜びをますます味わい、そして人に分かち合っていくものでありますように。

ーーー

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10-11)

私たちのためについに来られた救い主、主イエス・キリストの恵みと
私たちに大きな喜びの知らせを与えてくださった父なる神の愛
そして、福音を味わい分かち合う者へと私たちをつくり変え続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
お一人おひとりの上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン

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【7/5】

マタイの福音書9章9節〜13節

「ラベルではなく人を見る神」

 

マタイの福音書を順に読んできています。今日は、マタイという人が(これはこの福音書を書いたマタイ自身です)イエスさまの弟子になった場面と、それに続けて起こった出来事についてです。

イエスさまはカペナウムの町で数多くの奇跡を行いました。奇跡というのは不思議なこともあるものだという以上に、この方が神の子であることの証明、しるしなのでした。ツァラアトの人が癒されたり、生まれつき歩けない人が歩くようになったり、悪霊に取り憑かれていた人が解放されたりするのを見て、人々は期待を寄せ始めていました。この方こそ、自分たちをローマ帝国の圧政から救ってくださる方だと。聖書が預言してきた救い主というのはローマからの救い主ではなくて、「罪」からの救い主だったわけですけれども、それでも人々は「この方こそ我々をローマ帝国から救い出してくださるお方だ。」と思い始めていました。人々の期待が高まっていく。そういう時期、そういう場面です。

<取税人>
さて、マタイです。9節には「収税所に座っていた」とあります。つまり、彼は取税人でした。当時のローマ帝国は地中海全域を支配する巨大帝国で、ユダヤはその東の端にある小さな属州でした。州と言っても、ヘロデのような王が立てられていましたので、つまりは従属王国というような感じです。

税金というのは嫌なものですが、社会を維持するためには必要なものであり、それを集める役割の公務員がいることも理解はできます。ただし、今日の箇所の前提になっている税というのは、自分たちを征服してきたローマに対して納めなければならないものでした。ヘロデ王に対するユダヤ国内の税金とは別にです。人々は経済的な重荷だけではなく、異邦人(外国人)の支配のもとに置かれているという屈辱も日々味わっていたわけなのです。

ローマの徴税システムは、属州の民衆から直接取り立てるのではなく、地元の人を徴税の仕事に用いるというものでした。つまり今日の箇所で言えば現地のユダヤ人の中から取税人が決められて、その人に自分の同胞からの税を集めさせ、それが最終的にはローマ側に納められたわけです。末端の、一番嫌われる役割は地元の人間にやらせていたわけですね。この一番下請けの末端の役割、人々から直接税金を集める、取り立てる役割が取税人であり、マタイという人はカペナウムの町でその役割を担っていたのです。

ルカの福音書19章にザアカイという名の取税人の話が出てきますが、人々は彼を「罪人」と呼んで軽蔑していました(ルカ19:7)。今日のマタイもほぼ間違いなくそうだったはずです。当時、取税人たちは人々から余分に取り立てて、余った分は自分の懐に入れていました。自分の背後にはローマの権力がありますから、それを盾に不正を働く者が少なくなかった。ただでさえ、「ローマに対する税金を自分たちから取り立てる」というだけでも裏切り者扱いで、その上堂々と不正をして私腹を肥やしているとなれば、人々からは嫌われ、軽蔑されて当然でした。家族や身内にも理解してもらえなかったでしょう。それが取税人であり、このマタイという人だった。

<マタイ>
いや、マタイというこの人自身のことをもう少しだけ想像すると、彼は同胞イスラエル人への思いを捨て去った人ではなかったのではないか、そう思うのです。聖書には書かれていない部分なので想像になりますが、そのように思う理由は、マタイが後に書いたと伝えられるこのマタイの福音書自体です。四つの福音書の中でも、マタイの福音書は特にユダヤ人読者を意識した表現で書かれています。旧約聖書の引用が非常に多く、「このイエスこそ約束されたメシア(救い主)である」ことを、ユダヤ人に向けて丁寧に語りかけています。もちろん、これを書いたのはイエスに出会って回心した後のマタイです。しかし、聖書を記すためにそのような彼の性格が用いられたことを思うと、マタイはもともと同胞への思いを完全に失った人ではなかったのではないかと思うのです。

もしかしたら、彼は好き好んでこの仕事をしていたわけではないかもしれない。下請けの仕事をやらされていて、彼にも理不尽なことが多々あったかもしれない。他の取税人たちのように不正をしていたと書かれているわけでもない。しかし、何にせよ、人々から見れば「ローマの手先」であることには変わりない。辛く、難しい立場だったのではないか。自分ではどうしようもない状況があって、ある意味仕方なくその役割を果たしていたのかもしれないと考えると、急にこのマタイが身近に感じられるのです。

私たちもまた、「本当はこんな自分ではいたくない」「でも簡単には変えられない」という現実を抱えて生きています。マタイの姿は二千年前の遠い話ではなく、私たち自身の姿でもあるのです。

<呼びかけ>
さて、ある日、マタイはいつものように仕事をしていました。自分で選んだ仕事だったのか、やらされていたのかはわかりません。とにかく、人々から税金を取り立てるためにその日もいつも通り、収税所に座っていたのです。そこを、ナザレのイエスが通りかかった。そして、彼を見て、何とあろうことか、声をかけてきたのです。「わたしについてきなさい。」

キリスト教の信仰とは、このイエス・キリストとの出会いです。この方を知るだけでなく、この方と出会い、この方を信頼し、この方と共に人生を歩み始めることですね。

マタイはこの日、これだけを聞いて、すぐについていくことを決めたように見えますが、信仰とは、思考とか判断を捨てることではありません。ここは誤解されやすいところですが、信仰とは思考や判断を捨てることではない。その場の雰囲気で決めるものでもない。悩んだり疑ったりすることは大事です。ここだけを読むと、マタイは即決したように思えますが、ここまでの文脈を振り返るなら、マタイはここしばらくの間、カペナウムの町で行われていたイエスさまの数々の奇跡を見ていたのだと思います。もしくは、話に聞いていた。そして、彼なりに感じるところがあった。この方こそ救い主なのではないかと考えて、悩んでいたのではないでしょうか。そこに、ベストのタイミングでイエスさま本人からの声がかかった。ザアカイの時もそうでしたが、取税人に声をかける人などいません。でも、ここでイエスさまがマタイに声をかけた。「わたしについてきなさい。」マタイはここで、肩書きではなく自分という人を見て、声をかけてくれる人に出会った。自分に期待してくれる人、自分を信じてくれるお方に出会ったのです。

なお、並行箇所のマルコやルカの福音書では、この場面のこの人の名前はレビとなっています(マルコ2:14、ルカ5:27)。レビかマタイ。どちらかが本名で、どちらかが別名なのでしょう。ただ、マタイの福音書では十二使徒の名前のリストにおいても「取税人マタイ」と書いていて、それは他の福音書にはない表現です(10:3)。この福音書はマタイ本人が書いたとされますが、彼は自分が取税人だったことを隠していないどころか、あえて強調すらしているんですね。自分はあの取税人でした、あの嫌われ者でした、しかし、そんな私をイエスは弟子にしてくださったと、そのことを証しとして書き残しているのです。「マタイというひとが収税所に座っているのを見て」。この一文に、「これは私です。まぎれもない、私です。私はこうやってイエスさまに出会ったのです。」という、彼の熱い思いが込められています。それは、あなたもイエスさまに出会ってほしいというマタイの熱意です。だからこそ、彼は自分の過去を隠そうとしなかったのです。

「わたしについてきなさい。」イエスさまは、私たち一人ひとりにも、声をかけてくださっています。「彼は立ち上がってイエスに従った。」マタイのように、私たちもイエスさまについていく、従う者でありたいのです。

<罪人を救うため>
さて、10節から場面が変わります。マルコやルカの福音書ではこれがレビの家、つまりマタイの家だったことが明記されています。マタイの福音書にはそれが書かれていないのは、彼が強調したいのはそこじゃなかったからでしょうね。彼が強調したいのは、この私をイエスさまは救ってくださったという点なので、その他のことはシンプルに書いているのだと思います。

さて、兎にも角にも、イエスさまと弟子たちの一行は、この新しく仲間に加わったマタイの家で食事の席に着きました。マタイの喜びが伝わってくるようです。中東の文化において、ともに食事をすることには大きな意味があります。恵みを分かち合い、お互いの存在を喜び合う。食事とはそういう場所、そういう時間なのです。マタイは心からこの人たちをもてなしたのです。イエスさまの弟子には、ペテロなどカペナウムの人が含まれています。今までのことを考えると、取税人の家に招かれることには抵抗があったと思いますが、イエスさまはそのあたりのことを何も気にしないので、弟子たちは戸惑いながらもついていったのだと思います。しかし、そこで心からもてなしてくれるマタイの様子を見て、人がイエスさまに出会うということの喜びを目の当たりにしたでしょう。

しかし11節、そのように思えない人たちがいた。パリサイ人たちが弟子たちに声をかけました。「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか。」パリサイ人というのはユダヤ人の宗教指導者たちです。

気になるのは彼らが使った「罪人」という表現ですけれども、これは犯罪を犯した人たちという意味ではなくて、ここでは神の前に汚れた人たちというレッテルなんです。パリサイ人たちは、神の民は律法を忠実に守るべきだと教えていましたが、世の中には、取税人や遊女、異邦人との接触が多いなど、職業柄、律法上のきよさを保てない人たちがいます。彼らは「律法を守れない人」「宗教的に汚れた人」と見なされていました。ここでも、11節に「彼らはこれを見て」とあります。取税人や罪人と呼ばれる人たちが大勢イエスさまと共に食事の席についているのを見た。イエスさまがマタイ自身を、マタイその人を「見た」のとは対照的に、パリサイ人たちは彼らを「罪人」として一括りにしているんです。

もちろん、中には本当に不正を働く人もいます。例えば取税人なら、不正に利益を得たり、同胞から搾取する人も多かったわけですから。しかし、そのような道徳的・倫理的な意味での罪以上に、ここでの彼らの言い方はレッテル貼りというか、ラベリングですね。分類するんです。特に「取税人と罪人」というセットの言い方で大まかに分類する表現がよくありました。まともではない人々、というようなニュアンスです。

これは私たちも気をつけなければならないことですが、ラベルを貼ると、その人自身のことは見なくなります。ラベルを見るのです。そしてラベルを貼る人の心には、「私はあの人とは違う」という思いがあるわけです。パリサイ人たちは、自分たちは神の律法をきちんと守っているきよい人間だという自己認識をもっていました。彼らは罪人である。しかし、私たちはそうではない、と。だから面白くないのです。奇跡を行う話題の人イエスが、取税人や罪人と食事をしている。自分たちとではなく。ここがポイントです。自分たちとではなく、罪人たちと仲良くしている。そこが受け入れられなかったのです。

12節〜13節、イエスさまはそれを聞いてたとえを用いて話されました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」イエスさまは、パリサイ人たちのようには人を見ない。あなたは罪人でわたしは違う、だから関わりませんというようなラベリングはなさらない。どこまでもその人自身を見てくださり、そして共にいてくださるお方です。病人に医者が必要なように、彼らにはわたしが必要なんだ、だから一緒にいるんだということですね。彼らに罪はないとは言っていません。罪はあるのです。しかし、それでも彼らを招き、共に食事をするのです。

『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とは、旧約聖書のホセア書6章6節の引用です。いけにえというのは聖書の時代の宗教儀礼、いわば正しい礼拝です。しかし、神さまは、いかに正しい礼拝であっても、真実の愛がなければ虚しいと言っておられるのです。イエスさまはここでその箇所を引用しました。聖書に書いてある神さまとは、本来このようなお方だったはずだ、あなたがたもそれを読んで知っているはずだ、ということですね。

しかも、ホセア書6章6節には続きがあって、「全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」というのです。最上級の礼拝行為よりも、神さまを知ることの方が大事だというのです。神さまは真実の愛を大切にされるお方なんだ。礼拝儀式を整えることよりも、神は愛の神だと知り、そして自分もそうやって生きることの方が大切なんだということです。あなたたちも、人にラベリングをして自分は安全圏にいるような、そういう生き方をやめて、神がどのようなお方かを知りなさい。思い出しなさい。神はラベル抜きにして、この人たちのことを、そして、あなたのことも愛しておられるのだから。イエスさまはここでそうおっしゃったのだと思うのです。

<まとめ>
今日は、取税人マタイがイエスさまに出会った場面、そして、イエスさまが罪人たちと食事をされた場面を読みました。パリサイ人は、「取税人」「罪人」というラベルで人を見ていました。しかしイエスさまは、「マタイ」という一人の人をご覧になりました。ラベルではなく、その人自身をご覧になったのです。

私たちもまた、人にラベルを貼ってしまうことがあります。そして、自分自身にも、「失敗した人」「価値のない人」「もう変われない人」というラベルを貼ってしまうことがあります。しかし、イエスさまはそのようなラベルで私たちをご覧になることはありません。一人ひとりを見てくださり、一人ひとりに声をかけてくださるのです。

聖書は、神の前にはすべての人が罪人だと語ります。ラベリングということではなくて、実際私たちのうち誰が、神さまの前に清廉潔白でいられるでしょうか。でもだからこそ、すべての人がイエスさまのこの招きの対象なのです。イエスさまは罪人を招くために来られたのですから。

今日も主は、マタイに語られたのと同じように、私たち一人ひとりに語っておられます。「わたしについて来なさい。わたしは罪人を招くために来た。」この招きに応えて、イエスさまと共に歩む人生へと、今日また新たに踏み出そうではありませんか。

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「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。/わたしはあなたの名を呼んだ。・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。/わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:1,4

私たち自身を見て、声をかけてくださる主イエス・キリストの恵みと
私たち一人ひとりを造り、名を呼んでくださる父なる神の愛
そして、主の呼びかけに応えるものとしての一歩に伴なっていてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人おひとりの上に、その周りに、豊かにありますように。

アーメン

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【6/28】
創世記3章8節〜15節

霊的成熟⑨「神の二つの『ゆるし』」

『霊的成熟を目指して』の内容を味わい直すシリーズの9回目は「赦しと許し」についてです。同じ「ゆるし」でも、これらはどのように違うのでしょうか。初めに本の内容を振り返りたいと思います。

<許しについて>
この本ではずっと、私たちが霊的に成熟するとは神のかたちを回復させることであり、そのためには天の父とことばの関係を築くこと、つまり本心からの祈り(ことばのやりとり)が必要なんだということを学んできました。しかし、神のかたちが崩れているため、神さまに対して心からのことばで祈ることがそもそも難しいわけですね、私たちは。神さまに向けて、天の父に向けて自分を表現することが難しい。こんなことを言ってはいけないのではないかというブレーキがかかるのです。なんでも祈っていいのだということを頭ではわかっていても、まったく飾らない素の自分を神さまにぶつけていくことに躊躇してしまうのです。でも、神さまは、天の父は、私たちが自分のことばで自分を表現することを喜んでくださる。私たちは自分を表現していいのです。それは許されている。

今、「許されている」と言いましたが、それは許可という字を書く「許し」の方です。本から直接引用しますが「多くの日本人が、自分の本音を表現することは『恥、罪』と感じています。それに対して、それは罪ではない、あなたは神のかたちに造られたのだ、だから自分の思いをことばで表現することを神は喜ばれる」のだということですね。「この競争社会の中で、自分の存在を否定されている人に対して、あるいは親や世間に対して『良い子』を演じながら本当の自分を失う辛さの中にある人に対して、『わたしの目には、あなたは高価で尊い』(イザヤ43:4)と語り、その存在の尊さを伝える」ことが大切なのです。「これは『許し』です。」(p.159、l.5-10)あなたは神のかたちとして造られたとおりに生きていいのだ、ということですね。

私たちが神のかたちとして存在し、自分を表現することは許されている。私たちは自分を表現していいのです。神さまの前で、神さまに造られた自分としていていい。まずはこの「許し」を受け取り直したいのです。

その上で、もう少し引用を続けます。「そして、その神の最高傑作であるはずの人間なのに、その人生は、世界は、なぜこんなにも・・・という悩み、苦しみを通して、実は神との関係が壊れ、神から離れ、神に逆らっていることが、こんなにも人間を傷つけているという事実を自覚していくのです。その時には『それが人間なんだよ。しかたないよ。そのままの姿でいいんだよ。』と「許し」を語ってはならないのです。この時にこそ、それが『ハマルティア=的外れ=罪』であることを直視し、十字架の『赦し』を語るのです。」(同、l.11-16)

神のかたちとして造られた自分自身を生きることを許されているということと、罪を赦されることの違いが整理されています。違いというよりも、これらは表裏一体なのだと思います。十字架による罪の赦しはもちろん福音の中心です。自分らしさを許され受け入れられることだけに留まっていると、罪、悔い改め、十字架の話が必要ないということになってしまい、それは聖書が示す福音ではありません。しかしそれでも、「存在の許し」(つまり神のかたちとして自分らしく生きることの許し)は、「罪の赦し」を受け取るためにも必要なんですね。それを見落としてはならないということです。

<創世記3章>
これらは、この本のオリジナルということではなくて、そもそも聖書もそうやって描いているんです。神さまの愛は私たちを受け入れ、そして罪を赦す愛です。どちらか片方ではない。何箇所か聖書を開いてみましょう。

まず、創世記3章です。ここは人が初めに罪を犯した場面ですけれども、8節〜9節をお読みします。「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。『あなたはどこにいるのか。』」ここで、神さまはまずなんと言われたか。「あなたはどこにいるのか。」と人に向かって呼びかけておられます。罪ではなく人を問題にしておられる。人に向かって、失われた人そのものを探してくださっている。アダムとエバを気にかけておられるんです。その上で、彼らが悔い改める機会を与えるためにことばのやりとりを重ね、13節で「あなたは何ということをしたのか。」と罪そのものを取り扱っていかれるんですね。そして、この流れで、イエスさまの十字架を表す「原福音」と呼ばれる箇所に繋がっていくわけです(創世記3:15)。

先ほど、存在の許しと罪の赦しは表裏一体だと言いましたが、このように、神さまの「ゆるし」にはそのどちらもが含まれているのです。問答無用で謝れということではなくて、かと言って罪をなあなあにするのでもなくて、神さまは私たちを神のかたちとして見ていてくださり、私たちが神のかたちとして生きることを喜んでいてくださり、だからこそ私たちの罪の赦しのためにイエスさまの十字架を与えてくださったのです。神さまの愛は、私たちの存在を探し、気にかけ、受け入れ、そして罪を赦す愛です。

<イザヤ書43章>
次に開きたいのは、イザヤ書43章です。この直前の箇所ではイスラエルの国が偶像礼拝の罪を犯しており、神さまが怒ったということが語られています。それでもイスラエルは悔い改めないと。イスラエルは「耳があっても聞かず、目があっても見ないしもべ」と表現されています(イザヤ42:18-20)。だからバビロン捕囚が起こった、罪のさばきが起こったということです。その流れでそのまま43章1節なんです。「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。』」そして4節「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

罪の問題と存在の問題の順番が先ほどの創世記とは逆ですが、これらがセットであることは同じです。こちらでは罪の指摘、罪のさばきがまずある。しかし、それと切り離せない、不可分のことばが続くのです。「わたしがあなたを形造った。わたしがあなたを贖った(つまり買い取った)。あなたはわたしのものだ。」と。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と。これ以上ないくらいに、存在を許すことば、あなたらしさを許すことばです。

罪の指摘、罪の裁き、そしてそれと切り離せないことばとして、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」ということばがつながっているのです。

<ルカ7章>
そして、ルカの福音書7章36節〜50節の「罪深い女」の話です。これは読んでみましょうか。

Luke 7:36  さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
Luke 7:37  すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
Luke 7:38  そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
Luke 7:39  イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。
Luke 7:40  するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。
Luke 7:41  「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
Luke 7:42  彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
Luke 7:43  シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
Luke 7:44  それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
Luke 7:45  あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。
Luke 7:46  あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
Luke 7:47  ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」
Luke 7:48  そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。
Luke 7:49  すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」
Luke 7:50  イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

イエスさまはまずこの人を受け入れています。パリサイ人たちはこの人を「罪深い女」としてしか見ていませんでしたが、イエスさまはこの人の涙の祈りをきちんと見届けてくださっていた。ことばのやりとりなんてできない、ことばにすらならない祈りだったけれども、精一杯の自己表現を受け入れてくださった。50節を見てください。これは彼女の「信仰」だったのです。はたから見たら、何をやっているんだという行為だったけれども、イエスさまはそれが彼女の信仰であることをしっかりと受け取ってくださった。そして、「あなたの罪は赦されています。」と、罪の赦しを宣言されたのです。

ここでも、この人の神のかたちとしての存在の許しと、罪の赦しが重なっています。

<「存在の許し」が必要>
私たちの神さまは、私たちをご自身のかたちに造られたものとして見ていてくださり、私たちが自分を表現することを望んでおられます。私たちは自分自身を表現し、自分を生きることを許されている。その上で、私たちは自分の罪を知らされ、イエスさまの十字架の赦しを受け取っていくように導かれていくのです。

『霊的成熟を目指して』の本には二人の人のケースが紹介されていました。一人目は生まれて初めて礼拝に参加したという人で、その日に歌われた賛美歌は「君は愛されるため生まれた」でした。激しい虐待を受けて育ってきたその人は、この賛美の歌詞を受け入れることができなかったといいます。あなたは存在していいのだという、存在の許しがまずは必要なんです。

もう一人は、ひたすら良い子を演じて生きてきたという大学生です。聖書の学びのクラスにおいても、常に正解を答える。正解・模範解答しか答えない人でした。相手が期待する答えを言っているに過ぎないので、本人の心には何も残っていないのです。この場合にも、あなたは自分自身として存在していいのだという存在の許しがまず必要なんですよね。

私たちも同じだと思うのです。クリスチャンは特に二人目のケースは当てはまりやすいのではないでしょうか。曲がりなりにもクリスチャンとして生きてきて、聖書の話も知っていて、何がクリスチャンらしい答えか、何がクリスチャンらしい考え方かを知っているものだから、無難にそのようにしか考えない。神に造られた神のかたちとしての自分自身ではなく、いわゆるクリスチャンらしい自分自身しか見せられなくなっているとすれば、それは神さまが望んでおられることではないのです。神さまは、高価で尊いあなた自身をわたしに見せてほしいと願っておられるのですから、私たちはもっともっと自分自身を表現して、自分のことばで祈って、そうやって神さまとの交わりを深めていきたいですね。あの女の人のように、ことばで祈れない、泣くしかなくても大丈夫です。主はそれを受け止めてくださいます。その先で、私たちは罪を示されることになるでしょう。自分の罪が示されることは辛い経験なのですが、同時にイエスさまの十字架の意味がなお一層深く分かるようになるのです。それは恵み以外の何ものでもありません。

第二コリント7章10節に「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせる」とあります。世の悲しみは死をもたらすけれども、神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせると。救いに至る悲しみというものがあるのです。今日見てきたように、私たちが神のかたちとして造られ、神さまに愛され、受け入れられていることを知るとき、自分の罪に直面し、悲しむことがあったとしても、その悲しみは悔い改めへと導かれていきます。そのような悔い改めの中で、私たちは十字架のイエスさまと出会い直すことになるのです。

すでに十字架の赦しを受け取っている者として、今一度、神さまに受け入れられていることの喜びを確認しましょう。神さまの愛に触れ、さらなる悔い改めへと導かれ、そのようにしてイエスさまとの関係がさらに深まっていく者でありますように。

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わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)

私たちに、十字架による罪の赦しを与えてくださった主イエス・キリストの恵みと
私たちの存在を喜び、祈ること、表現することを許していてくださる父なる神の愛
そして、神のみこころに添った悲しみと悔い改めを与え、私たちを救いの喜びで満たしてくださる聖霊の祝福と励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに
豊かにありますように。
アーメン

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