礼拝メッセージ

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●原稿
【9/20】
マタイの福音書11章20節〜27節
「神のみわざを見た者として」
マタイの福音書の続きを読んでいきましょう。先週はバプテスマのヨハネの信仰が揺れた、つまりイエスさまこそ救い主だという確信が揺らいだけれども、イエスさまご自身がそれを励まされたという箇所でした。今日はその続きになります。
<20節〜24節 神のみわざを見た者の責任>
20節、イエスさまはカペナウムだけでなく、ガリラヤ地方の町々を回っておられましたが、20節、他にも二つの町の名前を挙げて責め始めました。彼らが「力あるわざ」、つまり御国の福音を証しする奇跡の数々を見ながら悔い改めなかったからです。
21節、コラジンもベツサイダもガリラヤ地方の町です。ベツサイダは湖畔にあって、ペテロやアンデレ、ピリポの生まれ故郷になります(ヨハネ1:44)。マタイの福音書にはイエスさまがこれらの町にも行かれたことは直接は書かれてありませんが、イエスさまはガリラヤ地方の一帯を巡り歩いておられたので(4:23、11:1)、これらの町にも行っておられたわけですね。
「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」コラジンやベツサイダでも、カペナウム同様に、病人の癒しや悪霊からの解放などの力あるわざ、つまり奇跡がなされたのです。イエスさまが罪人と食事を共にされることもあったでしょう。それらは神の国が来たことの証しであり、しるしなのでした。しかし、彼らはそれを見ても悔い改めなかったのでした。
23節にはカペナウムの町についても述べられていますので、これら三つの町における人々の反応はどれも同じようなものであったと推測できます。カペナウムでは百人隊長の信仰をイエスさまはほめておられましたから(マタイ8:10)、他の町にも個人では悔い改めて福音を受け入れる人がいたと思われます。しかし、町全体としては、イエスさまのわざを見ても悔い改めという応答には至らなかった。大多数の人は信じなかったということでしょう。
ヨハネの福音書1章10節〜11節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」先日も触れましたが、福音を信じるということには決断が伴います。悔い改める決断です。悔い改めとは、悔やむことではありません。それは悔いるというのです。悔い改めとは向きを変えることです。自分の罪に埋没する生き方ではなく、古い自分にこだわる生き方ではなく、イエスさまの方を向くのです。一発で綺麗さっぱり向きが変わり、自分の生活が変わる人などいません。しかし、イエスさまの方を見る。イエスさまから目を離さない。クリスチャンになってからも何度でもです。それを悔い改めと言います。
今日のような箇所はイエスさまを信じようとしなかった人たちに向けられていると、他人事のように受け取ってはなりません。イエスさまがしてくださったことを目の当たりにしても悔い改めなかったり、自分のやり方にこだわって、神さまが望んでおられることに蓋をしてしまうのは私たちも同じだからです。先ほどのヨハネの福音書には続きがあります。12節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」私たちには、神の子どもとなる特権が与えられています。そのことを思い出しながら、その恵みに感謝しながら、何度でも悔い改めていく必要があります。
22節「おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。」さばきの日にはどこどこの方がさばきに耐えやすい、という表現は10章15節にも出てきました。こういう言い方があるということですね。ツロとシドンは地中海に面する町です。イスラエルに隣接する、フェニキア人の都市でした。古くから偶像礼拝が盛んで、旧約時代から悪名高い、神のさばきを受ける町の代名詞だったのです。しかし、その「ツロとシドンの方がさばきに耐えやすい。」つまり、彼らの方が罪が軽い、そしてコラジンやベツサイダの方が罪が重いというわけです。これは単純に罪の重さを計量しているというより、イエスさまのわざを見た者には、それだけ大きな責任があるということを強調しておられるのでしょう。
23節、24節はカペナウムの話です。先ほども触れたように、信仰をほめられる百人隊長もいましたので、すべての人が福音を拒絶したわけではありませんが、それでもおそらく大半の人が悔い改めることをしなかった。イエスさまの方に向き直ることをしなかったわけですね。「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみ(地獄)にまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」これも先ほどと同様の表現です。創世記に出てくるソドムの町はそれこそ悪名高い、悔い改めのない町だったわけですが、単純に罪の重さを量っているのではなく、それほどにカペナウムの罪は重大だという表現です。直接イエスさまのみわざを見ているのだからです。
実は、ツロもシドンも、そしてソドムも、旧約聖書の中で単純に「救いようのない悪の町」としてだけ描かれているわけではありません。解釈には幅がありますが、ツロの回復を思わせる預言や、ソドムの回復を語っているようにも読める預言もあります(イザヤ23:15-18、エゼキエル16:53など)。神のさばきが必ずしもその都市についての最終宣告ではないのです(エレミヤ48〜49章など)。今朝のイエスさまのことばは、「神のさばきを受けるはずの異邦人の都市でさえ、神に応答し回復する可能性が語られているのに、神の民であり、わたしのわざを直接見たはずのあなたがたはどうなのか。」という叱責であり、嘆きであったのだと思います。
私たちは、福音書に出てくる町の人々のようにイエスさまのみわざを直接見たわけではありません。イエスさまの声を直接聞いたわけでもない。それでも、イエスさまを信じています。イエスさまと出会ったからです。イエスさまが私のためにしてくださったことを信じ受け入れたからです。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)ペテロが書き送っているのは初代教会の第二世代、つまりイエスさまに直接お会いしたことのない人々です。彼らは使徒たちの話を聞いてイエスさまを信じました。私たちも同じです。直接イエスさまを見たわけではない。それでも信じているのです。栄えに満ちた喜びに躍っているのです。それは、イエスさまがこの私にしてくださったことを知ったからです。
今日まで歩んできた中で、神さまがしてくださったことを思い出してください。それらは、ただ良いことがあった、ご利益があったというだけじゃない。主がなさったことは、御国の福音の証しです。主が生きておられることのしるしです。それらを無視して、あれらの町のようにイエスさまを嘆かせるのではなく、イエスさまに応答して、イエスさまの方をまた改めて向き直したいのです。
<25節〜27節 御父と御子の関係>
さて、25節から少し場面が変わります。イエスさまは天の父なる神に向けてこう祈られました。25節、26節「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。』」
イエスさまは祈りに際して、まず父なる神さまに呼びかけ、ほめたたえている、賛美をしています。これは祈りの手本です。主の祈りも同様です。祈りは神さまとの対話ですから、まず神さまに呼びかけます。そして、まず神さまを賛美するのです。もちろん、緊急の時や、普段の何気ない神さまとの対話の時など、語り合い方にはいろいろなケースがありますから、形式にこだわることが大切なのではありません。しかし、何をするにも「型」が大事なように、まず神さまを賛美することを意識しましょう。それは私たちの信仰の姿勢にも影響を与えます。
さて、イエスさま曰く、父なる神さまが「これらのこと」を知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださったというのは、何のことを言っているのでしょう。文脈上、「これらのこと」というのは直前にある内容ですから、ガリラヤの町々が悔い改めなかったということでしょうか。しかし、「悔い改めなかったこと」が隠されるというのは意味が通らないので、もう少し前から、つまり11章全体を振り返ってみたいのです。
信仰の確信が揺れたバプテスマのヨハネを、イエスさまはどうやって励まされたでしょうか。それは、イエスさまによって現されている神の国の現実です。救い主は確かに来たんだ。そして神の国が広がり始めたんだということを、イエスさまはヨハネに思い起こさせました。しかし、それに続いて、その知らせを拒む町々について語られたわけです。神の国は来たのに、こんなに多くのしるしとしてのわざを見たのに、なぜ悔い改めないのかという疑問であり、嘆きであり、叱責だったわけです。
つまり、25節で言われている「これらのこと」、知恵ある者には隠されて幼子たちに現された「これらのこと」というのは、ここまで語られてきたように、イエスさまによって神の国が来ているという現実のことでしょう。それを見たなら、イエスさまのみわざを見たなら、救い主の到来・神の国の到来を信じ、悔い改めるのです。しかし、神の国の現実は隠されていて、自分の知恵や理解だけで捉えようとしても受け取ることはできないのです。むしろ幼子のように、神さまから与えられるものをそのまま受け取る姿勢が必要なのですね。
ここでは「知恵ある者や賢い者」が否定されて、「幼子」の生き方が肯定されているわけですが、これは「難しく考えるな」ということではありません。思考を停止させるような宗教は危険です。聖書の神はそのような迫り方はしません。むしろ、大人の考え方をするようにしなさいと言っているわけです(Ⅰコリント14:20、エペソ4:13など)。ここで言われているのは、自分の知恵や培ってきた経験は大切なものだけれども、それだけを頼りにしていては神の国への道は開かれないということです。大人になって自分の知恵や経験が蓄積されていくと、悔い改めることも、福音を信じることも、難しくなるのです。ガリラヤの町々がそうだった。でも、だからと言って、諦めなさいという話ではありません。マタイの福音書18章3節にこうあります。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」つまり、悔い改めて、子どもたちのようになりなさい。そうして天の御国に入りなさいということですね。幼子のように福音を受け取って、イエスさまがなさったことをそのまま受け取って、そして天の御国に入りなさいということです。抱っこを求める子どもがすることは、ただ腕を伸ばすことだけです。福音を信じ受け入れるのもそれと同じなのではないでしょうか。
27節は少し不思議な箇所です。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」文章が入り組んでいて、難しい表現になっていますけれども、まず「すべてのことが、父なる神さまからイエスさまに渡されている」と。これは分かります。イエスさまにはあらゆる権威が渡されているとマタイの最後にありますし(28:18)、キリストの権威については8章、9章で読んできたことでもありました。「父のほかに子を知っているものはない」という表現と合わせて、父なる神と子なるイエスさまの間には特別な関係があることが語られています。他の箇所でもイエスさまは「わたしと父とは一つです。」と言っておられます(ヨハネ10:30)。
問題は27節の後半です。「子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」とあります。子なるイエスさまが父を知っておられるのは、先ほども見た通り、御父と御子の関係を考えれば当然のことですが、そこに「子が父を現そうと心に定めた者のほかに」という表現もあります。つまり、イエスさまが私たちに、父なる神を示してくださるのですね。子が(イエスさまが)父を(父なる神を)現そうと心に決めた者たち」とは、私たちのことです。私たちが父なる神を知れたのは、福音を信じることが出来たのは、自分の知恵や賢さによるのではない。イエスさまがそのようにしてくださったのだということですね。第一コリント12章3節に「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」とある通りです。
なお、イエスさまが心に定めてくださった人が神を信じることができるというわけですが、こういうところを読むと、「では、選ばれなかった人はどうなるのだろう」と考えてしまいます。これは昔から議論されてきた難しい問題です。けれども、今日ここで確認したいのは、この箇所がはっきりと強調しているのは、私たちが神さまを知ることが出来たのは、自分の知恵や努力の結果ではなく、神さまが恵みによって示してくださったからだ、ということです。いつも思い出しましょう、私たちに信仰を与えてくださったのも、今導いてくださっているのも、すべて神さまの恵みです。それだけはしっかりと読み取りたい。そして、心に刻みたいのです。
<神のみわざを見た者として>
詩篇103篇11節にこうあります。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」私たちは神さまがしてくださったことを忘れてはなりません。主が良くしてくださったことを思い起こし、それゆえに悔い改めて、イエスさまの方を向き直して、この歩みを続けようではありませんか。
私たちは主がなさったことよりも、人がしたこと、人にされたことの方を忘れずにいて、数え上げてしまうものです。しかし、主がなさったこと、主がしてくださったことで心を満たしていたいのです。主がなさったことの数々、その究極は私たちのための十字架であり、復活だったではないですか。それらは天の御国を証しするものです。私たちの罪は赦され、この地に神の国が広がるのです。主がなさったこと、主がしてくださったことを忘れずにいましょう。
そして、主が語られたことばに心を刺されたのなら、教えられたのなら、悔い改めましょう。イエスさまの方に向き直りましょう。神のみわざを見た者として、しっかりと悔い改めるべきは悔い改めようではありませんか。その上で、イエスさまから目を離さずに歩み続けていきましょう。聖霊がその歩みを助けていてくださいます。
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「わがたましいよ/主をほめたたえよ。/主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103:2
私たちのために救いのみわざをなしてくださった主イエス・キリストの恵みと、
私たちに悔い改めを教えて導いてくださる父なる神の愛、
そして、主のみわざを思い起こさせてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
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【9/13】
マタイの福音書11章2節〜19節
「揺らぎながらも」
<バプテスマのヨハネ>
イエスさまによる弟子の派遣が終わり、場面が移ります。「牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネ」とは、バプテスマのヨハネのことです。彼はイエスさまが公に活動を始めるに先立って人々に悔い改めの必要性を説いていましたが、ヘロデ王に憎まれて捕らえられていました(4:12)。その理由は14章で明らかになります。
振り返ると、バプテスマのヨハネという人は、イエスの母マリアの親類であるエリサベツと、祭司ザカリヤの間に生まれました(ルカ1章)。ヨハネは敬虔な祭司の老夫婦に奇跡的に与えられた子でした。祭司は家系を大切にするので、普通に考えればヨハネはザカリヤの跡継ぎとして、当然祭司になるはずでした。実際、人々は彼に父親の名前を継がせようとしたのです。しかし、夫妻は御使いに告げられたとおりにヨハネと名前をつけました。この子の誕生は、祭司の家に後継ぎが生まれたという出来事ではなかったからです。
天使がザカリヤに伝えた内容は、「(この子は)エリヤの霊と力で、主に先立って歩」むということ(ルカ1:17)。旧約最後の預言者マラキが伝えたように救い主に先立って歩む存在、それがヨハネなのでした。つまり、この子がそれだと言うのなら、もう間も無く、救い主もまたお生まれになるということです。ザカリヤはそれを信じ、その前提でヨハネを育てたはずなのです。
その結果、成長したヨハネは「イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた」とあります(ルカ1:80)。荒野が彼の生活の場でした。荒野は、神が預言者を立たせる場所でもありました。ヨハネが荒野に住んだのは、自分の使命を自覚していたからでしょう。つまり、自分の役割は救い主到来の道備えをするエリヤであり、自分の後には必ず救い主がやってくることを固く信じていたはずなのです。そして、時至って、ヨルダン川でイエスさまを見た時、彼はイエスさまを指してこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29)感激をもって彼はイエスさまをそう表現した。ヨハネが信じていた通り、とうとう救い主がおいでになったのです。
それなのに、今日の箇所でヨハネは弱気なことを言っています。自分の弟子たちをイエスのところへやって「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」などと。
ヨハネほどの人でも揺れるんですね。
信仰というのは、ある程度にまで成長したら揺れることなく、疑うこともなくなるのではないということです。心で決めたこと、信じようと決意したこと、それらは揺れ動くんです。ヨハネのようにずっとそうやって信じてきたのであってもです。奇跡的な経緯があり、みことばによる確信が深められてきたのであってもです。ここへ来てヨハネの確信も揺れたんです。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」イエスさまと出会ったのに、その御声を聞き、そのことばを聞いたのに、揺れてしまう。
それでもヨハネはイエスさまに聞きました。自分は動けなくても、使いを出してイエスさまに尋ねているんですよね。これが大事です。ヨハネのこのことばは、信仰が揺らいでしまったゆえのものだったのですが、だからこそイエスさまに向けて尋ねている。それがすごく大事ですね。揺れながらも、疑いながらも、イエスさまに向けて祈る。尋ねていく。私たちもそうありたい。
<4節〜 不信仰を責めないイエスさま>
イエスさまはヨハネの弟子たちにこう伝えました。4節「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。」ヨハネの弟子たちがイエスさまと会って、言葉を交わしたということ自体がヨハネを励ますのです。人の証しには、信仰を回復させる力があるのです。
5節はこれまで福音書で読み進めてきた内容です。「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」イエスさまがなさったこれらのことは、天の御国が広がり始めたことのしるしでした。神の国のあり方をこの地上で先取りして示すものだったのです。イエスさまは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言って公の活動を開始されました(4:17)。イエスさまのなさったことは、天の御国を示すものだった。これはすごく大切な聖書理解の枠組みです。
救い主の到来とは、偉い人、ヒーローがいきなり登場して、サッと罪を赦して去っていかれてそれで終わりということではないのです。天と地を造られた神さまが、やがて新天新地を完成されるという神さまの計画の大きな枠組みがあって、聖書全体で表されている大きな枠組みがあって、そのためには人の罪が赦されなければならない、私たちと神さまとの関係が回復しなければならない、だから救い主が来られるということがずっと約束されてきて、それを信じて歩んできた旧約の人々の歴史が描かれている。希望を諦めなかった人々の汗と涙の日々が記録されていて、そしてやっと神さまのことばが実現してイエスさまが来られたんです。救い主は十字架にかかり、私たちの罪は赦される。そして救い主はよみがえり、私たちも一緒にその復活のいのちで歩み、神の国は広がり、その完成の前味を今味わいながら、もう死も涙もないと言われるその時を今すでに味わいつつ、私たちはここで地の塩として、世の光として、隣人を愛しながらこの地上を歩み、やがて新天新地が完成するんです。神が私たちと共に住むようになられる。これが、救い主の到来で示された御国の福音です。
救い主の到来とは、それによって大きく進む天の御国の福音です。イエスさまはヨハネにそれを思い出させました。「見よ。世の罪を取り除く、神の小羊。」とはヨハネ自身が言ったことです。この方が私たちの罪を取り除いてくださる。この方が私たちと神の関係を回復してくださる。神の国の人間としてくださる。ヨハネはそう宣言していたのです。イエスさまはヨハネにそのことを思い出させたのでした。
私たちも、ヨハネ同様に信仰が揺らぎますし、信仰の確信が薄れてしまうことがあります。しかし、イエスさまは私たちの信仰にも励ましを与えてくださって、確信を思い出させてくださいます。「ヨハネに伝えなさい。」とヨハネを励ましてくださったイエスさまが、私たちの信仰をも励ましてくださる。
<6節 主イエスにつまずかない者の幸い>
6節「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」つまずくというのは、信仰が妨げられる、受け入れられなくなる、そのために離れてしまうというニュアンスの表現です。つまり、ヨハネはイエスさまにつまずいたのです。ヨハネの問題は、自分の信仰が弱くなった、確信が揺らいだということだけでなく、「目の前のイエスが、自分の期待していた救い主と違って見える」ということでもありました。
ヨハネはかなり厳しいメッセージを語ってきました。「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(3:10)「麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(3:12)だからこそ悔い改めなさいということではあったのですが、彼が語ってきたのはさばきのメッセージです。しかも、自分は今不当に牢に入れられているわけです。神のさばきが今すぐにくだされるという期待を持っていたとしても不思議ではありません。
ところが、イエスさまがなさっていたことは、病人を癒やし、悪霊を追い出し、貧しい者に福音を伝えるということ。罪人たちと食事をし、人々を赦すということでした。これらは神の国のしるしだったのですが、ヨハネにとっては救い主のイメージ、来るべきお方のイメージと完全には重ならなかったのかもしれません。そんなヨハネの思いにイエスさまは気づいておられて、御国の福音を思い出させつつ、わたしにつまずかない者は幸いですと、神の国の福音を、その証を、そのまま受け取ることの幸いを語られたわけですね。
私たちも同じです。信仰の確信が揺らぎもするし、自分が思い描くイエスさまと違うイエスさまがみことばに示されれば、それにつまずいたりもするのですが、十字架にかかられる前夜、イエスさまがペテロに言われたことばを思い出してください。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)あの夜、ペテロは信仰が揺らいだし、「イエスさまが捕まるわけがない」という意味でイエスさまにつまずいたのです。しかし、イエスさまが祈ってくださっていた。先週も触れたように、主は私たちのためにもとりなして、祈っていてくださるお方です(ローマ8:34、ヘブル4:14-16)。
<7節〜>
ヨハネの弟子たちが帰っていくと、イエスさまはヨハネについて話し始められました。7節〜9節「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。」これはヨハネのことを言っています。バプテスマのヨハネのことを、預言者よりもすぐれた者と表現しています。
10節は、主の道の備えをする人物について預言されていたマラキ書3章1節の引用です。彼こそ、その人だと。
11節の前半は、バプテスマのヨハネほど偉大な人はいないという表現ですが、彼の信仰や人格が優れていたという意味ではなくて、彼は神の救いの歴史におけるキーパーソンだということが言われています。
その次が不思議です。「しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」これは12節以降と合わせて理解するとよいと思います。12節「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」ますます不思議な表現になっていますが、バプテスマのヨハネによって救い主と神の国の到来が伝えられて以降、「天の御国は激しく攻められてい」ると。確かに、ヨハネが牢屋に入れられたり、これからイエスさまへの風当たりが厳しくなっていくわけで、天の御国は激しく攻められている、暴力的な抵抗を受けているのです。「激しく攻める者たちがそれを奪い取っている」、そんな表現すらあるわけです。神の国が来たからこそ、それに対する抵抗もまた激しくなっています。
ところで、この「激しく攻められている」というギリシャ語の表現は、別の訳も可能です。「天の御国は激しく攻められ、奪い取られている。」ではなく、「天の御国は力強く到来しており、熱心な者たちがそこに押し入っている。」というものです(新改訳2017の脚注参照)。どちらの理解にも根拠があります。両方のニュアンスを読み取れる箇所になっています。どちらにせよです。どちらにせよ、神の国の到来は時代に大きなインパクトを与えているのです。イエスさまが来られたという事実は、その恵みは、それを受け取るものをいわば「偉大」にする。決定的な、恵みの時代が始まったのだからです。
ある意味で、ヨハネは夜明けを告げる人でした。東の空が明るくなってきて、もうすぐ夜が明けるとヨハネは叫んだのです。一方、天の御国の一番小さい者は実際に夜が明けた世界を生きている。夜明けを告げたヨハネと、実際に夜明けを生きている人を比べるなら、実際に夜明けを生きている人の方がいわば「偉大」だという表現です。繰り返しますが、人格や信仰の優劣を言っているのではなく、神さまの救いの計画が進んだことの意味、そして、その恵みの中にいるということの大きさが言われています。ヨハネをほめることばから、いつのまにか、福音を信じる人たちを「偉大」だとして、天の御国の福音の恵みの大きさを表現することばに変わっているのですね。
13節〜14節もその流れで理解できます。「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。」すべての預言者たちと律法、つまり旧約聖書は夜明けを予告し、そしてヨハネがそれを告げて、新しい時代が始まりました。キリストが来られた。神の国が始まったのです。あなたがたはその恵みの中にいるんだということです。14節は注意が必要です。「あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。」人々が受け入れれば、ヨハネがエリヤになるということではありません。人々が、私たちが、受け入れなくても、ヨハネがエリヤであること、そして神の救いの計画が進んでいることは変わりません。14節は「神の救いの計画はすでに進んでいる。そのことを、あなたがたは受け入れますか?」という問いだと理解することができます。
キリストが来られて以降のこの時代が、どれほど恵みの時代であることか、私たちは忘れがちです。でも旧約聖書の人々を思い出してください。アブラハム、モーセ、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、彼らがどのような思いで神さまに従ってきたかを思い出してください。決してまっすぐな歩みではなかったし、右に逸れ、左に逸れて、転んだり傷だらけになったりしながら、それでも彼らは神さまを見上げて歩んできました。その先に救い主が来られることを確信していたからです。そして、時至って、その通りにヨハネが立てられ、そしてイエスさまが来られ、天の御国が広がり始めたんです。
この恵みを思い返しましょう。聖書が証ししているこの大きな救いのご計画、こんなに大きなスケールで描かれる救いのストーリーの中に私たちはいます。しかも、夜が明けた新しい章の中にです。天の御国が広がり始めている。自分は一人じゃない。自分は見捨てられていない。イエスさまが共におられる。そういう時代にいるんです。だから従っていくんです。地の塩として、世の光として生きるんです。今私たちはそういう時代を生きている。このことを何度でも思い起こしましょう。信仰が揺れるたびに、確信が薄れるたびにイエスさまに励ましていただいて。またイエスさまにつまずくたびに、みことばにそれを正していただきながら、何度でも天の御国の生き方を始め直したいのです。神を愛し、人に仕える生き方を、今日改めて始めようではありませんか。
<15節〜19節>
15節以降は、この恵みの時代に生きながら、御国の福音を知らされながら、その恵みに気づかない、気づこうとしない人々に対することばです。私たちには関係ないのではなくて、むしろ反面教師として気をつけなければなりません。
15節「耳のある者は聞きなさい。」私たちのこの耳は、神さまの御声を聴き取るためにあるのです。神さまの愛を疑わせるサタンの声、心を惑わせる人の声や自分の声ではなく、神さまの声を聴き取っていく。神さまのみことばを聴き取っていくのです。御国の福音を聴き取っていくのです。
16節、私たちの身の回りには福音を語ってくれている人がいます。「ほかの子どもたちに呼びかける子ども」ですね。福音を呼びかけてくれている存在がいるのです。それは聖書のことばを通してかもしれないし、直接聖書のことばではないかもしれません。しかし、ダーバールというヘブル語が「ことば」と同時に「出来事」を表すように、神のことばは聖書の文字だけでなく、世界のあらゆる出来事を通して響いています。もちろん、明示されているのは聖書ですが、身の回りの出来事の中にも神のみことばが、福音の呼びかけが響いていることを聴き取っていくのです。「耳がある者は聞きなさい。」と主は言われます。
呼びかけというのは、それを聞いた人が応答することを期待しています。それなのに、17節、私たちが反応しないということがないでしょうか。笛の音を聞いたなら踊るのが自然な反応だし、弔いの歌を聞いたのなら悲しむのが自然な反応です。福音を聞いたなら、信じて応答するのです。しかし、この時代はそれを拒むとイエスさまは嘆いておられるわけです。それは今のこの、私たちの時代も同じです。
人々には自分の思い描く救い主像があるからです。自分にとって都合のいいイメージがあるからです。だからヨハネが断食をしていても、逆にイエスさまが食べたり飲んだりしていても文句を言う有様です。イエスさまの姿につまずいて、自分の思っていることを文句として言っていくだけなのです。
19節後半「しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」知恵とは神さまの知恵です。救いのご計画を含む神さまの知恵です。神さまの救いのご計画が正しく進んでいることは、その行いが証明する。実際に行われてきた事柄が証明している。つまり、ヨハネが伝えた悔い改めの教え、そしてイエスさまがなされた一つ一つのこと、それは癒しや悪霊追放、よみがえりなどの奇跡、また罪人と共に食事をしてくださるということ。究極的には十字架と復活です。それらの一つ一つが、「知恵」が正しいことを証明している。神さまの知恵の正しさを証明しているということですね。
それらを信じようとしない町に向けて、20節以降ではイエスさまからの叱責が続きます。それを経て、有名な28節、29節へと至ることになります。
<揺れ動いても>
私たちの確信は揺らぎます。信仰が弱ることもある。それでも、イエスさまが私たちのために祈っていてくださるから大丈夫なんです(ルカ22:32)。ヘブル人への手紙には次のようにあります。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)目を離さない、その視線もイエスさまが助けてくださる。むしろ、イエスさまが私たちを見つめていてくださいます(ルカ22:61)。大丈夫です。信仰が揺らいだのなら、確信が薄れ、イエスさまにつまずいたのなら、今日、また改めて、この方についていきましょう。キリストが来られた、神の国が広がっている、その確信を深めていただきながら、信仰を強めていただきながら、一歩一歩、歩んでまいりましょう。
ーーー
「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)
揺れ動く私たちを励まし、呼びかけ続けてくださる主イエス・キリストの恵みと
私たちを神の国の者として見ていてくださる父なる神の愛
そしてイエスさまのまなざしに気づかせ続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、豊かにありますように。
アーメン
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【9/6】
マタイの福音書10章32節〜11章1節
「丸裸の自分で」
(追記あり)
マタイの福音書の続きを読み進めていきましょう。
10章の冒頭から、イエスさまが十二弟子を遣わされる場面が続いています。弟子たちは、そして私たちも、福音を証しするために遣わされていくのです。その先では困難が避けられないのですが、一羽の雀すら父なる神なしに地に落ちることはない、つまり父なる神は雀が地に落ちる時すら共にいてくださるということ、ましてや、私たちの困難の時に主は共にいてくださるのだということが語られました(29節)。どんな困難の時も、神さまは共にいてくださるのです。それを踏まえて32節は「ですから」と始まります。
<「認める」>
32節「ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」イエスさまを「認める」というのは、人々の前で信仰を公にするということです。御国の福音を証しし福音を伝える旅なのですから、信仰を公にするという場面があります。その旅には、狼の中に送られる羊のような困難がある(16節)。人々から迫害されるという困難がある。でも、そのただ中でも自分はイエス・キリストを救い主として信じているんだということを隠さないということですね。一羽の雀とも共にいてくださる神が一緒にいてくださる。「ですから」です。「だから」困難の中でも信仰を告白できるのです。そして、そういう人のことを、イエスさまもまた「この人はわたしに属する者です」と認めてくださるというのです。
<やがて、そして今すでに>
「わたしの父の前で」というのは、父なる神さまの前でということです。やがて私たちは父なる神の前でさばきを受けます。やがて世が終わる時、私たちは父なる神の前で申し開きをすることになるということを聖書は語っています(ヘブル4:13)。その私たちのために、すでに大祭司として立っていてくださるのがイエスさまです(同4:14-16)。今日の箇所で言うなら、「この人はわたしのものです。」と言ってくださる。認めていてくださるのです。こんなに心強いことはありません。
イエスさまの十字架の死と復活によって、私たちはすでに義とされていますから、最後の審判をことさらに恐れる必要はなくて、これは何度も言っていることですが、世の終わりとか終末ということばが表しているのは希望なんです。先ほども、「栄光の主が来られる」と賛美で歌いました。イエスさまは「わたしもその人を認めます。」と言ってくださる。ぜひ、そこはブレないようにお願いします。
しかも、最後の審判だけでなく、イエスさまは今すでに私たちのために大祭司として立っていてくださるお方です。イエスさまは復活後、天に戻られました。そして、今は父なる神の右の座に着き、そこで私たちのためにとりなして祈っていてくださるのです(ヘブル1:3、10:12)。イエスさまは今、まさに大祭司として私たちと父なる神の間をとりもっていてくださっています(同7:24-26)。
ローマ8章34節にこうあります。「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」父なる神が一羽の雀以上に私たちに寄り添っていてくださるのと同様に、イエスさまも、今、私たちのためにとりなしていてくださる。そして、マタイ10章19節20節を振り返るならば、私たち自身には信仰を公にする強さはないけれども、そのことばは聖霊が与えてくださるのでしたよね。三位一体の神が、困難の多い私たちの旅路に寄り添っていてくださり、助けていてくださるのです。
それにしても、33節は私たちを不安にさせます。「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」私たちは信仰を公にすることに恐れを感じるからです。特に日本社会にあってはクリスチャンはマイノリティですし、今は宗教や信仰ということそのものが危険視される時代ですから、余計に難しく感じてしまいます。ペテロのように「私はあの人を知らない」とまでは言わなくても、信仰をなかなか公にはできない私たちです。
それでも、神さまが共にいてくださるという話の流れこそが大事です。大切なのは31節から32節へのつながりです。私たちが信仰を告白できるのは、信仰を公にできるのは、私たちが強いからではありません。父なる神が共にいてくださり、イエスさまが私たちを認めてくださり、聖霊がそのことばを与えてくださるからです。33節だけに引っかかって、この大切な約束を読み飛ばすことがないようにしたいですね。
もちろん、イエスさまは福音を証ししなさい、信仰を公に告白しなさいと言っておられるのであって、そのイエスさまのことばに従っていきましょうというのは大前提です。でも、それができなかったら裁かれるという恐れで、イエスさまは私たちを追い詰めておられるのでしょうか。「私は、ちゃんとイエスさまを認められるだろうか。」「人の前でクリスチャンだと言えるだろうか。」そういう恐れを抱くのは当然ですが、それ以上に、私のために十字架にかかられた、そしてよみがえられたこの方の福音を伝えたい、証ししたいという喜びを大事にしたい。私たちは何に対しても「できたか、できなかったか」「成功したか、失敗したか」という結果に捉われがちです。こういう箇所を読んでも、イエスさまを認めたら、自分も認めてもらえる。だから頑張ってイエスさまを認めなければならない、頑張って信仰を告白しなければならないとなってしまう。でも、そのような「ねばならない」とう考え方ではなくて、この文脈を大切にしたいのです。父なる神が一羽の雀以上に私たちを大切にしていてくださるという事実があるから。イエスさまが私たちを認めてくださるという宣言があるから。そして聖霊が私たちに証しのことばを与えてくださるという約束があるから。その事実の中に安らいでいたいし、心燃やされ、励まされていたいのです。そこから自然とイエスさまに従う者とされていきます。
<34節〜37節 剣のような痛み>
34節から36節は、21節の状況を別の表現で繰り返しています。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」イエスさまを信じる信仰のゆえに、その福音を証しするゆえに、人々から迫害される。家族から迫害されることもあるのです。イエスさまは、家族を捨てなさいと言っているのではありません。むしろ家族を大切にして生きる私たちの、その家族の中でさえ、イエスさまを信じることによる葛藤が起こることがある、と言っておられるのです。それは避けられない。
34節の「わたしは平和ではなく剣をもたらすために来た」というのはショッキングな表現ですが、大前提としてイエスさまは争い好きだとか、戦争を肯定しているというような話ではないですよね、文脈上。「平和をつくる者は幸いです。」と言っておられたわけですから(5:9)。この表現は、イエスさまが来られた、救い主が来られたという知らせを受け取る人もいれば、受け取らない人もいるという話です(ヨハネ1:10-12)。福音は、私たちに決断を求めるからです。イエスさまを受け入れるのか、それとも拒むのか。決断の違いによって分裂が生じてしまう。決断ってそういうものですよね。それが、あえてのこの表現で表されています。
(追記)その辛さはまさに「剣」のようです。イエスさまが剣をもたらすというのは、そこに争いが生じることの肯定ではなく、福音を拒否されることによる痛みのことでしょう。身近な人たちが証しを受け入れてくれないという痛みです。「そのために来た」と言われると、痛みを生じさせるためにと読めますが、福音が決断を求める以上、どうしてもそこには痛みが生じる、剣によるような痛みが生じる。イエスさまはそのことを言っておられるのではないでしょうか。イエスさまはその痛みを分かっていてくださる。
37節もあえての表現です。家族は見捨てなさいという表現ではなくて、家族から反対されてもイエスさまへの信仰をあきらめないということです。家族から反対されたなら家族は見捨てなさいというのは、イエスさまの教えではありません。聖書からそのような言い方は出てこないです。信仰を家族から反対されたとしても、家族を愛し、家族に仕えながら、それでもイエスさまを第一にして、信じつづける。福音を証しし続けることを励ましてくださっているわけですね。
(追記)福音宣教や証しの場で私たちは剣のような痛みを経験します。しかし、三位一体の神が寄り添い、受け止め、証しする私たちを励ましてくださっています。
<38節〜39節 自分の十字架>
38節「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」自分の十字架という表現が出てきます。これもまたショッキングなものでした。十字架とはローマの処刑法でしたし、ユダヤ人としては申命記に「木にかけられた者は神に呪われた者」という記述がありますから(申命記21:22-23)、二重の意味で忌避すべきものだったからです。しかし、それでもイエスさまは「自分の十字架」を負いなさいと言われるのです。
「これが自分の十字架です。」という表現は、たまに見かけますよね。過去の過ちを償わなければならないという意味での、自分の宿命というような意味で使われたりします。一方、聖書で十字架と言えば、イエスさまがかかられた罪の赦しのための十字架です。そこに私たちも共にかかったのだ、私たちの罪はそこで清算されたのだ、今は私たちはイエスさまと共に復活のいのちを生きているのだというのが信仰の根幹です。マタイ16章でも「自分の十字架を負ってわたしについてきなさい。」というイエスさまのことばをじっくり取り扱うことになります。ただ、今日の文脈は、困難の中でもイエスさまへの信仰を告白する、イエスさまへの信仰を隠さない、そういう話の流れです。基本的には、イエスさまに従うことによって生じる苦難。場合によっては、信仰のゆえに文字通り自分のいのちを失うことまで含む表現です。今の日本ではなかなかイメージがつきにくいことではありますが、私たちは歴史上の過去の殉教者たちとも、キリストのからだとして一つにされています。そのことを忘れてはなりません。
一方で、別の側面としては、自分の信仰を隠さないという話の流れを考える時に、十字架は恥の象徴であったことも思い返すのです。十字架は、苦痛だけではなく、人前にさらされ、辱めを受ける刑でもありました。「自分の十字架を負う」とは、自分の信仰が隠されずにさらされる、私たち自身が隠しておきたいものまで露わになるということではないか。そんなことも思うのです。
イエスさまへの信仰は口先だけのものではありません。特に家族や友人という一番身近な人たちの中では、イエス・キリストを信じると言ったって、お前、まずはここをしっかりしなさいとか、まずはこれこれできるようになりなさいとか、普段の自分のすべてを知られていると、それが証しの難しさになります。自分は全然クリスチャンらしくないなと、ある意味で丸裸にされているような、恥ずかしさを感じるのです。しかし、先ほどの話ではないですが、私たちがクリスチャンかどうかというのは、私たちが立派に信仰しているかどうかで決まることではありません。イエスさまがあなたのために十字架で死なれたこと、そしてよみがえられたことによるんです。私たちは身近な人たちの間で自分の信仰の未熟さを痛感したり、自分がまったくクリスチャンらしくなくて、不証ししかできないと恥ずかしく思ったりするのですが、そこで、それを理由に信仰を隠してしまわないで、イエスさまへの信頼をあきらめないでいたいのです。自分の未熟さを隠して、立派なクリスチャンを演じる必要もありません。自分を隠すというのは、振り返ればアダムとエバ以来の私たちの癖ですけれども(創世記3:7,10)、隠さなくていい。そんな自分も含めて、私はイエスさまに属する者です、と告白していけばよいのです。
39節もその流れで読むことができます。「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」自分を得ようとして守ろうとして、自分の弱さや丸裸にされた信仰を隠すのではなくて、自分の十字架としてあらわにして、それらを背負うのです。全然クリスチャンらしくない自分を、不信仰な自分を隠さないで背負う。まるで十字架の丸裸のように、自分の信仰をあらわにするんです。それは自分のいのちを失うことのように見えるかもしれません。「こんなにあらわにされてしまったら。」と。しかし、そこにこそ本当のいのちがある。
信仰を隠さない、信仰があらわにされるとは、外を歩いて行き合う人に「こんにちは。私はクリスチャンです。」と挨拶して回るというようなことではありません。むしろ身近な人たちの間で、家族の中で、全然クリスチャンらしくない自分の現実があらわにされて、不証しにしかならない、その困難を言っています。そこで信仰を隠してしまうのではなくて、誤魔化してしまうのではなくて、そこでまた改めてイエスさまについていく。従っていくのです。立派なクリスチャンを演じて自分を守るのではなく、未熟な自分のままでもイエスさまに属する者として従っていくのです。そして、この文脈を忘れないでください。父子聖霊の神がその歩みを守ってくださいます。
<40節〜11章1節>
40節〜42節は、イエスさまから弟子たちに対する励ましのことばのしめくくりです。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」これは、遣わされていく弟子たちとイエスさまとの一体性が語られています。つまり、遣わされていったその先で弟子たちが語る福音を受け入れ、その証しを受け入れる人は、それは弟子たちをというよりも、イエスさまを、ひいては父なる神を受け入れることになるのだということです。私たちに福音を伝えてくれた人、証ししてくれた人のことを思い出すと感謝しますけれども、でも何が感謝かというと、その人たちを通してイエスさまにお会いできたことなんですよね。
41節、42節は「報い」という話になります。「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。」ここでは「報い」ということばが出てきます。預言者を受け入れた人は、預言者が受ける報いにあずかる。義人を受け入れた人は、義人の受ける報いにあずかる。そして42節では、一杯の冷たい水を飲ませるだけでも「報いを失うことがない」と言われます。つまり、イエスさまは、あなたがた(弟子たち)を受け入れる人には良いことがあると言っておられるわけです。
キリスト教はご利益宗教ではないという言い方に、私は基本的には賛成ですけれども、でもここを読むと、イエスさまはご自身の弟子たちを用いて、その証しを聞きそれを受け入れる人たちにも恵みを流していきたいのだな、弟子たちが受ける報いを、その人たちにも与えたいのだなと思わされました。
福音を携えて遣わされるのは弟子たちです。でも、神さまのわざは弟子たちだけで完結するのではありません。その弟子を受け入れる人、また水を与えるようにしてその働きを支えてくれる人をも巻き込みながら、神さまの恵みが広がっていく。神さまが与えてくださる報いが、良いことが広がっていく。それは、私たちに都合の良いご利益ではないことの方が多いでしょう。でも、神さまが与えてくださる良いものが、神さまのわざに参与する者たちに、関わっていく者たちにも及んでいく。広がっていく。そこに神さまの恵みがある。
そして11章1節「イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。」弟子たちへの指示は終わり、弟子たちは遣わされていきました。イエスさまご自身も、福音宣教のわざを続けていかれたという描写で一連の文脈は閉じられます。
<私たちも遣わされている>
他の福音書では、この後弟子たちが帰ってきてイエスさまに報告する場面があります。しかし、マタイはそれを記していません。マタイはこの場面の続きを私たちに委ねているのではないでしょうか。最後の応答の部分をあえて載せないという書き方が聖書にはよく出てきます(旧約聖書のヨナの話とか、またイエスさまのたとえ話など)。この続きは、読み手に託されるわけです。これはあなた自身のことだ、これはあなたの物語だということです。
その意味で、私たちもまた、イエスさまから遣わされて今のところにいます。これまで読んできたように、御国の福音を、救い主の到来を証しし伝えることには困難が伴います。特に身近な人の間で。しかし、今日何度も確認しているように、父子聖霊の三位一体の神が私たちと共にあってくださいます。困難の中でイエスさまへの信仰を公にできないかもしれない。そんな自分の情けなさ、信仰のなさがあらわにされることでしょう。でも、自分の信仰のなさがあらわになったなら、そここそが、改めてイエスさまに従い直す場所です。そここそが、丸裸にされた自分の十字架の場所です。その自分を隠さないで、自分の十字架を負って、イエスさまに従っていこうではありませんか。私たちは立派な信仰によってイエスさまに従っていけるのではなく、イエスさまの真実の愛を受けているから、一歩一歩でもイエスさまに従っていけるのです。これは聖書の約束です。みことばに励まされながら、今日も、イエスさまに従っていきましょう。御国の福音を証ししていきましょう。
ーーー
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8:38-39)
私たちをご自身に属する者として認めてくださる主イエス・キリストの恵みと、
あらゆる困難の中でも共にいてくださっている父なる神の愛、
そして、自分の十字架を負ってキリストに従うようにと励まし続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、その周りに
豊かにありますように。
アーメン
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【8/30】
マタイ10章16節〜31節
「証しし続ける」
マタイの福音書の10章を読み進めていきましょう。イエスさまが、天の御国の福音を宣べ伝えるようにと十二弟子を派遣された場面です。
<16節 狼と羊、蛇と鳩>
イエスさまは弟子たちを(また私たちを)福音を伝えるために遣わされるわけですが、それは狼の中に羊を送り出すようなものだと言います。だからイエスさまは心配してくださっていて、助言をくださるわけですね。「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」と。蛇とは賢さの象徴です。創世記3章ではサタンが蛇の姿をとって近づいてきましたが、今日の箇所では良い意味で使われています。福音を届けにいくという文脈での話ですから、どうすれば相手に福音が届くかを考え抜くという賢さですね。どうすれば、狼のような相手に対して、こちらが喰われるということなく、少しでも福音を届けられるかをよく考えるということでしょう。相手をあきらめず、状況を冷静に見極める賢さです。
また同時に、「鳩のような素直さ」を持ちなさいとも言われます。鳩は純潔さと誠実さをあらわします。「素直」というギリシャ語は「混じり気がない」という言葉に由来します。福音を伝える旅において、混じり気のない素直さもまた大切なんですね。なお、イエスさまが洗礼を受けられた3章16節では、鳩は聖霊の象徴として描かれていたことも考えると、ここで言われているのは聖霊の導きに対する素直さとも言えるでしょう。19節、20節ともよくつながります。福音を伝える者にとって大切なのは、自分の力や計算だけに頼るあり方ではなく、聖霊の導きを素直に受け取ることなのです。
<17節〜20節>
17節、18節は狼の群れのような世の中で起こる具体例です。「地方法院」というのは、ユダヤ各地の共同体に置かれていた裁判機関のことです。会堂(シナゴーグ)と密接に結びついた共同体の裁判所でした。会堂で訴えられるとはそういうこと。そして鞭で打たれ、さらには総督や王たちの前に連れて行かれると。つまり、福音を伝えることで、宗教的な権力からも政治的な権力からも、さらに言うなら地域のコミュニティの中で迫害を受けるということです。そこで弁明をすることになる、と。しかし、それはただの弁解、弁明ではありません。自分がなぜイエスさまを信じているのかという証しになるのだといいます。
不思議なのは19節、そして20節です。「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。」
狼のような世の中で、どのようにイエスさまを証しするか、御国の福音を証しするか、心配するには及ばない。話すことはそのとき与えられる。聖霊がことばを与えてくださる。むしろ、聖霊が話してくださるということです。これは、聖霊が弟子たち(私たち)に乗り移って、口が勝手に動くという意味ではありません。私たちがこれまで経験してきたこと、学んできたこと、語ってきたこと、その一つ一つを聖霊が用いて、その時に必要な言葉を与えてくださるのです。私たちの人格を用いて、私たちのことばを用いて主が語ってくださるということです。
新約聖書の「使徒の働き」には、弟子たちが実際に捕らえられ、議会や王の前で証しとしての弁明をした様子が記録されています(4:1-21、25:6-26:32等)。その後の歴史をたどってみても、時の権力者がクリスチャンを捕らえるということはよく起こってきたわけです。十字架にかけられて復活したキリストこそ王の王、主の主であり、私たちは天の御国に属する者だという信仰は権力者たちには邪魔であり、脅威でした。だから圧力をかけてきたわけです。程度の差はあれ、同じようなことは今でも起こります。そこで私たちが何を語るか。どう振る舞うか。そのことは聖霊が導いてくださいます。私たちの今のこの世の中で、信仰のゆえに捕らえたり議会に引っ張っていかれるということはなかなかないと思いますが、程度の差はあれ、人々の前で信仰を証しする場面というのはあるわけです。しかし、聖霊が導いてくださる。立派な証しをしなければならないというプレッシャーを感じる必要もありません。たとえ、その時に立派なことばを語れなかったとしても、それで証しに失敗したとは限りません。ことばだけでなく、その後の生き方そのものが証しになることは多いです。私たちのことばだけでなく、生き方が、証しになる。失敗してもそれでもイエスさまを信じ続けていく後ろ姿は何よりも証しになります。
<21節〜23節>
21節では家族の中にまで対立が起こると言われます。こういう箇所を読むと、「家族よりも信仰を取りなさい。」という内容に読めてしまいますが、そういうことを強要するのはカルト的な宗教でしょうね。聖書は家族を大切にするようにと教えています(出エジプト20:12等)。ただ、信仰のゆえに家族内で対立が起こるとは避けられない。そして22節では、イエスさまの名のために、すべての人に憎まれるとまで言われます。信仰のゆえの苦難は避けられないのです。
避けられない苦難の中で、どのように振る舞うのかが大切です。22節後半には「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」とあります。ここで言われている救いは、耐え忍んだ人がその功績によって罪から救われるという意味ではありません。耐え忍ぶことは救いの条件ではない。救いはイエスさまを信じることのみによります。これは、最終的には神さまが必ず救いを完成してくださるという希望のことを言っています。私たちは、過去のある時点でイエスさまの十字架を信じて救われました。そして、今、救われ続けています。そして、やがてその救いが完成する。救いにはこの三つの側面があります。最終的には神さまが救いを完成してくださるのです。その希望のことが言われています。
「耐える」というのは歯を食いしばって何が何でも耐え抜くということではありません。23節で「逃げなさい」とあるからです。蛇のように賢く、鳩のように素直に、キリストの福音を証しすること自体をあきらめないのです。場所が変わることはあるでしょう。イエスさまも別の町へ逃げなさいといっておられます。でも、行ったその先で、イエスさまに信頼して、主の良い知らせを証しし続けるのです。
23節後半「まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。」人の子というのは聖書においてはイエスさまのことを指します。人の子が来るというのは、イエスさまが再び来られる時(再臨)のことを言っておられると思いますが、ここで大切なのは、人の子が来られるまで宣教のわざは終わらないということ。世界の歴史が続く限り、宣教のわざは終わらない。主が再び来られるその時まで、教会の宣教は続いていくのです。福音を証しする営みは、ずっと続いていくのです。
<24節〜28節>
24節〜25節、「弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。」
イエスさまは確かにベルゼブル(悪霊の首領)扱いされたことがありました(9:34、12:24)。イエスさまがそんな扱いを受けたのだから、弟子であるあなたがたも師であるわたしと同じように、場合によってはさらに酷いことばを浴びせられることもあり得ますよということですね。
しかし、これは脅しではないのです。26節に「彼らを恐れてはいけません」とあるからです。信仰を守り、福音を証しすることで迫害を受け、ひどいことばをかけられることもある。しかし、それはイエスさまの弟子として、主と同じ道を歩んでいるのだという励ましです。「ああ、私は今、イエスさまと同じ道を歩んでいるのだ。」ということです。
26節には、「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない」とあります。おおわれて、隠されているもの、これは、ここではイエスさまが語っておられる福音のことです。27節の「暗闇で言われたこと」「耳もとで聞いたこと」も同様です。イエスさまの知らせ、御国の福音は、隠されたままでいるものではありません。だから、人を恐れて黙ってしまうのではなく、安心して伝えなさい。言い広めなさいということですね。
28節、「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」神さまへの正しい恐れがあるなら、人を恐れる必要はなくなります。迫害や困難を恐れて、福音を語ることをやめる必要はないのです。
<信仰ゆえの受苦>
「受苦」ということばがあります。苦しみを受ける、苦しみを受け取るという意味です。「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(ペテロの手紙第一3:9)
相手から苦しみを受けても、こちらから悪を返さず、むしろ相手を祝福するという生き方です。福音を届ける。福音を証しするのです。イエスさまはまさにそのような生き方をされました。私たちも、イエスさまの弟子として苦しみに会います。そのような時に、主に倣って、相手を祝福する生き方へと私たちは入れられているのです。
もちろん、直面する困難のすべてを信仰ゆえの苦難だと断定することはできません。自分の弱さ・自分の失敗が引き起こしたものも多いわけですから。その時には反省し、悔い改めることが必要です。そのためにも、自分の状況を冷静に見つめる賢さが求められますね。
<29節〜31節 父の許しなしには>
ここは以前扱った箇所ですけれども、「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。」一アサリオンはローマ世界で一番安い貨幣です。雀とはそういう鳥でした。そんな雀の一羽さえ、父なる神の許しなしに地に落ちることはない、つまり父なる神の許しなしに死ぬことはないというわけですが、実はここのギリシャ語には「許し(許可)」という単語は本来ないのです。「父の許しなしには」と訳されていますが、原文は「父なしには」という表現です。「そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの『父なしに』地に落ちることはない」というのです。父なる神の御前から離れて、父なる神に知られないまま雀が地に落ちることはない、ということです。
「許し」とか「許可」ということばが入ってしまうと、神さまが高いところから指図して許可して決まるというニュアンスに聞こえてしまいます。しかし、そうではなくて、「父なる神が共にいてくださることなしには、何事も起こらない」なのです。父なる神は雀が地に落ちるときにさえ共にいてくださる、ましてや、困難や迫害のただ中で、私たちと共にいてくださるお方です。高みの見物をして、困難や迫害をも乗り越えてみせよと言っておられるのではなく、どこまでも私たちに寄り添っていてくださるお方です。「ですから、恐れてはなりません。」とイエスさまは言っておられます。
だから、恐れずに語り続けようではありませんか。救い主が来られたのだという知らせを。私たちの罪を赦す方が来られた、私たちは古い生き方から新しくされて、神と共に歩めるのだというその知らせを。御国の福音を。語り続けようではありませんか。証しし続けようではありませんか。言葉で語ることかもしれないし、自分の生き方を通して証しするのかもしれません。困難はつきものです。しかし、主が共にいてくださる。お一人お一人がなす証しに、主の祝福がありますように。
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これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)
私たちに御国の福音を託して遣わしてくださっている主イエス・キリストの恵みと、
どこまでも私たちに寄り添っていてくださる父なる神の愛、
そして、私たちに証しのことばを与えて励まし続けていてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、その周りに
豊かにありますように。アーメン
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【8/23】
マタイの福音書5章13節〜16節
「地の塩、世の光」
今日は、塩と光の話をします。
<地の塩>
ある時、イエスさまがお弟子さんたちに言いました。「あなたがたは地の塩です。」これがたとえなのは分かりますが、一体どういう意味でしょうか。なぜ塩なのでしょう。塩にはいろいろな働きがありますが、ここでは、塩が食べ物の腐敗を防ぐという働き、防腐剤としての働きに注目してみましょう。塩は食べ物が傷んだり腐ったりするのを防いでくれます。おにぎりに塩を少し振るのは、それが腐ってしまわないように、傷んでしまわないようにしているわけです。塩にはそのような働きがあります。
私たちが塩だというのなら、私たちには防腐剤としての役割があるわけです。しかも、地の塩というのですから、この世界が腐らないようにする役割だと思われますが、そんな大きな役割が私たちにあるのでしょうか。
ここで、少し前のイエスさまのことばを思い出したいのです。今日は9節に注目しましょう。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」平和をつくるというのは、平和がないところに平和をつくるんですよね。すでに平和だったらそれを作る必要はありません。平和がない場所、争いしかない世の中だからこそ、そこに平和をつくるという人は幸いだ、幸せだとイエスさまはおっしゃっているのです。周りの人たちが争いにばかり心を向けていても、自分はそこで平和をつくる。それはまさに地の塩としての役割です。
まったく塩気がないところに塩を振るから、意味があります。争いしかないところに平和をつくるから、意味がある。物事が腐らないように、世の中が傷んでしまわないようにするんです。それが地の塩の役割です。塩気とは自分のためにあるんじゃない。周りの人のためにあるんです。塩が食材に溶け込むように、私たちも人々の中に溶け込んで、塩としての働きをするのです。
「塩として何の役にも立たないものは捨てられる」とも書かれてあるわけですが、これは「お前は役に立たなければ捨てられるぞ」という脅しとして読む必要はありません。むしろ、イエスさまは弟子たちに「あなたがたの存在には、それほど大きな意味がある」と語っておられるわけです。塩気とはそれほどに大事なものなんだ。その塩気を持って、あなたがたは人々の只中で、地の塩でありなさいというわけです。これは脅しではなく励ましであり、チャレンジです。
イエスさまは、あなたがたは地の塩「です」と言われます。すでに、そうなんです。「立派になったら、強い人になったら、地の塩になれるでしょう。だから頑張りなさい。」というのじゃなくて、今すでに地の塩なんです。イエスさまは、弟子たちが経験豊かになったからこう言ったのではなく、弟子になりたての、まだまだ頼りない彼らに言われたのです。「あなたがたは、地の塩です」と。十字架にかかられる直前に、集大成のようにして言われたのでもない。マタイの福音書のまだまだ始め、五章の段階でこう言われているんです。
地の塩とは、地に対しての塩です。人々の中に溶け込んでいく塩です。小瓶の中にとどまっていてはいけません。小瓶から振り出されて、世界に出ていく。人々のただ中に出ていくんです。塩が食材の中で働くように、人々のただ中に出て行って、そこで働く塩が必要です。
あなたは必要とされています。地の塩として、人々のただ中にあなたが必要なのです。イエスさまが「あなたがたは地の塩です。」と言われたことの意味は、つまり、「あなたが必要だ。」ということなんです。
<世の光>
14節では「あなたがたは世の光です」と言われます。これも同じです。私たちは世の光としてここにいます。これこれこうしたら世の光になれるというのではなく、すでに地の塩であるように、すでに世の光なんです。
暗闇の中で光は隠しておくものではありません。暗闇の中に光があれば、その光は周りを照らします。「山の上にある町は隠れることができません。」とある通りです。夜の荒野の道で、町の灯りは「そこに町がある」ことを伝える大切なしるしでした。今のように街灯もない、手元で光るスマホもない、文字通り真っ暗な夜に、山の上にある町の灯りは遠くからもよく見えました。あそこに町がある。あそこが目的地だ。光は人々のための大切な道標だったのです。このように、光とは本来隠しておくものではありません。
15節「明かりをともして升の下に置いたりはしません。」升っていうのは、木でできた計量カップですね。お米とかお酒とかを量るために使います。(↓)

イエスさまの時代の升はこういうものだったようです。青銅でできています。これが「升」。(↓)

そして、これがイエスさまの時代のランプです。(↓)

お茶を淹れる急須のような形をしています。家の中にこれをいくつか置いておいて、火をつけて明るくするんです。こうやって使います。(↓)

中にオリーブ油を入れて、急須の口から短い紐を入れる。その紐が油を十分に吸ったら、そこに火をつける。ロウソクみたいな仕組みですね。これを、家の中にいくつか置いておくと言いましたが、置く場所が大事です。燭台と言って、台の上に置かないと。そうじゃないと家全体を照らせない。燭台の上に置いて、周りを照らすようにする。それが光です。光は隠すものじゃない。ましてや、升を上から被せてしまったら、全く明るくない。せっかく光があるのに、周りは暗いままということになってしまう。
今日はロウソクと紙袋で実験してみましょう。ここにLEDライトのロウソクがあります。電気を消してください。暗闇の中で、ロウソクの光はとてもよく見えます。これに紙袋をかぶせてしまうと、せっかくの光が見えなくなってしまいます。これじゃあ、せっかくの光がもったいないわけです。
それと同じで、神さまは私たちを用いてくださる。神さまがこの世界を腐敗から守り、人々を照らし、道を示すために、地の塩・世の光である私たちの存在を用いてくださる。あなたが必要だと言われたイエスさまが、あなたを用いてくださるんです。
<良い行い>
16節「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」
父というのは、神さまのこと。私たちの天の父です。私たちの地の塩・世の光としての良い行いを見て、周りの人々が神さまって素晴らしいと、神さまを礼拝するようになるというのです。神さまの素晴らしさは神さまが表してくださればいいのにと思いますが、私たちが良い行いをすることによってあらわされるというのです。
「良い行い」などと聞くと、私たちはギクッとしてしまいます。何か立派な行いが求められ、期待されているのかと身構えます。でもまず確認しておきますが、救われるために行いは必要ではありません。何か徳を積むとか、善行をするとか、修行することが救いの条件ではない。救いはイエスさまを信じる、そのことに尽きます。だから「良い行い」は、神さまに認めてもらうために積み上げるものではありません。神さまに愛されている者として生きている中で、その神さまの愛が私たちの言葉や行動を通して外に現れてくる。滲み出てくる。そのことを言っています。神さまと共に生きる喜びから自然と湧き出てくるものですね。私たち自身には世の中の腐敗を防ぐ力はありませんし、私たちの行いそのものには世間の人々を照らす力はありません。でも、イエスさまが私たちを用いてくださる。私たちは「そんなたいそうなこと、できない。」と思うけれども、イエスさまが用いてくださるというのです。だから安心していい。神さまに愛されている安心感から自然と出てくることばを語り、自然と出てくる行動をしていけばいいのです。肩に力を入れて、無理やりに何か良いことをしなければと思わなくてもいいのです。
私たちはイエスさまのことを人に伝えたいと思い、願うわけですが、信仰的な言葉やキリスト教的な表現で伝えられなくても、周りのノンクリスチャンの方が普段のあなたの様子から聖書に興味を持ってくれたら、こんなに嬉しいことはないですよね。ダニエル書には、神を信じる若者たちの姿を見たバビロンの王が「あなたがたの神はすごい」と神を称える場面があります。私たちの生活にも同様のことが起こります。地の塩、世の光とされている私たちの普段の様子によって、神さまの素晴らしさが証されていくのです。イエスさまが「そうなる」と言われたのだから、そうなるんです。
<イエスさまが光>
忘れてはならないのは、イエスさまがおおもとの光だということです。先ほど、私自身には力がないという話をしましたが、私たちはイエスさまの光で輝くんですね。招きのことばでも読みましたが、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)イエスさまが光です。そして私たちはそのイエスさまの光をいただいて、いのちの光をいただいて、反射させて輝くんです。私たち自身が光るんじゃなくて、イエスさまの光をいただいて、それで輝く。月の光り方に似ています。月は自分では光らないけれども、太陽の光を反射させて美しく輝きます。私たちもイエスさまの光で輝くんですから、大丈夫です。それは必ず輝くんです。鏡のようにまっさらな私たちではないです。デコボコしている。しかしでこぼこしているところに光が当たると、いろんな方向に光が散っていきます。乱反射してキラキラ輝くんです。この画像を見てください。(↓)

でこぼこした石だからこその輝きです。
私たちは自分では光ることができません。でこぼこしていて、どうしようもない私たちです。でも、だからこそ、神さまは私たちを必要としてくださるのです。神さまがこの世界を腐敗から守り、照らすために、地の塩・世の光としてのあなたが必要なんです。私たちの行いや私たちの塩気なんて大したことないと思ってしまいます。ある意味ではそうです。私たちに力があるわけではないから。でも、それを大きく用いてくださる方がおられる。心がでこぼこしている私たちだからこそ、イエスさまの光を受けて輝ける。塩気についても同じです。私たち自身の力で地の塩になっているのではありません。イエスさまの恵みで、私たちは地の塩として用いていただけるのです。
さあ、神さまに愛されている者として、今週も世界に出ていきましょう。そこで頑張って地の塩・世の光になりましょうというのではありません。イエスさまはすでに私たちを「地の塩だ、世の光だ」と言ってくださっています。イエスさまの光をいただいて、イエスさまから塩気をいただいて、人々の只中に行こうではありませんか。そこで主がどのようにして私たちを用いてくださるか、輝かせてくださるか、楽しみにしていきましょう。
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わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)
私たちにいのちの光を与えてくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちをご自身の子として見ていてくださる天の父なる神の愛、
そして、地の塩として、世の光としての歩みを今日もさせてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
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【8/16】
マタイの福音書10章5節〜15節
「福音を託されて」
マタイの福音書の続きを読んでいきましょう。ここまでの箇所でイエスさまは神の国の収穫のために働き手が必要だと言われ、その具体的な一歩として十二弟子を任命されました。そこには漁師もいれば、取税人もいれば、極端な愛国主義者もいた。異なった人々が、イエスさまに呼ばれ、集められ、イエスさまに従う者として一つにされています。イエスさまを信じる者たち、イエスさまに従いたいと願う者たちの集まりに与えられている不思議な一致です。
さて、イエスさまが彼らを伝道旅行に派遣されたというのが今日の場面です。イエスさまの弟子はほかにもたくさんいましたけれども、特にこの12人は「使徒」とも呼ばれます(2節)。これは「遣わされる者」という意味の言葉です。イエスさまは彼らを派遣されました。遣わされた先で彼らが霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すためでした(1節)。つまり、それまでイエスさまがなさってきたことを弟子たちも行うためです。あらゆる病気を癒すなどと、人間にそんなことができるのだろうかと私たちは思います。神の子イエスならまだしも、人間にそんなことができるのだろうか。でも、ここで大切なことは、弟子たちが特別な人になったわけではなく、ポイントは「イエスさまの働きを手伝う」という点にあります。以前、9章35節は以前も出てきた表現の繰り返しになっていて、イエスさまの教えとみわざをまとめていると言いましたけれども、その流れで、それがそのまま弟子たちに託されているということを一連の文脈は表しています。弟子たちにすごい力が与えられたとか、彼らが立派な人になったということではなくて、イエスさまがご自身の働きのために人を用いてくださるということが強調されているわけです。イエスさまが、人を用いてくださる。
<5節〜6節 イスラエルの家の失われた羊たち>
5節、6節、イエスさまはこう言われました。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」異邦人とは、ユダヤ人からみた外国人のことです。サマリア人というのは、ユダヤ人とは犬猿の仲の人たちですね。彼らのところではなく、6節、むしろイスラエル人のところに行きなさいというわけです。
誤解がないようにしたいのですが、聖書はユダヤ人が一番素晴らしい、イスラエルが一番優れていると言っているわけではありません。こういった箇所はユダヤ人の「選民思想」ではないかと誤解されがちですが、そもそも聖書の舞台としてイスラエルが選ばれ、救い主誕生のためにユダヤ人が選ばれたのは、彼らが優れていたからではない、むしろその逆だというのが聖書の説明です(申命記7:7、9:6)。決して優劣の話ではないのです。
誰かを助けるというような救命活動においては、助ける人はまず自分の安全が確保されることが大切です。それと似ていて、まずイスラエルが選ばれたのは、イスラエルだけを救うためではなく、そこから世界へ祝福を流していくためでした。そのためにまずユダヤ人が選ばれ、彼らの歴史という形で聖書は生まれてきました。福音がイスラエルから始まって、世界へ広がっていく。そのためにこそ、今はイスラエルの家の失われた羊たちのところへ行くという段階だという場面ですね。今は何をするべき時なのか。今は何に集中すべき時なのか。イエスさまはそのことを言っています。
そもそも、イエスさまは9章36節で「群衆を見て深くあわれまれ」ました。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからです。その流れであることも押さえておきたいと思います。5節6節は他の民族と比べて優劣をつけている話ではなくて、イエスさまは、今、目の前にいる弱り果てた羊のところへまず行かれるお方だということです。だから弟子たちも、まずはイスラエルの失われた羊のところへ、なのです。しかも、ここまでの話を振り返ると、律法を守れない人々、罪人というレッテルを貼られている人のところにこそイエスさまは来られたと明言しておられました。「私は罪人を招いて救うために来たのです。」というイエスさまのことばを、弟子たちは思い出していたことでしょう(9:13)。こういうイエスさまです。イエスさまは私のところに来ることを最優先してくださる。あなたのところに行くことを最優先してくださるお方です。
<7節 天の御国>
7節には「天の御国」ということばが出てきます。他の福音書でよく使われる「神の国」と同じ意味です。ここでいう「国」とは、私たちが普通に考える領土のこと、場所のことではありません。神さまが王として支配しておられること、神さまの統治そのもののことです。名詞と言うよりも動詞的な意味が強い。神さまが支配しておられる場所というよりも、神さまが支配しておられる、統治しておられる、そして、その神さまご自身が共にいてくださる、そのような現実を神の国と言っています。ですから、神の国は「死んだ後に行く天国」のことだけではありません。神さまが王として支配しておられるという現実は、今この世界にも現れています。
「天の御国が近づいた」、これは不思議な表現です。どういうことでしょうか。それは、神さまが王として支配される時が、今、目の前に来たということです。なぜなら、王であるイエスさまご自身が来られたからです。イエスさまの公生涯の第一声は天の御国についてのことでした(4:17)。神の国が始まっているということ、それこそが良い知らだった。「福音」とは良い知らせ、Good Newsという意味のことばですが、何が良い知らせかといえば、それは「天の御国が近づいた」という内容なんです。
ただし、神の国はすべてが完成したわけではありません。神の国はすでに始まっているけれども、まだ完成していない。私たちはその「すでに」と「いまだ」の間を生きています。いまだ悩みや苦しみは多いけれども、それでも神の国がやがて完成することに希望を置いて歩み続けることができる。その希望はあやふやなものではない、確かなものです。すでに神の国は来ているからです。その知らせを「福音」と呼びます。弟子たちはその知らせを託されました。
<8節 御国のしるし>
8節には「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。」とあります。繰り返しになりますが、これはイエスさまがしておられたことです。死人を生き返らせるということすらイエスさまはなさっていたわけです。会堂司の娘ですね(9:25)。福音書には、私たちが簡単には受け入れられないほど大きな内容のことが書かれています。病気が癒やされるだけでなく、死んだ人が生き返るとは。しかしイエスさまは、それも神の国のしるしとして示されたのです。そのしるしが、弟子たちに任される。イエスさまは、ご自分がなさっていたこと、神の国の証を弟子たちにも担わせておられるのです。
では、私たちは、イエスさまから何を託されているのでしょうか。イエスさまが来られたことで神の国が始まったのだという良い知らせのために、私たちに託されていることは何でしょう。私たちは何をもって「天の御国が近づいた」ことを証しするのでしょう。自分に任されていること、自分に託されていることを、祈りつつ思い巡らせたいのです。8節の後半にはこうあります。「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」神さまから与えられている恵みを、神さまの働きのために用いていく。世界に仕えるために、人々に神の国の福音を伝えるために、それを用いていくものでありたいのです。
<9節 与え合う>
9節からは具体的な指示が続きます。胴巻にお金を入れて行ってはならない。昔の人は腹巻きを財布がわりにしましたが、そこにお金を入れて行ってはならないというわけです。弟子たちは困惑したと思います。これはどういうことでしょうか。ヒントは10節後半〜11節にあります。「働く者が食べ物を得るのは当然だからです。どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。」つまり、自分で必要を何とかしてから宣教に行きなさいということではなく、神さまから遣わされたのなら、そのまま行きなさいということ。行けば、その働きを受け入れてくれる人を通して神さまが養ってくださるということですね。自分で金銭的な用意をせずに、人のお世話になりなさいというのは、私たちにはちょっと考えられない内容です。私たちの感覚では、伝道に行くなら、まず自分で必要のために用意をして、できるだけ人に迷惑をかけにようにと考えます。しかし、ここでは、イエスさまはむしろ「あれこれ用意していくな。受け入れてくれる人の世話になりなさい。」と言っているわけです。山上の説教で語られていた、空の鳥を見なさい、野の花を見なさいという教えを思い出します(マタイ6:26-34)。
9節以降のこの話は、単に「貧しく生きなさい」という話ではなくて、人に迷惑をかけることに無頓着であってもいいという話でもなくて、弟子が受け取ることも宣教の一部になっているという構図です。10節にある「働く者が食べ物を得るのは当然」というのも、あなたがたは報酬を要求しなさいということよりは、「神の国の働きのために遣わされた者を、その働きを受け入れた人々が支えるのは自然なことだ。」という話です。弟子たちは神さまからただで受けたものをただで与える。そして、それを受け取った人々もまた、弟子たちを自分たちの家に迎え入れ、必要なものを与えるのです。弟子たちは神から受けた恵みを人に与え、受け入れた人々もまた、その恵みに応えて弟子たちを支える。神の国では、すべてを自分で用意して、自分の力だけで生きるのではありません。神から受け、そして人に与える。人から受け、また人に与える。互いに受け取り合い、与え合う。神の国はそのような世界です。
<12節〜14節 平和を祈る>
12節では、「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」とあります。ヘブル語で「シャローム」という挨拶には平安とか平和という意味があります。単なる挨拶ではなく、神さまによる平和を祈る挨拶です。
13節も合わせて読むと、その家がふさわしければ、祈った平和がその家にとどまり、ふさわしくなければ、その平和は弟子たちのもとに戻ってくる、とあります。先ほどの「ただで受けたのだから、ただで与える」「互いに受け取り、与え合う」という話とも響き合っています。私たちはキリストの平和をいただいています(コロサイ3:15)。だから、それを人に与えるのです。その人の平和のために、平安のために祈るのです。
もちろん、平安を祈る挨拶そのものに魔法のような力があるというような話ではありません。その人の平和を願い、神さまの平和がその人に与えられるように祈る。そして、その平和を受け取るかどうかは、その人に委ねられているということ。ふさわしいかどうか、これも優劣の話ではなくて、その人が神の平和を受け取るのならそうなるし、受け取らないのならそうならないというフラットな表現です。受け取るかどうかは、その人に委ねられているのです。
だから、弟子たちのなすべきことは、平和を祈り、神の国の福音を伝えるところまでです。それを受け取るかどうかまで、弟子たちが背負う必要はないのです。そのことは14節にもあきらかです。「足のちりを払い落とす」とは、相手を呪う仕草ではなく、自分のなすべきことははここまでだ、ということを示す行為です。福音を受け取るように強制することはできない。だから、拒まれたなら、足のちりを払い落として、次の町へと進むのです。そのようにしてイエスさまは、福音を町から町へ届けてきなさいと弟子たちを派遣されたのですね。
<15節>
さてここで、唐突にソドムとゴモラが出てきます。神さまのさばきにあった町の代表例です(創世記18:16-29)。神の国の知らせを受け取らないのなら、彼らよりも厳しいさばきにあうというわけですが、創世記を読めば、ソドムとゴモラがどのような罪によってさばかれたのかが分かります。それと、ここで福音を拒む町とは状況が違いますので、イエスさまは、単純に「そういう人たちはソドムの人々より悪い」と言っているのではなさそうです。単純な比較ではなさそうです。
イエスさまは、あえてソドムとゴモラという最も強烈な例を持ち出して、福音を聞くということが、それほど重大な出来事なのだと強調しておられるようです。山上の説教にも、イエスさま流の極端な例の用い方はたくさんありましたよね。ここでも、ソドムとゴモラに匹敵する罪深さというよりは、福音を受け取るか受け取らないかの重大性について言っておられるのだと思います。それはかつてないほど重大なことなのだ、ということですね。
神の恵みはただで与えられるものです。しかし、それはどうでもよいという意味ではない。むしろ、ただで与えられる恵みだからこそ、それを受け取るか、拒むかという応答には重大な意味がある。天の御国の福音を受け取るか、拒むかということは、決してどうでもよいことではないのです。
その上で、相手がどうするかを、伝える側(弟子側)が背負う必要はありません。これも重要な点です。そうでないと、人の熱心で、人の熱心を押し付けることになります。私たちは自分の考えを押しつけるのではなく、神の国の福音を伝えるのだ、神の平和を祈るのだという自覚が必要です。
<私たちを遣わされる主>
このようにして、イエスさまは十二弟子を遣わされました。イエスさまは私たちをも遣わされます。神の国の到来を告げ知らせる働きを、私たちにも担わせてくださる。むしろ、主と同じことをさせてくださる。ここに書いてあることのうち、どれが自分にはできるかというよりも、すでに自分に与えられている賜物をどのように用いて、イエスさまの働きに参与できるかを考えたいのです。「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」と主は言われます。主のお手伝いのために、天の御国の福音のために託されているものは何でしょう。
すでにお伝えしたように、私は10月に開かれる市民コンサートに出演することになりました。せっかく日曜日に同じ建物内で開かれているのだから、時間の都合がつくのであれば、ぜひ一般の人たちの前で賛美歌を歌ってきたい。ここに教会があることをアピールしたい。神の国の福音を信じて生きている人たちがここにいますよとアピールしたいと思い、エントリーしたら道が開かれました。自分なりに経験を積んできた音楽を用いて、イエスさまから遣わされていく出来事だと捉えています。ぜひお祈りください。
これは一つの例です。私たちは一人ひとりが、すでに主から遣わされています。イエスさまから遣わされて、今の場にいるのです。そこで何をすべきなのか。主が福音のために託してくださっているものは何か、主が任せてくださっていることは何か。私たちは、何を持って天の御国の福音を知らせるのか。考え続けていきましょう。そして、遣わしてくださるイエスさまの祝福を信じて、一歩を踏み出していこうではありませんか。
ーーー
「良い知らせを伝える人の足は、/山々の上にあって、なんと美しいことか。/平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、/救いを告げ知らせ、/「あなたの神は王であられる」と/シオンに言う人の足は。」(イザヤ52:7)
私たちを、ご自身のみわざに参加させてくださる主イエス・キリストの恵みと
私たち一人ひとりに賜物を与えてくださっている父なる神の愛、
そして御国の福音のためにできることを教えて踏み出させてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
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