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​礼拝メッセージ
 
20220925(使徒3:1〜8)奇跡
00:00 / 34:29

​【9/25】

使徒3:1〜8
「奇跡」

使徒の働きを読み進めていきましょう。一、二章では、イエスさまが天に昇られてから弟子たちに聖霊が注がれ、教会が誕生した様子を見てきました。彼らは「キリストの証人」として歩み出したのでした(使徒1:8)。

 

<いつも通りの行動が用いられる>
さて、三章です。ペテロとヨハネは神殿に出かけていきました。それは午後三時ごろ、祈りの時間でした。神殿では一日に何回か、このような祈りの時間が設けられていて、多くの人が集まっていました。多くの人が集まる場所で福音を伝えたいと意気込んで出かけていったというよりは、彼らも祈るために出かけていったのだと思います。そこで神さまの出来事が起こった。私たちが礼拝を続ける中で、礼拝の生活を続ける中で、神さまは奇跡を起こしてくださるということだと思います。

さて、そこに生まれつき足の不自由な人が運ばれてきました。足が不自由なので働けないこの人は、宮に入る人たちから何かしら施しを受けるために、毎日「美しの門」と呼ばれる門のところに置いてもらっていた、というのです。

ここを読んで思い出したのは、屋根を剥がしてイエスさまのところにつり降ろされた中風の人です(マタイ9:1-8)。彼は友人たちに連れてきてもらいました。むしろ友人たちが彼を連れてきた。イエスさまは「彼らの」、つまり友人たちの信仰を見て、その人を癒されました。今日のこの箇所でも、神殿の美しの門のところまで連れてきてくれた人たちがいた。カペナウムでの出来事と違って、彼らには「イエスさまに会いに行こう」もしくは「イエスの弟子たちに会いに行こう」という信仰はなく、ただいつもの通りに、この足の不自由な人を運んでやったというだけだったとは思います。しかし、この足の不自由な人が自分の力ではここに来られなかったという点は同じです。人が神と出会うために、人が神の奇跡を体験するために、別の人たちの行動が用いられるということです。意識的にせよ、無意識的にせよ、です。私たちの行動を、神さまの出来事のために、誰かのために用いてくださいと祈りたいと思います。

<私たちを見なさい>
さて、この足の不自由な人はいつもと同じように、ペテロとヨハネからも施しを求めました。ペテロとヨハネは彼を見つめて「私たちを見なさい。」と言い、彼は二人に目を注ぎます。ここでペテロとヨハネはイエスさまの代理として、イエスさまの名前の権威で奇跡を行うわけです。その意味では、ペテロとヨハネが「私たちを見なさい。」と言ったのは、彼らを通して「イエス・キリストを見なさい。神を見なさい。」ということなのでした。

 

ここで二つのことを心に留めたいのですが、まず一つ目は「ペテロとヨハネはイエスさまを代表していた」ということです。私たちはよく、「私のことではなく、イエスさまを見てください」というようなことを言いますよね。ある意味では、大事なことかもしれません。私自身は大したことない罪人ですが、救い主イエスさまを見てくださいということでしょう。しかし、彼らはこう言うんです。「私たちを見なさい。」と。これは自分に自信があるということでしょうか。かなり自信過剰なようにも見えます。しかし、この後で「イエスの名前によって」ということを明言していますし、12節では「私たち自身に力があるのではない」と説明しています。つまり、自分自身はあくまでも器であって、力はイエスさまのものなんだということを大前提としつつ、「私たちを見なさい。」と言うのですね。キリストの弟子たちはキリストをあらわすというのが聖書の言い方なんです。これは恐れ多いと言うか、ちょっと私なんか無理ですと思ってしまうんですけれども、でも、だからこそなんですよね。この罪人の私が救われたんです。この私を救ってくださった方がいるんですということの証なんです、私たちは(Ⅰテモテ 1:16)。私たちは、自分自身が救われた事の証。救われてからもどうしようもない者だけど、こんな私が造り変えられていくんだということの証なんです。私たちを通してイエスさまはご自分を表してくださるんですよ。それは確かなことです。

そして、二つ目は、神さまと私たちがそれぞれに見つめ合う時、神さまの出来事が起こるんだということです。イエスさまと視線があった、イエスさまと見つめ合ったということで思い出すのは、イエスさまが捕らえられた後、大祭司の家で尋問を受けている時に、忍び込んでいたペテロが「私はイエスなど知らない。」と言い切った場面です。ルカの福音書には、イエスさまが振り向いてペテロを見つめられたと書いてあります(ルカ22:61)。その視線はペテロしか知らないはずのものですので、後にペテロがルカに伝えたのだと思いますが、あの時、確かにイエスさまとペテロは視線を交わしている。そして起きた出来事というのは、ペテロが自分の罪に気がつくということでした。足が癒されたというような種類の奇跡ではなかったわけですが、悔い改めというものも、イエスさまの視線を感じつつ、こちらからも主の御顔を仰がなければ与えられないものなんですね。神さまは私たちを見つめておられます。あとはこちらから主を見上げる、主の御顔を仰ぐことが大切なのですね。

<奇跡が起きる>
そして6節、ペテロが口を開きます。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」ペテロは、自分たちを通して聖霊が働かれる、イエスさまの奇跡が起こることを確信していました。そして、この人がいつも施しを受けていたような金貨や銀貨といったお金はないけれども、私たちにあるものをあげようと告げたのです。彼らが持っていたもの、それは「イエスさまが生きておられる証」でした。

そして彼の右手を取って立たせると、たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち上がり、その人は歩き出したのです。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った、と。奇跡が起きたわけですね。

福音書には、イエスさまが奇跡をなさった様子がたくさん描かれています。目の見えない人が見えるようになったり、今日のこの場面のように生まれつき歩けない人が歩けるようになったり。そういった奇跡というのは、ナザレのイエスというこの人が神の子、救い主であることのしるしでした。イエスさまはご自身が救い主であることの証明として、このような奇跡をなさったんです。現代の私たちからすると、そんなことが起こるわけがないという頭で読んでしまうのですが、しかし聖書から奇跡をとってしまうことはできません。イエスさまが処女マリアから生まれたこともそう、十字架にかかって確かに死んだイエスさまがよみがえられたこともそう。イエスさまが救い主であるというしるしのために、奇跡は欠かせないものなんです。先週読んだ使徒の働き2:43にも「多くの不思議としるしが行われていた。」と、奇跡のことが書かれてあります。

しかし、聖書は同時に、奇跡が起きなかった、いやされなかったケースも記しています。分かり易い例がパウロですよね。彼は身体的な弱さを抱えていて、目に関するものだったようですが、それを癒してくださいと何度も祈ったとコリント書に書いてあります(Ⅱコリント12:8)。パウロほどの伝道者ですから、パウロが癒しを経験したらどれほど力になるかと思います。ここでこそ奇跡が起こったほうがいい、奇跡が起こるべき、彼は癒されるべきだと私たちは考えます。しかし、パウロは癒されなかった。彼が癒されることは神さまの御心ではなかった。むしろ、その弱さが用いられていったわけですね。パウロはそれを知って、「私はこの自分の弱さを誇る」と言っています。奇跡はある。しかし、それをなさるのは神だということです。むしろ、あえて奇跡を起こさないことで、なにかをあらわされることもあるのです。すべては神さまがなさることです。

<キリストの証人・代理として>
ところで、今朝の箇所では奇跡をしたのはペテロとヨハネですよね。イエスさまではない。これはどう考えたらいいのでしょうか。

聖霊を受けた弟子たちは、キリストの証人として歩み出していました。キリストの証人とは、イエスさまを体現する者ということです。もちろん、私たちが十字架にかかって死ぬ必要はないのですが、聖霊は私たちをイエスさまに似た者へと成長させます。それは優しくなるとか、穏やかになるとか、そういう内面のことだけじゃない。もちろん、御霊の実は私たちに愛や平安を与えますから、内面も変えられていくのですが、ペテロやヨハネのように奇跡を行うということでもあったんですね。

繰り返しになりますが、彼らは自分の力で奇跡をおこなったのではありません。ペテロが明言しているように、「イエスの名」、イエスさまの名前に力がありました。先ほど、「私たちを見なさい。」というペテロのことばはつまり「主イエスを見なさい。」という意味だったということを見ましたが、彼らが奇跡をするんじゃなくて、イエスさまの御名がそうさせたわけです。12節にはこうあります。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」奇跡をなさるのは神さまです。神さまが、イエスの証人たちを用いて奇跡をなさるのだということです。

<奇跡とは>
今も、奇跡は起こっています。中には奇跡に見せかけたいかがわしいものもあるので、見極めなければなりませんが、奇跡はあります。最近、お医者さんもびっくりするような経緯で、癌が消えたという証を読みました。イエスが主であるという証のために、神さまの栄光のために、奇跡は起こるんですね。それは何と驚くべきことに、私たちを通してなされることもある。私たちを通してイエスの御名が働かれることがあるんだということです。

「癒し」ということで言えば、基本的には神さまは医療や薬を用いて私たちを癒してくださるのだと思います。だから私たちは病気になったら、基本的にはまず医者に診てもらうわけですよね。ある意味では、医療が施されて、薬が効く、病が治る、それ自体が奇跡的なことなのだと思います。人の体って不思議です。病が癒され回復していくことって不思議で、よく考えたら、それ自体が奇跡なんだと思います。

でも、医療というものに収まらない奇跡というものもまた確かにある。先ほどの癌が消えたという話などは、医療によって人の体に起こる奇跡の範疇を超えているわけです。私たちの理解を超えた、まさに奇跡です。私たちは自然を超えた存在、超自然な存在である神を信じています。しかも、聖書が証する神は自然を造られた側のお方です。この方は奇跡をなさるお方なんですよ。なさるか、なさらないかは神さま次第ですが、奇跡はあるということを私たちは忘れがちかもしれません。私たちは、今も神さまの奇跡を信じて、それを求めて祈っていいんです。

<神さまに導かれる出来事>
ただ、奇跡は単なるイベントではありません。奇跡はそれ単体で取り扱って「すごい」で終わるのではなく、それに付随して神さまの栄光があらわされていたり、福音が力強く証されていくなど、必ず意味があります。使徒の働きの奇跡の話はみんなそうなってます。今回のこの奇跡も、その後にペテロの説教が続きました。その結果、また大勢の人がイエスさまを信じました。またそれだけでなく、何とペテロとヨハネが捕まるという出来事にもつながっていく。それは一見とんでもないことだったのですが、そこで彼らが力強く証をし、だからこそまた福音が広がっていくということにつながっていきます。奇跡も含めて、神さまのなさる出来事、神さまが私たちを導かれる出来事って、神さまの栄光のために、イエスさまが主であり救い主であるということの証のためにどんどんつながっていくんだなぁ、ということも思わされます。いろんな出来事が、奇跡を含めて、奇跡が起こらないということも含めて、神さまの栄光のために、主イエスが主であり救い主出るということの証のために、どんどんつながっていくんですよね。奇跡を含めて、奇跡が起こらないということも含めて、いろんなことが神さまの栄光のために起きてくる。ペテロやヨハネが礼拝のために宮に出かけていったことや、また人々がこの人をいつも通りに連れてきてやったということ、そういういつも通りの、普段の生活を、いつもの出来事を、神さまが用いてくださる。そして、いろんなことが起こってくる。

丁寧に日々の生活を送りたいと思います。イエスさまの名前のゆえに奇跡が起こったとき、その奇跡に私たち自身が用いられた時には、恐れずにそれを受け取りたいと思います。逆に、派手な、目を引くような奇跡が起きなかったとしても、そのこと自体にきっと意味がある。癒されなかったパウロが大きく用いられていったように、神さまのご計画がきっとある。そのことを受け取っていきたいと思います。どちらにせよ、私たちはイエスさまの証人として、この身を、この人生を用いていただけるのです。その方法は神さまにお任せしていきましょう。

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【9/18】

使徒2:41〜47

「教会の誕生」

使徒の働きを読んでいます。ペンテコステの日に聖霊が降り、ペテロは力強く、徹頭徹尾イエスさまのことについて、その十字架による死と復活について語りました。その結果、「私たちはどうしたらいいのでしょう。」と応答する人々があらわれました。神のことばを聞いて、それに応答するのが信仰です。自らの道ではなく、神のことばに示された方向へ向きを変えて歩み出すことが悔い改めです。ペテロは、悔い改めてバプテスマを受け、聖霊を受けるようにと勧めます。バプテスマ(洗礼)という儀式によって聖霊を受けるのではなく、悔い改めて主イエスの福音を信じることで聖霊を受けるのですが、彼らにとっては信じることとバプテスマを受けるということは同時のことだったので、このように言われています。その続きからです。

<41節>
「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。」信じることとバプテスマ(洗礼)を受けることが同じタイミングなんですね。洗礼という儀式を受けることそのものよりも、イエスさまを救い主として信じることが大切なのですが、洗礼もまた大切なんです。信じた後にも、洗礼に至るまでは時間がかかるケースというのはよくあると思いますし、個別の事情は一つ一つが大切なものです。信じた方、信じている方が洗礼を受けることには、神さまの最善の導きやタイミングがあります。ケースバイケース。その上で、洗礼の大切さを今一度確認したいのです。

バプテスマというのは、「沈める」というギリシャ語(バプティゾー)から来ています。水の中に沈められることで、イエスさまと一緒に死に、そこから引き上げられることでイエスさまと一緒によみがえることを象徴しています。それは出エジプトの出来事とも重なっています。エジプトの奴隷だったイスラエルの民が、紅海をくぐって約束の地への旅を歩み出していったように、罪の奴隷だった私たちは、洗礼の水をくぐって信仰の道を歩み出すのです。洗礼はゴールではなくスタートと言われる所以です。「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。」洗礼を受けることを願っている方がおられるなら、一緒に祈っていきましょう。洗礼は大切なものです。求めていこうではありませんか。

 

「その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」エルサレムの神殿には、人々が礼拝を捧げる前に身を清めるために使われた沐浴槽がたくさん発掘されています。十二弟子だけでなく、聖霊を受けた120人の弟子たちが総出で洗礼を授けたことと思います。旧約聖書には神のことばに従わなかった三千人が神さまに打たれる事件があったのですが、今日の箇所はそのことと対になっていると思います(出エジプト32:28)。神さまに背くしかない民を、私たちを、神さまはいやしてくださる。回復させてくださるということです。

「仲間に加えられた。」キリスト教信仰は神さまと私の一対一だとよく言われますし、その通りだと思います。しかし「教会」という場所が与えられていることもまた事実です。信仰の仲間、兄弟姉妹と祈り合い、励まし合って歩んでいくことができるのです。これは矛盾ではなくて、神さまとの一対一の関係が確立した、自立した人同士で交わりができる。祈り合い、支え合うことができるのですね。これが信仰の醍醐味です。

<42節>
「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」この時代、人々は使徒たちを通して、イエスさまのことばに触れていました。その教えは後々、「新約聖書」としてまとめられていくことになります。そして、彼らが大切にしていたのは「教え」だけではありませんでした。「交わり」と「食事(聖餐式)」と「祈り」も絶やさなかったのです。

まず「交わり」ですけれども、先ほども言ったように、信仰は一人で守れるものではありません。交わりが必要です。イエスさまがへりくだって人間にまでなってくださったように、私たちもへりくだってお互いに交わる、交流するのです。自分が正しい、自分の信仰が一番と思っていたら交わりはできません。「へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」とあるように(ピリピ2:3)、人との交わりこそ信仰が試される場所なのです。

「パンを裂く」というのは、まずは食事の交わり、愛餐会です。中東の文化において、食事を共にするということには大きな意味がありました。関西集会でも礼拝後の食事の交わりを大切にしてきましたよね。コロナ禍にあっては机を対面にすることも、状況によっては食事自体を止めた時期もありましたが、早くこれを再開したいと願っています。

また、パンを裂くということには聖餐式という意味もありました。聖餐式とは、イエスさまが十字架にかかられる前夜に「これはわたしの肉です」「わたしの血です」と言って、イエスさまの十字架の死を記念するためにこれを守り行うようにと言われたものですね。2000年経った今も、私たち教会はこの聖餐式を守っています。

そして「祈る」ということ。祈りは神さまとの対話と言われます。また、一番わかりやすい信仰の鍛錬の方法だと言われます。祈りとは、神さまを呼ぶことです(創世記4:26)。神さまを呼んでいますか?神さまに申し上げ、そして神さまの声を聞いていますか?祈りを絶やしてはなりません。「絶えず祈りなさい」というみことばがありますが(Ⅰテサロニケ5:17)、これは24時間祈りに専念するという意味でないことは明らかですよね。それでは死んでしまうわけで。私たちは文字通り祈る時間を確保しつつ、それ以外の時間、他のことをしていても、それ自体が祈りになっていくような、仕事や家事が神との対話に昇華していくような、そのような祈り手でありたいと思います。初代教会の彼らの姿勢に教えられます。

<43節>
「すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。」恐れというと、ネガティブな否定的な響きがするものですが、実は信仰と恐れは切ってもきれない関係にあります。「神は愛」なのですし、恐れなどということばは目にしたくないと思うものなのですが、例えば詩篇には「神への恐れ」がたくさん出てきます。健全な恐れです。「畏れ」という漢字の方がイメージしやすいかもしれません(聖書の原語では「恐れ」も「畏れ」も区別されていないということで、新改訳聖書では「恐れ」に統一されています)。神さまは愛のお方であり、私をこのまま愛してくださっているお方なのですが、創造主と被造物の違い、神と人との違いを思うと、その圧倒的な存在感(臨在)の前に恐ろしさを感じるというのは正常な感覚だと思います。健全な恐れの意識を保ちつつ、そのお方が私を愛してくださっているという事実に、改めて驚かされていきましょう。

「不思議としるし」とは、しるしとしての奇跡のことです。続く使徒の働き三章では、ペテロとヨハネが、生まれつき歩けない人の足をいやしています。イエスさまがなさっていた奇跡が引き継がれているのです(使徒2:22)。イエスさまの働きを引き継いだのが弟子たちであり、教会だったわけです。注意しなければならないことは、これは弟子たち自身に何か力が宿ったということではありません。彼らには何もありません。しかし、「イエスの御名」に力がありました。これは来週詳しく見ていきましょう。

<44節〜45節>
「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。」

これはある意味では共産的な生活なのですが、いわゆる共産主義とは違って政府の介入ではなく、信徒たちの自発的な献げものによります。「それぞれの必要に応じて」ともあるように、それを画一的に分配してみなを平等にするという共産主義的、社会主義的な状況ではないですね。

聖書は単に富を否定したりはしていません。お金は必要なものです。イエスさまのたとえ話にも経済の話が出てくるくらいですから(マタイ25:14-30)。しかし、金持ちが天の国に入るのは難しいという話もありました(同19:23)。人は神と富の両方に仕えることはできない、ともあります(同6:24)。旧約聖書の箴言に「貧しさも豊かさも与えず、定められた分の食料で私を養ってください」というような箇所があるよう(箴言30:7-9)に、過度の富ではなく、必要な分で満足する心でありたいと思います。そうした時に、これはあの人のために使ってもらおうという心が起きてくるものだと思います。もっとも、彼らは余剰があるから誰かを助けてあげられたというよりも、自発的にささげていったのでした。そうやって集まったものが、それぞれの必要に応じて分けられていきました。交わりのことを「コイノニア」と言いますが、それは霊的・信仰的な分かち合いのことだけでなく、生活を共有していく意味も含まれていました。42節に「交わり」とありましたが、信仰の励まし合いだけでなく、彼らは生活自体も共有していたのですね。

もっとも、初代教会もいつまでもこの形であったかというとそうではなく、五章や六章あたりから、すべてを共有する共産的なあり方は限界を迎えていきます。しかし、交わりの精神、コイノニアの精神は引き継がれていきました。私たちもこのコイノニアの精神を大切にしたいと思います。今は共同体よりも個々人が大切にされる時代で、そこには意味もあると思いますが、このようなコイノニアの精神を忘れずにいたいと思います。お金が絡んでくると難しいことも多いですが、電話で祈り合うために時間を取り分ける、時間を捧げるということもできますし、誰かが困っていたら差し入れを届けるということもありますよね。今回、我が家が隔離生活に入った時に差し入れを申し出てくださった方々には本当に感謝しています。

<46〜47節>
「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」

宮に集まるというのは神殿に集まるということですね。毎日神殿に集まって礼拝をささげていました。そしてそれぞれの家では聖餐式や食事の交わりがなされ、神が賛美されました。賛美の歌を歌うということでもあったでしょう。しかし、先ほどの「絶えず祈る」ということと同様で、あらゆることを通して神が賛美されていったのだと思います。食事の席で、神さまの素晴らしさが語り合われ、神さまへの感謝が分かち合われていったのではないでしょうか。

そのような生き方は他の人たちからも好意を持たれるものでした。よかったこと、感謝なことに着目して神さまを賛美する。嫌なことがあったとしても、ただの不平に終わらずに、そこからまた神への祈りが生まれてくる。あの人たちはいつもそうやって感謝している、その感謝を分かち合って共に喜んでいると周囲の人に思ってもらえるなら、これほど力強い証はないでしょう。彼らの交わりはそういう交わり、そういうコイノニアになっていたのです。イエスさまは「互いに愛し合いなさい。」ということばに続けてこう言われました。「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:35)このみことばが、私たちの上にもなりますように。

「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」教会はこのようにして成長していきました。教会成長のための大きなプログラムがあったとか、伝道集会を繰り返したわけではありません。ただ、それぞれの家で、日々、真実な交わりがあった。そこに主ご自身が救われる人々を加えてくださったということです。私たちも、まず礼拝を大切にしましょう。そこに真実な交わり、コイノニアが含まれているような礼拝生活、教会生活でありたいと思います。そして、その姿を外に証していこうではありませんか。閉じこもっていては、その姿は外から見えません。人々から好意を得るということも起こりません。「宗教」というものが危険視される現代だからこそ、しっかりと、堂々と信仰の生き方を証したいと思います。名前を変えて社会の中に潜伏する新興宗教のようにではなく、堂々と信仰を提示していきましょう。後は、主がそこに新しい出来事を起こしてくださるのです。

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【9/11】

使徒2:37〜40
「救いを受け取る」

 

使徒の働きの続きを読みましょう。

 

<信仰とは応答>
37節で人々は心を刺され、自分たちは「どうしたらよいでしょうか。」と尋ねています。信仰とは応答です。神のことばへの応答なのです。

たとえば預言者イザヤを思い出します。彼は聖なる神の臨在に触れて、「ああ、私は滅んでしまう。」(以前の訳では、「ああ、私はもうだめだ。」)と言うほどに打ちのめされました。しかし、罪を赦し、「だれが、われわれのために行くだろうか。」という神のことばを聞いたときに、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と応答したのです(イザヤ6:1-8)。また、使徒の働きでこの人々に神のことばを取り次いだペテロ自身にもそのような経験がありました。一晩中網を下ろしても何一つ取れなかったペテロに対して、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」とイエスさまが言われた時、ペテロは「そんなに言うなら」というような態度で、半信半疑で網を下ろしたのでした。おびただしい数の魚が取れて網が破れそうになったのを見て、彼は「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言うことしかできませんでした。しかし、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」というイエスさまのことばに応答し、彼は弟子としてイエスさまに従っていったのです(ルカ5:1-11)。

信仰とは応答です。神のことばへの応答です。聖書に記された文字を読む時に、または聖書を思い起こさせるあらゆる出来事を通して、神さまは語っておられます。その声に耳を塞いではなりません。聞いたまま放置してはなりません。神のことばに応答する時、私たちの生き方は変わることになります。

<悔い改めとは>
さて、神のことばへの応答を決意し、「私たちはどうしたらよいでしょうか。」と問うた人々に対して、ペテロが答えたのは「悔い改めなさい。」ということでした。

悔い改めとは、ただ単に心の中で後悔を覚えることではなく、向きを変えることを意味します。後悔して終わりなのではない。実際に生き方が変わるのです。神さまに助けていただかなければ、不可能なことでしょう。自分の汚れを知ったイザヤの口に、神さまが御使いを通して触れてくださったから、イザヤは立ち上がって応答することができました。イエスさまが「恐れなくてもよい、あなたを人間をとる漁師にする」と言ってくださったからこそ、ペテロはイエスさまに従うことができました。悔い改めとは、神のことばに力を得て、その導く方向へと歩み出すこと。自分の道ではなく、神のことばが指し示す方向へ歩み出すことだと言えるでしょう。

人々はペテロの説教を通して、イエスを十字架につけたのは自分たちであったことに気がつきます。旧約聖書に親しんできた人たちだったので、神がこの世界を造られたこと、人は世界の管理を任され、これに仕えるべきであること、しかし人の罪でその役割は歪み、世界も痛んでしまっていること、いつか神さまはこの世界を新天新地に造りかえることを知っていたはずです。そのために、人の罪を赦してもう一度歩み直しをさせてくださる救い主が来られることも。その方を、自分たちが、この自分が十字架につけたのだと知った彼らに、「悔い改めなさい」という招きが響きました。私たちにとっても同じです。イエス・キリストこそ、私を、この世界を救うお方だと信じ直し、従い直していくのです。何度でもです。

今、神さまから示される罪があるでしょうか。神さまの御思いから外れた言動をしていないでしょうか。弱い人の苦しみを無視したり、程度の差こそあれ、また意識・無意識にかかわらず、嘘や偽りで私腹を肥やしているようなことがないでしょうか。地の塩として、世の光として、恥ずべきことはないでしょうか。もしあったとしたら、何度でも悔い改めていきましょう。何度でも赦しを受け取り、何度でも遣わされていこうではありませんか。

<洗礼・聖霊>
さて、以前の翻訳では「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」となっており、洗礼を受けることが罪の赦しの条件であるかのようなニュアンスになってしまっていました。しかし、新改訳2017では以下のように翻訳が改訂されました。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」罪の赦しは、洗礼を受けることではなく悔い改めることによります。悔い改めて、罪の赦しを得るのです。そのしるしとして、洗礼を受けるのですね。

「そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」私たちはイエスさまを信じた時点で聖霊をお迎えしています(Ⅰコリント12:3)。洗礼を受ける前に聖霊の体験をしたという証もよく聞きますので、洗礼の有無にかかわらず、イエスさまを信じた時点で聖霊は来られるのです。バプテスマを受ける、洗礼を受けるということは彼らにとってはユダヤの宗教社会から公に抜け出ることを意味しましたので、これは「イエスを信じる」ということと同義です。私たちがイエスさまを信じた時に聖霊をお迎えしたように、彼らはバプテスマを受けた時に聖霊をお迎えしたのでした。

私たちのうちには、洗礼の有無にかかわらず、イエスさまを信じているなら聖霊もおられます。古い翻訳では「聖霊を受けるでしょう。」となっていましたが、ここは「聖霊を受けます。」と改められました。ギリシャ語の未来形には、日本語のようなあいまいさのニュアンスはないからです。私たちがイエスさまを信じる時、確かに聖霊も受けるのです。その約束は「あなたがたに、あなたがたの子どもたちに」、つまりユダヤ人と、「遠くにいるすべての人々に」、つまりユダヤ人以外の異邦人ですね。イエスを主と告白するすべての人に聖霊は来てくださるのです。それらの人々は「主が召される人」です。キリストによる救いも、聖霊の約束も、私たちが自分の力で得るものではありません。神さまが召してくださったから、神さまが選び出してくださったからこそのものです。

(ちなみに、聖書による「選び」の教えは、救われた人が自分の救いの経緯を思い出して、それが自分の功績によるのではなく、一方的な恵みとあわれみによったのだと再確認するためのものです。神はすべての人が救われることを望んでおられます。Ⅱペテロ3:9等を参照。)

この約束は私たちにも、今日これを読むあなたにも与えられているんです。だから、悔い改めて、主イエスによる罪の赦しを受け、そして何度でも、聖霊に満たされていこうではないですか。

<救いを受け取る>
ペテロは言います、「この曲がった時代から救われなさい。」時代とは、世代とも訳される言葉です。社会や世の中ということもできるでしょう。私たちも、世の中や時代の常識に捕われています。神を神としない世の中、弱者を虐げて成り立っている世の中であり、私たちもその時代の空気を吸っています。構造的な社会の問題と無関係ではないですよね。でも、ここから立ち上がることができます。神さまから差し伸ばされた手をつかんで、立ち上がることができる。そして、地の塩として、世の光として、「この曲がった時代」の只中で、キリストの証人として生きる道があるのです。それが救いです。一人じゃ何もできないと思うかもしれません、しかし、神さまにできないことはありません。私たちを用いてくださるのは神さまです。お任せして、安心して、救いを受け取っていましょう。あなたは愛されています。あなたには役割がある。この世界に神の国が広がっていくために、神さまは私たち一人一人を用いてくださる。

 

そのためには罪の赦しが必要です。まだ救いがはっきりしないという方は、ぜひ、どうぞ、今日がその日となりますように。

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【9/4】

​詩篇63:1〜3

​「聖所で神を仰ぎ見る」

神よ あなたは私の神。 
私はあなたを切に求めます。 
水のない 衰え果てた乾いた地で 
私のたましいは あなたに渇き 
私の身も あなたをあえぎ求めます。

 

今朝は、詩篇63:1-3から短く分かち合いたいと思います。


「神よ あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。」天地を造られた方が私の神であること、これほど力強いことはありません。世の中には数多くの「神」とされるものがありますが、私たちキリスト教徒、クリスチャンは聖書が証しする神を信じています。統一協会の教えでは、神は不完全で、人間が補ってやらなければならないのだそうですが、聖書が記す神はそうではありません。私たちと共に働かれますが(この世界を人に任せておられる)、不完全だから人間の助けが必要な存在なのではありません。私たちこそ、この方に助けていただかなければ生きていくことはできません。この方に助けを求めていいのです。助けを求めて祈るべきです。

「水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいは あなたに乾き 私の身も あなたをあえぎ求めます。」詩篇63篇には「ダビデがユダの荒野にいたときに」という表題がついています。ユダの荒野とはヨルダン川の西側、死海に近いあたりの荒涼とした地帯のことです。岩山が続いています。国土の7割が岩地、荒野であるイスラエルの地では、意識的に水分を取らないと簡単に熱中症になってしまいます。サウル王から逃れたダビデはユダの荒野を彷徨いましたが、「エン・ゲディ」というオアシスに着いた時にはどれほど嬉しかったことでしょう。

 

夏の暑さで疲れ果て、乾ききってしまった私たちにも水が必要です。聖霊は「生ける水の川」と呼ばれます(ヨハネ7:37-38)。今一度、聖霊の満たしを求めて一人静かに祈りたいと思います。神さまご自身を求めて祈りたいと思います。

 

「私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています。」聖所とはエルサレムの神殿のことです。ダビデは荒野にいます。しかも命を狙われての逃避行です。しかし、ダビデは「今ここで、この聖所であなたを求めます。あなたを仰ぎ見ます。」と言っています。どこであれ、私たちが祈るなら、そこが聖所なのです。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

今、集まって礼拝することもできずに、日々の生活の中で家事に追われ、仕事に追われ、暑さで弱り、または病の床で、「礼拝とは程遠い」自分だと思うことはないでしょうか。むしろ、そんなことすら思い返すこともできないほどに、忙しく、慌ただしい毎日ですよね。でも、そこが聖所になるんです。今、ここで、神への賛美ができるんです。ここで、祈れるんです。ここで礼拝ができるんです。主がよみがえられたことを記念するこの日曜日、主の日に、短くても時間を取り分けて聖別し、心を静めて祈る時を持ちましょう。聖書の御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の満たしを求めていきましょう。

「あなたの恵みは いのちにもまさるゆえ 私の唇は あなたを賛美します。」私たちの口に、神への賛美があふれますように。またお会いできる日を楽しみにしています。

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【8/21】

使徒2:22〜36
「聖霊によってキリストを語る」

 

使徒の働きの続きを読んでいきましょう。ペンテコステの日に聖霊が降ったこと、聖霊に満たされた弟子たちが「外国語としての異言」を語り始めたこと、ペテロはそれをヨエルの預言の成就であると語ったところまでを見てきました。ヨエルが語ったのはイスラエルの回復というテーマでしたが、ペテロがこの「外国語としての異言」をその成就としたことには、イスラエルのみならず全世界の神の民が回復すること、その証しとして聖霊が注がれるというメッセージが重なっています。使徒の働きのテーマは、まさに「地の果てにまで」キリストの証人として出て行くということなのです(2:39、1:8)。

<キリストを語る>
21節までは聖霊の降臨や異言の賜物に関する預言書からの説明でしたが、22節でわざわざ「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。」と語り直していることから、ここからがペテロが一番語りたかった内容であろうことがわかります。その内容は、初めから終わりまでイエス・キリストのことなのでした。イエスさまが十字架にかかって死なれたこと、しかし復活されたこと、そして昇天されたこと、それゆえに聖霊を送ってくださったことをペテロは語りました(22〜35節)。まさに、キリストの証人とされたペテロの姿です。

ペンテコステと聞くと、聖霊に満たされて力を受けるということが強調されがちかもしれません。確かに、「あなたがたは力を受ける」と言われたのであり(1:8)、聖霊が降って不思議なことが起こったわけですから、聖霊によって受ける力や現象に着目する意図もわからなくはありません。しかし、ここでペテロが力を込めて語っていることは徹頭徹尾イエスさまについて、その十字架と復活、昇天についてであって、自分たちに何か力が備わったとか、現象のことではないのです。聖霊は私たちをイエス・キリストの復活の証人として力づけるお方です。聖霊に関して議論をしたり、説明に終始するのではなく、聖霊を受けたからこそ、この身をもってイエスさまを証しする者でありたいと思います。

<十字架の出来事>
イエスさまが来られたことは、神さまの「計画と予知」によるものでした(23節)。神さまは罪で歪んだこの世界を新しくしようと計画しておられます。それが創世記から黙示録に至る聖書の内容です。そのためには、「神のかたち」に造られた私たち一人一人が罪を離れて救われ、義のために生きるようにならなければなりません(創世記1:27、Ⅰペテロ2:24)。それゆえ、神はそのひとり子を十字架につけるために世に引き渡されました。私たちはその方をローマの十字架刑によって殺したのです。

ここでペテロは「あなたがたは」と聴衆に向けて語りかけています。彼らこそ、まさに50日前に「十字架につけろ!」と大騒ぎした人たちだったのです。しかし、すべての人がイエスさまを十字架につけた側であることは言うまでもありません(ローマ3:23)。ペテロもイエスさまを見捨てて逃げたわけですから、ここで「あなたがたは」と言っている表現はつまり、「私たちは」という意味に他なりません。

<キリスト殺し>
ちなみに、このような箇所を理由として、クリスチャンがユダヤ人を迫害してきたという歴史があります。ユダヤ人は「キリスト殺し」の民族として迫害され、そのような考え方がナチス・ドイツのホロコーストを正当化していきました。その結果、今日に至るまでユダヤ人はクリスチャンを警戒してきたのです。これは「全世界に福音を宣べ伝える」ということからしても大きな損失です。十字軍しかり、キリスト教国と言われる国々の侵略の歴史しかり、今を生きるクリスチャンは、キリストのからだとして時代も地域も超えて一つとされている教会の負の歴史を直視し、これが繰り返されていかないようにしなければなりません。キリストを十字架につけたのは「あの人たち」ではなく、「私たち」なのですから。

<キリストの復活>
24節、「しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。」救いの福音とは、「イエスさまが死んでくださった」で終わるものではありません。キリストの十字架ばかり語って復活を語らないということがあってはなりません。キリストはよみがえられました!ペテロはそのことを、ダビデの詩篇を引用しながら語ります。詩篇16:8〜11でダビデは「あなたは 私のたましいをよみにすておかず」と歌っています(使徒2:27は「ハデス」と訳されてきましたが、新改訳2017で「よみ」に統一されました。同じ意味です)。よみとは死者の世界のことです。ダビデは自分の状態がまるで死者の世界にいるような、霊的なスランプを経験したのでしょう。しかし、主は私の魂を引き上げてくださったと喜びの賛美を歌っています。それは同時に、キリスト復活の預言になっており、ペテロはそれを引用しました。イエスさまは、まさに死んでよみに行かれたお方です(使徒信条でも告白されている通りです)。しかし、父なる神はこの方をよみに留めておかず、よみがえらせたのです。

<キリストの再臨>
33節「神の右」というのは、「神の右手」、つまり神の権威の象徴です。イエスさまは昇天されてから神の右の座に着かれました(マルコ16:19、使徒7:56等)。そこで主イエスは父なる神から約束の聖霊をお受けになり、私たちにも注いでくださったとペテロは語ります(聖書には、聖霊が注がれるのは父なる神からという表現と、イエスからという表現の両方があります)。キリストの昇天と聖霊の降臨はセットなのです(ヨハネ16:7)。

34節〜35節は再び詩篇の引用です(110:1)。「主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」これもキリストを指し示す預言になっている詩篇です。「父なる神は、我が主イエス・キリストに仰せられた」という訳です。イエスさまは天に上られ、世の終わりの再臨の時まで神の右の座についておられるお方なんですね。

キリストが天に昇られたということだけでなく、やがて戻って来られるという再臨、つまり終末のことまで含めてペテロが語っていることに注目しましょう。この詩篇は蛇足の様な付け足しではありません。思い出してください、聖霊の降臨は世界の回復と関係があったわけです(2:12〜21)。それは最終的には主の再臨の時に完成します。それまでの間、聖霊を受けた人はキリストの似姿として成長させられながら、この世界の破れを繕う人になっていくのです(Ⅱコリント3:18、マタイ5:13-16)。

<悔い改めに進ませる聖霊>
36節、やがて戻って来られるその方を、あなたがたは(私たちは)十字架につけたのだということの事実を再度突きつけて、ペテロの説教は終わります。私たちが十字架につけたのは、やがて再臨される世界の支配者、王の王だったのです!(もちろん、暴力的な権力者ではありません。羊のために命を捨てる羊飼いとしての王です)私たちの罪がこの方を十字架につけたのだということ、いやむしろ、この方は私たちの罪そのものとして十字架にかかられたのだということを思い返しましょう(Ⅱコリント5:21)。しかし、繰り返しになりますが、そこで止まってはいけません。ペテロの説教には続きがあります(使徒2:38-39)。私たちがイエスさまを十字架につけたというところで終わるのなら、そこには感傷的なな「悔い」しか残りません。しかし、キリストの福音は私たちを「悔い改め」に進ませます。つまり、生き方の向きが変わるのです。そして私たちは聖霊を受け、神のかたちであるキリストに似た者へと成長させられながら(コロサイ3:10)、この世界に仕えつつ、キリストの証人として、主が再び戻って来られるまで歩んでいくことになります。聖霊はそのために来られた助け主なのだということです。聖霊があなたをそのように導いてくださいます。

 

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【8/7】

使徒2:12〜21

「終わりの日々に」

使徒の働きの続きです。ペンテコステの日に聖霊が降り、聖霊に満たされた弟子たちは外国語としての異言を語り始めました。キリストの十字架と復活という神のみわざが多様な言語で語られていったのです。聖霊なる神は、多様な言語、多様なあり方を用いられるお方です。

<神のみわざを嘲る>
さて、弟子たちのこの様子に驚いた人々の中には、彼らは朝からぶどう酒を飲んで酔っ払っているのだと言って嘲る人たちもいました(2:12-13)。ここを読む時に、私たちはこれが聖霊の働きによるものだということを知りながら読むので、弟子たちを嘲った人々のことを軽く見てしまいがちだと思うのですが、私たちにも同じ弱さがあることを忘れてはなりません。聖霊が多種多様な人々を用いられる時、様々な賜物を用いられる時、その出来事をそのまま受け取ることができないで、自分たちの理解に押し込め、簡単にジャッジを下してしまうのです。相手にラベルを貼ったり、簡単にジャッジを下す時、そこには「自分はそうではない」という意識があるわけです。自分を高く置いているのです。しかし、「これはもしかしたら神さまの出来事かもしれない」と、心を柔らかく、低く保ちたいものです。そうでないと、神さまの出来事の波に乗ることはできないでしょう。もっとも、この人たちもペテロの説教を聞き、そのうちの何人かはキリストに出会ったことでしょう(37節〜41節)。神の出来事に気づけたことは、幸いでした。

<ペテロの説教>
さて、ペテロと言えば、イエスさまを知らないと三度も言い放ち、復活のイエスさまに出会った後は、「あなたはわたしを愛していますか?」と問われてもストレートには答えられなかったのでした(ヨハネ21:15-17)。しかし、復活の主イエスに会い、聖霊に満たされて彼は変わりました(ちなみに、使徒の働きには後々、またペテロの弱さが出てきます。成長とは一直線のようなものではなく、行きつ戻りつを繰り返しながらのものです)。

ペテロは声を張り上げて語り出します。このことを知っていただきたい、私のことばに耳を傾けていただきたいとして語り始めたのは、この聖霊の降臨と異言の賜物は、預言者ヨエルによって語られていたことなのだということでした。朝の九時云々というのは、神殿でささげものをする時間だということです。その時間にぶどう酒を飲む人はいない。異言を語っているこの人たちは酔っているのではないということです。では何が起こったというのか。ペテロはヨエルの預言を引用しました。その内容を見ていきましょう。

<ヨエルの預言>
17節「終わりの日に」、これは「終わりの日々に」ということです。ある一点の「ある日、ある時」ではなくて、複数形の「日々」です。具体的には、ペンテコステで始まって、イエスさまが再臨されるまでの間のこと(つまり、現代の私たちが生きている今日この日も「終わりの日々」の一部だということになります)。「終わりの日々」には、すべての人に「わたしの霊」を、これは神さまの霊ですね、つまり聖霊が注がれるということがここで言われています。それまでは、聖霊は預言者など限られた人にだけ注がれていたのが、すべての人に注がれる、そういう時代が来るとヨエルが預言していた。ペンテコステの出来事はその成就なのだというわけです。

「霊を注ぐ」というのは不思議な表現ですが、聖霊が私たちの内側に住んでくださることを言い表しています。つまり「聖霊の満たし」ですね。「注ぐ」という表現は、聖霊が「いのちの水」や「油」にも例えられることも思い出させます。「聖霊によらなければ、誰もイエスを主と告白することはできない」とコリント書に書いてある通り(1コリ12:3)、イエスさまを信じた時に私たちのうちには聖霊が注がれたのです。そして同時に、大切なのは「注がれ続ける」「満たされ続ける」ということです(エペソ5:18)。終わりの日々に聖霊を注がれ、聖霊に満たされた者として、なお、聖霊の満たしを祈り求めていきたいと思います。

<ヨエルの文脈>
さて、ペテロが引用した使徒の働きでの表現と、ヨエルがもともと書いている預言の表現には多少の違いがあります。文章の意味は同じなのですが、ヨエルの文脈はイスラエルのさばきと回復です。ヨエル書を開いてみると、前半は南ユダ王国へのさばきの宣告です(1:15等)。バビロン軍が主の軍として用いられ(2:11)、神の民イスラエルがさばかれるという描写が続きます。これらの「その日」は単数形、明確なピンポイントでの「その日」です。確かにバビロン捕囚は歴史の明確なある時点で起こったわけです。

しかし、ヨエル書は2:12から様子が変わります。「しかし、今でもーー主のことばーー心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」と神さまは招いてくださる。「あなたがたの神、主に立ち返れ」と招いてくださる。2:18〜19「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民を深くあわれまれた。・・・『今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油をあなたがたに送る。あなたがたはそれで満ち足りる。』」と、また、21節「地よ、恐れるな。楽しみ、喜べ。」とのことばが続きます。神さまからさばかれたイスラエルの民がいやされ、回復していく様子が描かれていくのです(2:25-28)。

ペテロが引用した部分は、そういう文脈の中に出てきます。ヨエル書2:28節以降です。ここで言及されている「その日」とは、もはやさばきの日ではなく、いやしと回復のための日です。しかもペテロが引用したように複数形で「その日々」です。主がイスラエルを回復させてくださるその日々には、神の霊がすべての人に注がれる。そこでは「あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る」と。これらの「息子や娘」「老人」「青年」ということばはみな、捕囚で散らされたり、力を失って倒れてしまった人々を表して預言者たちが使った表現です。神さまから離れ、散らされ、倒されて力を失ってしまった人たちが悔い改めて神さまのもとに立ち返り、神さまとの関係が回復されたとき、それらの人々に神の霊が注がれるということが言われています。「夢」や「幻」はここでは預言の賜物、聖霊の賜物のことでしょう。このようにして聖霊が注がれ、イスラエルは回復するというヨエルの文脈です。

<ペテロによる応用>
このように、ヨエルはイスラエルの回復を預言しましたが、ペテロはその文章を使って別の側面からペンテコステの意義を説明しました。使徒の働きに戻りましょう。彼は基本的にはヨエルの文脈を踏襲していますが、しかし「外国語としての異言」を聖霊降臨のしるしとして説明していることからも、ペテロが述べているのはヨエルの文脈とは違う点です。つまり「外国語」ですから、イスラエル以外にも回復の知らせ、聖霊の知らせが広がっていくということが意図されています。「ユダヤ人だけでなく全世界に」、これは使徒の働き全体のテーマです(使徒1:8)。ペテロはヨエルの預言をイスラエルに限定させずに、異邦人も含めた広い意味で引用したのでした。ペテロが使徒2:39で語っているように、「この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに(つまりユダヤ人に)、そして遠くにいるすべての人々に(つまり異邦人に)与えられている」というわけです(ちなみに、これはヨエルの預言が間違っていたという意味ではなく、聖書の預言は重層的に重なって表現されたりしますので、今日は扱いませんが、諸説あるもののイスラエルの回復というテーマそれ自体は健在です)。

使徒2:19、20は何か恐い気もするような箇所ですが、これは終末の預言ですね。ヨエルの文脈にも、イスラエルの回復と終末の預言が重層的に重なっているようなところがありました。20節の「日」は単数形です。ヨエルは「大いなる恐るべき日」として、いつか来る終末のその日のことに触れつつ、聖霊を注がれたイスラエルの人々が主の名を呼び、最終的な回復、つまり救いを得るということを言っているわけですが、ペテロはその文脈を継承しつつ、イスラエルだけでなく、すべての人々が聖霊の注ぎを受け、キリストを信じて主の名を呼び、救われると語ったのです。

イエスさまも言われたように、この世界が終わる時、戦争や様々な天変地異が起こります。世の終わりがいつなのかは知らされていませんが、今が「終わりの日々」であることは確かですし、いつか「その日」も来るのです。それにしても、ヨエルは「大いなる恐るべき日」と言っていましたが、ペテロはこの日を「大いなる輝かしい日」と表現しました。主の再臨は恐ろしい日ではなく、輝かしい日なのだというペテロの熱意が伝わってくるようです。私たちは終わりの日々にいます。天変地異、また戦争のうわさも絶えません。しかし、何が起ころうとも、「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」のです。

<すると彼らは預言する>
最後に、ペテロが意図的に挿入したことばを見て見ましょう。ヨエルの預言にはなく、ペテロが挿入したのは18節の後半の「すると、彼らは預言する。」という部分です。預言というのは未来のことを言い当てることではなくて、「神さまの言葉を預かること」「そしてそれを語り伝えること」です。結果として未来のことを言い当てることもあるでしょうが、どこまでも神さまの言葉を預かり、それを伝えることです。

牧師は礼拝説教をこの意識で語らせていただいています。自分が言いたいことではなくて、神さまが今関西集会をどのように導いておられるかを見極めながら、その週、その週の聖書箇所を愚直に語り続ける。私自身としては語りたくないようなことも、示されたら語らなければならない。それが預言であり、説教です。この務めが守られるよう、私のために祈ってくださると感謝です。

それと同時に、イエスさまを信じて聖霊を受けているお一人お一人にも、神のことばを預かり伝えるという預言の役割があることを思い出しましょう。あなたにも、誰かに神さまのことばを届ける役目があるのです。伝える時には押し付けにならないように、つまりきちんと伝わるように工夫することが大切だと思いますが、私たち一人一人が、生ける神さまの命のみことばの預言者なのだということを自覚しましょう。そのためにも聖霊の満たしを求め続けていきましょう。自分の熱心でやっても空回りするでしょう。預言とは聖霊の賜物です。パウロは異言の賜物も大切だけれども、預言が大事だと言っています。改めて聖霊の満たしを求めましょう。そして、神のことばを預かり伝える者として成長させてくださいと、祈っていきましょう。「主の名を呼ぶ者はみな、救われる」とあります。主のお名前を呼ぶ生き方を、語り伝えていこうではありませんか。

それは、相手を説得するような語り方ではありません。ヘブル語で「ことば」を意味するダーバールには「出来事」という意味もあります。私たちは神のことばを伝えるという時に、身をもって、この自分自身の生き方を通して証しすることが大切です。まさに証びとになるのです。

 

77回目の8月15日を迎えようとしていますが、世の中はあまり変わっていないようです。年月は過ぎ、世紀も変わりましたけれども、世の中には争いが絶えません。ロシアとウクライナしかり、ミャンマーしかり、私たちの社会は破れ、痛んでいます。国の中も問題が山積みです。簡単な解決法などはないのでしょう。だからこそ、私たちは世の中に出て行きましょう。大きなことはできなくても、身の回りの小さなところから、平和をつくる者でありたい。私たちにとっての「地の果て」で、主の名を呼ぶ生き方を証ししていく者でありたい(使徒1:8)。聖霊に助けていただいて、私たち一人一人も、教会も、そのように歩んでいきたいと思います。

<まとめ>
今日は、聖霊降臨の日に、神のなさったことを受け止められずに嘲った人たちがいたこと、そして、あのペテロが立ち上がって語り出しこと、またペテロが引用したヨエルの預言から、全ての人に聖霊が注がれ、回復の道を歩むようになるというペンテコステの意義について学びました。私も、あなたも、今日、この聖霊の恵みの中に置かれていることを感謝しつつ、聖霊に押し出されて、日々の生活に出ていきましょう。そこで主ご自身が、私たちを証びととして用いてくださいます。聖霊はそのために来られたのですから。

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【7/31】
使徒2:5〜11
「多様な言葉で一つのことを」

使徒の二章を読んでいます。ペンテコステ(五旬節)の日に聖霊は来られました。突然に、しかし神さまのご計画の中でのタイミングで聖霊なる神が来られました。大きな響きと火という確かなしるしをもって、つまり明らかに来られた。私たちのうちにも、今も確かにおられます。

<多様な言葉で>
さて、聖霊が来られた時に起こったもう一つの現象がありました。それは4節、「御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」ということ。つまり、異言です。英語では異言のことを「tongue」、つまり「舌」と言います。舌の動きを聖霊にお任せして話すわけです。

聖書には二種類の異言が出てきます。一つは祈りを深めていくための異言、そしてもう一つがこの外国語としての異言でした。ペンテコステの日、聖霊に満たされた弟子たちは、この外国語としての異言を語り始めたのです。当時、エルサレムには祭りのために世界各地に住むユダヤ人が戻ってきていましたが、彼らは、自分の母国語でイエスの弟子たちが話すのを聞いたのです。「・・・」(使徒2:7-11)多種多様な言語でした。それでいて、語られる内容は「イエスの十字架と復活という神のみわざについて」、このことなのでした。この「多種多様な言語でありながら、一つの内容」というのがポイントです。聖霊は、福音を届けるためにバラエティ豊かな、多種多様な言語を用いられます。

これとは対照的に、多様な言語を強制的に一つにしていた、させていた例があります。バラエティ豊かな人々の個性を認めず、言葉を認めずに、権力のある者たちが強制的に一つの言葉を用いさせていた。以前もお話ししましたが、創世記に出てくるバベルの塔です(創世記11:1-9)。11:1に「さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった」とありますが、これは全世界のことというよりも、このバベルの塔が建てられたシンアル(つまりシュメール)の地のことを言っています。ノアの洪水後、全世界の言葉が多種多様に分かれていった様子は10章に詳しく載っています(10:5、10:20、10:31)。多様な言葉があったのです。しかし、シンアルの地の権力者たちは、自分たちの力を誇示するための塔を建てる工事を始めるにあたり、周辺の民族を力でねじ伏せて強制労働に当たらせたのでしょう。言葉がバラバラでは仕事になりませんから、シンアルのことばを話すように強制したのだと思います。

神さまは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われて、人が世界中に散って、そこでこの世界を管理するために、互いに協力していくことを願っておられました(創世記1:28、9:7)。しかし、シンアルの人々は「われわれが地の全面に散らされるといけないから」(11:4)と言って、塔を建て始めた。多種多様な言葉を認めずに、自分たちと違うものを認めずに、一つのあり方を押し通して、押し付けたんですね。その結果は、みなさんもご存知の通りです。

ペンテコステに起こったことというのは、このバベルの塔で起こったことの逆なんです。聖霊は多種多様なあり方で、多種多様な言語で、ご自身のわざを進めていかれるお方です。聖霊によって始まった教会も、本来そういうところのはずなんですよね。私たちのうちに、「こうでなければならない」と、自分のやり方を相手に押し付けるようなことがないでしょうか。私たちの教会は、多様なあり方が認められていく集まりでしょうか。この機会に確認したいと思います。

<聖霊の賜物とキリストのからだ>
さて、よい機会なので「聖霊の賜物」についても見ていきましょう。聖霊は私たちに賜物、ギフトを与えてくださいます。私たちの内に「御霊の実」が実っていくことも聖霊の賜物です。私たちのうちに、神さまからの愛が溢れてくる。神さまが共にいてくださるからこその喜びがあふれてくる。平安があふれてくる。そういったことですね。ちなみに、御霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とありますが(ガラテヤ5:22-23)、これは別々の実ではないんです。御霊の「実」とあるのは単数形です。これらは別々の実ではなくて、こういったいろんな側面のある、いろんな味のするというか、そういう実なんですね。さっきの話ではないですけど、ここにも聖霊の働きの豊かさがあらわれています。

聖書には聖霊の賜物として、他に預言をすることだったり(これは占いのようにして未来を当てるということではなくて、神さまのことばを預かって話すということです)、また、異言を話すということなどがあります。先ほども触れましたが、異言には二種類あって、ペンテコステの日に弟子たちが語りだしたのは外国語としての異言で、これは宣教の賜物です。その言葉で福音が伝えられていきます。そしてもう一つは祈りを深めていくためのもので、自分にも周りの人にも祈っている内容がわからない言葉で祈るという「祈りとしての異言」です(これに関しては、ホームページに私の証が掲載されていますのでご覧ください)。第一コリント書を開くと、ほかにも、信仰の賜物、癒しの賜物などが出てきます。異言はそれらのうちの一つなのであり、これだけが聖霊の賜物でなのではありません。一人一人にはいろんな賜物が与えられていて、協力しあって奉仕していく。仕えていくんです(Ⅰコリント12:4-27)。

私たちはそれぞれ賜物を与えられています。それは生まれ持っての賜物かもしれないし、聖霊によって与えられた賜物かもしれません。生まれ持っての賜物だって、神さまから与えられたものなわけですよね。それらの一つ一つは、「キリストのからだ」と呼ばれる教会の一つの枝なんです。からだの一つ一つの部分なんです。からだにとって、必要のない部分なんてありません。聖霊によって生まれた教会は、様々な賜物が持ち合わされて建て上げられていく、キリストのからだなんです。私たちは様々な賜物を持ち寄って、バラエティ豊かなそれぞれの個性を持ち寄って、教会を建て上げます。バベルの塔ではありません。私たちは、聖霊に導かれながら、キリストのからだを、教会を形作っていくのです。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」(エペソ4:16)

何もできないと思わないでください。多種多様なんですから。「あらゆる節々、あらゆる部分」なんですから。あなたがここにいるというだけが、どれだけこの教会にとって励ましになっていることか。ここに来ることができない方々もおられます、しかしそこで、そのところで一生懸命神さまを見上げているじゃないですか。それはたった一人でも信仰を守り抜くというような立派な生活ではないかもしれなくて、マンネリ化と戦いながらの、ゆっくりとした歩みかもしれません。しかし、それでも、そうやってでも信仰を諦めないで、イエスさまとともに歩むことを諦めないでいる、あなたの存在が、キリストのからだにとって、なくてはならないものなのです。

 

<ペンテコステの意義>
ペンテコステの何が大切かというと、どういう出来事が起こったとか、弟子たちが異言を語り始めたということよりも、そこにあらわされている聖霊がどのようなお方か、私たち教会はそれに倣ってどのようにあるべきか、ここが一番重要です。

聖霊は、とてもバラエティ豊かな働き方をなさるお方です。画一的なお方ではない。私たちにも多様な賜物が与えられていて、私たちはそれらを持ち寄って、多種多様なあり方を持ち寄って、一つのキリストのからだを建て上げ、キリストの復活の証人として世の中に遣わされていくのです。

 

ルカが「よくわかっていただきたい」と書き、イエスさまが「そうやってあなたがたはわたしの証人となる」と語った出来事、聖霊の降臨とは、ただ個人が恵まれていくためということを超えて、教会が建てあげられていくということ、そうやってキリストの復活の福音を広げていくということに他なりません。私たちにも、様々な賜物が与えられています。それらを持ち寄って、互いに仕え合いながら、「教会」を形作っていきましょう。そして、キリストの証人の集まりとして歩み続けてまいりましょう。
 

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【7/24】

使徒2:1〜4

​「確かに来られた聖霊」

今日から、使徒の働きの二章に入ります。イエスさまの昇天を見届けた弟子たちは、イエスさまの言われた通りにエルサレムに留まり、礼拝し、集まって祈りながら、聖霊の約束が実現するのを待ちながら、2:1、五旬節の日を迎えました。初穂の祭りから50日目、つまりイエスさまが死者の中からよみがえられてから50日目のことです。

<突然のこと>
「すると天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡」りました。また、「炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上に止ま」り、「皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた」というのです(1:2-4)。約束の通り、聖霊なる神が来られたのでした。

「突然」とあるように、それは文字通り突然のことでした。聖霊がいつ来られるかということは言われていなかったので、弟子たちはひたすら待ちづけていたのです。しかし、祈られ、礼拝が捧げられていく中で、神さまのご計画は確実に進んでいき、ついに実現したのでした。聖霊が来られる、聖霊が注がれるという預言は旧約聖書の頃からありましたので(エレミヤ書やヨエル書など)、弟子たちが祈り始める前から、聖霊に関する神さまのご計画は進んでいたのですが、弟子たちはその最後のクライマックスのところでご計画の実現に参加できたと言えるでしょう。「突然」現れた神さまのご計画に乗り損ねずに参加していくためには、弟子たちのように祈りや礼拝を続けていくことが大切なのだと思います。そうやってこそ、いざ事が動いた時に、神さまの導きを信じて進んでいけるのだと思います。

<神さまの計画の美しさ>
神さまの約束の実現がいつになるのか、聖霊降臨ということでなくても、それは私たちの関心事です。私たちは生活の中で様々に難しい局面に立たされながらも、聖書のみことばに励まされて歩んでいくわけですが、試練がいつまでなのか、神さまはいつ助けを与えてくださるのか、祈りながら待つのは大変なことですよね。弟子たちが待ち続けた聖霊降臨の実現を振り返ってみると、そこにはみことばの実現の約束を待つ時のヒントがあるように思います。

五旬節というのは、先ほども触れましたように初穂の祭りから50日目に祝われた「七週の祭り」のことです。イエスさまの十字架も、復活も、そして聖霊降臨もすべて「祭り」、つまり礼拝としての祭りに重なっているのです。三つの例を挙げますが、まずイエスさまの十字架の犠牲は、「過越の祭り」で子羊のいけにえがささげられたことと重なっています。過越の祭りは、イスラエルの民を奴隷状態から解放した出エジプトを記念するものです。あの時ほふられた羊の血によって民は守られました(出エジプト12:21-24)。イエスさまの十字架は、まさに私たちを罪から救うためのものだったわけです。

二つ目ですが、イエスさまの復活は「初穂の祭り」の日に起こりました。初穂の祭りは小麦の収穫の初物を神さまにささげる祭りです。初物とはその後に大きな収穫が来る証なんです。イエスさまの復活は「初穂」であったと聖書に記されています(Ⅰコリント15:20)。私たちもいつか復活します。イエスさまが復活されたからですね。イエスさまの復活が初穂の祭りに起こったことは、まことにふさわしいことでした。

そして最後に、そこから50日目の「七週の祭り」に聖霊が降られたということ。七週の祭りは大麦の初穂を神さまにささげる祭りでしたので、聖霊を受けて歩む人たちがこれからたくさん起こされていくという意味で、これもふさわしい日付でした。加えて、この日は出エジプトの時に荒野で律法が与えられたことを記念する日でもあったんですね。律法は神の民に生き方を教えるものでした。その記念日に降られた聖霊もまた、私たちに神の子としての生き方を教えてくださるお方です。

このように振り返ってみると、十字架にしても、復活や聖霊についても、神さまは実に丁寧に昔からご計画を進めて来られた事がわかります。旧約聖書の出来事は、救い主が来られるということ、そして聖霊が来られることの雛形になっていたんですね。そこに重ねるようにして、筋道立ててと言いますか、見事にそれをあらわしてくださいました。

先ほど、みことばの実現を待つ時のヒントと言いましたが、それは聖書が実は暗号になっていて、それが謎解きのような形で実現していくという話ではありません。聖書は内容を細かく裁断して暗号のように読むものではありません。聖書は文脈が大切だからです。神さまがこの世界をつくられてから、やがて新天新地がつくられるまでの大きな文脈の中に、旧約聖書には救い主が来られるという内容、新約聖書には救い主が来られたという内容、そしてその合間を縫って聖霊の約束があり、それが実現していく様子が描かれています。神さまがこの世界をつくりかえてくださるためにあなたを用いられる、そのための聖霊降臨だったのだということです。同じように、私たちもみことばから約束をいただいて、その実現を待ちますが、それがいつ実現するかというのは機械的にランダムに実現していくのではなくて、そこには神さまのご計画がある、神さまが私たちを取り扱ってくださるプロセスがある、その流れの中で、最善の時があるのだという話です。そして、それは後から振り返ってみて分かるものでしょう。

<時にかなって美しい>
神の約束の実現というのは実に「時にかなって美しい」と思わされます(伝道者の書/コヘレトの言葉3:11)。私たちにもみことばによって多くの励ましや約束が与えられていますが、その実現の時がいつなのかはわかりませんし、試練の最中にはそれどころではなく、助けを求めて祈り叫ぶのみです。でも、振り返ってみると、神さまの約束の実現はまさにその時が一番ふさわしかったという事がわかる。今までのことを振り返っても、そうでしたよね。神さまは、天地の基の置かれる前から、私たちの歩みを支えてくださるために、お一人お一人の上に最善のご計画を進めて来られました(エペソ1:4-5)。そのことを改めて感謝するとともに、足元のぬかるみに気落ちしてばかりいないで、上を見上げ、前を向いて、一歩一歩を進んでいきたいと思わされます。やがて、神さまの最善を感謝できる日が必ず来ます。むしろ、先取りで感謝ができるわけです(詩篇103:1-5)。御言葉の約束は、必ず実現するからです。

<聖霊が来られたしるし>
さて、聖霊が降った時に、激しい風のような響きが聞こえ、また弟子たちの上に炎のような舌がとどまるのが見えたとあります。ギリシャ語で「風」は霊や息と同じことばで表現されます。また炎も聖霊の象徴です(「舌」についてはまた次回に触れます)。風の音も炎も、まさに聖霊が来られたことのしるしなのでした。聖霊の降臨は、あいまいな、あやふやなものではなかったということです。聖書の神さまは目には見えませんが、私たちに分かるようにご自身を示されます(ローマ1:20、Ⅰヨハネ1:1-2、など)。聖霊なる神も、激しい風のような響きと火のような舌をもってご自身を表してくださいました。旧約の時代には限られた人、限られた役割のためだけに注がれていた聖霊が、今や、主イエスを信じる全ての人に来てくださるようになりました。しっかりと、はっきりと、確かにそのことを起こしてくださったのです。

今、私たちのうちには、聖霊が住んでおられます(Ⅰコリント3:16、6:19)。劇的な聖霊体験をされた方もおられるでしょうし、それはいつの間にかだったということもあるでしょう。聖霊に満たされて異言を語るようになった人もいれば、聖霊に満たされても異言の賜物は与えられていないという人もいるでしょう(次週以降触れていきますが、異言は教会を建て上げるための賜物の一つですので、異言が与えられていないと聖霊に満たされていないということではありません)。聖霊の体験は人それぞれです。大切なことは、どういう現象が起こったかではなく、しっかりと、はっきりと、今あなたの内に聖霊がおられるということです。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」(同6:19)はっきりと来てくださった聖霊が、今、私たちのうちにもおられる。そのことがあいまいであるならば、今一度、聖霊の満たしを求めましょう。そのことがはっきり分かるようにと祈りながら、聖霊の満たしを求めましょう。決して劇的な体験だけでなく、ある人には静かに、すとんと腑に落ちるようなことかもしれません。劇的なことは何もなく、日常の中でふと受け取らされるのかもしれません。私自身の話をさせていただきますと、私は異言で祈る賜物を与えられた者ですけれども、ふりかえってみると、聖霊体験というのは劇的な一回ではなくてプロセスなんですよね。私は救われているんだ、そしてこの救いを奪い取るものは何もないんだ、そのことが分からされたという時があったんです。腑に落ちたというか。その時の感覚は忘れることができません。それは激しいものではなくて、すとんと腑に落ちるような、そういうことだったんです。聖霊に満たされるときに、それがどういう形で現れてくるか、それは千差万別、人それぞれです。どういう形であれ、私たちが聖霊の内住をはっきりさせられる、この方とともに信仰の旅路を歩み続けていく事ができる、そのことがはっきりされる、ということが大切です。信仰は観念的なものではなくて、神さまとの具体的な関係だからです。「むしろ、聖霊に満たされ(続け)なさい」と、パウロはエペソの「クリスチャンに向けて」、つまりすでに聖霊をうちに宿している人たちに向けて書いています(エペソ5:18)。クリスチャンは聖霊に満たされ「続けて」いくのです。「私を聖霊で満たしてください。そしてあなたの御用のためにお用いください」と、今日も祈りたいと思います。

聖霊なる神さまは、ついに来てくださいました。確かに来られた。この方は私たちの助け主であり、弁護者です(ヨハネ14:16)。私たちをつくり変えてくださる方であり(Ⅱコリント3:18)、私たちの内から溢れ出すいのちの水です(ヨハネ7:37-39)。そして私たちをキリストの証人として、この世の中に遣わされます(使徒1:8)。聖霊の満たしを今日も求めていきましょう!
 

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​【7/17】
使徒の働き1:15b〜26
「御霊による一致を求めつつ」

使徒の働きを読み進めています。先週は暴力を振るう権力者ではない「神の子羊」として、ベタニヤから昇天されたイエスさまを仰ぎ見つつ、聖霊の約束を待った弟子たちのところを読みました。そこに集まっていた120人の人々のように、私たちもイエスさまの約束を信じ、聖霊を待ち望む祈りを捧げていきたい。祈り、喜びをもって礼拝し、この国のために、神の国を来らせ給えと祈りながら、なすべきことをさせていただきたい。今日はその続きです。

<ユダについて>
15節の後半から、ペテロの言葉が始まります。イエスさまを裏切ったイスカリオテのユダが死んでしまったので、十二弟子、つまり使徒の役職に一人補充しようというのです。ここで確認しておきたいのは、イスカリオテのユダはイエスさまを裏切ったのだから死んで当然なのだ、ではないということです。イエスさまを裏切ったのはペテロも一緒。他の弟子たちも一緒です。ペテロは、ユダを断罪するような、あいつは死んで当然だというような口調でこれを言っているのではありません。

ちなみに、開きませんがマタイの福音書27章では、ユダの死に方がちょっと違う表現になっています。あまり細かく想像したくない場面ですが、両方正解なんでしょうね。とにかく、ユダは死んでしまったというわけです。ただ、繰り返しますけれども、ペテロはここでユダを責めているわけではありません。

ペテロとユダの違いはなんだったのでしょうか。二人ともイエスさまを裏切りました。ユダはイエスさまが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を神殿に投げ返して自殺してしまいました(マタイ27:3-5)。ペテロも同じように後悔して大泣きしましたが(同26:75)、彼は後でイエスさまに出会い直すことが出来たんですよね(ヨハネ21:15-17)。ユダも復活のイエスさまに出会うことができれば、どんなに良かったでしょう。十字架にかかる前夜、イエスさまはユダの裏切りを予告した時に、「人の子(イエスさまのこと)を裏切るような人は、生まれてこない方が良かった」と言っておられますが(マタイ26:24)、これは辛辣な断罪の言葉ではなくて、ユダのことをかわいそうに思ってのことだったと私は思っています。ユダも復活のイエスさまに出会うことができれば、どんなに良かったでしょう。

私たちには「ユダはイエスさまを裏切った」という頭があるので、最初からユダに罪人というラベルを貼ってしまう、つまり「自分たちはそうではない」としてしまいやすいと思います。ユダに対してだけではなく、どの人に対してもそうです。あの人は罪人、自分は違うと考えてしまう。しかし、自分もまた同じなのだということをわきまえていたいですね。罪をなかったことにはできません。大目に見てやれということではない。そうではなくて、「自分にも同じ弱さがあることから目を逸らさない」ということです。

<簡単に指をさせない>
さて、このように、「自分にも同じ弱さがあることから目を逸らさない」ということを思う時に、今ちまたを騒がせている統一教会についても考えるのです。「統一教会にも同情すべき」などと言うつもりはありません。キリスト教系の新宗教などと表現されますが、文鮮明が再臨のキリストであるなどという時点で、キリスト教でもなんでもありません。キリストが神であると認めないエホバの証人もそうですが、もはやキリスト教でもなんでもない。そこははっきりしています。一緒にするな、キリスト教のキの字も使ってくれるなという思いは私にもあります。

しかし、私たちも宗教団体として、宗教活動が信者の生活を崩壊させたという点を軽く見逃すわけにはいきません。まさに「他山の石」として、自らの反省材料にしなければならないと思います。私たちはどうかと、絶えず振り返らなければなりません。

例えば献金。私たちも宗教団体ですから、一人一人からの献金で活動が成り立っています。統一教会のように何千万とか一億とか献金させるようなことはありませんが、しかし、本当に強制がないかどうか、常に自分たちのあり方は確認しなければなりません。礼拝献金の袋を回す際に、毎回必ず「これは強制ではない」ことをアナウンスしますけれども、これは毎回のおきまりの表現ではなくて、とても大切なアナウンスなんです。

今回の山上容疑者は、母親が統一教会に過度の献金を続けて家庭が崩壊したと言っています。どんな理由があっても人を殺してはいけませんから、山上容疑者は法律に定められた処罰を受けるべきです。しかし、宗教活動によって家庭生活が崩壊するなど、あってはならないことで、その点では同情いたします。統一教会にではなく、山上容疑者に、です。そして、自分たちの教会でそういうことが起こってはならないと思いを新たにするのです。

ここには一億円もの献金をした方はいらっしゃらないと思いますが、仮にもし、強制されたと思いながら献金しておられる方がおられるなら、献金を停止していただきたいと思います。献金は強制されて行うものではありません。献金は私たちがが身を置くこの団体の活動費として用いられますが、会費ではなく、神さまに対する信仰の応答としてささげるものです。これが強制されることがあってはなりません。

献金の他にも、宗教活動が家庭を崩壊させることは容易に起こります。たとえば、宗教活動に熱心であるあまり、親が子の面倒を見ないなら、その子がどれほど傷つくか。クリスチャン同士で祈り合うために、私たちはお互いの話をよく聞き合いますが、そうやって教会の人の話はよく聞くのに、僕の話は聞いてくれなかった、私の話は聞いてくれなかったというクリスチャン2世、牧師家庭の2世の話はよく聞きます。心が痛みます。

ペテロはユダをただ罪人としてラベリングし、自分は違うと思ったのではなかったでしょう。自分もまた同じ弱さを持っており、同じ過ちを犯し得るということをよくよく痛感していたことと思います。それと同じく私たちも、今回の出来事を「私たちには関係ないカルトの話」として簡単に片付けてしまわないで、自分たちにも同じようなことが起こり得ることを認め、自らのあり方を悔い改めていく機会にしたいと思います。

<使徒の欠けを埋める>
さて、使徒の働きに戻ります。ペテロは「使徒」のうちの欠けた部分を補充しようとします。「使徒」というのは、事の始まりからずっとイエスさまと一緒にいて、イエスさまから直接教えられた人たち。つまり十二弟子のことです。いまや、イエスさまを救い主と信じる生き方、キリスト教信仰の土台となる人たちでした(エペソ2:20)。今現在の私たちにとっても同様で、私たちの信仰は、この使徒たちの教えが伝えられ書き留められた聖書を読むことに拠っています。使徒はキリスト復活の証人であり、教会の土台です。その使徒が一人欠けてしまった。ペテロは詩篇を引用して、十二弟子の欠けたメンバーを補充しようとします。

使徒が十二人というのは、イスラエルの十二部族に関連しています。神の国の雛形であるイスラエルは十二の部族で構成されていたからです。イスラエル十二部族にちなんでイエスさまが選んでくださった使徒を、十二人に揃えることで、「神の国のすでにといまだ」においてもそれを継承しようとしているのです。そのために、まず彼らは祈りました。何をするにもまず祈る。この姿勢に倣いたいと思います。私たちも人生において、また日々の生活の中で、重大な決断をしなければならない時があります。その時に、まず祈るものでありたい。そう思います。

そして、彼らはくじを引きました。くじを引くなんて、なんだか意外に思われるかもしれませんが、これは運頼みとかおみくじを引いて決めるというような意味ではないのです。旧約聖書にはたくさんくじを引いて物事を決めた例が出てきます。イスラエルの民が約束の地に入った時に、部族ごとの割り当て地をくじで決めたり(ヨシュア13:6)、イスラエルの最初の王であったサウルを選ぶ時にもくじが引かれました(Ⅰサムエル10:20-21)。くじを引くという行為には、あてずっぽうで運に任せるというよりも、神さまがすでに決めておられることを知っていくという意味がありました(箴言16:33)。神さまがすでに決めておられることを知っていく、神さまの導きを確かめていくということだったのです。もっとも、聖霊が降られた後にはくじを引いたという話は出てきません。彼らはくじを引くのではなく、祈りと聖霊の満たしの中で神さまの導きを知るようになっていきます。聖霊に満たされる、つまり神さまの臨在の中で、私たちは進むべき道が示されていくのです。

選ばれたのはマッティアでした。もう一人の候補は「バルサバと呼ばれ、別名をユストというヨセフ」という人物で、いろんな呼ばれ方をするということは、いろんな方面で活躍している社交的な人だったでしょうし、とても有能な人だったと思われます。しかし、そのヨセフではなく、マッティアが選ばれました。使徒としての適格性は二人とも同じです。二人とも、イエスさまがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたあの時からずっとイエスさまと一緒に過ごしてきたのであり、イエスさまの復活の証人になるという意味では優劣はありません。この話は優劣の話ではない。ただ、神さまはそれぞれに役割をお任せになったということです。マッティアにはマッティアの、そしてヨセフにはヨセフの役割があったのです。神さまが私たちに与えてくださる役割というのは、人間の目から見て社交的かどうか、有能かどうかということは関係ありません。私たちにも、神さまが決めておられる役割が与えられているのです。

<まとめ>
以上、使徒の働きの一章の後半でした。私たちは、ユダと何も変わらない、イエスさまを裏切ってばかりのものですけれども、しかし、ペテロのように、復活のイエスさまに出会っていたい。自分で自分の罪を清算しようとするのではなく、イエスさまの十字架を仰いで赦しを受け取るものでありたいと思います。

また、簡単に誰かをラベリングして自分は安全だと思い込むのではなく、自分にも同じところがあることを冷静に見つめ、反省していく機会としていくものでありたい。そう願います。

そして、マッティヤやヨセフのように、それぞれに与えられている役割を受け取り、神さまが私たちを用いてくださるその不思議を見させていただきましょう。

次回から、いよいよペンテコステの出来事に入ります。

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【7/10】

​使徒1:12〜15a

「祈り待ち望む」

使徒の働きを読んでいますけれども、前回はイエスさまが天に戻られたこと。その前にご自身が生きておられることや、神の国について、そして聖霊の約束について弟子たちに話されたということ。また、主が確かに再臨されるということも御使いによって伝えられたことを見ました。今日はその続きからです。

<オリーブ山・ベタニヤ>
エルサレムの東側にオリーブ山と呼ばれる丘があります。イエスさまはここから天に昇られました。その名の通りオリーブの木がたくさん植えられている場所で、あのゲッセマネの園もここにありました。イエスさまが十字架にかかる前夜、父なる神さまに向けて血のような汗を流しながら祈られた場所です。園は今も残っていて、樹齢2000年ほどの大木もあります。それらの木はまだ苗木の頃、イエスさまの祈りを聞いていたかもしれません。ちなみにゲッセマネというのは「油絞り」という意味で、まさにオリーブの油が絞られる場所だったわけですが、ここでイエスさまは、自分自身を絞り出すようにして祈られたのですね。オリーブ山とはそういう場所でした。

旧約聖書のゼカリヤ書には、再臨の主がオリーブ山に立つという預言もあります(14:4)。イエスは同じようにまた戻ってこられると、11節で御使いが言った通りですね。

ところで、確かにイエスさまが昇天されたのはオリーブ山なんですけれども、使徒の働きの前半に当たる「ルカの福音書」の最後には、イエスさまが弟子たちをベタニヤ村の近くまで連れていき、そこから昇天されたということが書かれています(ルカ24:50)。ベタニヤはオリーブ山の東側、エルサレムとは反対側の斜面に位置する村です。マルタとマリヤ、そしてラザロの兄弟が住んでいたところで、イエスさまは何回もここを訪れており、エルサレムに来た際には、ここに宿を取りました。実はベタニヤの村というのは伝統的に、祭司がいけにえ用の羊を選別する場所だそうです。ここで選ばれた羊は、エルサレムの羊の門から神殿に運ばれ、そして、いけにえとして捧げられました。イエスさまも、ベタニヤから羊の門(現:ライオン門)を通ってエルサレムに入られた。それは、イエスさまが世の罪を取り除く神の子羊だったからです。そのイエスさまが、昇天のためにまたベタニヤを選ばれました。オリーブ山の反対側をベタニヤそのものまで下って行ったかというと、ちょっとわからないのですが、ルカがあえて「ベタニヤ」と書いていることには意味があると思います。天に昇られたイエスさまは神の右に着座しておられる王の王であるわけですが、ヨハネの黙示録によると、天上のイエスさまもやはり「子羊」と表現されているからです(黙示録19:7,9等)。あくまでも、どこまでも、イエスさまは「神の子羊」なのです。王の王であられる方は、力に物を言わせる王ではない。武力や暴力に物を言わせる王ではない。世の罪のために命を捨てた王なのです。あくまでも、この方は神の子羊なのです。であるならば、オリーブ山のベタニヤから天に昇っていかれたのはふさわしいことでした。

使徒の働きに戻りますが、12節に「安息日に歩くことが許される道のり」とあります。ユダヤ人は「安息日を聖なる日とする」という律法を守るために、安息日には仕事をしない、さらに突き詰めて歩くなら何キロまでということまで定めていました。安息日に歩いてよい距離というのは2000キュビト(約1km)だそうです。オリーブ山はエルサレムに面していますし、まさに2000キュビト範囲内です。ベタニアまで行ってしまうと2000キュビトを超えてしまうので、イエスさまが昇天されたのはベタニヤを目の前に眺める山の斜面だったのでしょう。神の子羊として十字架につかれ、神の子羊として天に昇られた。そのためにベタニヤにこだわったイエスさまでした。

<聖霊を待ち望んで祈る>
さて、弟子たちはオリーブ山の西側斜面をを突っ切って、エルサレムに戻りました。そして13節、「泊まっている屋上の部屋に上が」り、14節、そこでみなで心を合わせて祈ることを始めます。この家は、最後の晩餐がなされた部屋と同じところだったとも言われています。イエスさまが死んで墓に葬られていた間、弟子たちが人々を恐れ、戸を閉めて部屋に閉じこもっていたのもおそらくここでしょう。しかし、復活のイエスさまに出会って彼らは変えられました。イエスさまに出会い、イエスさまが生きていることを示され、神の国のことを教えられ、聖霊の約束を与えられたのです。彼らはイエスさまに言われた通り、聖霊を待ち望んで祈ることを始めたのでした。同じ部屋だったかもしれませんが、もはやかつてのように隠れて沈み込んでいるわけではありません。彼らは復活のイエスさまと出会い、その約束を信じて共に祈るようになりました。祈り会、祈祷会ですね。ルカの福音書の方には、彼らは「大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」とも書かれてあります(ルカ24:52-53)。部屋に閉じこもって祈るだけではなく、宮で、つまり神殿で賛美をささげ、礼拝を捧げていたのです。集まって祈り会をし、宮に出かけては喜びにあふれて祈っていたのです。私たちも、家で祈ります。また、礼拝のために外に出ていきます。どこにいようと、彼らと同じように、復活のイエスさまに出会った喜びであふれていたいと思います。心の中に、イエスさまがよみがえられたことの喜びがありますでしょうか。日々の生活に疲れ切っていて、それどころじゃないかもしれません。だとしたら、なおのこと、聖霊を求めて祈っていきたいですね。

<多様な人々>
13節には弟子たちの名前のリストがあります。「ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。」ヤコブの子ユダというのは、イスカリオテのユダとは別の人です。イスカリオテのユダは死んでしまったので、十二弟子が十一人になっています。そこに一人補充して、十二人に戻そうというのが次の箇所の話になります。

それにしても、この十二弟子というのはバラエティ豊かな人たちでした。漁師もいれば、取税人もいる。熱心党員というのはユダヤ教の過激派ですね。思慮深いタイプの人もいれば、血気盛んなタイプの人もいます。疑い深いタイプの人もいる。また十二弟子以外にも弟子たちはいたわけですが、ここで注目したいのはまず14節の「女たち」ということば。イエスさまに付き従っていた女性たちのことですね。一番初めに復活のイエスさまにお会いしたマグダラのマリアなどがそれに当たります。女性の弟子たちは強かったですよね。イエスさまが十字架にかかった時、男の弟子たちはほとんどが逃げてしまいましたが、彼女らは最後まで見届けたのです。イエスさまのご遺体に香油を塗りに来たのも彼女たちで、そこでイエスさまの復活を知ることができたのでした。また「イエスの母マリア、およびイエスの兄弟たち」とあります。イエスの母マリアのことはよくご存知でしょう。天使のお告げを受けて、聖霊によってイエスさまを身ごもったあのマリアです。そして「イエスの兄弟たち」とあるのは、ヨセフとマリアの間に生まれた、イエスさまの兄弟たちです。彼らは、かつては自分の兄がメシア、救い主だなんて信じられませんでした。マルコの3章には、イエスさまの身内の人たちが連れ戻しに来たという話があります(マルコ3:21)。家族だから、兄弟だから、尚更信じられなかったのだと思います。信じるのが難しい人たちでした。しかし、彼らも復活のイエスさまに出会ったのでしょうね。イエスさまは四十日の間、多くの人々に現れてくださいましたから。そしてついには、信じるのが難しかった人たちも、イエスさまを信じることができたのでした。新約聖書の最後の方に載っている、「ユダの手紙」「ヤコブの手紙」は、それぞれイエスさまの弟のユダとヤコブが書いたようです。後に、ヤコブはエルサレム教会の指導者ともなりました。

こういう人たちが心を合わせ、祈りに専念していました。文字通り、いろんな人が集まっていました。ついには120人ほどになったようです。彼らはタイプもバラバラの、様々な人たちでしたが、同じ喜びにあふれて、祈り、賛美し、礼拝していたのです。私たちの集まり、教会の集まりの原型の一つがここにあります。教会とは、同じような人たちしか集まらないところではなく、多様な人たちが集まりつつ、その喜びを共有している場所なんです。私たちもそういう場所を目指していきたいですね。

<聖霊を待ち望むか、やめたのか>
さて、15節ですけれども、聖霊を待ち望んで祈る人々は120名ほどになっていました。この数は多いと思われますか、それとも少ないと思われるでしょうか?実は第一コリント15:6には、復活のイエスさまが500名ほどの人に現れたと書いてあります。減っているんです。残りの人たちはどこへ行ってしまったのでしょう。イエスさまに出会ったのに、聖霊を待ち望むことをしなかった人たちがいたんですね。残念なことです。イエスさまに出会ったのに、イエスさまの約束を信じなかった人たちがいた。このことは私たちにも問いかけます。私たちは、イエスさまの約束を信じて祈り続ける者でありたい。

<待ち望む力を与えられる>
聖霊を待ち望む彼らの祈りは十日間に及びました。初穂の日、イースターの日から四十日後にイエスさまが昇天され、それからペンテコステまで十日です。この十日間、彼らは集まっては祈ることを続けていたのです。イエスさまが「父の約束を待ちなさい」と言われた、その出来事がいつ起こるのかは誰にもわかりませんでしたが、彼らは信じて祈り続けました。

旧約聖書のヨシュア記で、イスラエルの民がエリコの城壁を崩した時のことを思い出します(ヨシュア6章)。エリコは堅固な城壁に囲まれていて、難攻不落の町だったわけですが、神さまはイスラエルの民に、一日一回、この町の周りを回れとおっしゃいました。神のことばが収められた契約の箱を担ぎながら、一日一回、町の周りを回る。ただそれだけです。これを六日間続ける間、彼らは疑問にも思ったでしょうし、まだ何も起こらないと焦る思いもあったでしょう。しかし、神さまがことを起こされました。神さまの指示通りに、民は七日目には七回周り、そしてときの声を上げました。大声をあげた。するとその時、城壁が崩れ落ちたのです。そして彼らは町に攻め入り、勝利を手にすることができたのでした。

待つことって、結構しんどいですよね。神さまがことを起こされることを信じて待つのは苦しいです。特に、助けてほしいというような、神さまの介入を必要とするときには。だから、ただ漫然と待つのではなく、弟子たちがイエスさまの「ことば」を信じて待ったように、ヨシュアたちが神の「ことば」を担いで歩んだように、神さまのことば、聖書のみことばの約束を信じていくことが大切ですね。聖霊が私たちに、神のことばへの信頼を与えてくださいます。それを求めて祈っていけばいいのです。聖霊が必ずそのように私たちを導いてくださるでしょう。

<元首相銃撃事件と選挙>
さて、今日のメッセージではこのことに触れないわけにはいかないと思います。神のことばは印刷された聖書の中だけでなく、世の中の出来事を通しても語られているからです。一昨日の金曜日、参議院選挙の応援演説をしていた安倍元首相が、白昼堂々狙撃され、殺されるというショッキングな出来事がありました。

今の時代の日本でこういうことが起きるとは。安倍元首相に関しては、その政治の姿勢がどうだったのか、彼が行ってきたことはどうだったのか、賛否両論のある方でした。みなさんも、ご意見をお持ちのことと思います。ところが、どうやらそういった賛否両論は関係なく、恨みによる犯行であったことが明らかになって来ています。

暴力で人の命を奪ってはいけません。たとえ、どんな主張があり、どんな恨みを持っていたとしても、人の命を奪ってはいけないのです。「殺してはならない。」(出エジプト20:13)

しかし他方で、ある意味では安倍元首相の暴力によって亡くなった方もいた。いわば、権力による暴力です。安倍元首相に関連する施設の公式文書を書き換えるように強制されて、自殺してしまった官僚がいました。政府は賠償金を払う形で裁判を強制終了させています。責任は認めてもその詳細は明らかにされないままです。また、原子力発電所の問題にしても、原発で事故が起こりうることは2006年に取りざたされていましたが、彼は「事故は起こり得ない」と断言して何の対策もしなかった。その後、東日本大震災で福島の原発は電源を喪失してメルトダウンしました。その結果故郷を追われて、亡くなった方はたくさんいたわけです。経済政策にしても、大企業ばかりが優遇される時代になってしまった。派遣切りなどという言葉も生まれ、格差社会に押しつぶされて自ら命を断つ人も多かったわけです。

繰り返しますが、暴力で人の命を奪ってはいけないのです。山上容疑者の暴力があり、安倍元首相にも暴力がありました。

そして、直視しなければならないことは、私たちは安倍元首相の暴力に関係しているのです。私たち国民が選挙で彼を選んでいるのですから。

 

私たちは、こういう時代、こういう社会に生きています。(追記:誰が首相になろうが、どこの政党が政権を取ろうが、この権力による暴力は起こり得ます。)私たちはこの社会の暴力性に複雑に絡んでしまっているのです。その、まさにここに、神の国を来らせ給えと祈るのが私たちの責務です。弟子たちが諦めずに祈り続けたように、私たちも、御国を来らせ給え、つまりここに神さまの御心を広げてくださいと、祈り続けなければなりません。暴力ではなく、愛で、しかも神からの愛でお互いに愛し合うという神さまの御心が実現していくように、祈り続けなければなりません。

祈るとは、教会の中だけで、礼拝の中だけで捧げるものではありません。行動の一つ一つが祈りになる。120人の弟子たちが聖霊を求めて祈り続けたように。ヨシュアたちがエリコの町を一歩一歩、歩いて回ったように。また、次回扱いますが、十二弟子の欠けた部分を補充しようという弟子たちの行動もまた祈りであったと言えるでしょう。なすべきことをしていくんです。自分たちがやるべきことを、祈りながらやっていくんです。

今日は参院選挙の日です。今日、特に私たちがやるべきこと、それはもちろん投票です。参議院の任期は六年です。三年毎に半分の入れ替えがあります。今回選ばれた人はこれから六年間、国会の参議院で議員として働く私たちの代表となります。私たちのこの国に、この社会に、神の国が広がっていくように。死ななくてもいい人が死ななくてもいいように、神さまが与えてくださった命が大切にされていく、そういう社会となるように、祈りつつ、きちんと候補者の政策を抑えて、(追記:少しでも権力による暴力がないところを冷静に選び、)投票しましょう。私たちの祈りとして、これを行いましょう。

<まとめ>
今日は、イエスさまが神の子羊として、オリーブ山のベタニア付近から天に昇っていかれたことを振り返りつつ、弟子たちが聖霊を待ち望んで祈り始めたことを見ました。そこに含まれていた一人一人、120人の人々のように、私たちもイエスさまの約束を信じて聖霊を待ち望む祈りを捧げていきたいと思います。神の国を来らせ給えと、祈りながら、なすべきことをさせていただきましょう。

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【7/3】

使徒1:3〜11

「イエス・キリストの昇天」

使徒の働きを読み進めていきましょう。今日は1:3節から11節です。復活されたイエスさまが天に戻られる場面ですけれども、ここで弟子たちに話されたことを、三つに整理してみました。ご自分が生きていること。また、神の国について。そして、聖霊の約束。この三つです。

<ご自分が生きていること>
まず、イエスさまが弟子たちに示されたのは、ご自分が生きておられることでした。「数多くの確かな証拠をもって」示されたとあるように。普通なら信じることのできないことを、丁寧に、証拠を示しながら教えてくださったのです。テモテに手や脇腹の傷跡を見せられたり、ガリラヤ湖で魚を食べて見せたりということがヨハネの福音書にもありましたが(20:27、21:13-14)、ご自分が生きていて幽霊のような存在ではないことをはっきり示し続けてくださったんでしょうね。

「イエスさまが生きておられる。」これってとても大事なことです。「イエスさまが私たちの罪のために死なれた」で終わってしまうならば、それはただの悲劇なんですよね。でも、十字架にかかって死なれたイエスさまが、よみがえられたこと。死を打ち破ってイエスさまが復活されたこと。そこが大切なんです。死がなければ復活もないので、両方大切なんですが、私たちはとかく、「イエスさまが私たちのために死んでくださった」というところで終わってしまいやすいと思います。しかし、イエスさまが復活されたからこそ、私たちにも復活のいのちが与えられるからこそ、私たちはイエスさまとともに歩み、生き方が変えられていくんです。私たちの生き方が変わるのでなければ、信じる意味がないですよ。でも、イエスさまが復活されたことは、その確かな証拠なんです。イエスさまは私たちにも、このことを「数多くの確かな証拠をもって」示してくださいます。丁寧に、何度でも、私たちに示してくださいます。一番大切なことだからです。

<神の国>
そしてまた、イエスさまは「神の国のことを」語られました。「神の国」というのは、神さまが支配しておられるところという意味です。国境線のここからここまでが神の国というような意味ではなくて、神さまが統治しておられるところ、神さまが礼拝されるところ、という言い方もできるでしょう。

神さまはこの世界を造られたお方なので、この世界はすべて神さまの支配下にある、神さまが宇宙の王であるというような表現が詩篇にはよく出てきます(詩篇29:10、33:13-14、47:2)。また、神さまは旧約聖書の歴史、イスラエルの歴史を王として導いて来られました(イザヤ44:6、52:7-10、ミカ2:12-13)。神さまは世界の王であり、歴史の王である。その神の国は、この世の終わりの時に新天新地として完成する、そう聖書には書かれているんですね(イザヤ66:22)。神の国は、この世の終わりの時に新天新地として完成します。そこには死もなく、苦しみもなく(黙示録21:1-5)、弱い人が虐げられることもありません(イザヤ32:15-18)。

「神の国」とは、イエスさまの福音宣教の中心でした。イエスさまが公に活動を始めた時の最初のことばが何であったかというと、それは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というものでした(マタイ4:17)。これは、神の国がもうここに来ているという意味です。イエスさまが来られたことによって、神の国が来たんだというのです。神の国は、この世の終わりの時に完成するんですよね。その意味では「まだ来ていません」。しかし、イエスさまによって「すでに来ている」。イエスさまによって神の国がすでに来たんだ。私たちは、この「神の国のすでにといまだ」の間に生きている。まだ最終的な完成は見ていないけれど、私たちはここで、すでに、神の国の前味を味わいながら、神の国の人間として生きることができるんです。福音書に描かれている、イエスさまがなさったことの一つ一つは、神の国の到来の証明だったんです。イエスさまはこの神の国の知らせ、神の国の福音を私たちに伝えてくださいました。開口一番、神の国が近づいたから、来ているから、だから悔い改めなさいと。そして天に上げられる直前のことの大事な時にも、イエスさまが話されるのは神の国のことについてなのでした。

私たちには、神の国、天の国とは死んでから行くあの世のことだという意識があってそれはある意味では正しいのですが、別の意味では私たちは今、すでに、神の国に生きているんだということも、折りに触れて思い返しましょう。イエスさまは十字架の上で言われました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ2343)私たちは今日、今、すでにパラダイスにいるんだ。神さまと共に生きているんだ。そのことを忘れないでください。

<聖霊の約束>
そして三つ目が、聖霊の約束についてです。これについては4節以降を丁寧に読んでいきたいと思います。

4節「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」聖霊に満たされるためには、エルサレムにとどまることが大切なんですね。エルサレムというのは礼拝の町です。神殿があって、イスラエルの民はそこで礼拝をささげてきました。私たちにとってのエルサレムとはどこか。場所という意味でいうなら、この会議室。時間でいうなら、週に一度、日曜日の午前中。この礼拝がエルサレムです。でも、もっと言うなら、日曜日の午前中だけでなくて、この部屋だけでなくて、私たちはいつも心の中で神さまを賛美し、神さまに感謝を捧げる礼拝をしていきたいですね。「あなたがたは神の神殿、聖霊の宮である」であると聖書にあります(1コリント3:16、6:19)。いつ、どこであろうと、私たちは神さまへの礼拝をささげていくんです。礼拝の恵みの中で聖霊に満たされていく。そしてもう一つ、エルサレムというのは、弟子たちにとっては失敗の場所でした。愛する主イエスさまを裏切り、知らないと言ってしまった場所。その場所から離れないとは、自分の弱さや失敗をきちんと直視して、ごまかさないということでしょう。私たちが弱さを覚える部分、私たちが失敗をしてしまうところ、そこに聖霊が注がれる。そこでこそ、私たちは聖霊に満たされるんです。それが父なる神さまの約束です。

5節、バプテスマのヨハネが授けていたのは水の洗礼でした。それとは別に、私たちは聖霊のバプテスマを受ける。つまり、聖霊に沈められる、聖霊に満たされるというわけです。聖霊のバプテスマというと、何かすごいことが起こるようなイメージがあるかもしれませんが、まずは「聖霊に満たされる」ということですね。私たちはこれを求めていくんです。あなたがたは聖霊にバプテスマされる、聖霊に沈められる、そうやって聖霊に満たされるという約束です。

6節「そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」これはヨエル書の預言で、聖霊が注がれる時にイスラエルが回復するという箇所があるんです。これは後々触れることになると思いますが、弟子たちはそのことを思い出したのかもしれません。この当時、イスラエルの国はローマ帝国の一部分、属州になっていましたから、救い主はそこから解放してくれるはずだという期待が人々の間にあったのです。弟子たちもそう思っていました。だから「今こそ、私たちをローマ帝国から救ってくださるのですか。」と、こういうことを言っています。

イエスさまが軍事的な意味での救い主ではないことははっきりしていますが、しかしイエスさまは弟子たちの言うことを否定はなさいません。7節は否定の言葉ではないですよね。「わたしはそのために来たのではありません」とはっきり言えば良さそうなものですが、イエスさまはそのまま会話を続けるんです。どういうことか。ここで弟子たちは軍事的な意味で、ローマからの解放という意味で、イスラエルの復興と言ったかもしれませんが、イエスさまは同じ表現を使って別の意味を答えられておられるのだと思います。つまり「神の国の完成」についてここで言われている。弟子たちは「イスラエルのために」ということを、イスラエル国家がローマから解放されるという意味で言ったかもしれませんが、イエスさまは「神の民全体のために」という意味で会話を続けておられるようです。やがて、神の国が完成します。新天新地において、主を信じるすべての人が、まことのイスラエルとして、永遠にイエスさまと共にある。しかし、それがいつとか、どんなときとかいうことは知らなくていい、父なる神が決めておられる、というわけです。

しかし、今、大切なことはこれですと8節に続きます。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」神の国がいつ完成するのか、イエス様はいつ戻ってこられるのか、それは確かに気になります。しかし、そういうことに気をもむのではなく、聖霊に満たされていなさいと言われているのです。神の国の完成のことは、やがての新天新地のことははるかに待ち望みながら、しかし地に足をつけて、地の果て果てで、キリストの証人(しょうにん)として、あかしびととして生きる。それが私たちの生き方です。11節にあるように、主は必ず戻ってこられます。だから、その日を待ち望みながら、キリストの証人として今を生きていくのです。

「神の国の完成がいつになるのか、気をもむ必要はない」と言いましたが、聖霊は私たちに神の国の事実を教え続けてくださいます。エペソ書にこのような御言葉があります。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(1:14)聖霊に満たされることで、今ここが確かに神の国であること、そして究極的にはやがて完成することを私たちははっきりと知らされていくのです。だから、私たちは安心してキリストの証人として生きる。聖霊に満たされて、イエスさまが今も生きておられることを証していく。

「地の果て」とありますが、それは、宣教師としてどこか遠くに出かけていくということだけを意味しません。私たちが今いる場所、それが一人一人にとって地の果てです。今置かれている場所、今置かれている状況、そこが一人一人にとっての「地の果て」です。そこでイエス様がよみがえられたことの証人として生きていくということです。そのためにも、聖霊の満たしが必要なのです。

キリストの復活の証人となるとは、強く立派な信仰者になることを意味するわけではありません。聖霊に満たされたなら、汚い自分があらわにされるじゃないですか。弱い自分があらわにされるじゃないですか。イエスさまの十字架の死と復活によらなければどうにもならない自分が明らかにされるわけですよね。私はキリストと共に十字架につきました。そして今、復活のキリストと共に生きていますということの証を身をもって表していくことになる。聖霊はそのようにして私たちを、キリストの復活の証人とされるのです。

9節、イエスさまは天に戻っていかれました。ちなみに、イエスさまが天に上げられたことを「昇天」、私たちが地上の命を終えて天に召されることを「召天」といいます。このようにしてイエスさまは天に上げられました。すると10節、白い衣を着た人が二人、これは天の御使い、天使ですね。天使が二人いてこう言ったというのです。11節「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」イエスさまは、また、オリーブ山に戻ってこられる。キリストの「再臨」と言います。そのことは聖書の他の箇所、たとえばゼカリヤ書なんかにも書かれてありますが(14:4)、1テサロニケ4:16〜18を開いてみましょう。「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」聖書のこの慰めを受け取っていきたいと思います。

<まとめ>
今日は天に昇られる前にイエスさまが言われたことを三つに整理しました。イエスさまが生きておられること、神の国のこと、そして聖霊に満たされることの約束です。そして、聖霊の満たし、聖霊のバプテスマはキリストの証人となる力を私たちに与えるのだということも確認しました。聖霊に満たされて、私たちはイエスさまが生きておられるということ、また神の国の福音について証していきます。私たちを用いて、主がそれをなさいます。これはなんと驚くべきことでしょうか。聖霊行伝、聖霊の働きとも呼ばれるこの使徒の働きを、なおなお読み進めていきましょう。

 

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【6/26】

使徒1:1〜2

​「よく分かっていただきたい」

ここしばらく、テーマを設定しての礼拝メッセージをしてきましたが、一つの書簡を文脈に沿って連続で読み解いていく「講解説教」に戻りたいと思います。テーマ説教の良さというものはありますし、また折を見て単発でテーマ説教をすることもあるかと思いますが、テーマを設定するという時点で、礼拝説教が「牧師が語りたいこと」を語るものになってしまう可能性が常にありますので、それを避けるためにも、やはり聖書を文脈通りに読んでいく講解説教が基本だと思います。もちろん、テーマ説教の良さというものもありますので、両方が大切なのだと思います。牧師が語りたいことではなく、どこまでも神さまが今、私たちを導いておられる、私たちに語りかけていてくださる、そのメッセージを取り次いでいきたいと思っています。

とは言っても、たとえ講解説教であったとしても、「これが神さまの言っておられることです」と断言していくのは、牧師の姿勢としてはまずいのだと思います。たとえ文脈通りに読んでいくのだとしても、書いてある内容を釈義して、解釈して、文章にまとめていく作業には、どうしたって牧師自身の聖書の読み方が反映されるのですから。テーマ説教ばかりではいけない、講解説教でなければと言ったところで、礼拝説教が「牧師の語りたいこと」の域を出ない恐れがあるというのは、厳密に言えば変わらないのでしょう。

ですので、礼拝を預かっている者としては、礼拝の場でどこから聖書のメッセージを語るかというのは重大な問題です。語る場所を選ぶ時だけでなく、語り続けていくその間、ぜひ、牧師のために祈っていていただきたいと思います。

ということを踏まえて、ではどの書簡から語るのか。どこを選ぶのか。コロナの前に読み進めていたマタイの福音書の講解に戻るのか、いろいろ考えました。やっぱり考えるわけです。牧師の主観はどうしたって働くわけですが、神さまがどのように私たちを導いてくださっているのかということを大切にして振り返ってみると、私たちは今、神さまから本当に多くの励ましを受けていることを思わされます。コロナが落ち着いてきて、また毎週集まって礼拝する、ともに祈り合う、そしてまたここから派遣されていくというリズムが戻ってきました。また、洗礼式も教会全体で喜ぶことができましたね。そして、ここ数回のペンテコステのメッセージで、私たちは聖霊に満たされ、この地にあって教会を形作っていくのだということを教えられ、大きく励まされたことでした。今、私たちは「教会」として今一度歩み始めることを励まされていると思うのです。

そうであるならば、聖霊について聖書から読み解くことを続けたいと思いました。そして、私としては少々力不足を感じる書簡ではあるのですが、「使徒の働き」の講解を始めていきたいとの思いに至った次第です。特に最初の方はペンテコステのメッセージと重複する部分もあるかと思いますが、文脈を確認しながら、講解説教ならではの醍醐味を味わっていきたい。そして力を受けて、聖霊に満たされて、教会を形作っていきたい。またそれぞれの場所に帰っていきたい、そう願っています。

長くなりましたけれども、それでは使徒の働きの一章を開きましょう。今日は冒頭の部分です。

<1:1-2>
「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。」

使徒の働きは、医者ルカが書いた「ルカ文書」二部作の後半です。前半は「ルカの福音書」になります。両方とも、ルカがテオフィロという人物に宛てて書いたものです。テオフィロは名前からして異邦人、つまりユダヤ人ではない外国人だったようですけれども、ルカがテオフィロに書いたその手紙が、諸教会の間でも共有されていきました。福音書が書かれた時代というのは、イエスさまから直接教えられた世代が天に召されていく中で、イエスさまの教えを歪めた偽の教えが出回るようにもなってきて、福音書というような公式の記録が必要になってきたという経緯があります。それまでは、みな口伝で、話だけで福音を伝えていたのです。また、テオフィロのように福音に興味を持つ、ユダヤ人以外の外国人も増えてきました。ルカはこの手紙をテオフィロのために書いたのですが、結果としてこれは広く用いられることになりました。後々触れることになると思いますが、福音はもはやユダヤ人だけのものではなく、広く世界に広がり始めていて、異邦人の求道者、異邦人のクリスチャンがどんどん起こされていたのです。彼らのためにこの手紙の写しが用いられていったことは想像に難くありません。同時に、そのことを快く思わない人たち、古くからのユダヤ人の伝統を守ることが大切だと考える人たちもいましたので、そのような人たちに対しても、この福音は全世界に向けてのものだということを訴えていく。そのためにもルカ文書は大きく用いられていったことでしょう。

さて、この「テオフィロ」という人がどういう人物だったのか、詳しいことは分かりません。しかし、ヒントはありますね。まず、このテオフィロというギリシャ語の名前です。ギリシャ語で「神」をあらわすセオスと、「愛する」をあらわすフィレオーという言葉が組み合わせられたテオフィロという名前がついている。ギリシャの神々を信仰する家庭で生まれ育った人なのだろうことが推察されます。また、テオフィロ「様」とも呼ばれていますので、身分の高い人だったことも分かります。どういう人だったのかは分かりませんが、少しイメージが固まってきます。ルカはこの具体的なある人に向けてルカ文書を書きました。

ルカの福音書の冒頭にはこうあります。開いてみましょう、ルカの福音書1:1〜4「私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。」

「よく分かっていただきたい。」これこそが、ルカがこの文書を書いた動機であり、使徒の働きにもそのまま当てはまるわけです。使徒の働きもまた、「これを読むあなたに、よく分かっていただきたい」という思い一つで書かれているのです。「事柄」とはロゴス、神のことば、まさに福音のことです。それは、「みことばに仕える者となった人たち」によって語り伝えられ、また文書によっても伝えられてきました。福音は世界中で広がり続けてきたのです(コロサイ1:6)。私たち一人一人が救われた経緯も思い出してください。あなたに福音を伝えてくれた人は誰でしたか。どうやってあなたはクリスチャンになったのですか?思い返してみましょう。その上で、ルカのことばを聞きましょう。「すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたい」と。「これが確かであることを、よく分かっていただきたい。」このルカの思いは、時代を超えて私たちにも語りかけています。

先週話したように、ルカの福音書というのはイエスさまがなさったことを記録しています。そして、イエスさまはその働きを弟子たちに、教会に託されました。使徒の働きはその記録です。これを読めば、私たちは教会としての目指すべき姿を知ることができます。弟子たちの働き、教会の働きと言っても、聖霊が弟子たちを通して働いてくださっている。教会を通して働いてくださっているわけですから、使徒の働き、使徒行伝ではなくてこれは聖霊行伝だと言われることもあります。その意味では、聖霊が私たちを通してどのように働いてくださるのか。私たちはどのようにして聖霊に明け渡し、働いていただくのか。その記録ということもできるでしょう。

ルカが福音書で記したように、イエスさまはイザヤ書を引用して「主の霊がわたしの上にある」と宣言されました(ルカ4:18)。その預言の成就を、今は私たちに託しておられます。私たちも「主の霊が私の上にある」と、聖霊に満たされることによって、その働きを継承していくことができるのです。私たちの上におられ、内におられる聖霊なる神が、私たちを通して働かれます。その様子を、この使徒の働きを読みながら確認していきましょう。「これが確かであることを、よく分か」らせていただきましょう。

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