礼拝メッセージ

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●録音
●原稿
【11/8】
マタイの福音書12章15節〜21節
「傷んだ葦を折らない方」
久しぶりになりますが、マタイの福音書に戻ります。12章に入り、「安息日にしてはならないこと」について、パリサイ人たちがイエスさまを訴えるために悪意のある質問をした場面を読みました。それに対してイエスさまは安息日の主としてお答えになり、その結果、面目を失った彼らはイエスさまを殺す相談を始めたというのが14節までの内容です。
その流れで15節、イエスさまはそれを知ってそこを立ち去られました。イエスさまは十字架にかかって死ぬためにこの世に来られたのですが、イエスさまがご自分の受難を明確に予告するのは16章に入ってからです(16:21)。今はまだその時ではないのです。今捕まるわけにはいかない、ということでしょうね。一方で、そうやって移動する間にも、大勢の群衆がついて来ました。人々が助けを求めている状況は待ったなしです。イエスさまは目の前で助けを求める人々を見過ごされませんでした。彼らをみな癒やされた。今も同じです。イエスさまにはまだこれから、再臨して神の国を完成させるという大きな使命があります。それでも、私たち一人ひとりを見過ごされることはありません。私たちの祈りを必ず聞いていてくださいます。願った通りの答えが来るとは限りませんが、お忙しいだろうかとか、こんな祈りを聞いてはくださらないのではないかなどと、私たちは考えなくていいのです。どんなことでも祈っていい。いつでも、何でもお話ししていいのですね。
16節「ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。」十字架への道のりを見据えて余計な争いを避けられたということや、奇蹟ばかりが注目されて、イエスさまが何をなさろうとしておられるのかが誤解されるということを避けるためだったと思われます。これまでにも似たような場面がありました(マタイ8:4、9:30など)。
その上で、マタイはここでイザヤ書を引用します。15節から16節のイエスさまの姿は、まさにイザヤ書で預言されていた神のしもべの姿だというのです。続く18節から21節は、イザヤ書42章1節〜4節の引用になっています。なお、比べてみるとわかるのですが、旧約聖書からの完全な引用ではありません。旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書も参考にしつつ、マタイのイエスさま理解が凝縮された表現になっています。
18節「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、/わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。/わたしは彼の上にわたしの霊を授け、/彼は異邦人にさばきを告げる。」父なる神さま目線で、イエスさまについて語られています。わたしの霊を授けるというのは、父なる神の霊、聖霊のことですね。三位一体の教理からすれば、御子と聖霊は別々の神ではありません。しかし、イエスさまの地上での働きは聖霊の助け、聖霊の導きによるものでした(マタイ3:16、12:18、17:5)。イエスさまが洗礼を受けられたときに聖霊が鳩のようにその上に降られたという場面を思い出します。地上でのメシア、キリストとしての働きは、聖霊の力と導きによってなされたと聖書は描いています。それこそがイエスさまの活動の根拠であり、力の源なのでした。
続けて「彼は異邦人にさばきを告げる」とあります。この「さばき」とは、悪事が断罪されるという狭い意味だけではなくて、この世界に正義や公正があらわされるという意味を含みます。断罪という倫理的、道徳的なイメージだけだと私たちは萎縮してしまうのですが、むしろ破れと痛みに満ちたこの世界に、弱者が虐げられるこの世界に、神さまが正義と公正を表してくださるということです。そういう意味での「さばき」です。神さまが願っておられる通りの、本来あるべき姿への回復ということです。それはイエスさまの十字架によってなされます。イエスさまの十字架の福音は、信じる者たちの心の中だけの話でなくて、この世界にも回復を与えるのです。人と人との関係、この世界の在り方そのものを回復させる知らせです。
では、それは、十字架による神の正義はどのような形で実現されるのでしょうか。イエスさまはどのような形で十字架に向けて歩んでいかれたのでしょう。19節、20節「彼は言い争わず、叫ばず、/通りでその声を聞く者もない。」イエスさまは、パリサイ人たちを論破して完全に黙らせることだってできたはずです。実際、23章ではパリサイ人たちを厳しく責めておられます。しかし、それも相手を言いまかすためではなく、人々を正しい方向に導くためでした。イエスさまはご自分の正しさを声高に主張するような言い方はなさらない。どこまでも、あくまでも、イエスさまは十字架に向かう道筋を見据えておられます。だから、今日の場面では自ら引かれました。言い争わず、叫ばず、通りで、つまり公衆の面前で無理に対立を深めるようなことはせず、今、ご自分がなすべき働きに集中していかれたのです。
20節「傷んだ葦を折ることもなく、/くすぶる灯芯を消すこともない。/さばきを勝利に導くまで。」折れかかっている葦の茎も、消えかかっている灯芯(わかりやすく言えばろうそくの芯)も、イエスさまは守ってくださる。病気で弱っていたり、力を失っていたり、社会の中で居場所を失っていたりと、私たちはまさに折れかけの葦の茎や消えかけの灯芯ですけれども、イエスさまは守ってくださる。先ほどの、追って来た人々をみな癒されたということからも明らかです。イエスさまは、大切な仕事があるからと、今集中すべきことがあるからと、人々を見放したりはなさいません。
イエスさまは十字架によって神の正義を表すという大きな使命を持っておられました。でも、そこに向かうために、目の前の弱い人々を無視したり犠牲にしたりすることはありませんでした。むしろ、そのような人々を生かすことこそが、神の正義の実現です。イエスさまは、まさに十字架にかかるその時まで人々のことを気にかけ、癒し、ことばをかけ続けるお方でした。
21節「異邦人は彼の名に望みをかける。」救い主を待ち続けて来たユダヤ人だけじゃない、福音は世界に広がるのだということがここでも示唆されています。ヘブル語のイザヤ書本文では「島々はそのおしえを待ち望む」となっているのですが(イザヤ42:4)、マタイは七十人訳聖書の「異邦人は彼の名に望みをかける」という表現を採用しています。「島々」というのは遠い国々を表す詩的な表現で、それも「世界」を意味しているのですが、マタイはより直接的な「異邦人」という七十人訳の表現を採用しています。また、「教えを待ち望む」というよりも「彼の名に望みをかける」と、これも七十人訳聖書の表現を取りました。教えというよりも「イエスの名」、つまりイエスさまご自身が大切だと。イエスさまの人格に直接触れたマタイならではのこだわりだったのではないでしょうか。イエスさまご自身に望みを置くようにと書いたマタイの筆を通して、聖霊が今も私たちに語りかけています。教えとか、クリスチャン的な振る舞いということよりもイエスさまご自身にに望みを置く。イエスさまと人格的なやりとりをしていくことが大切ですね。
<キリストの正義を証しする>
さて、今日の箇所を振り返りながら、イエスさまの十字架と復活がもたらす神の国のさばき、その正義はすでに始まっていることを思います。主は十字架にかかって死なれ、そして復活されましたから、そのことで神の国のさばきと正義は表されました。しかし、同時に、未だ完成はしていません。この世界には苦しみが満ちています。私たちはこの「すでにといまだ」の間で、イエスさまが与えてくださる「さばき」、イエスさまが与えてくださる正義に希望を置く生き方を証ししていくのです。
それはどのような生き方でしょうか。イエスさまの十字架と復活がもたらした正義に倣っていく生き方。そこ希望を置く生き方というのは、具体的にはどのような生き方でしょうか。イエスさまが折れかけの葦や消えかけの灯芯を守ってくださったように、私たちも人を簡単に見限らないということや、失敗した人にもう一度やり直す機会を与えるということができるでしょう。弱っている人にさらなる重荷を負わせないということもできるでしょう。イエスさまが自分の力を誇示するためには言い争わなかったように、私たちも力で相手を黙らせることはしない。それもイエスさまのさばき、十字架の正義をあらわすものでしょう。私たちのクリスチャンとしての生き方、福音を信じる者としての生き方が、抽象的・観念的なものにならず、地に足をつけた、実際的なものであるようにと願います。
大切なことは、私たちがこういう生き方をすれば、そこに神の国が実現するのではなく、イエスさまがそのようなお方であり、そのイエスさまに希望を置くからこそ、私たちはそのような生き方に招き入れられているのだということです。この順番はとても大切です。
<私たち一人ひとりが>
先日、アメリカ大統領の任期における中間選挙があり、トランプ大統領率いる共和党は大敗したと報じられています。私は政治の専門家ではないですし、仮に専門家だったとしても、人には一面的にしか捉えられないものだと思います。しかし、神の国を掲げながら、力によって人々を従わせようとする政治のあり方は、今日の箇所に描かれているイエスさまの姿とは大きく異なります。そのことだけは言えますね。
一方で、ではアメリカ民主党が完全に正しいのかと言えば、それもわからないところが多々あります。どちらの政党にも行き過ぎや限界があるわけですよね。神さまによる正義と公正が必要です。ただ、アメリカの場合はどちらも自分たちこそそれを実現するのだと主張するので問題は複雑で厄介なのでしょう。
結局のところ、神の国は、キリストのさばき・キリストの正義は、政党や政治権力に委ねられているのではない。私たち一人ひとり、クリスチャン一人ひとりがその生き方に招かれているのだということです。それは日本に住む私たちにも言えることです。
私たちは政治に正義を求めます。もちろん政治は大切です。しかし、どのような制度も、神の正義を完全に実現することはできません。だからこそ、私たちは特定の政党や政治家に希望を置くのではなく、神の正義を実現してくださるイエスさまに希望を置くのです。
そして、イエスさまに倣って、折れかけの葦を守る生き方を、消えかけの灯芯を守る生き方を私たちがするのです。その生き方をあきらめないのです。聖霊が助けてくださいます。イエスさまの働きですらそうでした。聖霊が注がれること、聖霊に満たされることが必要なのです。聖霊の満たしは、私たち自身が恵まれるためだけでなく、人々に仕え、キリストの働きを担うためにも必要です。
今週も、それぞれが遣わされている場所、置かれている場所で、聖霊の助けによって、主にある生き方をさせていただきましょう。私たちの身の回りで、傷んだ葦のような人はいませんか。自分自身が主から守っていただいたことを思い返しながら、今度は自分が手を伸ばす者でありたい。私たちをキリストに似た者へと成長・成熟させてくださる方のみわざを見させていただきましょう。
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信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。(ヘブル12:2)
私たちのために十字架による贖いを成し遂げてくださった主イエス・キリストの恵みと
御子の死と復活を通して、私たちに確かに正義と公正を与えてくださった父なる神の愛
そして、私たちを主と似た者へと成長させ続けてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに
豊かにありますように。
アーメン
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【11/1】(召天者記念礼拝)
創世記23章1節〜20節
「証しとしての葬り」
本日、みなさんと共に召天者記念礼拝を開催できることを感謝いたします。先に天に帰られた信仰の先輩方を偲びつつ、聖書が記す慰めと希望を再確認して参りましょう。
<召天とは>
はじめに、「召天」ということばをご説明いたします。読んで字の如く、天に召される、天から呼ばれるということです。地上での命を終えて、天におられるキリストのもとに召されることを「召天」と表現しています(キリストが天に昇られたのは「昇天」と表現されます)。地上の旅路を終えた後、私たちは天に召され、キリストと共にあると聖書は語ります。
召天者名簿には、関西集会にゆかりのある方々の名前を載せていますが、洗礼の有無に関わらず、イエスを主と告白したこれらの人々は今、天でイエスさまの御もとにあると私は信じています。
<復活の希望>
一方で、聖書が語る希望は、死後に天で過ごすことだけではありません。イエス・キリストが肉体をもって復活されたように、私たちもやがて復活するのです。この天と地が新しくされた時、神の国が完成しキリストがまた戻ってこられる時に、私たちは復活するのです。死後のいのちの一般的なイメージとして、たましいだけになって天国で永遠に過ごすと想像されがちですが、天国の後、栄光の肉体を与えられて私たちは復活するんです。それが聖書の描いている内容です。
ですから、聖書の教えは「天国にさえ行ければいいのだから、この地上のことには意味がない」というような考え方とは無縁です。私たちは物質の世界、この世界も大切にします。ここがまったく新しくされるというのですから。今、私たちが苦労しながら、痛みを覚えながら、生活しているこの世界は、やがて新しくされる大切な世界なのです。いつまでもこのままなのではなく、やがてこの天と地は新しくされる、その場所として、この地上は大切なんです。だから、私たち一人ひとりの今の生活には意味があります。この地上のいのちには、私たち一人ひとりの人生には意味がある。ここにお名前のあるお一人お一人の人生もまた、かけがえのない、意義深い人生でありました。
もっと生きていてほしかった、まだまだ一緒に過ごしたかった、私たちはそう思います。召天者「記念」礼拝とは言いますが、召天したから万歳と簡単に言えるものではありません。いつまでも癒えない悲しみ、寂しさというものがあるのです。それは当然のことです。
その悲しみや寂さと時間をかけて丁寧に向き合いつつ、それでも、聖書が語る復活の希望に耳を傾けたいのです。彼らの残してくれた信仰の歩みを思い起こし、彼らと同じように私たちにも復活の希望が与えられていることを受け取り直したい。襟元を正され、背筋を伸ばして、今日を歩んでいきたいのです。そうやって、地上の人生を歩み抜いてまいりましょう。
その上で、今日は創世記からサラという女性を取り上げ、その人生と死について、また夫アブラハムが彼女を葬った場面をご一緒に見ていきたいと思います。
<サラの一生>
聖書の一番初めの書物である「創世記」を開きます。創世記23章1節に「サラの生涯、サラが生きた年数は百二十七年であった。」とあります。サラとはどのような人物だったのでしょうか。サラの名前が初めに出てくるのは創世記11章29節〜31節です。当時の名前はサライと言いました。後に明らかになりますけれども、夫のアブラハム、当時はアブラムという名前でしたが、彼とは異母兄妹でありました。幼馴染でもあったことでしょう。それがアブラムと結婚することになりました。しかし11章30節、サライは不妊の女であったとあります。現代ならいざ知らず、当時サライはどれほど苦しんだことでしょう。しかしそんな中で、夫アブラムが父テラに関わる人々をみな連れて、カルデヤのウルを出発します(創世記11:31、ヨシュア記24:3)。サラも夫の決断に従ってついていきました。
その後、12章1節で改めて神さまはアブラムに声をおかけになり、アブラムはまた移動することになりました。今度もまた、サラはついていきました。彼女がどのような思いでついていったのかはわかりませんが、この旅の先には、子孫を与え、大いなる国民とするという神さまの約束があります(創世記12:1-3)。少なからず心を躍らせながら、その旅についていったのではないでしょうか。
しかし、その後、すぐに不穏な空気が流れます。ききんのためにエジプトに下ったときには、夫から「妻ではなく妹だと言ってくれ」と頼まれます(同12:11-13)。もともと異母兄妹ですからまったくの嘘というわけではありませんでしたが、夫の保身のために、妻ではなく妹扱いされるということが、どれほどあり得ないことだったか。サラにとっては複雑な思いを抱かせるものだったでしょう。しかし、ここでもサラは夫の言うことを受け入れています。その後の展開は割愛しますが、アブラハムの失態の場面です。
どこへ行くのか知らない旅について来て、夫が自分の身を守るためにと提案してきたことも飲みました。では、サラは自分の主張をせず、何でもアブラハムの言うことを聞き入れてきた人だったかというと、必ずしもそうではなかったと思います。その後、いつまでたっても約束の子どもが与えられないことに待ちくたびれたか、女奴隷のハガルとの間に子どもを設けるよう夫に提案します(このやり方自体は当時よくあることでした)。しかし、いざハガルが妊娠すると、サラは彼女との関係に苦しみ、自分が提案したのに夫を責め、ハガルを厳しく扱うようになります。ハガルは荒野へ逃げました(同16章、21章)。サラは嫉妬に苦しんだ人でした。
神さまの約束を最後まで信じ抜いた、ブレない信仰者だったわけでもありません。夫のところに三人の不思議な旅人が訪ねてきて「来年の今頃赤ん坊が生まれる」と伝えて来た時にも、それはずっと信じて来た神さまの約束がいよいよ実現するという宣言だったわけですが、サラは「老ぼれてしまった私に、何の楽しみがあろう」と笑いました(同18章)。もはや神の約束を信じられずに、笑い飛ばしてしまった。サラは決して、徹頭徹尾ブレない信仰者だったわけではないのです。
それでも、聖書は彼女を信仰の人として記しています(ヘブル11:11、Ⅰペテロ3:6)。まさに山あり谷ありの激動の人生で、神さまに信頼した時も、神さまへの信頼を忘れた時もありました。しかし、主のことばに不可能はないということを知らされていった人でした。そうやって神さまと共に歩み続けた人でした。それが信仰なのだということです。
私たちも、人生上向きの時もあれば、どん底の時もありますが、サラのようにその人生を全うしたいと願います。いかに私たちの信仰が揺らぐことがあっても、神の約束そのものが失われるわけではないのです。神さまは、そしてそのお約束は変わらない。そのことゆえに立ち上がる。そして神さまの約束を信じ直していく。それが信仰です。
聖書に出てくる女性の中で、亡くなった時の年齢まで記されているのはサラだけです。アブラハムのストーリーの中で、サラの存在がどれほど大切に描かれていることか。創世記23章に戻りますが、2節、サラはキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンの地で亡くなったようです。「アブラハムは来て」とありますから、間に合わなかった。死に目には会えなかったのだと思われます。アブラハムは嘆き、泣きました。
<悲しみについて>
ここで「悲しみ」について、考えたいのですけれども、伝道者の書に次のようなみことばがあります。「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」(伝道者7:2)悲しみというと、普段私たちはそこからネガティブな、暗いイメージを読み取るのですが、悲しみも大切なんですね。後にイエスさまも言われました。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:4)
特に今日は喪中の悲しみについて、愛する人を亡くした悲しみについて考えたいのですけれども、若松英輔という方がいて、悲しみについてよく本を書かれています。カトリックのクリスチャンの方ですけれども、この方はガンで奥さんを亡くしていますが、「愛するとは何であるか」、おぼろげながらに感じられるようになったのは妻の没後だと言います。同じように妻を亡くされた男性、その方は津波のためにでしたけれども、その方への手紙という形で収録された文章があるので、抜粋して紹介しますと、「こんなことをいうと誤解されるかもしれません。でも、あなたならきっと、お分かりいただけると思うのです。先立つことは、人間が行い得るもっとも貴い行いではないでしょうか。残った人は、愛する者の死を経ることで、愛するとは何かを真に知るのではないでしょうか。たしかに、残された者は悲しみを背負わなくてはなりません。しかし悲しむとき、相手が生きているときには感じることのできなかった深い情愛が生まれます。・・・それは、真心のことでもあります。自分のなかにこれほどまでに人を思うことができるのかと感じられるほど強い、確かな感情が湧きあがります。」(『君の悲しみが美しいから僕は手紙を書いた』p.21)
古い日本語の「かなし」という言葉には、悲しいという意味だけでなく、愛おしい、いとしいという意味もありました。愛する人を失うからこそ、悲しい。悲しいという感情の奥には、それだけ深く愛していたという事実があるのです。私たちは確かに愛していたし、ゆえに、今もなお悲しんでいるのです。
そして、私たちの神は、その思いを理解してくださるお方です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)十字架にかかられたイエスさまの愛について、私たちはよく思いを致しますが、ひとり子を失わなければならなかった父なる神の悲しみもまた、忘れてはいけないのです。愛する者の死で痛む心を、神さまは分かってくださいます。
<サラの埋葬、その墓地>
創世記23章に戻りますけれども、アブラハムはサラの埋葬のために動き出します。3節の「立ち上がる」ということばですが、ここは後に旧約聖書がギリシャ語に訳された時には「復活」と同じ単語で表現されました。立ち上がることと、復活すること。この二つが同じ言葉で表現されることに、深く教えられます。イエスさまを信じる者は復活する。やがての復活だけでなく、今も、そして何度でも、立ち上がることが出来るという希望があります。
今はまだ悲しみの中にいるという方も、安心してください。今すぐ立ち上がらなければならないということではないです。伝道者の書には「泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くの時があり、踊るのに時がある。」とあります(伝道者3:4)。嘆きが癒やされ、立ち上がるのにも時があるのです。やがて、立ち上がれる時が来る。その希望だけ、忘れないでいていただきたいのです。
4節でアブラハムは、サラを葬るための洞穴を、正式な手続きを経て購入しようとしています。ここで彼は自分のことを寄留者と言っています。神さまから約束された地に来た、そしてここで子孫が増えていくというその約束は、イサクの誕生によって確かなものであることがハッキリしました。しかし、ここに国として、国民として増えていくのはまだまだ先の話です。神さまの約束は確かであり確実だけれども、その実現にはまだ時間がかかるのです。ここには、「すでに」と「いまだ」の間を生きる信仰者の姿が重なります。
私たちも、神の国の「すでに」と「いまだ」の間で生きています。イエスさまが来られたことで神の国が広がり出しました。その意味では神の国はすでに来ています。しかし、最終的に神の国が来るのは、完成するのは、イエスさまの再臨の時です。だから私たちはすでに神の国の民とされていますけれども、この地に足をつけて、「ここで」生きていくのです。すでに神の国は始まっていますけれども、それでもなお「御国を来たらせたまえ」と主の祈りで祈ったように、ここで主の再臨を待つのです。すでにといまだです。アブラハムもそうだった。約束の地に居ながら、しかし自分の土地を持たない寄留者でした。
アブラハムはサラを葬るために、注意深く行動します。すでにといまだの間の立ち振る舞い方ですね。5節から16節は割愛しますが、17節、18節、土地の取得は町の人々の前で正式に確認されました。アブラハムは、寄留者でありながら、自他共にわかる形で、この地に確かな土地を手にし、19節、そこに愛する妻を葬りました。マクペラの洞穴は、ここが神の民の土地となるという約束の実現に向けた小さな一歩となりました。ここは、後にアブラハムも、そして息子イサク夫妻や、その子ヤコブ夫妻と、族長たちが代々葬られていく大切な場所となっていきます。
<寄留者としての歩みにおける葬り>
アブラハムは生きている間、神さまの約束を受けたにしてはたったこれだけの土地しか手にすることはありませんでした。しかし、彼は自分を寄留者だと、すでにといまだの間を生きる寄留者だと自覚していました。
ヘブル人への手紙に、歴代の寄留者たちの信仰について述べられている箇所があります。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」(ヘブル11:13-16)私たちにはこのような信仰の先駆者がいます。聖書の人物の一人ひとりをそのように見つめ、彼らの後姿に倣っていきたいと思うのです。
そして、信仰の先駆者、信仰の先輩方を偲ぶと言えば、本日の召天者記念礼拝はまさにそのような機会です。アブラハムが寄留者としての歩みの中でサラを葬り、その場所が神さまの約束実現ための小さな、しかし確かな一歩となったように、私たちも、今、ここで、死が全ての終わりではないという希望を確認します。私たちも地上では旅人、寄留者です。私たちも彼らの人生を大切に思い、悲しみを抱きながらも復活の約束を信じて、葬ります。その営みを通して、私たちは神の国の希望をこの世界に対して証ししていくのです(使徒の働き1:8)。
尊敬するある牧師が、ご両親のためにお墓を作られたそうなのですが、そこにこう刻まれたとか。「復活の日までここに眠る」。この言葉は、死がすべての終わりではないという信仰を表します。私たちが愛する者を葬るとき、その場所はやがて訪れる復活の希望の証しとなるのです。
また、もう一つ大切なことがあります。葬ることを通して、自分もまたいつか葬られる存在なのだということを思い出します。これも大切なことです。「メメント・モリ」という言葉があります。「自分が死ぬ存在であることを忘れるな」という意味のラテン語で、教会の歴史の中でも大切にされてきた言葉です。人は必ず死にますけれども、今日の箇所から学ぶなら、自分の死を通しても、自分が埋葬される、そのことを通しても、そこに神の国が広がっていく、自分の死も神の国の証しとなる。これは本当に大きな慰めです。神の民は、教会は、そうやって希望をつないできたのです。これからもその希望をつないでいくのです。そしてやがて、いつの日か、イエスさまが戻ってこられたときに、私たちは復活します。それまでは天国で神さまのもとにありつつ、かの日には復活します。そして新しい天と新しい地と表現される神の国の完成を目の当たりにすることになるのです。
それまでの間、私たちはこれからも、愛する者の葬りを大切に、丁寧に行い続けます。そして、彼らの信仰を思い返し続けましょう。その一つひとつは、神の国の証しなのです。
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「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。・・・ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。」(ピリピ3:20-4:1)
いつの日か、必ず私たちのところに戻ってきてくださる主イエス・キリストの恵みと、
それまでの間、例外なく死に直面する私たちの悲しみをわかっていてくださる父なる神の愛、
そして、神の国の証しとしての葬りの中に豊かに臨在し、慰めと励ましを与えてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。
アーメン
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【10/4】
マタイの福音書12章1節〜14節
「主イエスのもとへ行く安息日」
マタイの福音書も今日から12章に入ります。今日の箇所は、先週に引き続き「安息」について、特に「安息日」に関する内容です。
<1節〜2節「安息日にしてはならないこと」>
安息日というのは、ユダヤの人たちが一週間の七日目を聖なる日として取り分けることです。十戒の第四戒に「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト20:8)とあるとおりです。そもそもの由来は、創世記で神さまが天と地を(つまり天と地の間のすべてのものを)お造りになった際、七日目に休まれたということにあります(創世記2:2-3)。七日目ですから、現代の曜日名で言えば土曜日に当たります。ユダヤ教では土曜日を安息日としてきました。この日は聖なる日であり、この日には「いかなる仕事もしてはならない」のでした(出エジプト20:10)。もっとも、ユダヤ人の一日は朝ではなく日没から始まりますから(創世記一章「夕があり、朝があった」)、安息日というのは金曜日の日没から土曜日の日没までということになります。
さて、問題はパリサイ人たちの言う「安息日にしてはならないこと」という表現です(2節)。「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」、これは聖書自体の表現ですが、それを具体的にどう守るかについて、ユダヤ教の伝統の中で様々な細かい規定が整えられていきました。たとえば調理することや書くことなど、何が「仕事」に当たるのかについて細かな規定が定められていったわけです。他にも、たとえば律法を守るためには安息日にどこまで移動できるかについても細かく定められました(使徒の働き1:12に「安息日の道のり」という表現が出てきます)。こういった考え方の中で彼らは、弟子たちが「穂を摘んだ」動作を収穫の仕事と解釈して、「安息日にしてはならないことだ」と詰め寄ってきたわけです。なお、他人の畑から勝手に食べるという行為自体は実は認められていましたので(申命記23:25)、その点はお咎めなしだったのですが、問題は、安息日に穂を摘んだというその点だったのでした。
ユダヤ教の伝統の中で細かな規定が整えられていったのは、あくまでも彼らが律法を守るためだったという点は見落としてはならないでしょう。私たちはパリサイ人や律法学者たちのことをイエスさまの敵として読み込んでしまうのですが、彼らは真剣なんです。真剣にみことばを守ろうとしている。ただ、自分たちの解釈こそが本当で、我々だけが律法を、つまり神のことばを守っているのだとして他をさばいていく、という姿勢は危険です。それは私たちにも起こり得ることですね。
<止める日>
そもそも、安息日とは何のためにあるのでしょうか。ユダヤ教の伝統の中で整えられていった細かな規定は別としても、律法自体、聖書自体が「いかなる仕事もしてはならない」としているのはどういうことでしょう。
安息日と訳される「シャバット」というヘブル語には「止める」という意味があります。手を止めるのです。働きの手を止めて、神さまに委ねる日。それが安息日という言葉の基本的な意味です。戒律を守るという行為をする日ではなくて、手を止めるんです。この手は動かせるのだけれども、止める。働き続けられるのだけれども、この日は止める。休むのです。
先週の箇所で「柔和」ということばの意味に触れました(11:28-30)。これは優しいとか穏やかという性格の話ではなくて、自分の権威や力を相手を押さえつけるためには使わないということでした。また「へりくだり」ということばの意味は、「神さまの前に、自分の分をわきまえる」ということでした。イエスさまはその手本なわけです。安息日は手を止めることと言いましたが、まさに、イエスさまのもとで柔和さとへりくだりを学ぶ日だと言えます。神さまの前に、自分の分をわきまえ、働きを止めるのです。
誤解がないようにしたいのですが、聖書は私たちに自分の手で働きなさいと教えていますし(出エジプト20:9、Ⅰテサロニケ4:11)、神さまから託されたこの世界のために、この社会のために私たちは働くのです。それが仕事の意味です。仕事とは大切なもの。ただ、私たちは極端なので、自分の力でそれをなそうとしてしまう。自分の力だけで押し通そうとしてしまう。善悪の知識の木から取って食べた私たちは(創世記3章)、自分はすべてを知っているつもりになって、自分の力だけで突き進んでしまうのです。別の言い方をすれば、自分が神になってしまう。
しかし、安息日に私たちは知るのです。自分は神ではないと。安息日は、神さまの前に自分の分をわきまえる日です。神こそが神、主こそ神だということをもう一度心に刻むのです。自分の力を、自分の手をあえて止めて、神さまの前にへりくだり、礼拝する日なのです。
それなのに、パリサイ人たちはいいます。「あなたの弟子は律法に違反している。」律法は神のことばです。しかし彼らは律法そのものに書かれていることと、それをどう適用するかという自分たちの解釈との区別がつかなくなっているのです。自分たちの律法理解や規則を神のことばそのもののように扱い、それを基準に人を裁いているのですね。
先ほども言いましたが、これは私たちにも起こり得ることです。聖書を真剣に読んでいるからこそ、真剣に信仰生活を送っているからこそ、「自分の理解こそ聖書の教えだ、聖書の唯一の解釈だ。」と思い込み、そして人を裁いてしまうのです。
<3節〜5節 イエスのもとに行く日>
3節から5節で、イエスさまは彼らが律法や安息日について思い違いをしていることを示されます。ダビデと供の者たちの話はサムエル記第一21章に載っています。サウル王から逃れる逃避行の際に、ダビデは祭司アヒメレクのところで家来たちのために食糧を求めました。そこには神さまの臨在を表す「臨在のパン」と呼ばれる聖別されたパンしかなく、それは祭司以外は食べてはならないものだったのですが、ダビデは大胆にそれを求め、アヒメレクも了承したのでした。
5節については、神殿の祭司は安息日にも仕事をするわけですよね。レビ記には礼拝のための規則がたくさん載っています。祭司にとってそれらは仕事なのです。そのことを言っています。「祭司は安息日にも仕事をして良い」という記述が律法にあるわけではないのですが、礼拝のための規定がある以上、祭司が安息日に仕事をすることを律法そのものが要求しているわけです。律法からそれを読み取っていないのですか?ということですね。
しかも、6節「ここに宮よりも大いなるものがあります。」と言われます。ここは以前の翻訳では「大いなる者」という時に人を表す漢字の「者」になっていて、イエスさまご自身のことを指して、神殿よりも大いなるお方だというニュアンスの訳になっていました。神学としては間違いではないのですが、もともとのギリシャ語ではここは人を指す表現ではないので、翻訳としてはひらがなの「もの」に改められました。ここで「宮よりも大いなるもの」と言われているのは、イエスさまご自身というよりも、イエスさまによってここに現れている神の働きのことと考えることができます。人がイエスさまのところに行くこと、11章28節で「わたしのもとに来なさい。」と言われていたイエスさまのところに行くこと、そうやって安息を得ること、それこそが重要なのだということでしょう。規定を守るということよりも、イエスさまのところに行き、安息をいただく。それこそが安息日なのです。
神殿礼拝に関連してですら、安息日の規定は相対化されるのです。祭司は安息日に働くのだから。ましてや、今ここに現れているのは神殿よりも大いなるものです。人がイエスさまに出会う。それは神殿においてでなければならないとか、どこどこでなければ神に出会えないとか、そんなことはありません。イエスさまはヨハネの福音書で、どこで礼拝するかの場所が大切なのではなくて、霊とまことをもって心から礼拝することが大切なんだと言っておられます(ヨハネ4:21-24)。イエスさまが来られた以上、大切なのは安息日の規定を守ることよりも、イエスさまのもとに行くことそれ自体のはずです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われる方のところに行く。それが安息日において何より大切なことなんです(マタイ11:29)。
7節「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。」これはホセア書の引用です(ホセア6:6)。イエスさまは、真実の愛をもって、まことの愛をもって、ご自身のところに来る人々を喜んでくださいます。いけにえをささげることや規律を守ること、安息日の規定を守るということに終始してしまって、神さまが求めておられる真実の愛を忘れてしまうとしたら、これほど本末転倒なことはありません。神さまが求めておられる真実の愛をもって、イエスさまのもとにいこうではありませんか。
8節「人の子は安息日の主です。」人の子とは、イエスさまがご自分のことを指して表現された言い方です。ダニエル書などにも出てきます(ダニエル7:13)。イエスさまは安息日について最終的な権威を持っているのだということですね。安息日について、律法学者たちがああだこうだ言っていたわけですが、安息日の主であるイエスさまが言われます。真実の愛をもってわたしのところに来なさい。疲れている人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。あなたの働きの手を止めて、わたしこそがあなたに安息を与える主であることをもう一度心に刻みなさい。それこそが安息日だと主は言っておられるのではないでしょうか。
<私たちにとっての安息日>
私たちキリスト者は、ユダヤ教の安息日である土曜日ではなく、主イエスが復活された週の初めの日、日曜日に集まって礼拝する習慣を受け継いできました。これを「主の日」と呼んでいます。ユダヤ教の安息日とは違いますが、私たちもまた、聖書が提示している安息日の教え、「神の前で手を止める」という恵みを大切にしたいと思います。
繰り返しますが、安息日とは規定を守ることを目的とする日ではありません。手を止めて、イエスさまのところに向かう日です。自分は神ではなく、神こそが神であることを思い出す日です。その意味では、日曜日に限らず、いつも、私たちには「シャバット」(安息)の精神が必要です。現代社会は複雑ですから、日曜日に仕事がある方に「安息を守れていない」などと言う必要はありません。教会も、その人が神さまの前で手を止める時間を持てるように、一緒に考えていく必要があります。
基本的には日曜日、他の曜日の時もある、いずれにしても週に一度、手を止める。改めてイエスさまのもとに行き、そこで柔和さとへりくだりを学ぶのです。週に一度、安息日を設けるのです。これは安息日の起源である、天地創造のリズムと同じです。神さまは六日間で世界を完成され、七日目には休まれました。私たちはこの一週間のリズムを繰り返しながら生きていくのです。私たちにとって日曜の礼拝とは、週に一度の安息という繰り返しでありリズムです。これがあるから、忘れやすい私たちも神さまの恵みを思い出していけます。
私たちは生産性で評価される社会、時代に生きていますから、そこであえて手を止めて休むことには勇気が要ります。身体が疲れている、心が疲れているから休みが必要ということもありますけれども、それでも、手を止めることには勇気が要るのです。しかし、何も生み出していないと思われるあなたには、イエスさまが十字架でいのちをかけられたほどの価値があるのです。あなたには、イエスさまが十字架でいのちをかけられたほどの価値がある。それは、あえて手を止めて、何も生産しないでいる時にこそよくわかるものではないでしょうか。これからも、週に一度「止まって」、立ち止まって、神さまの恵みを受け取り直していきましょう。
なお、高齢になり、なかなか集まれない方も増えてきています。どうか、お体を大切に、決して無理はしないでくださいね。集まることができれば、それに越したことはないのですが、「イエスさまと二人きり」の時間をぜひ満喫していただきたいと思います。大切なのはイエスさまのところに行くことです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(11:28)と言われる方のところに行くことです。イエスさまと共に過ごすのです。
<9節〜14節>
最後、駆け足になりますが、9節から14節です。イエスさまは「彼らの会堂」、つまり律法学者たちの会堂に入られました。律法を愛しているのだけれど、その方向性がずれている彼らに対して、粘り強く安息日の意味を教えよう、伝えようとしておられたのではないでしょうか。私たちに対しても同様です。粘り強く向き合ってくださるお方です。
そこには片手の萎えた人がいました。彼らはイエスさまを訴えるため、罠にはめるために質問します。「安息日に癒すのは律法にかなっていますか。」これでもし、イエスさまが癒しをしないなら「イエスには人を救う力はないのだ」ということになりますし、癒しをするなら安息日規定の違反として訴えることができます。意地悪な質問だったわけです。
ここでイエスさまは、羊が安息日に穴に落ちたとしても、引き上げてやるでしょう?ということを言われます。先ほどの5節のように律法を根拠にした聞き方ではなく、日常生活における常識的な判断を問われているのです。安息日の規定、規定と言うけれども、羊のようなケースでは命を守ることを優先して判断しているではないかということです。それならば、なおさらのこと、安息日にこの人を癒すことは律法の精神にかなっています、というのです。そして、彼を癒やされました。
そしてそのことで、14節、イエスさまの十字架への道がまた一つ進むことになったのでした。
<イエスさまに向けて手を伸ばす>
13節、イエスさまは言われました。「手を伸ばしなさい。」シャバットの意味は「止める」だと言いましたが、神さまが与えてくださる安息の中で、私たちはイエスさまに向けて手を伸ばすのです。それがイエスさまのところに行くということです。
自分の手を止め、あとは神さまが引き受けてくださることを信じ、イエスさまに向けて手を伸ばすのです。イエスさまにお委ねし、イエスさまの祝福を求めて手を伸ばすのです。安息日は、イエスさまが「わたしにあなたの心配を預けなさい」と言ってくださる日です。毎日そうなのですが、日曜日の礼拝は特にそういう日なのです。これからも、大切にしていきましょう。
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すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)
私たちを休ませてくださる主イエス・キリストの恵みと、
何の生産性がなくても、私たちが私たちだから愛してくださっている父なる神の愛、
そして、毎日、そして週ごとに、私たちを主のもとに導いてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン
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【9/27】
マタイの福音書11章28節〜30節
「イエスさまのもとで休む」
<28節 主イエスの与える休み>
今日の箇所はとても有名なところです。暗誦聖句として覚えている方もおられるかと思います。28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この節単体でも十分慰め深い箇所なのですが、聖書は文脈が大切なので、直前までの流れも振り返ってみましょう。
ここまでの箇所では、神の国が来たのにヨハネの確信が揺れてしまったり、ガリラヤの町々が悔い改めることをしなかったということについて記されてきて、その上で、神の国が到来したという知らせは、知恵ある者や賢い者には隠されており、むしろ幼子たちに現されているとイエスさまは語られました(25節)。つまり、悔い改めて神の国の福音を受け取るためには、自分の理解や経験に頼るのではなく、幼子のようにそのまま受け取ることがあ必要なのです。
そしてその幼子のような生き方も、イエスさまが御父を知らせようとしてくださるからできる、イエスさまが知らせてくださるから私たちは神を知れるのでした。自分の努力によって、悟りを開いて神を知っていくのではなく、どこまでも恵みとして、イエスさまが私たちに神を知らせてくださるのです。
という流れを踏まえて28節をもう一度読むと、これは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。どれだけ疲れていても、どれだけ重荷を負っていたとしても、わたしはあなたに父を示す。わたしはあなたに父なる神を示す。それがあなたの休みとなる。」こういう意味だとまずは理解してよいでしょう。ただ休ませてくれるということ以上に、私たちはイエスさまを通して神を知れる。それこそが私たちにとって何よりの休みであり、安らぎなのだということです。
イエスさまが与えてくださる休みとは、神を知ることです。神に知られていることを知ることとも言えますね。聖書のことばで「知る」とは知識や認識に留まらず、相手の人格を知るという意味になります。役割や肩書だけを存在として知っている、記号として名前を知っているというだけでなく、人格的に関わり、人となりを知っている。それが、神が私たちを知っていてくださるということです。そして、その逆もまた然り。私たちは聖書のみことばを通して、神さまがどのようなお方かを知っていくのです。知識としてではなく、生きた神さまとのやりとりが深まって行くのです。それこそがイエスさまの与えてくださる「休み」なのです。
信仰とは、神を知ることによる安息です。ところが、私たちは信仰そのものを新たな重荷にしてしまうことがあります。「こうしなければならない。」「こうならなければならない。」と、自分で自分を縛ってしまうのです。しかし、イエスさまは、私たちに休みを与える、安らぎを与えると言われるのです。神さまとの関係性とは休息であり、安息です。信仰とは「休み」なんです。
イエスさまのもとに行き、そこで休む。神さまを知っていく。この礼拝がそのような時間であるように願っています。また、それぞれの生活の中でも、そのような時間を意識的に取り分けてみてください。手を止めて、みことばを思い巡らし、イエスさまに祈る時間をぜひ取ってください。
<29節 イエスさまの柔和>
29節「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」日本語で「柔和」というと、優しくおとなしく、怒らないという性格のことを指しますから、「自分は柔和でへりくだっているから」なんて言うのは、高慢な響きで聞こえます。普通、こういうことは言わないですよね。この表現が意図するのは、どういうことなのでしょう。
ここで言われている「柔和さ」とは、ただ穏やかで優しい性格のことではありません。そもそも直前の箇所では、イエスさまはかなり厳しいことを言っておられたわけです。ここで使われている「柔和」という言葉は、怒らないとか優しいというニュアンスではなく、「力や権威を持っているが、それを相手に押しつけたり押さえつけるためには使わない」という意味になります。よく、野生の馬を調教した状態というイメージで説明されます。馬にはすごい力が、まさに馬力があるわけですが、調教された馬はその力を暴走させるようには使わない。主人の意図に従って力を発揮するのです。それが柔和さです。イエスさまにはあらゆる権威が与えられているけれども、それを私たちを押さえつけるためにはお使いにならないということですね。
また、イエスさまはご自分のことを「へりくだっている」とも表現されました。これも単に謙遜だとか、高ぶらないという性格のことではありません。ヨハネの福音書5章19節で「子は(つまりイエスさまご自身は)、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。」と、イエスさまはご自分と神さまの関係をそう表現しておられます。自分の力だけでなんとかしようとしないこと、特にここでは父なる神さまに対してご自分の立場をわきまえていることを指します。先ほどの柔和さと合わせて、完全に父なる神のご計画、ご意向に沿っておられるということですね。それを柔和とか、へりくだりということばで表現しています。
だから、安心してイエスさまのもとに行っていい。安心してイエスさまのもとに行けばいいのです。イエスさまに向けて心を開いて大丈夫です。「あなたに父なる神を知らせる」と言って、無理やりに心の中に入り込んでくるような、そういうお方ではありません。父なる神の思いを完全に体現する形で、私たちを休ませてくださいます。神を知るという休息を、私たちが神に知られていることを知るという安息を、イエスさまは私たちに与えてくださいます。
<くびき>
そして、見落としてはならないのは、イエスさまは「わたしは柔和でへりくだっているから、(それを)私から学びなさい。」と言っておられるという点です。私たちはイエスさまから学ぶべきなんです。柔和さとへりくだりをイエスさまから学ぶのです。それこそが、私たちキリスト者にイエスさまが望んでおられることです。
実は29節の文頭には「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」これがまず来ます。くびきとは、二頭の牛を首のところでつないで、二頭一緒に歩かせて畑を耕す農具のことです。30節で「わたしのくびきは負いやすい」と言っておられる通り、イエスさまとまるでくびきで一つになる歩みは、歩きやすいものです。
人は神のかたちに似せて造られたと創世記にあります(創世記1:27)。そして「キリストこそ神のかたち」なのです(コロサイ1:15)。私たちはイエスさまに似た者として造られています。だから私たちがイエスさまと共に歩むことは、本来的に自然なことなんですよね。いろんなものがこびりついている私たちですが、イエスさまと一つになって、並んで歩いて、イエスさまから学ぶ中で、それらのものが削ぎ落とされていきます。
どこかで聞いた話ですが、声楽家が正しい姿勢・正しい発声法で歌う練習を重ねていくうちに、それを身につけるというよりも、むしろ余計なものが削ぎ落とされていく感覚になると。正しいものを身につけていくというよりも、自分にこびりついているものを削ぎ落としていく感覚というのは、あらゆることに通じて言えることですね。私たちもイエスさまという手本に習いながら、自分の生き方の癖が剥がれ落ちていくのです。私たちは自分の権利や力を、相手を押さえつけるために使ってしまいます。つまり、柔和ではないのです。また、神さまの前に自分の分をわきまえず、自分だけで物事を解決しようとします。へりくだっていないからです。しかし、イエスさまのもとに行くとき、私たちはイエスさまに似た者として成長させられます。そのようにして父なる神を知っていく、子なるイエスさまを知っていく、聖霊の助けによって知らされていく時に、私たちのたましいは安らぎを得ます。安息を得るのです。
<信仰と休息>
島本町にあるニューライフキリスト教会の豊田牧師がこのようなことを言っています。少し長いですが引用します。「『信仰生活に疲れた』という言葉をたびたび耳にします。しかし、これほど矛盾する告白もありません。イエスは、『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』(マタイ11:26)と休息へと招きます。キリスト者とはイエスにあって休息している人だと言えます。
『信仰生活の疲れ』とは、教会の奉仕や人間関係の軋轢による消耗感なのでしょう。律法的な福音理解も魂を消耗させます。また、キリスト教の信仰は人生の苦難や避けてきた問題と向き合うことを促します。聖書の『赦しなさい』との言葉を読むたびに心が重くなるかもしれません。しかし、キリスト者は決して一人で問題に立ち向かうわけではありません。イエスは、『わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです』(11:30)と言いました。イエスのくびきを負うことで、イエスと共に問題と向き合うので、重荷は『軽い荷』となります。信仰生活が孤軍奮闘から神との協働へと導かれると、『そうすれば、たましいに安らぎを得ます』(11:29)との約束が成就します。」(『イエスと共に過ごす安息日』p.8-9)イエスさまと一緒にいて安らぐ、イエスさまを信じることで休めているということを今一度確認しましょう。休めていないのだとしたら、何か見直すべきことがあるのです。
イエスさまは「わたしのもとに来なさい。」と言われます。そこで休みを得られると。礼拝とはそのような場であるはずだし、それは日曜日の礼拝だけでなく、私たちが普段過ごすそれぞれの生活の場でも同じです。イエスさまのもとに行くとは、イエスさまに心を向けるということです。主の臨在、ここに主がおられるということを意識して、イエスさまに心を向けます。自分のイメージするイエスさまではなく、聖書のみことばが示すイエスさまです。
聖書のことばに直面すると、自分が柔和でないこと、自分がへりくだっていないことが明らかになりますが、そのことを隠す必要はないし、見て見ぬふりをする必要もありません。私たちが柔和ではないし、へりくだってもいないからこそ、イエスさまは「わたしから学びなさい。」と言っておられるわけですから。
<隠さない>
以前、10章38節で「自分の十字架」ということを扱った際に、自分の信仰を隠さない、不信仰で不証ししかできない自分を隠さない。それが自分の十字架だということに触れました。自分の十字架を背負ってイエスさまについて行くのですよね。私たちは自分の不信仰を恥じたり、そんな自分を隠してしまおうとします。私たちはそれを重荷と捉えてしまいますが、イエスさまが与えてくださる荷は軽いはずなのです。イエスさまとくびきで一つにされて、イエスさまと歩む道のりは、軽やかなんです。それを勝手に重くしてしまわないで、くびきの形を変えてしまわないで、「わたしのもとに来なさい」と言われるイエスさまに、そのままついていきたいのです。そして「たましいに安らぎを得る」というその平安をいただきたい。何度でもです。イエスさまを信じる生き方、そして神を知り、神に知られる生き方が与える安息を、何度でも受け取り直していきたいのです。
神さまが休みを与えてくださる場面として思い浮かぶのは、第一列王記19章7節です。「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから。」預言者エリヤは、偶像バアルの預言者たちと対決して圧倒的な勝利を収めた後、バアルの信奉者だった王妃イゼベルに命を狙われて逃亡します。疲れ切った彼は荒野で神さまに向けて愚痴をいうのです。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。」(4節)彼はよく頑張ったわけですし、疲れ切ってのこの言葉はある意味では仕方がないと思いますが、先ほどの「へりくだる」という意味では、神さまのなさることを自分がコントロールしてしまっているんですよね。イエスさまのように、父なる神と一つになっていない、彼の現実でした。しかし、エリヤはそれを無理矢理信仰的な言葉で取り繕おうとはせず、「主よ、もう十分です。」と、「死なせてください。」と愚痴を言う。でも、そうやって神さまの方を向きました。先ほどまでの話で言えば、イエスさまの方を向いて、イエスさまのもとに行ったんです。不信仰な言葉のまま。すると主は御使いを遣わして、エリヤを元気づけて言われました。「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから。」そしてエリヤは力を得て、再び歩き出すのです。
私たちもエリヤに倣って、このまま神さまの方を向きましょう。「わたしのもとに来なさい。」と言われるイエスさまのもとに、そのまま行きましょう。
<イエスさまのもとへ行こう>
そうです、イエスさまのもとに行きましょう。そこで得られるのは休息です。安息です。イエスさまは私たちを休ませてくださるお方です。それは神さまを知ることです。神さまがどれほど私たちを愛してくださっているか、その愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」を知るのです(エペソ3:18)。そこに私たちの休息がある。
ガリラヤの人々は、イエスさまのなさったことを見ても、神の国が来ているという現実を信じようとせず、悔い改めることもなく、そしてイエスさまのもとに行くことをしませんでした。それらは「幼子たちに」現されていたからです。抱っこを求める子どもがすることは、ただ腕を伸ばすことだけです。恵みをそのままいただくことだけです。御国の福音を信じ受け入れるのもそれと同じです。あの百人隊長や、会堂司や、長血の女性、彼らはそうやって手を伸ばした人たちでした。そして、彼らはイエスさまのもとに行き、イエスさまが与えてくださるたましいの安らぎ、安息を得たのです。
彼らに倣って、私たちも今日改めてイエスさまのもとに行きたいのです。この疲れをもって、この重荷をもって、不信仰な心のそのままで、イエスさまのもとに行きたい。そこではイエスさまが、ご自分のくびきで一緒になってくださり、ご自分の荷を担がせてくださいます。私たちに生き方を、歩み方を教えてくださる。このイエスさまと出会うことができますように。また、出会い直すことができますように。
ーーー
「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」(列王記第一19:7)
私たちを休ませてくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちを知っていてくださる父なる神の愛、
そして不信仰なままでもイエスさまのところへと向かわせてくださる、
聖霊の満たしと励ましが
今週もお一人お一人の上に、その周りに
豊かにありますように。
アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【9/20】
マタイの福音書11章20節〜27節
「神のみわざを見た者として」
マタイの福音書の続きを読んでいきましょう。先週はバプテスマのヨハネの信仰が揺れた、つまりイエスさまこそ救い主だという確信が揺らいだけれども、イエスさまご自身がそれを励まされたという箇所でした。今日はその続きになります。
<20節〜24節 神のみわざを見た者の責任>
20節、イエスさまはカペナウムだけでなく、ガリラヤ地方の町々を回っておられましたが、20節、他にも二つの町の名前を挙げて責め始めました。彼らが「力あるわざ」、つまり御国の福音を証しする奇跡の数々を見ながら悔い改めなかったからです。
21節、コラジンもベツサイダもガリラヤ地方の町です。ベツサイダは湖畔にあって、ペテロやアンデレ、ピリポの生まれ故郷になります(ヨハネ1:44)。マタイの福音書にはイエスさまがこれらの町にも行かれたことは直接は書かれてありませんが、イエスさまはガリラヤ地方の一帯を巡り歩いておられたので(4:23、11:1)、これらの町にも行っておられたわけですね。
「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」コラジンやベツサイダでも、カペナウム同様に、病人の癒しや悪霊からの解放などの力あるわざ、つまり奇跡がなされたのです。イエスさまが罪人と食事を共にされることもあったでしょう。それらは神の国が来たことの証しであり、しるしなのでした。しかし、彼らはそれを見ても悔い改めなかったのでした。
23節にはカペナウムの町についても述べられていますので、これら三つの町における人々の反応はどれも同じようなものであったと推測できます。カペナウムでは百人隊長の信仰をイエスさまはほめておられましたから(マタイ8:10)、他の町にも個人では悔い改めて福音を受け入れる人がいたと思われます。しかし、町全体としては、イエスさまのわざを見ても悔い改めという応答には至らなかった。大多数の人は信じなかったということでしょう。
ヨハネの福音書1章10節〜11節「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」先日も触れましたが、福音を信じるということには決断が伴います。悔い改める決断です。悔い改めとは、悔やむことではありません。それは悔いるというのです。悔い改めとは向きを変えることです。自分の罪に埋没する生き方ではなく、古い自分にこだわる生き方ではなく、イエスさまの方を向くのです。一発で綺麗さっぱり向きが変わり、自分の生活が変わる人などいません。しかし、イエスさまの方を見る。イエスさまから目を離さない。クリスチャンになってからも何度でもです。それを悔い改めと言います。
今日のような箇所はイエスさまを信じようとしなかった人たちに向けられていると、他人事のように受け取ってはなりません。イエスさまがしてくださったことを目の当たりにしても悔い改めなかったり、自分のやり方にこだわって、神さまが望んでおられることに蓋をしてしまうのは私たちも同じだからです。先ほどのヨハネの福音書には続きがあります。12節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」私たちには、神の子どもとなる特権が与えられています。そのことを思い出しながら、その恵みに感謝しながら、何度でも悔い改めていく必要があります。
22節「おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。」さばきの日にはどこどこの方がさばきに耐えやすい、という表現は10章15節にも出てきました。こういう言い方があるということですね。ツロとシドンは地中海に面する町です。イスラエルに隣接する、フェニキア人の都市でした。古くから偶像礼拝が盛んで、旧約時代から悪名高い、神のさばきを受ける町の代名詞だったのです。しかし、その「ツロとシドンの方がさばきに耐えやすい。」つまり、彼らの方が罪が軽い、そしてコラジンやベツサイダの方が罪が重いというわけです。これは単純に罪の重さを計量しているというより、イエスさまのわざを見た者には、それだけ大きな責任があるということを強調しておられるのでしょう。
23節、24節はカペナウムの話です。先ほども触れたように、信仰をほめられる百人隊長もいましたので、すべての人が福音を拒絶したわけではありませんが、それでもおそらく大半の人が悔い改めることをしなかった。イエスさまの方に向き直ることをしなかったわけですね。「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみ(地獄)にまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」これも先ほどと同様の表現です。創世記に出てくるソドムの町はそれこそ悪名高い、悔い改めのない町だったわけですが、単純に罪の重さを量っているのではなく、それほどにカペナウムの罪は重大だという表現です。直接イエスさまのみわざを見ているのだからです。
実は、ツロもシドンも、そしてソドムも、旧約聖書の中で単純に「救いようのない悪の町」としてだけ描かれているわけではありません。解釈には幅がありますが、ツロの回復を思わせる預言や、ソドムの回復を語っているようにも読める預言もあります(イザヤ23:15-18、エゼキエル16:53など)。神のさばきが必ずしもその都市についての最終宣告ではないのです(エレミヤ48〜49章など)。今朝のイエスさまのことばは、「神のさばきを受けるはずの異邦人の都市でさえ、神に応答し回復する可能性が語られているのに、神の民であり、わたしのわざを直接見たはずのあなたがたはどうなのか。」という叱責であり、嘆きであったのだと思います。
私たちは、福音書に出てくる町の人々のようにイエスさまのみわざを直接見たわけではありません。イエスさまの声を直接聞いたわけでもない。それでも、イエスさまを信じています。イエスさまと出会ったからです。イエスさまが私のためにしてくださったことを信じ受け入れたからです。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)ペテロが書き送っているのは初代教会の第二世代、つまりイエスさまに直接お会いしたことのない人々です。彼らは使徒たちの話を聞いてイエスさまを信じました。私たちも同じです。直接イエスさまを見たわけではない。それでも信じているのです。栄えに満ちた喜びに躍っているのです。それは、イエスさまがこの私にしてくださったことを知ったからです。
今日まで歩んできた中で、神さまがしてくださったことを思い出してください。それらは、ただ良いことがあった、ご利益があったというだけじゃない。主がなさったことは、御国の福音の証しです。主が生きておられることのしるしです。それらを無視して、あれらの町のようにイエスさまを嘆かせるのではなく、イエスさまに応答して、イエスさまの方をまた改めて向き直したいのです。
<25節〜27節 御父と御子の関係>
さて、25節から少し場面が変わります。イエスさまは天の父なる神に向けてこう祈られました。25節、26節「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。』」
イエスさまは祈りに際して、まず父なる神さまに呼びかけ、ほめたたえている、賛美をしています。これは祈りの手本です。主の祈りも同様です。祈りは神さまとの対話ですから、まず神さまに呼びかけます。そして、まず神さまを賛美するのです。もちろん、緊急の時や、普段の何気ない神さまとの対話の時など、語り合い方にはいろいろなケースがありますから、形式にこだわることが大切なのではありません。しかし、何をするにも「型」が大事なように、まず神さまを賛美することを意識しましょう。それは私たちの信仰の姿勢にも影響を与えます。
さて、イエスさま曰く、父なる神さまが「これらのこと」を知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださったというのは、何のことを言っているのでしょう。文脈上、「これらのこと」というのは直前にある内容ですから、ガリラヤの町々が悔い改めなかったということでしょうか。しかし、「悔い改めなかったこと」が隠されるというのは意味が通らないので、もう少し前から、つまり11章全体を振り返ってみたいのです。
信仰の確信が揺れたバプテスマのヨハネを、イエスさまはどうやって励まされたでしょうか。それは、イエスさまによって現されている神の国の現実です。救い主は確かに来たんだ。そして神の国が広がり始めたんだということを、イエスさまはヨハネに思い起こさせました。しかし、それに続いて、その知らせを拒む町々について語られたわけです。神の国は来たのに、こんなに多くのしるしとしてのわざを見たのに、なぜ悔い改めないのかという疑問であり、嘆きであり、叱責だったわけです。
つまり、25節で言われている「これらのこと」、知恵ある者には隠されて幼子たちに現された「これらのこと」というのは、ここまで語られてきたように、イエスさまによって神の国が来ているという現実のことでしょう。それを見たなら、イエスさまのみわざを見たなら、救い主の到来・神の国の到来を信じ、悔い改めるのです。しかし、神の国の現実は隠されていて、自分の知恵や理解だけで捉えようとしても受け取ることはできないのです。むしろ幼子のように、神さまから与えられるものをそのまま受け取る姿勢が必要なのですね。
ここでは「知恵ある者や賢い者」が否定されて、「幼子」の生き方が肯定されているわけですが、これは「難しく考えるな」ということではありません。思考を停止させるような宗教は危険です。聖書の神はそのような迫り方はしません。むしろ、大人の考え方をするようにしなさいと言っているわけです(Ⅰコリント14:20、エペソ4:13など)。ここで言われているのは、自分の知恵や培ってきた経験は大切なものだけれども、それだけを頼りにしていては神の国への道は開かれないということです。大人になって自分の知恵や経験が蓄積されていくと、悔い改めることも、福音を信じることも、難しくなるのです。ガリラヤの町々がそうだった。でも、だからと言って、諦めなさいという話ではありません。マタイの福音書18章3節にこうあります。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」つまり、悔い改めて、子どもたちのようになりなさい。そうして天の御国に入りなさいということですね。幼子のように福音を受け取って、イエスさまがなさったことをそのまま受け取って、そして天の御国に入りなさいということです。抱っこを求める子どもがすることは、ただ腕を伸ばすことだけです。福音を信じ受け入れるのもそれと同じなのではないでしょうか。
27節は少し不思議な箇所です。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」文章が入り組んでいて、難しい表現になっていますけれども、まず「すべてのことが、父なる神さまからイエスさまに渡されている」と。これは分かります。イエスさまにはあらゆる権威が渡されているとマタイの最後にありますし(28:18)、キリストの権威については8章、9章で読んできたことでもありました。「父のほかに子を知っているものはない」という表現と合わせて、父なる神と子なるイエスさまの間には特別な関係があることが語られています。他の箇所でもイエスさまは「わたしと父とは一つです。」と言っておられます(ヨハネ10:30)。
問題は27節の後半です。「子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」とあります。子なるイエスさまが父を知っておられるのは、先ほども見た通り、御父と御子の関係を考えれば当然のことですが、そこに「子が父を現そうと心に定めた者のほかに」という表現もあります。つまり、イエスさまが私たちに、父なる神を示してくださるのですね。子が(イエスさまが)父を(父なる神を)現そうと心に決めた者たち」とは、私たちのことです。私たちが父なる神を知れたのは、福音を信じることが出来たのは、自分の知恵や賢さによるのではない。イエスさまがそのようにしてくださったのだということですね。第一コリント12章3節に「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」とある通りです。
なお、イエスさまが心に定めてくださった人が神を信じることができるというわけですが、こういうところを読むと、「では、選ばれなかった人はどうなるのだろう」と考えてしまいます。これは昔から議論されてきた難しい問題です。けれども、今日ここで確認したいのは、この箇所がはっきりと強調しているのは、私たちが神さまを知ることが出来たのは、自分の知恵や努力の結果ではなく、神さまが恵みによって示してくださったからだ、ということです。いつも思い出しましょう、私たちに信仰を与えてくださったのも、今導いてくださっているのも、すべて神さまの恵みです。それだけはしっかりと読み取りたい。そして、心に刻みたいのです。
<神のみわざを見た者として>
詩篇103篇11節にこうあります。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」私たちは神さまがしてくださったことを忘れてはなりません。主が良くしてくださったことを思い起こし、それゆえに悔い改めて、イエスさまの方を向き直して、この歩みを続けようではありませんか。
私たちは主がなさったことよりも、人がしたこと、人にされたことの方を忘れずにいて、数え上げてしまうものです。しかし、主がなさったこと、主がしてくださったことで心を満たしていたいのです。主がなさったことの数々、その究極は私たちのための十字架であり、復活だったではないですか。それらは天の御国を証しするものです。私たちの罪は赦され、この地に神の国が広がるのです。主がなさったこと、主がしてくださったことを忘れずにいましょう。
そして、主が語られたことばに心を刺されたのなら、教えられたのなら、悔い改めましょう。イエスさまの方に向き直りましょう。神のみわざを見た者として、しっかりと悔い改めるべきは悔い改めようではありませんか。その上で、イエスさまから目を離さずに歩み続けていきましょう。聖霊がその歩みを助けていてくださいます。
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「わがたましいよ/主をほめたたえよ。/主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103:2
私たちのために救いのみわざをなしてくださった主イエス・キリストの恵みと、
私たちに悔い改めを教えて導いてくださる父なる神の愛、
そして、主のみわざを思い起こさせてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週も、お一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
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【9/13】
マタイの福音書11章2節〜19節
「揺らぎながらも」
<バプテスマのヨハネ>
イエスさまによる弟子の派遣が終わり、場面が移ります。「牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネ」とは、バプテスマのヨハネのことです。彼はイエスさまが公に活動を始めるに先立って人々に悔い改めの必要性を説いていましたが、ヘロデ王に憎まれて捕らえられていました(4:12)。その理由は14章で明らかになります。
振り返ると、バプテスマのヨハネという人は、イエスの母マリアの親類であるエリサベツと、祭司ザカリヤの間に生まれました(ルカ1章)。ヨハネは敬虔な祭司の老夫婦に奇跡的に与えられた子でした。祭司は家系を大切にするので、普通に考えればヨハネはザカリヤの跡継ぎとして、当然祭司になるはずでした。実際、人々は彼に父親の名前を継がせようとしたのです。しかし、夫妻は御使いに告げられたとおりにヨハネと名前をつけました。この子の誕生は、祭司の家に後継ぎが生まれたという出来事ではなかったからです。
天使がザカリヤに伝えた内容は、「(この子は)エリヤの霊と力で、主に先立って歩」むということ(ルカ1:17)。旧約最後の預言者マラキが伝えたように救い主に先立って歩む存在、それがヨハネなのでした。つまり、この子がそれだと言うのなら、もう間も無く、救い主もまたお生まれになるということです。ザカリヤはそれを信じ、その前提でヨハネを育てたはずなのです。
その結果、成長したヨハネは「イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた」とあります(ルカ1:80)。荒野が彼の生活の場でした。荒野は、神が預言者を立たせる場所でもありました。ヨハネが荒野に住んだのは、自分の使命を自覚していたからでしょう。つまり、自分の役割は救い主到来の道備えをするエリヤであり、自分の後には必ず救い主がやってくることを固く信じていたはずなのです。そして、時至って、ヨルダン川でイエスさまを見た時、彼はイエスさまを指してこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29)感激をもって彼はイエスさまをそう表現した。ヨハネが信じていた通り、とうとう救い主がおいでになったのです。
それなのに、今日の箇所でヨハネは弱気なことを言っています。自分の弟子たちをイエスのところへやって「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」などと。
ヨハネほどの人でも揺れるんですね。
信仰というのは、ある程度にまで成長したら揺れることなく、疑うこともなくなるのではないということです。心で決めたこと、信じようと決意したこと、それらは揺れ動くんです。ヨハネのようにずっとそうやって信じてきたのであってもです。奇跡的な経緯があり、みことばによる確信が深められてきたのであってもです。ここへ来てヨハネの確信も揺れたんです。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」イエスさまと出会ったのに、その御声を聞き、そのことばを聞いたのに、揺れてしまう。
それでもヨハネはイエスさまに聞きました。自分は動けなくても、使いを出してイエスさまに尋ねているんですよね。これが大事です。ヨハネのこのことばは、信仰が揺らいでしまったゆえのものだったのですが、だからこそイエスさまに向けて尋ねている。それがすごく大事ですね。揺れながらも、疑いながらも、イエスさまに向けて祈る。尋ねていく。私たちもそうありたい。
<4節〜 不信仰を責めないイエスさま>
イエスさまはヨハネの弟子たちにこう伝えました。4節「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。」ヨハネの弟子たちがイエスさまと会って、言葉を交わしたということ自体がヨハネを励ますのです。人の証しには、信仰を回復させる力があるのです。
5節はこれまで福音書で読み進めてきた内容です。「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」イエスさまがなさったこれらのことは、天の御国が広がり始めたことのしるしでした。神の国のあり方をこの地上で先取りして示すものだったのです。イエスさまは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言って公の活動を開始されました(4:17)。イエスさまのなさったことは、天の御国を示すものだった。これはすごく大切な聖書理解の枠組みです。
救い主の到来とは、偉い人、ヒーローがいきなり登場して、サッと罪を赦して去っていかれてそれで終わりということではないのです。天と地を造られた神さまが、やがて新天新地を完成されるという神さまの計画の大きな枠組みがあって、聖書全体で表されている大きな枠組みがあって、そのためには人の罪が赦されなければならない、私たちと神さまとの関係が回復しなければならない、だから救い主が来られるということがずっと約束されてきて、それを信じて歩んできた旧約の人々の歴史が描かれている。希望を諦めなかった人々の汗と涙の日々が記録されていて、そしてやっと神さまのことばが実現してイエスさまが来られたんです。救い主は十字架にかかり、私たちの罪は赦される。そして救い主はよみがえり、私たちも一緒にその復活のいのちで歩み、神の国は広がり、その完成の前味を今味わいながら、もう死も涙もないと言われるその時を今すでに味わいつつ、私たちはここで地の塩として、世の光として、隣人を愛しながらこの地上を歩み、やがて新天新地が完成するんです。神が私たちと共に住むようになられる。これが、救い主の到来で示された御国の福音です。
救い主の到来とは、それによって大きく進む天の御国の福音です。イエスさまはヨハネにそれを思い出させました。「見よ。世の罪を取り除く、神の小羊。」とはヨハネ自身が言ったことです。この方が私たちの罪を取り除いてくださる。この方が私たちと神の関係を回復してくださる。神の国の人間としてくださる。ヨハネはそう宣言していたのです。イエスさまはヨハネにそのことを思い出させたのでした。
私たちも、ヨハネ同様に信仰が揺らぎますし、信仰の確信が薄れてしまうことがあります。しかし、イエスさまは私たちの信仰にも励ましを与えてくださって、確信を思い出させてくださいます。「ヨハネに伝えなさい。」とヨハネを励ましてくださったイエスさまが、私たちの信仰をも励ましてくださる。
<6節 主イエスにつまずかない者の幸い>
6節「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」つまずくというのは、信仰が妨げられる、受け入れられなくなる、そのために離れてしまうというニュアンスの表現です。つまり、ヨハネはイエスさまにつまずいたのです。ヨハネの問題は、自分の信仰が弱くなった、確信が揺らいだということだけでなく、「目の前のイエスが、自分の期待していた救い主と違って見える」ということでもありました。
ヨハネはかなり厳しいメッセージを語ってきました。「斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(3:10)「麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(3:12)だからこそ悔い改めなさいということではあったのですが、彼が語ってきたのはさばきのメッセージです。しかも、自分は今不当に牢に入れられているわけです。神のさばきが今すぐにくだされるという期待を持っていたとしても不思議ではありません。
ところが、イエスさまがなさっていたことは、病人を癒やし、悪霊を追い出し、貧しい者に福音を伝えるということ。罪人たちと食事をし、人々を赦すということでした。これらは神の国のしるしだったのですが、ヨハネにとっては救い主のイメージ、来るべきお方のイメージと完全には重ならなかったのかもしれません。そんなヨハネの思いにイエスさまは気づいておられて、御国の福音を思い出させつつ、わたしにつまずかない者は幸いですと、神の国の福音を、その証を、そのまま受け取ることの幸いを語られたわけですね。
私たちも同じです。信仰の確信が揺らぎもするし、自分が思い描くイエスさまと違うイエスさまがみことばに示されれば、それにつまずいたりもするのですが、十字架にかかられる前夜、イエスさまがペテロに言われたことばを思い出してください。「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)あの夜、ペテロは信仰が揺らいだし、「イエスさまが捕まるわけがない」という意味でイエスさまにつまずいたのです。しかし、イエスさまが祈ってくださっていた。先週も触れたように、主は私たちのためにもとりなして、祈っていてくださるお方です(ローマ8:34、ヘブル4:14-16)。
<7節〜>
ヨハネの弟子たちが帰っていくと、イエスさまはヨハネについて話し始められました。7節〜9節「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。」これはヨハネのことを言っています。バプテスマのヨハネのことを、預言者よりもすぐれた者と表現しています。
10節は、主の道の備えをする人物について預言されていたマラキ書3章1節の引用です。彼こそ、その人だと。
11節の前半は、バプテスマのヨハネほど偉大な人はいないという表現ですが、彼の信仰や人格が優れていたという意味ではなくて、彼は神の救いの歴史におけるキーパーソンだということが言われています。
その次が不思議です。「しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」これは12節以降と合わせて理解するとよいと思います。12節「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」ますます不思議な表現になっていますが、バプテスマのヨハネによって救い主と神の国の到来が伝えられて以降、「天の御国は激しく攻められてい」ると。確かに、ヨハネが牢屋に入れられたり、これからイエスさまへの風当たりが厳しくなっていくわけで、天の御国は激しく攻められている、暴力的な抵抗を受けているのです。「激しく攻める者たちがそれを奪い取っている」、そんな表現すらあるわけです。神の国が来たからこそ、それに対する抵抗もまた激しくなっています。
ところで、この「激しく攻められている」というギリシャ語の表現は、別の訳も可能です。「天の御国は激しく攻められ、奪い取られている。」ではなく、「天の御国は力強く到来しており、熱心な者たちがそこに押し入っている。」というものです(新改訳2017の脚注参照)。どちらの理解にも根拠があります。両方のニュアンスを読み取れる箇所になっています。どちらにせよです。どちらにせよ、神の国の到来は時代に大きなインパクトを与えているのです。イエスさまが来られたという事実は、その恵みは、それを受け取るものをいわば「偉大」にする。決定的な、恵みの時代が始まったのだからです。
ある意味で、ヨハネは夜明けを告げる人でした。東の空が明るくなってきて、もうすぐ夜が明けるとヨハネは叫んだのです。一方、天の御国の一番小さい者は実際に夜が明けた世界を生きている。夜明けを告げたヨハネと、実際に夜明けを生きている人を比べるなら、実際に夜明けを生きている人の方がいわば「偉大」だという表現です。繰り返しますが、人格や信仰の優劣を言っているのではなく、神さまの救いの計画が進んだことの意味、そして、その恵みの中にいるということの大きさが言われています。ヨハネをほめることばから、いつのまにか、福音を信じる人たちを「偉大」だとして、天の御国の福音の恵みの大きさを表現することばに変わっているのですね。
13節〜14節もその流れで理解できます。「すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。」すべての預言者たちと律法、つまり旧約聖書は夜明けを予告し、そしてヨハネがそれを告げて、新しい時代が始まりました。キリストが来られた。神の国が始まったのです。あなたがたはその恵みの中にいるんだということです。14節は注意が必要です。「あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。」人々が受け入れれば、ヨハネがエリヤになるということではありません。人々が、私たちが、受け入れなくても、ヨハネがエリヤであること、そして神の救いの計画が進んでいることは変わりません。14節は「神の救いの計画はすでに進んでいる。そのことを、あなたがたは受け入れますか?」という問いだと理解することができます。
キリストが来られて以降のこの時代が、どれほど恵みの時代であることか、私たちは忘れがちです。でも旧約聖書の人々を思い出してください。アブラハム、モーセ、ダビデ、イザヤ、エレミヤ、彼らがどのような思いで神さまに従ってきたかを思い出してください。決してまっすぐな歩みではなかったし、右に逸れ、左に逸れて、転んだり傷だらけになったりしながら、それでも彼らは神さまを見上げて歩んできました。その先に救い主が来られることを確信していたからです。そして、時至って、その通りにヨハネが立てられ、そしてイエスさまが来られ、天の御国が広がり始めたんです。
この恵みを思い返しましょう。聖書が証ししているこの大きな救いのご計画、こんなに大きなスケールで描かれる救いのストーリーの中に私たちはいます。しかも、夜が明けた新しい章の中にです。天の御国が広がり始めている。自分は一人じゃない。自分は見捨てられていない。イエスさまが共におられる。そういう時代にいるんです。だから従っていくんです。地の塩として、世の光として生きるんです。今私たちはそういう時代を生きている。このことを何度でも思い起こしましょう。信仰が揺れるたびに、確信が薄れるたびにイエスさまに励ましていただいて。またイエスさまにつまずくたびに、みことばにそれを正していただきながら、何度でも天の御国の生き方を始め直したいのです。神を愛し、人に仕える生き方を、今日改めて始めようではありませんか。
<15節〜19節>
15節以降は、この恵みの時代に生きながら、御国の福音を知らされながら、その恵みに気づかない、気づこうとしない人々に対することばです。私たちには関係ないのではなくて、むしろ反面教師として気をつけなければなりません。
15節「耳のある者は聞きなさい。」私たちのこの耳は、神さまの御声を聴き取るためにあるのです。神さまの愛を疑わせるサタンの声、心を惑わせる人の声や自分の声ではなく、神さまの声を聴き取っていく。神さまのみことばを聴き取っていくのです。御国の福音を聴き取っていくのです。
16節、私たちの身の回りには福音を語ってくれている人がいます。「ほかの子どもたちに呼びかける子ども」ですね。福音を呼びかけてくれている存在がいるのです。それは聖書のことばを通してかもしれないし、直接聖書のことばではないかもしれません。しかし、ダーバールというヘブル語が「ことば」と同時に「出来事」を表すように、神のことばは聖書の文字だけでなく、世界のあらゆる出来事を通して響いています。もちろん、明示されているのは聖書ですが、身の回りの出来事の中にも神のみことばが、福音の呼びかけが響いていることを聴き取っていくのです。「耳がある者は聞きなさい。」と主は言われます。
呼びかけというのは、それを聞いた人が応答することを期待しています。それなのに、17節、私たちが反応しないということがないでしょうか。笛の音を聞いたなら踊るのが自然な反応だし、弔いの歌を聞いたのなら悲しむのが自然な反応です。福音を聞いたなら、信じて応答するのです。しかし、この時代はそれを拒むとイエスさまは嘆いておられるわけです。それは今のこの、私たちの時代も同じです。
人々には自分の思い描く救い主像があるからです。自分にとって都合のいいイメージがあるからです。だからヨハネが断食をしていても、逆にイエスさまが食べたり飲んだりしていても文句を言う有様です。イエスさまの姿につまずいて、自分の思っていることを文句として言っていくだけなのです。
19節後半「しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」知恵とは神さまの知恵です。救いのご計画を含む神さまの知恵です。神さまの救いのご計画が正しく進んでいることは、その行いが証明する。実際に行われてきた事柄が証明している。つまり、ヨハネが伝えた悔い改めの教え、そしてイエスさまがなされた一つ一つのこと、それは癒しや悪霊追放、よみがえりなどの奇跡、また罪人と共に食事をしてくださるということ。究極的には十字架と復活です。それらの一つ一つが、「知恵」が正しいことを証明している。神さまの知恵の正しさを証明しているということですね。
それらを信じようとしない町に向けて、20節以降ではイエスさまからの叱責が続きます。それを経て、有名な28節、29節へと至ることになります。
<揺れ動いても>
私たちの確信は揺らぎます。信仰が弱ることもある。それでも、イエスさまが私たちのために祈っていてくださるから大丈夫なんです(ルカ22:32)。ヘブル人への手紙には次のようにあります。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)目を離さない、その視線もイエスさまが助けてくださる。むしろ、イエスさまが私たちを見つめていてくださいます(ルカ22:61)。大丈夫です。信仰が揺らいだのなら、確信が薄れ、イエスさまにつまずいたのなら、今日、また改めて、この方についていきましょう。キリストが来られた、神の国が広がっている、その確信を深めていただきながら、信仰を強めていただきながら、一歩一歩、歩んでまいりましょう。
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「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)
揺れ動く私たちを励まし、呼びかけ続けてくださる主イエス・キリストの恵みと
私たちを神の国の者として見ていてくださる父なる神の愛
そしてイエスさまのまなざしに気づかせ続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週も、お一人お一人の上に、豊かにありますように。
アーメン
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