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Dropboxでのストックとは別に、直近の礼拝の録音をこちらにも公開します。再生ボタンを用意したのでご利用ください。(2021/7/22)

※集まっての礼拝休会中は、メッセージの録音はありません。

​礼拝メッセージ
 
210711コロ3:9〜11「神と共に歩むための一致」
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Google Docsでのストックとは別に、直近の原稿を以下にも公開します。ご利用ください。

【8/1】​

第一ヨハネ4:19

「Because God First Loved Us」

<神の愛>
ヨハネはこの手紙の中で、互いに愛し合いましょうと繰り返して来ました(3:11,18,4:7)。しかし、ここへ来て「私たちは愛しています」と言い切っています。私たちのうちには愛があるのだという言い方に聞こえますが、それは私たち自身から出た愛ではなく、神さまの愛なのです。「神がまず私たちを愛してくださったからです」と言っている通りです。

 

よく説明されることですが、愛を表す古代ギリシャ語にはいくつかあって、神さまの愛は「アガペー」という単語で表現されています。友愛や情愛ではなく、無条件の愛を表す単語です。私たちのうちには無条件の愛などこれっぽっちもありませんが、神さまが無条件の愛で私たちを愛してくださったから、だから私たちは愛し合うことができるのだということです。

 

7節から10節はヨハネが作詞した賛美歌の歌詞だったかもしれません。パウロによる愛の讃歌といえば第一コリント13章ですが、ここはヨハネによる愛の讃歌です。「愛は神から出ている」ということ。私たちのために神がひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださった、それによって神の愛が示されたということ、イエスさまが私たちの罪のためになだめのささげ物となったこと、そこにこそ愛があるのだということが歌われています。

 

<条件付きの愛、無条件の愛>
この愛が私たちのうちにある友愛や情愛、条件付きの愛とは全く違うものであることは明らかです。私たちは条件付きにしか愛せないからです。他人のことも、自分自身に対しても、何かができるから、こういう存在だから、「〜だから」愛します。しかし、神さまの愛は無条件です。何もできなかった「としても」、それなりの存在では「なかったとしても」の愛です。それは、ひとり子イエス・キリストのいのちを懸けた愛でした。こうやって愛されたから。だから、私たちも愛し合いましょうというわけです。しかし、それすらも私たちの熱心で可能になるようなものではありません。どこまでも、神さまの愛をいただいて、神さまの愛を反映させて、神さまの愛ゆえのものです。神さまの愛を受けて、それをそのまま人に向けていく。自分にもそれをそのまま向けていくんです。スローガンは「Because God First Loved Us」です。神がまず私たちを愛してくださったから。これをいつも思い出すことができたらと思います。

 

<愛せない現実=罪、からの解放>
神さまが「良い」と言われた世界を、人々を、あなた自身を、そのまま「良い」と思えなかったら、それは罪なんですよね。神さまが愛しておられる人を愛せなかったとしたら、それは罪なんですよね。罪とは神さまの御心から外れているということですから、神さまが見ておられるように、愛しておられるようにこの世界を、目の前の人を、自分自身を見られないなら、それこそが罪なんです。

でも、そんな私たちの罪が赦されるためにイエスさまが十字架にかかられました。そして死んでよみがえられ、私たちを愛してくださったその愛で私たちは生かされるんです。私たちは神さまのこの愛で世界を、目の前の人を、そして自分自身を見ていくことができます。愛のない私たちですが、神さまの愛をいただいて、それを反映させていただく存在にされているのです。

<目の前の人への隣人愛>
ヨハネの手紙の宛先の人々の間には、いさかいがあったようです(4:20など)。教会内でも、クリスチャン同士でも、お互いに愛し合うことができない現実がありました。紀元1世紀(西暦二桁台)後半に大きく流行したグノーシス主義という考え方によれば、目に見えないものこそが重要で、目に見える肉体やら地上の人間関係には意味がないとされましたから、それに影響された人たちは、目の前の人に対する隣人愛を忘れて、ただひたすら「霊的な」ことを追い求めていたようです。それは「信仰深い」印象がありました。しかし、ヨハネは警鐘を鳴らします。主イエスが言われたことは「あなたの隣人を愛しなさい」ということが、「神を愛しなさい」とセットであること(マタイ22:37-40、ヨハネ13:34)。そもそも主イエスご自身が「肉体」をとって、人としてこの世界に来てくださった方であること(ヨハネ1:14)。だから、「霊的」ではない「地上のもの」も大切なんだ、目の前のその人は神の愛の対象であり、私もその人へ隣人愛を忘れてはならないんだということでした。

そのためには、「Because God First Loved Us」、神がまず私を愛してくださった、このことが土台であり、前提です。愛のない私たちにとっての、これこそが希望なんです。

他人に対する愛はありますか?また、究極の隣人は自分自身かもしれませんが、自分に対する愛はありますか?それらは無条件の愛ですか?

神さまの愛を思い出しましょう。それをそのまま手渡していくような、そのような愛の生き方へと、神さまは私たちを少しずつ変え続けてくださいます。そのみわざに思い切ってこの身を委ねていくことができるように、聖霊なる神が、私たちを今日も守ってくださいますように。

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【7/25】

詩篇82篇

「神よ、立ち上がってください」

詩篇82篇は、社会的立場の弱い人々のために、神さまが立ち上がってくださるようにと祈る歌です。聖書の神は「唯一の神」ですが、この詩篇には「神々」が出てきます。人間には及びつかない領域のことが、あえてこのように表現されているように思われます。それらの力が「不正のさばき」をし、悪しき者たちの味方をしているというのです。

<人の力の及ばないところ>
弱い者、みなしご、苦しい者、乏しい者、弱い者、貧しい者、みな、自分の力では自分を守れない人々です。これらの人々が蔑まれ、虐げられているのは、本来あるべき姿ではありません。「さばき」とは、あるべきものの道理を正すという意味ですから、物事が本来あるべき姿ではない状態になっていたり、それがわざと放置されたりしているなら、それは正されるべきです。しかし、そうなっていない。しかも、その原因は人の力の及ばないところにあるというのです。

私たちのこの時代、この社会も、構造的な悪の問題にがんじがらめになっています。あれを直そうと思えばこれ、これを正そうと思ってもこれというように、複雑な事情が絡み合って、もう人の手ではそれらを正すことは不可能なように思えます。

しかし、彼ら(神々)は「人のように死に、君主たちの一人のように倒れ」ます(7節)。いかなる状況も、どんな構造的な悪も、やはり神ではないのです。この世界を造られたお方だけが神であり、その方にとっては力の及ばないところなどありません。主なる神は「すべての国々をご自分のものとしておられる」のだからです(8節)。

<今はまだ>
それでも、「神よ、立ち上がって地をさばいてください」と祈らざるをえないということは、私たちの目の前の状況は相変わらず悲惨であり、問題が山積みだということです。神さまはまだ立ち上がっておられないようにしか思えないということです。いつまでこの状況が続くのかと、思わざるを得ないのです(2節)。

ここにも、聖書のテーマの一つである「神の国のすでにといまだ」があります。イエスさまが来られたことで、神の国は広がり始めました。捕らわれ人、虐げられている人を解放する神の国は始まったのです(ルカ4:18-19)。それでも、天に戻られたイエスさまがまた再臨して神の国が完成する時まで、地上に困難は続きます。神の国はすでに来ました。しかし、まだ完成はしていません。

神の国の「すでにといまだ」のはざまで、私たちは、「神よ、立ち上がってください」と祈り続けていきます。「主の祈り」もそうです。「御国を来らせたまえ」と祈り続けていくのです(マタイ5:10)。その祈りは聞かれています。

<社会の問題として、自分の問題として>
貧困や格差の問題など、社会の負の側面のために働くことは良いことです。いつか最終的に神さまが正してくださることを信じつつ、神さまが私を通して表してくださるみわざに期待して、おゆだねして、自分にできることを差し出すのです。人の力では構造的な悪を根本的に正すことは無理かもしれませんが、目の前の一人を助けることはできるかもしれません。教会にできることには限界もありますが、福祉の専門家、行政などと協力しながら、地の塩としての役割を果たすことができたらと願います。

本篇の「神々」とは地上の王たち、為政者たちのことという解釈もあります。そうだとすると、社会に不正を蔓延させている王たちに対して、この世界を造り、完成まで導いておられる主なる神がおられること、彼らの政(まつりごと)の不正を正される唯一の神がおられることを宣言する歌なのかもしれません。不正を続ける裁判官たちという解釈もあります。どちらにせよ、一般人にはどうにもならない種類の不正です。しかし、神が立ち上がって正しいさばきをなさいます。それは将来のいつかという話だけでなく、今もです。そして私たちはそのことに自分を用いていただけるのです。

社会問題というと気後れしてしまうかもしれませんが、自らの心の貧しさということも重ねられるかもしれません。自分の心の貧困は自分自身がよく知っています。神さまはこんな私を用いてくださるだろうか。救ってくださるだろうかと不安に思う必要はありません。「心の貧しい者は幸いです」と聖書は語ります。天の御国はその人たちのものだから、と(マタイ5:3)。神は、あなたのためにも立ち上がってくださいます。今日も、神の国がこの地に、そして我が内に、広がっていくことを祈っていきましょう。そして、神さまから遣わされた場所で、任されていることに誠実に応答していこうではありませんか。そこには神さまの正しさ、神さまのさばきが明らかにされていきます。

 

私たち自身には、正しさもさばきも語れる資格はありません。私たちは十字架で赦されただけであって、依然として罪人だからです。しかし、「赦された罪人」なのです。「用いていただける罪人」なのです。あなたを用いてこの世界を癒し、回復させ続ける神さまのみわざが、今日も進んでいきますように。
 

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【7/18】

黙示録1:17、18「共におられるイエスさま」

ヨハネの黙示録は、象徴的な表現も多い上に全てが時系列で書かれているわけでもないという、なんとも難しい書物です。そもそも、基本的に「世の終わり」というと恐ろしい印象がするわけです。しかし、ヨハネの黙示録は希望の書とも言われます。そこには、どんな恐ろしい状況の中にもイエスさまが共にいてくださるということが書かれてあるからです。今日の箇所は端的にそのことを表しています。

<孤独と絶望の中にいたヨハネ>
これを書いたのは、イエスさまの弟子のヨハネです。彼はイエスさまへの信仰のゆえにパトモス島に島流しになっていました。紀元90年頃のことです。仲間の弟子たちはみな殉教の死を遂げた中、生き延びたヨハネは遠く離れた場所にたった一人でした(1:9)。しかし、その荒野のような場所が神の声を聞く場所になりました(1:10)。アブラハムら信仰の父祖たちも、預言者たちも、荒野で神さまの声を聞きました。何もない荒れ果てた場所でこそ、また物事が順調に進まない不安や、誰もいなくなってしまったという孤独に苛まれるような時にこそ、そこで神さまの声を聞くことができるのです。

 

主の日に聞いたその大きな声は、ヨハネにこれから見たことを書き送れと告げました。それは二章以降で記されていきます。ヨハネがその御声に従ったから、この書物は書き残され、今私たちもそれを読むことができます。

 

<倒れこんだヨハネ>
彼がそこに見た七つの金の燭台は教会を表していました(20節)。そしてその真ん中には「人の子のような方」、つまりイエスさまがおられるのが見えました。「人の子」とは旧約聖書で預言されていたメシアの表現で(ダニエル書7:13)、イエスさまはご自分のことを「人の子」と呼んでおられました。懐かしいイエスさま。しかしそのお姿のあまりの荘厳さと恐ろしさに、ヨハネは倒れこんでしまいます(17節)。神さまの素晴らしさ、その栄光を知らされる時、私たちは自分の醜さをも同時に知ることになります。主の足元に倒れこんでしまうのは自然なことだと思います。信仰を捨てずに、島に流されても懸命に生きてきた、そういう自負が多少なりともあったと思いますが、すべて吹き飛ばされるような圧倒的な臨在でした。ヨハネには島流しにされても棄教しないほどの熱心な信仰がありましたが、いざイエスさまにお会いした時、彼には倒れこむことしかできなかったのです。

 

ガリラヤ湖で昼間に大漁の魚をとったペテロもそうでした。漁師としての経験やプライドなど何の役にも立たず、ただイエスさまの前にひざまずいて、「私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と呟くことしかできませんでした。

 

<「恐れることはない」>
しかし、イエスさまは「恐れることはない。」と言われます。以前の翻訳では「恐れてはならない」となっていました。聖書にはよく神さまからのこのことばが載っていますが、それは恐れるしかない私たちを否定することばではなく、神さまからの励ましです。神さまは私たちが恐れるしかないことをよくよくわかっておられます。しかし、それ以上に神さまは私たちと親しく交わりたいと願っておられ、恐れずに、大胆に神さまに近づくようにと声をかけ続けてくださっているのです。

そして、「わたしは〜である」という表現が繰り返されます。これは福音書でもイエスさまが繰り返し使っておられた表現ですけれども、もとを正せば、神さまご自身の名前である「わたしはある」にまでさかのぼります(出エジプト3:14)。神さまは、ご自身以外の存在ではない。神さまはどこまでも神さまご自身であり、他の何ものでもありません。その力強さがここの表現の前提になっています。

 

①初めであり、終わりである方
主はご自身のことを「初めであり、終わりである」と表現されました。世界の歴史はこの方によって始まり、そしてこの方によって締められるということです。世界にはゴールがある、向かうべき目標があるのです。それはイエスさまの再臨であり、新天新地です。黙示録の一番最後にそのことは記されています。諸行無常に輪廻を繰り返すということではなく、歴史には終着点があるというのが聖書の世界観です。それはイエスさまと共にある新天新地です。いかに今の世の中が低空飛行で下降気味であっても、最終的には希望があることを忘れずにいましょう。

②世々限りなく生きている方
また、「わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。」とも言われました。イエスさまは十字架にかかって仮死状態になったのではありません。本当に死なれたのです。その上で復活されました。聖書に記されている通り、使徒信条で告白されている通りですね。絶望の只中で、荒野で私たちがお会いするそのお方は、今も生きておられるお方です。日々、このお方と生きた交わりを大切にしていきましょう。語りかけ、祈り、その御声を聞いていきましょう。聖書のみことばを読み、その御声を聞いていきましょう。

 

③死とよみの鍵を持っている方
そして主は、死と、死後の世界についてもすべて掌握しておられるお方です。「よみ」(ハデス)とは、いわゆる地獄(ゲヘナ)とはニュアンスが違って、「死後の世界」というような意味合いです。イエスさまは「よみ」にくだりましたが、「よみがえられ」、死を打ち破ったお方です。私たちには死後の世界は未知の世界ですが、イエスさまにお任せできるから安心です。私たちの身体はいつか必ず終わりを迎えますが、死は終わりではありません。「よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえ」られたお方は、私たちの死後のことも把握して、導いてくださいます。教会にはその希望が与えられているのです(マタイ16:18)。

<困難な時代の中でも>
ヨハネがこれを書いた紀元90年頃、教会は迫害のさなかにありました。ローマ帝国という異教社会の中にあっても皇帝を神とはせず、しかし愛を持って社会に仕えているその生き方は多くの反感を買ったのです。紀元64年にはローマで大火が起こり、その原因がクリスチャンたちになすりつけられるということもありました。信仰を守ることが困難な時代でした。教会は風前の灯のように思えました。しかし、ヨハネは「燭台の真ん中に立っておられる力強い栄光に満ちた主」を見たのです。燭台とは教会のことでした。主は困難な時代の只中にあっても、教会が風前の灯のような状況の只中にあっても、そこに力強く厳然といてくださるのです。そして「恐れることはない。」と声をかけ続けてくださいます。

大阪府でのコロナ感染第五波が始まりつつあると言われる中で、何とかあと一回だけでも集まりたかったのですが、すでに高齢の方が県をまたいで電車移動してくるような状況ではないと判断し、本日からまた「それぞれでの礼拝」に切り替えました。コロナ禍にあって、私たちはまさに風前の灯のようです。しかし、ここで私たちは見るのです。力強く栄光に満ちた主が、すべてを支配しておられる主が、ここに立っていてくださることを。そして「書き送れ」と言われたように、私たちに対して明確なご意思を持って、ご計画をもって、語りかけてくださる方であることを。神さまにはご計画があり、私たちはそのために、神の国の広がりのために用いていただけるのだということを。

だから、今日も、パトモス島でのヨハネのように、孤独と絶望感の只中であっても、微力な、非力な応答であっても、精一杯の応答をしたいと思います。神さまから問われていることは何でしょうか。あなたがそれに応答することは、神の国の歴史の一ページとなり、多くの人を励ますことにつながっていきます。聖霊なる神が、あなたを力づけてくださいますように。

ここに主がおられます。そのことを今日も、見させていただきましょう。

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【7/11】

コロサイ3:9ー11「神と共に歩むための一致」

本日のみことばも、先週からの続きを感じさせるものでした。「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」先週はエペソ書から、ユダヤ人もギリシャ人もないということ、私たちもあなたがたもキリストにあって一つとされており、共にこの世界に仕えていくのだというパウロの宣言を読みましたが、本日のコロサイ書でも同じように、人種や割礼の有無、立場などで分裂していたのであろうコロサイ教会に向けて、パウロは呼びかけています。エペソの教会だけでなく、コロサイの教会も分裂していたんですね。自分と同じような人で固まって、そうではない相手を区別し、差別していく傾向は私たちにもありますよね。人の罪の傾向なんでしょうね。簡単に相手にレッテルを貼ってしまうわけです。

しかし、「救われたあなたがた」であり、そして「救われた私たち」なんですよね。パウロがエペソの教会に向けて話していたのは、共に成長して、キリストのからだを建て上げるんだということでした。そうやって共に「良い行い」に向かっていく。神の国がこの地に広がっていくために(もちろん、それが完成するのは主の再臨の時ですが)、私たちは地の塩として、世の光として、共に人々に仕えていく。共に良い行いに向かっていくんですよね。パウロは基本的にどの手紙でも、あなたがたと呼びかけ、私たちという表現と同化させて、同一視しています。個々人がそれぞれ救われてそれで終わりではなくて、教会として共に成長していくことが念頭に置かれているんです。その上で、今日のコロサイのこの箇所では、共にきよめられていく、聖化されていくということにポイントが置かれているようです。

 

<共に新しい人を着た>
3:10に「新しい人を着た」という表現があります。これは救われて新しくなった、聖霊が我がうちに住まわれたということを表現するパウロの書き方です。9節に「古い人、古い行い」とありますが、それを脱ぎ捨てて、新しい人を着た。すでに新しい人を着ているんだ、私たちの内なる人は新しくされたんだということですね。だから、互いに偽りを言ってはいけない。8節、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさいと。5節まで戻ると、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲、これらを殺してしまいなさいというんですね。

10節、新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続けると言います。され続けるというのがポイントです。聖化って、聖い何かに一気に変身してしまうことではないんです。聖められていくっていうのは、罪を犯さなくなることではなくて、どこまでもイエスさまの十字架が自分には必要だということがわからされていくこと。聖書の登場人物たちの歩みを見れば明らかです。たとえばパウロ自身、晩年に書いたテモテへの手紙の中で「自分は罪びとのかしら」だと言っています。ペテロも、ペンテコステの聖霊の注ぎを体験して、全く間違えることがなくなったかと言えば違いました。それでもイエスさまに救われたことを頼りに、イエスさまと共に歩み続けたのです。まったく聖められていない自分をみて嘆くのではなく、それを救い、それを成長させてくださる神さまに信頼して、神さまだけに頼って、歩んでいく。神さまと共に歩み続ける。そう、神さまと共に歩み続ける。それが聖化ですね。

そしてその聖化とは、個々人だけの話ではなく、教会という単位でなされていく。神の民という単位でなされていくのだということです。先ほど5節以降で読んだように、共同体の中でお互いの間で嘘や偽り、怒りや悪意がないように、不品行がないように。新しい人を着たもの同士として、成長していくようにというわけです。なぜなら、3:1以降を読みます。「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」共に神さまを見上げながら、お互いの信仰を励まし合い、共に天を見上げながら、この地上の歩みを全うしたいと思います。そのような御霊の一致が私たちには与えられていることを忘れずに、それを保っていくことができるように、祈る必要があります。

<バベルの塔とペンテコステ>
神と共に歩むための一致という話をしましたが、反対の例として、バベルの塔を挙げたいと思うのです。バベルの塔というのは、ご存知の通り創世記11章に出てくるあの話ですけれども、人々は自らを神のようにして、天に届く塔を建てようとしたわけですね。ある意味では彼らは工事のために一致していたわけですが、彼らの一致の仕方というのは、御霊の一致とは真逆なんです。最終的に彼らはことばが混乱させられて、工事が中断されたわけですけれども、それは彼らが一つのことばで話していたからです。ただ、直前の10章を注意深く読んでみると、ノアの洪水以降、人々はそれぞれの地に散らされていって、それぞれに言葉が、それぞれの国語があったことが記されているんです。しかし、強大な力を誇ったシヌアル、シンアルの人々が、バベルの塔を建てるという大工事をするにあたって、周辺諸国の人々に自らの言葉を強いて、工事に従事させた。どうやらそういうことなんですよね。神さまは「産めよ、増えよ、地を満たせ」とおっしゃっていて、人々が多様な言葉で、多様なあり方で全地に広がっていくことを望まれたのに、バベルの人たちは自らを王とし、自らを神とし、11:4「われわれが地の全面に散らされるといけないから」と。そうやって一致していた。これは神さまの御心、その御言葉を知っていながらの、意図的な反逆のための一致でした。

これと対照的なのがペンテコステ、聖霊降臨日です。聖霊がくだられたあの日、弟子たちは他国の言葉で話し出しました。それは多種多様な外国語で、祭りのためにエルサレムに帰ってきていた外国生まれの離散のユダヤ人たちをはじめ、改宗者と呼ばれるユダヤ教に改宗した外国人もわかる、彼らの母国語でした。メソポタミややローマ、エジプト、アラビアなど多様な言語だった。ことばは多種多様、でも語られていたのは神の大きなわざについて。イエス・キリストの十字架の死と復活の意味について語っているのでした。ことばは多種多様なままだけれども、一つのことが語られたわけです。多様性のある一致。これが御霊の与える一致です。相手を自分に合わせて、自分の思惑に巻き込んでいくのはバベルの一致。しかし、聖霊が与える一致には多様性がある。全ての人が、多様なあり方のまま、神さまを中心として、神さまの御心を中心として一致する、一致している、そういう一致です。そしてバベルの一致は神さまから離れていくための一致でしたが、御霊の一致は神さまと共に歩むための一致です。新しい人を着て、神さまと共に歩む私たちは、お互いの間に御霊の一致があることを確認しながら歩んでいくのです。

<一致を保つ>
コロサイ3:11に戻りますが、「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」私たちも、お互いのうちに、あの人のうちにも、この人のうちにも、全ての人のうちにキリストがおられる。主がおられることを忘れずにいましょう。そういうお互いであり、そういう「私たち」として、共に新しい人を着た人たちとして、お互いに励まし合いながら、祈り合いながら、歩んでいきたいと思います。

私たちは、バベルの塔の系譜に属するのではなく、ペンテコステの系譜に属します。聖霊は私たちに古い人を脱ぎ捨てさせ、新しい人を着せてくださいました。そして私たちには御霊の一致がすでに与えられています。神さまの御心から離れていくための一致ではなく、神さまと共に歩むための一致です。そして聖書は御霊の一致を作り上げなさいではなく、保ちなさいと語ります。共に新しい人を着た者同士であり、互いのうちにイエスさまがおられることを見て、共に祈り、共に神さまを見上げながら、これからも歩みたいと切に願います。

<祝福と派遣の祈り>
私たち一人ひとりを救うために、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリストの恵みと
私たちと共に歩んでくださり、私たちを新しく作り変え続けてくださる父なる神の愛、
そして、私たちを新しい人として生かし、歩ませ続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン

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