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​礼拝メッセージ
 
20211010(エステル1:1〜22)守り、用いてくださる神
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【10/10】

エステル1:11−22

「守り、用いてくださる神」

今日からしばらく、エステル記を開きます。エステル記には「神」ということばが出てきません。舞台もエルサレムからはるかに離れたペルシャです。臨在(神さまが共におられること)のしるしであったエルサレムの神殿からは遠く離れた場所であり、聖書の神を知る人がいない異教の地です。しかし、そこでも神さまがご自分の民を守られたその様子が描かれています。私たちも、神さまの臨在など忘れてしまうような慌ただしい日々を送っていますが、しかし、私たちの生活の場にも神さまがいてくださる。そして、私たちをご計画のために用いてくださるということを、この書を通して知ることができますようにと願います。

<時代背景>
1:1はクセルクセスの時代、と始まります。以前の翻訳ではヘブル語の音訳で「アハシュエロス」となっていましたが、一般的な世界史の表記と合わせて翻訳が改められました。古代オリエント世界を統一したアケメネス朝ペルシャの王です。

エルサレムの神殿が破壊されて人々がバビロンに連れて行かれた「バビロン捕囚」が紀元前586年。そのバビロンがペルシャに滅ぼされて、クロス王によって解放令が出されたのが紀元前538年でした。その後、帰還したユダヤ人たちによってエルサレムの神殿や城壁は再建されていきます。しかし、ユダヤ人は全員が帰ったわけではありませんでした。すでに捕囚から何十年も経っており、仕事も生活もこちらにあったのです。帰る人たちもいたけれど、帰らないで残った人たちもいた。このようにユダヤ人は世界中に離散していくことになるのですが、エステル記に出て来るのは、そういう人たちです。

先ほども言いましたが、旧約聖書において「神殿」とは神さまの臨在のしるし、神さまが共におられることの保証でした。しかし、彼らはエルサレムに戻ってその神殿を再建するという一大事業に参加しなかった。信仰の本流から遠く切り離されて、神さまのことをよく分かっていないという人も多くなってきていたでしょう。エステル記には「神」という言葉が出てこないと言いましたが、まさにそういう社会であり生活でした。私たちも同様ではないでしょうか。神さま不在の生活をしています。しかし、そこにも主はいてくださるのです。「神」という言葉が出てこない私たちの生活にも主はいてくださる。そして、ご自身の計画のために私たちを用いてくださいます。

<神の計画が表されていく場所>
さて、神さまのご計画は、それと分かるようなパッケージになっているのではなく、世の中の実際の出来事を通して行われていきます。だから、世の中に足をつけて、丁寧に生活していくことが大切なんです。自分の身の回りのことはもちろん、自分とは関係のないような出来事を通しても、神さまが私たちをご自身の計画のために招いてくださることがあります。

エステル記一章には、クセルクセス王の開いた宴会のこと、そして王妃ワシュティが追放されたことが記されています。それが神の国と何の関係があるのだろうと思ってしまうところですが、これが二章以降の布石になっていきます。大まかに見ていきますが、クセルクセス王の宴会は豪華で大規模なもので、180日に及んだとあります。これにはペルシャとメディアの有力者、貴族たち、首長たちが招かれていました。宴会は半年間も続いたんですね。クセルクセス王はギリシャまで遠征に行ったりしていますので、そういった軍事的な会議を開きながらの宴会だったのかもしれません。半年の宴会の後には、さらに七日間の宴会が開かれ、それには首都スサの町の役人や住民たちが招かれました。色とりどりの布、大理石の柱、金や銀でできた長椅子、真珠貝や大理石で作られたモザイク模様のみごとな床、金の杯でふるまわれる王室のぶどう酒。王の力、権力と財力がまざまざと見せつけられたのでした。

そのような宴会の七日目に、事件は起こりました。酒に酔ったクセルクセス王が、美しい王妃ワシュティを客人たちに見せつけようとして呼び出したのです。しかし王妃はその命令に従うことを拒否しました。面目を潰された王は怒り、そして家臣たちの進言もあってワシュティは王妃としての立場を剥奪されて、城から追い出されたわけですね。

 

少し横にそれますが、22節が面白いというか、すべての州に書簡が送られたとありますが、1:1にあったように「インドからクシュまで」、つまりインドからアフリカのエチオピアというアケメネス朝ペルシャの広さを思わせます。その広い領土を治めるために、やはり書簡を届ける制度が発達していたのでしょうね。ローマ帝国なんかも、道で帝国を網羅したことが知られています。道を通って、書簡を通して、皇帝の命令が届けられていくのです。そこには「男子はみな一家の主人となること」、つまり夫の言うことを聞くようにという、今の私たちからしたら「わざわざこういう命令を出すのは男尊女卑ではないか」というようなことも書いてあって、これについては後で触れますが、次、「自分の民族の言語で話すことを命じた」と。これはクロス王以来のペルシャ帝国の特徴なんですよね。属州の国々の文化や宗教、言語がそれぞれ大切にされるというのがクロス王の方針でした。この時もまだそれが生きているわけです。このような記述があると、聖書の内容と世界史の記述がうまく重なってきて理解が深まっていくところだと思います。何が言いたいかというと、神さまのご計画は聖書という書物の中だけではなくて、実際の歴史、実際の出来事の中に表されていくんだということを、このような箇所からも感じ取ることができるということですね。

<エステル記一章が意図すること>
さて、内容の方に戻りますが、やはり気になるのは、なぜワシュティは王の命令を拒んだのかということです。当然、考えられるのは、いかに王の命令とは言え、自分がまるで物であるかのように扱われ、お酒の席で見せ物にされるなど、ワシュティには我慢ができなかったのかもしれないということですよね。女性は物ではありません。人は物ではありません。いかに王の命令と言えど、酔っ払った男たちの前で見世物にされるなど我慢ができなかったのではないか。ワシュティは自分自身でも婦人たちのために宴会を催していたような、アクティブな女性だったようですから、なおのこと、この王の呼び出しには腹が立ったのかもしれません。

しかし、このエステル記の著者はワシュティが王の命令を拒んだことの理由を書いていないんですね。当然、今触れたような、自分が物のように扱われることへの嫌悪感というのはあったでしょう。それは当然です。しかし、これは王の命令だったわけです。今でこそ「女性は物ではない」ということも言えますが、ただでさえ男尊女卑の古代社会において、しかもそれが王の命令だったのなら、断るということはありえない話で、本来ならワシュティは問答無用で王の前に出なければならなかった場面なんですよね。

 

エステル記一章というのは、ワシュティは可哀想だという話ではなくて、もちろん王の命令は理不尽でしたし、ワシュティは可哀想です。ここから女性の尊厳というテーマを読み取ることもできるでしょう。しかし、この一章というのは、そこがポイントではないというか、「王に呼ばれたなら、何が何でも出なければならなかった」というペルシャの状況を示している。まずそこのような気がします。その方がエステル記のテーマに沿っています。もちろん、ワシュティには同情しますし、この王はけしからんと思うわけですけれども、ただそういう話ではなくて、この話がここに置かれている意図というのは、むしろこの一章があったからこそ、五章で今度はエステルが「呼ばれていないのに王の前に出た」ということが、これがどれだけ危険なことだったか。リスクのあることだったかが際立って来るわけです。それはつまり、どれほど危険な状況だったとしても、ご自身の計画のために神さまはしっかりとそのしもべを守ってくださるという話なんですね。これこそがエステル記のテーマです。どれほど、リスクが高く、危険な状況だったとしても、神さまがご自身のしもべを、つまり私たちをご計画のために用いられる時、神さまは必ず私たちを守ってくださるというその力強さを、このエステル記を通して私たちも追体験することができます。

来週以降、また二章から読み進めていきますけれども、神さまがどのようにエステルを守られたか、ご自分のしもべを守り、そして用いられたか。私たちのことも、この21世紀の日本という具体的な場面、状況にあって、神さまがどのように守り、用いてくださるのか、そのことを重ねつつ読み進めていきたと思います。楽しみですよね。今自分が置かれている状況、環境、生活、そこに神さまがおられる。「神」ということばは出てきませんけれども、そこには確かに主がおられて、私たちのことを用いてくださるとは。期待を込めて、これを読んでいきたいと思います。

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【10/3】

マタイ11:28−30

「イエスさまのもとで休む」

7/11以来、ほぼ三ヶ月ぶりになりましたが、またこのように集まることができて感謝しています。今日は場所を使える時間が少ないので、再開するのは来週にしてもよかったのかもしれませんが、貴重な一回になると思ってこのようにさせていただきました。さっそく今日の聖書の箇所を開きます。お読みします。

マタイの福音書11:28ー30
28  すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 29  わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 30  わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 

有名な箇お所だと思います。この箇所から分かることをいくつか挙げてみると、

①私たちは疲れており、重荷を負っているということ。

②そして、イエスさまのもとで休むことができるということ。

③休んだなら、今度はイエスさまのくびきで立ち上がることができるということ。

この3つなのではないかと思います。

<私たちは疲れている>
まず一つ目ですが、私たちは疲れていますよね。日々やらなければならないことが山積みで、それが毎日繰り返されていて、そこにコロナ禍ゆえのストレスも重なってくるわけです。先が見えない不安、このままでいいのだろうかという焦りなどの心のストレスもたまっています。それらはまさに「重荷」となって私たちの肩に食い込んでいます。これに関しては、あまり多くを語る必要はないでしょう。私たちは、疲れています。

<イエスさまのもとで休める>
しかし、二つ目。私たちはイエスさまのもとで休むことができます。つまり、重荷をイエスさまに委ねる、お任せすることができるのです。私たちの心配事とはなんでしょうか。私たちの方にのしかかるものはなんでしょうか。それをイエスさまにお話ししましょう。先日、祈祷課題を表にまとめる際に、「文字でまとめて掲載することには慎重であってほしい」というリクエストがありました。当然だと思います。祈祷課題ということで結構プライベートに踏み込んだ内容のことを紙に載せてしまうとそれを誰がみるか分からないわけですから、差し障りのないようなことしか言えないと。当然のことだと思います。人同士の祈祷課題の交換には限界がありますね。主の祈りで「我らの」と祈るように、お互いのことを覚えて祈り合うことは大切ですし、良い形で続けていきたいので、これからもご意見やアイデアをお願いいたします。それはそれとして、しかし人同士のやりとりには限界があるということは、これは明らかなことでしょう。

だからこそ、イエスさまにお話しするのです。祈りは神さまとの対話です。お話しするのです。聴いていただくのです。私はいちいち全部説明することもできないので、「神さま、あれに関してですが」というような呼びかけをよくします。でもそれだけでいいかと言うと、たまには洗いざらい、改めて聴いていただくというような祈り方も必要だと感じています。誰かに話を聴いてもらうと、すっきりしますよね。ましてや、イエスさまに聴いてもらえるのですから。

最近読んだ本に次のようなことが書かれてありました。「私たちが重荷を神に委ねた時、それらが神の栄光となる。」ヘブル語で神の栄光のことをカーヴォードと言いますが、そのことばのもとの意味は「重い」なんです。神さまの栄光は重い栄光。今日のことばで考えるなら、私たちが、私たちの重荷を神さまにお任せする時、お委ねする時、それが神さまの栄光になるんです。こんなにもたくさんのことを聴いてもらえる神さま。こんなにもたくさんのことを委ねることができる神さま。ある意味、それが神さまの評判になる。神さまの栄光になります。私たちは、もっともっと神さまにお話しし、お委ねしていこうではありませんか。神さまにはますます重く、カーヴォードになっていただく。私たちはますます身軽になっていく。

<イエスさまと共に立ち上がれる>
そして三つ目です。私たちは、イエスさまのもとで休んだのなら、立ち上がることができる。今度は自分なりのやり方ではない。今まで疲れ切ってしまうことを繰り返してきた、自分なりのあり方ではない。イエスさまのくびきで、立ち上がるんです。くびきというのは、二頭の牛を首のところでつないで、二頭分の牛の力で畑を耕していくための農具ですよね。イエスさまのところで休ませてもらったら、今度はイエスさまのくびきでイエスさまとつながって、立ち上がるんです。世の中を耕す役割に、自分の身の回りを耕す役割に戻ります。それは神さまから与えられた使命です。イエスさまと一緒に休める、それは幸いなことです。しかし、休んで終わりじゃないんです。私たちは立ち上がる時が来る。

今までは自分のやり方で、自分で自分の重荷を背負ってやってきました。しかし、これからはイエスさまのくびきです。イエスさまと二人三脚です。がっつりタッグを組んで取り組みましょう。一つ一つ、自分のものにしないで、主にお委ねします。イエスさまにお話しします。私たちの重荷は神さまの栄光になる。そして私たちは身軽になるんです。これからは、それでいきましょう。

今までも、イエスさまにはお話ししてきました。祈ってきました。それは感謝なことです。さらに、なおなお、お話ししていきましょう。イエスさまのもとで休み、聴いていただき、さらにタッグを強く組んでいきましょう。そして、立ち上がって、なすべきことを一つ一つ、なさせていただこうではありませんか。

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【9/26】

マルコ7:34

「エパタ」

 

イエスさまはいやしをなさる場合に、「治りたいか?」とその人の信仰を確かめることをよくなさいました。でも耳も聞こえず、話もできないこの人はどうやって自分の信仰を表明することができたでしょう。ナザレのイエスという人のところに連れてこられましたが、これがいやしてくださる方だということも理解できていなかったかもしれません。

しかし、イエスさまから触れられた時、この人には状況がよくわかったと思うのです。自分の聞こえない耳に触れてくる、また舌に触れてくる、しかも傷口に塗るかのようにしてつばを塗ってくる(ここは消毒液などない当時の状況を踏まえて読むべき箇所でしょうね)わけですから。具合の悪いところに手を当てられると、私たちはそこの調子が悪いことを再認識すると同時に、いやされたい、いやしてくださいという祈りが湧いてきます。イエスさまは、耳も聞こえず口もきけないこの人の身体に手を当てて、この人に「いやされたい」という願いを起こされたのだと思うのです。それは「この人はいやしてくださるのだろうか」「いやしてください」という単純な信仰でしたが、イエスさまはこの人の心に信仰の火を灯されました。そして、この人は自分ではそれを表現できませんでしたが、イエスさまはいやしの奇跡をあらわしてくださったのです。

信仰も、いやしも、神さまからいただくものです。恵みです。私たちにはどれほどの信仰があるのか分かりませんし、信仰を表明することなんか出来そうにもありません。でも、そこにイエスさまが手を触れてくださいます。手を当ててくださいます。私たちに信仰を与えてくださり、いやしを与えてくださるのです。

イエスさまはこの人の舌に触れて、「エパタ」と言われました。「開け」という意味です。主は私たちの耳を開いて、みことばを聴くようにしてくださいます。私たちの口を開いて、賛美と祈りを授けてくださるのです。その時に主は「深く息を」したとされます。これはローマ8:26で「ことばにならないうめき」と表現されているのと同じことばです。「私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださ」るとあります。まさに、聖霊はイエスさまの霊ですから、イエスさまも聖霊さまも同じように、私たちのためにうめくようにして祈り、いやしのみわざをあらわしてくださるのです。

私たちは、何をどう祈ったらいいのか分からない、どのようにイエスさまに申し上げたらいいのか分からない時があります。むしろ、いつも祈っているようでも、本当に大切なことをお話し出来てないのかもしれません。その意味では、私たちの耳も口も閉じています。そんなあなたのために、呻きながらとりなし、「エパタ」と言われる方がおられます。閉じた心に触れていただきながら、この方とのやりとりを楽しみ、味わっていきたいと思います。

詩篇146:8
主は目の見えない者たちの目を開け
主はかがんでいる者たちを起こされる。

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【9/19】

ヤコブ3:5〜12

「呪う口にも賛美を」

今朝の箇所は、私たちが舌で失敗する(つまり言葉で失敗する)ことを警告しています。舌は体の中では小さな器官ですが、小さな「くつわ」が馬を制し、小さなかじが船を制するように、舌が体全体、ひいては人生を左右するのだというのです(3〜6節)。「もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」が(2節)、実際、「舌を制することができる人は、だれもいません。」(8節)。「舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちている」というのです。

確かに、言葉で失敗をしたことのない人はいないでしょう。余計なことを言ってしまったり、表現がまずかったせいで意図していないことが相手に伝わってしまった経験が誰にでもあると思います。ヤコブは警告します。「私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。」(9節、10節)ヤコブは舌が呪いの言葉を発することを憂いているわけですが、それを制することができる人は一人もいない以上、これは警告というよりも現状分析として読めます。とすると、その中で「私たちはこの口で神を賛美する」という部分が光っているように思えます。

「私たちのこの口は汚れているけど どうか主がこれをきよめて 賛美を授けてください」という歌詞のワーシップソングがありました。私たちの舌は汚れていて、嘘や呪いが出てきます。意図せずに人を傷つけ、神を呪う私たちの口です。しかし、その私たちの口に、神さまが賛美を授けてくださる。とすればなおさら、私たちのこの口をきよめてくださいとの祈りに導かれます。不用意に人を傷つけることがないように。嘘を重ねていくことがないように。

詩篇63:3
あなたの恵みは いのちにもまさるゆえ
私の唇は あなたを賛美します。

詩篇71:15
私の口は絶えず語り告げます。
あなたの義と救いとを。
そのすべてを私は知っておりませんが。

私たちのこの口は、過ちで満ちています。しかし、この口を用いて私たちは神を賛美することができます。この口を用いて、私たちは祈ることができるのです。

創世記4:26
そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。

「祈り」という言葉のない言語はないそうです。人の心には、主の名を呼ぶ(神に祈る)行為が刻まれているのです。神に向けて祈ることは、私たちにとって本来的な行為なのです。

私たちは神を賛美し、祈るためにこの口を用い続けていきましょう。また、愛をもって互いに真理を語り合いましょう(エペソ4:15)。嘘や呪いが出てくるこの口ですが、神さまはこの口から出てくる賛美を喜んで受け取ってくださり、祈りに応えてくださいます。

コロサイ3:16
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

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【9/12】

マルコ9:22〜24

「不信仰な信仰」

マルコ9:22〜24

「『・・・おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。』イエスは言われた。『できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください。』」

今朝の箇所は、イエスさまが不在の時に、弟子たちが大勢の人々、また律法学者と論じ合っていたという場面です。イエスさまを目の敵にしていた律法学者たちが、弟子たちに論争をふっかけたのでしょう。イエスさまが戻ってきて彼らに尋ねると、悪霊に取り憑かれた子どもから、霊を追い出してくれるように弟子たちに頼んだのにできなかったということでした。宗教指導者ならそれができるはずだという理屈でした。「それ見たことか」という律法学者たちと、「私たちは間違っていない。ただ、今は主がご不在なのだ」と食ってかかる弟子たち、周りには野次馬がわんさか・・・という状況です。

<不信仰な時代>
イエスさまは「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」とおっしゃいました(19節)。

イエスさまは神のあり方を捨てて人の世に来られたお方です(ピリピ2:6)。本来、それがどれほどストレスフルなことなのか、私たちには想像することもできません。やってきたこの世界では、誰もご自身を約束の救い主だとは受け入れませんでした(ヨハネ1:11)。「不信仰な時代だ」とありますが、この時代、この時にこそ、人々は救い主の到来を目の当たりにしていたはずなのに、多くの人々はそれを知ろうともしなかったのです。人々には信仰がなかったのです。

「信仰」とは、宗教的実践を正しく行うことではありません。それが出来るのか、出来ないのかと論争することよりも、もっと大切なことがあります。信仰とは宗教的行為をすることではなく、人格的に神と出会うこと。聖書が証言しているイエス・キリストを知識として知るだけでなく、その方がどんな方なのかを体験的に知り、その方への期待と信頼を重ねていくことです。その意味で、この場の誰も「信仰的」ではなかったのです。

<信仰とは信頼と期待>
父親は「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」と言います(22節)。弟子たちに出来なかったことを見て、この人にも出来ないのかもしれないと、意気消沈していたと思います。この人には悪霊追い出しという宗教行為が「出来るか、出来ないか」という点しか考えていないのです。しかし、イエスさまは「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と返されました(23節)。日本語訳だと、信じるあなた自身の力によってというニュアンスも感じられてしまいますが、むしろ「全てのことは(神さまの力によって)あなたのために可能である」ということです。

できるか、できないか、YESかNOか、あっちか、こっちかと私たちは白黒つけたがります。表面的な理解で手軽に判断したいのです。信仰についても、神さまに対しても、同じことが言えます。神さまが自分の基準に応えてくれるのか、どうなのか。そればかりが気になって、目の前で神さまがどんな表情をしてこちらを見つめておられるかに気がつかないなら、それほど残念なことはありません。

イエスさまは「全てのことはあなたのために可能である」と言われます。だからわたしを信頼してほしい、わたしがあなたのためにすることに期待してほしいと言っておられるのです。

<素のことばでの応答>
父親は自らの過ちに気がついて叫びます。「信じます!不信仰な私をお助けください。」彼は目の前の主イエスに人格的な応答をすることができました。表面的なことについてあれこれ問うことで自分を隠していくのではなく、信頼してほしいという主の側からの視線に目を合わせないのでもなく、不器用なまでに素のことばでの応答でした。

「信じます。不信仰な私をお助けください。」信じますと言ったそばから、彼のうちには不信仰しかないのでした。つまり、まだまだ「この人には出来るのか、出来ないのか」という算段があったのでしょう。「不信仰な時代」どころか、「不信仰な私」です。しかし、そのままぶつかっていきました。彼の叫びには「助けてくださることを信じています」ということが前提としてあります。あのようなことばでしたが、彼は主イエスに期待し、信頼したのです。

こういう祈りをしたいと思います。「不信仰」であっても、それでもそのまま神さまに叫び祈るような、そんな生き方をしたいと思わされます。「不信仰」であっても、素のことばでイエスさまに対面し、語りかけ、その応えを聴かせていただきたい。それこそがイエスさまとの人格的な交わりです。それこそが「信仰」なのです。その祈りに神さまは豊かに応えてくださいます。私たちは奇跡を目の当たりにすることになるのです(25〜27節)。
 

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【9/5】

エレミヤ31:16

「『涙を止めよ』?」

<「涙を止めよ」の真意とは>
本日の聖書の箇所は「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──主のことば──彼らは敵の地から帰って来る。」と語ります。特に前半だけに注目が集まりやすいかもしれません。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。」これはこれで、希望を抱かせる慰めの約束です。しかし、ここだけを覚えていると、いざ泣き声を止められない時に、涙を止められない時に、「今すぐ、無理にでもその涙を止めなさい、泣いてはならない。」という責めのニュアンスに聞こえてしまうかもしれません。

しかし、文脈から明らかなように、今朝のこのことばは禁止ではなく慰めであり、励ましです。そもそも、聖書は涙を否定していません。イエスさまはラザロの死を目の当たりにして涙を流されましたし、エルサレムの都のことを思って泣かれました。「悲しむ人は幸いです。」とまで語っておられるのですから。

今朝の箇所がどのような文脈であり、背景であるのかをもう少し見ていきましょう。

<繰り返される涙>
直前の15節にはこうあります。「主はこう言われる。『ラマで声が聞こえる。嘆きと咽び泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。』」南ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、人々が連行されていく時に、国境の町ラマはその集合場所でした。バビロン捕囚では国民の全員が連れて行かれたわけではなく、貧しい者たちは残されました。それでも戦士や職人たちは連れて行かれましたから、ここで多くの家族が引き裂かれました。涙の叫びが響き渡ったはずです。

かつて、ここラマで子どもと死に別れた母親がいました。正確には母親と死に別れた子どもでしょうか。ラケルとベニヤミンの親子です(創世記35:16-20)。エレミヤはバビロン捕囚の悲劇にそのことを重ねて、「ラケルが泣いている。」と表現しました。もう会えない、もう終わりだ、という絶望の涙です。

また、バビロン捕囚から数百年後、この地域に子どもの大虐殺がありました。怒りに燃えたヘロデ王が、ベツレヘムとその周辺一帯の幼子を皆殺しにしたのです(マタイ2:16)。福音書記者のマタイは「預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。」と記します(同2:17)。私たちの世界は涙を繰り返しているのです。

<希望の約束>
しかし、「主はこう言われる。」と16節に続きます。あなたの鳴く声と涙を止めよ、あなたの労苦には報いがあるからだ、と。その「報い」とは、バビロンに連れて行かれた子らが戻ってくることに他なりません。「彼らは敵の地から帰って来る」のです。

「あなたの将来には望みがある。──主のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」(17節)連れ去られた民が戻って来るという回復の預言なのでした。

バビロン捕囚はイスラエルの民を滅ぼし尽くすためのものではなく、礼拝の民として整えるためのものでした。やがてそこから救い主が生まれる約束がある以上、神さまはなんとしてもこの民を守り、回復させようとしておられたのです。この預言は紀元前538年に成就します。バビロンを滅ぼしたペルシャのクロス王によって、ユダヤ人の帰還と神殿の再建が命令されたのでした。人々は自分の町に帰り(エズラ1:1-4、2:70)、紀元前516年には、神の臨在(神がおられるという事実)の証である神殿が実に七十年ぶりに再建されたのです(同6:15)。

<涙を拭ってくださる方>
もっとも、その神殿も西暦七十年にローマ軍によって破壊されてしまいます。ユダヤの人々は世界中に離散させられていきました。涙はまた繰り返されていきます。

私たちもまた、繰り返される涙、繰り返される苦難のただ中に置かれています。辛いことは後を絶たず、またかと思わせることだらけです。

しかし、私たちにも「涙を止めよ」と言ってくださる方がおられます。それは、泣いてはならないという責めではなくて、泣かなくてもいいという慰めなのです。神さまは必ずいやしと回復を与えてくださるからです。

神の預言は重層的です。紀元前538年に成就した預言は、今またあなたの上にも成就します。最終的な成就は、ヨハネの黙示録に描かれているこの箇所になるでしょう。

「見よ。神の幕屋(神殿と同様、神の臨在の証)が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)

だから、安心して今日は泣いてください。やがて、最終的に、究極的にあなたの涙を拭ってくださるお方がおられます。いつかそういう日がきます。だから、今日はたくさん泣いて、すっきりしたら涙を止めて、立ち上がることができたらいいですね。

神さまの慰めと励ましが、豊かにありますように。

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​【8/29】

エレミヤ15:19

「立ち返る力を与える神」

 

<落ち込むエレミヤ>

エレミヤは悩んでいます。イスラエルの民は神さまのことを忘れ、神さまは「わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とまで言っています(15:1)。預言者の役割は神のことばを預かって人々に届け、人々を神に立ち返らせることです。エレミヤは完全に板挟みになっていました。10節では自分が生まれたことそのものを悔いています。自分が存在することを疎ましく、悲しく思ってしまうほどの苦悩でした。

 

悩みが深いと、私たちも打ちのめされてしまいますよね。

 

しかし、神さまの方では変わらずに語りかけ続けておられました。11節は後のバビロン捕囚の際に実現しています。エレミヤはバビロン軍から解放されたのです(40:1-6)。12節から14節にはユダの民に対する宣言が続いていますから、神さまがイスラエル(ユダ)をさばくおつもりであること、その状況は全く変わっていません。状況は変わっていませんが、その間で板挟みになっている仕えびとのために、神さまは声をかけ続けてくださっていました。

 

<エレミヤの直訴>

物事の板挟みになるとき、特に自分の役割と他の何かの間で板挟みになる時、私たちは本当に疲弊してしまいます。しかも、この一連の文脈のように、いろんな目線や立場が入れ替わり立ち替わりするような、そんな状況では。しかし、神さまは私たちに目を留め続けておられる。声をかけ続けてくださることを思い出しましょう。

 

15節からエレミヤの直訴が続きます。16節は印象的です。神のことばを取り継ぐものとして、「みことばを食べました」というのです。彼ほどに神のことばを味わい、咀嚼しているだろうかと問われます。礼拝でみことばを取り次ぐ立場にあるかないかを問わず、私たちはみな、エレミヤのようにみことばを食していたいものだと思います。昼も夜もみことばを口ずさみ、思い巡らし、咀嚼していくのです(詩篇1:2)。それは蜜のように甘いのですから(エゼキエル3:3)。

 

<神さまの答え>

エレミヤの直訴に対する神さまの答えは、「あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる」というものでした(19節)。15節からのエレミヤの直訴の祈りを読んでみても、特段彼が神さまから離れていたようには思われません。しかし、それは「神さまから離れているという状態は、そうとは分からずに起きている」ということに他なりません。特に気落ちしている時(10節)にそれは起きやすいのかもしれません。

 

知らないうちに、神さまから離れているということがあります。しかし、それを責めるのではなく、あなたをわたしのもとに帰らせると宣言されます。私たちが無自覚のうちに神さまから離れてしまっていたとしても、主なる神は私たちの信仰を回復させてくださる方なのです。

 

<向きを変える>

「もし、あなたが帰って来るなら」とも言われます。あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせるとは回りくどい言い方のようですが、神さまは私たちを機械的に自動的に回復させるのではないということです。つまり、私たちが気が付いて悔い改めることが大切なのです。悔い改めとは、自分の罪を悔やんで落ち込むことではありません。実際に心の向きを変え、行動を変えることです。「自分は神さまから離れている」と気が付いたなら、神さまのもとに帰るのです。

 

それは私たちの熱心では難しいことです。私たちは脱ぎ捨てたはずの古い人を後生大事に握りしめているからです。しかし、私たちに「新しい人」を着せてくださった方がおられます(コロサイ3:9,10)。「わたしがあなたを帰らせる」と言われる神さまに信頼して、お任せして、この身を委ねていきましょう。神さまのことばがこの身に実現することを見させていただこうではありませんか(ルカ1:38)。

 

エレミヤに使命があったように、私たちにも役割があります。神さまは私たちを回復させ、この世界を回復させるために用いてくださいます。この地に神の国が広がることのために、あなたは用いられるのです(マタイ5:13,14)。そのためにも、神さまは是が非でも私たちに「帰ってきてほしい」と願っておられます。さあ、今こそ帰りましょう。

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【8/22】

共に歩まれる神
レビ記26:11−12

 

<私たちと共に歩まれる神>
レビ記には旧約聖書の律法、それも祭儀律法のようなものが延々と載っていて、しかも「わたしが聖であるように、あなたは聖でなければならない」というような表現もありますから(11:45等)、読んでいて心配になるといいますか、神さまとの間に距離を感じてしまう書物かもしれません。しかし、レビ記の最後の26章にはこのように記されています。

「わたしはあなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」(11節、12節)

ここからはっきり分かることは、神さまは私たちと共に歩んでくださる方なのだということ。また、私たちのただ中に住んでくださる方なのだということです。

<神さまの決意>
神さまは私たちを「聖められていない」として毛嫌いするようなお方ではありません(11節b)。「わたしが聖であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」というのは、私たちのことをあきらめずに見捨てないという神さまの決意だと思います。

聖くならなければ救われないのではないからです。救われた者に、聖さへの道が開かれるのです。イスラエルの民に律法が与えられたのは、出エジプトの後でした。出エジプトは救いのひな型です。聖化という、神と共に歩み続ける道は救いの後に与えられる恵みなのです。

自分の姿を見れば聖められていない、クリスチャンとして全く成長していないと落ち込むばかりですが、救われた事実を疑ってはなりません。出エジプトをした事実を疑ってはならないのです。あなたは救われて、神の子とされています(1ヨハネ3:1)。その上で、神さまはあなたと歩み続けたいと願っておられる。いや、あなたと共に歩み続けると決めておられるのです。

「わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。」(11節)これはイエス・キリストの受肉によって実現しましたた。「ことば(イエスさまのこと)は人となり、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)神が共にいてくださるという事実は、このイエスさまを見ればわかるのです。

<神と民の関係>
「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」(12節)これは聖書で繰り返されている表現です(エレミヤ31:33、黙示録21:3等)。これは、「この方はまだ私たちの神ではない」という意味ではありません。究極的に、最終的に私たちの救いが完成する新天新地において、神さまと私たちの関係もまた完成するということです。今すでにその前味を味わっていますが、やがて究極的にそのようになるということですね。神さまは、どこまでも、どこまでも、私たちのことをあきらめず、私たちと共に歩み、私たちの神と呼ばれることを恥となさらないお方なのです(ヘブル11:16)。

今日も、神さまと共に歩む幸いを味わいましょう。あなたのことをあきらめない、神さまがおられます。

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【8/15】

1コリント15:9−10
「今の私になりました」

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8月15日ですね。
生かされていることを感謝し、傷つき痛んでいる人にいやしがあるよう祈りましょう。
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<復活のキリストとの出会い>
パウロは15章でキリストの復活について述べてきましたが、復活されたキリストと出会ったというくだりで、どうしても自分は本来そんな価値のないものだということに触れざるを得ませんでした。彼は教会を(つまりキリストを)迫害してきたからです(9節)。彼は「この道」の者だとわかると、男女を問わずに投獄するような人物でした(使徒8:3, 9:1-2)。しかし、パウロの歴史、パウロのストーリーはそこでは終わりません。「神の恵みによって、私は今の私になりました」と続くのです。復活に関する文脈の中であえて一度話を逸らせたこの部分にはパウロの熱量を感じます。「恵み」とは、受け取る資格のない者に与えられるものです。復活のキリストと出会ったことは、まさに「恵み」だったのであり、それゆえに今の私があるというのです。

私たちのアイデンティティー(自分が自分自身であるということ)は、自分がこれまで生きてきた歴史と関係があります。その歴史の焦点は、「自分がどれくらいひどいやつだったか」とか「どれくらいみじめな人間だったか」という点ではなく、「そんな私にキリストが出会ってくださった」というところにあります。復活の主イエスが出会ってくださったということによって、まさに神の恵みによって、今の私があるということを思い出し、忘れずにいたいと思います。

<歩み続けるその時その時を>
「今の私になった」という表現を読むと、パウロは様々な体験を経た上でそうなったのだろうけれど、私には無理だと思われるかもしれません。私たちには自分の信仰に自信がなかったり、聖書の登場人物と自分を重ねると見劣りしてしまう時がありますよね。パウロのように達観した見方はできないと思えることも多々です。

しかし、信仰というのは、「これこれこういう経験を経て、到達する」ものではありません。神さまと歩み続けることそのものが信仰であり、その時その時の「今の自分」で、ここまで導いてくださった主に感謝していくのです。聖書の登場人物たちの歩みを注意深く追ってみると、私たちと同じように山あり谷ありであったことがわかります。アブラハムにしろ、ダビデにしろ、むしろ暗い谷間が続く歩みでしたが、彼らはそれでも神さまと共に歩み続けたというモデルなのです。

パウロにしても、「私は恵みによって今の私になった」というのは、私の信仰は完成したという意味ではありません。晩年のパウロが「私は罪人のかしらです」と言っている通り、私たちはどこまでも罪人ですし、どこまでもイエスさまの十字架が必要な存在です。ですから、安心して、パウロのように「今」の自分をもって「私は恵みによって今の自分になりました」と言い切ることができます。

どこまでも成長途中の私たちですが、その時その時に、「今の私は神の恵みによる」と、神さまの導きを感謝することができたらと思います。自分の成長具合は芳しくないと思えるものですが、それでもあなたを生かし、あなたを愛し、恵みをもってあなたを導いてこられた方がおられるのです。そのこと自体が、なんと感謝なことでしょうか。

わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)

ハレルヤ!
 

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【8/8】

ルカ1:51-52

「賛美の理由」

 

<賛美の本質>

救い主を身ごもりつつ不安の中にいたであろうマリアが、エリサベツとの再会とその証(彼女もまたみごもっていたということ。1:36)に励まされて歌った「マリアの賛歌」の一部です。「力ある方が私に大きなことをしてくださいました」と、神の全能の力を賛美しています。主がしてくださったことを忘れないため、それが賛美の理由です(詩篇103:2)。

 

マリアの賛歌は「私のたましいは主をあがめ」と始まります(1:46)。主を大きくするというニュアンスです。私たちはどうでしょう。私たちの神理解はどうでしょうか。私たちには、神さまを人の理解や常識に閉じ込めてしまうことがあるように思います。もちろん神さまご自身はそのようなものにしばられるお方ではありませんが、私たちがそのように神さまを理解しているとしたら、これほどもったいないことはありません。

 

マリアは自分のことを「幸いな者」と呼び、またどの時代の人も私のことをそう呼ぶでしょうと歌います(1:48)。マリアが置かれている状況は、およそ「幸い」とは程遠いもののように思えます。社会的に抹殺されてしまうような状況でした。婚約者からも見放されるかもしれません。しかし、マリヤはみ使いから伝えられた主のことばが真実であったがゆえに、自らを「幸い」と宣言してはばからないのです。幸いとは、神さまのみことばの事実がその身になっていくことを目の当たりにすることなのですね。

 

<どうにもならない問題への助け>

さて、51節と52節では、心の思いの高ぶる者や権力のある者など、高いところに位置するものが引き下ろされるという描写が続きます。人の力では如何ともしがたいことでも、神さまは事を動かしてくださるということです。そういえば、詩篇121篇には「私の助けはどこから来るのだろうか」と途方にくれる詩人の姿がありましたが、あの「山」は複数形になっています。私たちは山のような、いや、山々のような問題に取り囲まれています。人の力ではもはやどうにもならない問題ばかりです。しかし、それでも「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」(詩篇121:1,2)と歌うことができるのです。

 

私たちは、個人の力ではどうにもならない問題に取り囲まれています。マリアが歌った「権力者」とはローマ帝国のことだったかもしれませんし、社会を牛耳っていたユダヤの宗教指導者たちのことだったかもしれません。何にせよ、個人の力では変革できるようなものではありません。また、昨今の新型コロナウイルスの感染拡大などはまさにいい例で、感染力の強いウイルスを前に、私たちは「助けはどこから」と途方にくれ、山々を見上げることしかできません。しかし、主なる神がおられます。主はその山々を引きずり下ろされるのです。

 

<すでに始まっているみわざ、賛美の理由>

マリアが完了形で宣言していることにも注目しましょう。約束の救い主はまだお腹の中にいて、救い主としての歩みはまだまだ先のことです。しかし、マリアにとってはそれはすでに実現が確約されたも同然のことでした。

 

マリアは歌います。「(主は)低い者を高く引き上げられました。」(1:52)主は底の底まで降りてきてくださったお方です(ピリピ2:7-8)。この方は、そこから私たちを引き上げて下さるというのです。そして、その通りになりました。人の上に立つのではなく、人々に仕えるために来られる救い主は私のところにも来てくださいました。あなたのところにもです。

 

この方がしてくださったことを忘れずに、マリアのように賛美を捧げ続けていきましょう。目の前の山をひっくり返してくださる主のみわざはすでに始まっています。今はそう見えなくても、必ずその通りになることを信じ、賛美を捧げ続けていこうではありませんか。それが私たちの賛美の理由です。

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【8/1】​

第一ヨハネ4:19

「Because God First Loved Us」

<神の愛>
ヨハネはこの手紙の中で、互いに愛し合いましょうと繰り返して来ました(3:11,18,4:7)。しかし、ここへ来て「私たちは愛しています」と言い切っています。私たちのうちには愛があるのだという言い方に聞こえますが、それは私たち自身から出た愛ではなく、神さまの愛なのです。「神がまず私たちを愛してくださったからです」と言っている通りです。

 

よく説明されることですが、愛を表す古代ギリシャ語にはいくつかあって、神さまの愛は「アガペー」という単語で表現されています。友愛や情愛ではなく、無条件の愛を表す単語です。私たちのうちには無条件の愛などこれっぽっちもありませんが、神さまが無条件の愛で私たちを愛してくださったから、だから私たちは愛し合うことができるのだということです。

 

7節から10節はヨハネが作詞した賛美歌の歌詞だったかもしれません。パウロによる愛の讃歌といえば第一コリント13章ですが、ここはヨハネによる愛の讃歌です。「愛は神から出ている」ということ。私たちのために神がひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださった、それによって神の愛が示されたということ、イエスさまが私たちの罪のためになだめのささげ物となったこと、そこにこそ愛があるのだということが歌われています。

 

<条件付きの愛、無条件の愛>
この愛が私たちのうちにある友愛や情愛、条件付きの愛とは全く違うものであることは明らかです。私たちは条件付きにしか愛せないからです。他人のことも、自分自身に対しても、何かができるから、こういう存在だから、「〜だから」愛します。しかし、神さまの愛は無条件です。何もできなかった「としても」、それなりの存在では「なかったとしても」の愛です。それは、ひとり子イエス・キリストのいのちを懸けた愛でした。こうやって愛されたから。だから、私たちも愛し合いましょうというわけです。しかし、それすらも私たちの熱心で可能になるようなものではありません。どこまでも、神さまの愛をいただいて、神さまの愛を反映させて、神さまの愛ゆえのものです。神さまの愛を受けて、それをそのまま人に向けていく。自分にもそれをそのまま向けていくんです。スローガンは「Because God First Loved Us」です。神がまず私たちを愛してくださったから。これをいつも思い出すことができたらと思います。

 

<愛せない現実=罪、からの解放>
神さまが「良い」と言われた世界を、人々を、あなた自身を、そのまま「良い」と思えなかったら、それは罪なんですよね。神さまが愛しておられる人を愛せなかったとしたら、それは罪なんですよね。罪とは神さまの御心から外れているということですから、神さまが見ておられるように、愛しておられるようにこの世界を、目の前の人を、自分自身を見られないなら、それこそが罪なんです。

でも、そんな私たちの罪が赦されるためにイエスさまが十字架にかかられました。そして死んでよみがえられ、私たちを愛してくださったその愛で私たちは生かされるんです。私たちは神さまのこの愛で世界を、目の前の人を、そして自分自身を見ていくことができます。愛のない私たちですが、神さまの愛をいただいて、それを反映させていただく存在にされているのです。

<目の前の人への隣人愛>
ヨハネの手紙の宛先の人々の間には、いさかいがあったようです(4:20など)。教会内でも、クリスチャン同士でも、お互いに愛し合うことができない現実がありました。紀元1世紀(西暦二桁台)後半に大きく流行したグノーシス主義という考え方によれば、目に見えないものこそが重要で、目に見える肉体やら地上の人間関係には意味がないとされましたから、それに影響された人たちは、目の前の人に対する隣人愛を忘れて、ただひたすら「霊的な」ことを追い求めていたようです。それは「信仰深い」印象がありました。しかし、ヨハネは警鐘を鳴らします。主イエスが言われたことは「あなたの隣人を愛しなさい」ということが、「神を愛しなさい」とセットであること(マタイ22:37-40、ヨハネ13:34)。そもそも主イエスご自身が「肉体」をとって、人としてこの世界に来てくださった方であること(ヨハネ1:14)。だから、「霊的」ではない「地上のもの」も大切なんだ、目の前のその人は神の愛の対象であり、私もその人へ隣人愛を忘れてはならないんだということでした。

そのためには、「Because God First Loved Us」、神がまず私を愛してくださった、このことが土台であり、前提です。愛のない私たちにとっての、これこそが希望なんです。

他人に対する愛はありますか?また、究極の隣人は自分自身かもしれませんが、自分に対する愛はありますか?それらは無条件の愛ですか?

神さまの愛を思い出しましょう。それをそのまま手渡していくような、そのような愛の生き方へと、神さまは私たちを少しずつ変え続けてくださいます。そのみわざに思い切ってこの身を委ねていくことができるように、聖霊なる神が、私たちを今日も守ってくださいますように。

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【7/25】

詩篇82篇

「神よ、立ち上がってください」

詩篇82篇は、社会的立場の弱い人々のために、神さまが立ち上がってくださるようにと祈る歌です。聖書の神は「唯一の神」ですが、この詩篇には「神々」が出てきます。人間には及びつかない領域のことが、あえてこのように表現されているように思われます。それらの力が「不正のさばき」をし、悪しき者たちの味方をしているというのです。

<人の力の及ばないところ>
弱い者、みなしご、苦しい者、乏しい者、弱い者、貧しい者、みな、自分の力では自分を守れない人々です。これらの人々が蔑まれ、虐げられているのは、本来あるべき姿ではありません。「さばき」とは、あるべきものの道理を正すという意味ですから、物事が本来あるべき姿ではない状態になっていたり、それがわざと放置されたりしているなら、それは正されるべきです。しかし、そうなっていない。しかも、その原因は人の力の及ばないところにあるというのです。

私たちのこの時代、この社会も、構造的な悪の問題にがんじがらめになっています。あれを直そうと思えばこれ、これを正そうと思ってもこれというように、複雑な事情が絡み合って、もう人の手ではそれらを正すことは不可能なように思えます。

しかし、彼ら(神々)は「人のように死に、君主たちの一人のように倒れ」ます(7節)。いかなる状況も、どんな構造的な悪も、やはり神ではないのです。この世界を造られたお方だけが神であり、その方にとっては力の及ばないところなどありません。主なる神は「すべての国々をご自分のものとしておられる」のだからです(8節)。

<今はまだ>
それでも、「神よ、立ち上がって地をさばいてください」と祈らざるをえないということは、私たちの目の前の状況は相変わらず悲惨であり、問題が山積みだということです。神さまはまだ立ち上がっておられないようにしか思えないということです。いつまでこの状況が続くのかと、思わざるを得ないのです(2節)。

ここにも、聖書のテーマの一つである「神の国のすでにといまだ」があります。イエスさまが来られたことで、神の国は広がり始めました。捕らわれ人、虐げられている人を解放する神の国は始まったのです(ルカ4:18-19)。それでも、天に戻られたイエスさまがまた再臨して神の国が完成する時まで、地上に困難は続きます。神の国はすでに来ました。しかし、まだ完成はしていません。

神の国の「すでにといまだ」のはざまで、私たちは、「神よ、立ち上がってください」と祈り続けていきます。「主の祈り」もそうです。「御国を来らせたまえ」と祈り続けていくのです(マタイ5:10)。その祈りは聞かれています。

<社会の問題として、自分の問題として>
貧困や格差の問題など、社会の負の側面のために働くことは良いことです。いつか最終的に神さまが正してくださることを信じつつ、神さまが私を通して表してくださるみわざに期待して、おゆだねして、自分にできることを差し出すのです。人の力では構造的な悪を根本的に正すことは無理かもしれませんが、目の前の一人を助けることはできるかもしれません。教会にできることには限界もありますが、福祉の専門家、行政などと協力しながら、地の塩としての役割を果たすことができたらと願います。

本篇の「神々」とは地上の王たち、為政者たちのことという解釈もあります。そうだとすると、社会に不正を蔓延させている王たちに対して、この世界を造り、完成まで導いておられる主なる神がおられること、彼らの政(まつりごと)の不正を正される唯一の神がおられることを宣言する歌なのかもしれません。不正を続ける裁判官たちという解釈もあります。どちらにせよ、一般人にはどうにもならない種類の不正です。しかし、神が立ち上がって正しいさばきをなさいます。それは将来のいつかという話だけでなく、今もです。そして私たちはそのことに自分を用いていただけるのです。

社会問題というと気後れしてしまうかもしれませんが、自らの心の貧しさということも重ねられるかもしれません。自分の心の貧困は自分自身がよく知っています。神さまはこんな私を用いてくださるだろうか。救ってくださるだろうかと不安に思う必要はありません。「心の貧しい者は幸いです」と聖書は語ります。天の御国はその人たちのものだから、と(マタイ5:3)。神は、あなたのためにも立ち上がってくださいます。今日も、神の国がこの地に、そして我が内に、広がっていくことを祈っていきましょう。そして、神さまから遣わされた場所で、任されていることに誠実に応答していこうではありませんか。そこには神さまの正しさ、神さまのさばきが明らかにされていきます。

 

私たち自身には、正しさもさばきも語れる資格はありません。私たちは十字架で赦されただけであって、依然として罪人だからです。しかし、「赦された罪人」なのです。「用いていただける罪人」なのです。あなたを用いてこの世界を癒し、回復させ続ける神さまのみわざが、今日も進んでいきますように。
 

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【7/18】

黙示録1:17、18「共におられるイエスさま」

ヨハネの黙示録は、象徴的な表現も多い上に全てが時系列で書かれているわけでもないという、なんとも難しい書物です。そもそも、基本的に「世の終わり」というと恐ろしい印象がするわけです。しかし、ヨハネの黙示録は希望の書とも言われます。そこには、どんな恐ろしい状況の中にもイエスさまが共にいてくださるということが書かれてあるからです。今日の箇所は端的にそのことを表しています。

<孤独と絶望の中にいたヨハネ>
これを書いたのは、イエスさまの弟子のヨハネです。彼はイエスさまへの信仰のゆえにパトモス島に島流しになっていました。紀元90年頃のことです。仲間の弟子たちはみな殉教の死を遂げた中、生き延びたヨハネは遠く離れた場所にたった一人でした(1:9)。しかし、その荒野のような場所が神の声を聞く場所になりました(1:10)。アブラハムら信仰の父祖たちも、預言者たちも、荒野で神さまの声を聞きました。何もない荒れ果てた場所でこそ、また物事が順調に進まない不安や、誰もいなくなってしまったという孤独に苛まれるような時にこそ、そこで神さまの声を聞くことができるのです。

 

主の日に聞いたその大きな声は、ヨハネにこれから見たことを書き送れと告げました。それは二章以降で記されていきます。ヨハネがその御声に従ったから、この書物は書き残され、今私たちもそれを読むことができます。

 

<倒れこんだヨハネ>
彼がそこに見た七つの金の燭台は教会を表していました(20節)。そしてその真ん中には「人の子のような方」、つまりイエスさまがおられるのが見えました。「人の子」とは旧約聖書で預言されていたメシアの表現で(ダニエル書7:13)、イエスさまはご自分のことを「人の子」と呼んでおられました。懐かしいイエスさま。しかしそのお姿のあまりの荘厳さと恐ろしさに、ヨハネは倒れこんでしまいます(17節)。神さまの素晴らしさ、その栄光を知らされる時、私たちは自分の醜さをも同時に知ることになります。主の足元に倒れこんでしまうのは自然なことだと思います。信仰を捨てずに、島に流されても懸命に生きてきた、そういう自負が多少なりともあったと思いますが、すべて吹き飛ばされるような圧倒的な臨在でした。ヨハネには島流しにされても棄教しないほどの熱心な信仰がありましたが、いざイエスさまにお会いした時、彼には倒れこむことしかできなかったのです。

 

ガリラヤ湖で昼間に大漁の魚をとったペテロもそうでした。漁師としての経験やプライドなど何の役にも立たず、ただイエスさまの前にひざまずいて、「私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と呟くことしかできませんでした。

 

<「恐れることはない」>
しかし、イエスさまは「恐れることはない。」と言われます。以前の翻訳では「恐れてはならない」となっていました。聖書にはよく神さまからのこのことばが載っていますが、それは恐れるしかない私たちを否定することばではなく、神さまからの励ましです。神さまは私たちが恐れるしかないことをよくよくわかっておられます。しかし、それ以上に神さまは私たちと親しく交わりたいと願っておられ、恐れずに、大胆に神さまに近づくようにと声をかけ続けてくださっているのです。

そして、「わたしは〜である」という表現が繰り返されます。これは福音書でもイエスさまが繰り返し使っておられた表現ですけれども、もとを正せば、神さまご自身の名前である「わたしはある」にまでさかのぼります(出エジプト3:14)。神さまは、ご自身以外の存在ではない。神さまはどこまでも神さまご自身であり、他の何ものでもありません。その力強さがここの表現の前提になっています。

 

①初めであり、終わりである方
主はご自身のことを「初めであり、終わりである」と表現されました。世界の歴史はこの方によって始まり、そしてこの方によって締められるということです。世界にはゴールがある、向かうべき目標があるのです。それはイエスさまの再臨であり、新天新地です。黙示録の一番最後にそのことは記されています。諸行無常に輪廻を繰り返すということではなく、歴史には終着点があるというのが聖書の世界観です。それはイエスさまと共にある新天新地です。いかに今の世の中が低空飛行で下降気味であっても、最終的には希望があることを忘れずにいましょう。

②世々限りなく生きている方
また、「わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。」とも言われました。イエスさまは十字架にかかって仮死状態になったのではありません。本当に死なれたのです。その上で復活されました。聖書に記されている通り、使徒信条で告白されている通りですね。絶望の只中で、荒野で私たちがお会いするそのお方は、今も生きておられるお方です。日々、このお方と生きた交わりを大切にしていきましょう。語りかけ、祈り、その御声を聞いていきましょう。聖書のみことばを読み、その御声を聞いていきましょう。

 

③死とよみの鍵を持っている方
そして主は、死と、死後の世界についてもすべて掌握しておられるお方です。「よみ」(ハデス)とは、いわゆる地獄(ゲヘナ)とはニュアンスが違って、「死後の世界」というような意味合いです。イエスさまは「よみ」にくだりましたが、「よみがえられ」、死を打ち破ったお方です。私たちには死後の世界は未知の世界ですが、イエスさまにお任せできるから安心です。私たちの身体はいつか必ず終わりを迎えますが、死は終わりではありません。「よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえ」られたお方は、私たちの死後のことも把握して、導いてくださいます。教会にはその希望が与えられているのです(マタイ16:18)。

<困難な時代の中でも>
ヨハネがこれを書いた紀元90年頃、教会は迫害のさなかにありました。ローマ帝国という異教社会の中にあっても皇帝を神とはせず、しかし愛を持って社会に仕えているその生き方は多くの反感を買ったのです。紀元64年にはローマで大火が起こり、その原因がクリスチャンたちになすりつけられるということもありました。信仰を守ることが困難な時代でした。教会は風前の灯のように思えました。しかし、ヨハネは「燭台の真ん中に立っておられる力強い栄光に満ちた主」を見たのです。燭台とは教会のことでした。主は困難な時代の只中にあっても、教会が風前の灯のような状況の只中にあっても、そこに力強く厳然といてくださるのです。そして「恐れることはない。」と声をかけ続けてくださいます。

大阪府でのコロナ感染第五波が始まりつつあると言われる中で、何とかあと一回だけでも集まりたかったのですが、すでに高齢の方が県をまたいで電車移動してくるような状況ではないと判断し、本日からまた「それぞれでの礼拝」に切り替えました。コロナ禍にあって、私たちはまさに風前の灯のようです。しかし、ここで私たちは見るのです。力強く栄光に満ちた主が、すべてを支配しておられる主が、ここに立っていてくださることを。そして「書き送れ」と言われたように、私たちに対して明確なご意思を持って、ご計画をもって、語りかけてくださる方であることを。神さまにはご計画があり、私たちはそのために、神の国の広がりのために用いていただけるのだということを。

だから、今日も、パトモス島でのヨハネのように、孤独と絶望感の只中であっても、微力な、非力な応答であっても、精一杯の応答をしたいと思います。神さまから問われていることは何でしょうか。あなたがそれに応答することは、神の国の歴史の一ページとなり、多くの人を励ますことにつながっていきます。聖霊なる神が、あなたを力づけてくださいますように。

ここに主がおられます。そのことを今日も、見させていただきましょう。

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【7/11】

コロサイ3:9ー11「神と共に歩むための一致」

本日のみことばも、先週からの続きを感じさせるものでした。「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」先週はエペソ書から、ユダヤ人もギリシャ人もないということ、私たちもあなたがたもキリストにあって一つとされており、共にこの世界に仕えていくのだというパウロの宣言を読みましたが、本日のコロサイ書でも同じように、人種や割礼の有無、立場などで分裂していたのであろうコロサイ教会に向けて、パウロは呼びかけています。エペソの教会だけでなく、コロサイの教会も分裂していたんですね。自分と同じような人で固まって、そうではない相手を区別し、差別していく傾向は私たちにもありますよね。人の罪の傾向なんでしょうね。簡単に相手にレッテルを貼ってしまうわけです。

しかし、「救われたあなたがた」であり、そして「救われた私たち」なんですよね。パウロがエペソの教会に向けて話していたのは、共に成長して、キリストのからだを建て上げるんだということでした。そうやって共に「良い行い」に向かっていく。神の国がこの地に広がっていくために(もちろん、それが完成するのは主の再臨の時ですが)、私たちは地の塩として、世の光として、共に人々に仕えていく。共に良い行いに向かっていくんですよね。パウロは基本的にどの手紙でも、あなたがたと呼びかけ、私たちという表現と同化させて、同一視しています。個々人がそれぞれ救われてそれで終わりではなくて、教会として共に成長していくことが念頭に置かれているんです。その上で、今日のコロサイのこの箇所では、共にきよめられていく、聖化されていくということにポイントが置かれているようです。

 

<共に新しい人を着た>
3:10に「新しい人を着た」という表現があります。これは救われて新しくなった、聖霊が我がうちに住まわれたということを表現するパウロの書き方です。9節に「古い人、古い行い」とありますが、それを脱ぎ捨てて、新しい人を着た。すでに新しい人を着ているんだ、私たちの内なる人は新しくされたんだということですね。だから、互いに偽りを言ってはいけない。8節、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさいと。5節まで戻ると、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲、これらを殺してしまいなさいというんですね。

10節、新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続けると言います。され続けるというのがポイントです。聖化って、聖い何かに一気に変身してしまうことではないんです。聖められていくっていうのは、罪を犯さなくなることではなくて、どこまでもイエスさまの十字架が自分には必要だということがわからされていくこと。聖書の登場人物たちの歩みを見れば明らかです。たとえばパウロ自身、晩年に書いたテモテへの手紙の中で「自分は罪びとのかしら」だと言っています。ペテロも、ペンテコステの聖霊の注ぎを体験して、全く間違えることがなくなったかと言えば違いました。それでもイエスさまに救われたことを頼りに、イエスさまと共に歩み続けたのです。まったく聖められていない自分をみて嘆くのではなく、それを救い、それを成長させてくださる神さまに信頼して、神さまだけに頼って、歩んでいく。神さまと共に歩み続ける。そう、神さまと共に歩み続ける。それが聖化ですね。

そしてその聖化とは、個々人だけの話ではなく、教会という単位でなされていく。神の民という単位でなされていくのだということです。先ほど5節以降で読んだように、共同体の中でお互いの間で嘘や偽り、怒りや悪意がないように、不品行がないように。新しい人を着たもの同士として、成長していくようにというわけです。なぜなら、3:1以降を読みます。「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」共に神さまを見上げながら、お互いの信仰を励まし合い、共に天を見上げながら、この地上の歩みを全うしたいと思います。そのような御霊の一致が私たちには与えられていることを忘れずに、それを保っていくことができるように、祈る必要があります。

<バベルの塔とペンテコステ>
神と共に歩むための一致という話をしましたが、反対の例として、バベルの塔を挙げたいと思うのです。バベルの塔というのは、ご存知の通り創世記11章に出てくるあの話ですけれども、人々は自らを神のようにして、天に届く塔を建てようとしたわけですね。ある意味では彼らは工事のために一致していたわけですが、彼らの一致の仕方というのは、御霊の一致とは真逆なんです。最終的に彼らはことばが混乱させられて、工事が中断されたわけですけれども、それは彼らが一つのことばで話していたからです。ただ、直前の10章を注意深く読んでみると、ノアの洪水以降、人々はそれぞれの地に散らされていって、それぞれに言葉が、それぞれの国語があったことが記されているんです。しかし、強大な力を誇ったシヌアル、シンアルの人々が、バベルの塔を建てるという大工事をするにあたって、周辺諸国の人々に自らの言葉を強いて、工事に従事させた。どうやらそういうことなんですよね。神さまは「産めよ、増えよ、地を満たせ」とおっしゃっていて、人々が多様な言葉で、多様なあり方で全地に広がっていくことを望まれたのに、バベルの人たちは自らを王とし、自らを神とし、11:4「われわれが地の全面に散らされるといけないから」と。そうやって一致していた。これは神さまの御心、その御言葉を知っていながらの、意図的な反逆のための一致でした。

これと対照的なのがペンテコステ、聖霊降臨日です。聖霊がくだられたあの日、弟子たちは他国の言葉で話し出しました。それは多種多様な外国語で、祭りのためにエルサレムに帰ってきていた外国生まれの離散のユダヤ人たちをはじめ、改宗者と呼ばれるユダヤ教に改宗した外国人もわかる、彼らの母国語でした。メソポタミややローマ、エジプト、アラビアなど多様な言語だった。ことばは多種多様、でも語られていたのは神の大きなわざについて。イエス・キリストの十字架の死と復活の意味について語っているのでした。ことばは多種多様なままだけれども、一つのことが語られたわけです。多様性のある一致。これが御霊の与える一致です。相手を自分に合わせて、自分の思惑に巻き込んでいくのはバベルの一致。しかし、聖霊が与える一致には多様性がある。全ての人が、多様なあり方のまま、神さまを中心として、神さまの御心を中心として一致する、一致している、そういう一致です。そしてバベルの一致は神さまから離れていくための一致でしたが、御霊の一致は神さまと共に歩むための一致です。新しい人を着て、神さまと共に歩む私たちは、お互いの間に御霊の一致があることを確認しながら歩んでいくのです。

<一致を保つ>
コロサイ3:11に戻りますが、「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」私たちも、お互いのうちに、あの人のうちにも、この人のうちにも、全ての人のうちにキリストがおられる。主がおられることを忘れずにいましょう。そういうお互いであり、そういう「私たち」として、共に新しい人を着た人たちとして、お互いに励まし合いながら、祈り合いながら、歩んでいきたいと思います。

私たちは、バベルの塔の系譜に属するのではなく、ペンテコステの系譜に属します。聖霊は私たちに古い人を脱ぎ捨てさせ、新しい人を着せてくださいました。そして私たちには御霊の一致がすでに与えられています。神さまの御心から離れていくための一致ではなく、神さまと共に歩むための一致です。そして聖書は御霊の一致を作り上げなさいではなく、保ちなさいと語ります。共に新しい人を着た者同士であり、互いのうちにイエスさまがおられることを見て、共に祈り、共に神さまを見上げながら、これからも歩みたいと切に願います。

<祝福と派遣の祈り>
私たち一人ひとりを救うために、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリストの恵みと
私たちと共に歩んでくださり、私たちを新しく作り変え続けてくださる父なる神の愛、
そして、私たちを新しい人として生かし、歩ませ続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメン

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