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高槻だより 2020

<2020年11、12月>

闇の中に住んでいた民は 大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が昇る。(マタイ 4:16)

主のご降誕を祝うクリスマスに向けて、アドベント(待降節)の季節になりました。いかがお過ごしでしょうか。10/25 からまた各自での礼拝に切り替えましたが、このままおそらくはクリスマスも集まることができないのではないかと思われます。一緒に祝うことができないことは残念ですが、自分たちだけで旅をし、自分たちだけで御子の誕生の用意をし、お迎えしたヨセフとマリヤのことを思います。教会に集まって祝うのではなく、それぞれの生活の現場の只中で、今年のクリスマスを味わっていきたいと願います。

関西集会の歩みの上に神さまのさらなる導きがあるよう、なお祈っていきましょう。

<2020年10月>

 9/27から10/18まで、集まっての礼拝を再開できたことは幸いでした。その後、大阪府の新規感染者数が100人に達した10/23に、10/25の礼拝を「それぞれでの礼拝」に切り替えることを決断しました。これを書いている10/28現在は、次週11/1の召天者記念礼拝をどうするか、悩んでいるところです。予約を取っていたワークホテルの会議室の人数制限が厳しくなり(5、6名までとのこと)、急遽生涯学習センターの会議室を押さえたところです(クリスマスも同様)。連絡の周知のためには早めに判断したいと思いつつ、やはり開催の可否は直前にならないとわからないところがあります。大阪の数値は一度落ち着きましたが、すぐに140人を越えてしまいました。どうか、引き続き関西集会の歩みのためにお祈りください。
 集まっての礼拝ができない日が続くと、みなさんに対面で語り伝え、聖書の言葉で励まされていく様子を見届けるという自分の役目を果たせていないことに焦りを感じることもあります。読んでいただくショートメッセージばかり書いていると、語るメッセージを作る際のコツや感覚を忘れてしまっているような、そんな焦りを感じることもあります。しかし、そうやって少々自信なさげに迎えた10/11の礼拝でのこと。祈りの際に開いたローズンゲンのみことばに励まされました。用意していた礼拝メッセージの内容は、「祈りとは神との対話、神のことばを聴いていくことが大切」というものだったのですが、それを裏付けるような以下の二つが目に飛び込んできたのでした。
「聞く耳、見る目、主がこの両方を造られた。」箴言20章12節
「(イエスの言葉):あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」マタイ13章16節
神さまが私たちの小さな礼拝の歩みを見ていてくださり、励ましてくださる。それでいいよ、と声をかけていてくださるように思えて、ありがたく、感謝でした。
 関西集会の歩みの上に、神さまのさらなる導きがあるように祈っていきましょう。

<2020年9月>

 暑かった夏も去り、日毎に涼しくなっていく今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。私たちは9/27に礼拝を再開しました。大阪府の新規感染者が80人前後で推移し、50人を下回るような日も出てきたことを大きな判断材料としました。インフルエンザの季節の前に再開しておきたかったので、感謝しています。当日は7人が集まりました。賛美は一節だけを歌い(他の節は司会者が朗読)、説教台にはアクリルボード、また消毒液やサーキュレーターを使っています。前回の再開の時の経験があったので、スムーズでした。集まって共に礼拝できたことは大きな喜びです。語る私は、込み上げてくるものがありました。聖書の御言葉を分かち合える、聞いていただけるということ、そして聞く人たちが励まされて帰っていくことを見ることができる、これは本当に大きな励ましであり、喜びです。
 しばらくまた続けられると思いますが、シルバーウィークの外出の影響がどう出てくるか、知り得る情報にアンテナを張りつつ、また自分たち自身の状況をわきまえつつ、神さまにお委ねしながら歩んで行きたいと思います。

<2020年8月>

 7/26からまた「集まっての礼拝」を休止しています。大阪では新型コロナウイルスへの「PCR検査陽性」者の増加が止まりません。何を以って感染というのか、また感染力についても一律には言えないこともあるようですが、大阪で重傷者用の病床使用率が上がってきているということは軽視できません。どうしたらいいのかと悩む日々です。

 私はしばらく前から体調を崩していましたが、繰り返していた口唇ヘルペスは梅雨が明けた頃にようやく収まりました。アトピーの悪化も長引いてはいますが、確実に落ち着いてきています。お祈りをありがとうございます。体調悪化の原因は、長梅雨だったこと、酷暑であることなどがあったと思いますが、牧師たちが「決断疲れ」にあるという指摘に納得しています。集まっての礼拝を休止するかどうかというような判断は相当重たいものです。先行きも見えず、いわゆる「コロナ疲れ」の一種として「決断疲れ」は大きなものがあったと思います。私自身がまず主の前に静まること。そしてこういう時こそ、教会はキリストのからであり、皆で決めていくべきことを思います。私たちは小さな集まりで、加えてこのような状況では一つ一つをしっかり話し合うことには限界があります。それでも意識して、みなさんに意見を求めていきたいと思います。電話もちょっと億劫になってしまっていましたが、またかけていきます!九月以降のことも近々相談させてください。

 まだしばらく暑い日々は続きます。どうぞご自愛ください。

<2020年7月>

 7/5に再度集まり、共に礼拝できたことは本当に感謝な出来事でした。アクリル板やサーキュレーターを持ち込み、フロントでは検温があるなど物々しさもありましたが、それにも増した喜びがありました。7/12には生涯学習センターで礼拝を捧げました。賛美の歌唱は一節だけ(しかし、歌詞は司会者がすべて読む)とするなど工夫をし、新しいあり方を模索しながらの二回でした。7/19は牧師が体調を崩し、コロナウイルスへの感染者の数も日増しに増えてきている頃でしたので、休会。その週はそのまま感染者の数が増え続け、自覚症状のない人々が多数利用している交通機関を用いてみなさんが集まることへの危機感から、また「各自での礼拝」に切り替えようと思う旨をみなさんに問い、異論のないことを確認した上で決定しました。またか、と思う反面、どのような状況にあっても神さまが共にいてくださることを思いつつ、また集まっての礼拝が再開できる日を待ち望みます。
 この三週間で開いたペテロの手紙第一の冒頭は、自分にとっては献身の決意を与えてくれた御言葉でした。散らされている私たちは種蒔かれるようにしてそこに置かれているのであり、そこで芽を出し、身を結ぶようにと、そこから神の国が広がるようにとの神さまのご計画があることを思います。主は今、私たちに何を語っておられるのでしょうか。私たちを通して、神の国はどのように広がっていくのでしょう。自らが置かれたその場で、手を止めて、主を見上げ、神さまの御声を聞かせてくださいと祈りつつ日々歩んでいきましょう。

<2020年6月>

 すでにお知らせしてあるように、7/5には久しぶりに集まって礼拝をささげます!場所はワークホテルです。時間は短めに、賛美は曲を聴きながら歌詞を味わう予定です。説教台の前にはアクリル板を設置し、礼拝後は換気をします。昼食時にも距離を保つことに気をつけます。そして、今後の礼拝の持ち方、交わりの持ち方、集まり方について意見交換ができればと願っています。神さまの臨在の中でよき導きがあるように、祈っていきましょう。コロナだから仕方がなくというのではなく、すでに直面しつつある私たちの課題に積極的に対応していくものでありたいと願います。今回のことは、私たちにとってチャンスでもあるのです。こういうことでもなければ、なかなかあり方を変えることは難しいからです。

 なお、クロスパル・生涯学習センターでの飲食や歌唱が6/15以降は解禁となりました!(7/5は予定通りワークホテルといたします)これは大きなニュースです。しかし、飛沫やエアロゾルといったことから、歌うということのリスクは各方面から指摘されています。電車に乗ることのリスクはどうでしょう。鉄道各社は換気や消毒を徹底しているようですが、各自が自分の健康状態から判断するしかないとも思います。大阪府では新規感染者がゼロの日も増えてきましたね。これらのことも参考にしながら、今後のことを考えていきましょう!

 この四ヶ月の間に、様々なことがありました。肺に異常のある赤ちゃんが、緊急の手術は回避できたこと。ご家族が発熱して医療機関をたらい回しにされた方も(無事に解熱して感謝でした)。もともと持っておられたうつが強くなってしまった方もおられました(お医者さんの往診は受けておられます)。ある方は、住み慣れたご自宅を離れて高齢者施設に入居されます。私たちの生活には様々なことが起こります。

 しかし、お互いに連絡を取り合い、祈り合うことができます。電話で祈ることもできますし、電話が難しい状況であっても、その人のために祈ることはできます。今後もどのように集まっていったらいいのか、手探りは続きますが、ますますお互いのために祈りあっていきましょう。
 

<2020年5月>

 新型コロナウイルスの流行により、3/8以降集まっての礼拝を持てずにいます。高槻市の施設貸出停止は5/31まで続く予定ですが、非常事態宣言の解除の具合によっては、早まるかもしれません。

 それにしても、もはや、部屋を借りられるようになってもすぐに完全に元どおりというわけにはいかないと思っています。高齢の方々が電車を乗り継いで集まること、閉じられた空間の中に数時間とどまることなど、さまざまなことを検討し直さなければならないでしょう。神さまを礼拝するために集まるということを大切にしつつ、そのあり方に関しては変えていかなければならないのだと思います。無理のない形で穏やかに再開しつつ(このふた月の間に足腰がだいぶ弱くなられた方も多いです)、「今までの形に戻す」ことを目標とするのではなく、「神さまのなさる新しいこと」に目を開かれていきたいと強く願っています(イザヤ43:19)。

 懸案だった「聖書の読書会」については、社会不安の大きい今だからこそ、聖書に興味を持つ方も多いはずなので、進めたいと思っています。コロナで出鼻をくじかれましたが、むしろ絶好の機会になったとも言えます。読書会が「3密」になってはいけませんし、インターネットを利用したオンラインでのやりとりになるかとは思います。このことを通して新しい方に届くことができるよう、どうぞお祈りください。

 新型コロナによって混乱の最中にあるこの社会にも、神の国は広がっていきます。イエスさまが来られた時点で神の国は「来ている」のですから!(マルコ1:15「神の国が近づいた」は、決定的に近くなった、つまり「来た」の意味)私たちは神の国が広がっていくダイナミックな流れの中にあります。新型コロナをはじめとする疫病や自然災害による被害は、それ自体が神の裁きではありません。神さまからの何らかのメッセージはあるでしょうが、断罪として、懲罰として与えられたものではなく、むしろ、人間の罪深さが生んだ世界の歪みであるわけです。であるならば、神さまがこの地上を諦めておられないならば、私たちはここに神の国が来たのだということを、イエスさまが来られたのだということを、そして主はまたやがてやって来られるのだという揺るがない希望を分かち合っていかなければなりません。

 コロナの後、教会はどのように変わっていくのか。インターネット上で多くの方と意見交換をする場があり、私も参加しています。これからも聖書の希望を分かち合っていくために、関西集会の存在が用いられることを祈っていきましょう。新しいことが始まっていく時には、柔軟に神さまの導きについていきましょう。イスラエルの民を導いた雲の柱と火の柱は神の臨在のしるしでした。先行きの見えない今だからこそ、なお神さまの臨在を求めていこうではありませんか。

<2020年4月>

 イースターおめでとうございます!不安と混乱の日々の中に、主の復活を喜び祝う日があったことに慰められています。主はよみがえられました。失意のどん底にいた人々に、それはどれほど驚くべき知らせだったことでしょう。私たちも今、先行きの見えない不安の中に置かれていますが、復活の主が共にいてくださるのだという希望を思い出したいと思います。社会の常識や枠組みが大きく変わっていくこの時、教会の歩みもまた変わっていくことでしょう。しかし、あらゆる困難の中にあって、私たちは「圧倒的な勝利者」であることを忘れずにいましょう(ローマ3:34-39)。

 「集まっての礼拝」は引き続き休会中ですが、それぞれの場所で個人礼拝をささげていくために、黙想の手引きをメールやFAXで配信しています(最近は内容をショートメッセージの形に切り替えました)。みなさんはそれを読んでくださったり、阿佐ヶ谷のライブ配信を利用したりしながら、個人礼拝を続けておられます。一人一人の礼拝の生活が守られるように、祈っていきたいと思います。
 こちらに来て丸三年、これからの教会のあり方を考え続けてきました。自前の場所を持たない私たちは、このような時には集まることができなくなります(もっとも、今は場所があっても集まること自体が難しいわけですが)。周囲への配慮から、賛美を歌う声にも制限があります。CS(教会学校)を開催する時間も場所もなく、新しい子どもたちを招くこともできません。しかし、礼拝説教をとにかく一生懸命準備し、土曜の深夜に週報やプロジェクター用のパワーポイントを仕上げ、奏楽の音源を作成し、そうやって用意した礼拝をみなさんのもとに差し出して、ともに神さまにお捧げしてきました。五つのパンと二匹の魚という、精一杯のものを恐る恐る差し出した少年の気持ちがよくわかります。主はそれを喜んで受け取ってくださり、大きな奇跡を起こしてくださいました。みことばの取り次ぎがみなさんのもとにはっきり届いた喜びは、何にも代えられないものです。また礼拝後の交わりはここにしかないものでした。40前の若造にはまとめることが難しい場面も多々ありましたが、それでも顔と顔を合わせて語り合い、最後には祈って別れるこの時間が大好きでした。しかし、それらも取り去られました。これからは訪問もあまりできなくなります。電話でお互いに安否を問い、祈り合うことの重要さは増していくでしょう。今後どのように教会として歩んでいくのか、導きを求めて祈らなければなりません。

 弟子たちがよみがえられた主に出会った時、彼らはそれがイエスさまであることに気がつきませんでした。しかし、イエスさまの方から声をかけていただいた時に、気がつくことができました。私たちも、主の御声に耳をすませていきましょう。主の臨在は私たちに進むべき道を教えてくれます。旧約の民を導いた雲の柱、火の柱は主の臨在のしるしでした。私たちは、これまでも折に触れてそうだったように、今なお、今こそ、主の御声を、その臨在を求めて祈りたいと思います。

<2020年3月>

 新型コロナウイルスの流行により、高槻市では三月二日から十五日まで部屋の貸し出しが停止されたことに伴い、三月八日の礼拝を休会しました。しかし翌三月九日には、その貸し出し停止期間が三月いっぱいまで延長されたことの連絡を受けました。関西でも各地での発症が報道されている中、みなさんが電車を乗り継いで来ることも、療養中のF姉のお宅に集まることも控えたほうが良いとの判断で、思い切って三月中の礼拝は休会とさせていただきました。残念ですが、また集まることができる日のことを思うと楽しみでもあります。
 今回のことで、礼拝の本質が問われていると感じました。礼拝の共同体として集まることがまず基本だとは思いますが、集まるということ自体が目的化してしまうと、今回のような時にそれは隣人愛のない行為になってしまうでしょう。問われるべきは「心から礼拝しているかどうか」ということであり、集まるかどうかは、臨機応変に柔軟に考えていくべきところだと思いました。大前提として、電話での個別の安否確認や訪問、聖書のショートメッセージの配信、祈祷課題のまとめなど、地道な対応が必要不可欠であることも思います。礼拝を休会する三月の間も、それらのことには丁寧に取り組みたいと思います。
 一連のことには混乱も大きいですが、神さまにはご計画があるはずです。この時代、この社会に置かれているキリスト者として、神さまの御声を求めつつ、歩み続けていきたいと願います。身の回りのことだけでなく、医療や政治の現場で対応しておられる方々のためにも祈らされます。主の祈りには「御国が来ますように」とあります。神さまの支配がこの地に、この時に、いよいよ明らかにされていきますように。

<2020年2月>
 寒い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。遅ればせながら、十二月二十二日のクリスマス礼拝についてご報告します。場所はワークホテル高槻の会議室で、メッセージの箇所はヨハネ1:1~5より「闇の中の光」と題してみことばをとりつぎました。午後の感謝会ではK・T姉にフルートの演奏をお願いし、各自で持ち寄ったお弁当と高槻の老舗洋菓子店ドエルのケーキでお祝いしました。子どもたちも楽器の演奏やゲームの進行補助として参加し、和やかなひとときでした。
 年が明けてからはK・Nさんの召天式がありました(先月号参照)。また一月十八日にK・M姉が心不全で召されました。T・K宅で集会をしていた頃に来ておられ、先日もクリスマス礼拝をご一緒したばかりでした。詳しいことがわからない中でしたが、A・M姉やN・T姉が動いてくださり、お葬儀は翌日に近親者のみで仏式で行われたとのことや、毎回一緒に来ておられたご家族がその後どうしておられるかについてもわかってきました。Y・O姉も弔問してくださり、Mさんのご主人は大変喜ばれたそうです。つい先日一緒に礼拝したばかりの方が突然召されるということを、目の当たりにさせられたことでした。
 牧会上のこととしては、先月から「教会だより」を発行し、第一日曜日午後の定例会の報告を紙面で残すことにしました。良い形で用いられますようお祈りください。なお、子どもたちが相次いでインフルエンザに罹患した影響で、一月二十六日と二月二日の礼拝を休会しました。私自身は発症はしていませんでしたが、多くの方が長時間電車を乗り継いで来られた上で、ウイルス保有の可能性がある私が礼拝を取り仕切ること、特に療養中のA・F姉のお宅を借りることは状況的に厳しいと判断しました。阿佐ヶ谷の礼拝を視聴したり、個人礼拝の手引きをメール配信したりしました。こういう季節には特に気を遣います。体力的に決して強くはない私たちですが、弱さの中に働かれるという主のみわざに期待していきます。

​<2020年1月>

 新年明けましておめでとうございます。いつもお祈りをありがとうございます。今年も関西集会をよろしくお願いいたしま
す。

 膵臓がんで闘病中だったK・Nさんが1月2日に召され、召天式を1月4日に行いました。会場にはT教会をお借りすることができ、イースター式典社の丁寧なサポートも受けられ、本当に感謝でした。昨年末に病床を3回訪問させていただき、聖書の話をさせていただきました。信じるかどうかは神さまの領域ですので無理強いは出来ませんが、そのことも喜んでおられました。最後には「治りたい」という気持ちを漠然と持つのではなく、イエス様に向けて祈っていくことを励まし、幾分明るい声で「はい」と言っておられたのが印象的でした。臨終の床に駆けつけた際には、名前を呼び、手を握り、「よく頑張りましたね」と声をかけたところで息を引き取られました。牧師の到着を待ち、全身で信仰を表明されたと思えてなりません。病床で語った通り、かの日には復活して再会を喜び合えることを信じています。ご家族のために引き続きお祈りください。

 なお、先月の月報で紹介した聖書の読書会ですが、近隣の教会をお借りすることは見送りになりました。牧師先生は喜んでくださったのですが、信徒のみなさんが慎重であられたようです。導きがはっきりしたので、公共施設の方で、教会名を出すことも含めて検討していきます。お祈りください。神さまのなさる「新しいこと」に期待しています。

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