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​礼拝メッセージ
 
20211226(ルカ2:1〜7)必要を満たしてくださる神
00:00 / 18:58

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【1/9】

マタイ18:20他

「私たちの交わり」

明けましておめでとうございます。久遠キリスト教会2022年のみことば(マタイ18:20)を受けて、聖書に登場する「二人、三人の交わり」を思い返していました。

<アダムとエバ>
聖書に登場する最初の「二人の交わり」は、アダムとエバでしょう。神さまが「非常に良い」と言われた世界で、初めて「良くない」と言われたのは、「人が一人でいること」でした(創世記2:18)。この箇所は結婚に関連して開かれることも多いですし、実際にアダムとエバの文脈ではあるのですが、結婚という側面と同時に、人には仲間が必要だという意味でもまた語られている箇所だと思います。エデンの園を耕すという、神さまから与えられた役割のために、一人でそれをするのではなく、仲間とそれをするようにと言われているのです。そこには、神さまご自身が「父・子・聖霊」という三位一体の交わりの神であることが深く関係しています。私たちはこの神に似せてつくられていますので、やはり交わりが必要なんですよね。

<マリアとエリサベツ>
励まし合った二人として思い出すのはマリアとエリサベツです。天使のお告げを受けたマリアは、「どうぞ、おことばどおりこの身になりますように」とは言ったものの、すぐに不安が襲ってきたのだと思います。ナザレからユダの町(おそらくエイン・カレム)まで、親戚のエリサベツを訪ねに行きました(ルカ1:38-56)。高齢のエリサベツが身ごもったことは、神のことばに不可能はないことの証明でした。マリアの訪問を受け、二人は神さまのみわざとその不思議を語り合い、お互いに励ましあったことでしょう。仲間の証は、私たちが神さまの御心に従って行くことの力になるのです。

<パウロとシラス>
パウロとシラスは伝道旅行の仲間たちから切り離され、無実の罪で投獄されました(使徒16章)。神さまの御心を行なっていたのに、無実なのになぜという思い、また何度も鞭で打たれた身体の痛みや不平や不満もあったことでしょう。しかし、彼らは牢の中で「神に祈りつつ賛美の歌を歌って」いました(16:25)。二人で信仰を励まし合い、共に神に祈り、共に神を褒め称えていたのです。神を賛美し礼拝するとき、そこには神さまの臨在があります。神さまの慰めと恵みは周囲にあふれ出し、奇跡を起こし、看守とその家族の救いへと繋がっていきました。

<私たちの交わり>
私たちにも、関西集会という交わりの母体から切り離されて、二人、三人の交わりしか出来ない、いや、それすら難しい状況があります。新型コロナウイルスのオミクロン株が急速に広まりつつあり、今後、また集まることは困難になっていくと思われます。しかし、教会として集まることができなくても、だからこそ二人、三人の交わりを大切にしていきましょう。

三位一体の交わりの神に似せてつくられた私たちは、一人で神の御心を行っていくのではなく、仲間と行っていくように召されているのだからです。私たちには交わりが必要なのです。それはお互いのうちに神のみわざを見ていく交わりです。そこに神がおられるという神の臨在を見させられていく交わりなのです。お互いの内に主がおられることを見させられていく交わり、とも言えるでしょう。

電話やLINEで祈り合ったり、ハガキを出したり、安否を尋ね合い、またお互いのために祈ることを諦めずにいようではありませんか。誰と交わることができなくても、「私のために祈ってくださっているあの人、この人」「キリストが内におられるあの人、この人」の祈る様子を思い浮かべながら祈っていきましょう。

ヘブル10:25「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」

「その日」とはキリストの再臨の日です。イエスさまが戻ってこられる日です。世の中では「世の終わり」とは恐怖の日のように言われていますが、私たちキリスト者にとってしてみれば、イエスさまがまた戻ってこられる日は希望の日なのです。その揺るがない希望に目を留めつつ、祈り合い、励ましあってこの一年を歩んでまいりましょう。

【12/26】

ルカ2:1〜7

「必要を満たしてくださる神」

この一年も、ここまで守られたことを主に感謝します。今年、久遠キリスト教会に与えられた御言葉はピリピ4:19でした。「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」コロナ禍にあって、礼拝する場所がない、時間がない、あれがないこれがないという私たちですけれども、神さまは豊かな方であり、私たちの必要をすべてみたしてくださるお方だということを教えられたことでした。この一年を振り返って、この御言葉は真実であったと強く思わされます。

あれがない、これがないという人たちの極みとしてヨセフとマリアのことを思わされます。古来からの教会の暦ではクリスマスは一月の六日までということになっていますので、一年の恵みを振り返りながら、もう少しクリスマスを味わいたいと思います。

<居場所も出産場所もなかったヨセフとマリア>
まず、マリアとヨセフには場所がありませんでした。居場所もなく、安全な出産場所もなかったのです。ベツレヘムに着いた時、マリアは産気づくわけですが、7節に「宿屋には彼らのいる場所がなかった」とあります。この「宿屋」という言葉は22章では「客間」と訳されている言葉です(22:11)。当時の家には旅人をもてなす客間が必ずありましたので、ここも「宿屋」ではなく「客間」だったのだとしたら、彼らはヨセフの親戚の客間を頼ったのかもしれません。しかし、そこは同じようにベツレヘムに帰ってきた親類でごった返していたでしょうし、なにより婚約期間中に子どもを宿したと噂されるこの夫婦にはいる場所がなかったのです。親戚の中でも肩身の狭い彼らでした。

しかし、マリアの出産はもう待った無しです。今にも生まれそう。そこでヨセフが選んだのは家畜を飼うための場所でした。これはいわゆる「馬小屋」ではなかったと思われます。馬は兵隊が乗るもの。ベツレヘムで飼われていた家畜は羊です。確かに、ここには「飼い葉桶」という言葉しか出てこない。馬小屋というのは後世に作られたイメージで、実際は小屋ではなくて洞穴だったはずとも言われます。ベツレヘムには実際にそういった洞穴がいくつか残されています。ヨセフとマリヤには居場所がありませんでしたので、仕方なく、羊の洞穴に行きました。生まれてくる子は神の子じゃなかったのか。なぜこんなところで、と思ったでしょう。およそ人間が赤ん坊を産むような衛生的な場所ではありません。しかし、神さまの目から見たらそこに大きな意味があったのです。「神の小羊」と呼ばれる方にとって、羊の洞穴こそがふさわしい場所なのでした。

<布で包まれて>
そして、生まれた子に着せる産着もありませんでした。布にくるんで飼い葉桶に寝かせるしかありませんでした。実はこれ、人の亡骸を包むのに使われた亜麻布だと思われます。郊外の洞窟というのは人を埋葬する用意がなされる場所でもあったようで、羊の飼われていたのだろうこの洞穴にも新しい亜麻布があったのでしょう。なんで、生まれたばかりの子に死装束のようなものを着せなければならないのか。神の子じゃなかったのか。天使のお告げを信じてここまで来たのに。そう思ったはずです。しかし、ここにも神さまの目から見たら大きな意味がありました。やがて十字架で死なれた際に、イエスさまの身体は亜麻布で包まれています(23:53)。生まれた時に亜麻布で包まれたことには、この方が死ぬために生まれてきたことが暗示されているのでした。

<仕方なく選んだ場所なのではない>
このように、マリアとヨセフには居場所もなく、安全な出産場所もありませんでした。だから仕方なく、汚い場所を選んだ。イエスさまはこんなところで生まれてかわいそう・・・ではないのです。この赤ん坊は私たちの罪のために、十字架で血を流す神の子であることが、あらかじめ、神さまの配慮によってこのように用意されていたんですね。羊飼いに知らせを告げた天の使いは言いました。「布にくるまって飼い葉桶に寝ているみどりご、それがあなたがたのためのしるしです」と。この布こそふさわしい産着でした。羊の洞穴の飼い葉桶こそ、ふさわしい場所だったのです。ヨセフとマリアには、安心して赤ちゃんを産める場所がありませんでした。しかし、神さまは、救い主が生まれるために一番ふさわしい場所をあたえてくださったのです。

私たちは思うようにことが運ばないと、「こんなはずではなかった」「なぜこんなことに」と思ってしまうものです。しかし、神さまの目から見たらそこには大きな意味があるかもしれません。一番ふさわしいものを、神さまは用意してくださいます。羊飼いの訪問を受けた後で、これらのことを思いめぐらしていたマリアのように、私たちも神さまのなさることを味わい、見届けていきたいと思います。

<必要を満たしてくださる神>
このように神さまは、私たちの願いに従ってではなく、神さまの豊かさにに従って私たちの必要を満たしてくださいます。それは、もしかしたら私たちにとって魅力的なものではないかもしれません。神さまの豊かさは、私たちにとって魅力的な内容ではないかもしれない。私たちは神さまの「豊かさ」について、全くまだまだ知らないのです。それはある時には無尽蔵の富かもしれません。しかし、世界で初めのクリスマスを思い返す時に、栄光の王がどのようにお生まれになったかを思い返す時に、神さまの富とは、私たちが思い描くいわゆる「幸せ」とは違うかもしれないのです。こうであるはずだという思い込みとも別でしょう。しかし、私たちの不足感をはるかに超えて、神さまはふさわしいもので私たちを満たしてくださいます。もちろん、具体的に願っていたものが与えられるという形で、望んでいた通りに祈りが聞かれるという形で、必要が満たされることもあるでしょう。そういう証はよく聞きます。神さまに対しては遠慮しないで、大胆に祈って求めて良いのです。神さまはそういう意味でも豊かなお方です。しかし、願った通りにその祈りが聞かれなかったからといって、願っているものが与えられなかったからといって、神さまが祈りに応えてくださっていないということではないのです。私たちの願いに従ってではなく、あくまでも神さまご自身が、その豊かさに従って、神さまのやり方で、私たちを満たしてくださいます。

礼拝する場所がない、あれがない、これがないとつぶやきたくなる私たちですが、神さまのみわざを見せてくださいとの祈りを新たにしていきましょう。自前の場所を持っていない私たちですが、神さまの何らかのご計画があることを信じます。これからどのような形で満たされていくのか、いや、神さまの視点ではもしかしたらもう満たされているのかもしれません。それをどのように用いていくのか。そんなことも考えます。

神さまは私たちの想像をはるかに超えた形で不足を満たしてくださいます。私たち関西集会にも神さまのご計画がきっとある。みなさんお一人お一人にも、神さまのご計画がきっとある。それは、私たちが思い描くようなものではないかもしれません。しかし、神さまのみわざをあらわすために私たちが用いられていく。ここに、お一人お一人に神さまのみわざがあらわれていく。そのことをみなさんで目の当たりにしていきたい。そしてその証を共に喜び合いたい。新しい年もそのような歩みであれ、と願っています。

【12/19】

ヨハネ1:1〜2、14

「ことばは人となって」

クリスマス、おめでとうございます!無事にクリスマスの礼拝をみなさんで捧げられることを感謝します。新型コロナウイルスのことで世の中が変わってしまってから二年になろうとしています。毎週、集まって礼拝することはできなくなりました。しかし、それでもここ数ヶ月は集まることを許され、このようにクリスマスの礼拝も共に持つことができました。一回一回の礼拝がかけがいのないものなのですが、やはりクリスマスの礼拝は特別ですよね。感謝でいっぱいです。

ここ数週間、エステル記を通して、またマタイの福音書一章の系図を通して、神さまの救いの計画について思いを巡らせて来ました。今日は今一度、神の計画とは何だったのかを振り返ってみたいと思います。そのことで、クリスマスの感謝が際立つと思うからです。この後のキャンドルサービスでは、ルカの福音書2章の降誕の場面を味わうことといたしましょう。

<そもそもの起こり>
では、神さまの救いの計画についてですけれども、その発端は創世記、世界の始まりに遡ります。神さまはお造りになったこの世界を、そして人を「非常に良い」と見られました(創世記1:31)。しかし、アダムとエバは、食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木」からとって食べてしまいます(同2:17、3:6)。そこには「やってはいけないと言われていたことをやった」という以上の、重大な意味がありました。「善悪の知識」というのは、すべての知識ということです。「神に逆らって善悪の知識の木からとって食べる」ということは、すべての知識において自分が神に取って代わるということを意味しました。人間は神さまの愛の対象につくられたのに、神さまを不要とする、もしくは自分が神になろうとする、それが罪の本質なのでした。

そして、このアダムとエバが罪を犯したゆえに、すべての人は罪を持って生まれるようになりました。アダムとエバの罪が遺伝している、受け継がれているというよりも、アダムが罪を犯した時、私も罪を犯したのだとそこに自分を重ねる方が理解しやすいと思います。アダムとは「人」、エバとは「いのち」という意味だからです。

罪によって、神さまと人との関係はもちろん、人と人との関係も、そして世界との関係も壊れてしまいました。人は自分がすべてを知る神になろうとし、人同士で敵対しています(同3:16)。自然環境も壊し続けているわけです(同3:17-18)。これが人の現実です。

しかし、神さまは救い主の誕生を予告されました。創世記3:15は十字架にかかる救い主の預言です。女の子孫として、つまり処女マリアから生まれる方が、へび(つまりサタン)の頭を打つのです。以前の翻訳の方が分かりやすいかもしれません。「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」救い主がかかとに噛みつかれるというのは、十字架で命を落とすことをあらわします。しかし、それでも救い主はサタンの頭を踏み砕く。罪に対して完全に勝利されるという預言だったのです。

その後、エデンの園を追放されるときに皮の衣を着せてくださったことにも、やがて人の罪を覆うために救い主の血が流されることが表されていました(同3:21)。神さまはあくまでも救い主を送り、その血を流して人を救うおつもりだったのです。

そして、長い時を経てとうとう与えられた救い主こそ、イエス・キリストその人でした。

<クリスマスの意味>
クリスマスはイエスさまの誕生をお祝いする日、間違いではないのですが、ただ単に誕生しておめでとうという以上に、神が人となって生まれたということが重要です。私たちの罪を赦し、この世界を覆うために、神のひとり子が「人となった」、人となって来られた、そこが大切なのです。天の神さまが、「神と人」の違いを突き破って、人としてイエスさまを送られた。神が人として来てくださったということが重要なのです。人として来てくださったお方ですから、私たちの弱さも痛みも、嘆きも理解してくださいます(ヘブル4:15)。この方は文字通り、私たちの間に、私たちの隣に来てくださったお方です(ヨハネ1:1-2, 14)。

救い主が人として来られた最大の理由は、人として来られなければ、十字架にかかることはできなかったからです。救い主が人として来られなければ、十字架による罪の赦しはなしとげられなかったからです。

この方が十字架にかかられたから、まるで犠牲の子羊のように、罪の赦しのための血を流されたから、私たちは赦されました。そしてこの方が死の力を破ってよみがえられたから私たちは罪から解放され、新しい命が与えられました。私たちはもう闇の中を歩んではおらず、古い生き方にこだわる必要はなく、新しい人を着せられた者として、復活のいのちを与えられた者として、生きていくことができます。そうやって地の塩、世の光としてこの世界に仕えていくのです。その時、この世界も神さまが願っていた形に少しずつ回復していきます。

神さまの計画とは、救い主を送ってあなたを救うことです。そして救われた私たちが地の塩、世の光として世界に仕えていくということ。そうやって世界が回復していくことですね。

私たちは、赦されたとしても依然として罪びとであり、古い生き方に翻弄される日々ですが、イエスさまの十字架を信じる生き方が始まったのです。主が私たちと共に歩んでくださり、私たちは変えられていく。いや、「非常に良かった」と言われた時の姿に私たちも回復していくんです。その回復の途上の旅を、主と共に、味わい、楽しみながら歩んでいくことができます。それも、人として来られたイエスさまが十字架にかかって死なれ、よみがえられたからです。

クリスマスは、イエスさまが人として来られたことを祝い喜ぶ日です。あなたのために救い主がお生まれになりました。この日を喜び、楽しみましょう。

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【12/12】

マタイ1:1〜25

​「神の計画の実現を待つ」

 

クリスマスを控えて、アドヴェントの第三週を過ごしています。マタイの一章を読みながら、いくつかのことを考えました。

 

<長い期間>

この系図を見て最初に思うことは、救い主が与えられるまでに、これだけの長い期間がかかったということです。アブラハムより前のことも考えると、これ以上に、ですね。神さまの計画は、ある意味では回りくどい方法で進められていきます。アダムとエバが罪を犯した時点で、救い主が登場するような簡単な方法ではなかった。イエスさまが人として生まれる。それも、アダムからずっと後のアブラハム、そのアブラハムからさらにこうやってずっと後のヨセフとマリアから。ものすごく遠回りな方法です。

 

でも、これが神さまのタイミングだったのです。アブラハム以降2000年の間に、救い主の約束はヘブル語の聖書にまとめられ、ユダヤ人がそれを守ってきました。それは、神さまの約束が箇条書きに記されているようなものではなく、神の民の歴史物語や詩歌の形をとっていました。だからこそ、後の時代の私たちはそこに自分を重ねることができます。そしてイエスさまが生まれた頃というのは、世界はローマ帝国が支配していましたが、共通語はギリシャ語でした。新約聖書はこのギリシャ語で記され、広く世界に広められていくことになります。ローマが帝国中に道路を張り巡らせていたことも見逃せません。福音は帝国中に、そしてそれよりもさらに遠くまで広がっていったのです。

 

長い期間がかかるというのは、それを待つ側からしたら大変なのですが、神さまの視点に立つなら、最善のタイミングというものがやはりある。それに向けて長い時間がかかることがあっても、神さまの最善のタイミングに信頼したい。神様の最善を待ちたい。この長い系図を見ながら、そんなことを考えます。

 

私たちは神さまに祈る時に、その祈りがなかなか聞かれないことに焦ったりもします。しかし、神さまのタイミングがあるんですよね。祈りは必ず聞かれています。神さまがそれに答えを与えてくださるのには、やはりタイミングというものがある。そんなことも思います。

 

<一人一人の人生>

二点目は、この系図に記された人々の人生です。神さまの計画の実現を待つといった時に、それは何もせずにただボーッとしているという意味ではありません。懸命に生きるのです。この系図に記された一人一人にはそれぞれの人生がありました。そこには繰り返される日常があり、取り組んでいた仕事があり、家族があり、友人があり、喜びや悲しみがあったでしょう。彼らは懸命に生きました。その積み重ねの先に、神さまがご計画を実現させてくださったのです。神さまは一人一人の日々の生活、日々の命の積み重ねを用いられるお方です。

 

この系図に出てくるのは、聖書の登場人物として有名な人の名前もあれば、ここにしか出て来ないので、どういう人なのか分からない、そういう名前もあります。しかし、この一人一人の存在に意味がある。このうちの誰が欠けても救い主は誕生しなかったという、大切な一人一人だということを表しているんですよね。

 

当時の系図には社会的立場の弱い女性の名前、とりわけ隠しておきたいような、民族の恥とされるような人の名前は省略されたのですが、この系図には何人もの女性が出てきます。しかも、みんな曰く付きの人たちです。記録に残しちゃうとちょっとまずいような人たち。しかし、その名前がしっかりと残されています。神さまはご自身の計画のために、私たちの都合の悪いことや隠しておきたい痛みの経験も用いてくださるということです。

 

神さまは、ご自分の計画を完成されたパッケージでドン!と渡される方ではありません。私たちを通して、私たちを用いてそのみわざをあらわされます。そのために一人一人のことを丁寧に、大切に見ていてくださる。神さまにとって、私たち一人一人は、あなたは、かけがえのない存在です。私たちの人生は、私たちの経験は、その恥も痛みもすべて、神さまのみわざのために用いてくださいます。起こってしまった出来事は消せませんが、まさに私たちが消し去りたいと思うような経験すら、良いことのために用いてくださるのです。私たち一人一人を通して、あなたの人生を通して、神さまはみわざをあらわされます。

 

<待ち望む>

三つ目は、待ち望むということ。彼らはユダヤの民として、救い主誕生の約束は知っていたでしょうが、それがいつ実現するかはわかりませんでした。神さまの約束を信じることができた日々も、信じることができなかった日々もあったでしょう。その間には、たとえばエステル記のような事件もありました。激動の人生です。信仰が上向きの時も、下向きで低空飛行の時もあったはずです。しかも、彼らは約束の実現をその目では見ることができなかったわけですよね。ひたすら待ち続けた人生でした。

 

ヘブル書11:1「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 

ここで「保証」と言われるのは、いわば不動産の証書のことです。証書があれば、その土地が自分のものであることが証明されます。まだそこに住んでいなくても、まだ行ったことすらなくても、その証書があれば確実です。ここで言われているのはそういうことです。信仰とは、神さまによって語られたことは必ず実現すると保証し、確信を与えるものなのです。

 

続けて11:13〜16「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」

 

私たちも、神さまの約束の実現を確信しながら、神さまを待つということを、特にこのアドヴェントに教えられているように思います。

 

<聖霊によって>

最後の四つ目として、マリアの妊娠が聖霊によるものだったということです。私たちは、イエスさまが処女マリアから生まれたことをすでに知っています。しかし、この時に当人たちがどれほど驚き、悩んだか。マリアとヨセフがどれほど傷つき、また周りの人たちがどれほど混乱したか、今一度思い起こしてみたいのです。

 

婚約者が自分以外の人の子を宿したようだ、というのは、ヨセフにとってはまさかの出来事、あってはならない出来事でした。頭を抱え、うずくまって、彼は生きる希望を失ったと思います。

 

しかし、彼は夢で主の使いから伝えられます。マリアの胎に宿っているものは聖霊によるのだと、彼にとって一番わかりやすい形で教えてくださったわけですね。

 

神さまのご計画は、長い期間をかけて、一人一人の生活の積み重ねの先に、待ち望まれていくものですが、いざその時になると、思いもよらない形であらわれる。想像もしなかったような形で実現していきます。そのことを私たちは受け取ることができないかもしれません。しかし、神さまが私たちに語りかけてくださる。受け取らせてくださるのですね。

 

<主の再臨を待つアドヴェント>

アドヴェントはクリスマスを待ち望む期間であると同時に、主の再臨を待つ心を新たにする時です。私たちは目の前のことにとらわれすぎて、神さまの約束に思いをはせることがなかなかできないのですけれども、クリスマスを待ち続けた信仰の先輩たちに倣って、主の再臨を待ち望むものでありたい。待ち望むことを教えられるこのアドヴェントの期間に、改めてそう願います。

 

今、私たちはいつかやがて主イエスが戻って来られる日を待ち望みつつ、それぞれの生活を送っていますけれども、私たちの存在が、生活が、神さまのご計画のために尊く用いられることを思い起こしましょう。山あり谷ありの激動の人生が、神さまの御用のために用いられます。痛みや苦しみの記憶も、神さまの御用のためにキリストの十字架で贖われています。お任せして、お委ねしていきたいと思います。

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【12/5】

エステル記9:1〜10:3

「神の民の物語」

今日でエステル記も最後です。10章は短いので、9章と10章を両方見ていきます。その前に、ここまでの流れを振り返りましょう。

 

<エステル記の流れ>

バビロン帝国がペルシャに滅ぼされてからしばらく経った時代。時の王、クセルクセスが新しい王妃を選ぶこととなり、神さまの導きによってユダヤ人エステルが選ばれました。このエステルや育ての親のモルデカイらのように、バビロン捕囚が終わった後もエルサレムには帰らなかったユダヤ人の子孫が大勢いたのでした。

 

さて、その頃大臣として重用されたのがアガグ人ハマンです。自分に頭を下げて敬礼しないモルデカイに腹を立てた彼は、王を言いくるめて、ユダヤ人を絶滅させる法令を作ってしまいます。虐殺の決行はアダルの月の13日と決まり、彼は王の指輪でそれに印をしました。

 

モルデカイはエステルに託けて、ユダヤ人を助けてくれるように王に頼むよう伝えます。呼ばれてもいないのに、こちらから王に会いにいくことは、下手をすると殺されるかもしれない危険なことで、エステルは躊躇したものの、「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない」というモルデカイの言葉に背中を押されて、王に会いにいくことに決めたのでした。「私は、死ななければならいのでしたら死にます。」これがエステルの決意でした。

 

三日間の断食祈祷を経て、エステルは王の前に出ていき、王もエステルに金の笏を差しのばして許しを与え、エステルは王とハマンを宴会に招きます。しかし、その席では王に問われても何も言わず、明日もまたハマンとお越しくださいとだけ伝えたエステルでした。ハマンは上機嫌で帰りましたが、またモルデカイを見て機嫌を悪くし、妻や友人らの勧めでモルデカイを柱にかけて殺す用意を始めます。

 

その夜、王宮では、モルデカイが過去に王の暗殺計画を未然に防いだこと、その彼に何の報酬も与えられていなかったことが明らかになり、モルデカイに最高の栄誉が与えられ、ハマンがその馬を引く役目になったのでした。

 

その後、二日目の宴会の席で、エステルはついに「私と私の民族の命をお救いください」と王に懇願ます。「そんなことをたくらんでいる者は誰か」ということで、ハマンのたくらみが明るみに出され、彼は王の命の恩人モルデカイをかけるために用意していた柱に自分がかけられてしまうのでした。

 

しかし、ハマンが死んでも、ハマンが制定したあの法令は残っています。王の名で書かれたものは誰も書き換えることができません。しかし、今度はモルデカイに王の指輪が与えられ、モルデカイが新しい法令を出したのでした。アダルの月の13日、ユダヤ人は自衛のために集まって戦ってよいというものでした。モルデカイは王の服を着せられて民の前に出、スサの都は大歓声でそれを迎えます。その日はユダヤ人にとって光の日となりました。

 

<プリムの祭りの制定>

そして9章に入りますが、ついにアダルの月の13日になりました。この日はユダヤ人が征服される日だったはずですが、逆に、この日は勝利の日となりました。ユダヤ人は自衛のために戦うことを許されて集まりましたが、誰も彼らに抵抗する人はいないのでした。ユダヤ人への恐れ、つまり彼らの神への恐れが人々に下っていたからです。諸州の首長たちもみなユダヤ人を支援しました。今やモルデカイの名声はすべての州に広がっていました。ユダヤ人を守るだけでなく、大臣として他の分野のことについても、とても有能だったのでしょうね。

 

9章5節以降は、少し理解に苦しむ場所かもしれません。ユダヤ人たちは、自分たちを憎む者を剣で撃ち殺し、虐殺して滅ぼし、処分したと。スサの城でも五百人を滅ぼし、またハマンの十人の子を虐殺したとあります。なぜここまでしなければならなかったのでしょう。ここだけを読むと、やりすぎのようにも思えます。先ほど、「誰もユダヤ人に抵抗する者はいなかった」と書かれていたわけですし。しかし、実際は敵がいたわけですね。ハマン同様、ユダヤ人を快く思わない人々がいたのです。そして、アダルの月の13日、初めの法令通りに襲ってきたというわけです。16節には、スサの都以外のところでは七万五千人の敵を殺したとあります。モルデカイの勢力を恐る人が増えていたとは言え、ユダヤ人をうとましく思ったり、ハマンの仇を討とうする人々が大勢いて、戦いは避けられなかったことがわかります。ユダヤ人たちに許されたのは自衛の戦いでしたから、こちらから襲いかかってはいないはずです。スサの城の五百人にしろ、ハマンの子どもたちにしろ、向こうからユダヤ人を襲ってきたのでしょう。しかし、返り討ちに合ったというわけです。興味深いのは10節や15節、16節にユダヤ人たちが「略奪品には手を出さなかった」とあることです。戦いの結果生まれた「略奪品」、つまり敵が持っていた武器やら鎧やら、高価な品物を奪って自分のものにはしなかったということですね。激しい戦いでしたが、あくまでも自衛の戦いであり、略奪するための戦いではなかったということが強調されています。

 

ちなみに、聖書にはこういう一見残酷な話も出てくるわけですが、それが聖書の内容の全てではありませんよね。映画や小説などでも、一部残虐なシーンが出てきたとしても、それは話全体の中の一部であり、そこがその作品のメインではないわけです。聖書も同じです。読んでいてひどいと思えるような表現がありますが、そこが聖書が全体として言いたいことではない。聖書はあくまでも、やがて救い主がくるという約束の旧約聖書と、救い主が来られたという新約聖書という、それがメインの内容です。エステル記は「救い主がくる」という約束がどんな形で成就していったか、どのようにして人々がその約束を信じ、世代から世代へと繋いでいったかという話であるわけです。

 

さて、こうしてアダルの月の13日、そしてエステルの願いでスサにおいては追加された14日にも、ユダヤ人は大きな勝利を収めました。ユダヤ人たちはこの日を記念して集まり、ごちそうを贈り交わして喜ぶ日を定めました。毎年アダルの月の十四日と十五日は、敵からの安息を得た日、悲しみが喜びに変わった日として祝われるようになりました。この月、この日は、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り交わし、貧しい人々に贈り物をする日とされたわけです。これは人々の間で自然発生的に始まっていたようですが、モルデカイが法令としてその祝日を定めました。ハマンはかつて3:7で、ユダヤ人虐殺の日を定めるためにくじを投げたのですが、結局それが実現することはありませんでした。くじのことをヘブル語で「プル」といいますが、これにちなんで、勝利のお祝いの日は「プリム」と呼ばれるようになりました。エステルとモルデカイはこのプリムの日がユダヤ人の間で廃止されることがないようにと定めます。その通りに、このプリムの祭りは今でもユダヤ人にとって大切な祭りとなっています。

 

そして十章は短く3節だけですが、モルデカイが大いなる者となったこと、多くの同胞たち、ユダヤ人たちに敬愛されたこと。彼は自分の民の幸福を求め、平和を語る者であったという描写で終わります。ヘブル語のエステル記は「自分の民に」という単語で終わります。「民に」、まさしくエステル記は民の、神の民の物語なのでした。

 

<むすび>

エステル記を閉じるに当たって、私たちも主の民だということを心に刻みましょう。神さまがご自身の計画をあらわすために用いてくださる、主のしもべの民だということを、思い出しましょう。エステルのように、モルデカイのように、与えられた場所で、神の民として、その使命に生きたいと願います。大きなことはできないと思わないでください。あなたがそこにいること自体に、他とは比べようもない大きな意味があるのですから。

 

自分はまだ小さくて、まだ神様のために役に立つことなんかできないと思う必要はないのです。あなたがそこにいることで、どれだけ多くの人が励まされ、慰められているか。自分では気づいていないかもしれませんが。そこにいることに意味がある。そのことを忘れないでください。

 

スサの都のユダヤ人たちは、エルサレムの神殿からは遠く離れ、しかも神殿の再建に参加しなかったような人たちです。その意味では、中途半端と言われる人たちだったのかもしれない。しかし、大切なことは私たちが立派かどうか、中途半端かどうかではありません。私たちが信じるお方こそが、揺り動かされない希望のお方だということが大切なのです。その方ががなさること、神さまの導きに敏感でありたいと願います。

 

神の名が直接出て来ないエステル記に、確かに神の摂理が描かれていたように、主は私たちの生活の只中に、ご自身の摂理を、配慮を散りばめていてくださり、確かに私たちと共にいてくださるお方です。それをそのまま味っていたいのです。

 

私たちは神の民です。古い生き方、罪の性質にはいまだ引きずられる弱い者ですが、私たちには新しい法令、新しい生き方が与えられています。そして私たちには、この新しい生き方で世の中に仕えていく使命があります。役割があるのです。神さまご自身が私たちを用いてくださいます。そのことの不思議を体験していきたいと思います。

 

それは光の知らせ、喜びの知らせです。ユダヤの民が喜びに湧き上がったように、私たちも改めて、この「良い知らせ」(Good News、福音)を喜び、楽しもうではありませんか。この方が来られたことを今年も改めてお祝いしたいと思います。

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【11/28】

エステル記8:1〜17

「光の内を歩む神の民」

<新しい法令>
今日は、エステル記の八章を見ていきます。ハマンが王の怒りに触れて柱にかけられた後、エステルはモルデカイを呼び、王の前ですべてを明らかにしました。彼らがユダヤ人であること、そして、ハマンによって王の印鑑が押されたあの法令のゆえに、帝国中のユダヤ人が絶滅させられそうになっていることをです。王はハマンの財産と権限をエステルとモルデカイに渡します。とりわけ、モルデカイに与えられた王の指輪に大切な意味がありました。

エステルが、ユダヤ人を助けてくれるように、ハマンが出した法令を取り消してくれるようにと王に泣いて頼んだ時、王は8節のように答えます。つまり、ハマンの法令は王の名で書かれているため取り消すことができないが、今度はモルデカイが新しい法令を作れば良いということです。

モルデカイは迅速に行動しました。王の書記官たちが召集され、インドからエチオピアに渡るペルシャの全領土に、王の名で書かれ、王の指輪で印が押された詔書が送られました。その内容は11節、どの町のユダヤ人たちも、自分の命を守るために集まって戦ってよいというものです。ハマンの法令は消えませんが、それに抗って戦うことが許されたのです。御用馬の早馬に乗った使いは、王の命令によって急き立てられて、急いで出て行きました。王の道を通って帝国中にこの知らせが伝えられていったのです。

その日、モルデカイは王の服を着てみなの前に出てきました。スサの都は喜びの歓声にあふれました(15節)。16節、ユダヤ人にとってそれは光と喜び、歓喜と栄誉であったと記されます。王の命令が届いたところには喜びと楽しみがあり、祝宴が張られ、その日は祝日となりました。興味深いのは、その様子を見た諸民族の中で大勢の者が、自分もユダヤ人であると宣言した、脚注の別訳では装ったということです(17節)。ユダヤ人の喜びを見、彼らの勝利が確実であることを見て、自分もユダヤ人だと言ってくる人が大勢いたということです。虫がいい話のように見えますが、つまりはそれほどにユダヤ人の喜びが大きかったということ。彼らの勝利が確実であったということです。17節の最後にあるように、「ユダヤ人への恐れが彼らに下った」のでした。彼らの信じる神は生きていて、力があり、ご自分の民を守る神だということが人々の目にも明らかになったわけですね。

<王なるキリストのもとで>
さて、モルデカイがまるで王のような描かれ方をしていることに注目したいと思います。王位に就いているのはあくまでもペルシャのクセルクセス王なのですが、モルデカイは王の着物を着て、王の指輪を所持し、王の名で法令を書く立場になりました。特に15節、16節ですが、モルデカイは王服を着てみなの前に出て来て、みなが大歓声でそれを迎え、その日はユダヤ人にとって光の日、喜びの日だったというのは、まるでモルデカイが新しい王であるかのような表現です。

そもそも、モルデカイが新しい法令を作ったということ自体が、彼を新しい王として描いていると思います。ハマンの古い法令は残っているのですが、しかし、今や新しい法令が出された。王としてのモルデカイが(あえて「王」と言いますが)、新しい法令を出した。民は新しい法令によって生きることができるようになったのです。それは「光の日」と呼ばれた、と。

ここには、後々のことが重ねられていると見ていいでしょう。つまり、やがて新しい法令で私たちを生かす王が現れるということです。その王とはもちろん、私たちの救い主イエス・キリストです。

王の王であるイエスさまの新しい法令が私たちを生かすのです。私たちはいまだ古い法令に影響され、古い生き方に引きずられるものですけれども、今や新しい法令、新しい生き方が提示されていることを忘れてはなりません。ローマ8:1−2「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。」

私たちは依然として古い律法の影響下にあって、いまだに古い自分にこだわって神さまを悲しませるようなことばかりしてしまうのですが、古い自分は、私たちの肉は、罪はキリストの十字架に着いたのです。それらの罪は、いや、罪そのものである私自身は、イエスさまと一緒に十字架に着きました。イエスさまと一緒に十字架で死んだんです。今はキリストの御霊、聖霊によって復活のいのちを、新しい生き方を与えられているんだということを思い出そうではありませんか(ガラテヤ5:24-25)。イエスさまは私たちに新しいいのちを、復活のいのちを与えるために来てくださった、私たちの王です。

私たちに新しい生き方を与えてくださる方は、世の光として来られたお方です(ヨハネ8:12)。私たちは、この光に照らされて歩むのです。スサの都のユダヤ人たちが、モルデカイの登場を祝い、「光の日」としてそれを喜んだように。私たちも、王の王なる方の誕生を祝いたいと思います。

<闇の中の光>
今日からアドベント、待降節と呼ばれる期間に入ります。一週ずつろうそくを増やしながら、クリスマスを待ち望みます。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

この方が来られたことを、光の日として喜びましょう。このことを記念するクリスマスの礼拝を、心待ちにしながら、今日この日も、私たちを救う光として来られたお方を喜び楽しもうではありませんか。あなたの内に、古い生き方がありますか?主はすでに私たちを新しい生き方へと入れてくださっているのですから、何度でも、何度でも、古い生き方を捨てて、光の中を歩み直したいと思います。

そしてまた、これから聖餐式を行いますけれども、これもまた、私たちの王なる主イエスが戻って来られる日まで、それを待ち望みながら続けるようにと言われたものです。すでに与えられた光の日だけでなく、将来、最終的に、究極的に与えられる光の日の前味を味わいながら、喜んでいただきたいと思います。

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【11/21】

エステル記7:1〜10

「神の民の役割」

エステル記の7章です。とうとう、ハマンの悪事が暴かれました。

二日目の宴会が始まり、王は再び尋ねます。ここまで答えを引き延ばすとは、王妃エステルの望みは一体なんなのだろうと興味津々でした。それに対して、ついにエステルは、慎重に言葉を選びながら、自分と自分の民族のいのちを助けてくれるように願ったのでした。エステルは直接「ユダヤ人を助けてください」という表現をしていませんが、自分自身をそこに含めて、自分もまた殺されそうになっているのだとアピールしました。決して嘘ではありませんし、効果的なアピールということですね。王妃の命まで狙うとは、そんなことをたくらんでいるのは一体どこの誰だということで、エステルの狙い通り、王は激しく怒ります。「迫害する者、敵とは、この悪人ハマンです!」まさか、王妃エステルがユダヤ人だったとは。ハマンは震え上がります。顔面蒼白だったでしょう。

 

王はあまりの怒りに一度外に出ました。そして戻って来てみると、なんとハマンがエステルの長椅子の上でひれ伏して命乞いをしていました。彼が王妃の長椅子にまで乗り上がっている様子を見て、王は「私の前で、この家の中で王妃までも辱めようとするのか。」と言い放ちます。そうではなく、命乞いをしていたわけですが、王妃の長椅子に乗り上がるとは、それはもう手を伸ばせばエステルに触れられる距離にいたのでしょう。それは大変失礼な、あってはならないことだったのでしょうね。それを聞いた途端に「ハマンの顔は青ざめた」とありますが、以前の翻訳では「彼の顔は覆われた」です。死刑が決まった者の顔は布で覆われたのだそうです。そばには宦官たちがいたようですし、王の怒りが頂点に達しているのを合図に、彼の顔を覆ったのでしょう。あとは王の一言でハマンの死刑が決まるのです。ハルボナという宦官がそこにいて、彼はハマンがユダヤ人を絶滅させようとしていること、その前の景気付けにモルデカイを柱にかけようとしていたことを知っていたようです。王に高さ20メートルの柱のことを伝えます。ハマンが、事もあろうに、王の命の恩人であるモルデカイを殺そうとしていたことまで明らかになり、ハマンがそれにかけられることになったのでした。そして、王の怒りは収まったというところで7章は終わります。

 

<エステルの表現>
二つのことを考えたいと思います。一つ目は、エステルが自分の命のこともユダヤ人の危機に含めたということです。仮にユダヤ人が絶滅させられることになったとしても、エステルがユダヤ人であることは誰も知らないわけですし、王妃ですから、安全な王宮の中で我関せずとすることもできたのです。しかし、エステルはユダヤ人の危機は自らの危機としました。モルデカイに言われた通り、自分だけは助かるだろうなどとは考えなかったわけです(4:13)。これは、そうやって言った方が、自分の命も狙われていると表現した方が、王に対しては効果的だから、より王の怒りを引き起こすことができるからという打算的な理由ではなく、まさに、自分自身もユダヤ人であるという彼女のアイデンティティーが理由なのでした。

自分は「神の民」の一員であるという意識は、現代の教会を構成する私たち一人ひとりにも問われることです。これはただ単に団体意識を持ちましょうとか、教会というグループを大切にしましょうという単純な話ではありません。自分は神さまに救われ、神さまの恵みの中を歩んでいる存在だということを大切にするならば、神さまがご自分の民、ご自分の人々を通してご計画を表されるということをも大切にするはずなんですね。イエスさまを愛し、仕えていくということと、キリストのからだ、イエスさまのからだである教会を愛し仕えることは、本来は同じことだからです(エペソ1:23)。

もちろん、教会が明らかに間違っている時、不正がそこにある時も、教会というグループを守るためにそれに目を瞑って知らん顔をしていなさいということではありません。人の集まりである個別の教会には不正が起こり得ます。イエスさまを愛するがゆえに教会を批判し、それは間違っていると糾弾し、場合によっては去るという判断もあり得ます。でもそれにしたって、本当の意味で教会を、普遍的な「教会」を、キリストのからだを愛するからこそですよね。私たちはイエスさまを愛し、その民を愛します。主がご自身の名を置かれ、ご自分のわざを任された教会を愛するのです。そして、自分もその一員だということを明確にしていくのです。

エステルにとっても、自分は神の民の一員だという意識は大切なものでした。ペルシャという異教世界で自分を育ててくれたユダヤ人コミュニティーの仲間を裏切れないとか、一蓮托生という運命論ではなくて、神さまはご自身の民を通して、つまり私たちを通してご計画を進められるという信仰です。他人事ではなくて、自分のこと、いや、自分たちのこととして神さまのご計画を理解していたのです。ユダヤ人たちは、偶像礼拝の罪のゆえにエルサレムを追われ、バビロンに捕囚となりました。しかしそれは滅ぼされるためではなく、礼拝の民として、救い主を誕生させる民として整えられるためでした。エステルはそのことをよく知っていました。神さまが「自分たちを通して」救いのわざをなさるということを。やがて自分たちから世界の救い主が生まれるということを。だから「私たちは」ここで滅びるわけにはいかないということをエステルはよく分かっていました。

他人事ではなく、自分のこととして、自分たちのこととして、神さまのご計画を受け止める。自分も今、神さまの計画の最前線を歩いているという自覚を持つ。エステルの姿勢に教えられると同時に、自分自身はどうかと問われます。神さまの計画というと、もっと立派な信仰者たち、もっと大きくて活気のある教会を通して行われるのだろうと、どこかそんなふうに思い、自分には関係ないと、今いる場所に座り込んでいるということがないでしょうか。これを語りながら、私自身が本当に今問われる思いでいっぱいです。

エステルたちが死守した神さまのご計画、救い主の誕生は、今から二千年前に実現しました。でも神さまの計画はそれで終わりではありません。私たちが救われたのは、救われた私たちが「地の塩・世の光」として人々に仕え、この世界を癒していくため。神さまの願われた形に回復させていくためですよね。神の愛を知らない世界に、キリストのかおりを届けていくためです。私たち一人ひとりにはそのための役割があるんです。あなたが置かれているその場所があなたの担当の場所です。エステルの場所がスサの王宮だったように。モルデカイの場所が、城の門だったように。私たちは、それぞれが置かれた場所で咲くのです(Ⅰコリント15:58)。そういう一人ひとりでありたいし、そういう人たちが集まる関西集会であり続けたいと願っています。

<ハマンは柱にかけられた>
もう一つ考えたいことは、神の計画を阻止しようとしたハマンは柱にかけられたということです。ハマンは文字通り、神の計画を阻止しようとしていました。ユダヤ地方も含めて、ペルシャの帝国中のユダヤ人を絶滅させようとしていたわけですから。もし、そうなったら救い主も生まれることができなくなるところだったのです。しかし、神の計画を阻止しようとしたハマンは、結局柱にかけられました。

神の計画を止めようとするもの、それは「肉の思い」ですね。「罪」とも言います。罪とは神さまの御心から的が外れていることです。

私たちの内にもハマンがいますよね。神の計画を止めようとする肉の思い。世界を回復させようとする神さまのご計画、イエスさまの十字架によって生かされるいのちをとどめようとする、肉の思い。ハマンが私たちの心の中にもいるのです。神さまが悲しむような生き方しかできない私たち自身がハマンです。ハマンは柱にかけられました。では、私たちはどうなってしまうのでしょうか。

私たちの代わりに、木の柱にかけられたお方がおられます。「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら、十字架の上で私たちの罪として処分されたお方がおられます(マタイ27:46、Ⅱコリント5:21)。私たちの主、イエス・キリストです。

私たちは、古い生き方をイエスさまと共に十字架につけたんです。むしろ、自分自身がイエスさまと一緒に十字架についたんです。ガラテヤ2:19b〜20aにこうあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」。また、同じくガラテヤ5:19〜25「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」。私たちは古い生き方をもう十字架につけたんです。今は御霊によって、聖霊によって生かされているんです。神の計画のために、この神さまの愛を世界に伝えていくために、聖霊によって私たちは今日も進んでいくのですね。

だから、エステルのように大きなことはできないなどと思わないでください。モルデカイのように立派なことはできないとは思わないでください。私たちは確かにハマンでした。しかし、もうその古い自分は終わったのです。イエスさまの十字架で。今は、神さまのご計画のために生かされているあなただということを忘れないでください。あなたには神の民の役割が与えられています。そして、教会はそのような一人ひとりの集まりなのです。個別の地域教会としては小さいも小さい私たちですが、志は大きく、上を向いて、互いに祈り合いつつ、これからも進んでまいりましょう。
 

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【11/14】

エステル記6:1〜14

「神の摂理」

エステル記も六章に入りました。

 

<神さまのタイミング>
エステルの宴会の第一日目が終わった夜、クセルクセス王はなかなか寝付けずにいました。エステルの宴会の余韻でしょうか。命がけで会いに来た王妃エステルの思わせぶりな言動が気になったのでしょうか。なかなか眠れなかった彼は、家臣に王国の年代記を読ませます。そこには、王の暗殺計画のこと、ユダヤ人モルデカイが未然にそれを阻止したことも記されていました。二章の最後に出て来ますが、あの時、確かにモルデカイが急を知らせ、エステルはモルデカイの名で王に伝えていたのです。暗殺計画の実行は防がれましたが、モルデカイへはまだ何の褒美も出されていなかったのでした。

そこにハマンがやって来ます。先週見たように、モルデカイを柱にかけようとしていた彼は、朝早くからその報告にやって来たのでした。ちょうどよいと思った王は、「王が名誉を与えたいと思う者には、どのようにしたらよいか」と相談します。ハマンは「それは自分のことに違いない」と思い込み、可能な限り最大の栄誉をあらわす方法を王に進言しました。王の馬に乗せられることは、王と同等の栄誉をあらわします。恥ずかしげもなくこんなことをいうハマンでした。期待で胸を膨らませていたでしょうが、しかし、王の次の言葉で彼はどん底に落とされます。王は「それをユダヤ人モルデカイに対してそうしなさい。今あなたが言ったことを一つも怠ってはならない」と言ったのでした。ハマンは仕方なく、モルデカイを王の馬に乗せて凱旋パレードをします。「王が栄誉を与えたいと思われる人はこのとおりである」と叫んで回りながら、きっと苦虫を嚙みつぶしたような顔をしていたのではないでしょうか。神さまによる大逆転劇でした。モルデカイも驚いたでしょう。戸惑ったと思いますが、王宮で何かが起こり始めていることを感じ取ったと思います。

これらの出来事は、タイミングが一つでも違えば起こらなかったことです。エステルが三日間の断食をしたこと、それから二日間かけて王に願う慎重さを見せたこと、そして、その晩王が眠れなかったこと、年代記を読んでモルデカイのことを思い出したことなど。また、そのタイミングで、ハマンがモルデカイへの敵意を抱きながらやってきたということも。王はハマンがモルデカイを憎んでいたことなど知らなかったわけですから、それに当てつけてやろうということも何もないわけです。人の側では仕組みようがないことでした。さらに振り返ってみれば、モルデカイが王の暗殺計画を未然に阻止したことも、さらに戻ればエステルが王妃になったことも。すべてが神さまの大逆転のための布石になっていたのです。すべての出来事が緻密に、適切に重なり合ってのことでした。神さまのなさることは、時にかなって美しいというみことばのとおり(伝道者の書3:11)、驚異のタイミングです。

<神の摂理>
「摂理」という言葉があります。そういう運命だったのだとか、私たちにはもうどうしようもないことだ、あらかじめ決まっていたのだ、というような説明をする時に使われます。神さまがすべての物事を支配しておられて、すべての出来事には意味があって、主はそのご計画どおりに導かれるということですね。それが神の摂理です。でもそれは神さまの方で問答無用に、機械的に物事を進められるということではありません。もうすべて決まっていて、私たち人間はそれに機械的に従うしかないというような、冷たいものではない。神学用語としての摂理はラテン語で「あらかじめ見る」「配慮する」という意味です。配剤という訳もあるそうです。医者が患者にとって一番良い薬を配剤する、ブレンドするということです。その人にとって一番良いものを配慮し、配剤してくださっている。冷たいどころか、温かい。それが神の摂理です。

エステル記には神さまが直接出てこないわけですが、神さまが最善の配剤で私たちを導いてくださるという神の摂理がよく分かるようになっています。私たちの生活にも、神さまは直接現れてはくださらないかもしれません。しかし、確かに神さまの導きがあるのです。大変な出来事の最中にはそれどころではなくて、無我夢中でわからないでいることが多いのですが、あとで振り返ってみるならば、確かに神の導きだったということが明らかにわかるのです。

<すべてのことが働いて益となる>
ローマ8:28にこのようにあります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」以前もお話ししましたが、ここは以前の翻訳では「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」となっていました。しかし、どうもニュアンスとしては「すべてのことが共に働いて益となる」ということなんですね。微妙な違いですが、わかりますか?神さまは何でもできるお方だから、目の前のこのことも良いことに変えてくださる、というよりも、目の前のことのことの中に神さまが働いておられるということ。目の前の悪い出来事が無害なことに変わるというよりも、目の前の出来事の中にも、たとえそれが好ましくない出来事であったとしても、そこに神さまは働いておられる、そのことには意味がある。神さまの最善の計画が、神の摂理があるということです。自分にとってのハッピーエンドを求めて、目の前の事態が変わることを祈り求めるよりも、もちろん何でも祈って良いのですから、そうやって祈ったって良いのですが、「このことも益となる。神が益として用いてくださる」ということを思い出したいと思います。

困難の只中で、私たちは叫びます。ユダヤ人絶滅の危機に直面したモルデカイが灰をかぶって泣き叫んだように、私たちも困難の只中だで、危険の真っ只中で叫びます。そうやって祈ればいいのです。叫び続ける中で、きっと神さまの語りかけが響いてくる。神さまの摂理が見えてくるのだと思います。

<私たちもまた用いられる>
そして、私たちの存在もまた、後の何かのための布石として用いていただけるということを覚えておきたいと思います。何か派手な目立つような働きはできなかったとしても、私たちが生き、なすことの一つ一つが、後の何かのために用いられるのです。何もできないと思わないでください。あなたが生きていて、そこにいる、そのこと自体が、神さまの摂理のために大切に用いられるのですから。

だから安心して、神さまのために、隣人のために、自分にできる何か小さなことをお捧げしたいと思うのです。エステルが自分にしかできない役割を理解していたように、モルデカイが自分にしかできない役割を果たしたように。そしてあの少年が、二匹の魚と五つのパンをイエスさまに差し出したように(マタイの福音書14:14-16)。少年の話で言えば、彼がお弁当を差し出したことはもちろん、イエスという人の話を聞きに自分も出かけて行ったことや、朝お家の人がお弁当を作ってくれたことにも、それに関連したいろんな出来事があったでしょう。多くの人がそれに関わっていたはずです。お母さんがお弁当を作ってくれたのでしょうか。またその魚はどこでとられたものだったのでしょう。ガリラヤ湖でそれをとった漁師の存在もあったはずです。その漁師は、自分がいつもの仕事としてつかまえたこの魚を通して神が奇跡をなさるなどとは考えていなかったでしょう。少年のお弁当を作ってくれた人は、この小さなお弁当で五千人が満腹することになるなど考えていなかったはずです。彼らは自分のやるべきことを丁寧にやっただけ。あとは神さまがそれを用いてくださるんですよね。

私たちも、自分が今なすこのことが、自分が今存在しているというそのことが、神さまの摂理の中で豊かに用いられていくのです。エステル記の文章のように、私たちの生活には神さまが不在のように見えるかもしれません。私たちの生活の場所に、神さまはわかりやすい形ではあらわれてくださらないかもしれません。しかし、この方は確かに私たちと共におられ、ご自身の摂理のうちに、私たちを用い、導いてくださいます。だから、諦めずに、日々を誠実に歩んでいたいと思います(1Cor. 15:58)。

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【11/7】

エステル記5:1〜14

「人を用いられる神」

今日はエステル記の五章を扱います。

 

<慎重だったエステル>
養父モルデカイからユダヤ人の危機を知らされたエステルは、王の前に行ってユダヤ人を助けてくれるよう頼むことを決意しました。呼ばれていないのに王の前に行くというのは、最悪殺されるかもしれない危険なことでしたが、彼女は断食して(つまり集中的に神に祈ってから)、王に会いに行きました。断食明けでやつれていたと思いますが、1節に「王妃の衣装を着て」とあります。正装をして、お化粧をして、やつれを感じさせないようにして出て行ったのではないでしょうか。そして、結果として王は金の笏を差し伸ばし、エステルは助かったのでした。2節に「彼女は王の好意を得た」とあります。2:9でエステルが「宦官へガイの好意を得た」時に、「好意」というのは「ヘセド」であって、神の恵みと訳される言葉だと言いました。今回は「ヘセド」ではない別の言葉なのですが、それでも2:9に準じた表現になっています。神さまが守ってくださったのです。「死ななければならないのでしたら死にます」とまで言って決意したエステルでしたが、この時どれほどホッとしたことでしょう。本来ならほぼ間違いなく殺されるところだったのです。それがこのように生かされていることに、神さまの守りと導きを実感したことでしょう。

しかし、まだ安心はできないのです。王に頼むという一番大切なことがまだ残っているからです。エステルは、神さまの導きとは一足飛びに全て一度に解決させるようなものではないことも痛感したと思います。わざわざ自分のようなものが用いられるということは、自分の性格や、物事の進め方が用いられるということです。神さまが一度にすべてを自動的に解決してくださるのではなく、エステルの考え方、物事の進め方が用いられていくのです。彼女は少しずつ計画を進めました。ここでいきなり「私の民族をお救いください」と懇願することもできたはずですが、話がいきなりすぎて、どのような展開になるかわからない。後に明らかになるように、エステルは王の前でハマンを名指しで弾劾しようとしています。その一番よいタイミングのためには、ここは丁寧に段階を踏むべきだと考えたのでしょう。慎重な性格だったのですね。王とハマンを宴会に招いたエステルは、さらに明日また宴会の席を設けるので、もう一度ハマンと一緒に来てくださいと言います。このエステルの考え方、慎重さが神さまに用いられていくのです。

これは聖書自体がそういう書物だということと似ています。聖書は「神のことば」です。しかし、それは人が書きました。著者の手に何かが乗り移って、ありがたいお言葉を自動的に書き連ねていったということではありません。それぞれの著者の思考や語彙や表現方法などを神さまがお用いになったのです。そのようにして、神さまはご自身の御用のために人をお用いになります。神のことばを記すということにすら、人をお用いになったのです。それはある意味、面倒臭い遠回りの方法です。しかし、神さまは人を通してことを進めることを選んでこられたということを覚えたいと思います。それが神さまのやり方なんです。私たちと共に、私たちを通して、みわざをあらわしてくださる。

<ハマンという男>
さて初めの宴会が終わって、ハマンは大喜びで家に帰りました。しかしまたあのモルデカイが自分にひざまずこうとしないのを見て憤りに満たされたとあります(9節)。彼は友人や妻に対して11節のような自慢話をする、そういう人物でした。金と権力が全てであるかのような人でした。彼がどのような経緯でそんなにお金持ちになったのかはわかりませんが、自分の富について語ったというのは、なんともいやらしい感じがしますよね。また、子どもについてというのは、当時は子どもがたくさんいることが繁栄の証だったわけですね。そして王が自分のことを重んじて、最高の地位につけてくれたということ。きわめつけは、王妃エステルが宴会に呼んでくれたことです。そこには王の他は自分しか招かれていないということを、まるで自分の手柄のようにして友人たちに話すのでした。しかし、そういう人物だったからこそ、すべてがモルデカイのために台無しだというわけです。自分が一番偉い。それなのに、それを認めない人がいる。自分にこそ一番力がある。しかし、それを認めない人がいる。そのことが何よりも不満なのでした。私たちにも大なり小なり、似たところはあるように思います。たった一つ、自分の思い通りにいかないことがあると、憤りに満たされる。激しい怒りで心がいっぱいになってしまうのです。彼の生きてきた背景については、聖書は沈黙しているのでわかりませんが、自らの立場・安全を脅かす人は敵とみなして攻撃するということ、これは案外私たちと似ていて、あり得る話だと思うとゾッとします。

彼の妻と友人たちは、高さ50キュビト(22メートル)の柱にモルデカイをかけて殺してしまえばいいと言いました。そうすることで、誰であっても歯向かう者はこのようにされると、人々に見せつけることができるというわけでした。ハマン自身もそうでしたが、妻も友人たちも似たようなものですね。最高権力者であるハマンのご機嫌を伺って、その富と力にあやかろうとして、勝手なことを言っています。クセルクセス王の取り巻きの場合もそうでしたが、このように、ハマンの周りには自分が気に入ることを言ってくれる人たちだけしかいないんですよね。忠告してくれる人、賢い助言をくれる友人はいなかったのですね(箴言13:20)。

ハマンは彼らの提案を気に入って、柱を立てさせました。串刺しにするための柱だったようです。モルデカイは一体どうなってしまうのでしょう。普通に考えれば、もうこれは絶体絶命のピンチという場面です。エステルが慎重にことを進めたから、もたもたしている間にこんなことまで起こってしまいました。しかし、このことも後の大逆転の布石となっていきます。神さまのなさることは不思議です。

<私たちを用いられる主>
最後にもう一度、神さまがエステルの慎重さを用いられたことを考えたいと思います。慎重さが大切という話ではありません。神さまは「人を通して」ご自分の計画を進められるお方だ、という点が大切です。慎重さではなく、ある時には誰かのせっかちさを用いられるのかもしれない。自動的に動くロボットとしてではなく、クセのある私たちを用いられるという話です。私たちも「神さまの御用のために私をお用いください」と祈りますが、その意味は、神さまのご計画という自動の何かに乗せてくださいということではありません。神さまは私たち自身を無視するような物事の進め方はなさらない。神さまは私たちを通して、私たちの考え方、クセや弱さなんかも通して、その御わざを表してくださいます。もちろん、それを理由にして私たちが何も成長しなくて良いということにはなりません。神さまが喜ばれるように成長していく。救われた者は、イエスさまに似た者とされるように、日々つくりかえられていく。それこそが福音の力です。それこそ、ハマンのように自らの要らない保身のために人を攻撃する心が私たちにあるとするならば、それは「御霊の実」とは正反対のものですから、つくりかえられていかなければなりません(ガラテヤ5:19-23)。ハマンの生き方は文字通り神さまのご計画を止めるものだったわけです。私たちも本来なら神さまのご計画を止めるものでしかありませんが、私たちはそれらの生き方をイエスさまの十字架につけ、今は聖霊によって生かされているのです(同5:24-25)。聖霊なる神は必ず私たちをつくりかえてくださいます(2コリント3:18)。そして、神さまはつくりかえられた者しか用いることができないのではありません。完全なものしか神さまはお用いにならないのでもありません。成長途中の私たちのことも、神さまは豊かに用いてくださいます(マタイ5:13-14)。欠けだらけの器でも、ヒビだらけの器でも神さまは用いてくださる。だからこそ、その時その時の自分を、隠さずにそのまま、安心して神さまの前に差し出していけばいいんですよね(イザヤ6:8)。そして、教会はそのような生き方を励まし合う場所です。私たちはエステルのように、自分の役割に誠実でありたい。自分自身を神さまの御用のために差し出していきたいと願います。お互いのために、そんなことも祈りあっていきたいと思います。

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【10/31】

エステル記4:1〜17

「自分のなすべきことを」

本日は宗教改革記念礼拝です。例年ならそのためのメッセージを用意してきましたが、今年はコロナのことがありますので、集まれるうちにエステル記をしっかり終わらせることを優先させていただきました。昨年の今頃、集まれないでいるときに、宗教改革について三回に分けてショートメッセージを配信したものを印刷して来ましたので、一週ずつそれをお配りしたいと思います。受付でお取りください。来週に関しては、昨年の召天者記念礼拝の配信メッセージをお配りしたいと思います。

さて、エステル記に入りましょう。

 

<モルデカイの嘆き>
ハマンのユダヤ人絶滅計画を知ったモルデカイが、服を引き裂いてボロ布をまとい、頭から灰をかぶって泣き叫ぶところから四章は始まります。これは悲しみを表す行動で、聖書にはたくさん出てきます。モルデカイの悲しみは深く激しいものでした。自分の行動が原因で、ユダヤ人が民族ごと絶滅させられることになったのですから。

自分たちが民族ごと皆殺しにされるということの恐ろしさは、ある程度想像しやすいと思います。◯◯人だからという理由で殺されるという事件は、歴史上あらゆるところで繰り返されてきました。もし自分がその立場に置かれていたら、これほど恐ろしいことはないでしょう。身の安全、命の安全が脅かされるということ、これはモルデカイの嘆きのわかりやすい理由です。

<ユダヤ人絶滅の意味すること>
もう一つ考えたいのは、モルデカイはアガグ人との歴史的な経緯を踏まえてハマンに頭を下げなかったわけですが、それはイスラエルの民を守ってそこから救い主を生まれさせるという神さまのご計画を大切に思っていたゆえです。しかし、今回の騒動で、スサの町に住んでいるユダヤ人だけでなく、広くペルシャ帝国中のユダヤ人が狙われることになりました。ハマンの作った法令は、「王の道」を通ってペルシャの帝国中に伝えられたわけです。ユダの地に帰り、そこで神殿を再建しつつ、未だ城壁のない状況で苦労しながら生きている同胞、仲間たちのことも彼は考えたに違いありません。彼らはクロス王の勅令で、はるばるユダヤに戻って、そこで神の臨在の証である神殿を建て直しました。そこで民として生き直していました。モルデカイはきっと尊敬の眼差しでエルサレムのユダヤ人たちのことを見ていたと思うのです。しかし、自分の行動が、彼らの努力を無駄にし、その命をも危険にさらすことになったのです。彼らの身の安全はもちろんのこと、創世記以来、連綿と続いてきた「救い主の約束」、その希望も潰えたように思えたのではなかったでしょうか。

自分の行動がすべてをダメにしてしまったのではないかという恐れ。これはキツいですよね。しかも、父祖アブラハム以来の、彼らの大切な存在理由だった「救い主の約束」がおじゃんになってしまったと思ったわけです。神さまがなさることを自分が台無しにしてしまったということほど、信仰者にとって絶望することはないと思います。彼の嘆きはどれほど深かったことかと思います。

<モルデカイの行動、エステルの行動>
しかし、モルデカイは嘆いて悲しむだけでその日を迎えようとはしませんでした。彼はエステルに会いに行ったのです。もちろん、王妃となったエステルに直接会うことはできません。目立つように粗布を着たままで、彼は町の広場の城の門のところで座り込んでいました。当然、その様子はエステルに伝わり、狙い通り、お付きの宦官ハタクがエステルから遣わされてきました。そしてモルデカイは彼を通してエステルにことの全てを説明したのでした。それは「自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように」と、彼女に伝えるためでした。

エステルは11節のように答えます。王から呼ばれていないのに王に会いに行くものは、誰であっても死刑にされるという法令がある。王がその人に金の笏を差し伸ばせばその人は死なずにすむという可能性もあるが、私はこの三十日間、王から呼ばれていない。つまり、助けを求めるためとはいえ、王の前に出て行くことはできないということです。エステル自身、心配で身が張り裂けそうだったでしょうが、自分にできることは何もないという返事でした。

モルデカイはさらに返事を送ります。13節、14節です。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。もし、あなたがこのようにときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」

エステルが言ったように、王に嘆願しに行くのは不可能に近いことでした。それはモルデカイにもよく理解できたでしょう。しかし、自分たちの命を救えるかもしれないのは、そして、救い主のご計画を次の世代にも繋いでいけるかもしれないのは、実現の可能性は低いとしても、もうエステルしかいないのでした。

<リスクをとっても動く>
14節でモルデカイは、「たとえ、自分たちは滅びるのだとしても、別のところからユダヤ人のために助けと救いが起こるだろう。それはそうだろう、しかし、だからと言って自分たちは何もしないという訳にはいかない」ということを言っています。わざわざ危ないことはしないで、リスクを避けて、されるがままになっていくのか。そうではなく、リスクを取りつつも、自分にできることをしていく、自分たちにできることをしていく、たとえそれが成功する可能性が限りなくゼロに近くても、自分たちも行動するという気概を感じます。

これは大切な点です。神さまは救い主の約束を必ず守られるはず。だから、自分たちはそんなに騒がないで、あえてリスクをとったりしないでいようーーーというのではありません。積極的に、自分のこととして動くのですね。自分にできることをするのです。モルデカイのこの言葉を読んだ時に、イエスさまが話された「タラントのたとえ」を思い出しました(マタイ25:14-30)。旅に出る主人から、それぞれ5タラント、2タラントのお金を預かったしもべはそれぞれそのお金を使って商売をして、さらにそのお金を増やし、後々主人から褒められるわけです。しかし、1タラントを預かったしもべは、1タラントでは何もできないばかりか、失敗して無一文になったら怒られると思い、それを埋めて隠しておきました。そしてやがて、主人にそのまま返すことになります。銀行に預ければ少しでも利子がついて増えたのに、それすらしなかったということで、結局このしもべは怒られるという話です。自分に与えられたタラント、自分に与えられた賜物を、何も使わないでじっとしていることは神さまの喜ばれることではないんですよね。どうせダメだからとか、どうせ別のところから助けが来るからと言って、自分にできることを最大限にやろうとしないなら、それは神さまの喜ばれることではないんです。

エステル記には「神」という言葉は出てきませんが、ここに描かれている姿は、神を信じる者の生き方のモデルです。決して完璧な人たちではありません。先週見たように、神殿再建に関わらなかったという意味で中途半端な信仰者たちです。でも、だからこそ、私たちの胸を打ちますよね。私たちも、自分にできることをさせていただこうではありませんか。

<エステルの決意>
エステルも王のところに行くことを決意しました。そのために、スサのユダヤ人みなで断食をしてくださいというのでした。つまり、何も食べずに断食をして祈ってくださいということですね。断食で体の調子をリセットするということは今でもなされていますが、ここで言われているのは「祈りに集中するため」です。何も飲まずにともありますが、必要な水分は摂ったと思います。王の前に行くという目的があってのことなので、死んでしまっては意味がないわけですから。

断食しないと祈りは聞かれないというのではありません。しかし、これはエステルの決意、覚悟をよくあらわしています。集中して祈るために、集中して神さまに話し、集中して神さまの語りかけを聞くために、食事を抜く。あるいは、好きな何かを抜く。心をそっちに奪われないように、ちょっとそれはお休みにして、祈りに集中するということは、おすすめです。古くからの教会の習慣には、イースターの前の一ヶ月、レントまたは受難節という期間に、食事ではなく何か別の、自分にとって祈りの邪魔になり得るものを止めてみるという習慣があります。私たちは特にそういうことには無頓着に来ましたが、神さまに真剣に向き合うために断食する。食事とまでは行かずとも、何かを止めるということは、意味のあることなのだと思います。ちなみに、実際に断食として数日食事を抜く場合には、水分は摂るということ、いざ食事を再開するときには消化の良いものから始めるなど、気をつけなければならないことも多くありますので、注意が必要だということは言うまでもありません。

<法令違反>
なお、エステルが王に会いに行くというのは「法令違反」のことでした。神さまの計画のためには、神さまの御心を信じてのことならば、法律を犯してもいいのでしょうか。聖書全体を読むならば、神の民として、クリスチャンとして生きている私たちは、神さまの御心に従うことと同時に、神さまが与えられた指導者を敬い、彼らのために祈ることの大切さが書かれています(ローマ13:1-7)。この世の法律も大切なものであり、簡単に破っていいものではありません。しかし、それが明らかに神さまの御心に反するなら、私たちは「NO」を言わなければならないときがある(黙示録13)。今は憲法でも信教の自由が守られていますが、戦争中はそうではなかったことを思い出します。ホーリネス系の牧師達が特高警察に捕まり、天皇陛下とイエス・キリストのどっちが偉いのか、言うように迫られ、天皇だと言わない人は拷問を受けたわけですよね。彼らは天皇を神とした明治憲法に従いませんでした。ドイツでもナチス政権に抵抗して、ヒトラーの暗殺計画まで立てられましたが、ボンヘッファーという牧師がそれに関わっていました。ボンヘッファーの著作は今でも広く教会の財産と言えるようなものです。そんな彼が、ヒトラーのナチス政権に従わなかった。これらは明らかな暴君に対する抵抗の例かもしれませんが、ペルシャのクセルクセスに関しても、呼ばれていないのに会いに来た人は殺されるというのは十分な暴君です。そして、エステルはその法令に従っていたのです。しかし、自分の命をかけて、その法令を破ってでも、王に会いに行く決意をしたのでした。もはや、自分しかユダヤ人を救うことはできないからです。自分しか、救い主の計画を繋いで行くことができないからです。モルデカイが言うように、もしここでエステルが出て行かないなら、他から助けが起こるのかもしれません。しかし、ほんの少しでも自分に可能性があるのなら、自分にこそ託された、自分にこそ与えられたタラントがあるのなら、それを用いないということはできないのでした。「私は、死ななければならないのでしたら死にます。」これがエステルの覚悟でした。

<自分の役割、相手の役割>
さて、エステルもモルデカイも、二人ともお互いに相手に「命じて」います。モルデカイは親として娘に。エステルは王妃として城の門番に。自分の責任と役割、そして相手の責任と役割をしっかりと理解し受け止めていることを思わせます。エステルにもモルデカイにもそれぞれの役割がありました。エステルが町に出て行って、自分でユダヤ人達に呼びかけるのではありません。それはモルデカイがやることであり、彼女はそれを彼に任せました。自分がやるべきこと、相手に任せること、自分がやらなければならないこと、そして相手に任せなければならないことがある。そんなことも思わせるエステル記四章でした。続きは、また来週です。

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【10/24】

​エステル記3:1〜15

​「たとえ、中途半端でも」

エステル記の三章です。事件が起こりました。ユダヤ人が合法的に根絶やしにされるというのです。事の起こりは、スサの城の門でした。あのユダヤ人モルデカイが大臣ハマンにひれ伏して敬礼をしなかったので、腹を立てたハマンは王の許可を取り付けて、ユダヤ人絶滅の法律を作ってしまいました。

 

<モルデカイの態度の理由>

モルデカイはなぜ大臣に敬礼しなかったのでしょう。理由は明示されていませんが、彼はこのことを諌めて来る仲間たちに、自分はユダヤ人だからということは言っていますので、ユダヤ人としてのアイデンティティーと衝突したということは言えそうです。

 

何が問題だったのでしょう。頭を下げることは十戒が禁じている偶像礼拝に当たるということでしょうか。しかし、これと同じ言葉で、礼儀として頭を下げるというシーンが聖書にはありますので(創世記23:7等)、ハマンに頭を下げたからと言って、それが偶像礼拝に当たるかというと必ずしもそうとは言えないでしょう。私たちも礼儀としてお辞儀をするということをよくしますよね。

 

彼が頭を下げなかったことについて、様々な説明が試みられています。ハマンの服に偶像が織り込まれていたとする等。しかしそれは説明としてちょっと苦しいと思われます。ヒントはエステル記の語り自体にあって、ハマンのことが「アガグ人」と繰り返し表現されていること(これはエステル記全体を通してです)、また3:10ではわざわざ「ユダヤ人の敵」と表現されていることです。「アガグ」とはイスラエルの仇敵であるアマレク人の王の名前であり、アガグ人とはその子孫なのでした。

 

<アガグ人とは>

イスラエル民族、つまりユダヤ人とアマレク人の間にはいつも敵対関係がありました。古くは出エジプトの際にイスラエル人と戦い、また弱って隊列から離れてしまった人々を背後から襲いかかって略奪したのがアマレク人でした。神さまは彼らを「聖絶」するようにと命じます。しかし、いざそのような時に、サウル王は彼らの財産を惜しんで滅ぼすことをしませんでした。怒った預言者サムエルは、捕虜として捕まっていたアマレク人の王アガグを滅多斬りにします(Ⅰサムエル15章)。聖書って結構こういう血なまぐさい戦いを描いているわけです。それは、「イスラエル人は民として守られて、そこから救い主が生まれることになる」というのが神さまのご計画だからです。でも、それを阻止しようとする勢力がいる。出エジプト記のファラオもそうでした。生まれた男の子を皆殺しにせよというのは、イスラエル民族の力を削ぐということ以上に、聖書全体を踏まえて見るならば、やがて救い主が生まれることがないようにという、これは背後では神さまに敵対する悪魔の策略だったんですよね。主はそれを許さない。必ず救い主を生まれさせるんだ、必ず人を救うんだという神さまの熱い想いを聖書は描いているということです。「聖絶」なんていうと、外側から聖書を見るなら「なんて残酷な」ということになるかもしれませんが、聖書の内側から考えるなら、これはこんなにも一貫してあなたのことを救おうしてこられた神さまの愛の記録なんです。

 

話が逸れましたが、モルデカイはこのハマンがアマレク人の末裔であり、イスラエル民族としては彼に頭を下げることなど、まして膝をかがめてひれ伏すことなどできないと思ったのかもしれません。かつて、自分と同じベニヤミン族出身のサウル王が犯した過ちをくりかえしてはならないと思ったのかもしれません。これは単純に民族と民族の敵対という話ではありません。誤解しないでいただきたいのです。イエスさまは民族と民族の隔ての壁を打ち壊してくださったのですから(エペソ2:14-16)。モルデカイがハマンに頭を下げなかったことの理由が、ハマンがアガグ人だったからということなのであれば、それはただの民族意識ではなく、かつて、救い主にいたる神さまのご計画を軽く扱ってしまった過ちを自分は繰り返さないという決意だったということです。

 

<中途半端なモルデカイ!?>

しかし、神さまの計画にこだわるのであれば、ペルシャでの生活を捨てて自分もユダヤに帰ればよかったではないか。神殿の再建に参加すればよかったではないか。そのようにも思えます。エステル記のこの時代、神殿はすでに再建されていましたが、城壁が崩されたままで、帰還した民は苦しい生活をしていました。イスラエルの民を守るという神の計画を意識するなら、彼もエルサレムへ戻ればよかったではないか。しかし、それはできませんでした。中途半端と言われれば、中途半端なのかもしれません。モルデカイのこの「不敬事件」は、偶像礼拝は断固拒絶という力強いものではなく、中途半端に神さまのご計画を知っている者が、中途半端に神さまの計画にこだわったという、実はそんなに堂々としたものではなかったのかもしれない。しかし、それが大事件として、大きな騒動に発展してしまいました。

 

<内村鑑三の不敬事件>

日本でも内村鑑三の不敬事件は有名です。天皇のお言葉である教育勅語と、それに記された天皇のサインが掲げられた壇上で、彼はお辞儀としてでもそれに向かって最敬礼することをためらい、その結果、軽い敬礼になってしまいました。断固として偶像礼拝はしないという力強い姿勢ではなく、どうしたらいいか、迷いながらの行動でした。ある意味で、モルデカイと同じように、信仰者としては中途半端な行動だったのかもしれません。しかし、その姿勢は国家神道一色の世の中に大きなインパクトを残すことになりました。彼は「非国民」として大々的に批判されることになります。異質なものを認めない日本社会にとってそれは脅威だったからですね。

 

<たとえ中途半端でも、神が用いられるなら>

モルデカイの姿勢も、ハマンには大きな脅威であり、それゆえに不愉快極まりないものでした。逆を言うならば、私たちが神の国の民として、この世の流れには染まらずに生きていく時に、いや、それが中途半端に染まりつつ、なんとか信仰者として生きていくようなことであっても、その姿勢は大きなインパクトを残すことになるのです。ローマ12:2に「この世と調子を合わせてはなりません」とありますが、この世の流れに逆らって力強くクリスチャンとして生きていくのでなくても、矛盾を抱え、中途半端さを抱え、弱さを抱えながらでも、神さまにしがみついて離さないでいるなら、神さまの奇跡を見ることになります。神さまが出来事を起こしてくださる。私たちはその目撃者となるのです。

 

ハマンという男は自分の権力に酔いしれており、たかだか門番の一人が最敬礼しなかったからというだけで、モルデカイだけでなく、その民族ごと滅ぼしてしまおうという異常な執念の持ち主でした。こんな男に目をつけられてしまって、モルデカイは、ペルシャのユダヤ人たちはどうなってしまうのでしょう。ハマンは何も知らないクセルクセス王の印鑑(指輪のしるし)を取り付けて、ユダヤ人絶滅のための法律を作ってしまいます。タイムリミットは十一ヶ月後、アダルの月の13日ということも決まり、その法律は帝国中に交付されました。スサの都は大混乱に陥ります。どうなってしまうのでしょう。続きは、また来週です。

 

最後に、ローマ12:2をお読みします。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」心を変え、私たちを新しくしてくださるのは神さまです。以前の翻訳では「自分を変えなさい」となっていましたが、ここは受け身なので、「変えていただきなさい」と翻訳が直されました。私たちは、みなが中途半端な信仰者だと思います。ある意味で。あえて言いますけれど。例外なくですね。しかし、中途半端ならな中途半端なその自分を偽らずに、隠さずに、神さまに向き合いましょう。神さまがあなたを用いられます。用いてくださるのは神さまです。モルデカイを用いられた神さまが、あなたのことも必要としておられます。

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【10/17】

エステル記2:1〜23

「出て行った先で出会う神の恵み」

エステル記を読んでいます。前回の一章は、場面の設定としてクセルクセス王の宴会と、命令を拒んで王の前に出なかった王妃ワシュティの話でした。王に呼ばれたなら必ず王の前に出なければならなかったのに、それを拒否したワシュティは追放されました。それほど、王の命令は絶対のものでした。これはやがて五章で「呼ばれていないのに、王に会いに行った」エステルの行動がどれほどリスクの高いものだったかをあらわす布石となっています。つまり、ご自身の計画のために用いるしもべを、神さまは必ず守られるということが浮き彫りになるのです。

<場面の転換>
さて、二章は新しい王妃選びの場面です。クセルクセス王は憤りが収まると、王妃ワシュティのことを思い出して沈んでいたようです。箴言には「愚かな者は怒りをぶちまける」とありますが(29:11)、激しく怒ったり、一人で勝手に落ち込んだり。私たちにも同じようなところがありますよね。感情をコントロールすることは難しくも大切なことことだと思います。それはともかく、王の落ち込みを見かねた家来たちは、美しい娘を集めて、その中から新しい王妃を選ぶようにと進言します。王はその提案を受け入れ、そのようにされることとなりました。

<ハダサ/エステル>
さて5節、スサの城にモルデカイというユダヤ人がいました。門番として働いていたようです。バビロン捕囚の時に連れて来られたキシュという人のひ孫に当たる人物です。7節、彼は自分のおじの娘、つまりいとこを養育していました。彼女の両親が亡くなったので、彼が自分の娘として育てていたのです。その娘の名はヘブル語でハダサ、ペルシャ語でエステルと言いました。ハダサとはミルトスの木のことで、白い花を咲かせ、その実には良い香りと鎮痛効果もあるそうです。そして彼女のペルシャ語の名前はエステル。星を意味します。どちらも良い名前です。

ところで、彼女が二つの名前を持っていたのはなぜか。本当はハダサだけど、ユダヤ人であることを隠すためにエステルという名前を使っていたのでしょうか。確かに、モルデカイはエステルに自分の出自を明かさないようにと命じています。どの民族も自分の文化を大切にしていいはずのペルシャでしたが、やはり少数派にはそれなりの緊張感が強いられていたということでしょうか。しかし、出自を隠すようにというモルデカイの命令は、前々からそうだったというよりも、王妃として選ばれていくこの一連の出来事に際してですよね。彼女が二つの名前を持っていたということは、自分がユダヤ人であることを隠すためというネガティブな理由ではなくて、むしろそれまで積極的にペルシャ社会で働き、生活してきた証だと思うのです。

私たちも、クリスチャン世界の中、もしくは教会での自分の顔と、クリスチャンがほとんどいない世の中での自分の顔を持っていますね。それは使い分けている顔という意味ではなくて、世の中で一生懸命働いている顔なんです。日曜日の教会から外に出た場所で、神を信じる人がほとんどいない世の中で、しかし、私たちはそこで、ことさらにハダサとは名乗れなくても、エステルとして一生懸命生きています。「神」という表現が出てこないエステル記、神さまの臨在のしるしである神殿から遠く離れたところで、しかもその再建に参加しなかった人たちの物語であるエステル記。しかし、そこに描かれているのは、ペルシャ世界にしっかりと根を下ろし、そこで地道に生きていた人たちなのであり、そのような人々の中に確かにいてくださる神さまの力強さなのです。なんと、慰めと励ましに満ちた書物であることか。

<新しい王妃選び>
さて、クセルクセス王が新しい王妃を選ぶということで、まるでシンデレラの話に出てくる舞踏会のようですね。多くの娘たちがお城に集められましたが、しかしシンデレラと違うのは、恐らく強制的に集められたということですね。娘たちは行きたいから行ったというよりは、王の命令で、有無を言わさずに集められ、ヘガイという宦官の管理のもとに置かれました。宦官というのは王妃が住む後宮、つまり大奥で働くために去勢された役人のことです。昔はこういう人が多かったわけです。彼がこの大奥での一大イベントの責任者でした。

さて、彼のもとに大勢集められた娘たちの中に、エステルもいました。9節、エステルはヘガイの目にかない、彼の好意を得たとあります。もちろんこれは好いた惚れたということではなくて、ヘガイから見ても、エステルは王妃として選ばれるにふさわしいと、彼のお眼鏡にかなったわけです。血色をよくするためでしょうか、化粧品とご馳走が与えられ、お付きの侍女が7人もつけられて、最も良い部屋があてがわれました。最終選考はまだまだ先なのですが、この時点でこの特別扱いがされたのです。

12節もすごいですね。一章の宴会の描写もすごかったですが、六ヶ月は没薬の香油を用いて、もう六ヶ月はこれまた別の香料と化粧品を用いて化粧をするというのです。こうなってくると、これはもはやその人の美しさを見るためではなく、欲しいものはなんでも手に入る王宮での生活にどっぷりつけることで、王に逆らえなくするためのものだったのかもしれません。13節、十二ヶ月の化粧の期間を終えて、王のところに入っていく娘たち。しかし、王の指名を得られなければ、二度と王のところには行けないのでした。かと言って、家に帰れるわけでもなく、第二の後宮というところで側女として生涯を終えていくことになったのだと思われます。

そして15節、いよいよエステルの番になります。彼女は「ヘガイが勧めたもののほかは、何一つ求めなかった」とあります。過度に着飾ることもせず、自分のことをよく知ってくれている人にアドバイスされたものだけを持って王に会いに行きました。他の娘たちはこれでもかというばかりに着飾って、虚勢を張り、似合いもしないものでめかし込んでいったのでしょうが、エステルが身につけたのは、これが似合うと見立ててもらったものだけでした。彼女も十二ヶ月の化粧の期間を過ごしていたはずですが、自分の欲しいものはなんでも手に入れるというようにはこの期間を過ごしていなかったのでしょうね。与えられた時間をどのように過ごすか。ここが大きな分かれ道のようです。周りに流されず、自分自身をよく理解し、必要なものだけで身を飾ったエステルでした。そして、王に選ばれたのは彼女だったのです。

<神の「出来事」>
ところで、エステルは王妃になりたかったのでしょうか。ユダヤ人として、ペルシャの一市民として生きてきて、これからもここでつつましく生きていく。そういうつもりだったと思います。しかし、ある時、王宮に集められた。その時から、彼女の人生は思いもかけない方向へと進み始めました。

神さまが私たちをどのように導かれるのか、神さまは私たちの人生にどのようなストーリーを用意してくださっているのか。私たちにはわかりません。振り返ってみると、ヨセフもそうでした。まさか自分が兄たちから売られて、エジプトで奴隷になるとは。しかし、それがあったからこそ、彼は後に大臣となってエジプトのみならず周辺諸国を救うことになりました。彼のことがあったからこそ、イスラエル民族はエジプトで増えていったということもできます。また、ギデオンのことも思い出します。自分は部族の中で一番弱い存在だと思い、敵襲を恐れて隠れて農作業をするような人物でしたが、神さまは彼を士師、イスラエルのリーダーとして選びました。まさか自分がというケースの最たるものは、イエスさまの母マリヤでしょう。当時、まだ十代の少女だったようです。しかし、彼女は言いました。「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)

私たちの人生にも思いがけない出来事が起こります。その一つ一つに敏感でありたいものです。よく言っていることですが、ヘブル語で「言葉」のことを「ダーバール」といいます。これには「出来事」という意味もあるのです。神のダーバールと言えば、神のことばであり、神の出来事ということになります。神さまは書かれた言葉である聖書を通して語られます。そして同時に、神につくられたこの世界で起こるあらゆる出来事を通しても語っておられるのです。ヨセフのように、ギデオンのように、マリアのように、そしてエステルのように、私たちの人生は思いもかけない出来事によって大きく動く時があります。そんな時に、このことを通して神さまは何を語っておられるのかを丁寧に聴きとっていきたいものです。

なお、19節以降の出来事もまた、やがて起こることのための布石となっています。城の門番だったモルデカイが、クセルクセス王暗殺の計画を知り、急いで王妃エステルに知らせ、エステルはモルデカイからの知らせということを添えて王に告げ、暗殺計画は未然に防がれたということがあったのでした。このことがまた大きな意味を持つことになるのです。これもまた神さまのダーバール、神さまの出来事でした。

<出て行った先で出会った「ヘセド」>
さて、最後に9節にもう一度戻りたいと思います。エステルが王宮に集められた時に、「ヘガイの好意を得た」という部分。この「好意」という部分は「ヘセド」と言って、他の箇所では「神の恵み」と訳される言葉です。神さまの恵みは、エルサレムの神殿から遠く離れたスサの王宮でも与えられる。しかも、神を知らない人を通しても、届けられる。神さまの出来事を信じて、神さまの導きについて行った時に、そこで思いもかけない人から、思いもかけないあり方で、神さまの恵みは届けられるのだということです。ダニエルもそうでした。彼はエステルより少し前の時代、直接エルサレムからバビロンに連れて行かれた世代の人です。彼もバビロンの王宮で宦官から「ヘセド」、神の恵みを受けました。ダニエル書一章に書いてあります。

私たちも、地の塩として、世の光として、今置かれている場所で、「神さまの恵み」を受け取っていきましょう。それは特に聖書のことは知らない、クリスチャンではない人を通して与えられるかもしれません。神さまが愛しておられるその人を大切にしつつ、愛をもって仕えていきたいと思います。また、私たちを通しても、神さまのヘセドが表されていくことを信じ、感謝したいと思います。何度でも繰り返しますが、エステル記には「神」という言葉が出てきません。舞台はまったくの異教世界です。しかし、そこに確かに働いてくださる神さまの恵み、ヘセドがあります。私たちが置かれているここにも確かに神さまの恵みがある。そして、導きがある、神さまの出来事ダーバールがあることに励まされながら、今週も、一日一日を歩んでいきましょう。

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【10/10】

エステル1:11−22

「守り、用いてくださる神」

今日からしばらく、エステル記を開きます。エステル記には「神」ということばが出てきません。舞台もエルサレムからはるかに離れたペルシャです。臨在(神さまが共におられること)のしるしであったエルサレムの神殿からは遠く離れた場所であり、聖書の神を知る人がいない異教の地です。しかし、そこでも神さまがご自分の民を守られたその様子が描かれています。私たちも、神さまの臨在など忘れてしまうような慌ただしい日々を送っていますが、しかし、私たちの生活の場にも神さまがいてくださる。そして、私たちをご計画のために用いてくださるということを、この書を通して知ることができますようにと願います。

<時代背景>
1:1はクセルクセスの時代、と始まります。以前の翻訳ではヘブル語の音訳で「アハシュエロス」となっていましたが、一般的な世界史の表記と合わせて翻訳が改められました。古代オリエント世界を統一したアケメネス朝ペルシャの王です。

エルサレムの神殿が破壊されて人々がバビロンに連れて行かれた「バビロン捕囚」が紀元前586年。そのバビロンがペルシャに滅ぼされて、クロス王によって解放令が出されたのが紀元前538年でした。その後、帰還したユダヤ人たちによってエルサレムの神殿や城壁は再建されていきます。しかし、ユダヤ人は全員が帰ったわけではありませんでした。すでに捕囚から何十年も経っており、仕事も生活もこちらにあったのです。帰る人たちもいたけれど、帰らないで残った人たちもいた。このようにユダヤ人は世界中に離散していくことになるのですが、エステル記に出て来るのは、そういう人たちです。

先ほども言いましたが、旧約聖書において「神殿」とは神さまの臨在のしるし、神さまが共におられることの保証でした。しかし、彼らはエルサレムに戻ってその神殿を再建するという一大事業に参加しなかった。信仰の本流から遠く切り離されて、神さまのことをよく分かっていないという人も多くなってきていたでしょう。エステル記には「神」という言葉が出てこないと言いましたが、まさにそういう社会であり生活でした。私たちも同様ではないでしょうか。神さま不在の生活をしています。しかし、そこにも主はいてくださるのです。「神」という言葉が出てこない私たちの生活にも主はいてくださる。そして、ご自身の計画のために私たちを用いてくださいます。

<神の計画が表されていく場所>
さて、神さまのご計画は、それと分かるようなパッケージになっているのではなく、世の中の実際の出来事を通して行われていきます。だから、世の中に足をつけて、丁寧に生活していくことが大切なんです。自分の身の回りのことはもちろん、自分とは関係のないような出来事を通しても、神さまが私たちをご自身の計画のために招いてくださることがあります。

エステル記一章には、クセルクセス王の開いた宴会のこと、そして王妃ワシュティが追放されたことが記されています。それが神の国と何の関係があるのだろうと思ってしまうところですが、これが二章以降の布石になっていきます。大まかに見ていきますが、クセルクセス王の宴会は豪華で大規模なもので、180日に及んだとあります。これにはペルシャとメディアの有力者、貴族たち、首長たちが招かれていました。宴会は半年間も続いたんですね。クセルクセス王はギリシャまで遠征に行ったりしていますので、そういった軍事的な会議を開きながらの宴会だったのかもしれません。半年の宴会の後には、さらに七日間の宴会が開かれ、それには首都スサの町の役人や住民たちが招かれました。色とりどりの布、大理石の柱、金や銀でできた長椅子、真珠貝や大理石で作られたモザイク模様のみごとな床、金の杯でふるまわれる王室のぶどう酒。王の力、権力と財力がまざまざと見せつけられたのでした。

そのような宴会の七日目に、事件は起こりました。酒に酔ったクセルクセス王が、美しい王妃ワシュティを客人たちに見せつけようとして呼び出したのです。しかし王妃はその命令に従うことを拒否しました。面目を潰された王は怒り、そして家臣たちの進言もあってワシュティは王妃としての立場を剥奪されて、城から追い出されたわけですね。

 

少し横にそれますが、22節が面白いというか、すべての州に書簡が送られたとありますが、1:1にあったように「インドからクシュまで」、つまりインドからアフリカのエチオピアというアケメネス朝ペルシャの広さを思わせます。その広い領土を治めるために、やはり書簡を届ける制度が発達していたのでしょうね。「王の道」と呼ばれる幹線道路が作られ、「王の目」「王の耳」と呼ばれる役人たちが国中を監視していたのだとか。ローマ帝国なんかも、道で帝国を網羅したことが知られています。道を通って、書簡を通して、皇帝の命令が届けられていったのです。そこには「男子はみな一家の主人となること」、つまり夫の言うことを聞くようにという、今の私たちからしたら「わざわざこういう命令を出すのは男尊女卑ではないか」というようなことも書いてあって、これについては後で触れますが、次、「自分の民族の言語で話すことを命じた」と。これはクロス王以来のペルシャ帝国の特徴なんですよね。属州の国々の文化や宗教、言語がそれぞれ大切にされるというのがクロス王の方針でした。この時もまだそれが生きているわけです。このような記述があると、聖書の内容と世界史の記述がうまく重なってきて理解が深まっていくところだと思います。何が言いたいかというと、神さまのご計画は聖書という書物の中だけではなくて、実際の歴史、実際の出来事の中に表されていくんだということを、このような箇所からも感じ取ることができるということですね。

<エステル記一章が意図すること>
さて、内容の方に戻りますが、やはり気になるのは、なぜワシュティは王の命令を拒んだのかということです。当然、考えられるのは、いかに王の命令とは言え、自分がまるで物であるかのように扱われ、お酒の席で見せ物にされるなど、ワシュティには我慢ができなかったのかもしれないということですよね。女性は物ではありません。人は物ではありません。いかに王の命令と言えど、酔っ払った男たちの前で見世物にされるなど我慢ができなかったのではないか。ワシュティは自分自身でも婦人たちのために宴会を催していたような、アクティブな女性だったようですから、なおのこと、この王の呼び出しには腹が立ったのかもしれません。

しかし、このエステル記の著者はワシュティが王の命令を拒んだことの理由を書いていないんですね。当然、今触れたような、自分が物のように扱われることへの嫌悪感というのはあったでしょう。それは当然です。しかし、これは王の命令だったわけです。今でこそ「女性は物ではない」ということも言えますが、ただでさえ男尊女卑の古代社会において、しかもそれが王の命令だったのなら、断るということはありえない話で、本来ならワシュティは問答無用で王の前に出なければならなかった場面なんですよね。

 

エステル記一章というのは、ワシュティは可哀想だという話ではなくて、もちろん王の命令は理不尽でしたし、ワシュティは可哀想です。ここから女性の尊厳というテーマを読み取ることもできるでしょう。しかし、この一章というのは、そこがポイントではないというか、「王に呼ばれたなら、何が何でも出なければならなかった」というペルシャの状況を示している。まずそこのような気がします。その方がエステル記のテーマに沿っています。もちろん、ワシュティには同情しますし、この王はけしからんと思うわけですけれども、ただそういう話ではなくて、この話がここに置かれている意図というのは、むしろこの一章があったからこそ、五章で今度はエステルが「呼ばれていないのに王の前に出た」ということが、これがどれだけ危険なことだったか。リスクのあることだったかが際立って来るわけです。それはつまり、どれほど危険な状況だったとしても、ご自身の計画のために神さまはしっかりとそのしもべを守ってくださるという話なんですね。これこそがエステル記のテーマです。どれほど、リスクが高く、危険な状況だったとしても、神さまがご自身のしもべを、つまり私たちをご計画のために用いられる時、神さまは必ず私たちを守ってくださるというその力強さを、このエステル記を通して私たちも追体験することができます。

来週以降、また二章から読み進めていきますけれども、神さまがどのようにエステルを守られたか、ご自分のしもべを守り、そして用いられたか。私たちのことも、この21世紀の日本という具体的な場面、状況にあって、神さまがどのように守り、用いてくださるのか、そのことを重ねつつ読み進めていきたと思います。楽しみですよね。今自分が置かれている状況、環境、生活、そこに神さまがおられる。「神」ということばは出てきませんけれども、そこには確かに主がおられて、私たちのことを用いてくださるとは。期待を込めて、これを読んでいきたいと思います。

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